第三章 「車両渡船」就航
〜翔鳳丸型の時代〜


1 車両渡船の歴史
2 「車運丸」の功績
3 車両渡船採用・翔鳳丸型就航
4 青函丸型車両渡船

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 「車両渡船」…聞き慣れない言葉だと思うが、ここから先の青函連絡船を語る上で必ず出てくる言葉である。読んで時の如く「車両を渡す船」、車両航送という新しいシステムに必要不可欠である貨車をそのま積み込みできる船のことを言う。旅客と貨車の双方を積み込む船は「客載車両渡船」と呼ばれた。現在で言うカーフェリーで、カーフェリーの車両甲板にある自動車を誘導・駐車するためのランプウェイや駐車場の代わりに、レールが敷かれて鉄道車両が入れるようになった構造の船と考えればいい。いよいよここから、青函連絡船も本格的に「鉄道連絡船」らしい顔を見せることになる。

 一口に「車両航送」「車両渡船」と言っても、それは次の3つの技術のバランスの成り立ちの上でないと成立しない。ひとつは貨車を積み込む「船」の設備、ひとつは陸から船へ貨車を積み込むための「地上設備」、そしてもうひとつは船に積み込む「車両」の問題である。

 車両の問題については、全国的に運用される貨車の装備を変えるわけにいかず、船や桟橋が貨車に合わせて設備を整えてきたと言っても過言ではない。車両航送77年の歴史の中で連絡船に合わせて車両側が改造したことは、青函連絡船「津軽丸型」設計時に新形式の緊締具(船の動揺により貨車の転倒を防ぐネジ式の固定用金具)を採用することが決まり、1962年(昭和37年)から4年に渡って日本全国の貨車10万両に「新式緊締具固定用金具」を装備させたときの一度だけであった。青函連絡船の場合は、車両渡船が就航しても当初は本州と北海道で車両側の連結器が違ったために車両の乗り入れが出来ず、連結器が統一されるまでの間は車両航送ができなかった歴史がある(詳細は後述)。

 次に陸上設備である。貨車を船に積み込むと言うことは、当然陸上のレールと船の甲板に敷かれた線路を接続する機構が必要となる。船の到着に合わせていち早く線路を接続し、貨車の積み換えが終わったら速やかに線路を切り離し、船の運航に支障のない状況にしなければならない。さらに停止している船は波による動揺で前後左右に揺られ、潮の満ち引きにより上下に動く。本線と船の線路との間に、これに追従できるレールを挟む必要がある。
 関森航路(1項参照)では海に伸ばされた線路は海中に沈められ、船がくるとそれを引き上げて船の線路と接続する方式が採られた。その方式では人出がかかりすぎるのと、レールが錆びるなどの問題が発生したため、「可動橋」によって陸上の線路を船に橋渡しする方式が開発された。この方式については本文で詳しく紹介する。

 そして船である。「貨車を船に積み込む」と一口に言っても、地上の設備を全て揃え、船の甲板に線路を敷いただけで「ハイどうぞ」と言う訳にはいかない。船にも貨車を安全に積み込んで固定する装置を備え付けねばならない。
 たとえ船が凪の海を航行しているとしても、船独特の動揺からは免れることはできない。さらに海が荒れて時化になると問題はさらに大きく、貨車をきちんと固定しないと、横波によって船が大きく横揺れすれば貨車は横転する危険があり、前方からの大波を喰らえば船は前後に大きく揺れ、積み込んだ車両が動いて車両積み込み口から海中に転落する危険がある。特に前後方向の転動防止は、元々走るように設計された「車両」を動き出さないよう固定しなければならないのだから大問題である。
 そこで、前後方向への転動防止策として船上の線路の終端には連結器を取り付けた強固な車止めを設備し、貨車の連結器を介して貨車と車止め(船)を固定する構造にした。積み込み口側には「車端用緊締具」というワイヤによって貨車を引っ張る形式の固定具を用意し、編成を引っ張ったかたちに固定できるようにした。さらに車輪止めで一部車両の車輪を前後方向に拘束した。
 さらなる転動防止策は貨車の「ブレーキ」である。積み込んだときに入れ替え機関車が貨車のエアブレーキを一杯にかけてから切り離されるのだが、このブレーキが青函航路のように4時間の航海となると緩み始めるため当初は貨車についている足踏み式ブレーキをかけることになった。ところがこのブレーキは編成単位では操作できず、一両ずつブレーキをかけなければならない上、対岸に到着した後にまた一両ずつブレーキを弛めてやる手間も生ずる。このブレーキをかけたり、弛めたりという作業は貨車が多くなると重労働となったため、昭和30年代以降の連絡船では車止めの連結器に機関車同様のエアブレーキ管と空気弁が備え付けられ、積み卸し作業時は勿論、航行中も貨車のブレーキ管への圧縮空気の送り込みが可能になって、車両の前後方向の固定は確実になった。
 横方向への横転防止策は「車両緊締具」を使用した。これは甲板の留め金と貨車の台枠(床板)とを、ネジで長さを調整できる固定金具で固定するものである。これにより通常の航海では車両が横転する心配は殆どないが、時化で動揺が激しくなることが予測されるときは、貨車の台枠と甲板の間に支柱を挟んで車体を少し持ち上げたり、貨車の車輪についているバネ(サスペンション)にくさびを打ち込んでバネを殺すなどして、徹底的な動揺防止策が採られた。
 これらの効果により、事故や戦災などで沈没したもの以外、連絡船上における貨車の転倒事故は皆無であった。

 さらに船側の対策に必要なのは、船そのものの横転防止対策である。
 甲板に敷かれた線路が単線なら問題ないが、青函航路の車両渡船はいちばん少ないものでも複線、主力は4線であった。船内に複数の線路が敷かれているということは、中心から外れた線路で貨車の入れ替えを行うと当然のことながら船のバランスが大きく乱れる。困ったことに船という乗り物は水に「浮いている」ため、陸上の乗り物と違い極端な重心移動に弱い乗り物である。しかも積み荷が貨車で、その貨車の出入りが何両かまとめてあると大きな重心移動が発生し転覆の危険が出てくる。転覆とまで行かなくても、船の大傾斜は免れない。船が傾斜すると貨車積み込みのための可動橋が外れて、積み込み作業も積み卸し作業も続行できなくなる。
 そこで、甲板に線路を複数持つ車両渡船向けに「ヒーリング装置」が開発された。船底の左右に巨大な水タンクが、機関室に大容量の水ポンプが設備され、左舷タンクと右舷タンクと船外とポンプを配管でつないで自由に水の出し入れを行うというもの。例えば空荷の連絡船の右舷側の線路に貨車の積み込みが始まったら、船外から左舷タンクに相当の水を注水して左右のバランスを保つのである。続いて中央の線路で貨車の積み込みが始まれば、左舷タンクに注水した水の一部を右舷タンクに移動することによってバランスが保たれる。さらに左舷側の線路へ貨車の積み込みが開始されれば、右舷タンクから左舷タンクへの水の移動量を増やせばいい。そして出港の際に両方のタンクの水を全て排出すれば船が軽くなって燃費が良くなるし、左右に積み込まれた貨車に重量の違いがあれば軽い側のタンクに水を残してバランスを保って航行することもできる。水ポンプの性能は高く、大正時代末期に建造れさた「翔鳳丸型」客載車両渡船でも110トンの水の出し入れや移動に3分30秒であった。
 青函連絡船の車両渡船の船影を見ていると、貨車の積み卸しを行う船尾にも船橋があるのが特徴だ。これは貨車の積み卸し作業を監視しながら「ヒーリング装置」を操作するための船橋で、こちらの船橋には船の傾斜角を示す傾斜計と「ヒーリング装置」の操作卓があった。この後部につけられた船橋で貨車の積み卸しの様子と傾斜計の針を見ながら、甲板員は「ヒーリング装置」を操作して船と貨車の安全を守っていたのである。

 車両航送は1911年(明治44年)に関門連絡船に付帯の車両航送専用航路「関森航路」で始まった。最初は甲板に線路が敷かれた艀によって開始したが、1919年(大正8年)に関森航路に車両渡船の第一船が登場し、自走する船に直接貨車を積み込む本格的な車両航送が始まった。青函航路でも1914年(大正3年)から艀による車両航送を、1925年(大正14年)に車両渡船による車両航送を開始。以降航路廃止の1988年(昭和63年)まで車両渡船が活躍するのである。第二次大戦終戦直後の昭和20年代前半の一時期には、米進駐軍が国鉄に貸し出した「LST」(上陸作戦用舟艇)の船倉に線路を敷いて車両渡船として使用したこともあった。
 青函連絡船では主に貨車を積み込んで航送したが、のちに手荷物用客車も航送するようになる。さらに本州で製造された北海道向けの機関車・客車・気動車・電車も「貨物」として航送した。第二次大戦後の米軍占領時代は進駐軍用客車や寝台車も「横浜〜札幌間直通列車」として航送するようになったが、乗客は駅ホームで下車させてからの航送であった。

 現在、国内には鉄道車両を船で定期的に航送する例はない。甲板に線路を敷いた「車両渡船」は日本の海から姿を消したが、その技術と経験は現在のカーフェリーに活かされている。甲板に道路と駐車場を用意して自動車を航走するカーフェリーは、現在の「客載車両渡船」と言っても過言ではないだろう。桟橋の可動橋設備、船内の車両固定設備はまさに、鉄道車両を航送した技術の延長である。

1 車両渡船の歴史

 青函連絡船での車両渡船の活躍を語る前に、国内における車両渡船の歴史から振り返ろう。

 車両渡船の歴史を語るには明治30年代まで遡る。1901年(明治34年)に山陽鉄道が現在の山陽本線を下関まで開通させた。同時に下関〜門司間に関門連絡船を開き、九州鉄道と連絡輸送を開始し、定員335名の「大瀬戸丸」と「下関丸」(初代)が就航。貨物輸送には艀を使用して小型蒸気船で曳航した。
 ところが航路開設後すぐに日露戦争が勃発、海運業界は船舶不足に陥り、国内の貨物輸送は沿岸航路から一気に鉄道へ流れた。その結果貨物の輸送量が爆発的に増え、それと同時に大きな問題が発生した。
 終着駅に列車が到着すると、旅客は案内誘導が的確であれば自分の足で桟橋へ移動し、自分の意志で連絡船に乗り換えてくれる。ところが貨物はそうはいかない。貨物をひとつひとつ貨車から降ろし、連絡船の船倉へ積み込んで対岸へ渡し、対岸ではそれをまた貨車に積み込んでやらねばならない。これには多くの労力が必要となった。
 さらにこの積み換えの過程で貨物の破損、紛失、積み間違えによる遅配などの事故が多く発生するようになった。両鉄道の社員が両方の桟橋で立ち会うが、事故は増え続ける輸送量と比例して増えるばかりであった。
 そこで山陽鉄道から関門連絡船での荷物輸送を請け負っていた宮本組の宮本高次が「事故の原因は積み換えにある」ことに着眼、この積み換えをなくすためには貨車ごと船に乗せて海峡を渡せばいいという意見を提案した。こうして「車両航送」が鉄道の歴史に最初に出てきた。
 しかし、折からの鉄道国有化の直前で、山陽鉄道は案は採用したものの、実現できずにいた。そのまま山陽鉄道は国に買収され、関門航路は車両渡船案と一緒に鉄道庁へ引き継がれることになった。
 さて山陽鉄道から関門航路を引き継いだ鉄道庁〜鉄道院であるが、鉄道院もこの積み換えによる事故多発に悩まされることになる。そこで引き続き貨物輸送を請け負わせていた宮本組に車両航送実現へのGOサインを出し、必要な船舶を用意するように指示を出した。そして宮本組の案に従って、鉄道院は下関の竹崎と呼ばれる場所と、門司の小森江(現在もJRの駅がある)に桟橋設備を用意した。
 1911年(明治44年)10月1日、貨車積載用の艀6隻と、曳船の小型蒸気船2隻による新しい鉄道連絡船である関森航路が誕生した。車両航送専用の航路で、これが国内初の鉄道車両航送となる。貨物専用で車両渡船のみが就航した鉄道連絡船航路は関森航路の他、小湊・函館航路(第四章に詳細予定)の2航路のみである。
 夜明けから日没まで、航行時間20分で海峡を往復した。これにより連絡船への貨物積み込み時間は僅か20分に短縮され、同時に大幅な輸送力向上が実現。当初は一日あたり57両と見込んでいた航送車両数は、日に日にその数を増して1年と経たないうちに100両を超えた。さらに増え続ける勢いだったため、鉄道院は1913年(大正2年)に10隻にまで増備された艀と、3隻に増備された曳船を宮本組から買収して直営とした。
 艀は長さ87フィートで7トン貨車3両の積載が可能であった。貨車の積み卸しは船首から行う構造で、船尾には強固な車止めがあってこれで車両を船に固定した。
 下関も小森江も、航送用の桟橋へ向かう貨物線を新設、これが途中で4線に分岐し、階段状になった桟橋から海に線路が沈むように敷かれていた。航送用の桟橋は4線としたが、関門海峡は干潮時と満潮時で2.9メートルも水位差があり、4線のうち2線は満潮用、1線は干潮用、残りの1線は中間潮位用の桟橋と潮位に応じて使い分けていた…「桟橋が階段状」とはこのためである。艀が着岸するとこの線路が海中から引き上げられてまくら木を重ねて高さを調節してから艀の線路とつなぎ、地上のレールと艀のレールが接続されると20人ほどの作業員がワイヤーで牽引したり、肩で押したりして貨車の積み換えを行っていた。1915年(大正4年)からは機関車を使用するようになる。
 ほぼ同様のシステムによる車両航送を、青函航路でも1914年(大正3年)から始めるが、これについては2項以降で後述する。
 1910年(明治43年)6月、山陽鉄道が路線免許を持ちつつも建設することがてきず、鉄道院が免許と建設を引き継いだ岡山〜宇野間鉄道(現在の宇野線)が開通する。同時に山陽鉄道から引き継いでいた2本の四国連絡航路、岡山〜高松間航路と尾道〜多度津間航路を宇野〜高松間航路に統合した…宇高連絡船の始まりである。第二章で紹介した「児島丸」「玉藻丸」に、1917年(大正6年)から「水島丸」を加えて四国連絡の動脈としての歴史が始まる。この宇高連絡船は瀬戸大橋開通後の1990年3月まで鉄道連絡船としてJR四国の手により運行が続けられ、1991年3月に正式に航路廃止となるまで81年にわたる歴史を持つことになる。
 宇高航路でも関門航路と同様、貨物積み換え時による事故が多発するという問題は発生した。そこで宇野・高松の両桟橋に関森航路と同様の設備が整えられ、艀による貨車航送が1921年(大正10年)から開始された。艀は関森航路と同じく7トン貨車3両積みで、最終的には14隻配備された。また、曳船のほうは他航路(鉄道連絡船)からの転属船で占められていた。関森航路では曳船1隻に艀1隻という方法を採っていたが、宇高航路は穏やかな海を航路としていたため、曳船1隻が2〜4隻の艀を牽引した。

 関森航路では日に日に増える貨車航送数を前に、従来の艀による車両航送方法ではパンクすることが必至となった。そこで自力で航行する貨物船の甲板にレールを敷いた新しいタイプの連絡船である「車両渡船」を開発して投入することに決まり、車両渡船に合わせた航送施設の改良に着手した。
 1919年(大正8年)、関森航路に初の車両渡船「第一関門丸」「第二関門丸」の2隻が誕生した。この船の特徴は、甲板中央にレールが敷かれていて7トン貨車7両の積載が可能となっているだけでなく、前後左右対称の「両頭船」であることである。4キロにも満たない短い航路をピストン輸送することを目的に、回頭する手間を省くため「船首」「船尾」の区別をなくした。桟橋につながれていた船は前後の区別なくそのまま対岸に向かって出港し、対岸の桟橋でも前後を気にせずそのまま着岸できるので所要時間の短縮が期待された。甲板上は中央に貨車積載用の線路があり、線路の両端には車両積み卸しの際に倒して収納可能な車両固定用連結器が用意された。車両甲板には屋根も囲いもなく貨車は露天積みであった。外見は線路を跨線橋のように跨ぐ船橋と、線路を挟むかたちで直立した煙突が2本立っていた。水中には推進プロペラはなく外輪船となり、船橋と並行位置に巨大な推進用の水車が左右にひとつずつあった。この推進用水車に、蒸気レシプロ機関が接続されていた。
 同時に航送施設も改良された。岸壁から海に向かって長さ30メートルの鉄橋が架けられ、それは先端部がワイヤで上下できるようになっていた。陸側はピンで固定してレールが軸方向に動くことが出来るような構造となっていて、その橋の先端に連絡船のレールが接続し干満による高さ調整はワイヤによって調整した…陸のレールと連絡船のレールを結ぶ「可動橋」の誕生である。可動橋の誕生により、海中に沈んだレールを持ち上げて接続する手間が省け、着岸作業の迅速化を図ることが出来た。
 これらの設備により大幅な輸送力増強が可能となった。それでもさらなる輸送量の増加に対応するため、様々な改良が加えられながら1926年(大正15年)までに「第三関門丸」「第四関門丸」「第五関門丸」が建造され、本州と九州を結ぶ貨物の動脈として活躍した。
 1942年(昭和17年)に関門トンネルが開通すると関森航路は廃止となり5隻の「関門丸」は宇高航路へ転属、宇高連絡船の戦時輸送を担った。
 宇高航路には「関門丸」を基本に、甲板上の線路を2本とし貨車積載量を倍増させ、ディーゼル機関などの新機軸を採用した(鉄道連絡船初のディーゼル船である)車両渡船「第一宇高丸」「第二宇高丸」を1929年(昭和4年)から就航させていたが、可動橋施設が艀時代の古いものをそのまま流用していた。第二次大戦が始まって宇高航路の貨物輸送力を上げるために「関門丸」を転属させて対応したのである。

 車両渡船を鉄道連絡船に定着させた「関門丸」5隻は第二次大戦後の1948年(昭和23年)、宇高航路に新造客載車両渡船が就航すると同時に引退、関門海峡のフェリー会社に売却された。その売却先で車両甲板の線路を撤去して自動車航送船になり、自動車フェリーとして関門海峡に戻ったのだ。
 「関門丸」の功績は、その後の鉄道連絡船に大きな変革を起こすことになる。「関門丸」の功績により青函航路や宇高航路でも車両渡船の採用が決まり、鉄道連絡船の貨物輸送革命の口火を切ったのだ。

2 「車運丸」の功績

 話を大正時代の津軽海峡に戻そう。

 大正時代初頭、青函航路は「比羅夫丸」「田村丸」と多くの傭船によって殺到する人々や貨物を輸送していた。青函航路では様々な貨物を運んでいたが、唯一運べなくて他の一般海運に委ねていた貨物があった。
 それは北海道で使用される鉄道車両である。北海道には200両あまりの機関車と客車、3800両あまりの貨車が在籍していたが、それは全て本州にある車両会社で造られたものであった。
 当時、北海道向けの車両は本州内の車両会社で造られ、試運転と検査を行ったところで近くの港まで回送し、そこで解体されて部品ごとに分けられて梱包されて船積みし、船に積み込まれて北海道へ輸送。北海道の港で船から積みおろすと開梱されて部品ごとに分けられた箱から取り出し、再度組み立てられて北海道の線路の上に載せられて、車両基地へ回送されてから再び検査と試運転という段取りで北海道に持ち込まれた。この方法では多額の費用と手間がかかり、北海道に車両を投入するだけで莫大な費用がかかることとなった。鉄道院ではこの手間を少しでも省くために関森航路で実績を上げている艀による車両航送を青函航路で採用し、非営業で北海道向けの鉄道車両を回航するために車両航送を行うことを決定した。
 1914年(大正3年)、函館船渠(現在の函館どっく)で一隻の大型鋼製非動力船が建造された。青函航路で北海道向け鉄道車両を回送するために造られた「車運丸」である。この船は艀と同じ、曳舟に曳かれる非動力船ではあるが艀ではなく「船」として扱われた。津軽海峡の気象条件では単なる艀ではダメで、曳かれる船の側にも操船設備が必要となったのだ。全長39.5メートル、全幅7.9メートル、排水量(他の船とは違い総トンによる記録ではなかった)は339トン。
 「車運丸」には動力はないが舵による操船は可能で甲板上には立派な船橋があり、そこには操舵設備一式とコンパスが置かれていた。船首には錨が用意されて沖での停泊が可能な構造にもなっていた。船員も8人が配備され8人分の船員室が船底に備わっており、そのため万が一の際に船員が避難できるように救命ボートも装備していたが、実際には曳舟との連絡用や停泊時の陸上との連絡用に使用されていたと言われる。さらにマストには帆が張れるような構造になっていて、順風の時は帆を張って曳舟の補助もした。
 車両の積み込みは船尾から行う構造になっていた。船尾の積み込み口では1本の線路が、船内の3線分岐器(ポイント)によって分かれていて甲板には3本のレールが敷かれていた。船内の線路に分岐器を持った船は「車運丸」が最初で、以後青函連絡船廃止まで船内に分岐器を抱えた連絡船が活躍する。車両は7トン積み貨車なら7両、客車なら各線に1両ずつで3両、機関車ならば中線に1両のみ積み込みが可能であった。甲板には屋根などはなく、車両は露天積みである。
 苦労したのは曳舟である。船の大きさの割には喫水が深かったので抵抗が大きく、どの船に曳かせても所定の速度を出せずにいた。最初は傭船した貨物船に曳かせ、次に新造貨物船「白神丸」「竜飛丸」に曳かせたがダイヤ(片道9時間)に乗ることができなかった。そこで専用の曳舟を用意することになり力のある船を探したところ、鉄道院調度部所属で瀬戸内海で鉄道炭輸送艀を曳いていた曳舟「桜島丸」(136トン)がよいと判断され。1920年(大正9年)7月に函館に回航され、「車運丸」専用として配属された。「桜島丸」は「車運丸」を曳いて青函間を一般貨物船より速い8時間半で結んだ。
 陸上の車両積み込み設備は、初めて「可動橋」が設備された。陸側から13.5メートルの鋼製桁がかれられ、海側は木製の門型フレームにかけて手巻きウインチで橋を上下させる構造になっていた。車両の積み込みは人夫が手で行った。
 「桜島丸」が配備されてからは「車運丸」には特定のダイヤはなかったと言われている。何月何日に何両の車両が航送されるといった具合に予定だけがあって、それをこなせばよかったようだ。そこで貨車の積み込みは干潮の時に行い、積み卸しは満潮の時に行う。すると車両は常に高い側から低い側へ送られることになるので、作業員の負担を軽減することができたと言われている。機関車を積み込むときはロープを敷いてゆっくりと押し込んだようである。船が傾斜することはあったが脱線・転覆事故はなかったようだ。貨車は本州で製造された新車の他、鉄道部品を満載した貨車を航送することもあったという。それらの貨車の行き先は「苗穂」、札幌にある鉄道工場である。

 「車運丸」は後述する翔鳳丸型客載車両渡船の就航後は、貨客混載船に積み込みのできない火薬類などの危険物積載貨車航送に役割を変える。その役割も数年で貨物専用の青函丸型車両渡船の登場により失い、1927年(昭和2年)6月に函館に係留された。その後、陸軍に貸し出されて大間〜函館間で兵器輸送についたのち、羽幌線天塩川橋梁の架設工事に使用されたのを最後に、1936年(昭和11年)に売却されてスクラップになった。
 「車運丸」が北海道に送り込んだ車両の数は5028両、これは当時北海道に送り込まれた車両とほぼ同数で、「車運丸」の功績が北海道の鉄道にとっていかに重要だだったかを示している。
 「車運丸」の実績がなければ青函航路に車両渡船が投入されることはなかったであろう。動力もなく鉄道の歴史には出てこない船であるが、その功績は青函連絡船のどの船よりも大きい。

3 車両渡船の採用・翔鳳丸型就航

 さて、この頃の日本は日露戦争後の不況を脱し、第一次世界大戦による急速な産業の発展により好況期を迎えていた。鉄道の旅客も貨物も大幅に増加し、日本各地で輸送力不足による問題が起き始めていた。この好況は貿易産業を促し、国内の船という船が国外へかり出されて国内は深刻な船不足を迎えていた。さらに鉄材の不足が追い打ちをかけ、船の価格は20倍にも30倍にも跳ね上がろうとしていた。これが国内貨物輸送を一気に沿岸航路から鉄道へと転換させることとなった、海上輸送運賃が大幅に上がったためである。
 そのしわ寄せは青函連絡船にも及んでいた。第二章でも書いたが青森・函館の両港は人と貨物で溢れ、滞貨の山が出来て大混乱の様相を見せていた。当初「比羅夫丸」「田村丸」で1日2往復のダイヤを組んでいたが、激増する旅客と貨物の山に次第に輸送力が不足した。旅客については傭船による臨時便で対応できたが、貨物は積み残しがたまる一方で、さらに貨物量に比例して貨物の破損、紛失、積み間違え、さらに青函航路特有の問題として艀による積み換え作業での漏損や水没事故が多発した。
 旅客と貨物の最大の違いは、旅客は自分で歩いて乗り換えるが貨物は人の手でいちいち積み替えてやらねばならない点である。そこで問題になったのは折り返し時間である、旅客は客室の整備を含めても1〜2時間の停泊時間があれば入れ替えが済むが、貨物は積み換えに5時間も6時間も要した。貨物が増えるに従い、停泊時間がいくらあっても足りなくなり、当面の対策として貨客分離を行った。旅客船「比羅夫丸」「田村丸」に限定して数時間で折り返して効率的な運行をすることにし、貨物船は停泊時間を多くとって貨物の積み換えを行った。ところが荷役作業は昼間に行わねばならず、貨物船は昼停泊、夜運行という過酷なダイヤを強いられることになった。これが船そのものの事故の危険性を増したため、安全対策として貨物船は隔日運行となってさらに効率が悪くなった。
 これらの混乱により荷役に時間と費用ばかりがかかり、北海道への貨物は輸送量の増加とは裏腹に日に日に効率が落ち、貨物運賃は値上がりしても輸送に時間がかかるという悪循環を繰り返していた。
 そこで鉄道院は青函航路に車両渡船を導入する方向で検討を始めた。「車運丸」の青函航路における車両航送の成功と関森航路における「関門丸型」の実績を考慮の上、海外での本格的な車両渡船を研究し青写真を練り上げていた。車両渡船の投入により、大幅な荷役時間の短縮による船の効率的運用の実現と、荷役作業者の労力激減による貨物運賃の値下がりが期待された。ただ、特殊構造により船価が上がる上に他航路への転用が利かない、船の大型化により燃費や速度が下がる、可動橋設備の増設費用がかさむなどの反対意見もあった。
 1919年(大正8年)、鉄道院は青函航路への車両渡船の採用を決定。翌年には船の仕様が決定した。そしてこれにあわせた地上側の工事も着工され、船も客載車両渡船4隻と車両渡船1隻のあわせて5隻が造船所に発注された。途中、1923年(大正12年)に発生した関東大震災により、鉄道の復旧を急ぐことになって車両渡船1隻の建造は延期された。

 1924年(大正13年)4月、青函航路の記念すべき客載車両渡船第一船の「翔鳳丸(しょうほうまる)」が誕生した。以降、同型船「津軽丸」(初代)「松前丸」(初代)「飛鸞丸(ひらんまる)」が半年あまりで就航する。本来は「飛鸞丸」が第二船であるが神奈川県の浦賀船渠で建造中に前述の関東大震災に被災、船は無事だったが輸入したタービン減速ギアが水没するなどの被害を受け、代替品の輸入に手間取って完成が遅れたという経緯がある。
 また「津軽丸」(初代)以降、青函連絡船の客載車両渡船には青森県内の地名、または道内の観光地の名前が付けられることになった。それまでは日本鉄道や鉄道省のお偉方が名付け親となったため、大袈裟な名前が多かった。

 船の詳細を説明しよう。大きさは「翔鳳丸」が3460.80トン、「津軽丸」が3484.65トン、「松前丸」が3429.75トン、「飛鸞丸」が3459.87トン。符号は「翔鳳丸」SPWB(JONA)、「津軽丸」がSTDV(JYXA)、「松前丸」がSTND(JYYA)、「飛鸞丸」がSTMN(JPIA)、なお括弧内は1933年(昭和8年)1月の割当規定改訂後の符号である。全船とも基本寸法は同じで、全長109.73メートル、全幅15.85メートル。旅客定員は「翔鳳丸」「飛鸞丸」が一等39人、二等208人、三等648人の計895人。「津軽丸」「松前丸」は一等40人、二等198人、三等650人の計888人。乗員数は「翔鳳丸」「飛鸞丸」が123人、「津軽丸」「松前丸」が126人。貨物積載量は、車両甲板に敷かれた3本の合わせて197メートルの線路にワム型貨車25両を積み込むことができた。機関は「比羅夫丸」「田村丸」で実績のある蒸気タービン機関を引き続き採用、船底に主機関二機を装備、「翔鳳丸」「飛鸞丸」は英国製の5730馬力、「津軽丸」「松前丸」は国産の5623馬力の機関が装備されたが、船が大きくなった分速力は落ちて16ノット、青函間に4時間半を要することになる。蒸気を発生させるボイラーは6缶積み込まれ、これも「翔鳳丸」「飛鸞丸」と「津軽丸」「松前丸」とで形式が違うものであった。トン数や定員の違いは、この機関やボイラーの違いによる機関部面積の相違から発生したものである。

 外見は直立した船首に巨大な煙突一本、前後にマストが1本ずつと「比羅夫丸」を大きくしたような船影であったが、船尾は大きく違っていた。貨車積み込み口があるために船尾は切り立った崖のような形状となったのだ。また煙突もマストも垂直に立てられ、スピード感溢れるデザインだった「比羅夫丸」とは一転してクラシックスタイルとなった。
 船内は5層に分かれており、最下層から「正甲板」「車両甲板」「下層遊歩甲板」「上層遊歩甲板」「端艇甲板」の名付けられていた。
 正甲板は船底に近い部分で、中央に機関室を配してその前後に畳敷きの三等船室を設置した。「比羅夫丸」で見られた蚕棚は配し、現在のフェリーにも見られるような雑居室であったが、水面ぎりぎりのところに小さな丸窓があるだけで快適な空間とは言えなかったと語り継がれている。
 その上が車両甲板であり、床面が水面の少し上になる高さである。中央部に3本の線路が敷かれているが、中央の線路は機関室からの煙路を確保するため中央付近までしか敷かれていなかった。両端の2線は船首に近い部分まで線路が伸びている。3本の線路を取り囲むように回廊状に客室区画が配置され、客室そのものはなかったが、事務窓口や三等客用のトイレがあった。前方には船員室があった。
 下層遊歩甲板は車両甲板の回廊と同じ形をしており、中央部は貨車の車両限界内に入るため空洞であった。主に船員室区画で、船員食堂などが設備されていた。
 上層遊歩甲板は一等・二等客室区画であった。車両限界を乗り越えて左右の行き来ができる区画で、前方には区分室となった一等客室があり、その後には一等客用の喫煙室があった。続いて一等・二等客専用の食堂があり、煙突の周囲には二等喫煙室、二等寝台船室、一等・二等用トイレ・洗面所があった。最後尾は二等雑居室で畳敷きの客室だった。甲板はデッキゴルフなどが楽しめる遊技場も設備され、船客達は優雅な船旅を楽しむことができた。
 最上部は建物でいえば屋上ともいえる端艇甲板。一等・二等食堂からの天窓の他は煙突とずらりと並んだ救命艇が並んでいるだけだった。前方に船長などの上級船員室や無線室があり、さらに階段を一層分上ったところに、船の司令塔である船橋があった。端艇甲板の最後尾には後部船橋があり、ここで貨車の積み卸しを監視しながらヒーリング装置の操作を行った。

 これら4船は翔鳳丸型客載車両渡船と呼ばれ、1924年(大正13年)4月から12月にかけて相次いで完成し、5月に「翔鳳丸」が、10月に「津軽丸」が、11月に「松前丸」が就航し、2番目に発注・建造された「飛鸞丸」は前述のように関東大震災の被災を受けた影響で12月になって就航した。入れ替わりに「比羅夫丸」「田村丸」「白神丸」「竜飛丸」「第一快運丸」「第二快運丸」の6隻は引退し、売却された。

 これで青函連絡船で車両航送を行うための船は出そろったが、同時に急ピッチで工事が進んでいた可動橋や、連絡船に積み込む貨車を仕訳する操車場などの地上設備が完成するまでに約1年掛かった。1925年(大正14年)4月に青森桟橋が、5月に函館桟橋が完成した。双方とも青函連絡船廃止まで改良を加えながら使用され、現在もその一部が連絡船と共に保存されている。翔鳳丸型の車両甲板に寸法を合わせ、24.5メートル長さの可動橋に3本の線路が敷かれた。翔鳳丸型の3本線路の寸法が青函航路最後の車両渡船となった渡島丸型(1969年より就航)まで受け継がれることになる。
 桟橋完成と同時に貨車積み込みのテストと訓練が行われ、車両航送の準備は着々と進められた。

 船と桟橋が完成してもすぐには車両航送ができない事情があった、それは「車両」の問題である。当時、本州と北海道の車両規格はほぼ統一されていたが、唯一統一されていないものがあった。
 それは「連結器」であった。
 当時の本州の鉄道は鉄道創業以来のねじ式連結器であった、これは本州の鉄道がイギリスの鉄道を手本に設計されためにヨーロッパ規格の連結器が導入されたものであった。しかし、北海道ではアメリカの鉄道を手本にしたため、最初からアメリカ規格である自動連結器で統一されていた。「車運丸」による車両航送では北海道で使用される車両を送り込むための航送だったから問題はなかったが、車両渡船を使用した車両航送が実現すると本州と北海道で貨車が混用されることとなるため、連結器の違いは車両航送を事実上不可能とする。
 鉄道省(1920年の改変により鉄道院から変わった)は連結器の相違を考えずに車両渡船の採用を決定し、建造してしまったのかというとそうではない。翔鳳丸型客載車両渡船には北海道側の自動連結器の仕様で造られていた。ここに鉄道の歴史が深く関わっている。
 ねじ式連結器とは、文字通り車両同志を巨大なねじと鉄鎖で連結するものである。この連結器は構造は簡単であるが牽引力が低く、自動連結がきかないため連結や解結作業に時間がかかり、連結時に連結部に人が入らないと作業ができないため人身事故が多く、修繕費用も嵩んで鉄道網が全国に広まると厄介者扱いされるようになっていた。対して自動連結器は牽引力がある上、車両を軽く付き合わせるだけで連結できるために短時間の連結作業が可能で、連結時に連結部に人が入る必要がなくなって安全性が大幅に上がるため、ねじ式連結器の欠点をすべてカバーできた。
 そこで、鉄道院時代から10年以上の年月をかけて「連結器一斉交換計画」を進めていたのである。この計画では1925年(大正14年)7月にある1日を決め、1日で全国の車両の連結器を自動連結器に一斉交換してしまおうという計画であった。これによりこの年の7月17日に本州の貨車の連結器が北海道と同じ自動連結器に統一され、いよいよ連絡船を介して本州から北海道へ貨車を直通させることが可能となったのである。

 1925年(大正14年)8月1日、漸く全ての準備が整って青函連絡船で本格的な車両渡船を使用した車両航送が始まった。この日から、控え車をゾロゾロ繋げた機関車が、連絡船に貨車を積み込みする光景が青森・函館両桟橋の風物詩として定着してゆくことになる。
 車両航送の開始は様々な効果があった。海峡を渡るときの開梱・再梱包作業がなくなって荷造り費が低下し、さらに連絡船積み込み労力が大幅に激減されたために貨物運賃の大幅な低下を招いた。貨物輸送費の低下は物価をも引き下げ、その効果は北海道で顕著だったと伝えられている。さらに荷物の積み卸しがなくなって貨車が目的地に直行するようになったため、貨物輸送の大幅なスピードアップが実現した。これにより北海道の新鮮な魚介類が関東や関西にまで輸送されるようになり、下関のバナナが稚内まで運ばれたと言われる。このために生産地では生産過剰による値下がりが減り、消費地では品薄による値上がりが減った。こうして青函連絡船での車両航送は、北海道を中心に物流をも一変させたのである。
 車両航送開始をきっかけに津軽海峡を通過する物資量がますます増え、すぐに翔鳳丸型客載車両渡船4隻では輸送力が不足するようになった。それほどまでに翔鳳丸型4隻の効果は大きく、北海道には欠かせない物となっていた。

4 青函丸型車両渡船

 前述のように、車両航送が始まると北海道を中心に一気に物流が活発になり、すぐに翔鳳丸型4隻では輸送力が足りない状況となった。鉄道省では関東大震災の影響で延期していた青函連絡船の貨物専用船建造計画を復活させ、貨車のみを積載する純粋な車両渡船を発注した。1926年(大正15年)11月、その貨物専用船は青函航路初の純車両渡船「第一青函丸」として竣工した。以後第二次大戦終戦直後まで、旅客を乗せない車両渡船は第二、第三と航路名に数字を冠した名前が付けられるようになる。
 「第一青函丸」は平たい船の甲板に4本の線路を敷いただけの船影であった。中央部に跨線橋のように船橋や上級船員室が設けられ、車両甲板はそれ以外の場所に屋根はなく、貨車は露天積みとなった。大きさは2326.08トン、全長111.56メートル、全幅15.85メートル。符号はJFYH。
 その車両甲板には4本の線路が敷かれ、貨物輸送力を大幅に増やしてワム型43両の貨車を搭載することができた。ただこれには大きな問題があり、船尾の貨車積み込み口付近では可動橋等の地上設備の関係で線路数を翔鳳丸型に合わせた3線にしなければならない。そのため中央の線路をY字型の分岐器で左右に振り分けて4線の線路を確保することになった。そのため3番線(左舷側から1番・2番とつけられた)が分岐器の部分十数メートルが2番目の線路と重なるため死空間となり、他の線路が12両ずつ積めるのに対し3番線だけは7両しか積むことができいため壮大な無駄なスペースを青函連絡船は抱え込むことになる。この後の青函航路の車両渡船の線路数は全て偶数で3本線路の車両甲板を持つものは現れず、この分岐器による車両数の制限は青函連絡船廃止まで続くことになる。もし最初から地上設備が4線で作られていたら、この分岐器による死空間が60年に渡って解消されて莫大なムダが排除されていたことだろう。
 とは言え、この車両甲板の配線は今後の青函連絡船の基本となり、終戦直後に建造された洞爺丸型客載車両渡船、洞爺丸事故直後に洞爺丸の代船として建造された「十和田丸」(初代)以外はすべてこの配線となる。船の全幅を全て車両甲板として使えたからである。
 性能は旅客を乗せないということで、翔鳳丸型よりさらに落ちることになった。スイス製の2300馬力のタービン機関を搭載したが、速力は13ノットで青函間に6時間を要した。ボイラーは2缶。

 「第一青函丸」の就航で輸送力の不足は解消されるかに見えたが、大震災の影響か機関の不良が原因か、就航から半年が過ぎた1927年(昭和2年)春頃からタービン折損を中心とした故障が多発して欠航する事態が頻発した。「第一青函丸」は一度に運べる車両数が多い故に、この機関故障による欠航は運行計画に大きな支障を来すことになる。鉄道省では「第一青函丸」の予備船を建造することになり、1930年(昭和5年)8月に「第二青函丸」(2493.01トン・VGRM)が完成した。船影は「第一青函丸」とほぼ同じである。「第一青函丸」の教訓から機関は国産の信頼性が高い2485馬力のものに変更し、ボイラーを4缶に増やした。その後「第一青函丸」も機関を国産のものに換装し、故障の発生は減った。「第二青函丸」の誕生で青函航路の貨物輸送はさらに安定したものとなり、青函航路の輸送体制は万全となったかに見えた。しかし、時代の変化がさらなる輸送量の増加を見せることになる。

 青函航路の輸送事情を変えたものはふたつある。ひとつは最北の鉄道連絡船、「稚泊航路」の開設である。当時日本が領有していた樺太の南半分への交通機関として、稚内への鉄道(現在の宗谷本線とは違う)が開通した1923年(大正12年)に、北海道の稚内と樺太の大泊を結ぶ航路として開設された。関釜連絡船を引退した「壱岐丸」「対馬丸」の2隻を砕氷船に改造して投入、元青函連絡船の「田村丸」を夏の間の予備船に当てて運行を続けた。のちに本格砕氷連絡船「亜庭丸」「宗谷丸」にとって代わられ、冬は流氷を割りながら宗谷海峡を結んでいた。この航路が鉄道利用の樺太行きの貨物輸送を増やす結果となり、本州からの便であれば青函航路を通過してゆく事になったため、青函航路も連動して貨物輸送量が増えることになった。

 もうひとつは「戦争」である。
 日本は刻々と戦争の時代へと歩んでいた。満州へ進出した関東軍を中心に「満州事変」が勃発したのは1931年(昭和6年)、以後日本は上海事変、満州国建国、国連脱退という歴史を歩むことになる。この状況が国内外の物資・旅客輸送量を大幅に増やし、さらに1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると第一次大戦や日露戦争の時と同じように海運による輸送が一気に鉄道へ流れてきた。船舶が軍に徴用されて足りなくなったためである。

 青函航路も例外ではなかった。日に日に増える貨物量を前に「第一青函丸」「第二青函丸」をフル回転で使用するようになり、またしても予備がない状況に陥っていた。そこで鉄道省は車両渡船の増備を決め、そこで1940年(昭和15年)に誕生したのが「第三青函丸」(2787.41トン・JGWN)である。
 主要寸法は「第一青函丸」「第二青函丸」とほぼ同じであるが、車両甲板を屋根や壁で完全に覆うことにしたために船影が大きく変わった。これは前2船が大時化に遭った際に貨車に波浪がかかって貨物を濡損したり、酷いときは船首を波に突っ込んで貨車を破損する事態も起きていた。さらにむき出しの甲板では積雪時の貨車積み換えや固定作業に困難を来していたため、このように車両甲板を全て覆って保護することにした。同時に船体の強度が上がって船底の機関室などが広くなり、搭載車両数も1両増えて44両となった。
 もうひとつ大きく変わったのが、機関である。5360馬力の主機関を二機搭載し、ボイラーを6缶として翔鳳丸型と同等の性能を確保した(ボイラーが増えた関係で煙突が2本から4本に増えた)。速力は16ノットと客載車両渡船と同じとなって貨物船も4時間半のダイヤを引くことが可能になった。「第三青函丸」就航と同時にダイヤ改正がなされ、青函連絡船は1日12往復のダイヤで運航された。
 さらに鉄道省は「第四青函丸」(2903.37トン・JYIR)を発注した。「第三青函丸」とほぼ同じ構造の車両渡船で、就航は大東亜戦争勃発後の1943年(昭和18年)となる。「第四青函丸」までが、青函連絡船の船の歴史においては「戦前」であろう。「第四青函丸」以後は青函連絡船建造計画も海軍の指揮下に入ったのと、車両渡船の大量増備の必要に迫られたため、性能や技術を競う船の時代は終わりを告げ「戦時標準船」の時代へと入ってゆくのである。

 歴史は更に青函航路に重い負担をかけた。1941年(昭和16年)12月に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃してアメリカに宣戦布告をすると国内の船舶の徴集はさらに進み、さらに鉄道輸送が重要視されることになる。海運から鉄道へ貨物輸送の転移が増えるに従い、青函連絡船の貨車輸送量も比例して増えた。これに加えて石油の輸入が困難になったため国内では燃料の石炭への転移が一気に進んだが、船舶が枯渇状態にあったために北海道で産出された大量の石炭が鉄道で青函連絡船を通じて本州へ出荷されることになった。
 この後の青函連絡船の歴史は「青函丸型」の次の車両渡船である「戦時標準船」の大量建造と、海峡を結ぶ人々と戦争との必死の戦いに変わってゆく。僅か2年で6隻の車両渡船が建造され、青函連絡船は押し寄せる貨物を次から次へと運ぶ大動脈として、さらに効率的なシステムに成長するのだ。
 


 これが青函連絡船の昭和初期の歴史である。車両航送という新しいシステムを完成させ、車両渡船や客載車両渡船の就航により、一気に航路が華やいだ時期でもある。
 しかし、今回紹介した青函連絡船の船は全て暗い海峡の底に沈むことになる。次章では青函連絡船の一番暗い時代、大東亜戦争の時代とその復興を紹介しようと思う。

つづく


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