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第十三章 夏・長崎から

 1992年夏、私が日本一周旅行を実現させたことは第六章で述べた。実は今回の話はこの旅行から始まる。
 日本一周旅行4日目である1992年8月5日夜、私は長崎県は島原半島にある小浜温泉についた。実はこの晩に私の人生を大きく狂わせる事を自ら宣言してしまったのである。サークル「グッたいみすとさだまさし研究会」(以降「さだ研」と略)の設立である。この出来事が以降の夏の旅行を長崎へと固定化させる事になる。
 この時にこの小浜温泉に立ち寄った理由が、「さだまさしコンサート」を見ることであった。歌手のさだまさしらが中心になって毎年8月6日に無料の平和コンサートをやっている。それを見ようというのがこの時の目的であった。これまでもこのコンサートを見ようと試みたことはあるが、会社の休暇が合わなかったり、予算の都合などで毎年流れ続けた。そして日本一周旅行の折にやっと実現したもので、以降病み付きになって毎年行くことになる。一昨年(1997年)のみは仕事の都合で行くことができなかった。

 翌年からはサークルで「旅行会(ツアー)」として企画して行くようになり、8月5日の夕方に長崎駅に集合して7日昼までサークルの仲間とともに長崎の街で過ごすことになる。1993年は長崎駅前のホテルを本拠地に活動したが、1994年以降は街のはずれにある公共の安い宿を本拠地にする。1993年は僅か5人で始まったこの企画も年を追うごとに人数が増え、現在は他のサークルの仲間も含めて10人前後の大所帯にまで成長した。一番多かった年は15人近い人を集めて長崎の街を練り歩いた。

 当然、前後には移動がつきもので、いろいろな行程で長崎への往復を楽しんでいる。

 1993年の往路は東京発長崎行き最終便の飛行機、この年は山陽本線で土砂崩れの災害が相次ぎ、関西以東と九州を結ぶ夜行列車がまともに走らなかった。往路は当初から飛行機を計画していたので難はなかったのだが、復路は当初から7日夕方発の寝台特急「さくら」号を予定していたのでかなりの不安があったのは否めない。結局は6日の午後に山陽本線が復旧し、7日の「さくら」運転が決定したので無事に東京へ帰ることができたが、8日にはまた土砂崩れがあって山陽本線が不通になってしまった。奇跡的に1日だけ動いた「さくら」号に乗ることができたのである。

 1994年の往路は新幹線を利用。5日早朝に東京駅を出発する臨時「ひかり」を利用した。当時消滅間近と言われていた東京〜博多間通しの0系「ひかり」の全区間乗車、題して「0系6耐」を実行したのである。博多からは「つばめ型車両」を使用した「かもめ」に乗車。しかも普通車の指定が取れなくてやむを得ずグリーン車に乗車した。高度経済成長の象徴から、現在の豊かさを象徴する列車への乗り継ぎという落差を体験して長崎入り。
 復路は、友人2名と彼女(現在の妻)と合わせて4人で7日午後の普通列車で長崎を後にした。鳥栖で快速列車に乗り換えて門司港へ、ここで友人2名の見送りを受けつつ船で下関へ渡る。関門海峡の渡船に乗ったのは始めてで、友人が手を振っているのが見えなくなったと思った瞬間、下関に着いたので驚いた。この日は小郡に宿泊し、8日はのんびりと普通列車で大阪まで走り、最終「のぞみ」で東京へ帰った。

 1995年の往路も新幹線利用。結婚したばかりの妻と二人で「グリーン周遊券」を使用しての旅となった。まずは博多行き「ひかり」で新大阪へ、100系試作車のグリーン車乗車と食堂車で朝食いう貴重な体験をすることになる。二階席の心地よい旅も新大阪で乗り換え、今度は「ウエストひかり」のグリーン車の客となる。昼過ぎに博多に到着し、前年に引き続いて「つばめ型車両」の「かもめ」グリーン車に乗車して長崎に到着。
 復路はサークルのツアーの続きとなった。終戦50年を迎えたこの年、「鉄い平和行脚」と称して8月6日に長崎、8月9日に広島へという企画を考えたのである。8日朝一番の普通列車で長崎を発ち、鳥栖で乗り換えて門司港へ、船で海峡を渡り下関からまた普通列車を乗り継いでこの日のうちに宮島まで来て宿泊。翌日は広島の街を散策というプランであった。
 広島では白島にある国鉄の原爆死没者慰霊碑をまず見学、続いて広島電鉄本社にある広島電鉄原爆死没者追悼碑を見学することになる。広島電鉄本社へ行き、車庫の中にあるこの追悼碑の見学を申し出たところ快く引き受けてくれた。追悼碑に手を合わせると背後の車庫から重々しい旧型電車のモーター音、振り返ってみるとかなり旧式の電車が我々の背後に停車した。案内の係員が「これが被爆した電車だ」と教えてくれた。我々は言葉も少なげにこの電車を眺めた。50年間黙々と広島の街を走り続けたこの原爆の生き証人をただ眺めていた。
 続いて平和公園へ足を向け、「安らかに眠って下さい、過ちは繰り返しませぬから」と書かれた慰霊碑の前で、長崎に原爆が落とされて丁度50年の瞬間を迎えた。我々は西の空へ向けて黙祷を捧げた。
 公園の泉の脇を歩いていると、いろいろな人の名前が書かれたコップに水を入れて並べてあった。恐らく、水を求めて死んでいった被爆者に対する慰霊だろうと思ってみていると、こぼれて中の水が空になっているコップをいくつか見つけた。我々はそのコップに泉の水を入れ、元の場所に戻して静かに手を合わせた。
 その後はたっぷり時間をかけて原爆資料館を見学。本当に長い時間をかけてひとつひとつ丁寧に資料を見学した。時計はいつしか14時を回っていた。
 昼食の後広島駅前で解散。私と妻は「のぞみ」で東京へ帰った。

 1996年、今度は前年の逆で広島の平和公園をスタートして長崎へ向かう旅程をサークルのツアーとして企画した。私は昼前の新幹線「のぞみ」で広島へ向かい、15時に広島駅コンコースで仲間達と合流した。まず平和公園を歩き、そのまま宮島の宿へと移動し、最初の晩はカラオケパーティで深夜まで盛り上がった。
 翌日4日は朝一番の連絡船で宮島へ渡り、早朝の宮島参り。その後普通列車で西を目指した。岩国から岩徳線に入り、厚狭から一度美祢線に入る。当時廃止直前であった大嶺支線に乗ろうというわけだ。大嶺支線で久々に冷房のない列車を体験し、この日の宿泊地となる宇部へ、宇部で泊まったユースホステルは他に客がなく、貸し切り状態だったので深夜までどんちゃん騒ぎとなった。
 5日は宇部を適当な時間に出発。クモハ123-4という有り難い番号の電車で下関へ。またまた関門海峡を船で渡り、長崎本線直通の快速列車で肥前山口へ向かった。そしてこの夏が最後になりそうな寝台特急改造の715系普通列車でセンヌキパーティの末長崎入りという酔狂な行程となった。
 復路は行程に余裕がなかったので、長崎空港から新鋭ボーイング777型機で一気に東京を目指した。いくつもの積乱雲を飛び越して着いた東京は、出発時の猛暑が信じられないほど涼しかった。

 昨年の旅の詳細は、「増結2号車お土産話」のバックナンバーとしていつでも見られるように保管しているので、そちらをご参照願いたい。前述の通り、1997年のみは仕事の都合でいけなくなり、東京で留守番となった。

 さて、この長崎への旅、当然今年も行く予定である。8月4日に実家で宿泊し、5日朝一番の「のぞみ」で博多へ向かい、ここから「青春18きっぷ」で適当に普通列車乗り継ぎで長崎へ向かう往路。そして7日午後に「かもめ」で博多へ向かい、博多で適当に時間を潰してから「ムーンライト九州」で大阪へ、半日時間を潰した後東海道最後の0系定期列車である「こだま」414号で東京へ帰るというプランである。この旅行については時間があれば「土産話」で詳細をお話ししようと考えている。

 長崎への旅、毎年仲間達との苦楽をともにする旅である。普段一人旅(最近は妻と二人旅)の多い私にとって、どんちゃん騒ぎの旅は別の意味で新鮮である。この旅行は今後もずっと続けていきたい。本来の目的であるコンサートがなくなっても行き続けるだろう。

(つづく)


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