2009年3月ダイヤ改正特別企画



さようなら「青い流れ星」
〜夢と憧れをありがとう〜

 夕暮れの東京駅、いつも長いホームに身を横たえていた青い列車。その行き先は「博多」「宮崎」「長崎」「佐世保」「熊本」「西鹿児島」…東京から西へ向かうその寝台列車を、乗ることも出来ずに眺めている鉄道少年、それが今から25年も前の私の姿だ。
 中学生の頃、日曜日となれば適当に首都圏の鉄道を乗り回して午後3時頃に東京駅にフラフラとたどり着く。そして最初は新幹線ホームで西へ向かう新幹線0系をひたすら眺め、夕方4時が近付くと在来線ホームに移動するというのが私の行動パターンだった。在来線ホームに上がると耳を聾する発電機のエンジン音がホームを支配している、ホームに身を横たえている青い列車は「さくら」号長崎・佐世保ゆき。
 それから始まる東京駅在来線ホームのゴールデンタイム、数十分の間隔を置きながら「はやぶさ」西鹿児島ゆき、「みずほ」熊本・佐世保ゆき、「富士」宮崎ゆき、「あさかぜ」博多ゆき…と次々に西を目指す青い列車が、青い機関車に取り付けられたヘッドマークも誇らしげに出発してゆくのである。綺麗に整備された寝台のカーテンやベッド、それにシートカバー、白い服を着た車掌の凛々しい姿、出発時にホームに向かって礼をする食堂車のウェイター…この列車の出発はどれを見ても新幹線とともに日本の鉄道を代表しているという気品と誇りに満ちあふれており、私のような鉄道少年を虜にするだけの風格があった。
 その列車のことは青い客車から「ブルートレイン」と呼ばれていて、特に東京駅から西を目指すものは「九州ブルトレ」と呼ばれて別格扱いだった。機関車牽引の寝台特急列車でヘッドマークの掲示を認められたのはこの「九州ブルトレ」とその仲間たちだけであったし、機関車も旅客型としては最新の機関車がいつも投入されていた(この頃はEF66というのは「あくまでも貨物用」との認識しかなかったはずだ)。列車番号も「1」から数えられ、国鉄在来線特急最上級の列車の名をほしいままにしていた。

 1993年、そんな栄光ある列車たちにも黒い影が忍びよる。「みずほ」と「あさかぜ」の1往復が突如廃止になったのだ。しかし今思えばこの廃止はこれから始まる寝台特急大削減劇の序曲に過ぎなかった。数年ずつの間を置いて、次から次へと廃止される寝台特急たち。東京駅から西を目指すかつての栄光の列車たちも例外ではなく、廃止や併結運転化を繰り返し、気付けば東京駅から西へ向かう寝台特急はたったの2往復まで数を減らしていた。しかもうち1往復は電車化されて最新の寝台設備を備えた「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」の併結列車であり、かつての栄光を現在に伝える青い客車で行き先に九州の地名を掲げた列車はわずか1往復という寂しさとなっていた。
 その最後まで残った「富士」「はやぶさ」併結列車も、ダイヤ改正のたびに廃止の噂が流れていた。そしてついに昨年になってその「噂」が現実のものとなった情報が入ってきた。2009年春のダイヤ改正で「富士」「はやぶさ」の廃止…それはかつて栄光を誇った東京発「九州ブルトレ」の全滅を意味していた。
 まさかこんな日が来るとは思わなかった…正直な感想である。鉄道少年だったあの頃、私が思い描いていた「九州ブルトレ」の未来はこんな暗いものではなかった。何年か経てば最新型の寝台車が投入され、スピードが上がったりしてさらに便利に使いやすく快適な列車になってゆくのだと思っていた。そんなバラ色の未来を想像して、私の小学生時代の卒業アルバムには「将来の夢」の欄に「ブルートレインの車掌になる」と書かれていた。「九州ブルトレ」には当時の私の夢と憧れがたくさん詰まっていたのだ。

 本当は「九州ブルトレ」の凋落を見ていられなかったので、今回の「富士」「はやぶさ」の廃止も特に追いかけるつもりはなかった。0系のように「後続にバトンを渡す」から引退するのでなく、時代に取り残されて生きていけなくなったから「消滅」させられるという現実を、どうしても受け入れることが出来なかった。
 だけど、かつての鉄道少年だった自分が「九州ブルトレ」を通じて見た夢と憧れ、この存在と大きさを思い出したときやはりその最期を目に焼き付けようと思った。あの日と同じように乗ることは叶わなくてもいい、とにかく最期を見届けようと。「さくら」等の既に消えてしまった列車の廃止の時は腰を上げなかった私だったが、「九州ブルトレ全滅」という事態についに動いた。3月7日、納車されたばかりの新車を飛ばして、富士山の麓をすり抜けて気付けば富士川橋りょうにいた。


2009年3月7日 廃止を一週間前に控えた「富士」「はやぶさ」
東海道本線富士〜富士川間にて。
EF66は力強く美しいが、やはり我々が少年時代の思い出であるEF65-1000をも一度見たかった。
「出雲」「銀河」の時に動かなかったのがいけなかったのだが。

同上列車を振り返って客車側を撮影
外から見てもたくさんのお客が乗っているのがわかった。
「富士」のテールマークはいつ見ても美しい。
この曲線で青い車体をうねらせる姿はまさに「青い流れ星」だ。

 廃止を前に東海道本線のどの撮影ポイントも人でいっぱいだと聞いていたので、この富士川橋りょうの人の少なさはちょっと気が抜けた。私も含めて4組6名しかいなかったのだから。しかも私と同じ構図を狙った人はもう一人だけ…でも「富士」「はやぶさ」通過後も、上り列車しか撮れない私の構図以外の人は誰も撤収しないので「?」と思いながら見ていたら、直後にやはり今回のダイヤ改正で姿を消す「ムーンライトながら」間合い運用の普通列車がやってきた。ちゃんと他の列車の時刻も見ておきゃよかった。
 また「富士」「はやぶさ」の直前に特急「あさぎり」用の371系車両を使った「ホームライナー」が通過した。これはいい練習だと思っていたらこちらも綺麗に決まったので満足。久々に列車の撮影なんてやったので不安だったが、まずはきれいに「九州ブルトレ」の最期を残せたと思う。

 富士川橋りょうから一度家へ帰り、今度は夕方の東京駅へ行ってみた。
 東京駅には17時過ぎに到着、早速「富士」「はやぶさ」のホームへ向かうとそこには多くの人々が集まっていて異様なムードが漂っていた。それでも客車から聞こえる発電エンジン音や機関車の送風機音は、夕暮れの東京駅の風情と重なって少年時代のあの頃を思い出させてくれるものがあった。私は人混みの中、客車を後ろから前へと歩いてこの最後に味わうことになるであろう「九州ブルトレ」発車前のひとときを味わうことにした。


2009年3月7日 東京駅で発車を待つ「富士」「はやぶさ」
今日の最後尾はスハネフ14形、かつて「さくら」や「みずほ」の最後尾を飾った美しい折り妻の「顔」。
確かに当時の「華」は最新型寝台客車の25形だった。最新二段B寝台、個室A寝台、銀色に輝くステンレス帯…だが当時の私はこの14形の美しい折り妻と白い帯、大きな寝台窓が当時は大好きだった。

「富士」のテールマーク
子供でも書ける簡単な図柄、でも小学生低学年の頃の私はこの漢字が書けず、寝台特急を絵に描くと「ふじ」と平仮名になっていた思い出が…。
私が一番憧れた列車が「富士」だった、小学生低学年の頃に24時間以上かけて終着駅まで走る最長距離列車だったと知ってからずっと憧れた。
その「富士」に対する憧れは、最長距離の座を「はやぶさ」に奪われても変わらなかった。

乗降扉の上に表示される「B寝台」の文字、それと客車二段式B寝台を「★★★」の表示。
この表示を見てるだけの少年時代の私を思い出した。

ホームの表示板に「富士」「はやぶさ」がオーダーされる。
「熊本」「大分」という行き先を見ているだけで旅情を感じた。
少年時代のあの頃は、この時間帯に表示板に現れる行き先はまるで異国のように遠い地でしかなかった。
「いつかブルトレか新幹線でそこへ行くんだ」
少年時代の私はそう思いながら、青い客車を眺めていた。

窓から車内をのぞき込む。私が「寝台特急の車内」がどうなっているかを知るすべはこれだけだった。
薄暗い車内、煌々と光る寝台灯…私にとってはどんな立派な建物よりも憧れていた空間であった。

現在となってはすっかり古めかしくなった幕式の行き先表示。
現在でももっとも旅情を感じる行き先表示はこれの機械だ。
特に「特急 LIMITED EXPRESS」の赤い文字だけで、特別な列車の表示であることを思わされる。それに並んで書かれた異国のように遠い地名、この行き先表示こそが私にとってその土地の全てであった。。

 あまりの人の多さに遂に機関車には近づけなかった。私は見えなかったが人垣の向こうには立ち入り禁止のロープがあって、どちらにしろ機関車を間近で見ることは不可能だったようだ。私はホームの反対側から、私にとって最後の「九州ブルトレ」の発車を見送った。
 「九州ブルトレ」の発車を何度見送ったことだろう? 少年時代、休日の私の一日の最後はこの「九州ブルトレ」を見送って終わっていた。「さくら」に始まり「富士」までの約2時間、飽きることもなくホームで青い客車を眺め、走り去るのを眺めていたのだ。
 発車のベルが鳴る、乗るわけではないのに胸が高ぶる。小さな空気音とともに扉が閉まり、続いて機関車の汽笛一声。そして連結器の衝撃音とともに青い客車は静かに動き出すのだ。その加速はあくまでもゆっくりで、まるでこの駅から離れるのを惜しんでいるようにも感じる。青い客車が1両、また1両と私の前を過ぎる、食堂車の中ではウェイトレスが見送りの客にお辞儀をしている、中間の車掌室の窓からは白い制服を着た車掌が顔を出して安全確認をしている。そして十何両もの客車が行き過ぎると、やっと華やかなテールマークとテールランプの赤い光が目の前を過ぎ去る。こんな風景はこの場で何度も見てきたはずなのに、何度見ても飽きないし好きな光景だ。
 だが、それも私にとっては今日を最後に見ることが出来ない。

 少年時代、ずっと憧れ続けた東京駅から西へ向かう寝台特急。最初に乗る機会が来たのは1990年3月、社会人になってちょうど1年のその時、急にしばらく仕事が谷間になる事となって休暇を取ることが出来た。そこで私は思い立って廃止寸前の大社線に行くことにした。その往路に利用したのは今はなき「出雲」1号、残念ながら「九州ブルトレ」ではなかったが東京駅から西を目指す栄光の列車にやっと乗れたのだ。私が乗ったのは普通のB寝台だったが、相席になった人々と話をしたりお菓子をもらったりで盛り上がり、夕食時には食堂車へ行ってハンバーグステーキを食べ、深夜の「おやすみ放送」とともに歯を磨いて寝るという、少年時代に読んだ「ブルートレイン入門」に描かれていた通りの生活をすることになって感動した。そして朝目が覚めると列車はちょうど餘部鉄橋を渡っていたのも今となっては本当にいい思い出だ。
 二度目はそのちょうど1年後の広島旅行、「あさかぜ」3号A寝台個室の客となった。でも個室に一人でいるのが寂しいばかりで、あまり旅を楽しめなかった記憶がある。これ以来、私は寝台特急に乗るときはなるべく開放寝台を利用することになった。
 続いて1993年の長崎からの帰りに乗った「さくら」、ちょうど食堂車の営業が休止になった直後の頃だ。それがまさか「九州ブルトレ」全滅への道のりの始まりだなんて、当時は考えてもいなかった。このときも開放B寝台、夏休みだというのにガラガラだったのもよく覚えている。
 次が1995年秋、仕事で宮崎県へ行った際にやっと憧れの「富士」に乗ることが出来た。本来は翌日に飛行機で行くはずだったが、行程上「富士」も使えるのにこれを逃す手はないと考えたのだ。食堂車がなかったのは残念だったが、少年時代からずっと憧れていた列車に乗る機会を得たことで私は完全に舞い上がっていた。今だから言えるが、夜寝るときのベッドの中で泣いた。関門トンネルを抜けて午前中丸々かけて宮崎県まで走った記憶は、今も忘れない。
 そしてその次が結果的に「九州ブルトレ」を利用した最後になってしまう。1998年夏、仕事で小倉へ行った帰りに「さくら」を利用したのだ。正確に言うとこれは予定外の突発利用で、小倉での仕事が長引いてその日のうちに新幹線で帰宅できなくなり、しかも飛行機が満席(夏休みだった)でキャンセル待ちになるので確実なもので帰ろうと駅で聞いてみたら「さくら」のA寝台なら上下ひとつずつキャンセルが出たというので乗ったのだ(本当は開放Bに乗りたかったがこちらは珍しく満席だった)。夜の九州から深夜の山陽本線を駆け抜け、目を覚ますと浜名湖の辺りを走っていて午前中かけて東京駅までまったりと東海道を走る優雅な旅は、その後味わうことはなかった。
 東京駅に青い客車の「ブルートレイン」で到着した最後はまた別にある。2003年夏、米子での仕事の帰りに「出雲」4号を利用している。これが今のところ「ブルートレイン」を利用したもっとも最近のものだ。
 それとは別に、寝台急行「銀河」に3回、「サンライズ出雲」に1回、「サンライズ瀬戸」に4回乗っているが、これは「ブルートレイン」とはちょっと違う。

 そんな思い出を振り返っていると、汽笛が鳴って「富士」「はやぶさ」は動き出した、かつてのようにゆっくり出て行くのでなく、他のホームから出て行く通勤列車と同じように急かされて出て行くように見えた。あの客車に衝動を与えないようゆっくりと引き出される寝台特急はもう見ることが出来なくなっていたなんて…それでも今日というこの日にまだ生きながらえていたことに感謝しなければならなかった。
 窓からの蛍光灯の灯りを彗星のように引きながら有楽町の街灯りの中へ溶けてゆく青い列車の後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見送った。

 日が変わって3月8日、今度こそ本当に最後の別れである。私が見送ることが出来る最後の「九州ブルトレ」を追いかけて、「東戸塚のお立ち台」へと足を運んだ。
 カーブを見渡せる地点には列車通過予定時刻の1時間以上も前からたくさんの鉄道好きがカメラを構えて、「富士」「はやぶさ」はまだかと待っていた。場所を確保してカメラの用意をすると、隣にいた人が「今日は遅延している」旨を教えてくれた。別の隣にいた人と話をしながら、列車の通過を待った。


2009年3月8日 トラブルで約1時間遅れ「富士」「はやぶさ」
東海道本線東戸塚駅付近にて。
この場所が私と「九州ブルトレ」の最後の出会いの場。
そしてその最後の時となったのだ。

例によって同上列車を振り返って客車側を撮影
これが私と「九州ブルトレ」の最後の別れとなった。

 0系と同じように、「九州ブルトレ」が私に教えてくれたのは「夢と憧れ」だった。
 遠くへ行きたい思い、叶わぬ思い。
 いつかこいつに乗って遠くへ行きたい、行ってやるんだという思い。
 大人になってそれが叶ったときの喜び。

 少年時代に私に夢と憧れをくれた列車がまたひとつ、過去帳入りしようとしている。
 その「九州ブルトレ」に贈る言葉は、0系と同じ「夢と憧れをありがとう」というものだ。
 奇しくも0系と「九州ブルトレ」は時をほぼ同じくして消えていった。私にとって、本当に「ひとつの時代」が終わったと痛烈に感じる時をいま過ごしているのだ。
 そんな「時代の流れ」というものも、0系や「九州ブルトレ」は私に教えてくれた。自分が少年時代に大きく見えたものが、だんだんそうでなくなってゆく寂しさ。そして時代の波に逆らえずに消えてゆくその姿。
 0系と「九州ブルトレ」ではその「消え方」はまるで違う、後続にバトンを渡して引退の花道を堂々と去っていった0系。対照的に存在そのものが時代に否定され、追われるようにその場から消え去る「九州ブルトレ」。これらの引退は私に「老い」と「引き際」を見せつけたようにも感じる。

 もう鉄路には0系の存在も、「九州ブルトレ」の存在もない。
 私に夢を見せ、憧れを与え、鉄道趣味人としての私に多大な影響を与えたそれらの列車は、もうこの世には存在しない。
 だからといって私も鉄道という世界から消えるのでなく、これからも変わってゆく鉄道というものをキチンと見守り続けたいと思う。これが消えていった彼らのためでもあるのだ。

 この世に「九州ブルトレ」という素晴らしい列車があったことを決して忘れない。
 「九州ブルトレ」に栄光あれ、そして、


 夢と憧れをありがとう。


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