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第三章 学生時代最後の旅行

年末年始の北海道
天皇崩御と旅
はじめての南国

年末年始の北海道

 1988年10月、私は埼玉県内のN社に就職が内定した。このころからようやく「ああ、もうすぐ学生ではなくなるのか」と覚悟を決めはじめていた。
 就職活動の合間を縫ってコンビニでのアルバイトを続けていた。だからなんだかんだでお金が貯まりつつあったのもこの頃。私は学生時代最後の冬休みに何か出来ないかと考えはじめていた。
 そこで考えたのが年末年始の北海道旅行であった。そしてこれは学生時代最後の北海道旅行となる。
 出発は12月29日、上野早朝発の東北本線の普通列車で出発し、普通列車を乗り継いで夜の青森駅へ、今度はフェリーに乗って室蘭から北海道に上陸し、岩見沢経由で札幌へ。札幌から普通列車をさらに乗り継ぎ夜までに音威子府に到着して最終の急行「宗谷」で稚内へ出て宿泊。大晦日は朝一番の天北線に乗って音威子府へ戻り、名寄から名寄線経由で網走へ行きそこで年越し。元日は釧網線と標津線に乗って釧路へ出て、新得へ行って駅ネ。2日は新得から滝川まわりで札幌へ出て、「海線」経由で長万部へ。3日は函館から「海峡」に乗って海底駅を見学しながら青森へ出て、秋田で宿泊。4日は日本海周りで新潟へ出て、上越線経由で上野へ…という計画であった。

 また、この旅行は金銭的にもはじめて自分で全額出した旅行である。それまでの旅行は自分で出すのは交通費と予備費が精一杯で、必要な生活費(食事代など)は親の負担に頼っていた(それとは別に父が小遣いをくれたこともあったが)。今回はその生活費の部分も自分で出せたのである。

 12月29日に上野を予定通り出発。盛岡からの車内で愛知からきたおじさんと仲良くなりいろいろと話しながら北へ。青森のフェリーターミナルでは私と同じルートで札幌を目指している大学生と知り合い、登別まで同行。
 津軽海峡は時化で船は木の葉のように揺れた。波に突き上げられると真っ逆様に落ちて行く。すると次の波に突っ込み、また突き上げられるの繰り返しで、その上2等船室が最前部にあったので波に突っ込むたびに不気味な大音響と軋み音が船室に響いた。それでも船は何事もないかのように走り、無事に室蘭に到着。私はJR北海道の客となる。
 その後、苫小牧から岩見沢の車中で神奈川から来たという同じ高校生の鉄ちゃんと相席になって盛り上がり。高架になって新装オープンした札幌駅の変貌に驚いたりしながら。夜の急行「宗谷」で稚内に着いた。駅前の旅館を訪ねてみると人の良さそうな女将さんが出てきて「部屋あいていますのでどうぞ」と中に案内された。女将さんが明日乗る予定の列車を訪ねてきたので、私は5時過ぎの天北線に乗る旨を伝えると、それに会わせて5時に起こしてくれるとのこと。その言葉に安心して私は目覚まし時計をセットせずに眠りについた。

「お客さん、起きてください!」
この声で目を覚ました私は、自分が北海道旅行中で稚内の旅館に泊まっていることを思い出すのに時間がかかった。窓の外から気動車のエンジン音が聞こえ、自分が置かれている状況を思い出した。あ、天北線に乗るから女将さんが5時に起こしてくれるんだっけ、それにしても女将さんの声が緊迫しているなぁ…と思って時計を見たらもう6時半を回っている。慌てて扉を開くと女将さんが申し訳なさそうな顔して入ってきた。
「ごめんなさい、寝過ごしてしまいました。本当にごめんなさい」
とただ平謝りの女将さん。私もどうしていいのか分からなくなって時刻表を開いた。天北線で音威子府まで通す列車はしばらくない。このままでは天北線か名寄線のどちらかを諦めなければならないのは明白だ。名寄線を諦めるとなると旭川から遠軽まで特急に乗らねばならず、莫大な費用がかかる。かといって天北線を諦めるとしても宗谷本線の普通列車は出たばかり、目が覚めた時に聞こえた列車のエンジン音がそれに違いない。宗谷本線も天北線も普通列車は数時間後に1本あるが、これを使うと名寄線が後半で夜となり、景色が楽しめない上に網走到着が夜遅くになり宿を探すことすら出来なくなる可能性が高い。天北線を諦めた上で予定通り旅行を続けるなら、1時間後の急行「宗谷」で音威子府へ行って天北線周りの普通列車を追いかけるしかない。しかし予算的な都合を考えると昨夜の「宗谷」でのワープが辛く、どこかの宿泊を駅ネにしない限りは予算が足りなくなってしまう。そう悩んでいると女将さんが言った。
「音威子府まで乗る予定だった列車を追いかけるのに急行を使うといくらくらいかかるの?」
稚内〜音威子府間の乗車券と急行券は昨日買って使ったばかりだから覚えていた。
「音威子府まで3300円でしたね」
「じゃあうちの宿代が3600円だから、寝坊しちゃったお詫びにこれをサービスしましょう。だからそのお金で急行に乗って」
「え、いいんですか?」
「起こすって約束したのに、寝坊してお客さんが汽車に乗れなかったの私のせいだから。そうしてもらわないと私も気が済まない」
結局、この言葉に甘えることになった。私は何度も謝る女将さんにお礼を言ってその旅館をあとにした。

 駅に着くと札幌行きの急行の発車が迫っているというのにほとんど客がいない。やはり大晦日の上りのせいだろうか、真新しいキハ400の自由席に乗り込むと2〜3人しか乗っていない。快適な旅になりそうだ。
 列車は雪晴れのサロベツ原野を走り抜け、音威子府へと向かった。
 音威子府で駅そばを食べてから単行の普通列車名寄ゆきに乗り換える。車両の中程に座席を陣取り、ぼーっと外の景色を眺めていると車掌がオレンジカードを売りに来た。そのときに音威子府から乗っていた中学生位だろうか、いかにも鉄道好きという感じの少年が私と車掌のやりとりに加わってきた。その少年に見覚えがあったので声をかけてみると、上野から青森まで私と同じ行程で動いていたのだという。彼は川崎市からやってきたという中学2年生だった。行程を聞いてみると私と同じ名寄線の列車に乗るというので彼を道連れにして、雪解けと同時に廃止される名寄線最後の旅を楽しむことにした。
 遠軽で宿を手配し、彼に付き合いちょっと行程を変更して本当は行く予定でなかった湧別へ。遠軽へ戻ると今度は彼が「付き合わせる一方じゃ悪いから」と言って遠軽で深夜まで「大雪」を待つ予定だったのを女満別まで行くと言い出した。遠軽から網走への普通列車では他に乗客がいなかったので車掌も含めて3人で盛り上がる。途中北見で待合室のテレビをのぞき込むと紅白歌合戦をやっており、やっと大晦日だという実感が湧いてきた。女満別で川崎の少年と別れ、その十数分後に網走に到着した。時刻は23時、宿に荷物を置いてすぐに初詣に出かけてみる、雪道で何度も足を取られながら誰もいない街を歩くと、篝火に照らされた神社を見つけた。町の人が集まって年が変わる瞬間を待っている。こうして1988年は終わりを告げた。
 翌朝の釧網線。オホーツク海からのぼる初日の出を見ようとしたが、日の出の直前に曇ってきてしまい失敗。さらに丹頂鶴を期待して茅沼駅に降り立ったが、これもまた不発。私は東京から来たという公務員だという人と仲良くなって一緒に標津線へ直通する列車に乗り込んだ。車内は鉄道好きと思われる人たちで座席が埋まっていて、我々は開いていた席に通路を挟む形で座った。
 根室標津では練馬から来たという中学生に声を掛けられる。そんなこんなで標津線の最後の記憶は駅で出会った人たちと会話が弾んだ…ということくらいだけになってしまった。厚床で練馬の中学生と別れ、先の公務員ともうひとり交えて3人で釧路へ、公務員の方は霧多布を訪れるといって浜中で降りていった。
 釧路からは一人で黙々と行程をこなしていった。2日朝の滝川行きでは車掌さんが乗務員室からトンネル内にある上落合信号所の様子を見せてくれて、札幌へ向かう列車では相席の人が何故かキャンディーをくれた。苫小牧から長万部へ向かう列車では87年夏の列車遅延の時に追分駅で長時間過ごした車両に再会し、3日の津軽海峡では東日本フェリーと併走しながらの旅となった。
 そして、予定通り高崎線の普通列車で4日の夜に上野駅に到着し、様々な人との出逢いに囲まれた学生時代最後の北海道旅行は幕を閉じた。

天皇崩御と旅

 1989年1月7日に昭和天皇が崩御し、翌日から新たな元号「平成」時代がスタートした。
 この事件は私の旅に少なからずも影響を与えることになる。昭和天皇の葬式に当たる大葬の礼が2月24日に行われることになった。
 この年の2月からは内定が決まったN社でのアルバイトが始まった。その合間を縫って土日だけコンビニのバイトをまだ続けていた。アルバイトをふたつ掛け持つようになった私にまとまった額のお金が定期的に入るようになっていた。
 その大葬の礼の日は前日になってN社のアルバイトが休日となった。東京にいても何もかもが自粛で街は何も機能しないというから、私は中央夜行に乗って日帰りの旅に出てしまった。雪の中央西線から雨の名古屋へ、太多線から高山線を経由して走り回っていた。

 その他、学生時代最後の旅として1月に青春18きっぷで大糸線と飯山線を訪れた。往路の中央夜行では同じ学校でふたつ隣のクラスのS氏(これより一年前に駅のバイトで一緒だったので顔なじみだった)とばったり出逢ったところから盛り上がりはじめ、周辺に座席を取った6名で一晩話し込んでいた。3月には関東近辺での日帰り旅行として箱根・伊豆方面を旅した。函南駅近くで咲いていた早咲きの桜が春の訪れを告げていたが、帰りに通った御殿場ではまだ雪が降っていて、今はなき小田急3000系「あさぎり」が雪景色の中を新宿へと向かった。
 そして翌日、我々の卒業式が雪の中で行われた。

はじめての南国

 卒業式の晩、私は大垣夜行に乗って西へ向かった。学生時代最後を締めくくる旅、「卒業旅行」に出たのである。
 行程は大垣夜行で名古屋に出てから、関西本線周りで奈良へ、そこから近鉄特急と南海特急「サザン」を乗り継いで和歌山港へ行き、南海フェリーで小松島へ渡りその日は徳島で一泊。徳島から徳島本線で阿波池田に出て、特急「しまんと」で高知までワープした後、普通列車を乗り継いで予土線経由で宇和島へ行き、宇和島運輸フェリーで別府へ、その日のうちに佐伯まで行って深夜にここを通る急行「日南」をつかまえる。「日南」を未明の延岡駅で下車し、高千穂線を1往復したのち特急「にちりん」で宮崎までワープし、快速「錦江」で都城へ、ここから吉都線と肥薩線を回って熊本へ抜け、その日のうちに長崎へ。翌日は長崎を半日観光してから出来立てホヤホヤの「ハイパーかもめ」に乗って博多、さらにその日のうちに下関へ。次の日は山陰本線の普通列車を乗り継いで鳥取へ、その次の日も日本海づたいに東へ向かい、途中「天橋立」で観光しながら、直江津から信越本線に入り長野へ。最終日は辰野から飯田線に入って豊橋から東京を目指すという酔狂な行程で、学生時代の旅行の集成大ともいえる南国旅行だった。
 奈良から乗った近鉄奈良線特急では関東とは違う関西の私鉄の味を知った。それはその後に乗った南海電鉄「サザン」でも同じだ。とにかくこの旅行で私ははじめて大阪の地を踏んだ。
 南海フェリー「なると丸」で四国へ渡ると、私にとってはじめての廃線跡歩き、枯れ草にまみれた小松島線の廃線跡を牟岐線中田駅へ向かう。中田駅では足下にまとわりついた草木の種を払うのに必死だった。徳島駅近くの宿を確保したところで余勢をかって鳴門線を1往復した。
 特急「しまんと」から見る大歩危小歩危の渓谷風景に感動し、予讃線の普通列車では須崎付近の海の青さに感動した。予土線でははじめて女性の鉄ちゃんと仲良くなって宇和島までずっと話し込んでいた…といってもこの方は東京の杉並から来たという60歳代の方だったが…。
 宇和島から乗ったフェリーでは九州山地に沈む美しい夕日が、青函連絡船と出逢ったあの日を思い出させた。そして別府のフェリーターミナルではじめて九州の地を踏んだのである。
 高千穂線では車掌と仲良くなっていろいろと話を聞くことが出来た。肥薩線では車掌さんが乗客に気さくに声を掛けて、和やかなムードの矢岳越えとなった。この日は快速「錦江」と鹿児島本線八代〜熊本間と長崎本線諫早〜長崎間で3度もグリーン車からそのまま格下げされた車両に乗り、リッチな気分の旅を楽しんだ。
 長崎では駅から近い民宿でやっと宿が取れた、この民宿の部屋の名前が「あかつきの間」「さくらの間」「みずほの間」「富士の間」「はやぶさの間」などという感じですべて本州と九州を結ぶ寝台特急列車の愛称名がつけられていた。私は「あかつきの間」に一晩泊まった。翌日の長崎観光では平和公園を訪れ、核兵器や戦争について学ぶことが出来た。
 その日の夜、門司港での話。「ハイパーかもめ」と普通列車を乗り継いで門司港駅に着いた私は、国道関門トンネルを目指していた。しかし、国道が何処を走っているのか、トンネルが何処を走っているのか分からず、仕方なく駅近くの交番で聞いてみた。
「すいません、国道関門トンネルを歩きたいんですけど、どうすればいいんですか?」
「え、今から人道トンネル!? もうバスもないし、今から歩いていっても通行時間終わっちゃうよ」
 じゃあ、門司へ戻って列車で関門海峡を渡るしかないか、と思ったところで交番での用事が済んで自動車で帰ろうとしていた紳士が柔らかな声で私に言った。
「ちょうど帰り道だから、乗せましょうか? 今から車で行けば通行時間に十分間に合うし…」
続いて警官も言う。
「そうしてもらった方がいいかも知れないね、今から君の足では無理だろうからね」
「え、そんな悪いですよ」
「いいからそうしなさい」
 とまあ、こんな感じで紳士に急かされるような感じで車の助手席に乗り込んだ。車内では自分が東京から来た高校生であることを告げて、旅の話などをしていた。自動車は門司の街を抜けるとしばらく海岸沿いを走った、前方に関門橋の灯りが霧雨に滲んでいる。その関門橋に近付き橋の真下で車は停止した。
「ここが関門トンネルの人道だ、向こうの出口を出ると下関の駅へ行くバス停がすぐ分かるから。下関側はまだバスはあると思うよ」
「ありがとうございます」
礼を言ってトンネルに入ろうとしたら、この紳士に引き留められた。
「ところで、傘を持っていないようだな」
あたりを見ると霧雨で景色が白く濁っている。
「これ、使うといい」
と紳士はビニール傘を自動車から一本だした。何度も礼を言うと紳士は自動車に乗って今来た道を引き返していった。それを見届けると私は関門トンネル人道へのエレベータに乗った。エレベータには私の他にスクーターのお兄さんが乗っていた。エレベータの扉が開くとそこは人道トンネルの本坑である。隣のお兄さんはスクーターにまたがって勢いよくトンネルの坂道を降りていった(このトンネルではスクーターはエンジンを切って走行しなければならない)。私はのんびりと海底を歩き始めた。他の海底トンネルの例に漏れず、ここも海峡中心を再深部としてVの字型の勾配となっている。井戸のようなトンネルを降りて行くと県境を示す標識があり、やがて下りの勾配が上りに変わった。遥か彼方で先ほどのお兄さんがスクーターを押して一生懸命歩いているのが見える。やがて勾配を登り切ると先ほどと同じエレベータが現れた、これに乗って地上に出ると関門海峡の今度は反対側から見た景色が拡がった。確かに私はこの海峡を渡ったのである。あたりを見回すと近くにバス停があるのが見えた。時刻表を見るとあと数分で来るらしい。程なくバスは時間通りにやってきた。十数分で下関駅前のバスターミナルに到着した。駅前の旅館に宿を取り一泊。
 紳士からいただいた傘は、この旅館に置き忘れてしまったようだ。
 下関からは普通列車でひたすら日本海側を東進、鳥取あたりで日が暮れてしまうと山陰本線の長さと遅さを実感せずにはいられなかった。鳥取の駅前の民宿で一泊して、さらに東進し豊岡から宮津線に入り天橋立に着いた。ここでは往路は天橋立を歩き通して向こう側の展望台まで行き、帰りは時間の関係から観光船に乗って駅方面へ引き返した。観光船は他に乗客がなく、私一人をのせて快調に走る。私は最後部のデッキで波しぶきを眺めていた。
 西舞鶴からは過去に乗ったことがある路線である、名古屋からまるまる5日間未乗車路線ばかり乗っていたのだ。小浜線で敦賀へ出て、ここから直江津行きの普通列車の旅が延々と続く。夜遅くなってようやく直江津に着き、長野行きの最終列車に乗る、外は雷が鳴り始めて雹が降っているようで、空が光りながら窓には堅いものがバタバタと当たっている音が聞こえる。私は疲れ果てて眠ってしまった。
 長野駅着。ここで駅ネなのだが、一晩開いている唯一の待合室では酔っぱらいが喧嘩していて危険な状況である。私はこの待合室を逃げ出して夜中の長野の街を一人歩き回っていた。未明の4時前に別の暖房が利いた待合室が開いたので以降はそこでひたすら眠っていた。
 そんなこんながあって飯田線から東海道本線へ抜けて14日夜に185系普通列車で東京へ戻ってきたと同時に私の学生時代の旅はすべて終わった。

 数日後にN社の入社式があり、私は社会人として新たな一歩を踏み出した。
 でもこの学生時代の旅の記憶は色褪せることはないであろう。そしてこれらの旅で得たものは、これからきっと何かの役に立つであろう、そしてこれからも旅を続けていこうと私は思ったのであった。

(つづく)


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