第十四章 出張旅行・仕事の旅
旅の目的は趣味や個人の楽しみといったプライベートのみではない。仕事の都合や家庭的な都合(妻の実家が大阪なので法事などで旅行することも増えた)で旅に出ることもある。そしてその旅行の往復や、仕事で行った場合に現地休暇があれば、ちゃっかり個人的な旅も楽しんだりしている。
今回は仕事上で出た旅行である「出張旅行」に触れてみたいと思う。
1992年、現在勤めている会社に転職した。最初の2年間は都内に外勤仕事が数件あっただけで遠方へ仕事で行くことはなかったが、1994年以降仕事で北は新潟から南は宮崎まで本当にいろいろな処に行くことができた。
最初の旅行を伴う出張は1994年12月、大阪での仕事が入ったのが最初である。この時は日程が火曜日夕方に「のぞみ」で東京を出発、その日は宿泊のみで水曜日から木曜日にかけて徹夜で仕事。木曜日の昼前に仕事が解散となり東京へ帰るという会社からの指示であった。日程を聞いてすぐに思いついたのは金曜日に休暇を取ればそのまま土曜日・日曜日まで大阪にいることができる、ということでこの時は週末まで大阪に居座ったのである。
仕事が終わった木曜日は開港したばかりの関西空港を見学するために、JR西日本の「はるか」と南海電鉄の「ラピート」に試乗。夕方にホテルに入ってそのまま眠り込み、金曜日は現地の友人をひとり呼びだして二人で大阪の街を遊び歩き、土曜日は当時まだ婚約中であった妻の実家にはじめて挨拶、日曜日は「グッたいむさだ研」大阪での集会という日程をこなして日曜日夜の「のぞみ」で東京へ帰った。
翌1995年秋から群馬県は高崎への出張が頻繁に入るようになる。この仕事は後半が夜勤となり、明けの昼間に上信電鉄で下仁田へ遊びに行き、一緒に仕事に行った同僚に「お前いつ寝てるんだ?」と不思議がられたことがある。往復でも電化前の八高線の旅を楽しんだり、2階建新幹線「MAX」に乗ってみたりといろいろと楽しんだ。この高崎での仕事は翌年9月まで数ヶ月おきに入ったので、その都度色々な行程を考えながら往復した。上越新幹線はもちろん、快速「アーバン」、八高線、高崎線普通、時には同僚の好意により自動車で関越道を飛ばしたこともあった。
一番長く遠かった出張旅行は1995年11月に行った宮崎県日向市への2週間に及ぶ出張である。往路は会社の指示では飛行機利用であったが、早朝に我が家から羽田へ行き最初に乗れる宮崎行きの飛行機では集合時刻に間に合わないことが判明、羽田空港近辺に宿を取るとすれば宿泊費を自費で出さねばならなくなったので、寝台特急「富士」の出番となった。「富士」に乗ってみて宮崎県の遠さを実感する。しかも下関を出発すると「使用している布団類の回収」と称して全員が係員にたたき起こされるのでもう暇でたまらない。列車に乗っていてあれほどまでに「暇だ」と思ったことはこの先にも後にもない。なんとか昼過ぎの現場集合に間に合い、長い仕事が始まる。宿泊した施設は近所の「漁業民宿」、まさか仕事で新鮮な海の幸を毎日食べられるなんて思いもしなかった。
日程の中程に一日、現地休暇が発生した。民宿でゴロゴロしているのも嫌だったし、ここだけの話、会社から支給される日当が余ってしょうがなかったので、日向市を起点に日帰り旅行とした。同僚の運転するレンタカーで都農まで走り、ここから「モーニングライナー」で高鍋へ、高鍋からは日南線直通の普通列車に乗って志布志へ向かう。もう11月だと言うのに日差しが眩しく、窓際の座席ではブラインドを開け放しておくと暑くてたまらない。南国の海が眩しく光るが、外に出ると少し肌寒くて南国の遅い秋を感じざるを得なかった。志布志からは都城までバスに乗る。運転士も乗客も暇だったようで車内にはラジオ番組が流れていた。都城からは列車で宮崎へ戻ろうかと思ったが、同じバスターミナルに宮崎駅行きの高速バスが空っぽで止まっていたのでなぜかそれに飛び乗った。バスは都城の街を抜けると宮崎自動車道を豪快に飛ばした。宮崎空港で車内が満員になるとしばらくで南宮崎駅前の宮崎交通のバスターミナルに到着。日向へバスで戻ろうと思ったら出ていったばかりで1時間以上待たされることが分かったので駅前のパチンコ屋(これくらいしか時間がつぶせる私設がなかった)で時間を潰す。僅か1000円で1時間遊べたのだから勝ったと言えば勝ったのだろう。ここからバスで民宿の近くのバス停に降りたときにはすっかり夜になっていた。民宿へ帰ると会社の仲間たちがこれから浜に出てバーベキューパーティをやるという。すっかり夜も更けた日向灘の海岸で、夜遅くまでバカ騒ぎして一日が終わった。
この仕事の復路は、仕事が終わったのが木曜日の午後で翌日の金曜日は休日出勤の振り替えで休みとなった。2週間分の荷物を背負って日向市の駅に立った私は、本来ならば空路東京を目指すために宮崎駅方面へ向かうはずだが、なぜか博多方面の「にちりん」グリーン車の切符を買った。指定券を見ると「シーガイアにちりん」となっている。そう787系「つばめ」型車両に偶然ぶち当たってしまったのだ。787系のグリーン車のシートに深く腰をかけ、優雅な旅を楽しむ。日当がかなり余っている上、宿泊費も会社から支給の宿泊手当の額を下回り、その宿泊費に3食込まれているのだからお金も余るわけだ。と言うよりはそのくらいの美味しい思いがなければこんな仕事をこなせられない。列車は宗太郎の峠を越えて大分に到着。ここで一泊しようとしたが、フィリピンの大統領がこの日大分入りしたとかで宿が何処も開いていない。観光案内で聞いたら日本全国から警察官が警備で集まっているという。仕方がないので駅裏の安い旅館が建ち並んでいるあたりを何件か当たったら、ひとつだけ部屋が空いている宿があった。
翌朝は朝一番の「ソニックにちりん」に乗車。これもグリーン車である。列車は夜明けの日豊本線を走り抜け、朝ラッシュで混雑する小倉を過ぎた。振り子で右へ左へ傾く景色を眺めながら博多駅に到着。やっと朝ご飯である。最後は新幹線「のぞみ」の全区間乗り通しを敢行。昼過ぎに東京駅に到着してこの仕事の旅はやっと終わりを告げた。
1996年9月、新潟へ出張が入った。この時は週末を挟んで仕事が前半と後半に別れたため、新潟へ2往復することとなった。最初は往復とも上越新幹線利用となり、前半戦の往路は東京〜長岡間ノンストップで当時は日本最速列車だった「スーパーあさひ」、復路は上りの「スーパーあさひ」に乗り遅れたので今は亡き「とき」で上越新幹線全駅停車の旅を楽しんだ。
後半戦は往路が日曜日夜までに新潟の宿に着けばよいということで、昼前に上野駅を出る「あさま」で長野へ向かった。まさかこの時が一般の旅客列車で碓氷峠を越えるのが最後になろうとは思いもしなかった。上野〜軽井沢間は小さい頃から家族旅行で何度も乗り、通い慣れた道である。その鉄路をかみしめるように走った。横川で昼食に釜飯を買い、碓氷峠を超えて雄大な浅間山の絶景を眺めながら高原から盆地へと落ち、千曲川沿いに走れば長野である。オリンピックを1年半後に控えて盛り上がっている街を少しだけ歩き、急行「赤倉」で新潟を目指した。帰りは今度こそ「スーパーあさひ」で東京へかっ飛ばした。
1996年秋以降、何度も山梨県方面へ行っているが、これでは一度山中湖へ遊びに行った以外は旅を楽しむと行いったことがほとんどなかったので割愛する。
1998年春から定期的に福岡へ行く仕事が入った。最初は3月中旬にこの仕事が入ったのだが、そこへ新潟・長野県境の姫川温泉付近での仕事が重なった。「福岡で15時まで仕事をしてから、その日のうちに姫川温泉へ移動」…最初に部長からこの指示が来たときさすがに「無理だ」と思ったが、そんな私を知ってか知らずか部長が続ける。
「この16時30分に福岡空港をでる小松行きの飛行機に乗れば、18時30分に小松駅を出る特急に乗れるから、これに乗って糸魚川で降りれば最終の大糸線普通列車で平岩駅に行けるんだ。頼むよ。」
部長が手を合わせて私はに言う。私は「ええーっ」という顔をしながらも心の中では「楽しそう」と思っていたわけで、最終的には引き受けたのは言うまでもない。
3月のある月曜日、16時で仕事を終わらせた私は福岡への移動のため「のぞみ」に乗り込んだ。この時が500系の時速300キロ運転を体験した最初である。姫路を通過して以降は「早っえー」とつぶやきながらただ外をぼーっと見ていた。翌日は福岡市内で仕事が15時30分頃まで(しかも昼休み無し)長引き、かなり慌てて福岡空港へ向かった。飛行機のチェックイン(荷物は機内持ち込みにした)をすますとすぐに搭乗開始となり昼食どころか茶の一杯も飲む間もなく私はエアーニッポンのA-320の客となった。A-320は静かながらも力強いエンジンの噴射で私を数分で空中へと持ち上げ、春の澱んだ空を北へと向かった。やがて機体は徐々に高度を落とし、小松空港に無事着陸。私は飛行機から降りると時間がないので空港内を走ってタクシー乗り場へ、タクシーに飛び乗って小松駅を目指す。おかげで小松空港がどうなっているのか全く分からなかった。小松駅に着くと列車まであと10分で改札が始まろうとしていた。この僅かな時間に会社所有の自動車で同じ姫川温泉を目指している部長の携帯電話に電話を入れ、予定通り福岡での仕事が終わって、無事に小松まで飛行機で来れたことを伝えた。そして慌てて新潟行き最終「雷鳥」に乗り込んで指定された座席に倒れ込むように座る。ほどなく金沢に到着して混雑していた車内がガラガラに、同時に富山の「ますのすし」売りのオッサンが乗り込んできたので「ますのすし」を夕食に一つ買い込む。食べていると富山を過ぎ、親不知子不知の難所をくぐり抜けて列車は糸魚川に到着。「いっそ殺せ」と思いつつ大糸線ホームへ向かうと旧式の気動車がぽつんと1両だけ止まっていた。くたびれたボックスシートにどっかりと腰を下ろして外を見る。雪が降っているのに気付きしばし呆然。つい先程まで九州にいたのが信じられなくなってきた。そう思うと頼りなくドアが閉まり、もどかしいほどの加速力の鈍さで発車した。そう言えば旧式の気動車にひとりで慌てて乗り込んだのがすごく懐かしい、この気動車の雰囲気もすごく懐かしかった。そう、10年前の高校生時代の旅でよくあったシーンだったと思い出す。そう思っていると列車は力強いエンジン音をうならせて暗黒の山峡へと走り、姫川温泉下車駅である平岩駅に到着。降りるとかなりの雪が降っている。この雪の中どうやって旅館へ行こうと悩んでいると私の会社名と名前を呼ぶ人がいる、答えてみると部長に言われて宿泊先の旅館が送迎に来たと言う。ウチの部長もたまにはいいことやるなぁと思いつつ旅館の名が入った軽自動車に乗り込むと数分で旅館に到着した。玄関で部長と同僚に拍手で迎えられた。
水曜日・木曜日でこの姫川温泉での仕事をこなし、その上余った時間で親不知を観光してから金曜日に一日かけて会社所有の自動車で東京へ帰った。
この福岡での仕事は2〜3月に一度の割合で入ってきた。4月は仕事が月曜日だったので前日の日曜日の昼前の「のぞみ」に乗って博多へ、夕方から博多南線や西鉄電車で遊んだ。帰りは翌日の仕事の都合で普通に飛行機で帰ってきた。5月の末に行った分については「整理箱」に「福岡出張?紀行文」として保管してあるのでそちらを参照されたい。7月末には同じ仕事で小倉へ、往路は300系「のぞみ」で、復路は寝台特急「さくら」で帰った。10月の分も「整理箱」に「スカイマークエアラインズ搭乗報告記」として保存してあるのでそちらを参照されたい。12月は往路500系「のぞみ」の普通車が満席でやむなくグリーン車の旅を楽しみ、復路はスカイマークのシグナスクラスに乗って帰ってきた。この仕事を通じて今まで殆ど行くことのなかった福岡の街が好きになり、その福岡へ色々な方法で往復することができた。
1999年7月、小倉・博多・長崎へ出張したのが一番最近の出張旅行である。この時には現地で一日現地休暇があったので、小倉を起点に「青春18きっぷ」で日帰り旅行を行った。日田彦山線で日田へ走り、そこから最新型の「ゆふいんの森」で由布院へ出て由布院の街を散策し、久大本線の普通列車で大分へ抜けて、大分の商店街を探検してから普通列車を乗り継いで小倉へ帰った。「ゆふいんの森」の車内では隣席に同年齢の女性が座っていて気安く声をかけてきたので、由布院到着までの1時間いろいろと話をしたりしていた。
この出張では往路に700系「のぞみ」を、復路は奇跡的に席がひとつだけ空いていたスカイマークを利用した。
以上のように、仕事先で旅行を楽しんだり、往復に趣味的な行程を組んだりでいろいろと楽しませて頂いている。逆にこれくらいの楽しみがなけりゃ仕事で遠方に行ってられないというのが本音である。
今後どのような仕事でどのような土地に行くかは分からない。その時も仕事の合間や往復で旅を楽しんでいるだろう。