さだまさし・「夏長崎から」終了に関する個人的声明
「夏・長崎から」「ピーススフィア」に参加・賛同した全ての人へ

 本日、2006年8月6日をもって歌手さだまさしが主催する平和祈念コンサート「夏長崎から」が20年の開催に幕を閉じました。
 広島原爆忌に長崎でコンサートを開けば伝わる人には伝わる、世界平和や反戦などの具体的メッセージや記念碑的なモニュメント抜きで自分が何を大切にすることが平和に繋がるかを考える、というようなテーマでもって1987年に始まったこのコンサート、私も1992年・1993年・1994年・1995年・1996年・1998年・1999年・2000年と8回ほど参加し、その都度長崎の地で自分の平和への思いを新たにしたものです。
 まずはこのコンサートを20年間維持し、我々に色々な考えを与えたくれた歌手のさだまさしに深い敬意と感謝を示すとともに、このコンサートにゲスト参加した歌い手の方々にも一観客として御礼を申し上げます。

 さて、ここからは私としての「長崎から」と語りたいと思います。
 まだ私が「さだまさし信者」の域にあった1992年の初参加でさだまさしがステージで語った、「自分が大事にすべきものを考え、それを守って行くことが平和に繋がる」という趣旨の言葉に感銘を受け、翌1993年より私が代表を務める「グッたいみすとさだまさし研究会」を通じて「鉄道と平和を考える」という企画を行ってきました。この企画は私が様々な理由で長崎へ行かなくなった(詳細後述)2001年以降も私の意志を継ぐ仲間達によって続けられていることは非常に嬉しいものであります。この企画に賛同して発案者の私の姿がなくても続けてくれている仲間達には深い謝意を示すものであります。
 この企画はさだまさしが語る「長崎から」の趣旨に賛同し、私が「では自分たちが守って行く守備範囲は何処だろう?」という疑問点を形にしたものであります。家族や友人の事を考えることは人それぞれ個人の領分なので同じコンサートへ行く仲間とは共通点になり得ない部分も大きい、しかし私と一緒に長崎へ目指す者達にとっては「鉄道好き」という共通点がある、この共通点でもって平和を語る糸口をつくって自分たちで動いていこうという趣旨で立ち上げた企画であります。
 この企画の意図が真の意味で仲間達に伝わってかたちになりはじめたのは1995年、阪神大震災で鉄道がズタズタにされて、地下鉄サリン事件で鉄道そのものが大量殺戮の舞台となった時に本当の意味で「平和への危機感」というものを感じた皆が、鉄道の平和を取り戻そうと考えたところから始まりました。その答えの一つが列車の中でゴミを見付けたら拾って捨てるくらいしようという単純なもので、これを行動に移すところからこの企画は単なる偽善集団の集まりでなく、自分に出来ることを自分で考えてそれを実行する企画へと見事に成長をしました。
 その後もこの企画では平和についての語り合いが活発に続いています。「夏長崎から」がなくなった後については現在も出席を続けている皆さんの意志にお任せして、行くに行けない発案者は黙ってみていることにします。

 「夏長崎から」そのものに関しては、その変化と主催者さだまさしの矛盾、そして自分の考えとのギャップに挟まれながら見ていくことになっていました。
 今思えばその転換点は1995年の開催時だと思います。ここでさだまさしが「ピーススフィア運動」を発表したことから私の苦悩が始まったと思います。その頃既に私は「さだまさし信者」の域を抜け出ていたし、自他共に私にとって一番好きな歌手はさだまさしでないと認める時期になってきています。
 「ピーススフィア運動」で違和感を感じたのは、世界平和や反戦というメッセージを出さずモニュメントも残さない方向性の「長崎から」とは大きく違い、「世界平和」「反戦」というテーマのモニュメントを長崎市内に作るという「ハコモノ」によってさだまさしの功績を残すというものでした。これだけなら「ピーススフィア」に自分は賛同しない、という言い分を通すだけで済んだでしょう。
 ところが、この方向性が全く違う企画をさだまさしが無理矢理一緒にしてしまったところから私のこのコンサートに対する苦悩は始まりました。「長崎から」に「ピーススフィアコンサート」という冠が着き、会場には募金箱が並び、「長崎から」が入場無料であることも手伝って「募金しなきゃならない」という雰囲気を会場に蔓延させる…さらにさだまさし信者がボランティアとなって募金箱を持ってうろつき、あること無いこと並べ立てて募金を乞うというという光景に背筋に寒気が走りました。
 つまり会場全体に「ピーススフィア運動」に反対してはならないという狂気の空気が流れてる…「ピーススフィア運動」に賛同する者はその狂気に気付くわけもなく、賛同しない者は狂気に気付かない振りをしています。平和どころが全体主義的なこの怖い空気で平和コンサートなんかできよう?と正常な者であればすぐ気付く会場の空気そのままに平和コンサートを続行するさだまさしが滑稽に見えました。
 そのさだまさしもステージ上で気付いているのかそうでないかは分からないが矛盾したことを語るようになってきました。「長崎から」と「ピーススフィア運動」を同列にすればするほど矛盾が増えるのに、会場内では誰もそれを指摘しようともしません。それでもさだまさしは私が賛同する「長崎から」の趣旨をステージ上で語ります、それに一縷の望みをかけるかたちで1996年以降の「長崎から」を見ていたというのが私の正直なところです。
 2000年だったかに、さだまさしが毎日新聞の連載コラムで「ピーススフィア運動」に賛同しない者は平和について興味も関心もないに違いないというような爆弾発言をしました。それでも彼が語る「長崎から」の部分に望みを繋いで見に行ったものです。この発言についてはその後、某巨大掲示板(さだまさし関連スレではない)でも取り上げられて「怖い歌手もいるもんだ」「そりゃ宗教だな」「偽善者」という結論で終わったという事実もあります。
 さらにある年ではさだまさしが「全員募金だ」とか言って募金箱を持ってステージから降りてきたという話もあります。「募金を強制」なんていうのはもう募金ではないし、ボランティア活動の域も越えている。さらに「長崎から」には私のように「ピーススフィア運動」に賛同しない観客もいるはずだ、そんな観客を無視してこんな茶番を演じたのには心底腹が立った。
 「長崎から」「ピーススフィア運動」を取り巻く空気は完全に異常なものとなっていました。
 私もその「異常」に危惧を感じ、一時期はインターネット上で活発に「ピーススフィア運動」に反論する書き込みをしてきた時期があります。一時期、さだまさし信者の方々から私や「グッたいむさだまさし研究会」、それに友好団体まで「反ピーススフィア」の先鋒みたいな言われ方をしていたようです。私の主張に耳を貸さずにレッテル貼りすることによって、彼らは自らの行動(しかも金まで出している)の矛盾に気付かないようにしていたのでしょう。結局その時は彼らから「ピーススフィア運動」に賛同して荷担する理由を「さだまさしがやっているから」以外に聞くことが出来ませんでした。つまり「ピーススフィア運動」そのものが巨大な「さだまさし信者の坩堝」と化し、趣旨も置き去りにしたまま突進していたのです。
 結局それを見せつけられた私は、さだまさしの世界から遠ざかることにしました。近年「長崎から」不参加(というかモチベーションが上がらない)のはこれは無関係ではないのです。

 このように「夏長崎から」自体の醜態を見せられている中で、私にとって決定的な出来事が起こりました。
 1999年6月の村下孝蔵の急死です。「私にとって一番好きな歌手」の逝去は私から全てのコンサートに行く気力を奪いました。1999年も2000年もモチベーションが上がらないまま長崎に向かったのは今だから言える話です(現に最後まで見てない)。さだまさしを始め他の歌手は元気に歌っているのに、私が一番好きな歌手はもう二度と歌っている姿を見ることが出来ないという現実を見せつけられに行くしかないのです。今でも友人や知人がコンサートに行くのに、日程やチケット入手で一喜一憂しているのを見るのは辛いです。間違って誰かのコンサート会場の前なんか通ると泣きたくなります。自分の頭の中では、日本ポップス界は1999年夏で止まったままになっています。
 また私が村下孝蔵という歌手が好きになるきっかけも「夏長崎から」によるものです。村下孝蔵は「夏長崎から」第一回目のゲストとして来ましたが、これが当時NHK−FMで放送され、この時に聞いた村下孝蔵の曲が気に入ったのが始まりでした。こんな思い出のある「長崎から」が前述の通り醜態を見せているのにも耐えられなくなってきていました。
 さらに2001年以降は会社の夏休みがお盆の一週間で定まり、その一週間前というのは容易に休みが取れる状況ではなくなったのも手伝って、「そこまでして長崎に行く」価値を感じなくなっていました。これが決定的となって2001年以降は「夏長崎から」の参加記録が途絶えることになりました。

 終わると決定した時から「夏長崎から」とはなんだったのか?と考え続けています。
 表向きは平和祈念コンサートでしょう、そして私のようにその内容に感銘して一生懸命考えてきた者は他にもいると思います。
 軌道に乗ったところで「ピーススフィア運動」という別の企画に喰われてしまいその結果の矛盾と醜態、それはさだまさし外の世界から見れば誰が見ても明らかな者だと思います。
 この矛盾をひけらかしてまでさだまさしがやりたかったこと、これは未だに見えてきません。
 ただ「夏長崎から」には「何も残さないけどわかる人にはわかる」という立派な趣旨と理想があったし、「ピーススフィア運動」には「とりあえずハコモノとメッセージを作ってしまえ」という「夏長崎から」と反対方向の趣旨があったのは確かです。
 その中で私は取捨選択して「夏長崎から」には賛同したし、それによって自分のサークルで企画を起こし、ささやかではありますが残せる物が出来ました。「夏長崎から」というものは平和を自分で考えるのであり、その功績や思いは自分の力で、自分で残す物ではないかと思います。残すためには多くの仲間の手が必要で、その仲間には感謝しています。これを作ったのは「グッたいむさだまさし研究会とその仲間達」だし、残していくのもそうです。
 「ピーススフィア」に賛同していたとしても、「さだまさしが作りたい」という「ハコモノ」は残るでしょうが、残る物はさだまさしが作るのであって自分が作る物でなく、それに載せるメッセージもさだまさしのものであって自分の物ではありません。つまり自分では何も残せず(さだまさしのために頑張ったという自己満足程度は残せるでしょうがそれはさだまさし信者以外には誇れません)、金が出て行くだけです。
 「夏長崎から」「ピーススフィア運動」に参加・協力した全ての人に、このどっちが良かったのか?と私は聞いてみたい思いに駆られます。

 「夏長崎から」が終わったところで、これに参加した全ての人に訴えたいことです。
 全て終わったところで、「夏長崎から」によって自分の中に何が残ったか、何を作り、何を残せたか?
 「ピーススフィア運動」によって自分の中に何が残って、何を作り、何を残せたか?
 「さだまさし」抜きで考えてみてください。

 最後に一言。
 「平和祈念コンサート」は主催者側の趣旨や意図が分からない人にはとっては、単なるコンサートにしかなりません。

2006年8月6日夜 PN「この車両は拝島ゆき」

追伸
本日夜のニュースによると、「夏長崎から」は私が賛同してきた当初の趣旨に戻っていたようですね。
さだまさしがステージ上で「自分の大切な人を思い浮かべ、その笑顔を守るために何ができるか考え、行動して」と主張したと聞いて、少し安心しました。
平和は金を出して買う物じゃない、求めるなら自分で行動をしなければならない。最後の最後にこの「長崎から」の原点に立ち返ったことに安心しました。

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