第七章 毎年恒例・年末年始の北海道旅行名作選
3回目
大阪へ
4回目
For South
7回目 震災とキハ58特急
私は1988年末発から1994年末発まで7回、毎年恒例で年末年始に北海道旅行をしていた(一回目は第三章参照)。結婚して以降はさすがに正月は親戚へ顔出ししなきゃならなくなったので、年末か年始(1月3日以降)に集中して出かけることにしているので、この季節の北海道旅行はまだ恒例で行われていると考えてもよい。ただ年越しを北海道で迎えられなくなったのは残念だ。
ここではその年末年始の北海道旅行で、名作だと思われるものを紹介しよう。
90年から91年にかけての年末年始の北海道旅行は帰りに大阪へ寄ることとした。本当は廃止が迫っていた下津井電鉄に乗りたかったのだが、90年の大晦日をもって廃止になることが判明したので大阪とした。
まず、この旅行は北海道から大阪へのアプローチに使用する寝台列車の指定が取れずに、旅行の一ヶ月前の行程調整にさんざん苦労した。最初は「トワイライトエクスプレス」を当たってみたが発売と同時に開放B寝台含めて全滅。次に「日本海」と急行「あおもり」へ行ってみるがこちらも出遅れたために全滅。いろいろ聞いてみた挙げ句にやっと決まった行程が秋田から最終「いなほ」で新潟に出て、「つるぎ」で大阪へという苦肉の策であった。
12月29日に上野を出発、東北本線の普通とフェリーを乗り継いで30日早朝に室蘭へ上陸し、上砂川線で遊んでからその日のうちに稚内へ。大晦日は稚内から旭川へ出て、特快「きたみ」の乗り継ぎで網走へ。元旦は釧網本線で一日遊ぶ。3回目にしてやっと釧網本線の列車から初日の出を見ることができた。2日は釧路朝一番の普通列車の乗り継ぎで富良野へ行き、富良野線と宗谷本線を乗り継いで名寄へ出て深名線に乗った。深名線の車内では小学生の子供を連れたお父さんと仲良くなって盛り上がり、出来立てホヤホヤの「スーパーホワイトアロー」で札幌へ行き「ミッドナイト」自由席へ。3日は「ミッドナイト」を森で下車し、朝一番の普通列車で函館を目指す。函館からは「海峡」で吹雪の津軽海峡をくぐり抜け、青森から奥羽本線の普通列車で秋田を目指す。この車内で横浜から来たという中学生と豊橋から来たというお兄さんと仲良くなって3人で鉄道の話で盛り上がりながら秋田を目指した。
秋田から「いなほ」で夜の羽越本線を新潟へ。途中車内が雨漏りするというトラブルに見舞われながらも新潟に定刻着。ここで「つるぎ」に乗り換えて大阪駅に4日朝に到着した。
大阪には二日間滞在し、大阪を起点にした青春18きっぷ日帰り旅行として福知山線から舞鶴線と小浜線を経て北陸本線で大阪へ戻る小旅行を行ったり、京阪京津線を追いかけたりしていた。5日晩の紀勢夜行で新宮へ行き、紀伊勝浦始発の快速「みえ」で名古屋へ向かい、普通列車を乗り継いで静岡へ出てから急行「東海」で幕を閉じた。
北海道旅行を急行「東海」4号で締めくくった東京人は私だけであろうか。
北海道旅行に「南へ」というタイトルをつけてしまったとんでもなく壮大な旅行であった。なんと北海道旅行のついでに四国・九州旅行をやってしまうという暴挙がこの旅行である。
このような暴挙に出た理由は西鉄北九州線に乗りたかったからである。本来こちらは92年春に行くつもりでいたが、北九州線の廃止の噂が上がり、正月に繰り上げたいが年末年始の北海道旅行も外せないという究極の選択を迫られたのである。
悩んだ結果、「5周年だから景気よく両方とも行っちゃえ!」ということになった。日数を考えると飛行機の利用は必至とされ、慣れない飛行機のチケットを取るのにかなり緊張した。さらに「景気よく行こう」を突き詰めた結果、九州内はグリーン車乗り放題の「豪遊券」を使用することに決定した。
年内は3回目と同じ行程である。大晦日に乗った「きたみ」では石北峠で吹雪に遭い、かぶりつきしていても何処までが線路で、何処からが雪なのか分からない状況となった。そんな中をキハ54系は自前の排雪装置で自己ラッセルしながら豪快にかっ飛んで行く。しかし奥白滝での運転停車時に運転士が無線で列車指令に排雪列車の運転を要求しているのを聞いたときは、さすがに驚いた。
元日の釧網本線では2年続きで初日の出を拝むことができた。釧路から「おおぞら」で千歳空港へ行き、飛行機を乗り継いで大阪空港へ。リムジンバスで京都へ行き、神戸に住むI君と合流して今度は「ムーンライト高知」の客となる。
2日朝には高知に到着し、予讃本線と予土線を乗り継いで宇和島へ。さすがに北海道装備のままで宇和島まで来たら暑くて汗をダラダラと流して道行く人に不思議がられる結果となった。ダウンジャケットの下のセーターを脱いで鞄のなかにしまった
宇和島から乗った八幡浜行きの普通列車は途中でエンジントラブルを起こして一時停止という災難にも関わらず定刻に八幡浜に到着し、普通列車を乗り継いで松山を目指す。松山でバスに乗り換えてフェリー埠頭へ向かいフェリーに乗り換えて小倉へ。夜明け前の小倉のフェリー待合室で横になって休憩した後、我々は目的の一つである西鉄北九州線を探検した。
その後は小倉駅でI君と別れ、私はグリーン車で九州豪遊の旅とした。初日は「ハイパーにちりん」で大分へ行き、急行「あそ」で熊本へ行ってから「有明」で小倉へ帰り、次の日は一度門司港へ行ってから「オランダ村特急」で早岐へ行き、快速「シーサイドライナー」で長崎へ行って街を少しうろつき、最後は「かもめ」「ハイパー有明」を乗り継いで熊本へ行った。この時の「ハイパー有明」ではグリーン車の最前列に座れた。
「ふるさとライナー」で大阪へ、車内では近くに座っていた男女10人で一晩中盛り上がっていた。和歌山からきたというお兄さんがその中心にいたが、その人とは2ヶ月後に紀勢本線の普通列車の車内でばったり再会している。
最後は神戸と横浜でこの日横浜行きのラストクルーズになると新聞発表されたクルーズ船「ジャパニーズドリーム」号を追いかけた。この船は元青函連絡船「十和田丸」であった。こうして9日間の北海道・九州・四国・神戸を巡る旅は意外な終わりを告げた。
この旅行を通じて、私は日本列島の細長さを実感したのだ。
7回目の年末年始北海道旅行を翌日に控えた1994年12月28日、青森県八戸市を中心に東北地方を強い地震が襲った。人的被害は少なかったが、八戸では建物が倒壊して死傷者が出て、ライフラインがストップするなどの被害が出た。鉄道も例外ではない。
にも関わらず、私は予定通り旅に出たのである。この旅行では「トワイライトエクスプレス」で大阪から来る婚約者(当時)と苫小牧で合流する手はずになっている。前日に婚約者に電話を入れ、苫小牧に予定通り付けなかったら稚内までに追いつく旨を伝えた。
上野を出発する段階で盛岡以遠の東北本線が不通になっていたので、私は当初花輪線快速で大館へ、そこから「白鳥」「はまなす」を乗り継いで東室蘭へ行き、普通列車に乗り換えて苫小牧へ行くつもりでいた。
私は東北本線を北上しながら各所で情報の収集に当たった。少なくとも福島駅に着いたときの段階ではまだ盛岡以遠は不通のままで、花輪線利用が濃厚になってきた。仙台と一ノ関では乗り換え時間が少なかったので情報は入らなかったが、一ノ関から盛岡まで乗った列車の車内放送では不通区間が八戸以遠に変わっていた。ただ列車の時刻などは駅員に問い合わせるようにとのこと。
私が盛岡駅に到着すると駅構内は混乱していた。大館へ向かう花輪線のホームでは人々が乗車口の前に長い行列を作っている、これでは「白鳥」どころか「はまなす」で座席が確保できるかどうかも微妙な状況である。駅アナウンスが準備ができしだい八戸まで臨時「はつかり」を運転することを伝えていて、本来指定席に乗るはずだった人が駅員に先導されて列車へ向かっている、指定券を持っていた人を優先的に着席させるようだ。そんな光景を考えながら私は苫小牧へ向かう手段を考えていた。
私はピンと来た、八戸から苫小牧へ向かうフェリーがあったはずだ。でもフェリーも地震の影響で止まっているかも知れない。私は「はつかり」発車まで電話一本程度の時間があることを駅員に確認し、東日本フェリーの八戸営業所に電話を入れてみた。するとフェリーは時刻通りの運行を予定しているという返事、私はこれに賭けてみることにした。駅員に「はつかり」の発車ホームを聞き、そのホームへ勇んで降りて行く。
が、しかし「はつかり」らしい列車の姿はどこにもない。あれ、まだ入線していないのかなと思いホームを見るが、先程の指定券を持っていた人の行列もない。ホームにいるのは何故か長編成に組成された58系や40系や52系といったローカル気動車だけで(私は震災のため花輪線か田沢湖線経由で青森へ向かう人のための臨時列車と思っていた)、車内では通路までいっぱいのの乗客が発車はまだかと待っている様子。駅員の勘違いか私の聞き違いかと思い駅構内を見回したが485系も583系といった「はつかり」らしい列車はどこにも見あたらない。不思議に思いホームにいた駅員にもう一度「はつかり」がどこから出るのか聞いてみた。すると目の前のローカル気動車で組成された長編成の列車を指さして「これです」と言った。私は目が点になったのは言うまでもない。よく見ると前からキハ52系2両、キハ58系3両、ジョイフルトレイン「エーデルワイス」2両、キハ40系2両で10両編成が組まれていた。
「…こ、これが特急…?」
私は口に出してしまった。とにかく私はデッキが比較的空いていた「エーデルワイス」のうちの1両に乗り込みデッキで発車を待った。数分で突然扉が閉まり、列車はエンジン音をうならせて発車した。駅構内を出ると列車は今にもぶっ壊れそうなエンジン音を上げて八戸へと急いでいるのが分かった。列車は本来の「はつかり」停車駅に停車しながら八戸駅に到着。到着前のアナウンスでは青森まで代行バスが運転されていることと、八戸線が不通になっていることを繰り返していた。
八戸駅は盛岡駅以上の混乱状況にあった。小さな駅待合室は代行バスを待つ人々の行列で埋まり、ホームは上り列車を待つ人で溢れ、改札口は指定券の払い戻しを受ける人の行列が出来ている。私も行列に加わり、青春18きっぷをみせて盛岡からの精算を申し出た。すると遅れ承知なのか車両の格下げ承知なのか分からなかったが特急料金が半額になるという。精算を済ませて改札の外に出る、待合室にある列車案内の電光掲示板は列車の表示が全て消され、震災の影響による東北本線青森方面と八戸線の不通と、盛岡方面への列車時刻は駅員の案内によるといった内容がスクロールされている。八戸線が不通の状況でどうやって本八戸駅近くのフェリー埠頭へ行くか悩んでいると
「八戸線鮫ゆきの改札をはじめます、のりばは1番です」
と構内放送がかかった。なんだ八戸線復旧したじゃないかと思い改札をくぐる。4両編成の気動車はガラガラで、一両に数名ずつしか乗っていない。私はキハ40のその座席に深々と腰をかけた。よく考えれば仙台からずっと立ち続けてここまで来たのであった。国鉄標準の直角座席がこんなに座り心地よかったのははじめてである。
本八戸駅に着いてバスターミナルを見ると、バスは殆どいない。どうも地震の影響か運転されていないか、大幅に減便されているようだ。同じ光景を見てどうやってフェリー埠頭へ行くか悩んでいる男女3人組にどうすればフェリー埠頭へ行けるのか質問された。彼らも本来は別ルートで北海道に渡る予定だったが、震災の影響に振り回され、私と同じ判断でここまで来たそうだ。私はバスが動いている様子がない旨を伝え、幸いタクシーはターミナルに溢れているので、一緒にタクシーに乗ってみんなで割り勘にすれば安く上がると提案した。すると、3人そろって私の意見に賛成した。次にその前に食事にしようと彼らの一人から意見が出る。そう言えば福島の先で駅弁を食べた後は飲まず食わずだった、私は賛成して一度解散した。
食事をしようと駅高架下の名店街を覗くと、飲食店はすべて「断水のため営業を休ませていただきます」と空しく張り紙がしてある。こりゃフェリーに乗るまで腹を空かせたまま行くしかないな、と覚悟を決めると、看板の灯りが眩しいファーストフードを発見。行ってみると「ドムドムハンバーガー」が一人で営業を続けていた。私は暗闇の中に灯りを見つけたような気持ちで店内に入り、ハンバーガーにありついた。こんな時にファーストフードは強いんだなぁと感心してしまった。
先程の3人組と合流し、タクシーでフェリー埠頭に着くと、飲食店どころか、売店も休んでいる上に、トイレまで断水で閉ざされている。他の場所で食事にありつけなかった乗客が乗船開始はまだかと待ち続けている。乗船が始まり、船に乗り込むと船内のレストランとトイレはすぐ満員となった。
出航し、私はカップラーメン片手に暗黒の海を見ていた。この海の下でちょっと地面が揺れただけで人々があんなに苦労しているんだと思うとやるせない気分になった。また自分も今回は大変だったが、今までの旅行の経験の積み重ねがあってよかったと心から思った。
苫小牧ではフェリーターミナルから駅へ向かうフェリー接続バスに乗り遅れるというハプニングがあったものの、苫小牧駅でちゃんと婚約者に会うことができ、その後のこの旅行はすべて順調に進んだことを最後に付け加えておこう。
(つづく)