第五章 鉄道以外の乗り物へ
初期の旅行は鉄道での旅行が中心であったが、時を経るに従い他の乗り物も利用するようになり、それぞれの乗り物に興味を持つ結果となった。この章では他の乗り物にハマッたきっかけを記していこう。
船旅にハマッたきっかけは何と行っても青函連絡船が原因である(第二章参照)。
それまでは「何かあったら泳げないので死ぬしかない」からという単純な理由で船旅を拒否し続けていた。ところが一度乗ったらやめられなくなってしまった。それが青函連絡船の旅であった。
そんな訳で青函連絡船で船の旅の味を覚えた私は、船旅独特の気分を味わうため随所でフェリーを使うようになった。
1988年8月の旅行では第二章で前述したとおり、北海道へ行くのに北陸本線を敦賀へ向かい、さらに舞鶴へ出てそこから新日本海フェリーで小樽を目指した。夜の舞鶴を出航し、翌日は朝7時頃に能登半島を遠くに見ると夜9時頃に津軽海峡沖の大島灯台を見るまで陸地を見ることなく孤独に日本海を北上する。蒼い海が何処までも広がり、見渡す限りの水平線の上には雲を所々に浮かべた空が何処までも拡がる。360度どの方向を見てもこの景色しかなかった。そして30時間以上かけて北海道に上陸、小樽からの北海道上陸はこの時が最初だったが、そこが紛れもなく北海道であることと、北海道という場所の遠さを実感したのである。
その後、北海道へ行くときは片道は津軽海峡をフェリーで横断すると言うパターンが増えた。四国・九州方面の旅行でも時間が許せばフェリーを利用した。
おかげさまで私は92年正月まで瀬戸大橋と鉄道の関門トンネルを通ったことがなかった。それほどまで四国・九州の旅行ではフェリーへの依存が高かった。
でも、青函連絡船が鉄道以外の乗り物で旅をする楽しさを教えてくれなかったら、私の旅は鉄道一辺倒になり、これから話す他の交通機関を利用した旅の話はなかったかも知れない。
短距離の路線バスは1988年春の北海道旅行で、納沙布岬や宗谷岬を訪れるときや札沼線から函館本線を短絡したときに出てきていたが、高速道路を長時間走る長距離バスはなかなか乗る機会に恵まれなかった。
理由の一つに、夜行便の場合は深夜の高速道路を走るという危険性もあった。しかし、この心配を払拭させる出来事が、はじめて乗った夜行高速バスで起きたので紹介しよう。
はじめて夜行高速バスに乗ったのは1991年秋の大阪旅行。この時の大阪旅行は「信楽高原鉄道での列車衝突事故における対応に無言の抗議をする」と言う名目でJR西日本をいっさい利用しない大阪旅行を企画した。現地では私鉄と地下鉄とバスだけで移動し、帰りの交通機関に新幹線を選んだ。こんな偏屈な旅行の往路に高速バスを選んだのである。
路線は西武バスの池袋〜大津線で乗車区間は始発の池袋サンシャインシティプリンスホテルから終点の浜大津まで。浜大津から京阪電車を乗り継いで大阪入りした。高速バスに対して前述したような不安感があったため、敢えて自分の地元の乗り慣れたバス会社を選んだ。
池袋を後にしたバスは夜の東京を走り抜け、初台ランプから首都高速4号線に入りそのまま中央道へと進んだ。勝沼インター付近から見る甲府の夜景に感動しつつ甲府盆地を行く。途中バスは双葉サービスエリアで休憩、このあたりの八ヶ岳越えで霧が立ちこめて視界が悪くなった。私の座席は前から4列目、このあたりまでは座席越しに前方の風景が見える。私は不安になったので思わず前方を見た。殆どの乗客は休憩が終わって眠りに落ちるかどうかの頃である。バスは須玉インターを過ぎた、次は小淵沢である。
突然バスが減速しはじめた。私は前方を見ていたが霧の高速道路の中の異変に気付くの少し時間がかかった。霧の中からハザードランプの点滅が現れ、すごい勢いで迫ってくるのである。しかもバスが走っている左車線上らしい。ブレーキ音が車内に響く、霧の中から大型トラックの姿が浮かび上がり、バスにすごい勢いで迫ってくる。
「だめだ、追突する」
そう思ったとき、バスはトラックまで5〜6メートルほど距離を残したところで前につんのめりながら停止した。車内の乗客の殆どは不意の急ブレーキにたたき起こされ、車内アナウンスの指示を無視してシートベルトを着用していなかった乗客数名が前の座席に叩き付けられていた。最後尾の乗務員休憩室から双葉までハンドルを握っていた運転士が飛び出してきて車内と乗客の安全と今の運転士から状況の確認をした。交代運転士から
「本線車線上に故障車両が停止していましたので急ブレーキをかけました。この車には異常はありませんのでこのまま出発します」
と状況説明があり、不安そうな表情で前方を見ていた他の乗客は安堵した。バスは右車線の自動車が途切れたのを確認してから慎重に車線変更し、今度はすごい勢いで加速しながら再出発した。出発するときに後方を見ると同じように数メートルの距離を置いて、2号車(この日この路線は2台運行だった)が停止していた。
この一件があって以来、私はバスの運転士の腕を心の底から信じるようになった。深夜の濃霧という過酷な条件でそれに見合った適切な速度で走り、かつ故障車の発見が早かったのでぎりぎりの場所にバスを停止させたに違いないのである。このような運転が深夜の高速道路上で安全に旅客を運んでいるのだ。夜行高速バスに対する不安はなくなった。
バスは中央道を西へ進み、諏訪から飯田線沿いに南下し、飯田から長大な恵那山トンネルをくぐり抜けて中津川へという鉄道では考えられないルートの高速道路をひた走った。恵那峡サービスエリアで再度休憩、運転士が交代がてらにバスの点検をしている光景に安心感が強まる。ここを出発すると眠りにつき、次に目が覚めると大津プリンスホテル前にバスが停車していた。浜大津はもうすぐである。
その後、夜行高速バスには92年春のキハ80系「南紀」の最終列車に乗りに行った帰り、神戸の三宮から東京の渋谷まで東急バス「ミルキーウェイ」に乗った。名神〜東名道を前線走破するこのバスの最前列の指定券が取れて、消灯時間までかぶりつきを楽しんでいた(西武バスには消灯時間はなかった)。
高速バスは資金難の時の旅行に最適で、お金を浮かす必要が生じたときには進んで乗車している。最近でも大阪へ行くのに東名ハイウェイバスに乗ったり、京阪バスの京都〜八王子線の昼行便に乗ったり、福岡への出張の帰りには日本国内最長の路線バス「はかた」号(西鉄・京王)にも乗った。
飛行機は全く興味がなかったわけではない。中学生の頃に日航ジャンボ機墜落事故があり、その時にテレビニュースや新聞記事を読んでいるうちに興味を持ったことがある。一度飛行機に乗ってみたいとも考えたが、運賃が高くとても手が出せる代物ではなかった。高校の修学旅行も本来は飛行機で行くはずが、我々と一つ上の世代が日航機事故のおかげで列車に変更になった、という経緯がある。
飛行機が私の旅に最初に登場するのは92年元日。この年の年末年始の北海道旅行は北海道と四国と九州を回るというとんでもない企画になった(下巻第七章に詳細)、その時に札幌から大阪への移動手段に飛行機が初登場した。その時に乗ったのは千歳を16時45分発のJAL516便東京行きと、羽田19時35分発のJAL127便大阪行きである。本当は千歳から大阪まで直行便に乗るはずだったが、直行の全日空便は満席で断念せざるを得なかった。おかげさまで離陸や着陸といった楽しいところを二度も味わうことができ、これをきっかけに飛行機という乗り物にのめり込んでしまうのである。
516便は黄昏の千歳空港を離陸し、苫小牧の夕景を見下ろしながら太平洋上に出た。次に気付くと千葉市の夜景が眼下に広がり、東京湾を横断して着陸。127便では東京から川崎・横浜にかけての夜景を眼下に見下ろしつつ離陸、このあたりの夜景はまさに「光の海」であった。東海道の夜景を見下ろしながら西へ進む、伊勢湾を横断して鈴鹿の山の中をしばらく飛ぶと前方に光の海がまた現れた。飛行機はその光の海に飛び込むように高度を下げ、大阪空港に着陸。
空から見る景色の美しさはもちろんのこと、離陸の時の加速感や上昇感の心地よさ、着陸のときの地面を踏んだときの安堵感がやめられなくなってしまったのは事実。飛行機を利用した旅もこれをきっかけに増えてゆく。
92年春にキハ80系「南紀」の最後を追いかける旅を企画したが、その直前になって急行「大雪」も消えると聞くと両方とも行かずにはいられなかった。かといって休暇も今回はぎりぎりの日数まで取っているので、旅程の延長も出来ないということで、かなりの無理を覚悟で中央夜行で上諏訪に行ってから「南紀」に乗る間の中日で北海道へとんぼ返りする事にした。その時に往路はエアーニッポンで根室中標津に飛び、標津線の代行バスと釧網本線を乗り継いで網走へ行き、「大雪」で札幌へ出てから千歳空港へ急ぎ、JALの朝一番の大阪行きで伊丹へ飛んだ。大阪空港〜天王寺駅55分乗り換えを成功させ、無事に紀伊勝浦で「南紀」最終便をつかまえたのである。
最近では毎年夏の長崎旅行の往復や、仕事上での利用が多い。特に今年に入ってから福岡への出張が多くなり、これでは往路新幹線・復路飛行機のパターンが多い。3月には福岡〜姫川(新潟県)の仕事上の移動があり、この時に東京人が乗ることは滅多にないであろう福岡〜小松線に乗ることが出来た。
それとは別に95年夏の深名線乗り納め旅行や、96年春に富良野へスキーしに行ったときも、休暇との都合もあって往復とも飛行機利用であった。95年春の新婚旅行では父が祝いに日本航空の株主優待券をくれたので片道はスーパーシート利用となった。
飛行機の利用は日数が制限された旅行の時に進んで利用する。乗ったときには空から日本列島の景色を眺め、離陸や着陸の加減速を心ゆくまで味わうのである。
このように鉄道以外の乗り物をつかうことによって、鉄道では体験できない新たな体験を何度もしてきた。なお「自動車」での旅行に関しては、後に詳しく記述する予定なので今回は割愛した。
今後もいろいろな交通機関を利用して、いろいろな体験が出来る旅を考えていこうと思っている。
そして、鉄道以外の乗り物での旅の楽しさを私に最初に教えた青函連絡船に、今でも感謝している。
(つづく)