「こんにちはアン〜Before Green Gables」完結版ついて
編集内容
・総集編形態…特定エピソード集中形(前半はアンとトマス家の物語・後半は孤児院での物語)
・再現範囲…1話~39話(全編)・前半1~24話(24話)・後半26話~39話(14話)
・オープニング「ヒカリの種」(本編と同じ) エンディング「やったね♪マーチ」(本編と同じ)
・ナレーション 池田 昌子(新規収録多し)
「完結編」製作に当たっての設定変更点
・ボーリンブローク編ではミントンが不在のため、猫は元々家にいたかのような編集になっている。
・同じくアンが所有しているブラウニーの詩集も、元々所持していたかのような編集になっている。
・メアリズビル編では学校関連のエピソード全カットによる関連キャラクターの不在(エッグマンは独身のまま画面から消える)。
・従ってアンが学校へ一切行っていない編集にされている。
・バートがメアリズビルで窃盗団の片棒を担いだことによって仕事を辞めさせられた設定はない。
・したがってメアリズビル編ではバートが最後まで働いていたかのような編集になっている。
・ハモンド家編がダイジェスト化されたため、ハガティやマクトゥガルが不在となる。
・マクトゥガルだけでなく、スコットも不在なので、アンに「プリンスエドワード島へ行きたい」という願望はない。
・孤児院編「反省の部屋」の会談話の設定をカット、従って院長の本名がエイミー・トンプソンである設定が消える。
・テッサの成長は脱走騒動だけが理由という編集になっている(デラはワンシーンのみの登場で「その他大勢」扱い)。
内容の詳細
1話 |
前半開始 冒頭の木登りシーン 水汲みから帰宅したシーン 寝室でアンとエリーザが語り合うシーンを採用 |
2話 |
(カット) |
3話 |
4話 |
5話 |
エリーザがロジャーの家のパーティに呼ばれたシーン エリーザがバートに相談へ行くシーンを採用 |
6話 |
エリーザがトマス家を出て行くシーン ノア誕生シーンを採用 |
7話 |
(カット) |
8話 |
飲酒したバートが帰宅して暴れるシーンを採用 |
9話 |
メアリズビルへの旅立ちシーンを採用 |
10話 |
ほぼ全面採用 |
11話 |
(カット) |
12話 |
13話 |
14話 |
15話 |
16話 |
17話 |
18話 |
19話 |
20話 |
21話 |
22話 |
雑貨屋のシーン ノア遭難シーンを採用 |
23話 |
ほぼ全面採用 |
24話 |
トマス家のクリスマスパーティのシーン以降は全面採用 前半終了 |
25話 |
(カット) |
26話 |
後半開始 この間のバートの葬儀シーンから孤児院到着までをダイジェスト再現 |
27話 |
28話 |
29話 |
30話 |
31話 |
32話 |
孤児院に到着し持ち物を没収されるシーン以降をほぼ全面採用 |
33話 |
ケールがテッサの服の裾に焦げを発見するシーン以降を採用 |
34話 |
ほぼ全面採用 |
35話 |
(カット) |
36話 |
院長がアンかエドナのどちらかをプリンスエドワード島行きにすると語るシーンを採用 エドナがアンに自分が母に捨てられたと打ち明け罠にはめるシーン以降はほぼ全面採用 |
37話 |
ほぼ全面採用 |
38話 |
院長がアンにプリンスエドワード島行きを告げるシーンを採用 |
39話 |
ほぼ全面採用 |
※この表は全話視聴時の記憶だけで書いています、正しくないところもあるかも知れませんのでご了承願います。
考察・感想
名作「赤毛のアン」の前史的物語として二次創作として描かれた「こんにちはアン」であるが、この作品も「ポルフィの長い旅」と同じく45分2本の総集編にまとめるのは難しかったと思う。物語が3編に分かれていて、しかも1編目が最も長いという特徴的な展開をどうまとめるのか、ここに注目して見ていたと言って良いだろう。
その結果は上の表を見ればわかるが、メアリズビル編での屋台骨である学校での物語を全部カットした上で、前半はトマス家での物語、後半は孤児院での物語という展開に持って行った。ではその内容を詳しく見てみよう。
・前半…トマス家での物語を徹底的に総集
ここでも本編第1話の最初のシーンから始まる。6歳のアンがジョアンナにこき使われつつも、木登りして遊んでいるあのシーンが始まるのだ。木登りシーンでアンを深く印象付け、続いて落ち着かないトマス家の様子をたっぷり映してこの過程の惨状を視聴者に見せつける。その後で満を持して出てくるエリーザが天使に見えるのは、本編の雰囲気を上手く再現した始まり方だと思う。
こうして冒頭の印象付けシーンが終わると、もうエリーザがロジャーに嫁ぐ話へと進む。唐突に感じるがこの間に挟まる話は、ほとんどが総集編で取り上げるべきものではないのは全話通して見た人なら理解できるだろう。おかげでミントンはいなくなったし、猫は最初からトマス家に住み着いているようなでかい顔をしているけど、話がわかりやすくなったとは思う。だがもし私が編集すれば、エリーザには悪いがエリーザそのものを最初からいなかった事にするだろう。それはエリーザが初登場するまでのシーンを見直してみれば分かるが、そういう編集も可能なのだ。その余った時間で、例えばアンが「金色の泉」を手に入れる物語でも良かったと思うし、ケティ・モーリスとの出会いを再現する時間に充てても良かっただろう。
エリーザが出て行ってしまうと、間髪置かずにノア誕生になるのは本編と全く同じ。だがこのシーンは「それだけ」にされてしまった。アンが新しい生命の輝きを知る展開も、ケティ・モーリスと出逢う展開もカットされてしまい、なんか物足りなくなってしまったのは否めない。だから前述の通りエリーザを最初からいなかったことにして、こういうところに時間を使えば良かったのに…。
ノアが生まれたかと思うともうバートが飲酒の上、家で暴れるシーンとなる。これが原因でバートが職を失ったことと、メアリズビルに転居せざるを得なくなったことを再現しようとすると、存在を消したミントンに登場してもらうことになるのでメーテルの新規解説で済まされたのは「一貫性」という意味で正解(新規の解説はここだけでない)。だからこの転居劇は転居に至る理由をすっ飛ばして転居そのものだけが描かれる事になっている。
転居したらエッグマン登場、は良かったけど彼が出てきたのはここだけになってしまった。アンがエッグマンから想像力を学ぶ最初の出会いが再現されると、突然本編22話のアン9歳まで飛ぶのだ。学校関連のエピソード全カット、だからミルドレットもランドルフも出てこない。名物教師のヘンダーソンも不在で、これを見てなんか寂しくなってしまった。エッグマンも突然出てきて突然消えただけの存在になってしまい、彼がアンにとってどれだけ大きな存在であるかという点はカット。
だがこのカットは話をある一点に導く。それは「アンとトマス家の物語」だけを抜き出すという総集編としての大方針が定まったことだ。学校が絡む話の多い10話代ではトマス家が出てくる話は少なく、せいぜいみんなで海へ行く話とバートが盗賊の片棒を担ぐ展開くらいであろう。こうしてアンとトマス家の関わりだけを総集するとなれば…前半の残り時間で描かれるのはバートが死に至る過程しかない。
ここではアンが雑貨屋でツケの支払いを強く請求されるシーンが描かれるが、バートが職を失って家で引きこもっている事を示す台詞やシーンが一切出てこない。展開的に「バートが必死に働いているけど貧乏」と取れる内容になっているのだ。そこで起きるノアの遭難事件、バートが吹雪の中医者を呼びに行く名場面が流されるが、ここではバートが家にこもって酒に溺れていた事を示唆する台詞も完全に消去されている。つまりこの総集編では「バートは職を失わずずっと働き続けたけど、その上で遊んでいた」という設定に変わったと理解するべきだ。バートの活躍でノアが助かると、あの感動的なトマス家のクリスマスが描かれ…そしてバートの死を迎える。本編24話のラストと同じように、バートが除雪列車に轢かれるあのシーンで前半が終わって、空気を読まずに「やったね♪マーチ」が流れ出す点も、本編の雰囲気を忠実に再現しているところだろう(笑)。
このように前半は「アンのトマス家での物語」を徹底再現することに注力された。そういう意味で言えば先ほど書いた「エリーザが邪魔」という論もフォローできるところになってくる。例えばノアの誕生でアンが「新しい生命」について知ることも、ケティ・モーリスと出逢うことも、それらは「アンの物語」であって「アンとトマス家の物語」ではないのだ。だが個人的には、この総集編についはやっぱりエリーザの存在は要らなかったと思う。私の編集ならエリーザがいなかったことにして、余った時間でトマス家とアンが海へ行く本編15話の展開を差し込む編集にしただろう。
・後半…「孤児院編」は「アンとテッサの物語」から「アンとエドナの物語」へ
前半はバートが死ぬ瞬間で終わりになった。すると気になるのはバートが死んでからアンがハモンド家に連れ去られるまでの展開をどう編集するかだが、ワクワクテカテカしながら見ていてびっくり、なんとバートの葬儀からアンが孤児院の門を通るまでのシーンがダイジェストになって、僅か数十秒でハモンド家での物語が終わってしまったのだ。ハガティはともかく、アンに「プリンスエドワード島」という行き先を明確に告げる役割があるマクトゥガルも不在になり、結果アンは「プリンスエドワード島に行きたい」を持たないのに、後半でその地名を出されて喜ぶと言うおかしいシーンを生むことになってしまう。前半で徹底した一貫性がここで崩れてしまったのは正直痛いところだろう。
そして後半が孤児院編に入って行くと、最初こそは脱走劇を中心にしたアンとテッサの物語が描かれるが、テッサの「親を失った傷」に触れることがなかったのでその存在感は小さくなってしまい、テッサが登場人物としての重要度を落としたのは私個人としては非常に痛い。
変わって存在感を大きく上げたのはエドナだ。いや、エドナの存在感は本編とは変わらないのだが、テッサの存在感が大きく下がったので相対的に前に出てきたというのが正解だ。エドナとの物語はその多くがこの総集編に反映されるが、これは「楽しいプリンスエドワード島行き」争奪戦という要素を考えればやむを得ないだろう。孤児院編に使える時間が後半45分の殆どとはいえ、そこにテッサの物語とエドナの物語の双方を入れ込むことは無理だったのだ。
だからエドナとの「楽しいプリンスエドワード島行き」争奪を巡る物語は、ほぼノーカットで描かれたと言っても過言ではない。エドナの母のことも、エドナが隠している人形ジュディの事も、時間にゆとりを持ってゆったりと再現される。
そしてアンとエドナの関係に決着が着くと、唐突に先代院長の墓前で院長がアンに「楽しいプリンスエドワード島行き」を告げている。全話通して見た経験がある人にとっては「なんじゃこりゃ?」というしかないだろう。もちろんその後のエッグマンとの再会も描かれる事はなく、最終回の「大団円」をほぼ全部垂れ流して後半終了である。ただ最終回の展開のうち、エリーザから手紙が届いたという点については設定ごとカットされた。やっぱこんな扱いを受けるなら最初からエリーザは出さなければ良かったのだ。
後半をまとめて言うと、本編の孤児院編では準主役がテッサだったのをエドナが乗っ取った形になってしまった。これはテッサが好きだった視聴者にとっては「それだけはやめてー」と思う展開であっただろう。テッサは泣き虫から始まって、アンと共に脱走だけでなくや赤ん坊の世話等の物語を通じ、アンと共に成長して行く孤児院編ではアン以外で最も重要なキャラだったはずだ。だからこの後半は本編の孤児院編の雰囲気は大きく損なわれていて、テッサも泣き虫のまま画面から去ってしまうので「あいつはなんのために出てたんだ?」とこの総集編が初見の人はそう感じてしまうだろう。これではテッサがあまりにも可哀想だ。
つまり、一言で片付けるならば「テッサの出し方が中途半端」と言うことだ。これも編集方法によっては、エドナをいじめっ子のままで物語を展開させ、デラの世話などのシーンを多くして本編のようにテッサを準主役にした編集は可能だったはずだ。
・まとめ
前後半見終えて、これは上記の考察にも書いたことだが出し方が中途半端で可哀想な扱いを受けた2人のキャラ、エリーザとテッサがとにかく残念でならない。なんか二人とも総集において、「主要登場人物だし、とりあえず出しておけば良いだろ?」的な扱いを受けてしまっているのだ。アニメに限らず物語には、キャラにはそれぞれ役割が与えられており、総集編にしたときもその役割を変えてしまうと違和感を感じるようになってしまう。だから「出さない」という選択肢もあったエリーザは出さなくても良かったと正直に思うし、テッサについても出し方をもっと考えてやって欲しかった。そういう意味でこれまで見たきた「世界名作劇場」完結版の中で、残念だが私にとって最も印象が悪い作品になってしまった。
エリーザについては「この総集編ではいなくても良い」としたが、彼女を救う編集法は一つだけあったと思う。それは本編最終回相当シーンの再現時に、エリーザからの手紙の設定を消さずにちゃんと再現すれば良かったのだ。本編ではこれを通じてエリーザがアンから見えないところでアンと共に成長してきた事がキチンと描かれており、我が儘放題の上で物語から突然いなくなった彼女に対するフォローがちゃんとされているのだ。結局本総集編ではエリーザは「義理の妹のことで婚約者に我が儘を言っただけの女」という最低のキャラになってしまったので、こんななら出さなきゃ良かったと言いたいのだ。
とにかく、この総集編を見て「総集編におけるキャラクターの使い方」が悪かった例をまざまざと見せつけられた感じた。
・おまけ
ナレーターがメーテルのままだったのはとても嬉しい。しかも物語前の概要説明ナレーションだけでなく、劇中のナレーションもいくつか新規に撮り直しての解説となった。メーテルの声が好きな人はそれだけでこの完結編のDVDを買う価値があるだろう。個人的にはそのためだけに買って良かったと思っている。
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