第六章 日本一周旅行実現
1992年7月31日、私は勤めていたN社を退職した。退職の理由はいくつかある。
まず、上司とうまく行っていなかったことと給与や賞与の賃上げが思うようになかったこと。賞与にいたっては他の会社と圧倒的な差をつけられた(転職後に「こんなたくさんくれるの?」と驚いていたら先輩に「よっぽど悪いところにいたんだな」と言われた)。これだけなら何とか乗り切れたかも知れないが、決定的なもうひとつの理由は体力的に辛かったことである。仕事内容のキツさもさることながら、朝5時台に起きて夜7〜8時台に帰宅するという生活の上の肉体労働でよく体を壊さなかったと思うほどの生活をしていた。こんな生活で自分の時間が殆どなくなくなっていた。
そして無職状態になって時間だけはたくさんある状態の中、私は何かできないかと考え始めた。そこで考えたのが自分の昔からの夢である日本一周旅行を実現させて、自分が何をしたいのか、これからの夢は何なのかをはっきりとさせたい。そんな壮大なテーマの旅をしようと思い立ったのである。
8月2日朝、私は東京駅を急行「東海」1号で旅立った。ここから今までで一番長い長い旅が8月20日夜に上野駅に帰り着くまで
18日もの間続き、おかげで私はそれまでに少しずつ貯めておいたお金を全部使い果たしてしまったのである。
前半はなんだかんだで当時の旅仲間など同行者が入れ替わりたちかわりでたくさんいた。後半、仙台を過ぎて北へ向かうと10日間一人旅が続いた。
行程は東海道・山陽本線を西へ向かい最初は片上鉄道の廃線跡を訪れる。次に四国へ渡り、高知から宇和島へ抜けてフェリーで九州へ渡り、西鉄北九州線や長崎での平和コンサートを見てから飛行機で大阪へ、ここで京阪京津線を追いかけて一日を過ごし「きたぐに」で福井へ、福井では京福電鉄や福井鉄道といった私鉄で遊びがてら観光をしたりしながら一日を過ごし、再度「きたぐに」に乗って新潟へ、新潟では弥彦線に乗りついでに弥彦神社を回り、磐越西線の客車列車で郡山へ抜けて仙台へ、今度は山田線や岩泉線を中心に東北のローカル線を乗りつぶしながら北上し青森へ、ここで北海道ワイド周遊券を購入して北海道へ、北海道で適当に数日間過ごし、「はまなす」「白鳥」で再度新潟へ戻ってから高速バスで東京へというプランで、東京に戻ったところで余力があれば青春18きっぷでさらにどこか行ってみようというものである。
前述したとおり、この旅行が計画通りことが運ぶと私は小学生の頃から夢見ていた「日本一周旅行をしたい」という夢が叶ってしまう。次は何を目標に旅をすればいいんだろうと考え始めたのは旅程が九州へと進んだ頃。今こうして夢見ていた光景が目の前でひとつひとつ現実に変わっているのを目にした瞬間にいるのだ。そしてその夢だった出来事が現実に変わった瞬間、夢は思い出へと変わってしまったのである。
四国で台風に襲われたが列車は時刻通り動いていた。が、窪川駅に到着して掲示板を見ると乗る予定だった「清流しまんと」号は連結を中止するという、「清流しまんと」は現在日本数あるトロッコ列車の中で一番古く、すでに運行開始から10年以上がたっていた。トロッコ列車の老舗ともいえる由緒正しい列車に乗れなかったのがちょっと残念だった。
長崎県の島原半島の小浜温泉で平和コンサートを見た翌日、私は長崎発大阪行きの朝一番の全日空便に乗っていた。飛行機は長崎空港を離陸すると噴煙を上げる雲仙普賢岳を眺めながら大浦湾を一周。青く染まった海と緑の島々がおりなす朝の風景に見とれていた。飛行機は九州を横断して国東半島のあたりから松山・高松上空を通過し、淡路島をかすめて関西新空港の建設現場の上空から大阪の街に入った。仁徳天皇陵・通天閣・大阪城・大阪ビジネスパークのビル群・JR大阪駅と梅田の繁華街・淀川・新大阪駅と大阪の名所を見下ろしながら高度を下げて大阪空港に着陸。大阪らしい飛行ルートにただ感動した。
福井で一日過ごした後、「きたぐに」で新潟へ向かおうとしたら台風で「きたぐに」が運休になったという。仕方なく駅のコンコースに新聞紙を敷いてそこで寝ることにした。翌朝は朝一番の北陸本線普通列車に乗って東へ向かい、直江津から信越本線に入って新津へ急ぐと何とか乗る予定だった磐越西線の客車列車に間に合った。しかし、弥彦線の乗車や弥彦神社などの観光は諦めねばならなくなり、新潟まで何しに来たんだろうと悩む結果となった。郡山から東北本線に入り、仙台駅構内で駅ネ。仙台から小牛田へ出て、陸羽東線で新庄へ、奥羽本線の50系客車で横手へ出てから北上線でほっとゆだへ、温泉につかってから北上へでて、50系客車の普通列車で盛岡。東北本線が少々遅れたため山田線への4分の乗り換え時間がさらに短くなったが、なんとか乗り換え宮古へ。ここで駅ネとなるが、あまりにも寒かったので新聞紙にくるまって自動販売機の放熱器の前で寝ていた。翌朝、キオスクの店員に「こんなところで寝ないでよ」と怒られた。よく見るとそこはキオスクの従業員用の入り口だった。
北海道に入ってまず行った稚内。稚内公園をうろついていると京都から来たというお兄さんと仲良くなり一緒に宗谷岬へ行った。その後は稚内の市街まで戻り夕食とし、「利尻」に乗って彼は深夜の旭川で降りたようだ。私は深名線に乗るため深川で降りようとしたら「一日おつきあいありがとうございました」という内容の置き手紙が列車のテーブルののっていた。律儀な人だなぁと感心して列車を降りた。
夜行「オホーツク」で網走へ向かうときに仲良くなった名古屋から来たという高校生鉄ちゃん。釧網本線に乗って釧路湿原駅を訪れるという行程が私と一致したので一緒に行きましょうと話が決まった。乗った釧網本線の列車内で彼は私に残り所持金が1500円であると告白する。まあ、話を聞くと「釧路湿原ノロッコ号」に乗って釧路に出たら、「おおぞら」「はまなす」と普通列車を乗り継いで明後日の早朝に名古屋に着くだけだというから大丈夫だろうと思っていると、彼は車掌が売りに来たオレンジカードを何のためらいもなしに買うではないか。
「君…、ひょっとしてあと500円で名古屋まで帰るの?」
「もちろん」
「食事とかどうするの?」
「そう言えばどうしよう?」
釧路湿原駅の近くで私は焼きもろこしを1本彼におごった。さらに「カロリーメイト」を彼におごり、これを一食一袋ずつ食べるように言った。東釧路駅で彼と別れたとき、彼は何度もお礼を言っていた。彼は無事名古屋へ帰ることが出来ただろうか、途中で腹を空かしているんじゃないかと私はこの旅行が終わるまで気にかけていた。
そんなこんなの思い出を作りながら、私の夢がひとつずつ現実となり、思い出へと変わっていった。
私は「はまなす」で青森へ出て、そこて「白鳥」に乗り換えて新潟を目指していた。もう旅に出てから15日が過ぎた。車窓には青い空が拡がり、日本海は小さな波を浜辺に打ち上げながら青く輝いている。夏の羽越本線をただひたすら列車は行く。
私はその車内でもう終わりが近付いているこの長い長い旅と、学生時代から続けている5年間の旅の記憶を反芻していた。通じて自分は何を感じたのか、自分は何を思ったのか。
私はこの日本列島を自由気ままに走る旅を、今回だけでなく1987年から5年間ずっと行ってきた。北は宗谷岬から南は都城まで、列車やバスで地を走り、船で海を渡り、飛行機で空を飛びながらいろいろな風景と人と出逢ってきた。その風景と人は私を少しずつ変えていったのである。
まず、旅をしている中で日本という国が非常に恵まれていることに気付いた。四季折々に風景が変化し、島で構成されているこの国の風景は海あり、山あり、平野もあり、それらの風景が四季の移ろいとともに変わって行く。同じ場所の風景でも時期が少しずれるだけで全然違う風景が楽しめる。また同じ季節でも北と南では気候が全く違い、冬に北海道装備のまま宇和島へ行ったら暑くてしょぅがなかったし(第七章掲載予定)、今回の旅でも長崎で35度以上まで気温が上がったが、朱鞠内では10度程度で駅の待合室にストーブがついていた。私は5年間の旅でこの日本列島について知ったと思う。
さらにこの国の大きさが鉄道やバスや船や飛行機という色々な乗り物のお世話にならないと回りきれないが、大きすぎる訳でもないという事に気付いた。
そして私を変えていった人との出逢いは、これからもずっと忘れられないであろう。私は旅を通じて人の優しさと暖かさに触れてきたのだ。
私は思った。今までに旅で出逢った人たちが私の忘れられない思い出を作ったのなら。私が誰かにとってそう思う人になれないだろうかと。
そして自分は鉄道好きである。鉄道を通じてこれだけの事を教わったという事を鉄道好きでない人たちにも教えてあげられないだろうか。その人々のうち一人でも鉄道に興味を持ち、「あいつさえいなければ自分は鉄道に興味を持つことすらなかったのに」と言わせてみたい。とにかく、私が人の思い出に残れるような人間になりたいという新たな夢というか希望が、この旅を通じて現れてきたのである。これは一生のテーマになりそうだ。
そんな夢がこの美しい国のためになったら、と心の底から思った。
列車は美しい日本の海岸風景の中をひたすら走る。いくつもの漁村を抜け、水田の中を駆け抜け、やがて街へと向かうのだった。
その後、私は予定通り新潟から越後交通バスで関越道を完走し、東京から休む間もなく中央夜行に乗って自分の旅行の発祥の地である飯田線を目指した。さらに名古屋の街に立ち寄ってから上り大垣夜行で東京へ戻り、房総半島を一回りしてから常磐線方面へ出て二階建て普通列車に乗り、8月20日の22時少し前に上野駅に到着し、この日本一周旅行は幕を閉じた。
上野駅ホームに降り立ったときの充実感は、今までの他の旅行にない爽快な、長編小説を何日もかけて読み終えたような気分であった。
(つづく)