第二章 青函連絡船就航
〜比羅夫丸・田村丸の時代〜


1 鉄道連絡船
2 鉄道国有化
3 国鉄青函航路誕生
4 傭船の時代へ

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 ここから昭和時代中頃までの青函連絡船の歴史によく出てくる用語に「蒸気タービン船」という言葉がある。国鉄青函連絡船80年の歴史の中で、四分の三に当たる60年に渡ってこの「蒸気タービン船」が津軽海峡に君臨する。今回はこの説明から始めることとする。
 蒸気機関という動力源は、これを読んでいる多くの人はご存じと思うが、燃料である石炭や重油がそのまま動力になるわけではない。燃料を燃やして発生する熱によって水を沸騰させ、それによって発生した高温高圧の水蒸気を動力に変換するのである。燃料の燃焼をそのまま動力にするガソリンや軽油の機関と違い、水(水蒸気)という媒体を通じて動力を発生させるため、燃料効率は芳しくない上、ボイラーなどの施設が必要なため小型軽量化は難しい。だが人間が機械によって動力を得るには、当初は蒸気機関に頼る以外には手はなかった。
 蒸気機関は効率が悪いため、得た動力を使えるかたちに変換する段階では無駄を極力省かねばならない。人間が最初に作った蒸気機関は、高温高圧の水蒸気をシリンダに送り込むことによって、ピストンの往復運動にして動力を取り出していた。そのピストン運動を、ピストンにつながれたロッドを介して車輪につなぐことにより回転運動に変換することができる。蒸気機関車を見ればこの構造が露出しているので分かりやすいだろう。これが蒸気レシプロ機関で、船舶にも広く使用されていた。蒸気機関車と同じ原理でシリンダ往復運動を回転運動に変換し、車輪ではなく外輪やプロペラを回すことによって推進力を生じさせ、船を動かした。
 この方式を船舶に採用するに辺り、多くの難点があった。蒸気機関で大きな力を出すためにはシリンダやピストンに大口径のものを使わねばならず、スペースの限られた船の多くの部分を犠牲にしてしまうこと。シリンダ・ピストンが大口径になると高回転運転が不能になって船の速力が上げられないこと。そしてスクリュー式の船の場合、回転軸を船体と並行方向にとらねばならず、どうしてもシリンダを縦方向に設置せねばならなくなるので、機関が上方向へ大きくなって機関を境に船内が分断されてしまう上、重心が高くなって船としての安定性が悪くなるなど、難点が多かった。
 この蒸気レシプロ機関に代わる蒸気機関の登場が熱望された。この結果、登場したのが蒸気タービン機関である。1884年にイギリス人のパーソンスが発明し、その10年後にパーソンスは試験船「タービニア」号にタービン機関を搭載し、改良を重ねて1896年に32.8ノットという驚異的な速力を記録した。その性能が認められると、5年後に商船用としてイギリスで実用化された。
 蒸気タービン機関とは、高温高圧の蒸気を羽根車(タービン)に吹き付けて回転力を得る機関装置で、水蒸気が持つ高圧エネルギーを直接回転力として得ることができるので、シリンダによるピストン往復運動をロッドで回転運動に変換する必要のあるレシプロ機関に比べて効率が格段に上がった。さらにシリンダやピストンが不要になって機関の小型軽量化が実現して接触部分が減り、往復運動がなくなったことにより高速回転運転も可能となった。さらにタービン回転軸を船体と並行方向にすることもできたため、機関設置方向の制約がなくなり、機関装置がすべて船底にまとめることができて船内利用の効率化をも図ることが可能になった。その上、ピストン往復運動がないために騒音や振動も少ないので、客船には好ましい機関である。
 さらに排気された水蒸気をもう一度低圧機関用として使うことも可能で、今回の主役である「比羅夫丸」「田村丸」も高圧機(主機)を回し終えた水蒸気をもう一度低圧機に引き込み、もう一度小さなタービンを回転させてエネルギーを再利用するという構造であった。
 このタービン機関が発明されてわずか24年後に、当時東北地方に路線網を拡げていた鉄道会社である日本鉄道が、北海道への連絡船としてタービン機関の採用を決定した。これが今回の主役の「比羅夫丸」と「田村丸」で、国内船舶業界では日本最初のタービン船としてよく知られている。この頃の日本では海軍が戦艦と巡洋艦にタービン機関の採用を決めたばかりで、それらの就航は「比羅夫丸」「田村丸」就航より後になる。「比羅夫丸」「田村丸」は商船・軍艦を問わず、当時の日本における最優秀船であった。
 しかも、この画期的な船を採用したのが鉄道会社というから驚きである。諸外国でもタービン船の数は少なく、「比羅夫丸」「田村丸」がイギリスのデニー・アンド・ブラザーズ社造船所から回航されるときに寄港した多くの港で最初のタービン船入港となり見学者が耐えなかったという記録が残っている。
 青函連絡船では1970年(昭和45年)4月に最後の蒸気船となった「十勝丸」(初代)が引退するまでの63年に渡って蒸気タービン船は津軽海峡で活躍する。その間に燃料は石炭から重油に改められたが、機関の基本構成は変わらなかった。これほどの長期に渡って採用される機関を他の誰よりも先に採用した日本鉄道の先見性には敬服するばかりである。

1 鉄道連絡船

 ここで少し津軽海峡の歴史から逸れて、明治の鉄道連絡船の歴史に目を向けてみよう。なお、分かりやすいようにこの項に限り、地名・駅名は現在の名前で統一することにする。

 日本最初の鉄道連絡船は1880年(明治13年)まで遡って話をしなければならない。最初の鉄道連絡船は「湖」でスタートした。
 この年の春に滋賀県の長浜と福井県の敦賀を結ぶ官設鉄道の計画が決まった。そして港町である敦賀から鉄道で長浜に到着した貨物や人を京都方面へ輸送するのに、すでに鉄道が開通している大津まで琵琶湖上を船舶で連絡することが決まり、これが民間に委託されるという情報が流れると、琵琶湖の水運会社はもちろんのこと、滋賀県外の業者も含めて多数の業者が琵琶湖鉄道連絡船の利権を巡って争うことになった。多くの船会社がサービス合戦で少しでも成績を上げようと必死になり、この自事態を重く見た県当局が各社を説得、その結果船主達は合同して新会社を設立することになった。これが大湖汽船会社であり、1882年に業務を開始して、翌年秋には日本最初の鉄道連絡船となる「第一大湖丸」「第二大湖丸」の2隻が琵琶湖上に姿を現した。
 1884年(明治17年)に現在の北陸本線の一部である敦賀〜長浜間の鉄道が開通すると、関西方面と敦賀方面や中京方面(関ヶ原から長浜までの鉄道は開通済み)を連絡する鉄道連絡船として2隻は運行を開始した。大湖汽船との通し乗車券も発売され、名実共に鉄道連絡船として運行していたのである。なお当時の大津駅は現在の京阪電鉄浜大津駅、膳所までは現在の京阪電鉄石山坂本線のルートであった。
 この長浜〜大津航路は好評を博したが、1889年(明治22年)7月に米原〜膳所間の鉄道が開通して現在の東海道本線がひとつに繋がると、僅か7年の役目を終えた。「第一大湖丸」「第二大湖丸」ともに分解されて大阪港に運ばれ、再度組み立てられて国内航路で活躍をしている。

 日本最初の鉄道連絡船は「湖」で誕生したが、二番目の鉄道連絡船は「川」を連絡した。
 1885年(明治18年)7月、上野から北へ北へと線路を延ばしていた日本鉄道は宇都宮まで鉄道を開通させた。ところが途中の利根川の鉄橋だけは間に合わずに、渡し船で連絡することになった。渡し船ではあるがこれも立派な鉄道連絡船である。しかし、1年と経たないうちに利根川の鉄橋が完成し、この渡し船は姿を消すことになった。津軽海峡に海底トンネルが完成して青函連絡船が廃止になり、瀬戸内海に架橋されると宇高連絡船が姿を消すという、ここから100年以上先の出来事を予想させるような短い歴史であった。
 1901年(明治34年)には京都府の日本海側に大規模な「川」を利用した鉄道連絡船が生まれる。当時、大阪と舞鶴を結ぶ構想を持っていた阪鶴鉄道が尼崎から福知山まで鉄道を開通させたが、その先は京都鉄道という別の会社が路線免許を持っていたために建設ができなかった。しかし京都鉄道が舞鶴への鉄道建設に着手する様子がないので、1901年12月、福知山市内を流れる由良川を使って下流の町、藤津へ鉄道連絡船を運航した。藤津からは舞鶴と宮津へは人力車が連絡し、交通機関による大阪〜舞鶴間の移動が可能になった。「第一由良川丸」「第二由良川丸」の小型蒸気船2隻で由良川を上り下りしていたが、1904年に舞鶴までの鉄道を全通すると役目を終えた。これにより阪鶴鉄道は新たな鉄道連絡船を開設することになるが、これは後述とする。

 ここからは本格的な「海」の鉄道連絡船の時代になる。
 官設東海道線の終点である神戸と、下関を結んでいた山陽鉄道は多角的な経営に乗り出していた。列車にはボーイを乗せたり、寝台・食堂車といったサービスをいち早く取り入れたことで知られる山陽鉄道であるが、他にもホテル経営をしたり、レールが海にぶつかれば当たり前のように航路を開設して対岸とを結ぶという経営方針であった。山陽鉄道が開設した鉄道連絡船は8航路にも及んだ。
 最初の航路は1897年(明治30年)に西へ西へと伸ばした鉄道が徳山に達したときに開設された。引き続き下関へ向けて鉄道の建設は続いていたが、山陽鉄道はその開通を待ちきれずに3隻の船を借り受けて、徳山から九州の門司経由で下関とを結ぶ航路を開設した。1899年(明治32年)には自社発注した連絡船、「豊浦丸」「馬関丸」の2隻が同航路に就航した。これが「海」での鉄道連絡船第一号である。1901年(明治34年)5月に山陽鉄道が下関まで全通すると、航路は廃止された。「豊浦丸」「馬関丸」はのちの関門航路に使用する予定であったが、様々な理由によりこの2隻は関門航路で使用されることはなく航路廃止の2年後に売却された。
 山陽鉄道が全通すると、今度は下関と門司を結ぶ「関門連絡船」の運行を開始した。運行を前に2隻の連絡船「大瀬戸丸」「下関丸」(初代)を発注、両港には浮き桟橋による乗下船設備を整備して九州連絡の大量の乗客をさばいた。
 山陽鉄道の九州連絡の次の狙いは四国連絡であった。1903年(明治36年)までに2隻の連絡船を増備、「児島丸」「玉藻丸」と名付けられて岡山〜高松間と尾道〜多度津間の航路を開設した。
 「玉藻丸」は岡山〜高松航路専用となり、これに接続する岡山駅前から岡山港まで旭川を上り下りする航路も開設された。この航路は本州側の発着港を宇野に改めて「宇高航路」へと引き継がれ、国鉄からJR四国へと歴史が変わって1990年代まで運行されることになる。
 「児島丸」は尾道〜多度津航路に専用されたが、こちらは他社便もあったので利用客は振るわず、また「玉藻丸」が検査で欠けると岡山〜高松航路へ船がかり出されて航路運休となってしまうため、思うように実績を上げられなかった。
 同じ1903年、山陽鉄道は多角経営の一環として宮島への渡船会社を買収、「宮島丸」を用いて宮島口〜宮島までの航路を開設した。宮島には鉄道はないが、山陽鉄道ではこの連絡船を通じて宮島までの通し乗車券を発売していたので立派な鉄道連絡船である。1905年(明治38年)に新造船「厳島丸」を投入してサービスの向上を狙った。これが現在のJR西日本宮島航路で、現存する唯一の国鉄航路である。
 1904年(明治37年)になると、山陽鉄道は2隻の大型渡航船を発注した。九州連絡・四国連絡・宮島観光を手中に収めた山陽鉄道の次の狙い目は朝鮮半島だった。この頃の玄界灘には本格的な定期渡船はなく、朝鮮半島への航路整備が急がれていた。
 しかし、この頃は日露戦争のただ中である。まだ小国でしかない日本が、ロシアを相手に国運を賭して戦っている最中に、主戦場である対馬海峡に客船による航路を開設するという無謀な構想であった。山陽鉄道は日本が戦争に勝利することを期待し、戦後の大陸進出への足がかりとしてこのような計画を立てたのである。連絡船を製造している目の前で陸軍の輸送船がロシア艦隊に撃沈されるなどの事件が続いていたが、連絡船の建造は急ピッチで進んでいた。
 1905年(明治38年)1月、釜山とソウルを結ぶ鉄道が開通。山陽鉄道にとっての問題は日露戦争の戦局だけであった。その日露戦争も日本がバルチック艦隊を撃ち破って勝利し、9月に講和条約が結ばれると待ちかねていたように山陽鉄道は航路開設の準備に取りかかった。
 1905年11月、新造大型連絡船「壱岐丸」(初代)により下関〜釜山航路(関釜航路)が開設された。山陽鉄道最大の航路で、この後40年に渡り日本と朝鮮半島の間を結び続け、戦前の鉄道連絡船の歴史を彩る関釜航路の始まりである。すぐに「対馬丸」(初代)が加わり、玄界灘を安全・快適に定期運行した。

 山陽鉄道以外の鉄道会社も海に出ていた。
 1897年(明治30年)に九州鉄道が鳥栖〜佐世保間と長崎〜長与間を開通させた。大浦湾を挟むかたちで鉄道が開通したため、この間(早岐駅〜長与駅間)を連絡船で結んで長崎への交通手段とすべく地元の船会社に依頼するかたちで小型蒸気船10隻を配備して早岐〜長与間に鉄道連絡船を開いた。翌年1月には早岐から大村まで鉄道が延長し、同時に起点港も早岐から大村に移された。だが11月に大村〜長与間に鉄道が開通すると、長崎へ鉄道が直通するようになってこの連絡船は僅か1年の役割を終えたのである。
 舞台は再び京都府北部に移る。阪鶴鉄道が大阪〜舞鶴間直通鉄道の構想を持っていたことは前述した。その構想に向けて尼崎〜福知山間の鉄道を開通させたが、福知山から舞鶴へは京都鉄道に路線免許を取られて建設できずにいた。ところが日露間の外交情勢が悪化すると軍事港舞鶴への陸上輸送を強化する必要が生じた。そこで国は京都鉄道の鉄道建設免許を取り消し、自ら福知山〜舞鶴間の鉄道を1904年(明治37年)に開通させた。阪鶴鉄道の大阪〜舞鶴間鉄道の夢は潰えたかに見えたが、政府は例外的に福知山〜舞鶴間の官設鉄道経営を阪鶴鉄道に委ねることにしたため、大阪〜舞鶴間に直通列車が走るようになった。
 阪鶴鉄道は自社路線への旅客誘致を狙って、舞鶴を中心に複数の鉄道連絡船を開設した。1904年(明治37年)11月の舞鶴への鉄道開通直後に、舞鶴〜宮津間に航路を開設し「橋立丸」により1日1往復運行した。1905年4月に部分的に鉄道が開通していた境(鳥取県)への航路を開設して「阪鶴丸」を配置した。1906年には若狭湾の城下町である小浜への航路を開設して「第二橋立丸」を就航させた。さらに後述する鉄道国有化後には舞鶴から天橋立などの宮津湾内の小さな町を結ぶ鉄道連絡船も誕生している。

 このように明治時代は鉄道の路線網が広がると共に、鉄道連絡船も「鉄道開通までの仮の姿」として日本各地で開設されては消えていった時代であった。そして国鉄の歴史を彩る長大航路もこの時代に誕生したのである。

2 鉄道国有化

 次に明治時代の鉄道事情に触れよう。
 1872年(明治5年)に新橋〜横浜間に開業した鉄道は、最初は国の手によって路線網を延ばす予定であったが、全ての鉄道建設の予算を捻出するのが困難だったため民間の鉄道建設や経営を認めることになった。それにより各地の有力者が出資しあって日本各地に数多くの鉄道会社が誕生した。東京と神戸を結ぶ鉄道については国が直接建設することになったが、他の多くの路線は私鉄としてスタートしている。
 1890年代になると、国内の鉄道の殆どが私鉄で官設路線が少なすぎるということを問題に上げる声が出てきた。時を同じくして地方私鉄が経営難に陥り、経営を国に任せたいという声も聞こえるようになってきた。さらに鉄道会社間、または私鉄と官設鉄道間で連帯輸送は進んではいたものの、車両の運用や営業施策上に不合理や無駄が多く、戦争を経験して鉄道輸送の重要さを思い知った軍部が鉄道を統合して全国的な運用を可能とすることを求めていた。
 1905年(明治38年)の路線網を見ると、全国で7600キロあまりの路線網のうち7割が私鉄で、主要幹線だけで見ると、官設鉄道は東海道本線・北陸本線・中央本線・信越本線・奥羽本線などが開通していた。それに対し私鉄は、日本鉄道の東北本線・高崎線、山陽鉄道の山陽本線、九州鉄道の鹿児島本線(八代以南はまだ未開業)・長崎本線、北海道鉄道の函館〜小樽間、北海道炭鉱鉄道の手宮(小樽市内)〜空知太間・室蘭〜岩見沢間、これらが主な鉄道路線であった。
 前述したような声が高まったときの中、1906年(明治39年)に第二十二帝国議会が開かれて、鉄道国有化に関して激しい論争が行われた。そしてこの国会で「鉄道国有法案」を修正可決、3月31日付で「鉄道国有法」が公布された。これにより17の路線が国有化されることが決まり、政府は各鉄道会社と買収価格などの折衝を始めた。
 さらに鉄道会社が持つ船舶や航路についても国が買収して国有鉄道が経営することが決まり、日本鉄道が発注して建造中の2隻、山陽鉄道が6航路で運航中の12隻と艀42隻、阪鶴鉄道で運航中の3航路4隻と建造中の1隻と艀21隻が国有鉄道へ引き継がれることになった。
 1906年(明治39年)に順次私鉄が国有化されて、JRの前身である国鉄がスタートした。ただこの頃は国有鉄道という公共企業体ではなく、最初は工部省内の「鉄道庁」が、1908年(明治41年)12月からは政府に「鉄道院」が置かれて、鉄道は国が直営していた。これらの鉄道の買い取り額は4億8千万円、現在でいえば5兆円くらいの額である。
 国鉄所有の船舶には、煙突に工部省所有船を示す「工」の字が描かれた。後に国有鉄道の所有が「鉄道院」「鉄道省」「運輸通信省」「運輸省」「日本国有鉄道」と変わっても煙突の「工」の字は変わることはなく、1964年(昭和39年)に青函航路に投入された「津軽丸」(二代)で国鉄のJNRマークに煙突のデザインを変更するまで使用された。

3 国鉄青函航路誕生

 第一章で日本鉄道が2隻の連絡船をイギリスの造船会社に発注したところまで話をした。
 前章を思い出していただけば分かるのだが、この連絡船が発注されたときにはすでに日本鉄道の国有化はほぼ決定していたのである。日本鉄道は私鉄ではあるが、その経営陣には岩倉具視を始めとする旧藩主などが名を連ね政府から手厚い保護を受けており、現在で言う第三セクターに近かったといわれている。車輌製造や路線建設の技術は官設鉄道のものをそのまま流用しており、このタービン機関を採用した最新鋭連絡船の発注も政府の了承済みであった。造船途中の船の日本鉄道から政府への引き渡しも滞りなく行われ、この2隻は晴れて国鉄所有船となった。
 1907年(明治40年)7月、イギリスのデニー・アンド・ブラザーズ社造船台でその連絡船の第一船が「比羅夫丸」と名付けられて進水した。そして10月には全ての工事が終わって試運転を開始、4回目の試運転で19.1ノットという高速を記録し、素晴らしい功績と褒め称えられた。そしてタービン取り扱い技術取得の為に添乗した日本人技師数名と共に、イギリスの回航業者の手によってインド洋を横断して日本へ向かった。年の瀬も押し迫った12月26日、「比羅夫丸」はその姿を横浜港に現した。日本船としての検査を受け、明けて1908年(明治41年)に比羅夫丸は鉄道庁に引き渡されて2月末に青森へ回航された。
 1908年(明治41年)3月7日午前10時、「比羅夫丸」は乗客や貨物を満載して青森港を出港した。鉄道連絡船としての青函航路誕生の瞬間である。当初は1日1往復のダイヤが組まれ、青森港を午前10時出港、函館港を午前0時出港で毎日運行、所要時間は4時間である。一ヶ月後の4月4日に「田村丸」と名付けられた第二船がこれに続く。同時に1日2往復運行に増便された。
 運賃は一等3円、二等2円、三等1円で、乗船時の艀代(当時は青森港も函館港も桟橋設備はなく、陸から船へは艀を利用するのが通例であった)と携帯品運搬料は無料であった。日本郵船青函航路より運賃が一割安く、日本郵船は艀代と携帯品運搬料で10銭ずつ取っていたから、運賃では大幅に差をつけることになる。
 さらにタービン機関採用により巡行速力を18ノットに引き上げることが可能となり、所要時間を今までの6時間から4時間へ大幅に縮める事に成功した。鉄道庁青函連絡船は速い・安いと評判になり、たちまち日本郵船の船客を奪い取った。この航行時間4時間というのがどれ程優秀かといえば、この後の青函連絡船の歴史を見ているとよくわかる。「比羅夫丸」「田村丸」の時代が終わると、同じタービン機関でも船が大型化して速力が落ち、青函間の所要時間が4時間半に伸びてしまう。再び所要時間が約4時間となるには1964年(昭和39年)の「津軽丸」(二代目)就航を待たねばならない。
 青森・函館では「タービン」を看板に掲げる店が増えた。靴屋や洋服店が「仕上がりが速くて安い」という意味を込めて付けた名前である。「比羅夫丸」「田村丸」の就航から2年が過ぎた1910年3月、日本郵船は国鉄の優秀船との競争に敗れて青函航路を廃止した。以後50年以上に渡って青函航路は鉄道連絡船の独占航路となる。

 ここで船の詳細を説明しよう。外見は直立形の船首に皿形の船尾という形態でこの頃の一般的なスタイルである。中央部に1本煙突があり、その前後にマストが2本立っているが、どれも後へ傾斜するように取り付けたのでスピード感溢れるスマートな外見となった。
 船名は蝦夷討伐で知られる歴史上の人物、阿部比羅夫と坂上田村麻呂に由来するもので、日本鉄道の社長が名付け親であった。大きさは「比羅夫丸」は1480トン、「田村丸」は1479トン。全長は両船とも87メートル。船舶符号は「比羅夫丸」はLTJR、「田村丸」はLFJF。旅客定員は一等22名、二等52名、三等254名の合わせて328名。乗組員数は71名。積載貨物量は239トン。
 船の心臓である機関は、何度も書くように蒸気タービン機関が主機1台と低圧機2台で合計3機。中央の主機は直径0.76メートル、長さが2.09メートルあった。左右両舷に低圧機が1台ずつ配置され、直径1.06メートル、長さが2.34メートル、それに直径0.89メートル、長さ1.59メートルの後進用タービンが取り付けられていた。船を推進させるプロペラは3軸つけられており、主機は中央の大きな3枚羽根のプロペラに、低圧機は左右両舷の小さな4枚羽根のプロペラに直結されていた(減速機はなかった)。操船は、通常航海時は主機と低圧機2機を前進へ、入出港時は主機を停止し低圧機のみを前後進調整して操船した。合計出力は3368馬力。
 動力源である水蒸気を生み出すボイラーは直径4.8メートル、長さが3.56メートルで蒸気圧11.59kg/cuのものを2機装備。燃料は石炭である。

 船内は大きく三層に分かれている。最下層は船底に近い部分で中央に機関室があり、その後方は三等船室となっていた。三等船室は蚕棚で上下二段に分けられたために上下間隔の狭い雑居室となっていた。三等船室と機関室の間に貨物室があったが三等船室との仕切りはなかった。機関室の前側は船員区画になっていた。
 中間層は遊歩甲板で一等・二等客室区画である。煙突を境に前が一等区画、後が二等区画である。一等船室には天窓にステンドグラスを採用した食堂、客同士が歓談をする社交室が備えられ、優雅な船旅ができるよう演出されていた。客室はすべて区分室で紳士用と婦人用に分かれており、それとは別に個室も用意された。二等は畳敷きの雑居室と寝台室が用意されており、各室には扇風機が備えられ、蓄音機でBGMを流していた。末期には流行に先駆けてモーター仕掛けのアイスクリーム製造器が搭載され、好評を博した。
 最上層は船長室と一等航海士室と一等特別室があるだけだった。その上に船橋があったが、就航当時は吹きさらしの甲板上にコンパスと舵輪が置かれているだけだったが、冬の寒気や降雪には耐えられず1年と経たないうちに天井を張り、前面をガラス張りにし、周囲も囲って立派な船橋に改造された。

 「比羅夫丸」「田村丸」の高速性能、快適性は人気を博したがひとつの難があった。それは青森と函館の港湾設備である。両港とも桟橋設備はないので陸岸から船に乗るまで艀(小型の曳き船)で連絡していた。夏の穏やかな日は船頭が舟唄を歌いながら操船するなど風情があったが、風浪が強い日などは命がけの乗下船となった。一等・二等客はタラップに艀をつないで確実な乗船ができたが、三等客は船の側面の乗船口から飛び乗らねばならなかった。乗下船を手伝う船員も客にしがみつかれて体中が痣だらけになり、苦労が耐えなかった。稀に海中に転落する客もあったが、すぐに救助されこれによる犠牲者はない。
 青函航路運行開始から2年後の1910年(明治43年)12月、現在の函館駅横に連絡船専用の木造桟橋と接岸設備一式が完成し、函館港では連絡船が直接陸につながれて客も直接乗下船できるようになった。しかし、青森では長く艀による乗船が続き、連絡船桟橋の完成は1924年(大正13年)3月までずれ込んだ。函館のものはその後撤去されて新たな桟橋が造られたが、青森のものはそのまま第二岸壁として残り現存しており、現在は保存船「八甲田丸」が係留され、共に今は亡き青函連絡船の歴史を後世に伝えるべく残されている。

4 傭船の時代へ

 「比羅夫丸」「田村丸」により鉄道連絡船としての青函連絡船が開かれ、津軽海峡の渡航時間が大幅に短縮されることについては、当初は青森・函館の双方から反対する声が多かった。所要時間の短縮による増便により船待ちをする人が減り、それにより活況を呈していた街が寂れるのではないかという心配であった。しかし両船が就航すると津軽海峡の輸送力は格段に上がり、それが新たな需要を呼び起こして双方の街の人口が増えて今まで以上の活気が漲るようになった。日本郵船が航路から撤退すると、津軽海峡の輸送は青函連絡船だけにのしかかるようになり、日に日に貨物・旅客共に輸送実績を伸ばしていった。
 特に貨物については目を覆う状況であった。青森・函館両港に滞貨の山ができて、連絡船が貨物を貨物室に満載して出港しても滞貨の山は増える一方であった。
 さらに「比羅夫丸」「田村丸」も毎日運行できるわけがない。保守や点検のために休ませなければならない日もあった。その度に輸送力は半減し、その度に両港に人も貨物も溢れた。
 そこでこの溢れる旅客や貨物の輸送の補助と、「比羅夫丸」「田村丸」が保守点検で欠航せざるを得ないときの対応として、鉄道院は公共所有の船を中心に船を借り切って運行する「傭船」をはじめた。
 最初に帝国海事協会所有で、普段は台湾航路に使用されている義勇艦「うめが香丸」を1910年(明治43年)から1年間傭船した。義勇艦とは普段は旅客船として、戦時は軍に貸し出して軍艦や輸送船に改装されて使用される船のことである。国産初のタービン機関を採用していたが、船体が大きすぎて燃費が悪いのと、旅客船と軍艦の要素が混在していて使い勝手が悪く、僅か1年で関釜航路へ転属させられた。
 それをきっかけに多くの船が青函連絡船に傭船というかたちで津軽海峡を訪れた。鉄道院以外の船では「会下山丸」「万成源丸」「弘斉丸」「生玉丸」「泰辰丸」「蚊竜丸」「第八大運丸」「羅州丸」「甲辰丸」「第三共栄丸」「第十二小野丸」「伏木丸」「敦賀丸」「山陽丸」「伊吹丸」の合わせて16隻に及んだ。鉄道院所有の船も青函航路に派遣され、1項で前述した舞鶴〜境間連絡船の「第二阪鶴丸」、関釜航路で第一船の栄光を持つ「壱岐丸」(初代)が青函航路で助勤、「比羅夫丸」「田村丸」による海峡輸送を影で支えた。
 それでも殺到する貨物がさばけなくなり、さらに第一次世界大戦がヨーロッパで始まると、軍に船が徴用されたりして世界的に船不足に陥り、海運に頼っていた分の貨物輸送が一気に鉄道に流れてきた。その上、国内でも船舶が不足しており鉄道外からの傭船は困難を極めたため、急遽青函航路に貨物船を新造することになった。
 これによって1918年(大正7年)に誕生したのが木造貨物船「白神丸」「竜飛丸」である。国鉄青函連絡船史上唯一の木造船であるこの2隻は、次の新造船までの「つなぎ」として割り切って作られた。両船とも841トン、速力10.5ノット、全長58メートル、符号は「白神丸」がNWLG、「竜飛丸」がRFNV、機関は蒸気レシプロ機関で出力は555馬力、貨物積載量は985トンであった。この2隻の就航と同時に「比羅夫丸」「田村丸」の貨物スペースの一部を客室に改造する工事を行い、両船とも定員が増加して貨物・旅客共に輸送力を増強することができた。
 さらに1919年(大正8年)、鉄道炭輸送船「第一快運丸」「第二快運丸」の2隻を連絡船用貨物船に改造し、青函航路に投入した。これにより飛躍的に貨物の輸送力が上がるが、これも束の間で数年の後にはまた青森・函館の両港に滞貨の山が出来るようになり、青函航路は抜本的な輸送改革を迫られるのである。

 旅客は列車から船へ、船から列車へ自分で歩いて乗り換えてくれるが、貨物は貨車から貨物を降ろし、それを桟橋まで担いで歩き、船の貨物室に積んでやって、対岸に着いたら逆の手順で貨車に積み込まねばならなかった。その非効率を改善すべく新たなシステムである「車両航送」が考え出されることになる。船の甲板にレールを敷いて、貨物を積んだままの貨車をそのまま乗せてしまおうという大胆な方式である。

 「比羅夫丸」「田村丸」「白神丸」「竜飛丸」「第一快運丸」「第二快運丸」は大正時代の津軽海峡を結び続けたが、この「車両航送」の採用が決まると車両航送ができる「車両渡船」に取って代わられることになった。
 1924年(大正13年)10月、「比羅夫丸」が新造されたばかりの客載車両渡船の第一船「翔鳳丸」に津軽海峡の輸送を託し、青函連絡船から引退した。12月には客載車両渡船の第二船「津軽丸」(初代)、第三船「松前丸」(初代)と入れ替わるように「田村丸」が引退。「田村丸」が1913年(大正2年)1月に座礁事故を一度起こした(犠牲者はもちろん、怪我人もなし)以外、この2隻には大きな事故はなかった。
 1925年(大正14年)には客載車両渡船の最後の一隻「飛鸞丸」と入れ替わるように、貨物船「白神丸」「竜飛丸」「第一快運丸」「第二快運丸」が海峡から姿を消した。

 「比羅夫丸」は引退後、大阪商船に貸し出されて大阪港へ回航された。後に正式に大阪商船に売却となり、大阪港と徳島県の小松島港を結ぶ航路で使用された。
 「田村丸」は稚内港に回航され、夏期間のみ稚内と樺太の大泊を結ぶ鉄道連絡船、稚泊航路で活躍した。1929年(昭和4年)に函館に戻り、「比羅夫丸」と同じ大阪商船に売却された。
 1934年(昭和9年)、両船とも解体されてスクラップとなりその輝かしい生涯を閉じた。

 海峡では「車両航送」という新しい輸送システムがスタートし、新しい時代が始まった。
 しかし、鉄道連絡船としての青函連絡船を切り開き、蒸気タービン機関という新しい機関装置を初めて採用して実用化し、大幅なスピードアップと輸送力増強により海峡輸送に新たな需要を呼び起こし、安全・快適・高速で海峡を渡り続けた「比羅夫丸」「田村丸」の2隻の船の名は、津軽海峡の歴史から消えることはないであろう。


 これが国鉄青函連絡船が誕生した頃の歴史である。最新鋭の設備を誇る連絡船が海峡に新たな需要を掘り起こしたが、それによって輸送方法の抜本的な改革に迫られ、「比羅夫丸」「田村丸」は自らの寿命を縮めてしまったのである。
 次回は貨車をそのまま船に積み込んで輸送する「車両航送」について触れてみたい。車両航送の歴史、システム、それがもたらした影響について書いてみよう。

つづく


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