第九章 新婚旅行・廃線代行バス巡り
前章では暗い出来事による寂しい旅行について記したが、ここではそれとは対照的な旅について書いて行こう。
1995年春に付き合っていた女性と結婚した。今考えると自分でも驚くほど話がトントン拍子に進んだ気がする。何せ実質的には1年3ヶ月の付き合いで結婚に至ってしまったのだから。
4月1日に入籍し、23日に原宿の某式場で親戚のみを集めて披露宴だけを行い。その日の晩から2週間に及ぶ新婚旅行というわけである。東京駅を急行「銀河」開放A寝台で出発。大阪に一日滞在した後、飛行機(しかもスーパーシート)で関西空港から千歳へ飛んだ。千歳からは「札幌市街まで変わった行き方をしよう」と話が決まり、北都交通のリムジンバスで札幌市街へ向かい、夕暮れの大通公園を散策してから一泊。そこから沿岸バスの長距離路線「はぼろ」号に乗って羽幌線廃線跡に沿って豊富へ向かい、サロベツ原野を歩いた後に豊富温泉で宿泊となる。
この旅行のすごいところは他の一般的な新婚旅行と違い、往復の飛行機と急行「銀河」と宿泊以外は全く切符などを事前に用意していないことである。もちろん周遊券で乗り放題という訳でもなく、列車やバスの乗車券等は全部その場で購入という、別の意味で贅沢な旅なのだ。さらに最初の「銀河」以外は夜行列車を全く利用せず、全部宿泊であることも付け加えておこう。
バスでサロベツ原野のビジターセンターへ行き、観光シーズンにはまだ早いサロベツ原野に2人で立った。周囲にはビジターセンターの建物と道路以外は人工の建築物はなく、遥か彼方の利尻富士以外は地形の起伏もほぼない。ただ原野を吹き抜ける風が我々を叩くだけだった。何もない景色の中で2人でただぼーっと景色を眺めていた。
その後我々はビジターセンターから豊富駅まで約7キロを2時間かけて原野に続く道を歩いた。西に傾きかけた日差しの中で、何もない景色は色すら変えることはなかった。
豊富温泉で一泊した我々は、兜沼近辺の原野の景色を見に行ったあと、急行「礼文」で稚内へ向かう。ここまで来てやっとJR北海道の客となった。利尻富士を左手に眺めて宗谷丘陵をひた走り、列車は稚内に到着した。
「ちょっと話を聞かせてもらってよろしいですか?」
稚内駅コンコースで我々にそう声を掛けてきた一人の若い女性。彼女は名刺を差し出して自分がH新聞の記者であることを告げて、稚内の街の良さは何かと尋ねてきた。私は北海道旅行に来る度に稚内に立ち寄り、この街の雰囲気が好きだと言い、その理由を
「何てったって、素朴なところが好きなんだ」
と答えた。数日後のH新聞旭川版にそれが載ったらしく、その記者は新聞のコピーに稚内駅前で撮った私と妻の写真を同封して後日郵送してきた。
稚内では稚内公園や中心街をうろついて港に近いホテルに一泊。いよいよ翌朝から一度夢に見ていたオホーツク海に沿ったバスの旅が始まる。まずは稚内バスターミナルから宗谷バスが運行する天北線の代行バスでスタート。浜頓別でこのバスを降りて興浜北線代行バスへで枝幸へ。浜頓別も枝幸も駅があった形跡はどこにもなく、バスターミナルから南北に伸びる廃線跡だけが寂しく残っていた。特に浜頓別の方は駅前広場が忠にいた形で残っていてね駅設備がそのままバスターミナルになったようである。枝幸では街の中心部の廃線跡が「興浜線通り」という道路に変わっていた。その一角に興浜北線の歴史を残す石碑がひとりぽつんと立っていた。街に出てみると、下り坂の向こうに拡がるオホーツク海が青く光っていた。
バスターミナル2階の「興浜線記念館」を見学し、今度は国鉄時代に建設が凍結されたままの興浜線バスに乗る、左手には真っ青なオホーツク海がどこまでも広がり、右手にはついに一度も列車が走らなかった興浜線の路盤が続く。途中から乗ってきた母子連れの3歳くらいの女の子に遊ばれていると、バスは雄武に到着した。かつての駅のホームの上にバスの待合室がひっそり立っていて、かつての線路は駐車場に変化して線路が敷いてあったのが信じられないほどきれいに整地されている。今度は名士バスの興浜南線代行バスに乗り換えて紋別を目指す。廃線跡は海側に移り、青いオホーツク海をバックに使われなくなった鉄橋や築堤が見え隠れしている。興部からは旧名寄本線の区間に入る。約6年前に私が乗った路線だ。興部は駅が撤去されたが駅の跡地が鉄道公園として整備されて客車や気動車が保存されている。そんな鉄道がなくなった風景を眺めながらバスは紋別の市街に入り、我々は宿泊予定のホテルの前でバスを降りた。駅の方へ行ってみると駅の跡地も線路後も道路やバスターミナルに改造する工事の真っ最中で、どこに何があったのか思い出すまで時間がかかった。駅前に「思い出のこそう名寄線」と書かれた看板を掲げた店があった。
一晩あけるとまたオホーツク海を南下する。名寄線の代行バスで中湧別へ行き、そこから網走交通の湧網線代行バスで網走へ。バスは抜けるような青空の下、一直線に伸びる国道をひた走る。やがて丘をいくつか越えると目の前に青い湖が広がった。サロマ湖である。バスはサロマ湖畔をゆっくりと走る。このあたりから湧網線の廃線跡はサイクリングロードとして整備されていて、一部の駅は交通公園として開放されている。やがてバスは丘をいくつか越えて網走湖畔に出て、網走駅前に到着した。駅近くの旅行者がよく集まるという喫茶店で昼食。
今度は浜小清水行きの釧網本線普通列車で北浜へ。駅構内の喫茶店でコーヒーを飲んで、待合室にびっしり貼られた定期券やら名刺やら乗車券やらを見る。こうして2人のオホーツク海縦貫の旅は、駅の待合室に貼られた旅人の足跡を見ながら幕を閉じた。
目の前に広がるオホーツク海が小さな波をたてている。春のやわらかな日差しとそよ風が駅全体を包み、待合室の中に貼られた定期券や乗車券が風に揺れた。その風景はまるで時間が止まっているようだった。
我々は北浜から釧路行きの普通に乗り、茅沼で下車して釧路湿原の一角にある公共宿泊設備で一泊。大型連休の初日となる翌日は釧路から「おおぞら」に乗って帯広へ行き、帯広動物園を中心とした公園で地元住民に紛れて春の休日を楽しんでいた。公園内のボート池では地元の中学生の女の子たちと仲良くなって童心にかえってボート遊びをしていた。
翌日は朝から雨だった。今まで天気良かったのに…と思いながら我々は広尾線代行バスで帯広を後にした。雨と霧で視界のきかない国道を走り、バスは広尾駅駅舎をそのまま利用した広尾バスターミナルに到着した。この旧駅舎はホームや線路も鉄道があった当時のままで、ホームにはキハ22がきれいに整備されて止まっている。ホームや改札口からこの車両を見ると、北海道にキハ22がゴロゴロしていた高校時代のあの日を思い出す。今にもエンジンを唸らせて走り出しそうだ。
襟裳へ行くバス停へ行ってみると、乗る予定だったバスは休日運休で、午後までバスはないという。天気が良ければ午後までそこらをぶらついていれば時間を潰せるのだが、この雨ではそうも行かない。何時間も待合室で座っているわけにも行かないので、妻が近くのタクシー会社に電話して襟裳までどのくらいかかるかを聞いた。すると1万円程度だという。せっかくの新婚旅行だからちょっとくらいの贅沢をしても罰は当たらないと話はまとまり、タクシーを呼んで襟裳へ行くことにした。
タクシーの運転手といろいろと話をしていると、タクシーは断崖絶壁の黄金道路を走り抜けて襟裳岬に到着した。さすが大型連休とあって襟裳岬は観光客で溢れ、駐車場にはたくさんの自動車が停車していた。しかし、岬から海を見てみると霧と雨で何も見えない、群青色の海が少し見えるだけで、あとは霧の白だけである。
襟裳の春は何も「見えない」春だった。
灯台の霧中信号だけがあたりに寂しく響いた。
我々は昼食の後、バスと日高本線を乗り継いで苫小牧に到着。ここで宿泊とし、次の日は室蘭本線経由で深川へ行き、秋に廃止されるのでは?と噂される深名線を訪れた。残雪の鉄路を単行の気動車は走り、朱鞠内で長時間の停車となる。駅構内をうろついていると知人の小金井市在住のO氏とばったり、いろいろと話をしていると発車時刻となり、列車はさらに名寄へ向かう。友人運転のレンタカーで行動中というO氏とは朱鞠内駅で別れた。列車は残雪の朱鞠内湖を走り、母子里の峠を越えて名寄盆地の夕景を眺めつつ勾配を降りて、夜の帳が降りた名寄駅に到着。「礼文」「ライラック」の乗り継ぎで札幌へ向かい、ここで宿泊。
いよいよこの旅行もあと僅かである。次の日はタクシーで札幌駅へ急ぎ、「スーパー北斗」で函館へ。ここで保存されている青函連絡船「摩周丸」を見学。7年前のこの船の思い出が強烈に甦りしばし感傷的になる。私はここでとんでもないものに再会するのである。
一角に「思い出伝言板」という青函連絡船廃止時に船内に貼られた大きな模造紙が公開展示されていた。それは1988年3月8日頃から「摩周丸」船内に張り出されていたもので、中には「3月9日21便」という書き込みもあった。恐る恐る隅から隅まで見回してみると、見慣れた筆跡の文字を見つけた。それは17歳高校生の私そのものであった。こんなものが今更になって公開・展示されているのが嬉しいような恥ずかしいような気分になった。当時の私が書いた文字も含め、この伝言板にある文字の一つ一つが、あの青函連絡船が生きていたときのまま伝言板の時間を止め、連絡船の思い出そのものを実物大のまま現在まで保存していたのである。私は自分が7年前に書いたその文字を見て、その時の空気やその時の自分の気持ちのすべてを思い出したのであった。
その日の午後は大沼小沼で観光し、大沼湖畔のユースホステルに宿泊してから、函館へ戻り。駅前のデパートで土産を買ってから函館空港へ向かい。日航のジャンボ機で羽田へ飛んだ。
函館空港を離陸したとき、私は振り返って沈み行く函館の街を見ていた。街の向こうに7年前の私が乗ったままの「摩周丸」を見つけ、見えなくなるまで目で追っていた。
(つづく)