目次へ戻る


第十一章 1997年冬・10年目の追記

 1997年1月18日、冬の私は飯田線を旅していた。
 そう、1987年に高校生の私が初めて旅をした冬の飯田線に帰ってきたのである。

 あれから10年、私はここを振り出しに「旅」を作ってきた。そこで出逢う空気・風景・人。そのすべては新鮮で、何事にも代えられないものとなった。それから10年、写真や模型では得られない、実物大の感動を日本各地で味わってきた。そして10年の時を経て、この冬の飯田線に戻ってきたのだ。

 車内は閑散としており、遠方からの旅人と思える乗客が何グループかあるのみである。隣の車両でおばさんのグループが缶ビール片手に盛り上がっている以外はひっそりとしており、乗車券を売りにくる車掌の声と列車の走行音だけが車内に響く。
 あれから10年、この飯田線も変わった。スカイブルーに薄いグレーのストライプの塗装だった2両編成の電車は白を基調とした塗装に塗り替えられて、当時はなかったはずの冷房装置までついた。車掌は乗車券の販売で車内を右往左往しているのは変わらないが、かつての駅に着く度に車掌が乗務員室へ慌てて走る様子は見られない。乗務体型の変化により駅で電車の扉を開閉するのは運転士の役割に変わったのだ。
 しかし、車窓を彩る冬の風景は10年前となんら変化はない。伊那谷から見る中部山岳の山々も、天竜川の水の緑も10年前のあの日のままだ。
 列車は冬の弱い日差しを浴びて豊橋へと向かっている。その車内で私は10年間に自分で作り上げた10年間の旅を反芻していた。
 国鉄との別れ、はじめての北海道での列車遅延の大騒動、青函連絡船との出逢いと別れ、学生時代最後の北海道冬景色、春の四国・九州への卒業旅行、板谷峠のスイッチバック、十代最後の夏の北海道、秋の京都と京津線の警笛の音色、北海道の帰りの九州豪遊、二度と忘れられない日本一周旅行、大好きだった中央夜行との別れ、冬の北海道傷心旅行、そして北海道で贅沢な新婚旅行…数えればキリがない旅行の思い出が走馬燈のようによみがえった。

 飯田線の電車に別れを告げ、あの日と同じように普通列車を乗り継いで豊橋から静岡へ、そして静岡から本来なら特急「東海」に使用される373系の普通列車で東京を目指していた。
 列車は既に闇に包まれた東海道を東へ向かう。車内はがらんと空いていて、低いモーター音と、軽いジョイント音と、明るい蛍光灯の灯りががらがらの車内を包んでいた。

 私は10年かけて本当に色々な旅をして、今日のこの旅に帰ってきたんだなぁと思っていた。それにしても10年間で変わったところはたくさんある。先ほど挙げた飯田線の光景はその一例に過ぎない。

 まず16歳高校生だった私が、もう四捨五入すれば30歳という年齢にまで達しているのだ。高校生の頃、自分が26歳になるなんて考えてもいなかった。私自身、交通機関の旅だけでなく、この歳になって自動車の運転免許証を取得したことにより、自分の自動車で交通機関を利用して行けない場所の旅を試みるようになった。

 今度は思いつくままに、私が旅して利用したものたちが、どのように変化したかを順不同で綴ってみよう。

 青函連絡船の消えた津軽海峡では、東日本フェリーが津軽海峡の海の王者となって君臨している。青函連絡船廃止直後に新造された「べにりあ」をはじめとした大浴場や展望客室などをを設備するという中距離航路としては豪華なフェリーたちを擁している上、昨年まではジェットフォイルが海峡を僅か2時間で結んでいた。
 97年夏からは高速フェリー「ゆにこん」が自動車も一般客もひとまとめにして2時間で青函間を結んでいる。

 その青函連絡船の船たちは、現在は世界各地に散らばってしまった。
 「十和田丸」は国内のクルーズ船「ジャパニーズドリーム」号に改造され、横浜〜神戸間の不定期航路に就航、その合間を縫って日本全国を訪れた。1992年1月に横浜〜神戸間の航路から引退した後は、フィリピンの企業に払い下げられ、リゾート地の海岸にカジノ船として停泊している。
「石狩丸」「空知丸」(貨物船)は国内でしばらく使用されたり係留された後、ギリシャの船会社に売却され日本の海から姿を消した。双方とも旅客フェリーに改装されて定期航路に就航している。
 「檜山丸」は青少年団体の船「二十一世紀号」として多くの子供達とともに日本全国を航海した。ところがわずか数年で「二十一世紀号」の運行が終わってしまい、現在は岡山県内のドックで引き取り手のないまま係留されている。
 「八甲田丸」「摩周丸」はそれぞれ青森・函館の桟橋跡に保存され、青函連絡船の博物館として活用されている。
 「羊蹄丸」は引退後すぐに日本船舶振興会に引き取られた。1992年にイタリアのジェノバで行われた万国博覧会で展示された後、96年の東京都の臨海副都心整備完成を待って、「船の科学館」で保存、公開された。
 「大雪丸」は東京の企業に引き取られたがその会社が倒産してしまい、長期間にわたり引き取り手のないまま横浜市内ののドックに係留されていた。数年前に引き取り手のない「大雪丸」の処置に困り、解体が決まったところで長崎市内の企業がこれを買収し、97年から長崎港内で海上ホテルとして開業した。
 私が10年かけて旅を続けているとき、彼女たちは紆余曲折の人生を歩んでいたのである。

 私が乗った鉄道の中に、現在は経営母体が変わっている路線がいくつかある。
 JR東日本の長井線は山形鉄道に、JR西日本の宮津線は北近畿タンゴ鉄道に、JR九州の高千穂線は高千穂鉄道に、宮城県内を走る栗原電鉄はくりはら田園鉄道に、それぞれ第三セクターの会社に経営が引き継がれている。

 私がはじめて乗った夜行高速バスである西武バス・近江鉄道バスの池袋〜大津線はその後運行体型の大幅な変化があり、運行時刻が変更され、路線が東京側で埼玉県の大宮まで延長され、池袋は始発点からただの通過点となった。
 さらに1日2便が1日1便に減便されたが、車両が私が乗ったときは4列配置であった座席を3列に改め、座席そのものを改良したスーパーハイデッカーの新型車に置き換えられた。

 中央夜行の廃止は第八章で述べたが、卒業旅行ではそのトップを飾り、その後は関西方面への足としてよく利用した大垣夜行も変貌を遂げた。96年春のダイヤ改正で全車指定席(一部区間)夜行快速「ムーンライトながら」に生まれ変わり、車両も特急型車両に格上げされた。しかし、続行の臨時大垣夜行は往時のままである。
 また、第三章で出てきた小田急電鉄〜JR東海直通急行「あさぎり」は90年春の改正で特急に格上げされ、運転区間も沼津までとなり、新型車両も投入された。

 私が自分の旅行ではじめて乗った飛行機である日本航空のジャンボ機(機体番号JA-8124号)は、94年まで日本の国内線で活躍したあと、貨物専用機に改造されてアメリカの貨物航空会社に売却された。
 また、日本一周旅行で利用した全日空のトライスター(機体番号JA-8515号)も95年度中に引退し、アメリカの砂漠で解体された。

 飛行機といえば空港も変わった。千歳空港が92年夏に旅客ターミナルを移転し新千歳空港となり、羽田空港は沖合移転工事が進んで旅客ターミナルが移転した。
 大阪では関西国際空港が完成し、私がよく利用した大阪国際空港(伊丹)は大阪ローカルの空港となってしまった。

 北海道旅行の思い出にかかせない夜行急行「大雪」「まりも」、これらも92年〜93年にかけて特急に格上げされてその姿を消した。
 また北海道の気動車特急キハ183系も、その後の運行体型の変化や列車系統の変化につれて車両の塗装がすべて変わってしまった。現在では私が高校生の頃のままの姿で走っている車両は1両もない。

 私の高校時代の北海道の旅を象徴するキハ22系も96年春の改正で全車両廃車となった。同形の車両が営業運転されているのは一部の私鉄だけとなってしまった。
 北海道に限らず、数々の車掌とのドラマを生んだ路線も、ワンマン運転となって車掌の姿はほとんどなくなった。

 年末年始の北海道旅行でほぼ毎回利用している青森〜室蘭航路も年々使用する船が変わっている。最初は「べら」という20年程前に建造された中型フェリーが使用されていたが、91年末には「べえだ」という一回り大きい船に置き換えられ、96年末には「ほるす」という新造の大型船に置き換えられた。
 青森のフェリーターミナルも、かつては船首から自動車と一緒に船に乗り込んでいたが、いつの間にか一般旅客専用のボーディングブリッヂができていた。

 私が乗った路面電車もいくつか廃止となっている。
 北海道では函館市電の東雲線と、五稜郭公園〜ガス会社〜函館駅前間の路線が廃止された。東雲線は路面電車ながら電車が1時間間隔で運行されていた閑散路線であった。
 九州では西鉄北九州線が黒崎以西の専用軌道区間を残して廃止された。

 改良工事や立体交差事業の関係で風景が大きく変わった駅もいくつかある。
 10年の間に札幌・帯広・金沢・岐阜・三原などが高架駅に生まれ変わった。
 それとは別に函館・山形・長野・軽井沢・東京・京都などは運行形態の変化や駅ビルの完成などで、駅舎が建て替わったりホームの配置や位置が大きく変わった。駅舎が建て替わっただけなら他にたくさんある。

 新幹線も大きく変わった。10年前の国鉄時代末期、東京〜新大阪がようやく3時間を切り、東京〜博多間を6時間程度で結んでいた。車両も0系ばかりで、100系に乗ったと言うだけで自慢できる、そんな時代だった。
 それが現在では「のぞみ」の誕生により新大阪まで2時間半、そして博多までは最高時速300キロの500系「のぞみ」が4時間代で結ぼうとしている時代になった。車両の種類も増え、既に0系は引退間近の旧型車となり、100系が大量生産も終わって一時代前の車両となってしまい、時速270キロで現在の東海道新幹線の主役300系、そして世界最速時速300キロを誇る500系と、僅か数年でその顔ぶれは大きく変化した。
 東日本でも長野へ新路線が伸びる寸前で、東北・上越新幹線の一部列車で時速275キロ運転を行っている。さらに奥羽本線の他に、田沢湖線も広軌となり新在直通列車「こまち」が運転されるようになった。

 東北地方での旅の思い出の象徴である赤い客車列車が全滅した。夏は開け放しの窓から入ってくる東北の空気が心地よく、冬は電気暖房の利きの悪さに震えながらの旅は過去のものとなった。

…とまあ、すぐ思いつくだけでこれだけのことが変わったのである。だから当時のままの旅を再現したくても、それは無理な相談なのである。
 同じ旅の再現は別の意味で不可能だ。まず少しでも時期がずれれば季節が変わってしまい気象条件などが一変してしまう。そして、たとえ同じ日程で旅行を再現し、たまたま同じ条件がそろってもそれは無理である。同じ乗務員や乗客が同じ配置で同じ列車に乗り込むなんてことは絶対に考えられない。車窓の風景一つとっても、すれ違う列車、平行している道路の自動車の配置、空を通りかかった飛行機、海に浮かぶ船、全部が同じにそろう訳がない。
 ようするに旅行は「生き物」なのである。だから私にとってひとつひとつが忘れられない、再現不能な思い出なのである。

 これからどんな旅という「生き物」が生まれてはすぐに消えて行くのだろう、私はそう思い窓の外を見た。冬の星空が天に瞬き、沿線の街の夜景が光っている。それを切り裂くかの如く、光の帯となった普通列車とすれ違う。

 私はこれからも旅を続けて行くに違いない。新しい風景と新鮮な感動を求めて。

 

(つづく)


ページの最初に戻る