青函連絡船開設100周年記念
羊蹄丸には「満船飾」が施された
早いものでもう青函トンネル開通、つまり青函連絡船が津軽海峡から去って20年の月日が流れようとしている。
その青函連絡船廃止時はちょうど開業80周年の年であった。それから20年、今年は青函連絡船が開業100周年を迎えた。
青函連絡船が100周年を迎えたその日、私は東京臨海副都心に保存されている「羊蹄丸」を訪れた。
青函連絡船100周年記念記事として、この「船の科学館」でま記録と、廃止20周年の思いをここに記しておきたい。
2008年3月7日、私は東京臨海副都心の「船の科学館」を目指していた。目当ては当然「羊蹄丸」、数年前に現役時代の塗装に戻されてから二度目の来訪となる。
臨海副都心に到着して再会にはやる気持ちを抑えつつ「船の科学館」本館のすき間から見える「羊蹄丸」に見入った。なんかおかしい、後部マストにひらひらしたものが見える。と思って彼女の姿がよく見える場所へ移動して驚いた。なんとこの日の「羊蹄丸」には「満船飾」が施されていた。そう、彼女は船首から前部マスト、煙突、後部マスト、そして船尾を結ぶ形で色とりどりの国際信号旗で装飾されていたのだ。このような装飾はその船にとって「おめでたい日」に施される通例である。「船の科学館」がこの現存する青函連絡船の船達にとって最もめでたい航路100周年と言う日に、「羊蹄丸」に最高のおめかしをさせてくれたのだ。
満船飾の「羊蹄丸」
上の写真ではわかりにくいのでもう一枚、100周年という日に美しく着飾った。
「羊蹄丸」の入り口につくと、もうそこからいつもの日とは違う雰囲気であった。科学館職員が受付のテーブルを並べて今日のめでたいイベントの招待客やら一般客やらの受付をしている。私も一般客として受付を済ませ、「羊蹄丸」に乗り込んだ。受付の際に「船の科学館」オリジナルの青函連絡船100周年記念缶バッチ、本日のイベントの参加証明証、本日のイベントの予定表が配布された。
イベント参加記念品・左は参加証明証表面・右は同裏面・中央は缶バッチ |
乗船したら遊歩甲板のラウンジで待つようにとの指示だったが、私は堪えきれずに甲板に出てみた。春の空は青く澄み切っており、海は心地よい反射光で私を出迎えてくれた。この海に私を引き込んだのは今乗っているまさしくこの船である。この船との出会いがなかったら、船や海に興味は広がらなかったし、飛行機などの乗り物にも興味は行かなかっただろう。鉄道以外の乗り物を追う私の原点はこの「羊蹄丸」にある、これだけは間違いない。だから今年は、その感謝を込めて青函連絡船100周年という彼女にとって最もめでたい日に、一緒に祝ってあげたいと思ったから来た。しかし、この甲板に立つと思い出すのは津軽海峡の景色、海峡を渡る風の心地よさ…それを思い出すとやっぱり少し寂しくなる。
そう思っているとイベント開始の時刻となった。午前10時、100年前に始めて「比羅夫丸」が出航した時刻に合わせて長声一発が鳴らされた。同じ時刻、函館の「摩周丸」も青森の「八甲田丸」でも同じように汽笛を鳴らしているはずだ。ただ残念なのはこの100周年を祝う汽笛に長崎の「大雪丸」が参加できなかったこと。彼女はホテルシップとしての役割を終えて今頃どうなっているのだろう? そして他の連絡船は?
青函連絡船100周年、一言に言うがそれだけの長い時間の歴史を刻んできた彼女たちである。津軽海峡を中心にその歴史は私のサイトでは完全に紹介済みだから割愛するが、それは重くて長い一つの物語である。その物語の到達点の一つに、今私がいる東京臨海副都心の羊蹄丸がある。彼女が誕生してこの夏には43年、つまり青函連絡船の歴史の4割を知っているのだ。高度経済成長からオイルショックの不景気に喘ぐ状況まで、ある意味青函連絡船の絶頂とどん底を知っていると言っても過言ではない。そして1988年3月13日は彼女にとって運命の日であっただろう。上り最終便である22便として運行、さらに青函連絡船として最後に運行された復活運行でも活躍し、人々に青函連絡船の記憶を刻んだ。
その彼女にも青函連絡船が廃止された後は数奇な運命が待っていた。臨海副都心の整備が遅れて係留場所もなく放置されるに任していたときに日本政府の目に止まり、イタリアはジェノバで開かれた万国博覧会に出品されることとなる。彼女は万博の日本パビリオンとして整備された後、台船に乗せられてイタリアまで行ったのだ。帰ってきてからは博物館としての整備が行われ、1996年にやっと臨海副都心の整備に伴って公開されたというのは記憶に新しい。その際、船体の塗装は「船の科学館」オリジナルの純白に下1/4が青というものだったが、2003年末になって現役時代の塗装に戻された。その後、北朝鮮工作船の展示場として脚光を浴びたこともある。そして「羊蹄丸」は東京の新名所の顔の一つとなって、今も臨海副都心にその姿を横たえているのである。
私にとって、「羊蹄丸」は青函連絡船に始めて乗った時の船であり、復活運行も含めれば最後に乗った船でもある。そんな絶対に忘れられない船がいつでも行ける場所に係留されているのは嬉しい限りで、十七回忌を迎えた2004年3月13日にも「羊蹄丸」を訪れた。私と「羊蹄丸」の記念日には必ず訪れたいが、始めて乗った20周年の日は仕事が外せずに行けなくて悔しかった。今年は「100周年」か「20周年」のどちらかには絶対に行く、そう決めてこの日に来たのだ。
11時、今日のイベントのヤマ場を迎える。1988年3月13日22便の乗客と船長の再会イベントで始まり、続いて当時の乗組員による「模擬航海」が行われるのだ。船橋にはあの時と同じ緊張感が走る。目を閉じれば、函館桟橋のあの景色が浮かぶ、いや、模擬航海実演の進行に合わせて、今函館港のどの辺だという景色も、青森港の景色も目に浮かぶのだ。それだけではない、入港時模擬の時は補助汽船「ふくうら丸」の汽笛も私の脳内には聞こえていた。海峡を渡るあの時の緊張が蘇る素晴らしい企画だった。また機会があるなら見てみたいものだ。
模擬航海の様子
翼角レバーを握る三等航海士と舵輪を握る操舵手
船長はブリッジ最前にいる(操作卓の前にいる人は説明員で元檜山丸船長)
模擬航海のスタンバイブック 読みにくいが航海の経過が書かれている |
「羊蹄丸」の操作卓 博物館として自由に触れられる割には破損がないのは驚き |
一通りイベントが終わると、人々は「羊蹄丸」を下船してゆき、船は先ほどまでの賑わいが嘘のように静まりかえった。
その甲板で私は一人、20年前の想い出を振り返っていた。当時17歳高校生だった私は、もう立派なおじさんになっている。あの頃は20年後なんて考えたことがなかった…そうだ、20年前のちょうど今頃、私は青函連絡船を追って津軽海峡にいたはずだ。1988年3月7日、青函連絡船80周年のその瞬間を私は「十和田丸」の船上で迎えたのである。その時に20年後、100周年の瞬間を保存されている連絡船の上で過ごすなんて考えなかった。
この20年で北海道も随分変わった。今のところ私が最後に北海道を訪れたのは2002年秋、10日間に及ぶ北海道での仕事と現地での休日である。この時と比べても色々変わっている。何よりも青函連絡船の後を継いだ青函トンネルも大きく変わった。快速「海峡」は姿を消し、旅客列車は特急のみになってしまった。しかも北海道新幹線の工事が本格化していよいよ「北斗星」も1往復運行に減便されようと言うのだ。さらに函館と札幌は振り子形の高速列車で結ばれ、北海道の鉄道はもうあの頃と全く違う。
津軽海峡も変わった、高速フェリー「ナッチャンRela」の就航で津軽海峡の地図が塗り変わろうとしている。私が最後に津軽海峡を渡ったのは2001年春、函館→大間のフェリーだった。
そんな海峡を函館では「摩周丸」が、青森では「八甲田丸」が静かに眺めている。「八甲田丸」は2005年11月に仕事で青森へ行った際に立ち寄った。「摩周丸」は2001年春の旅行以来まだ訪れていない。人々の記憶から「青函連絡船」が少しずつ薄れ、どの船も閑散としていて寂しかった記憶がある。
私は始めて北海道へ行ったときに、津軽海峡を「船」で渡ったことに重大な意義を感じている。
北海道という大地が、我々が住む地と「海」で隔てられていることを実感できたのは大きいと思う。しばらく北海道という地ばかりに足を運んでいたのは、この海を隔たった「別世界」の風景を求めていたに違いない。現在の鉄道好きの少年達が可哀想だ、特急列車や飛行機でポンと乗り換えもなく海も渡らずに北海道に到着し、そこでどうやって「別世界」を感じろと言うのだろう。彼らにとっては北海道はJRマークの色が違う程度の認識しかなくて、「海を渡った別世界」という概念は最初からないだろう。口では分かっているような言っても、それを感じる言葉は出てこないだろう。
そんな貴重な体験をさせてくれた青函連絡船は、やはり私にとって偉大な存在だし、語り継いで行かなきゃならないものなのである。
春の日差しが少しだけ傾いたところで私は後ろ髪を引かれる思いで「羊蹄丸」を後にした。
去り際に、もう一度だけ満船飾されている彼女に振り返り、その美しく飾られた姿を目に焼き付けた。
20年前の青函連絡船の記憶、これは今でも色あせることもなく脳裏に焼き付いている。そして私の美しい想い出となって、この「羊蹄丸」を訪れるたびに蘇ってくる。
その光景はいつも美しい、この今日飾られた「羊蹄丸」のように。
美しく着飾った彼女も、津軽海峡で過ごした日々が美しい想い出になっていることだろう。その記憶こそが、何事にも変えられない私たちにとっての「満船飾」なのだ。
最後に振り返って見た満船飾の「羊蹄丸」、美しい。