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第八章 傷心旅行・苦しいときは神頼み

この時になくしたもの
夜行列車削減
6回目の年末年始の北海道

この時になくしたもの

 1993年秋から冬にかけて、私は私生活においても旅の趣味の上においても色々なものを失った。これまでの話と違い、かなり私のプライベートな話をしなければならない。逆を返せばこの頃から自分の私生活の状況と旅は密接な関係を持つようになったのである。この章と次章はその典型である。
 この時に失ったものとは……。
 まずはちょっとしたトラブルでそれまでの旅仲間を半分以上失った。
 次にそれまで付き合っていた女性に裏切られ、半年後に逃げられた。
 家庭の中でもトラブルがあった。
 そして趣味の上でも、私の旅を彩ってきた思い出多い夜行列車たちが次から次へと姿を消していった。
 私は公私ともに逃げ場のない状況に直面していたのである。
 ここではこの逃げ場のない悲しみの中で自分を慰めるために出かけた、「傷心旅行」について記してみよう。

夜行列車削減

 1993年12月のJR東日本のダイヤ改正の内容を知ったとき、私は大きなショックを受けた。
 東北・北海道方面への旅行で何度も利用した急行「八甲田」「津軽」、それに私の旅で最初に乗った記念すべき列車であり(第一章参照)、以降私の旅に何度も登場し、私の旅の話を語るときには欠かせない列車である中央夜行までもが廃止され、季節列車に格下げされるという。
 私は大きなショックを受けて、しばらくは冷静にこのダイヤの時刻表を見ることが出来なかった。廃止のその日が近付くとこれらの列車たちに最後の別れを言いに行く旅行をしようと考え始めた。ダイヤ改正が目前に迫った11月の最後の週末に「ハートランドフリーきっぷ」を利用して「津軽」で青森へ行き、「はつかり」「やまびこ」で東京へ戻り、「八甲田」で再度青森へ行き、奥羽本線経由でこれも今回の改正で大幅削減される50系客車の普通列車で山形へ向かい、「つばさ」で東京へ帰るというプラン。
 さらに中央夜行に関しては最後の運行になる12月1日0時01分新宿発の最終便で別れを惜しむという企画とした。
 「津軽」「八甲田」の旅では、なんだか知り合いに愚痴ばっか書いた手紙を書いていた記憶しかない。この時期はそれほど自分が混乱していたのかも知れない。最後の別れの旅だというのにこんなに記憶に残らなかった旅ははじめてだ。
 中央夜行最後の旅では、東久留米から来たというお兄さんと知り合って、松本までの中央夜行最後の旅をともに楽しんだ。中野から見る新宿副都市の夜景も、闇に浮かぶ相模湖の風景も、勝沼ぶどう郷駅付近で拡がる盆地の夜景も、甲府駅での1時間半にわたる長時間の停車も、未明の山間を縫う冷たい風も何もかもが最後である。87年のはじめての旅で味わった新鮮な感動が私の心に甦ってきた。列車は未明の暗黒の諏訪湖畔を走り、塩嶺トンネルを抜けて薄明かりの松本盆地を駆け抜けて松本駅に到着した。
 私は松本駅で留置線へと回送されるとき、私は他の車両のかげになって見えなくなるまで最後の中央夜行になった115系を見送った。私に旅の楽しさを教え、私に数々の旅の思い出をくれた列車は、小雨に煙る松本駅でたった今消え去ったのである。

6回目の年末年始の北海道

 これは私にとって最大の傷心旅行となった。この旅行は本当は殆ど自然消滅的な別れとなった前述の女性のための旅となるはずだった。しかし、彼女が私を裏切り、結果的には姿を消してしまったため、意味のない旅行になった。
 この年の北海道旅行の内容は、東北本線を普通列車で北上し、フェリーで室蘭に入り稚内、網走を経て元日の昼に釧路へ至るという年末から元日にかけての基本パターンは例年と同じ。釧路からは飛行機で大阪へ飛び、2日は京都の北野天満宮に関西地方の仲間と一緒に初詣。そこから大阪府泉大津市のM氏と「ふるさとライナー」にのって九州入りし、太宰府天満宮で初詣。再び「ふるさとライナー九州」で大阪へ戻り、普通列車乗り継ぎで東京へ帰る途中で熱田神宮で初詣という「史上最大の初詣旅行」であった。その目的は受験を控えた彼女のためだったが、彼女との付き合いが絶望的な現況では、私にとって傷心旅行以外の何者でもなかった。
 例年通り12月29日に上野駅を出発、例年通りのコースで大晦日の朝には稚内駅のコンコースにいた。そこで見覚えのある人影が立ちそばを食べているのを見つけたので行ってみる、向こうも私の姿に気付いたようで「やぁ」と手を上げてきた。彼は東京都武蔵五日市町(現あきる野市)に住む郵便局員のK氏であった。
 彼と二人で朝一番の宗谷本線普通列車に乗り南へ向かう、彼もここ最近いいことがなくて一部区間では愚痴の言い合いになっていた。名寄で旭川への普通列車に乗り換え、比布で下車。この町で薬局へ行き「ピップエレキバン」というずいぶん昔にこの駅でコマーシャルのロケーションがされた貼り薬を見つけ、そのテレビコマーシャルと同じカットで記念撮影というしょーもない事をした。我々は再度名寄行きの列車で名寄へ行き、ここから深名線での旅となる。
 車内は座席が半分程度埋まる混雑だった。私とK氏が「忘年会だ」と言ってポテトチップスやコーラで盛り上がり始めると、近くの座席にいた二人の鉄ちゃんがそれに加わってきた。一人は神奈川県に住むという会社員の男、もう一人は東京から来たという高校生。我々は分割民営前後の北海道の思い出話で高校生を羨ましがらせながら盛り上がる。列車は朱鞠内を過ぎるとどっと人が乗り始め、幌加内までにぴったり座席数と同じ乗客数になった。我々は「車掌さんをまぜればいす取りゲームができるなぁ」なんて馬鹿げたことを言っていた。
 深川で「スーパーホワイトアロー」に乗り換え、折り返し夜行「オホーツク」で網走へ、年が変わった瞬間にK氏と乾杯しながら夜の旅を楽しむ。網走からは釧網本線に乗り換えるが今年は天候が悪く初日の出は無理のようだ。
 釧路でK氏と別れ、私は花咲線の普通列車に乗り換えて厚岸へ。厚岸の街を適当にうろついてみる。海辺の丘を登ったところに神社があったのでここで最初の初詣。さらに丘の上を歩き、眼下に広がる海を眺める。海は昼の日差しを受けて眩しく反射し、黄金色に輝いていた。私は一人黙ってこの海を眺めていた。
 普通列車で釧路へ戻り、バスで空港へ移動して空港内の喫茶店で温かいコーヒーを飲みながら時間を待つ。正月の空港は利用客も少なく、ロビーも閑散としている。喫茶店も通常より早く店を閉めるようだ。外へ出てみるとちょうど私が乗る飛行機が滑走路に着陸し、空港に横付けされたところである。ゲートをくぐり待合室でしばらく時間を潰していると、搭乗となった。
 飛行機は定刻に釧路空港を離陸し、車窓では黄昏の空と夜景になった。飛行機は津軽海峡から日本海海岸づたいに飛行し、新潟から松本を抜けて名古屋の上空を通り、鈴鹿山脈を越えると大阪の光の海に出た。飛行機は定刻よりかなり早く大阪空港に着陸した。
 2日の京都での初詣を終え、私は九州の地を踏んでいた。筑豊本線の50系客車に乗ったりしながら我々は太宰府天満宮に到着していた。同行者というのは嬉しいもので、私はここまで東京での昨年後半の不運をすっかり忘れていた。しかし太宰府に到着してみると絶望的である彼女とのことが思い出されてしょうがなかった。そんな私の気持ちを知らぬM氏は私に笑い話を振ってくる。私はこみ上げてくる想いを断ち切るようにそれについて行く。
 我々は二日市で温泉につかり、「ふるさとライナー」で大阪へ戻り、M氏と別れれて熱田神宮に立ち寄りながら東京へ戻った。
 どこの神社へ行っても祈りは同じ、「1994年一年がよい年でありますように」であった。

 その後すぐここで出てきた彼女を完全に諦め、現在の妻である大阪の女性と付き合い始める。でも今回の旅行は他の旅行にはない寂しさがどこかにあったが、私はいろいろな人に支えられ、旅の風景の中で笑顔でいられたのだった。

(つづく)


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