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第四章 板谷峠と北海道と

就職して
十代最後の夏
板谷峠を走る
赤い風と銀色の疾風

就職して

 N社に就職してからも相変わらず旅に明け暮れていた。まずは学生時代のアルバイトよりも収入がよくなったこと。週末は隔週で土曜日・日曜日の二日間が休みになることが理由として挙げられる。就職してすぐに青春18きっぷを使用して土日で東北を回ったし、6月には土日と休日出勤代休で東北へ出かけ、夏の青春18きっぷのシーズンともなると毎週のように旅に出ていた。それとは別に広島の平和記念式典への参列(1989年夏)や、お盆休みには北海道旅行(1989〜1991年)をしたりした。
 秋には連休を利用して大阪の鉄道を乗り回し、年末年始の休みは北海道旅行、春は休暇を取って山陽・山陰方面というパターンが数年間続く。
 また、山形新幹線の工事により板谷峠へ何度も通うようになる。そんな中から旅の思い出が数多く生まれ、また旅の仲間も増えて旅が自分の鉄道趣味の中心になって行くのである。
 この中から名作選を紹介して行こう。

十代最後の夏

 1990年の夏は私にとって十代最後の夏となった。この年の夏休みは本当は8月初頭に計画していたが、諸般の事情でこの時期に休暇が取れず、代わりにお盆休みに長大な休暇を取ることが出来たのである。内訳はお盆休みが3日・土日が2回ずつで4日・夏期特別休暇2日・休日出勤の代休1日、これに有休を1日加えて11連休となったのである。その11連休を有効に使った北海道旅行を十代最後の思い出にと企画したのである。
 さらに中学時代の部活の後輩のT氏が北海道旅行が計画倒れになったので行くんだったらワイド周遊券を引き取ってくれと言う。キャンセル代を払うのが面倒だとか。その周遊券を使用しての旅となった。
 そんな訳で私は8月10日の晩に北へ向かうべく急行「津軽」に乗った。山形までは京都在住のM氏と同行である。今回の旅は「津軽」「海峡」「北斗」の乗り継ぎで札幌へ出て、北海道での9日間は道北・道東・道央・道南を2日ずつまわる、と決めただけの「行き当たりばったり」形式を取った。帰りは19日晩の「エルム」である。
 快速「海峡」で津軽海峡を渡った私は引退間際のキハ80系の臨時「北斗」で札幌へ、そこから「利尻」で北を目指した。この頃はまだ北海道の夜行列車はすべて客車であった。
 道北では稚内の街をてきとーにうろつき、美幸線の廃線跡を歩いたり、深名線で遊んだりしていた。
 道東では釧路をうろつき、納沙布岬を訪れて最果ての海を眺め、狩勝峠ではS字カーブをまっすぐあるいて特急「おおぞら」と競争するという酔狂なこともやった。
 道央では冬の旅行で知り合ったY氏と函館本線銭箱〜張碓間の海岸を歩きながら列車の撮影をしたりした。それとは別に上砂川などのローカル線を訪れたりもした。
 道南では函館の朝市を見て回り、大沼小沼で列車の撮影をしながらレンタサイクルで観光していた。夕方から函館山に上り、陽が沈んで街に灯りがひとつずつついてゆき、それがいつしか壮大な夜景に変化して行く様子をじっと見ていた。

 この旅行でも様々な出逢いがあった。
 第3章で出てきた稚内駅前の旅館にまた泊まった。さすがに女将さんはその事件を覚えている訳ではなさそうだったので私もそれを口には出さなかった。この旅館を訪れてみると満室だという。どうしようと悩んでいるとこの女将さん、私を応接間に通して茶でもてなし、この日の夜は布団部屋に泊めてあげると言い出した。本当にいい女将さんである。
 道東では初日に大雨にやられ、行くはずだった釧路湿原では何も出来なかった。釧路で泊まる予定を変更して「おおぞら」で一度札幌へ、「まりも」で出直すことに決めた。札幌駅で「まりも」を待っているときに二人の中学生鉄ちゃんと知り合った。ひとりは札幌に住んでいてもうひとりは練馬から来たという、元は近所に住んでいて幼なじみだったようだ。これから「まりも」に乗って納沙布岬を目指し、その後は普通列車で帯広へ行くというと「行程が同じだから明日いっぱいご一緒しましょう」と言われた。この二人と納沙布岬の灯台の前で記念撮影をし、その写真を送ったら練馬の方から返事が来た(その母親から「北海道では息子がいろいろとお世話になったそうで…」と添えられていた)。後日彼は私が卒業した高校に入学したそうだ。
 道南では函館の夜景を見てから札幌に戻るべく快速「ミッドナイト」の自由席で並んでいたら、隣の乗車口の先頭に並んでいた埼玉から来たというふたつ年上の女性と意気投合した。話はだんだん盛り上がり、ついに彼女は私と同じ座席に座ると言い出して乗車口を変更してきた。列車が出発した後も深夜2時の長万部あたりまで旅の話やら世間話やらで盛り上がり、翌朝も札幌駅構内の食堂で一緒に朝食をとり、大通公園まで一緒に行ってから名残を惜しむように別れた。

 このような旅の記憶を北の大地に残し、十代最後の北海道旅行は8月20日昼に「エルム」が上野駅に到着したところで終わった。

板谷峠を走る

 90年夏は板谷峠のスイッチバックがなくなると鉄道趣味界では大騒ぎになったときである。私もそれを記憶にとどめておきたいと考え、この峠を何度も訪れるようになる。
 8月上旬の土日の二日間に渡ってこの峠で写真を撮ったり列車に乗ったりしていた。
 この時に仲良くなったのが撮影が目的でやってきた神奈川県大和市の中学生と、東京都町田市のお兄さんである。3人で板谷峠のあっちこっちを歩き回り、ああだこうだ話をしながら行き交う485系「つばさ」や50系客車の写真を撮っていた。夜は福島駅で徹夜し、行き交う夜行列車の撮影をしていた。翌日は南福島駅付近の鉄橋で上野直通の「つばさ」を撮影してから東京に戻った。
 この8月下旬にも板谷峠を訪れて福島〜米沢間一往復。途中の駅を降りて歩いたりしながらスイッチバック最後の風景を楽しんだ。その一週間後にスイッチバック方式の運転は廃止され、板谷峠は通過する車両はそのままだが普通列車は本線上に移転したホームに停車するようになり、本格的な広軌化工事のため複線だった線路が単線になる。

 91年春、残雪の板谷峠へ前述の京都のM氏と行き、雪の中を自己ラッセルしながら峠を行き交う列車を撮影することにした。東京を早朝に出て普通列車乗り継ぎで福島へ。福島交通の電車に乗って遊んでから「つばさ」で米沢へ向かい、ここで普通列車に乗り換えて上ノ山(現かみのやま温泉)へ行き、この周辺で半年後にこの区間から姿を消す「つばさ」や50系客車の写真を撮ったりしていた。福島へ戻って一泊した後、M氏と別行動をして私は3月とは言えまだ雪深い峠駅へ。雑煮を食べながら雪の峠を行く「つばさ」を見つめていた。

 この夏の北海道旅行の往路に急行「おが」を選び、20系での深夜の峠越えを楽しんだ。

 そして、8月の終わりに再び板谷峠へ向かう。この時の改正でいよいよ板谷峠から50系客車は姿を消して普通列車は電車化され、「つばさ」は仙台発着となってこの区間から姿を消すのである。
 8月最後の金曜日、私は会社が終わるとすぐに上野駅へ向かいこの日のうちに米沢へ移動、駅ネをはさんで峠の各駅で50系と「つばさ」の写真を撮りまくる。仙台に住む鉄ちゃんと知り合いになり、夜は彼の家に招待されてしまう。福島駅で再度駅ネしてからは50系客車を追いかけて一度新庄まで北上する。そして福島からの板谷峠越え最後の50系客車に乗車して山形へ向かい、「津軽」で上野へ向かった。
 この日を最後に板谷峠を行く普通列車はすべて電車に置き換えられ、「つばさ」もこの区間から撤退し、一部は仙山線経由で山形へ向かうようになった。次の冬までに板谷峠の線路は広軌に作り替えられ、「つばさ」は新たに開業した山形新幹線に列車名を譲って姿を消すことになった。

 92年4月、私は広軌になった板谷峠の鉄道を体験した。山形新幹線開業前に広軌を体験した貴重な経験である。山形の車両基地では山形新幹線400系新幹線が開業を今や遅しと待ち続ける光景が広がり、足元を見ると広軌となった真新しい線路が続く。しかし、車窓の美しい風景は何一つ変わっておらず、車内販売で買った「峠の力餅」(この時は快速列車に乗車)の味とともにこの風景はいつまでも不滅だろうと感じた。

 そんなこんなで板谷峠は何度となく走り、何度となく歩いた峠でもある。特急「つばさ」で38パーミル勾配を豪快にかっ飛ばし、50系客車で峠を越える風を楽しんだ。今でも山形新幹線「つばさ」で、或いはステンレスボディの広軌のローカル列車に乗ってここを通過すると、この峠を走り回ったあの日を思い出す。

 峠は高速列車のために線路と車両は作り替えられたが、景色はあのときのままなのだ。

赤い風と銀色の疾風

 この頃には消えゆく列車の最終便や、新たに生まれた列車の処女列車に乗りに行くことも多かった。ここではその一例を紹介しよう。この例では最終便で行っと処女列車の両方体験している。
 特急「つばさ」、この列車は少年時代にも一度乗った。家族で蔵王にスキーに行ったときの帰り、山形から上野までの復路に利用したのだ。車内は混雑していたせいか私は座席に殆ど座らず、食堂車の通路などで遊んでいた記憶がある。
 私はこの「つばさ」のヘッドマークは485系に一番似合うと信じている。そんな見た目も美しい列車なのである。
 その「つばさ」が愛称名を山形新幹線に譲り、消えるときが来た。
 私は山形新幹線開業前日の1992年6月30日、上野駅で秋田行き「つばさ」の自由席の行列の先頭にいた。自由席の行列には何故か高校生が多い、何故だろうと思っているとドアが開き乗車開始となった。
 車内は座席が2/3程度埋まる混雑であった。前述の高校生の一人が私の隣の座席に腰掛けた。私はなぜ高校生が多いのか尋ねた。するとこの高校生は上野駅前にある某鉄道高校の生徒だそうだ、学校側の都合でこの日は授業が半日となり、みんな乗りに来たのだという。私の隣に座った生徒は両毛線沿線に住んでいるので小山で降りて帰宅するそうだが、他の生徒は大宮や小山や宇都宮で折り返したり、福島や仙台まで乗って今日中に新幹線で帰る者が殆どだそうである。中には横堀までこれに乗って、ここですれ違う上り「津軽」で上野へ向かい、明日の授業ぎりぎりに学校に着くという強者もいるそうだ。
 彼と小山までいろいろと話し込むが、彼が小山で下車すると一人の空間が続く、彼の言った通り同じ学生服を着た生徒たちは大半が大宮や宇都宮で下車し、残り僅かが東北の地まで足を踏み入れたという感じだ。福島でふと新幹線の高架を見上げると、400系と200系の混結編成の試運転列車が東京方面へと去っていった。仙台からどっと人が乗り込んできたが、山形でほぼ空となり、車内は走行音だけ寂しく響く状況が続く。私は近くに座っていた鉄道好きのお兄さんと話を始める。
 列車が横堀に着く、ここで残りの学生服全員と多くの鉄ちゃん客が降りて行く、私は先程のお兄さんと話を続けていると列車はあまりにもあっけなく秋田駅に到着した。
 到着から15分後に列車は南秋田運転所に回送されるためホームを後にした。赤いヘッドマークの485系が霧雨に滲んで消えた。

 翌朝、秋田のホテルで一泊した私は「こまくさ」の秋田始発処女列車に乗って山形に到着した。山形駅はちょうど東京から山形新幹線「つばさ」の処女列車が到着したところらしく、お祭り騒ぎの上混乱していた。その混乱の中見覚えのある人を見かけたので追いかけて声を掛けるとこう言われてしまった。
「あら、こんなところで何してるの?」
何してるのって言われても「あんたといっしょだよ」と言うしかなかったのだが。この人は私の知人で東京都板橋区に住む地下鉄職員のHさんである。私は彼女に振り回される形でしばらくの間は行動するしかなさそうだ。米沢まで普通列車で1往復を同行することにし、広軌に生まれ変わった奥羽本線の旅を楽しんだ。
 Hさんと山形駅改札口で別れ、今度は山形新幹線「つばさ」の客となる、新幹線ホームで東京都江戸川区に住む知人のI氏とばったり出会い、彼の見送りを受けて私は初の新在直通特急「つばさ」に乗って東京を目指した。列車はきれいに整備された広軌の軌道の上を滑るように走る。板谷峠ではぐいぐいと峠道を力強く登ってゆき、板谷駅を過ぎると福島盆地へ「落ちるように」飛ばしていった。やがて峠道が終わり左手に福島の街が拡がる。その街の遠景に飛び込むように列車は福島の街へと入っていった。やがて在来線と新幹線を結ぶ高架橋をゆっくりと登り、列車はゆっくりゆっくりと福島駅ホームに入線、軽いショックがあって「やまびこ」の最後部に連結して福島駅に到着した。山形を出てから福島駅のコンコースを通らずにこのホームまで来たのである。ここからは新幹線の旅だ。
 列車は時速200キロ以上で豪快に飛ばす。「つばさ」の名の通り飛ぶように走る。あっと言う間に会津の山々が後方へ去り、那須の山々が後方に消えるて関東平野に入る。列車は宇都宮、大宮と駅を数えて東京の街に入り、上野のトンネルを抜けると東京駅に到着した。


 このように、就職して最初の数年間の旅の思い出は北海道と板谷峠のことが中心である。これらの旅行を通じてひとつの場所に何度も繰り返して行く旅を覚えてしまった。あの時のあの場所がどうなったのかを求める旅を身体が覚えてしまったのだ。

(つづく)


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