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第一章 旅の始まりは国鉄との別れ

青春18きっぷとの出逢い
さらば国鉄
旅の楽しさ

青春18きっぷとの出逢い

 1987年1月、当時の私は都内の私立高校の鉄道科の高校1年生だった。年末年始の郵便局でのアルバイトを終え、生まれてはじめての給料を手にしたところだった。そこへクラスメイトの一人が私にこう持ちかけた。
「青春18きっぷが余ってるんだけど、一枚どう?」
 青春18きっぷ…その存在は中学生の頃に知った。普通列車なら国鉄の普通列車に乗り放題で一枚あたり2000円程度、5枚綴りで10000円ちょっとで売られているというものであった。私はその言葉に乗ってこの切符を一度使ってみようかと思った。それがすべてのはじまりである。
 日帰りで行けて興味のある路線…真っ先に思いついたのは飯田線だった。小学生時代の友人の一人に両親の実家が駒ヶ根だという人がいて、夏休みや冬休みに急行「こまがね」などを利用して帰省したという話をさんざん聞かされて以来興味を持っていた。そこで時刻表を開いて中央夜行を利用して辰野から飯田線を南下するプランを立て、それをすぐさま実行した。
 1月17日の夕刻に練馬区上石神井の自宅を出発し、18時半頃に新宿駅「アルプスの広場」についた。そして日付が変わって18日の午前0時01分に私を乗せた中央夜行は上諏訪を目指して動き始めた。
 何もかもが新鮮だった。夜行列車の独特の雰囲気、夜明けの駅と朝日に照らされた列車たち、駅ごとに入れ替わる乗客たちとその口からでてくる地域独特の言葉…学校関係や家族旅行以外で初めて旅に出た私の目の前にはじめて見る風景が広がり、はじめて聞く声や音が耳に入ってきた。
 この日の20時半頃に東海道本線の普通列車で東京駅に戻ってきた私は、この日一日の事を反芻しながら、この新鮮な気持ちを何度も味わいたい、そのためにこの切符を使ってもっと旅に出たいと思ったのだ。

さらば国鉄

 3月になると春の青春18きっぷのシーズンが訪れた。この春は日本の鉄道を支えてきた国鉄の最期の時でもあった。
 国鉄との別れを惜しむため、バイト代で青春18きっぷを購入し、試験休みや春休みを利用して日帰り旅行をシリーズものとして行うことにした。
 3月8日には上野を早朝に出る東北本線の普通列車に乗って雪の只見線へと出かけた。11日には中央夜行に乗って雪の大糸線と飯山線へ、21日には磐越西線へ、27日には我が家から一番近い国鉄路線である中央本線の乗りつぶしに…という具合で日帰りで行ける路線へ手当たり次第に出かけたのである。
 また、国鉄が最後に出した記念乗車券である「謝恩フリーきっぷ」の企画が発表されると、最終日にはそれを利用した旅行を企画した。この切符は6000円で国鉄全線の新幹線も含んだ全列車の自由席が乗り放題という夢のような切符であった。入手困難にも関わらず発売前日から同級生のI氏と北千住駅旅行センターに徹夜で並び、この夢のような乗車券を手にした。
 私の国鉄最後の旅は往路は青春18きっぷ、帰路は謝恩フリーきっぷでのはじめての北海道旅行となるはずだった。しかし乗る予定でいた羽幌線が乗車予定日の前日に廃止になってしまうことを知り、使用する乗車券の特性から日程を変更することも出来ずに計画倒れになってしまった。そこでこの謝恩フリーきっぷもこれまでと同じような日帰り旅行に使うことになった。
 3月31日、私の国鉄最後の旅は、同級生のA氏とともに朝一番の「ひかり」で名古屋へ行き、急行「のりくら」で高山線を完乗し、特急「白鳥」で長岡へ出てそこから普通列車を乗り継いで上野へ戻るという行程だった。国鉄で最後に乗った列車は山手線の103系、こうして私の国鉄での旅は幕を閉じた。
 この旅行群でいろいろな風景を見た。私は旅で出会う新鮮な気分を求めてここからさらに深みにはまっていったのだと思う。
 旅行が思うとおりに行かないという事態もはじめて遭遇した。3月28日の中央本線乗りつぶしの旅の時である。

 中津川から117系快速列車で名古屋に到着した私は、快速と普通列車を乗り継いで東京へ戻る予定だった。名古屋から浜松行きの快速列車に乗るはずだったのだが発車予定時刻が過ぎても列車が来ない。おかしいなと思ったら構内アナウンスが「岐阜駅付近で信号故障のため列車が大幅に遅れている」と告げた。最初は軽い気持ちでいたが20分・30分と時が経つと「今日中に家に戻れるだろうか」という不安に襲われた。この日は23時からどうしても聞きたいラジオ番組もある。
 結局発車予定時刻を40分ほど過ぎたときにステンレス地に青と白のストライプを入れた211系が入線してきた。車内は折からの列車遅延のため大混雑で、名古屋駅における乗降は混乱を極めたが45分遅れで列車は無事発車した。ここから時刻表とにらめっこ、この調子で行けば23時ぎりぎりに家に着けるだろう…。
 やがて列車が浜松駅に入線する、向かいのホームに23時帰宅のボーダーラインの列車がとまっている。時計を見るとちょうどその列車の発車時刻…間に合った!と胸をなで下ろすとこちらの扉が開く前に向かいの列車の扉が閉まってしまった。「おいっ!待て!」と思わず怒鳴ってしまったが、その声も空しく私が浜松駅のホームに降りたときにはその列車の後ろ姿がホームから抜けようとしていた。
 さてどうしよう。と時刻表を見る、このまま普通列車を乗り継げば23時帰宅が不可能なのはもちろん、帰宅が深夜になり親を心配させる危険性がある。しゃーない、新幹線を使おうと決心する。「こだま」で静岡までさっきの普通を追いかけよう。時刻表を見ると「こだま」444号に乗れば当初乗る予定だった列車にも追いつけることが判明。財布の中から予備予算の3000円を出し、新幹線コンコースへ、私は0系の客となった。「こだま」は牧ノ原台地を走り抜け、先ほど私を置き去りにした普通列車を掛川付近で追い抜いた。
 この話には尾ひれがついており、静岡から予定通りの行程に戻ったが、熱海から臨時快速が先行することを知り、それに乗ったら東京駅に当初の予定より30分以上早く着いてしまった。昼間の列車遅延が嘘のようだった。

旅の楽しさ

 このように私はこの国鉄最後の旅行群でいろいろな意味で旅の楽しさを知った。そして1987年高校2年の夏、私ははじめて一週間に及ぶ北海道一人旅を計画し、実行に移したのだった。その旅行には忘れられない思い出がある。
 使用する乗車券は青春18きっぷ。8月24日早朝に上野駅を出発、常磐線経由で青森まで普通列車を乗り継ぎ、青函連絡船1便で夜を明かして早朝の函館駅へ、特急「北斗」1号のグリーン車で長万部までワープし、山線経由で函館本線を砂川まで行き、上砂川支線に乗ってから旭川へ。宗谷本線・名寄本線経由で遠軽へでで駅ネ。今度は北見に出てから池北線で池田に行き根室本線で滝川へ、さらに岩見沢から室蘭本線へ入ってその日は長万部で駅ネ。とここまでの行程はこのような計画だった。そして帰りの岩見沢までは予定通り事が運んだのである。
 異変は岩見沢駅で知った。道央各地で集中豪雨があり一部で列車の運転を見合わせているという張り紙がしてあった。そしてこれから乗ろうとしている室蘭本線も決して例外ではなかった。
 ところが苫小牧行きの列車は予定通り運転するという。忘れもしない530D、車両はキハ22-257であった。この列車は岩見沢を出るとすぐに「大雨のため徐行運転」と言って大幅にスピードダウンした。駅に着く度に少しずつ遅れが拡がり、小雨の追分駅に30分以上遅れて到着した。ここで車内の座席をほぼ半分埋め尽くしていた乗客は私を除いて全員下車し、夕張方面へ行く気動車へと消えていった。入れ替わりに40代半ばくらいの女性が一人乗り込んできて、私と反対側の窓際の席に座った。と思うと運転士が大きなノビをしながら客室に入ってきて、たった二人の乗客のすぐ近くに座った。私はこれを見た瞬間「これは長期戦になる」ことを覚悟した。案の定、運転士はすぐに我々の方を向いて
「先行の貨物列車が立ち往生しているからこの列車もいつ動くか分かりませんよ」
と告げた。すぐに車掌も客室にきて同じ事を我々に告げた。私はこの先どうなるのかという不安でもあり、楽しみでもある複雑な気持ちになった。
 もう一人の女性客はこの話を聞いて「追分の知人のところに泊めてもらいます」といって下車していった。聞くと仕事帰りだったとか。車内は私と運転士と車掌の3人となり、いろいろと話をして時間を待つことにした。会話の中で車掌が
「ところでお客さん、大幅にダイヤが乱れてるけど、行程とかお金とか大丈夫ですか?」
と気に掛けてくれた。私は予備の日程と青春18きっぷを用意してあるから大丈夫である旨を言ったが、車掌は「列車遅らせて申し訳なく思っているから…」と言って私を駅事務室まで連れて行き、そこで電話で旅客司令室と打ち合わせて青春18きっぷ2日間有効という特別の処置をとってもらった。さらに駅員が
「ここの電話を使って親御さんに無事だと知らせてあげなさい」
と私に電話機を差し出した。このときの乗務員と駅員、そしてその指示と許可を出したJR北海道の旅客指令の担当者の気遣いは今も心に残っている。
 そのような手続きが済んで列車に戻り、また運転士・車掌との3人の会話が進むこと十数分、駅員の一人が列車に乗り込んでこう告げた。
「530D列車運転打ち切りの指令が入りました。車両と乗務員は岩見沢へ戻るようにとの指示です。」
 ついに来たか…私は正直そう思った。私が聞くより先に車掌が聞いた。
「…お客さん、どうするの?」
「苫小牧行きの最終列車がかなり遅れますが今こちらに向かっていますので、それに乗ってください」
 駅員は直接私に言った。確かに予定通りならばその列車はもうここに着くはずだが、その姿は何処にも見えない。これは待つしかなさそうだ。私は運転士と車掌に深々と礼を言い、列車を後にして駅待合室へ向かった。改札では駅員が申し訳なさそうな顔して私を出迎え「ごめんなさいね」と一言言った。
 しばらくして我々を今まで乗せていた列車は、軽いエンジン音を残して岩見沢方面の闇の中へ消えていった。発車間際、車掌が私に向けて手を上げたので私は手をそれに振って応えた。
 それから数十分間、駅は静寂に包まれた。その静寂を突き破るように彼方から踏切の音が聞こえた。すぐにそれはディーゼルエンジンの音にかき消され、列車の接近を告げる警報音が何処からともなく聞こえてくる。私は苫小牧行き最終かと思ったが、地の底から響くような強力な走行音は普通列車のそれとは違う。入ってきたのは札幌行き特急「おおぞら」だった。列車は駅に停車し、2人の女性客を下ろし、発車して再び闇の中へと消えていった。大学生くらいであろうか、大きな荷物に重装備の2人はどう見ても地元の人とは思えない。一人は待合室の座席に座るとすぐ「疲れたわー」と言って眠り込んでしまったが、一人は退屈だったのか私に声を掛けてきた。彼女たちは大阪から周遊券で北海道を旅して回っているという。今回の大雨のことや旅の話とかしていると駅員が改札口に現れ、帯広行き最終の特急「おおぞら」と苫小牧行き最終列車の改札開始を宣言した。改札口を入ったところで女性2人と別れ、私は跨線橋を渡り苫小牧行きを待った。彼方にヘッドライトの灯りが見えてから入線するまでの長いこと。その間に「おおぞら」が入ってきた。乗り換える人が実際にいるかどうかは別にして、こちらの列車を待っているようだ。やっと2両編成の列車が目の前に停車して乗り込んでびっくり、誰も乗っていない。エンジンの音と室内灯の灯りだけが車内を包んでいた。乗り込むと急かされるようにこっちの列車も、「おおぞら」もそれぞれ逆方向に動き始めた。
 車内は列車の走行音だけが響き、室内灯の灯りにはどことなくうら寂しさを感じた。そんな空間が苫小牧に到着するまで小1時間続いたのである。苫小牧に到着したのは午前1時過ぎ。跨線橋を上り、橋上の改札口を出るとそこには延々と続く旅人たちの寝袋の列。みんなここまで来て列車の運転打ち切りになった人たちだとか。私もその列の一人となり、すぐに眠り込んでしまった。
 目覚めると多くの人たちが寝袋を畳んでいる光景が目に入った。朝6時、ここでまだ運転を見合わせている室蘭本線の復旧を待つ。しばらく待つと「北斗」2号が函館へ向けて予定通り運転するという情報が入った。私は乗車券と特急券を急いで購入した。前日の根室本線で相席になった人がなぜか私にオレンジカードをくれた。そのおかげで長万部まで特急に乗る予算が出来たのである。
 結局「北斗」2号は40分程度の遅れを出しながらも無事に当初の予定より半日遅れて長万部に着いた。ここから普通列車を乗り継いで函館まで行き、日本海周りで無事上野へたどり着くことができた。

 こんな旅をこなして徐々に経験を積み、旅の楽しさやプランの立て方を覚えていった。他にも最初の1年間では東海道本線を乗り過ごして大垣駅から岐阜駅まで夜通しで歩いたことや(1987年9月)、大雪で信越本線の普通列車が立ち往生してしまった(1988年1月)という事件に遭遇しているが、その詳細は長くなるので割愛させていただきたい。
 信越本線の大雪の時、列車が遅れて申し訳ないと私に深々と頭を下げた車掌に私はこう言った。
「いやぁ、たまにはこういうことがあった方がスリルがあって面白いし、いい土産話もできましたよ」
 この鉄道を生活の足として利用している人に対しては失礼な発言であり、私も目的の飯山線に乗れなかった以外実害がなかったからいえた台詞なのだが、旅をすることによって精神的な余裕が出来たのではないだろうか、それを作るために旅に出るようになり、その余裕が楽しいのではないかと考え始めた。
 このようなきっかけをくれた青春18きっぷと、それを生み出した今はなき日本国有鉄道に本当に感謝している。

(つづく)


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