第一章 青函連絡船前史


1 海峡の誕生
2 海峡の古代史
3 江戸時代の津軽海峡
4 青函航路の誕生・定期航路の時代へ
5 「東海丸」の遭難

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 津軽海峡…本州と北海道を隔てるこの海峡に、不思議な魅力を感じる。
 四季折々の海と陸の「自然」の景色、ふたつの大地を隔てるが故の「人間」のドラマ。
 この海峡が織りなすドラマは、何を取っても美しい。
 単純に本州と北海道を隔てる海峡としたが、厳密にいうと四つの半島に囲まれた海峡である。東の太平洋側には本州側の下北半島と北海道側の亀田半島が、西の日本海側では津軽半島と松前半島が向かい合っている。さらに本州側のふたつの半島の間は深い湾となって入り組む陸奥湾があり、その入口の狭隘部は「平館海峡」とも呼ばれる。
 さらにこの海峡には、「ブラキストン線」が横切っている。「ブラキストン線」とは、イギリスの動物学者トーマス・ブラキストン(1832-1891)が提唱した動植物の分布境界線であり、日本の動植物を調査した結果「津軽海峡に動植物の分布境界がある」としたものだ。
 いずれにしても、この海峡を境に自然界も全く違う世界となるのだ。
 また、この海峡は潮の流れが複雑で、難所としても知られている。日本海を北上してきた対馬海流の一部が津軽海峡の西口に殺到し、日本海側の方が海面の高さが若干高い。それにより海水は常に太平洋側へと流れている。この速度が8ノットにもなる海水の流れが、地形の関係に加え、潮の干満や気象条件により単に西へと流れるのでなく、複雑な動きをしながら西へと向かうのである。そのために、古くから船舶の航行を妨げ、難航や遭難が絶えなかった。
 しかし、この海峡は本州と北海道を結ぶ、または日本海側と太平洋側を結ぶ交通の要衝であり、この難所を乗り越えるべく多くの「人間」と「自然」の戦いが、ある時は「人間」同士の戦いが見られたのである。

1 海峡の誕生

 今から二万年ほど昔、地球の気候は今よりも大幅に寒い「氷河期」であった。海にある大量の水が極域において凍りついたために海面が大幅に下がり、現在の海底が海上に地上として露出していた。
 日本海は海ではなく、巨大な湖であった。北海道〜樺太〜シベリア間と、九州〜朝鮮半島間は陸でつながっていた。そして津軽半島の西側、津軽半島と松前半島の間も陸続きであった。当時「津軽海峡」は存在しなかったのである。
 当時、津軽海峡と松前半島は小高い尾根で繋がっていた。現在でいえば下北半島の「柄」の部分と想像すればいいのだろうか。ガンコウランなどの高山植物が群生し、そこを動物たちが北へ南へと渡っていたと考えられる。
 北海道内で発見された遺跡などから、ナウマン象が中国方面から朝鮮半島を通り、本州を縦断してこの小高い丘から北海道に入ったと推測されている。同時代にマンモスやオオカミ・シカ・ウサギなどの動物がシベリアから樺太を経由して北海道へ入ったと推測される。そして、それらの動物を追って、人間達が北海道へと入った。
 それから数千年の時を経ると、地球の気候は温暖化して行き、極域の氷が溶けて海面が徐々に上昇しはじめた。陸地の雪や氷も大量に溶けだし、海の水も、当時は湖だった日本海の水も急激にその量を増していった。特に日本海側の方が水が増える速度が速かったと考えられている。
 今から約一万三千年前のある日、湖であった日本海に溜まった水が、絶えきれずに小高い尾根を乗り越えて太平洋側へ流出しはじめた。最初は小さな水流であったのが、徐々に勢いを増してこの尾根を削りはじめた。やがて日本海と太平洋の水位がほぼ同じとなり、日本海に対馬海流が発生して東への潮の流れが定着して、その潮の流れが両岸の海岸を少しずつ削りはじめた。これが津軽海峡の誕生である。
 同時期に現在の宗谷海峡や国後海峡、対馬海峡でも同様の出来事が起こり、現在の日本列島の形が出来上がったのである。
 現在も津軽海峡の海底図を見ると、津軽海峡から松前半島にかけて馬の背のような小高い尾根状の地形となっている。これが当時陸地だった場所であり、海峡中央部の海底には水が一気に堰を切って流れた形跡である「海釜」も見ることができる。
 その小高い尾根状のところを、現代人は青函トンネルで結んだのである。青函トンネルは津軽海峡と松前海峡の間を、約一万三千年振りに陸続きにしたのである。

2 海峡の古代史

 地球の気候が安定し、人間達は日本列島各地で縄文文化を築く時代となる。狩猟中心の生活ではあるが、土器や竪穴式住居や丸木船を作り、「集団」としてひとつのまとまった文化を創り出した時代だと考えられる。
 この時代に津軽海峡を渡った者がいるというのは崩れようのない定説となっている。道南地方から出土する土器は東北地方で出土したものと多くの共通点を持っているといわれており、さらに北海道にはいないはずのイノシシの骨が同時に出てくるケースがあったため、東北地方の何者かがイノシシを連れて丸木船を用いて津軽海峡を横断したのは間違いない。もちろん、北海道から東北へ渡った者もいると考えられる。それどころか縄文時代には既に東北地方と道南地方の間で恒常的な交流があったと考える説もある。

 津軽海峡が日本の歴史に登場するのは「日本書紀」である。飛鳥時代の斉明天皇の4年に、阿部臣が180の軍艦を率いて後方羊蹄・渡島へ蝦夷討伐へ行ったという記録がある。斉明天皇4年とは西暦658年で、この時代の技術力を考えるとこの記録は信憑性が乏しい。さらにこの時代の「蝦夷」とは現在の北海道だけでなく、朝廷勢力の及ばない北東北一帯をも指していたといわれる。従って阿部臣が討伐へ出かけたのは北海道ではなく、東北地方北部と考えるのが一般的な説である。
 次の記録は鎌倉時代まで進んでしまう。鎌倉幕府が作った史書「吾妻鏡」に北海道の記事が出てくるのは建保4年(1216年)6月のこと。京都の東寺に霊宝を盗みに入った盗賊を捕らえ、蝦夷島(北海道)に流したという記事が出てくる。その20年後にも罪人を蝦夷に流した記録がある。
 これは記録に残っているものであるが、これ以外にも多くの罪人や敗残兵、漁民が北海道へ渡ったと推測される。源義経もそのひとりであるが、北海道へ渡った後はどうなったのか分からない。このようにして北海道へ渡った和人は原住民であるアイヌと区別して「渡党」と呼んでいた。

 室町時代になると、道南地方に本州から渡った小豪族によって館(砦)が作られるようになる。和人の移住者が増えてアイヌ人との抗争が増えたためである。そのうち、アイヌ名でウスケシ(湾の端)という地に建てられたものは箱形をしており、これが語源でここに箱館…のちの函館という地名がつけられることになる。
 アイヌと和人の抗争は日増しに激しさを見せた。和人たちは北海道の資源を金儲けに使うため、アイヌ人をこき使っていたのである。そうしたアイヌ人の不満が爆発したのは1457年、アイヌの酋長であるコシャマインが遂に立ち上がり大挙して和人居住地区に攻め込んだ。館は次々に陥落し、和人の軍は全滅寸前にまでなったが、上ノ国にいた武田信広の一矢によってコシャマイン父子を七重浜で射殺。大将を失ったアイヌ人は和人の軍にうち破られてしまった。しかし、和人とアイヌ人の抗争は始まったばかりである。
 信広は館の主である蠣崎家の婿となり、その家を継いで蝦夷地での勢力を強めてゆく。そして信広の五代目である慶広の時代、朝鮮出兵のため肥前名護屋(現在の唐津)に出陣した豊臣秀吉に接見し、蠣崎家の徴税権の承認と蝦夷島主として独立を認める朱印状を得る。さらに秀吉の死後、徳川家康の元に馳せ参じ、蠣崎家の承認なくして蝦夷交易はできないとする黒印状を取得して名実ともに蝦夷での支配権を得た。そして慶広は蠣崎の姓を、地名を取った「松前」に改め、松前に城を築いた。これが徳川幕府大名として蝦夷に君臨した「松前藩」の始まりである。慶長9年、1604年の出来事であった。

3 江戸時代の津軽海峡

 松前藩が成立すると、本州と蝦夷の交易はさらに盛んになった。様々な船が津軽海峡を渡るようになり、松前藩の参勤交代の大名行列も津軽半島〜松前半島のルートで海峡を定期的に渡るようになる。

 また、江戸時代には欧米の宣教師や探検家も津軽海峡を渡って蝦夷地入りしている。イタリアの宣教師、アンジェリスは記録に残る限り蝦夷を最初に訪れた欧米人である。元和4年(1618年)に津軽半島から北海道へと渡り、蝦夷の調査を兼ねて宣教活動を行った。当時、徳川幕府は外国人宣教師を国外追放しており、アンジェリスも蝦夷へ逃げ渡ったのだろう。しかし松前藩は「松前は日本でない」としてアンジェリスを厚遇する。こうして北海道でキリスト信者は数を増やし、のちに「えぞキリシタン」と呼ばれるようになる。
 元和7年にアンジェリスは蝦夷が島であることを発見し、地図を作製してイエスズ会本部へ送った。しかし、アンジェリスは本州に戻ったところを捕らえられ、元和9年に江戸で処刑される。アンジェリスの教えに従ったキリスト信者や、徳川幕府の迫害を受けて蝦夷へ逃れたキリスト信者は、松前半島の千軒岳に実を潜めるが、寛永16年(1639年)に捕らえられて106人が処刑された。
 その他、オランダの航海者フリース、フランスの探検家ラ・ベルーズ、イギリスの探検家ブロートンが蝦夷を訪れている。

 当時の日本人にとって、津軽海峡を帆船で渡るのは困難であった。潮の流れが複雑で、偏東風を順風としたために渡航可能な日は年に数えるほどしかなく、津軽半島の三厩は順風の日を待つ「風待ち」の旅人で賑わった。また、帆船で渡航と言っても、対岸の港を目指して航海するのでなく、対岸の何処かへ「漂着」させると言っても過言ではなかったと言われる。蝦夷への渡航に失敗した船が東北地方太平洋側に漂着したり、本土への渡航に失敗した船が江差や亀田半島に逆戻りすることもあったようだ。
 参勤交代の際は、大名を乗せた船が無事に三厩へ渡ると、その印として狼火を焚いた。松前でこれを見ると同じく狼火を焚き、海峡を挟んだふたつの港で君主の無事を祝ったという。
 松前には米がなかったので松前藩は石高がなかったが、常に松前は活気に満ちていた。松前藩では米でなく鯡で商品とし、年貢として生計を立てていた。本州からやって来た北前船は松前に着くと米などの生活品をおろし、代わりに松前の鯡を大量に積み込んで本州を目指すのであった。他にも鮭や昆布、熊皮などが松前藩の商品であった。こうして松前藩は徳川幕府とともに、長い平和の時代を過ごすのである。

 江戸時代も後半になると、今度はロシア人が蝦夷を南下してくるようなる。元禄10年(1697年)にロシアはカムチャッカ半島を征服、千島列島を島づたいに南下しはじめた。享保10年(1725年)になるとロシアは大規模な日本列島探検を計画し、蝦夷はもちろん、東北や千葉、伊豆半島にも姿を見せるようになる。
 ロシアの目的は、当時鎖国をしていた日本との通商を迫り、日本を属国とすることにあったようだ。択捉や国後に対し侵略行為を繰り返し、アイヌとロシア人の抗争が激しくなる。しかし、松前藩はアイヌの抗争相手がロシア人だと気づかず、「赤蝦夷」と呼んで重視しなかった。天明3年(1783年)になって仙台藩医である工藤平助が著書の中で、「赤蝦夷」は「カムサスカ」(カムチャッカ)から来たロシア人であり、ロシア人はオランダと国境を接する地から五千里もの道程を経て蝦夷へ来たと説いた。それを読んだ徳川幕府は翌年には蝦夷へ調査団を派遣するという異例の手の早さである。北は樺太、東は千島列島まで幕府の調査団は及び、僅か4年後には多くの役人が松前藩に派遣され、南部藩と津軽藩の藩兵を出動させて蝦夷の警備に当たらせた。そして松前藩は幕府直轄領となる。
 天明2年、伊勢の大黒屋光太夫は江戸への航海中に西風に流されて遭難。8ヶ月の漂流の後にロシア人に助けられる。その10年後の寛政4年(1792年)にロシアの公式使節ラックスマンは光太夫を連れて根室に上陸。光太夫の救助、送還と引き替えに江戸幕府に通商を迫った。これを聞いた松前藩は大慌てで幕府と調整を取り、ラックスマンらと幕府代表団の会見を福山で行うことになった。ラックスマン一行は函館経由で福山へ向かうが、幕府代表団は通商はできないことと、長崎以外での上陸を禁ずることを厳重に伝え、光太夫の送還に感謝して多量の食糧を一行に与えて引き返させた。その後も何度か米露両国から通商を迫る使節が訪れるが、長崎か幕府に近い関東近辺に来航しており、このような蝦夷に使節が来航した例は少ない。

 嘉永6年(1853年)に浦賀にペリーが来航し通商を要求。安政元年(1854年)3月、日米和親条約を結んで下田と箱館(函館)を開港した。世に言う「開国」である。開港を前に箱館を訪れたペリーは、「出入りしやすく安全な点は世界最良港のひとつ」「あらゆる方向の風に無難であることは世界に類を見ない」と箱館の地形を絶賛した。ここに天然の良港、函館港の歴史が始まるのであるが、この良港にも唯一の弱点があってこれが悲劇を生むのは、まだ100年先の話である。

4 青函航路の誕生・定期航路の時代へ

 幕末となると箱館を中心にいろいろな事件が起き、幕府の役人の海峡横断が多くなる。そこで問題になったのは、従来の三厩〜松前という海峡横断ルートだと、蝦夷上陸地点が西に偏って不便であるという点であった。幕末の出来事は箱館で起きており、松前藩に急変を託せなくなった幕府は箱館に奉行を置き、直接支配するようになった。さらに外国船の入港により物資や人を箱館に送る必要も生じた。そう、人々の目的地は松前から箱館へ変わったのである。さらに船の大型化が進み、三厩と松前の港は手狭になって対応できなくなった。
 元治元年(1864年)1月、幕府は下北半島の佐井と青森の両港を箱館への渡航港として指定した。ところが佐井の港は冬季の荒波に抗しきれず、陸奥湾の奥深くに位置して多くの船の停泊が可能で、奥州街道の終点で賑わいを見せていた青森が箱館への渡航地として定着することになる。青函航路の誕生である。

 文久元年(1861年)には青森の船問屋、滝屋善蔵が箱館定飛脚問屋を開き、箱館の役所に差し立てる書状と小荷物を取り次いで青森〜箱館間に月6回の和船による定期便を運行した。これが史上初の青函連絡船といわれる。さらに滝屋は江戸の飛脚問屋と連絡を取って江戸〜箱館間の定期郵送便を開設、この連絡輸送体系はのちの青函連絡船に繋がると考えていいだろう。当時の津軽藩には上級役人のみが利用できる不定期の飛脚便があるにはあったが、民間人が使える定期郵送が津軽海峡に登場したのはこれが初めてである。

 程なく慶応4年(1868年)となり、明治維新を迎える。明治2年に明治政府は蝦夷地を「北海道」と改称。北海道は日本政府の土地であることを明文化する。同時に箱館は函館と改称されて、ほぼ同時に函館に開拓使が置かれて北海道の開拓と港湾・道路の整備がスタートした。その開拓使が津軽海峡初の旅客船による定期航路を開くことになる。
 明治4年(1871年)に開拓使が函館から札幌に移転すると、東京〜函館〜札幌という人の流れが激しくなる。北海道内では函館〜森間と室蘭〜札幌間の街道が整備され、森〜室蘭間は噴火湾を短絡する航路が設定された。その少し前から開拓使は東京〜函館間の航路を設定していたが、航海術が未熟なため実績を上げることができなかった。そこで開拓使は本州〜北海道連絡航路として、安渡(現在の青森県むつ市・大湊港)〜函館航路を中心に青森県と北海道を航路で結ぶ方向へ転換する。
 明治6年(1873年)、蒸気船「弘明丸」を手にした開拓使は函館〜安渡・函館〜青森の定期航路を試験的に開設した。これは初の蒸気船就航となる。あくまでも試験的としたのは、当時の津軽海峡の輸送需要は不透明な上、好天などで風待ちが多かったために不安な要素も多かったためだ。そのために暫く運行してみて軌道に乗りそうならハッキリと起点港などを決めようと言うことになったのである。ダイヤは10日単位で、函館発青森行きは二の日(毎月2・12・22日の意味)の朝出港、青森発函館行きは四の日の朝出港、函館発安渡行きは六の日の朝出港、安渡発函館行きは九の日の朝出港というダイヤであった。運賃は上等3円、中等2円、下等1円50銭、等外1円というもので、「等外」とは蒸気船になったとは言え欠航が続くことが多かったので、船待ちで旅費を使い果たしてしまった旅客のための特別処置であった。欠航も多かったとは言え函館〜青森航路に旅客も貨物も殺到し、翌年9月には安渡への航路は廃止されて函館〜青森航路に一本化される。こうして現在に繋がる青函航路が確立したのである。
 開拓使が航路開設したのとほぼ同時期、長州出身の青森市御用達商人である小田藤吉が、自らの所有船である「青開丸」を使用して函館〜青森間に月4回の定期航路を開設した。これが津軽海峡における民間初の定期旅客航路となる。これも好評で翌年には一隻増備されて運行本数も倍となった。小型の蒸気船で欠航が多かったとは言え、それまでの帆船の時代より欠航率は大幅に低下し、風待ちで賑わった青森の街は大きな打撃を受けたという。海峡渡航を安定化した蒸気船の就航は、海峡に新たな輸送需要を呼び込むことになる。

 明治12年(1869年)、開拓使は当時政府の支援も受けて国内最大の海運会社へと成長していた三菱会社に青函航路の運営を委ねた。国内最大の海運会社と書いたが、当時の国内航路は三菱がほぼ独占しており、津軽海峡の乗り入れを狙って以前から開拓使に青函航路の開設を求めていた。この運営の委譲により三菱は念願の津軽海峡の乗り入れを果たしたのである。運賃は上等2円30銭、中等1円50銭、並等1円で、「弘明丸」に変わって「浪華丸」が就航していた。明治15年に開拓使は北海道開拓の役目を終えて、北海道には函館・札幌・根室の3県が置かれて開拓使は廃止された。のちに3県は統合されて北海道庁となる。
 ところが、三菱は国内航路をほぼ独占する会社だけあって、旅客に対するサービスが悪く、貨物を粗暴に扱うなど評判が悪かった。不評はやがて非難を呼び、明治15年には反三菱系の海運会社である東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社が合併し、共同運輸会社が設立された。共同運輸は三菱と対抗すべく、青函航路にも航路を開設する。
 ここに三菱と共同運輸の激しい競争が津軽海峡を舞台に繰り広げられる。両者ともに函館を青函航路の本拠地とし、青森には出張所を置いた。運賃の割引は当然のように行われ、乗客に反物を贈呈したり、無料で乗客を運んだり、そのサービス合戦は留まるところを知らなかった。この競争は青函航路だけでなく日本全国の国内主要航路で繰り広げられ、東京・神戸間の運賃が25銭にまで下落した。激しい競争により両者とも運賃収入が大幅に激減し、両者共倒れになるのは当然の成り行きである。このまま両者ともに倒産すれば日本の海運業界は破局を迎え、国内の経済も悪影響を及ぼすことは必至であった。政府はこれに抜本的な手を打つことにし、明治18年9月、両社を合併させて日本郵船株式会社を設立させた。

 日本郵船は青函航路に「浪華丸」「志摩丸」「貫効丸」の3船を配船して青函航路の建て直しを計った。この時代までの青函航路の役割は街道の終点同士を結ぶ渡し船でしかなかったが、この頃から青函航路に新たな輸送需要が加わることになる。
 明治24年(1891年)9月1日、日本鉄道株式会社が上野から北へ北へと伸ばしてきた東北本線を全通させた。翌年8月にし北海道炭鉱鉄道株式会社が現在の室蘭本線に当たる岩見沢〜室蘭間を開通させた(既に札幌〜岩見沢間は開通済み)。日本郵船は東北本線で青森に到着し、海峡を渡る大量の乗客を運ぶという鉄道連絡船としての役割を担うことになり、鉄道連絡を目的に明治26年から青森〜函館〜室蘭間の三港連絡航路を開設する。それでも鉄道で到着する貨客をさばききれなくなり、これに北海道の人口増加も重なって海峡を往来する人々は日に日にその数を増していった。鉄道会社側は日本郵船側に船便の増便を要請したが、日本郵船はそれに応じることはできなかった。全国組織の船会社としては、一航路だけを鉄道と一体化した運行形態に変えて船舶を集中投入するわけには行かなかった。特に日露戦争中は船舶も徴用されたため、戦後も好景気で船舶が何処も足りない状況になり、日本郵船も船舶不足に陥っていたのである。そのため、特に青森では旅客、貨物ともに何日も船待ちしないと乗れないような状況が続いていた。
 明治37年(1904年)10月15日、北海道鉄道株式会社が小樽〜函館間の鉄道を開通させた。これが海峡輸送の混乱に拍車をかけることになる。この頃から日本鉄道は独自に船舶を調達し、青函航路に自分の船を鉄道連絡船として走らせる検討を始めた。この前に西の山陽鉄道が九州連絡の関門航路、朝鮮半島連絡の関釜航路、現存する唯一の鉄道連絡船である宮島航路など6つの鉄道連絡航路を擁し、営業的にも成功していたことも日本鉄道を刺激した。
 日本鉄道は当初、750トンクラスの連絡船を3隻導入するという案であったが、今後の需要を研究した結果、1500トンクラスの船が必要ということになった。3隻という数字は2隻を通常運行し、1隻は予備という計画であった。後に船の性能などから予算内で1500トンの船を3隻造ることは困難とされ、予備なしの2隻に計画は改められた。さらに今までの蒸気レシプロ船はやめて、蒸気タービン船を導入して大幅にスピードアップしようという構想となった。
 仕様が決まったところで、日本鉄道は国内3社、海外6社の造船所に見積をさせた。その結果を踏まえて、イギリスのデニー・アンド・ブラザーズ社に2隻の海峡渡航船を発注したのは明治39年11月であった。

5 「東海丸」の遭難

 この時代の青函航路ではあまり知られていない海難事故がある。この章の最後に記す。
 定期航路開設以降の青函航路で起きた重大海難事故と言えば、昭和29年(1954年)の洞爺丸台風がまず思い浮かぶと思うが、戦前までは青函航路の事故と言えば日本郵船の「東海丸」事故がよく知られていた。この事故はひとりの船長の英雄的行為により、昭和初期の小学校の教科書にも載ったほどである。
 明治36年(1903年)10月28日23時、乗客乗員104名と多くの貨物を乗せて「東海丸」(1121トン)は吹雪の青森港を出港した。あまりの強風で速力が出ず、海峡入口の平館まで通常2時間のところ2時間40分の所要時間を費やした。海峡に入ると船はまっすぐ北上するコースを取るが、折からの西風のために進路を少し西に傾けた。「東海丸」は西風を振り切って29日午前4時に海峡中央部に達した。定刻より1時間遅れである。ここで函館港へ向かうために進路を東へ向ける、すると追い風になるので「東海丸」は全速力で函館港を目指した。
 ところが午前4時38分、矢越岬付近まで来た「東海丸」の船体に大音響が響いた。ロシア船籍の貨物船、「プログレス号」と衝突したのである。「プログレス号」は室蘭からウラジオストックへ向けて石炭を運んでいる途中、「東海丸」の側面にその船首を突っ込んだのだ。
 「東海丸」の船体は見る間に傾いた。久田佐助船長はすぐに沈没の危険ありと判断し、総員退船の準備をてきぱきと進めた。乗務員に救命ボートの準備をさせ、自らは乗客を誘導し、
「船が沈んでも皆さんは助かる、決して狼狽してはならぬ。」
と毅然とした態度で乗客をなだめ、救助に手を尽くした。
 乗客・乗員全員の救命ボートへの移乗は済んだが、船長には気掛かりなことがあった。1時間も遅延を出すような大時化である。救命ボートを浮かべたところですぐに転覆してしまう危険が高い、一刻も早く救助を呼ばないと第二・第三の悲劇になることが容易に想像できた。
 いよいよ救命ボートを下ろすときが来た。船長は救命ボートに乗るのを拒んだ。他の船員が
「船長、早くボートへ…」
と叫ぶが、船長は動こうとしない。その船員が見ると船長は身体を船橋の欄干に縛り付けていた。
「船長、私もお供します」
「船と運命を共にするのは船長の義務だ。お前は逃げろ。一人でも多く助かるのが私のに対するお前達のつとめだろう」
…威厳のある声で船長が言うと、その船員は救命ボートに戻るしかなかった。
 そして、救命ボートは下ろされた。救命ボートが「東海丸」から離れると、「東海丸」から汽笛の音が何度も聞こえた。船が遭難し乗客らが救命ボートで逃げたことを知らせる汽笛を、衝突後に船から離れてしまった「プログレス号」に向けて、沿岸の村に向けて、久田船長は「東海丸」に一人残って鳴らし続けたのだ。やがて「東海丸」の汽笛の音は途絶えた。5時過ぎに「東海丸」が沈没した瞬間である。その沈没の瞬間まで久田船長は非常汽笛を鳴らし続けた。
 船長の懸念が当たり、大時化の海峡に放り出された救命ボートは木の葉の如く翻弄され、辛うじて水の上に浮いているのがやっとの状況だった。5隻の救命ボートのうち、何隻かは転覆してしまっている。しかし、久田船長が生命を賭けて鳴らした非常汽笛の音を頼りに現場に戻った「プログレス号」が救命ボートの収容を開始した。乗客・乗員の半数近い47名の生命が奪われたが、大波浪と夜、それに吹雪による視界不良を考えると57名の生存者を出したことは奇蹟に近い。久田船長がその生命と引き替えに鳴らし続けた非常汽笛を聞いて、「プログレス号」が現場に戻ったためにこれだけの生存者を記録したと考えられるだろう。もし久田船長も一緒に救命ボートに乗って逃げていたら、犠牲者の数はさらに増えたに違いない。久田船長の死は無駄にはならなかったのだ。
 久田船長は自分の妻に、「船長たる者は万一の場合は決死の覚悟がなければならぬ、従って自分が乗った船が遭難して100人中99人助かったとしても、帰らぬものと思え」と常日頃言っていたという。久田船長は万一の際は生命を投げ捨てでも乗客を助けなければならない、それが船長の務めと思っていたのである。
 久田船長の英雄的行為はすぐに日本全国に報道され、はるかイギリスでも「世界の名船長」としてこの事件が紹介されるようになった。自分の船に乗った乗客の安全に対する責任感を全うするため、自分の生命を捨ててでも一人でも多くの乗客の生命を助けようとした彼の姿は、現在でも多くの船乗りたちに語り継がれ、その後の青函連絡船でも船長の模範であり、覚悟であるとされた。
 現在でも久田船長の故郷では10月29日に記念式が行われているという。


 以上が青函連絡船が就航するまでの津軽海峡である。それまでの海峡は人を寄せ付けない神秘のベールに包まれていたが、人間の知恵と英知によってまず海路が開かれたのである。
 そして、人間の歴史もこの海峡に見ることができる。だから少しだけ、本筋から外れた歴史にも触れてみた。
 次回はいよいよ国鉄青函連絡船が津軽海峡に登場する。イギリス生まれの2隻の連絡船の活躍を、次回では書いてみよう。

つづく


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