私が「世界名作劇場」から離れた理由その1
「愛の若草物語」サブタイトル論

 早速だが私の「愛の若草物語」最初の批判点に入る。それはサブタイトルリストを見て欲しい。これと「小公女セーラ」や「南の虹のルーシー」のサブタイトルリストを比較していただければ一目瞭然なのだが、明らかにサブタイトルのセンスそのものが低下しているのだ。「!」の多用や冗長なタイトル、当サイトでは敢えてその点の批判を避けた「宇宙戦艦ヤマト」のセンスの無さと同レベルである(「宇宙戦艦ヤマト」でも同じ事を感じていたが「シリーズ物」ではなく他に同じ土俵に立つ比較対象がないので根拠のない批判を避けた)。

 サブタイトルはその回の物語における重要な「扉」である。私はこのサブタイトルに「覚えやすさ」「目につきやすさ」「物語に視聴者を引き込む力」の3点の釣り合いが大事だと考えている。なぜなら視聴者がサブタイトルを見る時間はせいぜい数秒、この数秒の間に物語の要点を示して視聴者を物語に引き込む役割があるからなのだ。無論冗長なサブタイトルでは視聴者が読み切る前に画面から消えてしまい、その存在は全く意味をなさない。

 これは「宇宙戦艦ヤマト」と「機動戦士ガンダム」のその後の語られ方の差を見れば明白である、「宇宙戦艦ヤマト」が現在語られる際に「第○話の…」「××の話の…」と語られることは多いが、そのサブタイトルが語られることは殆ど無い。対して「機動戦士ガンダム」が現在語られるときにたまに「第5話の大気圏突入で…」とか「第40話の光る宇宙で…」とかサブタイトルがセットで語られることもある。某巨大掲示板でも「機動戦士ガンダム」のサブタイトルがネタにされることはあっても、「宇宙戦艦ヤマト」のサブタイトルがネタにされることはない。

 これは「機動戦士ガンダム」のサブタイトルが、前述した3点についてよく考えられた上で名付けられたからである。短くてわかりやすくて単純、かつ物語に視聴者を引き込む要素と大まかなストーリーがすぐに想像できるように、かつネタバレも起きないよう計算され尽くしているのだ。それだけではなく、「機動戦士ガンダム」の場合は見終えた後にサブタイトルを思い出して、そのサブタイトルと物語の内容をセットで記憶することまで計算に入れられたようにも感じる。「世界名作劇場」シリーズでも「愛少女ポリアンナ物語」までの作品に同じ傾向が見られる。

 ところがこの「愛の若草物語」の各話サブタイトルは、明らかにそのような計算がされていないのだ。「宇宙戦艦ヤマト」はサブタイトルに色々なことを詰め込みすぎた感があったが、「愛の若草物語」ではサブタイトルのベースとなるべく「劇中での誰かの台詞や思い」をそのままサブタイトルにしてしまったように見える。

 それでも初期の段階ではまだましな方で、特にひどいのは15話以降だと思う。15話以降のサブタイトルはとにかく冗長で、エイミーの声による読み上げもサブタイトル表示時間ギリギリだったり、無理矢理早口で押し込んでいる回もある。声優に読み上げをやらせるならそれこそサブタイトルは短く単純にするべきだと思うが。

 また「!」の多用も良くない。サブタイトルに「!」を付けること自体否定はしない。たとえば物語全体を通じてキーになったりクライマックスとなる回であるならば、目立たせるために「!」を入れるのは効果的であると思う。たとえば「南の虹のルーシー」第44話「リトル! リトル!」や、「小公女セーラ」第44話「おおこの子だ!」は効果的に「!」を使用した好例だと思う。「愛の若草物語」では「!」を使いすぎてサブタイトルにしつこさやわざとらしさを感じ、結果どれも印象に残らないものとなってしまっている。サブタイトルの一覧を見せられただけではどの回にクライマックスやキーポイントになる話があるのかを読み取ることは不可能だ。

 この「愛の若草物語」風のサブタイトルを「小公女セーラ」に適用したら、「第4話 アーメンガードと友だちになった!」「第5話 泣かないでロッティ!セーラがママよ!!」「第27話 どうして!デュファルジュ先生がやめてしまう!」「第37話 屋根裏部屋にピーターが来た!」「第43話 帰ってきて!セーラにすてきな小包が来た!」…「南の虹のルーシー」だったら「第9話 アデレードまで歩く、歩く、歩く」「第26話 ルーシーは肺炎になりかけた!」…もうやめておこう。なんかとてつもなく頭悪そうな番組に見えてしまう。

 実際には上記で挙げた例だって、本当は物語で言いたいことをズバッと言っているに過ぎないのだが、これをサブタイトルとして見るのが本放映時の数秒という前提で考えた場合に物語の内容が伝わってくるだろうか? 多くの人がサブタイトルを読んだだけで終わってしまうと思う。私が挙げた例でも短い言葉の中で多くの情報を伝える、という点が欠落しているのがよく分かるだろう。

 「愛の若草物語」ではもっとサブタイトルを考えて欲しかった。たとえ16話は「メグは泥棒?」または「消えた200ドル」だけでいいと思うし、18話は「舞踏会」だけで十分なはずだ。20話は「お見舞い」、23話は「ベスへのプレゼント」、24話は「恋のはじまり」、27話は「お仕置き」、33話は「野外パーティ」、39話は「手紙」、43話「大都会ニューヨーク」、48話「旅立ち」…これだけで内容は十分伝わってくるし、何より視聴者は冗長な文字列を読まずに済む。

 また1話のサブタイトル「パパが帰ってきた!」については別の意味で良くないと感じた。劇中で主人公姉妹は父の呼称を「お父様」に統一しており、この設定と一貫性のないサブタイトルが付けられているのである。これは1話だから良かったものの、途中でこんな本編設定と統一性のないサブタイトルを見せられたら、「つくり」の甘さに萎えてしまう人間が続出したことだろう。

 とここまで「愛の若草物語」のサブタイトルについて散々批判したが、13話と22話については悪くないと思うし、「!」が無ければ4話と6話も悪くないと思っている。特に22話についてはクリスマスというめでたい日になぜ「おなかがすいた」なのか? どんな事件が起きてどうなるのかという期待を感じることが出来る秀逸なサブタイトルだと思う。
 このサブタイトルのセンスの悪さは、私が調べた限りでは「愛の若草物語」で始まり、「小公子セディ」「ピーターパンの冒険」と続いたようだ。制作側もこれに気付いたのか、はたまた偶然なのかは知らないが1990年「私のあしながおじさん」で「愛の若草物語」以前のレベルに戻っている。なぜか1994年「七つの海のティコ」だけは「愛の若草物語」風のサブタイトルになっているようだが。

 実は「小公子セディ」に執着がなかった理由の一つに、「愛の若草物語」から続いたこのサブタイトルの傾向に嫌気がさしていたのもある。特に第1話を見逃して話に乗れなかったところで、このような脱力系のサブタイトルを見せられて見る気力が無くなったのは当時の感想として事実なのだ。この「愛の若草物語」で始まったサブタイトルのレベル低下は、間違いなく私が「世界名作劇場」から離れた原因の一つであるのだ。

ウィンドウを閉じる