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第二章 青函連絡船との出逢いと別れ

黄昏の出逢い
さよなら青函連絡船
アンコール、そして最後の別れ

プロローグ

 1996年4月のある祝日。
 私は「船の科学館」を訪れた。折からの大型連休とあって造成されたばかりの臨海副都心は多くの家族連れで賑わっていた。その賑わいの一角に「羊蹄丸」という船が静態保存されている。この船こそが私の高校時代の旅の思い出を彩る象徴といっても過言ではない。
 私にとって忘れられない北の海峡での思い出のすべての始まりとなったのがこの船である。この船をきっかけに「船」という乗り物に興味を持ち、「海」という自然を興味を持った。そして、この船をきっかけに私は「単なる鉄道好き」から、乗り物全般に興味を持つように変わった。
 そう、この船はかつてのJR北海道青函連絡船の「羊蹄丸」、国鉄時代の昭和39年から始まった青函連絡船近代化によって造船された「津軽丸」型客裁車両渡船の第6船。昭和40年に就航し、国鉄分割民営と同時にJR北海道に引き継がれて昭和63年まで23年に渡って津軽海峡を結び続けた船であった。引退の後、万国博出展のために一度イタリアへ渡ったが、東京都臨海副都心整備完成と同時にこの場所で保存・展示されている。
 私は家族連れで賑わうこの船の甲板で、その日から9年前になるこの船の思い出を振り返った。
 話は1987年6月までさかのぼる。

黄昏の出逢い

 1987年6月10日、東北本線。
 私を乗せた583系「はつかり」は青森へ向け快走していた。私は学校の修学旅行で北海道へ向かっている途中で、東北新幹線「やまびこ」と特急「はつかり」を乗り継いで青森駅へ、そこから青函連絡船で函館へというのが初日の行程である。私はクラスの仲間とトランプをしながら青森までの時間をつぶしていた。
 列車は野辺地を過ぎ、夏泊半島を横断して陸奥湾の海岸へ出た。浅虫温泉を過ぎ、トンネルを1本抜けると目の前に陸奥湾が広がる。そこで誰かが窓の外の海を見て叫んだ。
「あ、連絡船だ」
 そこ声に私も窓の外を見た。沖合を白い船が滑るように走っている。それを確認するとすぐトンネルに入ってしまった。
 数十分後、列車は無事に青森駅に到着した。
 我々は添乗員の誘導で長い通路を「桟橋待合室」へ向かっていた。待合室に着くと1時間ほどの自由時間が担任の先生に告げられ、我々は自由の身になった。何をしようかと級友たちに相談を持ちかけたところへ、外から大きな汽笛の音が聞こえてきた。その音に振り向くと今まさにクリームと赤のツートンに塗られた船が接岸しようと回転しているところだった。先ほど「はつかり」の車内から沖合を行く姿を見たが、それとは比較にならない大きさだった。
 生まれてはじめて見た青函連絡船、写真やテレビ映像で見て想像したより遥かに大きい船であった。その船の舳先に「羊蹄丸」と船名表記がある、1時間後には我々を北の大地へ運ぶ船である。私は彼女の美しさと大きさに、ただ感動していた。
 17時05分、我々を乗せた「羊蹄丸」は銅鑼の音と長い汽笛の音を残して青森を出航した。
 程なく津軽海峡は夕暮れを迎えた。海は黄金色に染まり、空は濃淡豊かな橙色に染め上げられた。左手に見える津軽半島はその間で黒い影となり、我々を乗せた「羊蹄丸」も空と海の色を受けて黄色く輝き始めた。そして東から空が深い青に染め変えられて、夕日が津軽半島に沈むと今度は津軽半島も、下北半島も、海も、空も、「羊蹄丸」の船体も圧倒的な青に染まり、徐々に闇に沈んで行く。誰が作ったわけでもない、この海峡の神秘的な景色を黙って見る以外のことは出来なかった。
 やがて闇の中から函館の街が近付いてきた。海面すれすれに浮かぶこの街の灯りを海から見たとき、最初は巨大な船が浮かんでいるように見えた。船はその灯りへ吸い込まれるように右にカーブする。こんな風景に見とれているとあっと言う間に4時間の船旅は終わり、船は函館桟橋に接岸した。
 これが私と青函連絡船との出逢いと、はじめての旅である。このようにこんな感動だらけの旅をしたことは後にも先にもない。
 修学旅行の帰路は4便「大雪丸」であった。クリームと緑に塗り分けられた船体は錆だらけで長年の使用による疲れを隠しきれない様子だった。曇天の海峡には海豚の姿があり、彼らと併走する「大雪丸」と姿は、まるで海豚と遊んでいるようにも見えて楽しかった。

 最初の連絡船の旅で完全にハマッてしまった私は、夏の北海道旅行の予備日の使い道を「青函連絡船一日乗り回し」とした。海峡を出来る限り往復して青函連絡船の思い出を無理に作ろうとしていた。
 この北海道の往路は1便「摩周丸」、大宮から来たという同い年の鉄ちゃんと待合室で知り合い、彼と二人で飽きることなく深夜の海峡の景色を眺めていた。海峡にさしかかる頃から前方に光の帯が見えた。何だろうと見てみると漁船の漁り火である。やがて船はこの漁り火漁船の集団の中に飛び込んだ。海一面に宝石をまき散らしたように一面に漁り火が拡がる。そしてその中に続く暗黒の海域を「摩周丸」が進むのである。函館近辺では函館の街灯りと漁り火の区別がつかぬ程であった。
 帰りは海峡を2.5往復する予定だったが、第一章に書いた道内での列車遅延の影響で1往復は諦めざるを得なかった。24便「八甲田丸」、101便「石狩丸」、4便「大雪丸」の順で海峡を往復した。
 「八甲田丸」では船内で人とぶつかった拍子にカメラが壊れてしまった。最初はショックで船内の食堂「グリル八甲田丸」でカレーライスをヤケ食いしていたが、ドライバー1本で直ることが判明し、船内案内所で事情を話して小さなドライバーを借りれないか交渉してみた。そしたら窓口の事務部の船員があっちこっち探してくれたのを貸してくれた。船員の優しさをもろに感じた航海であった。

 そして、連絡船はそんな夏の思い出を私にくれた。しかし、別れの時は以外にあっけなくやってきたのであった。

さよなら青函連絡船

 1987年10月。東京。
 私は青函連絡船廃止の正式決定を知るといてもたってもいられなくなった。
 しかし、アルバイトで貯めたお金は夏の北海道旅行で底をついてしまった。私は東武鉄道の某駅で朝ラッシュの「尻押し屋」のバイトや、年末年始には再び郵便局でのバイトで資金をつくり、青函連絡船の最期を見届ける旅を企画した。
 その内容は3日間青函連絡船に乗りまくるという内容であった。青春18きっぷ5枚のうち、2枚を青森への往復に使い、3枚をすべて津軽海峡で使い果たすという、正に「連絡船に乗るためだけ」の旅である。

 1988年3月6日、青函連絡船の廃止を1週間後に控えたその日、私は追試で学校に呼び出されている身分でありながら、その旅行を実現すべく夜明け前の上野駅を旅立った。ここで青函連絡船に乗れなかったら一生後悔するだろうと思ったからだ。
 東北本線を丸1日かけて北上し、八戸で中学校時代の友人であるN氏が合流。同じ学校で別クラスの生徒とばったり出会ったりしながら、雪の青森駅ホームに降り立ったのは夜の23時近くであった。
 桟橋へ掛けると101便「檜山丸」を待つ乗客がすでに行列をなしていたが、私は廃止前に一度グリーン船室の乗客になってみたいという気持ちから1便のグリーン船室の指定券を持っていた。そんな訳で最初は1便「十和田丸」でスタートした。
 7日は早朝の青森駅に着くとそのまま江差線に乗って七重浜で下車し、洞爺丸台風の慰霊碑を訪れてみた。雪に埋もれた慰霊碑はひとり過去の悲惨な事件の証人として連絡船の最期を見守ろうとしていた。手を合わせてから函館駅へ戻る。
 この日は4便「羊蹄丸」5便「摩周丸」24便「摩周丸」の順で海峡を1.5往復。4便では杉並から来たという大学生鉄ちゃんと仲良くなり、5便では霧に包まれて何も見えない厳しい航海となった。青森を出航すると前方に壁のような白い幕が近付き、船は吸い込まれるようにその幕の中へ入って行く。霧のなかに入るとずっと霧笛が鳴り続き船内が緊迫した様子だったのを覚えている。
 24便で青森に着くと今度は101便「石狩丸」で函館へ、ずっと寝ているだけであっと言う間に函館着。今度は津軽海峡線の乗り入れでローカル線から幹線へと変貌する江差線を木古内まで1往復。上磯の先の海岸線を走るとき、沖に函館へ向かう連絡船の姿が見えた。朝日の逆光線でシルエットになった彼女たちの姿を見るのはこれが最初で最後かと思うと、何かこみ上げてくるものがあった。復路も同じ場所で函館へ向かう21便「十和田丸」の姿が見えた。これから乗る船である。
 函館に戻ると21便「十和田丸」7便「羊蹄丸」の順で海峡を1往復。21便では天気は良かったが海峡で時化となり、デッキにいると波しぶきが飛んでくる程の勢いだった。7便では名古屋から来たという大学生鉄ちゃんと仲良くなり、二人で海峡ラーメンを食べたり、夜の海峡の景色を眺めたりしていた。
 函館で再び前述のN氏と合流し、102便「石狩丸」へ。これで貨物船を改造して生まれた「石狩丸」への乗船は最後。石狩丸での思い出は寝てた記憶しかない。それはそのはずで0時頃に出航の101便と102便でしか乗ったことがない。今回も出航するとすぐに眠りに落ちてしまい、目が覚めると青森という有様だった。
 ここからはいよいよ私にとって最後の1往復である。21便「摩周丸」で夜明けの海峡を行く。残念ながら夜明けの瞬間は雲で見えなかったが、天気は良くなりそうだ。まずはサロン海峡という喫茶店へ行き、朝食にトーストと連絡船独特のソーダ水を賞味する。津軽海峡が朝日に照らし出され白く輝き始めた。はじめての航海が夕方だったのに対抗するかのように、今は朝の海峡を行く。
 外へ出ると白波が立ち始め、時化の様相となってきた。船が左右に揺れ始め、船は海峡へと乗り出して行く。カモメが何時までも船についてくる。まるで連絡船との別れを惜しんでいるようだ。
 船は朝日が眩しく反射する海峡を渡り、函館に入港した。函館に着くと私は函館山に向かった。山の山腹にある「青函連絡船殉職者慰霊碑」を訪れようと思ったのである。ところが護国神社まで上ると深い雪に行く手を阻まれ、引き返すよりほかなかった。
 再び函館駅に戻り、私にとって最後の連絡船の航海となる8便「八甲田丸」を待つ。先行の6便が出航したときから乗船待ちの列が出来始め、すごい騒ぎになりはじめている。やがて折り返しとなる「八甲田丸」が接岸しる、青森から来た人々が桟橋から降りてきた。そして出航20分前に乗船となる。そして紙テープをちぎらせながら出航。
 最後の航海は時々晴れ間がのぞく天候で、海は荒れていた。海峡には綿を散らしたように白波が糸を引き、雲の隙間からスポットライトのように陽光が海面を照らす。その合間を縫うようにすれ違う連絡船やフェリーや貨物船が行き交う。右側に海峡を隔てて向かい合う津軽半島と渡島半島の先端が見えた。その百数十メートル下に2本のレールが敷かれていて、次回からはそこを通るに違いない。そう思うとこの景色がさらに愛おしいものとなってきた。
 前方から「摩周丸」が近付いてきた。私にとってこれを最後にすれ違う連絡船はない、いつまでもいつまでもその後ろ姿を目で追いかけた。やがて彼女の姿は海峡へと消えていったが、私は何時までもその方角を見ていた。
 汽笛の音で我にかえると目前に青森港が近付いていた。港に入ると補助汽船がやってきて私を乗せた「八甲田丸」の船尾にくらいつき、ぐいぐいと押し始めた。船同士が会話するようにも聞こえる汽笛の交換を聞くと、もう終わりだという思いが胸を締め付けた。となりでおばさんが「さよなら」と叫びながら補助汽船に手を振っている。
 「八甲田丸」は定刻に青森桟橋に着岸した。

 3日後、3月13日。
 私はテレビ画面に映し出された7便「八甲田丸」の姿を見ていた。
 それは80年に渡って津軽海峡を結び続けた青函連絡船の最後であった。私は80年間のほんの一部しか知らないが、そのほんの僅かな期間にいろいろと旅の思い出をくれたことに今でも感謝している。
 ありがとう、さようなら、青函連絡船。

アンコール、そして最後の別れ

 1988年6月3日。青函連絡船が再運行を始めた。青森・函館で行われているイベントにあわせて、3ヶ月間だけ1日2往復の再運行となったのである。
 私が学校が夏休みになると父の知人が店長をやっている近所のコンビニでアルバイトをはじめた。再び連絡船に乗りたい、もう一度海峡の風を感じたいという一心で朝から晩までコンビニで働いた。
 そして8月25日、私は就職活動とアルバイトに明け暮れた日々を縫うように「学生時代最後の夏」と銘打った旅に出かけたのであった。行程は中央夜行で新宿を出発し、松本から長野を経て直江津へ、ここから北陸本線の普通列車を乗り継いで西へ向かい敦賀へ、さらに小浜線に乗り換えて舞鶴へ行き、新日本海フェリーで小樽へ出てから、地平の札幌駅の最後の風景を眺めてからこの年に運行を開始した「C62ニセコ」に乗って倶知安へ、さらに普通列車を乗り継いで函館へ出て、青函連絡船の再運行を楽しみ、最後は東北の各路線を乗りつぶしながら東京に帰るのが8月31日という企画。
 さすがに敦賀から小浜線に乗ったときは自分は本当に北海道へ向かっているんだろうかと疑問に感じたりしたが、舞鶴から新日本海フェリー「フェリーらいらっく」に乗って30時間かけて小樽に降り立ったときには、そこが紛れもなく北海道であることを感じずにはいられなかった。その距離感を時間をかけて体験したからであろう。
 私は「C62ニセコ」で生きている日本最大の蒸気機関車であるC62の姿に感動し、その余韻を引きずったまま函館に到着した。ここで私を出迎えたのは「羊蹄丸」の美しい姿である。今夜の宿泊はまさしくこの「羊蹄丸」、「青函くつろぎカード」という指定券を購入すれば連絡船再運行の期間中、函館・青森の両港に接岸されている連絡船の船上で宿泊が出来たのだった。
 私は船に乗り込んで荷物をまとめるとすぐに食堂へ行って夕食とし、食後は「サロン海峡」でデザートにソーダ水とした。他にお客がいなかったので店員といろいろと話をした。青函連絡船で出されるソーダ水は独特の青い色と甘みと弱い炭酸がとっても美味で、私はサロン海峡に足を運ぶたびにソーダ水を注文していた。それほど私はここのソーダ水のファンなのである。そんな話を店員にしたら大喜びされてしまい、こんな会話になった。
「ところで君、明日の朝食はどうするの?」
「明日の朝は七重浜へ行こうと思っているんですよ」
「じゃあ朝は7時から店あけてるからまた来てよ。本当は朝のトーストは数に限りがあって先着順なんだけど、君の分は特別にとっておくよ」
「えっ、いいんですか、ありがとうございます」
 明日の朝食を約束して私はサロン海峡をあとにした。この日は「羊蹄丸」の船内で明日見るはずの海峡の風景を夢に見ながら眠りについた。
 目を覚ますともう時計は7時20分を回ろうとしている。いかん寝坊した。本当は6時45分頃目を覚ましてサロン海峡へ余裕をもって行くはずだったのに、これでは江差線の列車すら危ない。とりあえずサロン海峡へ行って昨日の店員にトーストのキャンセルを告げに言った。店内には7〜8名程度のお客がトーストをかじっている。
「おはよう、きたかい」
「すいません、寝坊しちゃってトースト食べていると列車に乗り遅れそうなんです」
「じゃあ、トーストをラップで包んで渡すから、七重浜へ向かう列車の中で食べればいい」
と店員は別にしておいてあったパンをトースターで焼きはじめた。私は何度も例を言ったのは言うまでもない。昼間の航海でまたソーダ水を飲みに行くと言ったところ、残念ながら朝の営業が終わると別の人と交代になってしまうとのこと。
 おかげさまで私は上磯行きの普通列車に間に合い、列車の中で特製トーストをかじりながら七重浜へ向かったのであった。

 七重浜から戻ると函館駅は連絡船乗船者の行列ができていた。私は混雑に備えてグリーンの指定券を押さえていたが、この程度なら大した混雑でもなさそうだ。
 「羊蹄丸」での最後の1往復は雨の航海となった。雨をついて「羊蹄丸」は海峡を行く。往路も復路も「十和田丸」とのすれ違いはぎりぎりの距離まで近付いた。青森からの臨時運行3便では船内で埼玉から来たというお兄さんと仲良くなり、二人で海峡ラーメンを食べたりソーダ水を飲みに行ったりした。気付くと海峡の中央で「十和田丸」とのすれ違いである。私は「十和田丸」が雨の中に消えるまでずっと彼女を見ていた。私の背中を叩く雨があと半月で本当に姿を消す青函連絡船が流す涙のように思えてならなかった。
 「羊蹄丸」が補助汽船に押されて函館桟橋に着岸し、私にとって最後の連絡船の航海となった臨時運行3便の航海は本当にあっと言う間に終わってしまった。私は後ろ髪を引かれる思いをしながら、はじめて乗った連絡船でもある「羊蹄丸」に別れを告げ、最終の快速「海峡」で青森へ向かった。ここで再度青函くつろぎカードを利用してこんどは「十和田丸」での宿泊である。
 シャワーを浴びたりしていると時刻は夜中の1時近かった。私は誰もいない遊歩甲板に出てみた。海峡を渡ってきた風は雨上がりの湿気を含んで私の頬に当たる。港内で電飾をつけた「八甲田丸」が最後の仕事を黙々と続けている「十和田丸」を見守るかの如く静かにその美しい船体を横たえていた。前方に目をやると「十和田丸」の後部煙突を兼ねた後部マストが天に向かってそそり立っている。連絡船の船上では見慣れた風景だが、もう二度と津軽海峡で見ることはない、そう思うと涙が溢れてきた。
 たった1年間のこの船の上での出来事が思い出されてしょうがなかった。その思い出を作った船があと半月で消えるのである。
 翌朝、私は朝一番の上り「はつかり」で青森をあとにした。485系は私の想いなど無視して加速し、「十和田丸」を私の視界から消し去った。それでも私は何度も後ろを振り返った。
 私と青函連絡船の最後の別れだった。

エピローグ

 家族連れがはしゃぐ声で我にかえる、「羊蹄丸」は相変わらず臨海副都心の片隅に静かに身を横たえている。
 青函連絡船との出逢いは私に「鉄道以外の乗り物」に興味を持たせるきっかけとなり、人間に非情と有情とをしか与えない自然について考えさせた。甲板から海を眺めながら自転車並の速度の旅の心地よさを教わった。甲板から見る海は手が届きそうに近く、その人を寄せ付けない神秘を肌で感じることができた。これらの船を通じて人々が海を渡る苦労も教わることができた。それを最初にに教えてくれたのがこの「羊蹄丸」だった。
 そしてその思い出は、これまでの10年間の旅の中で、何事にも代えられない貴重な経験となった。
 甲板の手すりにもたれ、天にそびえるように立つ後部煙突兼用のマストを見上げると、海峡で感じた風が甦ってくるように思えた。「羊蹄丸」の上を羽田へ着陸する飛行機が通過してゆく。陽が西に傾きはじめ、「羊蹄丸」も上空の飛行機も臨海副都心の風景も、そして私と青函連絡船との思い出も、すべてが光り輝いていた。

(つづく)


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