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第十章 回想・廃止になった鉄道路線

北海道のローカル線
西日本の鉄道
各地のローカル私鉄
66.7パーミル

 ここでは廃止になった鉄道路線の思い出を綴ってみたい。私が乗った路線の中で廃止になった路線にも数多くの思い出がある。なお、青函連絡船に関しては第二章で詳細をお話ししたのでここでは割愛する。

北海道のローカル線

 まず天北線。この路線は1度乗ったが景色を全く知らない。唯一乗ったのは1988年4月1日、高校2〜3年にかけての春休みに北海道全線完乗を目指して春休み中ずっと北海道にいた旅行の時である。稚内から急行「天北」に乗ったはいいが、連日の強行軍で眠くて眠くて南稚内を出る前に眠ってしまい、目が覚めたら音威子府駅に停車していたのである。これでは「突然の事故で実はこの日は宗谷本線を回った」と言われれば、この日はエイプリルフールだったが素直に騙されたに違いない。
 悔しかったので年末年始の旅行で乗る計画を立てたら、第三章でお話ししたとおりの結果になり、敗者復活戦がないまま1989年4月に廃止になった。

 標津線、1989年1月の話は第三章でしているので、1988年3月に乗ったときの思い出。根室標津駅での2時間の列車待ちで海岸へ出たら遥かに国後島が見えた、生まれてはじめてみた北方領土のあまりの近さにただ驚いた。駅で大阪府吹田市から来たという中学生と仲良くなってその日一日同行する。この駅での出逢いは少年鉄ちゃんとの出逢いの思い出ばかりだ。
 こんな出逢いの鉄道も1989年4月に廃止された。

 名寄本線、1987年の夏と1988年の春と年末に来ている。年末に関しては第三章で軽く触れた。1987年夏は車掌と仲良くなって乗車証明書とかいいろいろともらった。1988年春は前述の標津線で出逢った大阪の中学生とばったり再会。二人で盛り上がりながら遠軽を目指した。ここも出逢いの舞台のひとつだったのだ。
 そんな名寄本線も1989年4月に廃止となった。

 深名線、ここは最後のローカル線の情緒を味わおうと何度も訪れ、何人もの人に出逢った。この書で前述した以外にも横浜から来た大学生のお兄さん(1988年春)、静岡の高校生(1992年夏)という顔ぶれもある。さらに車掌と仲良くなっていろいろと話をしたこともあった。
 最後に行ったのは1995年7月、妻と二人で朝の羽田空港を離陸、千歳空港から快速列車と「スーパーホワイトアロー」を乗り継いで深川へ急ぎ、「サロベツ」〜「利尻」南稚内折り返し(宿泊を兼ねて)を挟んで2日間、深名線に乗るだけの旅をした。列車の窓までのびた草の緑、タブレットを抱えた駅員、腕木式信号機の変わる音、開け放した窓から入り込む北の大地の空気、旧式の気動車のエンジン音と排気臭、そして今はなき数々の駅名標とそこに住む人々、これらを胸に焼き付けて、後ろ髪を引かれるような思いで旭川空港から空路東京へ戻った。
 私の北海道旅行で多くの出逢いをくれた深名線は1995年9月に廃止となった。

 歌志内線と上砂川支線。歌志内線は1988年春に一度訪れただけだが、上砂川支線も何度も訪れた。上砂川では私と同じ高校を目指すと張り切っていた中学生(1988年春)や、ここでJR全線完乗を果たしたお兄さん(1989年夏)、札幌の大学生(1990年年末)などに出逢った。さらに列車に他に乗客がなく、乗務員が暇そうだといろいろと話をすることができた。
 歌志内線は1988年4月、上砂川支線は1994年5月に廃止となった。

西日本の鉄道

 西日本では最後まで残った廃止対象路線3線がまとめて廃止になる1990年春にまとめて訪れた。3月29日に寝台特急「出雲」1号で出雲市へ行き、桜吹雪の大社線に何度も乗車し、何度も歩いた。途中で仲良くなった尼崎から来たという中学生鉄ちゃんが翌日夕方まで全く同一行程なので同行することにした。昼には出雲大社を訪れたり、西武鉄道の電車が払い下げられて使用されている一畑電鉄を訪れたり半分観光のノリで大社線沿線を歩き回り、夜の「だいせん」で豊岡へ向かった。
 そのまま未明の宮津線を一往復、片道は完全に眠っていたが、もう片道はしっかりと起きたままの通過。天橋立が見えてきたとき、学生時代最後の旅がちょっとばかり懐かしく思えた。僅か1年前の事なのにずいぶん昔のことに思えた。豊岡へ戻り、山陰本線と福知山線を乗り継いで谷川へ、山陰本線の車中で大阪吹田市から来た鉄道で旅行中というお姉さんと仲良くなる。彼女は面白い人でこれさえあれば旅行中の食事はすべて済んでしまうと鞄の中からたくさんのチョコレートを出した。福知山で彼女と別れ、我々は谷川から加古川線に入って鍛冶屋線を目指す。
 鍛冶屋線は廃止直前の大騒ぎとなっていた。私は急遽予定を変更して最終列車までいることとした。この盛り上がりに背を向けられないと思ったのだ。
 沿線は桜の花びらが降りしきり、鍛冶屋線の最後の花道を飾るかのようだった。最終列車にはこれでもかこれでもかという程人が乗り、夜桜の中を沿線で大勢の見送りに囲まれ「さよなら」の声に包まれ鍛冶屋を目指した。終点では最終列車で来た人々が駅を埋め尽くし、これらの人々を帰すために臨時列車の運行が決まる。本当に最後の列車は時刻表にない上り列車となった。西脇駅で盛大な出迎えを受けながらこの列車の運行が終わると、鍛冶屋線は廃止となった。
 大社線・宮津線・鍛冶屋線ともに1990年3月31日に廃止となった。

各地のローカル私鉄

 私が行ってみたいと思った私鉄も数多い。しかし私鉄に乗り回すほど旅行の予算に余裕が出るようになった90年代には、これらの私鉄に廃止の噂が流れていた。現に片上鉄道は乗りたいという願いが叶ったときには廃止寸前だったし、一度乗ってみたいと熱望していた下津井電鉄や南部縦貫鉄道は乗りそびれてしまった。

 片上鉄道、1991年春の山陽旅行で訪れたときには既に廃止が決定していた。はじめって乗ったときは春雨に叩かれ、谷間を寂しげに走る客車列車や気動車列車の姿を見て、これを今まで知らなかったなんて勿体ないと何度思ったか。
 次の日は春の雨も止んですっきりと青空が広がった。同行の神戸のI君の他、神戸と静岡から来たという高校生二人を巻き添えて、列車に乗ったり沿線を歩いたりした。
 そして6月、この鉄道を訪れた最後である。梅雨の曇天の空の下を行く列車たちはなお寂しく見えたが、最後の別れを言いに来た地元の人に囲まれて、列車は最後まで一生懸命走ったように見えた。
 1991年6月30日、片上鉄道は姿を消した。

 岩手開発鉄道、1989年6月の東北旅行で立ち寄る予定だったが、JR・三陸鉄道の盛駅と岩手開発鉄道の盛駅がかなり離れているという予備知識がなかったために乗ることが出来ず、悔しい思いをしていた。
 その後、1991年8月にはじめて乗ることが出来た。夏の霧雨の中を食パン型の気動車が存在感なさげに走る姿に魅了された。9月にも同様にここを訪れ、終点の岩手石橋のスイッチバックの風景にただ感動していた。
 1992年3月、思い立って最後の姿を見に行った。最終列車では地元の人や同じ鉄ちゃんにいろいろと出逢い、みんなでここの旅客列車に別れを言った。
 1992年3月31日、岩手開発鉄道は旅客営業を廃止した。その日、同鉄道の社長は「経営状態が好転すれば旅客営業を再開する」と宣言したが、残念ながらそれは実現に至っていない。

 同和鉱業小坂鉄道、1994年6月にここを訪れた。夏の昼下がりの日差しの下に停車していた気動車から漂う軽油の臭いが「夏のローカル線」を強調していた。緑が眩しい峠道の景色が目に焼き付いている。途中の交換駅にあった腕木式信号機、そして緑の木々に埋もれそうな駅のホーム。一昔前の鉄道はこんな風景だったんだろうなぁと想像を膨らませて旅を楽しんだ。

 これらの小さな鉄道は、思い出とともに緑の草々に埋もれてしまった。

66.7パーミル

 66.7パーミル。この勾配を持つ鉄道は私には思い出深い。それについてこの場を借りて述べて行こう。

 京阪京津線は1989年夏に広島の平和記念式典へ向かう途中にはじめて乗った。
 この鉄道は中学生時代にテレビ番組で存在を知って興味を持ち、色々調べているうちにいつしか関西の鉄道に興味を持つきっかけとなった鉄道である。その時に心に描いた風景がそのまま目の前に展開し、自分が今まで勝手に思い描いていた通りの鉄道だった。
 この後、この路線が私にとって大のお気に入りとなり、関西地方を通る度にこの路線の四季折々色々な季節の風景の記録するため、カメラ片手に、あるいはビデオカメラ片手に訪れた。
 蹴上の桜並木の下を行く電車、秋の夕暮れの古都を行く電車、夏に路面から立ち上る陽炎に揺らめきながらこちらへ近付いてくる電車、冬に雪の中を空転しながら坂道を上る電車、そして軽い電車のモーター音と、併用軌道を走るときの独特の電子ホーンの音。この鉄道は四季折々の景色の中で美しい風景との調和を見せていた。

 最後に訪れたのは1997年9月28日、私は一度京津線の電車を自動車から眺めてみたいと考え、中央道経由で自動車を飛ばして京都へ行った。自動車で沿線を一通り走って電車の姿を撮影したあと、大津の宿に自動車を置いて準急電車と普通電車を乗り継いで、九条山から沿線を歩いた。
 深まりはじめた秋の西日に映し出された電車は、道路に溢れる自動車に行く手を遮られながらも、黙々と最後の仕事をこなしていた。沿線ではカメラを構えた鉄道好きな人々が行列をつくって、古都を行く美しい電車にレンズを向けていた。沿線を歩いて電車の撮影をすませると日没となり、夕暮れの京津線を準急で浜大津へ向かい、乗り納めとした。
 1997年10月11日、この鉄道の三条〜御陵間は地下鉄に置き換えられ、その使命を終え、その影響で御陵〜浜大津間は地下鉄車両が乗り入れるようになり新たな歴史を刻むことになった。

 もうひとつのこの勾配の路線は言わずと知れた信越本線横川〜軽井沢間である。毎年夏の家族旅行の行き先が軽井沢だった関係でこの路線は小さい頃から何度も乗っていた。一番古い記憶(3〜5歳くらいか)では軽井沢(もしくは中軽井沢)からボンネットに赤帯が入った特急に乗り、上野へ向かったことである。この峠越えに連結される機関車を見ているうちに「なんでここで機関車をつけるのだろう」と最初に国鉄路線に興味を持った路線であった。山の急坂を上り下りするためと教えられたが、おかげさまで小さい頃は列車が山を越えるときは必ず機関車を連結すると信じていた。西武秩父線にはじめて乗ったとき(7歳のとき)、電車が機関車を連結せずに正丸峠を越えたときには本当に驚いた。
 小学6年生の夏の軽井沢への家族旅行は、「自動車に乗りきれない」「子供料金で乗せられるのは最後だから」という親の判断で私は中学2年になった兄と二人で鉄道で軽井沢を目指した。私が時刻表で列車を調べ、往路は八高線経由、帰路は小海線経由とした。その時に高崎から客車の普通列車で炎天下の碓氷峠を越えた記憶は今でも忘れない。少年時代の記憶のささやかな一こまであるが、実はこれが私が計画した旅の一番最初だったのだ。その後、高校時代の夏もバイトや学校の都合で家族旅行の往復に一人で碓氷峠を越えて軽井沢を目指した。
 高校以降の旅行でも何度もこの区間を通過している。1987年12月に行った「EEきっぷ」(15000円でJR東日本3日間全線乗り放題のきっぷ)の旅行で、急行「能登」で越えたのをきっかけに、青春18きっぷの日帰り旅行にふらりと出かけたときなどに何度も通過した。
 北陸(長野行き)新幹線開業と同時にこの鉄道が廃止されると聞かされてもピンとこなかった。あまりにも見慣れた風景が消え去るという事実が分からなかったのかも知れない。「近いから何時でも乗りに行ける」などと言っているうちに月日は流れ、気付けば廃止のその日まで残り半年を切って、この峠にはラストブームも手伝って多くの人々が殺到するようになった。私はこの区間は何度も乗っているので残り僅かな期間に知らない人にもっと多く体験したもらいたいと思い、一般の旅客列車でこの峠を訪れることは控えることにした。
 そんな訳で最後に乗った一般列車は、廃止のちょぅど1年前である96年9月に仕事で新潟へ出張した往路にちょっと回り道をして乗った特急「あさま」。本当に最後に乗ったのは97年9月6日、高崎で動態保存されている旧型客車を使用した軽井沢への団体列車である。軽井沢からの帰路では先行列車の機関車故障というハプニングでどのような運用変更があったのかは知らないが、機関車五重連に旧型客車という夢のような列車で碓氷峠を下った。私のこの区間の乗り納めは、私と碓氷峠の鉄道の25年に及ぼうかという付き合いの最後を飾るにふさわしい体験となった。
 その2週間後に仲間と自動車で碓氷峠を訪れ、峠を行く列車の姿を見たのが私にとってのここの鉄道との最後の別れとなった。
 1997年9月30日、碓氷峠の鉄道は104年の歴史を翌日開業する北陸新幹線に託して、その使命を終えた。

 1997年10月5日、私は峠の鉄道が廃止になってわずか数日後の横川駅を訪れた。

 横川駅には使用されなくなった機関車たちがナンバーを外された状態でそのままになっていた。汽笛の音が絶えた横川の町には悲壮感が漂い、峠の交通の要衝から山の中の袋小路への変貌を物語っていた。駅弁屋の垂れ幕や幟、運転区に置き去りにされた機関車、まだ錆びきっていない峠へ続く鉄路、それらが鉄道が生きていたあの日のまま時の流れを止めていた。
 私は役目を終えて長年の疲れを癒す機関車たちを、ただじっと眺めていた。

(つづく)


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