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第十二章 自動車での旅はじめる

 これまでは公共交通機関を利用した旅の話ばかりであったが、ここでは私的交通機関である自動車での旅の話をしていこうと思う。

 私は最近まで自動車の運転免許を持っていなかった。高校卒業時の1989年春に取る予定であったが、卒業直前の試験休みが内定が決まっていた会社のアルバイトで埋まってしまったため、免許を取る時間はこれに奪われることになる。その後も何度か免許が欲しいと思っていたが、時間にも金銭にも恵まれずに時が過ぎた。そのうちに自動車免許が欲しいという気持ちもしぼんでゆく。
 1995年秋、所用で大阪へ出かけた往路に当時の友人が運転する自動車で行った。東名道から名阪道へと走り抜け、さらに現地では一日和歌山県方面をドライブしながら、有田鉄道を追いかけ、野上電鉄の廃線跡を探検したりした。
 1996年春の大型連休は、友人や知人の運転する自動車で「鉄道では決して行けない場所」への旅を楽しんだ。連休前半は会社の仲間と群馬県の多野方面へ、「ぶどう峠」を越えて長野県北相木村のキャンプ場に宿泊し、十国峠や上野村、そして万場町の鯉のぼりや下久保ダムといった鉄道空白地帯を走り回った。さらに後半には別の友人の自動車で奥多摩湖を越えて多摩川源流部へ、大菩薩や丹波山といった山梨県東部の旅を楽しんだ。
 これらをきっかけに自動車での旅に憧れるようになる。自動車免許を取得したいという気持ちが再燃するが、時間と予算の都合から諦めざるを得ないかに見えた。

 自動車免許取得のチャンスはこの時にやって来る。1996年秋に私の兄が結婚したのだが、この結婚式場へ家族全員が自動車で移動し、みんなで酒を呑んでしまったのである。父をはじめ我が家の人間は酒に強いとは言えないので大変な騒ぎとなり、ここで当然「誰が車を運転するんだ」と言うことになる。
 私と母が酒を呑まずにいた(私は少量だけだったので正気だっただけだが)のだが、いつもは呑まないこの二人が免許を持っていないのでは話にならんと酔っぱらった父が私に話をし始めた。そこで議論の結果、父の命令で私が免許を取ることになった。父の命令で免許を取らされるという形になったので、予算は父が持つことになる。
 あとは時間である。ちょうどその頃から私に山梨県へ出張しての仕事が増えることになり、その仕事場所にバスが一日4本という辺鄙な場所もある。当然バスの時刻に縛られては満足な仕事ができないし、その仕事が夜勤となるとバスで現場へ行くのが不可能になる。そこで会社からも「自動車の運転免許なんとかならないか」という話が出てくる。上記の理由で家庭的な都合で自動車免許を取ることになった旨を上司に言うと、会社側は私の自動車免許取得に勤務時間の変更など時間的な支援をしてくれることになった。これで平日でも一日3時間の教習時間が取れることになり、早速近所の自動車学校に通い始め、自動車学校に通いはじめて僅か1ヶ月の1996年12月16日、やっと自分の普通自動車運転免許証を手にした。

 免許の次は自動車である。本当は自動車を手に入れるつもりはなかったのだが、当時の友人が自動車を無償提供すると言い出したので、練習にも良いだろうと言うことでこれを引き取ることにした。初代の私の愛車は「ホンダバラード」という古い自動車で、これに約半年乗ることになる。
 年が明けて1997年1月中旬、仕事場所の下見と現地での自動車運転練習も兼ねて山梨県方面へドライブに行ったのが私が自分で自動車を運転して行った最初の旅である。中央道で大月インターまで走り、都留市内の仕事場所を下見。その後は笹子峠の「道の駅」で遊び、国道411号(青梅街道)に入って塩山から柳沢峠を越えて奥多摩へ、という行程を取った。その後も春の連休にかけて昇仙峡や富士五湖を訪れ、私の行動範囲は狭まりつつも、網の目のように細かくなっていった。

 4月、JTB時刻表の裏表紙の広告に出ていた自動車に興味を持つ。メーカーからカタログを取り寄せたり、自動車雑誌に目を通したりして新車購入を半分本気・半分冗談で考え始める。そうこうしていると夏になり、当時乗っていた自動車の最大の欠点が露呈される日が来るのだ。
 この自動車には冷房がなかったのである。私はそれを承知の上で引き取ったのだが、夏の暑さは予想以上であった。今まで自動車を持ったことがなかったので、夏の自動車の暑さというものを知らず、「警棒なんかなくても窓を開ければなんとかなるさ」と軽い気持ちでいた。ところがこの初夏は異常に暑い日々が続き、車内の温度は窓を全開しても50度近くになった。これでは車内で子供も死ぬわけだ。
 私は妻と二人で急遽、新車購入の方向で検討を始めた。どのような自動車に乗りたいかを考え、雑誌などを参考に車種を絞り込んで行く。軽自動車も考えたが送迎などでは4人乗りでは小さすぎ、旅行などでは居住性が問題との判断で却下され、最後まで残った2車種はどちらも小型自動車クラスのワゴン車であった。それとは別に妻が私名義で自動車が当たる懸賞に応募したりして(すべて外れた)、新車購入への盛り上がりが頂点に達した。最終的に残ったのは前述した時刻表の裏表紙に広告が出ていた自動車、しかし仕様や車格は決定しておらず、ここからは自動車屋との話し合いになる。
 6月下旬のある日、私は生まれてはじめて自動車屋に足を運んだ。人の良さそうなお兄さんが私の担当となって対応し、最初は当の自動車の試乗、それに車格ごとの装備や性能などの説明を受け、続けて車体価格や税金など必要な予算の説明を受けた。一週間後にもう一度足を運び、具体的な装備品の選定、車体塗色の選定、ローン支払いの計画などを立て、まさに今乗っている愛車を仮注文、この時点では最終的には夏の賞与を見てから本当に買うかどうか判断すると返事。数日後に賞与が支給され、この額を見て購入を決定。仮注文書を本注文書に変えて、あとは自動車の到着を待つだけとなった。
 7月20日朝、担当者から「本日お車の準備ができましたので、午後にお届けにあがります」と電話。いよいよ納車の日を迎えた。「バラード」の最終運用はちょっと離れたところの自転車置き場で数ヶ月前に盗難された自転車の引き取りのための妻の送迎。そして13時頃、担当者がアパートの部屋のチャイムを鳴らし、新車の到着を告げた。窓の外を見ると緑色の真新しい自動車が止まっている。その場で頭金を支払い、担当者が「バラード」を引き取ったところで、この自動車はめでたく私のものとなった。
 二代目の愛車は「スズキワゴンRワイド」、写真と詳細は自己紹介のページ(http://member.nifty.ne.jp/haijima-yuki/shokai.htm)にあるので機会があれば見ていただきたい。

 この自動車との付き合いが始まると同時に、本格的に自動車を使用した旅をするようになった。
 最初は自動車が我が家に届いたその日のうちに、奥多摩湖へ試運転。続いてお盆休みに始めて泊まりを含んだ自動車の旅を行う。
 初日は圏央道と関越道で高崎へ、さらに国道17号で三国峠を越え越後湯沢を経て六日町へ。ここから海沿いの柏崎まで山をいくつも超えながらほぼ直線に走り、柏崎から糸魚川までは日本海づたいに走る。さらに水害の爪痕が痛々しい姫川沿いに内陸へと進路を変え、松本で車中泊。2日目は松本から聖高原を経て長野へ出て、そこから志賀高原を越えて草津へ、浅間山の裏側を抜けて小諸を通り、最後は小海から群馬県上野村経由で秩父へ抜けて帰着という2日間の旅であった。

 このような旅をするようになった背景には、まず自動車の旅が鉄道の旅に比べて非常に格安なこと。東日本では鉄道で行ける場所はほぼ行き尽くしたこともあるが、妻の郵便趣味によるところも大きい。地方の辺鄙な郵便局を回って売れ残りのエコーはがきや記念切手、風景印を集めて歩くというもので、この趣味を本格的にやろうとしたらある程度のところからは自動車がないとやってられないという訳だ。
 また、鉄道での旅より格安と前述したがこれが一番重要で、この頃になるとせっかく企画した鉄道での旅が予算の都合で流れることが多かった(それでも年末年始の北海道と夏の長崎旅行は「死守」していた)。ところが自動車での旅なら、高速道路を使わない限り運賃は燃料代だけで済み、それも普通にあれこれ見物しながら走っても一日辺り2000円〜3000円程度でしかないのだ。「青春18きっぷ」でも二人となればこれ程格安な旅はできない。しかも宿代がどうしても出ないときは、自動車がそのまま宿になってくれるではないか。
 ただ、燃料代の安さはわが愛車の燃費の良さに理由がありそうで、他の車種だったからここまで格安な旅はできなかっただろう。

 その後も、京阪京津線の併用軌道区間を自動車で走りたいというそれだけの理由で京都まで片道高速、片道一般道で走り、荷物が多くなる正月の妻の実家への帰省は自動車を使うことが多くなった。

 1998年春の連休には大阪まで一般道で走り、大阪を起点に日本海沿いに北陸を北上し、越前海岸や東尋坊を訪れ、白川郷など奥飛騨を走り抜ける旅をした。お盆には東北地方を自動車で回り、1999年春の連休には青森県を中心に鉄道などの交通機関を利用したら決して出来ない旅を実現した。
 それとは別に月に一度、休日を使って関東近辺に日帰りドライブをしており、富士山五合目(一昨年と昨年の10月に登山口を変えながら)や房総半島と東京湾アクアラインの旅(1998年1月)、長野冬季五輪の時には長野まで走って聖火を見に行き(1998年2月)、秋には友人数名を誘って軽井沢へドライブしている。自動車のおかげで行ったことのない丹沢方面もじっくり見て回ることができた。

 自動車の旅で悲惨な経験をしたことがあるので、ここで書いておこう。
 1999年正月、妻の実家への帰省を自動車とした。本当は98年末に帰省して正月にゆっくり東京へ戻るつもりでいたが、妻の実家の都合から正月2日午前中に大阪市内に入らねばならなくなった。帰省時期そのものを正月にしたが、今度は私の実家の正月の宴会が1日深夜まで抜けられそうにない。ということで2日早朝の新幹線か、それとも東名道か中央道を夜通しで走るかの二者択一を迫られることになる。予算の都合で二人で新幹線は無理という結論となり、高速道路を夜通しで走るという選択を取らざるを得なくなった。どちらにしろ荷物が多かったので新幹線にしなくて正解だったと後から思った。
 実家の宴会が終わったのが23時、練馬出発は23時半頃で一度家に帰って再出発が2日午前0時であった。私は愛車をいつも通り中央道へと走らせた。昭島市内で国道16号に出れば中央道八王子インターはすぐである。横浜方面へ向かう国道16号バイパスの手前で中央道経由か東名道経由かの判断を決めねばならない。中央道の道路状況を表示する掲示板にはなにも表示されていない、ラジオの交通情報も「中央道は順調」を繰り返しているので、私は迷うことなく中央道へと進路を向けた。東名道となるとこのまま厚木まで一般道を走らねばならず、その時間のロスを考えると断然中央道の方が有利である。ただ、前の年に同じ時刻に同じ理由でここを通過し、その時は「中央道相模湖インターで渋滞20キロ」が表示されていたので、面倒でも東名道へと自動車を走らせたのを思い出した。
 私は国道16号バイパスを無視して、八王子インターへと愛車をまっすぐ走らせた。インター手前のガソリンスタンドで給油し、高速走行の準備万全と安心してインターの独特のカーブを曲がる。八王子インター下り車線の場合、ランプウェイから本線に合流した直後に本線料金所があり、ここで通行券をもらうことになる。本線に合流した瞬間、頭上の掲示板が嫌な情報を流していた。
「元八王子バス停・渋滞1キロ」
「何を今更」と一瞬思ったが、本線車線に入ってしまったからにはもう手遅れである。ま、渋滞って言っても1キロだから大したことないな、と軽い気持ちで料金所を過ぎた。1時ちょうどだった。
 料金所を過ぎたら私は愛車を快調に飛ばした。が、渋滞している元八王子は時速100キロの高速道路での巡航速度で行けば5分の場所だ。頭上を到達時間表示装置が過ぎる、大月インターまで普段は35分と表示されるはずが黄色い文字で60分となっていた。そろそろだなと思い少しスピードを落とすと、案の定赤いテールランプの行列の最後尾が見えた。私はハザードランプを点滅させながらその最後尾に愛車を停止させた。
 次にその場所から動いたのは、約40分後の午前1時45分である。その間、この自動車の列は微動だにしなかったのである。最初の10分は軽い気持ちでいたが、次の10分で怒りが爆発し、30分経過でスモールライト・テールライトも消灯させてエンジンを切った。ラジオの交通情報では相変わらず「元八王子バス停・渋滞1キロ」を繰り返している。確かに1キロには違いないが、その1キロの車列が微動だにしていないのだ。しびれを切らせて路肩を走行する自動車も出てきたが、すぐに路肩も渋滞し始めて本来2車線の高速道路が3車線のような有様となった。
 午前2時にようやく前から順番に自動車の列が動き出した。流れたと言っても時速60キロ程度で、とても順調とは言えない状況。しかし、ラジオの交通情報は「中央道・順調」を繰り返している。私がラジオの交通情報をこの日を境に信用しなくなったのは言うまでもない。一般道を走るのと変わらない速度で小仏峠を越え、相模湖インターの手前でまた流れが止まった。ここでは5分ほどの停車ですぐに流れ出す。しびれを切らした人々が相模湖インターで高速から出ようとしているので、この料金所の渋滞が本線へあふれ出しているだけだった。しかし相模湖を過ぎてもまだノロノロである。ついには時速40キロ代での走行となった。
 もうすぐ藤野パーキングエリアというところで流れが完全に止まった。また微動だにしない状況が延々と続くのである。近くにはJRの高速路線バスも微動だにせず止まっている。驚いたことに反対車線である上り車線では自動車の往来がパッタリ止まっている。空いているというのではなく、本当に自動車が1台も来ないのだ。もう微動だにしないこの状況には慣れてしまった。私はライト類を全て消灯し、エンジンも切ってシートベルトを外して靴まで脱いでのんびり待つことにした。その場所で30分止まった。
 やっとノロノロ動き出した。時速10キロにも満たない。やっとの思いで通過する藤野パーキングエリアでやっと渋滞の原因が分かった。暴走族が暴れていたのである。道路には自動車の部品や凶器類やゴミが散乱し、本線上で寝ているヤツまでいる。そいつらを間違ってでも踏んづけないようにみんな最徐行しているのである。私も細心の注意を払って暴走族が暴れている場所を通過した。こんな奴らに当たって罪を問われるのは馬鹿馬鹿しい、まじめに走るのが一番だ。辺りは暴走族同士が喧嘩したり、バイクを何かで叩いたり、大声で奇声を上げたりでまさに無法地帯である。警察は何をやってるんだ。神奈川県警はこのような無法地帯を放っておくのかという怒りが沸いてきた。
 藤野パーキングエリアを通過すると今までの渋滞がウソのように流れ始めた。みんな遅れた時間を取り戻そうと必死になって走っているのが分かっている。掲示板が「上野原インター・渋滞2キロ」を告げている。もうどうでもいいやと思い始めた。またテールランプの行列が前方に見えてきた。その最後尾につくとしばらくは20キロくらいでノロノロ流れた、やがて左側車線の流れは完全に止まる。渋滞にしびれを切らせて上野原インターで下りる人々が殺到しているようだ。妻とここで下りるかどうか検討したが、一般道も混雑していたら目も当てられない、このまま中央道と心中しようと話を決めて右側車線をノロノロ走った。上野原インターを過ぎた直後だけ流れが良くなったが、それも束の間で、流れが完全に止まってしまった。ついにこれまでかとライト類のスイッチを全部切り、エンジンを止めようとした瞬間、無数のバイクが下り車線を逆送してきた。逆送してきたバイクは愛車と中央分離帯の僅かな隙間をすり抜ける。ぶつけられはしないかと心配だったが、幸いにもかすりもしなかった。逆送バイクが全て走り出すと、前から順々に流れ出した。反対側は相変わらず自動車が全く来ないと思って上り車線を見ると、ここで暴走族が藤野と同じように大暴れしていた。愛車は上り車線の渋滞を横目に見ながら、順調に速度を上げていった。
 鶴川大橋を渡り、談合坂の難所を時速90キロで上り詰め、トンネル区間を過ぎると大月インターである。ここを通過したのは午前3時15分。普段は40分の道のりに2時間15分かかったことになる。
 ここからは渋滞もなく順調に走り、普段は高速道路で100〜110キロ程度しか出さない私も、多少燃費が悪くなるのを覚悟の上で120〜130キロで飛ばし、午前5時過ぎには名古屋インターに達していた。名神道に入り、午前6時過ぎに多賀サービスエリアに到着、ここで仮眠を取ってから大阪へ向かった。

 自動車の旅はまだ日が浅いので、これといった話は少ないのだが、新作が出来たら徐々に公開しようと思う。今年の春の旅行についての話は現在鋭意執筆中なので、しばらくお待ちいただきたい。

(つづく)


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