「船の科学館」フローティングパビリオン「羊蹄丸」惜別記事


美しい夕景の中で展示公開を終えた「羊蹄丸」

 青函連絡船が廃止され、もう23年もの月日が流れた。
 その記憶が遠ざかる速度がどんどん速くなったように感じるほどの時間だ。その記憶と記録が社会では風化しつつあることを、嫌と言うほど見せつけられた。
 その最たるものはこのところの「青函連絡船」に関する新しい情報は決まっていいニュースではなかったことだ。世界の海に散り散りになった連絡船達について相次いで解体の報せが入り、今や海外に売却された連絡船で生きているのは「空知丸」一隻となってしまったようだ。そして国内に保存されている連絡船も劣化が進み、予断を許さぬ状況になった。その中で函館で保存の「摩周丸」と、青森で保存の「八甲田丸」が機械遺産に指定されたというニュースは、数少ない嬉しいニュースのひとつだった。
 だがこの夏、その嬉しいニュースに続いて入ってきたニュースは、青函連絡船の記憶を大事にしている私たちを絶望に打ちのめす「悲劇」であった。
 東京お台場の「船の科学館」の閉館のニュース…それは「船の科学館」の施設のひとつであり最も巨大な収蔵品である青函連絡船「羊蹄丸」の展示公開終了ということを示していた。
 「船の科学館」閉鎖はお台場に古くからあるこの博物館が、もう一度賑わいを見せるという皮肉な結果を生むことになった。そして私もこの「さよならブーム」に湧く「船の科学館」を訪れ、私の青春時代の象徴とも言うべきこの船に最後の別れをしてきた。
 この記事はその記録である。

「羊蹄丸」との出会いは青函連絡船との出会いであった。

1987年6月、修学旅行で北海道を目指していた私は初めて青函連絡船の客となった。
乗ったのは青森17時05分出港、7便「羊蹄丸」。
出港すると程なく黄昏時を迎え、津軽半島に沈む夕陽が、「羊蹄丸」を、それに乗り込む私たちを橙に染め上げた。
それは日が沈んだ後の圧倒的な青とともに、今も胸の中に深く焼き付いている。

私が「海」という大自然に直に触れ、その懐に抱かれて見せられた美しい景色と、
海峡を渡すという「連絡船」という仕事をこなす「船」という大きな乗り物である「羊蹄丸」は、
これまでただての鉄道少年でしかなかった私の人生を大きく変えてしまった。
それは、私の興味を「鉄道だけ」から乗り物全般と自然へと振り向かせる、最初の一歩だった。

2011年9月30日
二度目の「別れ」の日は快晴で、夏が戻って来たような暑い日であった。
この日は「船の科学館」本館にはチケットを購入しに行っただけで目もくれず、開館直後から閉館までの丸一日を「羊蹄丸」で過ごした。
この船に初めて乗った日は未だ忘れない。
最初に乗った時の船室は普通船室で「後部大部屋」と呼ばれていた最も広い桟敷席。
この写真の場所こそ、まさに「その場所」である。
二度目の「羊蹄丸」乗船では普通船室の椅子席。この辺りに乗ったはずである。続けて三度目の乗船では前部桟敷席、この写真の反対舷側であった。そのご1988年夏に復活運行で乗ったのは、公式にはこの上の吹き抜け(つまりこの写真撮影地点の天井)となって船室そのものが消滅してしまったグリーン指定席に乗ったことになっているが、その指定を手にしつつも上写真の後部大部屋のその辺りに陣取っていた。
ここには「グリル羊蹄」という「羊蹄丸」の船内食堂があった。
私が「海峡ラーメン」を口にしたのは二度だけ、その二度ともこの「羊蹄丸」乗船時のことである。
他は「グリル八甲田」や「グリル摩周」でカレーライスを食べた記憶が残っている。
階段を登り遊歩甲板を歩いてみる。
この通路を海峡の風が吹き抜けていったあの日が、この光景を見るだけで思い出せる。
 反対舷に立てば、初めて乗った時に見た津軽海峡へ沈む夕陽が、まるで映画のワンシーンを見ているかのように思い出せる。
ここには「サロン海峡」と呼ばれた喫茶コーナーがあった。
緑色で独特の甘さと弱い炭酸が効いたソーダ水の味は今でも忘れない。
だが「羊蹄丸」の場合、復活運航時に海上ホテルとして使用したときの「サロン海峡」のマスターと、朝寝坊した私の間の旅の記憶は忘れない。
朝食営業時のトーストを予約した私が朝寝坊し、とてもトーストを食べている余裕がない状況になってしまった。その旨を言って自分の不注意を謝ったら、マスターは私が予約した分のトーストをラップにくるんで「列車の中で食べなさい」と渡してくれた。青函連絡船の船員さんとのやり取りの中で、強く記憶に残っている出来事のひとつだ。

…「羊蹄丸」最後の日は、このようにして船内を歩きながら「ここは当時は何があった」というのを思い出しながら、そこでの記憶を辿って、懐かしがっていた。そうして歩いていると、もう忘れて脳内から消えてしまったと思っていた記憶も蘇って来た。

 そしてそんな懐かしい船で、ある懐かしい人との「再会」もあった。
 20年近く前に辞めた会社の先輩に、その会社を辞めて以来約20年ぶりの再会劇があったのだ。その先輩も私と同じく青函連絡船にはまり込んでいたので、ひょっとしたら会えるのではないかなんて少しだけ考えていたが、まさか現実になるとは思わなかった。
 この船は私に「時を越える」という体験を、最後の最後まで体感させることになったのだ。
 その先輩と色々話をしている内に時は流れ、「羊蹄丸」との別れの時が刻々と迫っていた。

ラストイベントは、「船の科学館」館長や元「檜山丸」船長の西沢氏の挨拶、そして氏の解説付きの模擬操船を主体に進められた。
「羊蹄丸」は15時55分に出港スタンバイとなり、銅鑼の音の後に紙テープが舞い、16時19分に「出港」した。
連絡船末期のあの日のように、今度はお台場に「羊蹄丸」との別れを告げる無数の紙テープが舞う。
イベントに参加した人はボートデッキまで一杯だった。
このように多くの人に「青函連絡船」が愛されていたのである。
イベントが終わると急激に夜が近付いてきた。
抜けるような秋の空は、やがて西の空が茜色に染まりだして「羊蹄丸」を、「船の科学館」を、南極観測船「宗谷」を、練習帆船「日本丸」を、そしてお台場の景色を、橙に染め上げた
私の脳内に初めて青函連絡船「羊蹄丸」に乗った日に見た、津軽海峡の雄大な夕陽が目に浮かんだ。

やがて係員が現れて「閉館」を告げた。後ろ髪を引かれるように、我々は下船した。
お台場の空に降りてきた夜の帳が、全てを青く染め上げる頃、我々は下船のタラップを渡った。
最後の客が下船すると、係員が現れてタラップをチェーンで締め切って「閉館」状態にした。その後後ろにいる制服を着用した係員の最後の挨拶があった。
もう二度と外されることがないであろう「CLOSED」の表示。
そうと解っていても、これが外され再び我々がこのタラップに行く事が出来たら…と思わずにはいられない。
「羊蹄丸」が完全に閉じられてしまったので、我々もこの地を後にすることにした。
ふと振り返ると、夜の帳に最後の抵抗を続ける夕焼けが僅かに「羊蹄丸」の船体を照らしていた。
夜の帳が全てを青く染め上げる頃、私が振り返って最後に見た「羊蹄丸」。イベントのための満船飾が未だ解かれず、「公開停止」という悲しい現実が信じられない装いだ。
この光景に、初めてこの船に乗ったときに体験した夕陽が沈んだ後の圧倒的な「青」の世界を、思い起こした。

この最後の日は、私に最初に乗った時の記憶が強く蘇るそんな日であった。

 このようにして、この「羊蹄丸」との二度目の別れの時は全て終わった。
 この船に最初に出逢ったのも黄昏の海、そして何たる因縁か二度目の別れも黄昏の海が舞台であった。

 ちなみに最初の別れ、青函連絡船復活運航の夏の夕刻の函館桟橋であったが、この時は空から夏とは思えぬ冷たい涙雨が落ちてくる中での出来事だったのを記憶している。当時は「船の科学館」での再会は約束されていたから、「船」との別れというより「航路」との別れという思いの方が強かった。
 そしてこのお台場での再会までの間、彼女は大改装やイタリアのジェノバでの展示を経る大波乱の人生を歩んだ。函館で別れてからこのお台場での再会まで実に7年半もの時が失われてしまった。お台場で再会した彼女は外装も内装も函館で別れたときとは違ったが、じきに外装については塗装を元に戻すなど現役時代に近づける改装がされた。いつしか時は流れ、彼女の「現役引退後」は青函航路で現役だったより長い時間となってしまっていた。
 その中のお台場に来てからの15年、私はことある毎にこの「羊蹄丸」を訪れては、私が高校生だった頃の思い出に浸っていた。連絡船廃止から丸10年、青函連絡船90周年、十三回忌や十七回忌のその日、青函連絡船100周年イベント…それらの節目以外も含めて、特に現在の塗装に戻ってからはなんだかんだで年に一度は訪れていた。私にとっても彼女が青函連絡船で現役だった頃に船内にいた時間を全部足した時間より、お台場で「船の科学館」の一部になった彼女の中にいた時間の方がいつしか長くなってしまっていた。

 私と彼女はそんな24年と3ヶ月の付き合いの末で、今回の二度目の別れとなった。

 私は嫌な予感がしてならない。
 出逢ったときと今回の別れが「黄昏」という同じ条件であった偶然が、私とこの船との永遠の別れを示唆されているような気がしてならなくなるのだ。
 でもそれが杞憂であって欲しい、何処かこの船に理解がある人達に引き取られ、何らかの形で保存されることを願わずにいられない。
 もちろん、私にこの船を置く海と維持管理をする財力があれば、私が引き取るがそれは無理な相談だ。
 個人的には数少ない「鉄道連絡船」の生き残りなんだから、鉄道会社や鉄道関連の博物館が引き取って欲しいと思うのだけど、それも無理な相談なのはよく理解している。

 いずれにしても、この日、「羊蹄丸」に集まった元船員さん達や、我々のように思い入れのある人間の脳内では、彼女は確かに「出港」したのは確かだ。

最後に一言

「船の科学館」および、それを管理していた日本海事科学振興財団の皆様。
また「羊蹄丸」展示のために働いてくれた元船員さん達やボランティアガイドの皆さん。

私の「青春の船」と言うべきこの「羊蹄丸」を、
これまで大事に保存して頂き、本当にありがとうございました。


この場を借りて厚く御礼申し上げます。

そして、今後も「羊蹄丸」がいいかたちで保存され続けることを心より願っています。


「羊蹄丸」がお台場から本当に旅立つその日まで、こういうことにしておきます。

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