第四章 全滅
〜青函連絡船の戦時輸送と復興〜


1 戦時標準船の就航
2 鉄道連絡船の悲劇
3 青函連絡船全滅〜終戦
4 青函連絡船復興とGHQ
5 洞爺丸型客載車両渡船就航

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 昭和に入り、日本は戦争への歴史を歩んでいた。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発。これにより国内でも旅客や貨物の往来は慌ただしくなる。そして1941年(昭和16年)12月8日、日本は米・英・蘭の三ヶ国に宣戦布告し、大東亜戦争(※)が始まった。これにより日本国内の商船の殆どが軍に徴用され、国内の貨物輸送は鉄道へ一気に流れ、鉄道は短期間に何倍にも膨れ上がった貨物の輸送に対応せねばならなくなった。それに加えて軍需物資のも加わり、鉄道にさらなる負担をかけることになった。いわゆる「戦時輸送」の始まりである。

 そして、戦時輸送体制は青函連絡船も例外ではなかった。
 青函連絡船に加わった新たな貨物は「石炭」であった。それまで石炭は道央各地の炭鉱で採取されると貨物列車で小樽や室蘭の港へ運ばれ、そこから内航貨物船で本州の工業地帯へ送られていた。しかし、大東亜戦争により軍に船が徴集され、追い打ちをかけるように戦争後半では制海権が敵に奪われて海上輸送が事実上不可能となった。国内では石油燃料の石炭への転化も行われたため石炭は軍需物資を作るための主要燃料になっており、石炭の鉄道輸送は国の命運を賭けるものとなった。そのしわ寄せが一気に青函連絡船にのしかかったのである。
 その対応として青函連絡船を単なる鉄道連絡船から、次から次に来る貨車を効率的かつ迅速に大量輸送するシステムに作り替える必要が生じた。青函連絡船に必要な貨物輸送力は年間300万トンと試算されていた。

 まず考えられるのが、船の増備である。戦時中の物資不足や人員不足の中で船を増やさねばならない。作りやすい構造で、なおかつ資材の使用量を減らし、青函航路でダイヤ運行できる船を大量に増備した。これが「戦時標準船」である。
 戦時標準船とは、輸送船や貨物船の戦時中の標準型として大量生産されていたものであった。用途や輸送量によって何通りかの基本形式があったが、鉄道省は車両渡船の戦時標準船の基本形式を取得して青函航路に大量投入したのである。詳細は本文で述べる。

 船が増えると桟橋も増強も必要になる。それまで2岸壁ずつだった函館と青森の両岸壁を5岸壁ずつに整備する必要が生じた。函館側では現在の函館駅にある2つの岸壁に加え函館港の北部、現在はフェリーターミナルがある場所の近くに新たに桟橋を開き3つの岸壁を計画、うち2つの岸壁を完成させた。これは「有川桟橋」と呼ばれて1984年(昭和59年)まで使用される。青森側では青森駅に岸壁をひとつ増強して3岸壁態勢となり、それに加えて青森駅から東へ約25キロ、現在の東北本線小湊駅付近に桟橋を開いて2岸壁を設備することになった。この小湊駅付近の桟橋を使った航路がが函館・小湊航路で、工事完成は戦後となって米軍から借り受けたLST(上陸用舟艇)を改造した簡易的な車両渡船が就航した。青函航路の正式な車両渡船が就航することはなく廃止となったが、正式な予定通り完成すれば青函航路の貨物用補助航路となるはずだった。

 もうひとつ考えられたのが、船の効率運用である。一般的な船のように乗組員が船に張りついて船を中心に生活する方式では、船員の休日の度にその船は欠航してしまう。そこて当時の鉄道連絡船では一般船員の他に「予備船員」という制度が取られ、固定した船には乗らず休日となった船員の代わりに穴を埋める形でその都度色々な船に乗る船員が用意されていた。ところがこの時期になると船は完全にピストン運航態勢となり、船はドックでの検査時以外は休む間もなく動いていた。次第に予備船員は数を増やし、固定した船の固定した役職のばかりに乗り組むようになる。さらに船の質や燃料の質が落ちると故障が多発し、予備船員にも一般船員なみの知識と保守管理の責任が必要になった。それまでの予備船員は船の保守管理の責任はなく、運行責任だけを取ればよいことになっていた。
 そこで、1942年(昭和17年)に乗組体制を大幅に変更した。各船に船員をこれまでの倍用意することとなり、各役職も各船にふた組ずつ用意した。そしてA組、B組と船員を分けて二昼夜ごとに交互に交代させる「ダブルハンドシステム」を採用したのである。こうして船は船員の休日などを気にせずに連続運用できるようになり、船の運用効率は大幅に向上することになる。この乗組体制は1988年(昭和63年)3月の青函連絡船廃止の日まで続けられ、戦後の高度経済成長期の大輸送もこのシステムがあったからこそなし得ることができたのであった。
 ところが、短期間に多くの連絡船が増備されたが肝心な船員がいなかった。若い男は召集されて戦地へ出てしまってただでさえ人員不足の上、新しい船乗りのなり手もないのである。そこで鉄道省では小学校を卒業したばかりの少年達を船員候補として採用し、大沼に船員養成所を設立して船乗りの補充に充てることにした。

 それとは別に青函航路の時刻は軍秘扱いとなり時刻表に記載されなくなり、船そのものもも白と黒、煙突は黄色に塗り分けられていた船体は、「軍事警戒色」という当時の戦艦等と同じ暗い灰色一色に塗りつぶされた。さらに1944年(昭和19年)頃からは武装が施され、青函連絡船全船に空襲に備えて13ミリ口径と25ミリ口径の機銃が一丁ずつ、魚雷攻撃に備えて10発以上の爆雷が装備され、これらを扱う海軍警戒隊員も乗り組むこととなった。
 鉄道省職員であった船員達は軍属扱いとなり、紆余曲折の末、殉職者にはのちに国から特別給付金が支給されている。

 こうした努力と新しい知恵で、青函連絡船は「戦争」という時代を生き抜くことになる。だが、その苦労は報われることもなかった。今回はそんな時代の青函連絡船を紹介しよう。今回は大東亜戦争開戦直後から、戦後までの津軽海峡が舞台である。

※注記 本文は1940年代の日本の昭和時代について日本国内からの視点のみで描くものとなるため、日本と連合国による一般的に「太平洋戦争」と呼ばれる戦争の名称の記載については、当時の日本側正式名称である「大東亜戦争」で統一することとする。

1 戦時標準船の就航

 1941年(昭和16年)12月の大東亜戦争勃発時の青函連絡船の陣容は、翔鳳丸型客載車両渡船が「翔鳳丸(しょうほうまる)」「津軽丸」「松前丸」「飛鸞丸(ひらんまる)」の4隻、青函丸型車両渡船が「第一青函丸」「第二青函丸」「第三青函丸」の3隻と、建造中の1隻であった。どの船も当時の商船における最新の技術が取り入れられ、この時代の商船としては高性能を誇っていた。
 そして建造中であった「第四青函丸」が、1943年(昭和18年)に完成する。戦前設計の「青函丸型」の車両渡船をさらに改良したものであり、その技術と性能は海峡渡航船としては当時の最高峰で、鉄道省連絡船設計陣は今後の青函連絡船の標準型として期待した。

 だが戦前設計の「青函丸型」は、この「第四青函丸」が最後となる。

 この「第四青函丸」建造中の1942年(昭和17年)6月、今まで日本軍の破竹の勢いが続いていた大東亜戦争の戦局が一転する事態が起きたのである。日本海軍が太平洋中部ミッドウェーでの戦いに敗れ、多数の航空母艦を失って体制を立て直せないまま敗走を始める事態となったのだ。破竹の勢いで太平洋各地に進撃していた日本軍の補給船は伸びきっており、この敗北をきっかけに前線への物資補給が困難になる。太平洋の懐深くに進撃していた日本陸海軍は、著しい消耗戦を強いられるようになって疲弊する。各地で激しい戦いの末の撤退や玉砕が相次ぎ、日本の制海権が狭められる。これは国内において一般商船の徴集がさらに増え、その殆どが米潜水艦に轟沈させられる運命となることを示していた。
 海軍省はこの年から、全ての新造船を管理・監督することになった。これは鉄道省も例外でなく、「第四青函丸」も途中からは海軍の監督の下で作られた。「第四青函丸」がどのような船で、どのような材料を使って建造されたかについて一部始終を見られることになる。

 「第四青函丸」の完成が近付いた頃、序項で前述した理由により青函連絡船は大幅な輸送力の増強を迫られた。車両渡船の大量増備の計画が持ち上がり、ここで鉄道省は「第四青函丸」を基本とした車両渡船を計画する。だが海軍は「第四青函丸」は贅沢だと批判して、戦時標準船と呼ばれる一般貨物船の導入を要求した。車両渡船は船価が高い上に他の航路への転用が利かないこと、船の大きさに見合った貨物積載能力がないことが主な理由である。
 確かに1便あたりの貨物積載量はD型標準船と呼ばれる2000トンクラスの貨物船の方が3000トン近い車両渡船に比べると格段に多く、その輸送力は1.3〜1.5倍になる。さらにトン数あたりの船の価格も車両渡船は倍近い数値になるため、これだけを見ていると海軍の主張が正しいように見える。
 しかし、決まった形状の貨物を運んで短距離を往復する鉄道連絡船では、鉄道と一貫した輸送システムとして考えなければならない。決まった形状の貨物を積んで短距離を往復する船にとって問題となるのは、船の回転率〜貨物の積み替えに要する時間と航行時間をトータルで考えて、1隻の船が1日にその航路を何往復出来るか〜である。D型標準船の場合、1便あたり1.5倍の貨物が積めると言ってもその積み換えに17時間を要するため1日に片道しか運行出来ない。対して車両渡船なら1時間半もあれば貨車の積み換えは終わってしまうので、1日2往復の運行が可能となる。従って車両渡船はD型標準船と比較すると1日辺りの航海数は4倍となり、1航海で1.5倍の量が運べると言ってもD型標準船の方が不利となる。1隻で輸送できる年間貨物量を計算すると車両渡船の方が3倍の貨物を運ぶことが可能で、D型標準船で同じ量をこなそうとすると船を3倍用意しなければならず、また荷役時間が伸びるため岸壁も3倍必要となる。こうなると車両渡船の方が優れているのは明白である。
 鉄道省はこの具体的な試算を海軍省に叩き付け、海軍省が折れる形で車両渡船建造で決着した。そして用途により標準的なな形が用意された戦時標準船として新たな車両渡船が設計され、「W型標準船」と名付けられて戦時中の青函連絡船の標準型となった。ちなみに「W」は「WAGON」(ワゴン車…貨車)の頭文字である。

 そのW型標準船の第一船である「第五青函丸」の設計が始まったのは1942年(昭和17年)、監督省庁となった海軍は鉄道省に「第五青函丸」についていろいろな注文をつけた。直線的な船形にする、鋼板使用量を減らすために外板をギリギリまで薄くする、強度に影響のない甲板の床などは木製にする、船員室は従来の個室や寝台をやめて大部屋で雑魚寝する方式に改める、片道4時間の航路だから船員食堂は廃して船員は弁当持参で乗船させる…。
 特に船員室の大部屋化や食堂の廃止は船員達から反対が多く出た。さすがに時化による難航や、漂流や回航などで長時間船に乗る可能性を説明すると食堂の完全な廃止は回避されて賄い室が設置されることとなったが、船員室については譲ろうとしない。船員というのは様々な役職の人がまちまちな時間に勤務についたり休憩を取ったりするため、その僅かな時間で睡眠をきちんと取らないと安全運行に差し支える事になる。その僅かな睡眠時間の間に部屋に違う生活をする人が何人も出入りしたらどうなることがすぐわかるだろう。鉄道省側は上級船員には個室を、一般船員には寝台をつけるよう要求したが海軍はすべて却下するのであった。
 そこで、鉄道省は青函連絡船にも積んである無線通信用の暗号書を利用した。当時の船舶通信はすべて暗号によっており、その暗号の解読や暗号文作成にどうしても必要なものであった。暗号書は軍機密で、厳重に保管すべしと海軍から厳命されていたのだ。鉄道省はその暗号書を保管する部屋と、暗号書保管室に保管責任者として船長と機関長の寝台が必要と海軍に説明し、それができなければ暗号書保管の責任がとれないから返却すると迫った。これで海軍が折れて船長と機関長には2人1組の個室と寝台が用意されたが、他の船員は役職問わずに大部屋に雑魚寝となった。海軍は「戦争に勝てば御殿のような船室をつくってやる」と嘯くばかりであった。

 1943年(昭和18年)が明けると、「第五青函丸」の建造が神奈川県横須賀市の浦賀船渠で始まった。建造途中から受け取りの船員が加わり、出来たての船員室に寝泊まりすることになる。船員達は大部屋で雑魚寝の船室を見て、戦時中で戦局が悪いことを思い知らされたという。
 無事に進水も済ませて完成が迫ったその年の初冬、海軍省・鉄道省・浦賀船渠の三者による定例の工程会議が開かれた。この席上で浦賀船渠の設計部長が、「鉄道省の設計を見直した結果、25パーセント鋼材を減らして700トン以上船体を軽くすることに成功した」と報告した。海軍省は国から戦争遂行のため鋼材使用を減らすように命令されているので、海軍監督官はその浦賀船渠の鋼材節約の努力を認めて「第五青函丸」完成の暁には表彰すると言い出した。それを聞いた鉄道省監督官は、首をひねった。今までの車両渡船の実績から自信を持って設計したW型標準船である、鉄道省は自分たちがそんな無駄な設計をしたはずがないと納得が行かなかった。浦賀船渠の設計士は当時の船舶設計の一流であるが、そんな彼らを疑ったのである。
 鉄道省監督官は納得の行かないまま会議を終わらせ、鉄道省に戻った。浦賀船渠側の発表を基に「第五青函丸」の設計見直しについていろいろ調べてみたのである。車両渡船では船尾に可動橋を繋げて貨車の出し入れをする、当然貨車の積み込みと船の重量というのは重大な関係があるのだ。船が軽くなったということは船が浮き上がることを示しており、同時に重心が高くなって安定性が悪くなることを示している。安定性が悪くなるということはちょっとした重心移動で大傾斜することであって、軽くなった「第五青函丸」に貨車の積み込みをすると、傾斜が大きすぎてヒーリング装置の補正でも間に合わず、可動橋が外れて貨車が脱線してしまうことが明らかになったのである。
 鉄道省がこの事実を海軍省と浦賀船渠に伝えた上で、「第五青函丸は鉄道連絡船として使えないから鉄道省としては引き取ることはできない」と迫った。浦賀船渠の設計士が詳細な計算をすると鉄道省がいうとおりの結果になり、本当に車両渡船として使えないことが改めて判明する。海軍側は「代船建造はできない、至急対策を検討せよ」と浦賀船渠側に命令したが、浦賀船渠ではどうすることもできなかった。海軍の権力に媚びへつらい、発注者の意図を無視して勝手に船の設計を変えて船を造った報いである。
 そして鉄道省が「第五青函丸」改造案を提示する、船底の空いている船倉のうち船首側は水タンクに改造して600トンの水が入れられるようにし、船尾側の船底に150トンの砂利を積み込むことにする。こうして所定の重量を確保し、所定の喫水まで船を沈めることにした。さらに船首側水タンクの水はヒーリング装置と直結させて、航行中は600トンの水を抜けば燃料の節約にもなるとされた。海軍省はこの案を最良案と認め、浦賀船渠が改造図面を作成して提示し、鉄道省と海軍省が承認して「第五青函丸」に喫水を沈める改造が加えられることになった。

 このような紆余曲折の上、1943年(昭和18年)12月に「第五青函丸」(2792.37トン・JGVT)が就航した。外観は「第四青函丸」とそっくりだが、簡素で直線的な船体は他の戦時標準船に倣ったものとなり、中を覗けば機関もボイラーも戦時標準型の簡易設計のものであった。機関出力は4575馬力、ボイラーは4缶に減らされて、煙突も2本に戻った。搭載車両数は44両で、16ノットでなんとか青函間4時間半を確保することができた。

 それから短期間で同じ形の船が大量に建造されることとなり、「第五青函丸」を完成させた浦賀船渠は休む間もなく「第六青函丸」建造に着手する。「第五青函丸」から建造日程も大幅に短縮され、「第四青函丸」以前では1年以上かかっていたのが僅か半年で完成させていたのである。
 「第六青函丸」(2802.09トン・JWNT)の就航は、「第五青函丸」就航から僅か4ヶ月の1944年(昭和19年)3月である。「第六青函丸」では船員室の大部屋雑魚寝方式は早くも廃止され、大部屋に寝台となった。「第五青函丸」の一件に海軍も造船所も懲りて、鉄道省の意見や計画を尊重するようになったのだ。
 4ヶ月後の7月には「第七青函丸」(2850.99トン・JGHV)が就航。この頃から万が一の空襲や魚雷攻撃に備えて青函連絡船も武装することになり、「第七青函丸」から海軍警戒隊の居室と船首砲架が取り付けられた。
 11月に「第八青函丸」(2850.99トン・JECA)が就航、「第八青函丸」ではさらなる鋼材節約のため煙突の長さが短くなった。さらに万が一の魚雷攻撃に備え、船尾に爆雷投下口が付けられた。
 1945年(昭和20年)2月に「第九青函丸」(2850.99トン・JFWA)が完成、機関の調子が良くW型の中では試運転速力が一番速いなど成績は抜群だった。しかし、横須賀から函館への回航途中の同年2月27日夜、米潜水艦の魚雷攻撃を恐れて陸に極めて近い海域をジグザグ航行中をしていたところ、千葉県勝浦沖で暗礁に乗り上げてしまい津軽海峡を見ることなく沈没してしまった。青函連絡船初の全損事故で、唯一航路外で事故を起こして沈んだ船となる。この事故で23名の船員を失った。
 6月に「第十青函丸」(2850.99トン・JYFF)が就航。基本的には「第八青函丸」と同じである。
 さらに「第十一青函丸」「第十二青函丸」が浦賀船渠の船台において建造中で、W型標準船は全部で8隻作られたことになる。しかし新しい船ほど機関やボイラーなどの部品の質が悪くなり、「第六青函丸」からは定時運行確保が困難になった。船体は3年、機関は1年持てばいいという思想で設計された船である、ボイラーは「ザル釜」と呼ばれるほど蒸気漏れが多く所定の圧力を出せなかったといわれる。

 1945年(昭和20年)3月6日夜、吹雪の青森桟橋に着岸しようとした「第五青函丸」は激しい強風のため着岸に失敗。再度着岸をやり直すために沖へ出ようとした際に突風に煽られて港口の防波堤に激突し、右舷側の喫水線付近の外板を擦過した。戦時設計で薄い外板が災いし、擦過した部分は破孔となって大量の海水が船内に浸入、船員達が避難する間もないままあっという間に「第五青函丸」は沈没してしまった。桟橋側では「第五青函丸」はあまりの強風に着岸を諦めて沖に仮泊したものだと思いこんでいたが、翌朝になって船員が青森県浅虫付近に漂着して初めて遭難を知った。船から桟橋へ急を報せる無線通信はあったのだが、感度が悪くて聞き取れないまま「第五青函丸」は沈没したとされている。乗組員と海軍警戒隊員86名が乗っていたが、そのうち82名が犠牲になった。青函航路の航路内で最初の全損事故である。

 船員達は粗悪な船で海峡の輸送を1日も休むことなく動かし続けた。だが戦時標準船の投入により1944年7月に21往復のダイヤが組まれたのを最高として、あとは船が増えても便数は減る一方であった。戦時標準船の機関装置が簡易的で故障が多かったことと、燃料の石炭の質が低下して戦時標準船でない「第四青函丸」以前の船でも故障が多発したり、蒸気圧が足りなくなったりしていた。

 船員達に東京を始めとする大都市が既に空襲で焦土と化したこと、米軍は鉄道施設や港湾設備の空襲に力を入れていること、そして、軍に徴用されて米潜水艦の魚雷の餌食になった民間商船の悲惨な最期のことが噂として広まっていた。それら民間商船は一方的に攻撃されるばかりで、為す術もなく轟沈となって生存率は軍人よりも低かった。それらの悲劇は一般には厳秘とされていたが僅かな生存した者達の口から船乗り達に広まり、青函連絡船船員の耳にも入っていた。
 船員達は青函連絡船への空襲を覚悟し、その時は味方の迎撃もないまま為す術もなく船は沈むものだと覚悟を決めていた。そのため、遺書を残した船員も数多くいた。

 このように、船員達は血の滲むような努力と苦労の上で青函連絡船と津軽海峡の輸送を守り続けていた。

 だが、その苦労は報われることもなかった。

 日本の制空権を制した米軍は本土への無差別空襲を始め、鉄道や港湾設備も攻撃目標とされていた。青函連絡船空襲の予告もあったとの説も残っているが、定かではない。国鉄函館管理部海務課が「7月中旬に青函連絡船への空襲がある」という情報を入手し、函館海軍武官府に連絡船の疎開を要求した史実が残っている。海軍側は「そんな情報はない」と断言し、「連絡船の疎開などという考えは敗戦思考であり、函館山要塞(当時の函館山は要塞として一般人立入禁止で、砲門が多数設置されているとされていた)には万全の備えがあるから本当に空襲があっても大丈夫」であるとして疎開の要請を聞き入れなかった。

 1945年(昭和20年)6月28日、一機の米軍機が高々度から津軽海峡の様子を睨んでいた。青函航路の船の数、船影、船の性能、港湾設備などを偵察していたのである。これが青函連絡船の悲劇の前触れだったとは、その時は誰も知る由はなかった。

2 鉄道連絡船の悲劇

 戦時輸送体制が敷かれたのは青函航路だけでなかった。北海道の稚内と樺太の大泊を結んでいた稚泊連絡船、本州の下関と朝鮮半島の釜山を結んでいた関釜連絡船、本州の宇野と四国の高松を結んでいた宇高連絡船、本州の下関と九州の門司を結んでいた関門連絡船と車両渡船専用の関森航路、それと宮島連絡船が当時の鉄道省→運輸通信省(現在の国土交通省の前身、1944年の組織改編により誕生)が鉄道連絡船として保有する航路であった。うち関森航路は1942年(昭和17年)7月9日をもってその一ヶ月前に開通した関門トンネルに使命を譲って廃止された。関門航路は下関と門司の中心街を直接結ぶ地域公共交通として旅客船のみ残り、車両渡船たちは第三章で紹介したとおり、宇高航路へ転属した。

 どの航路も青函航路と同じように、貨物が海運から鉄道へ転移した関係で大幅な輸送力の増強が計られた。
 宇高航路では大正時代末期から艀による車両航送を開始し、さらに開設当初からの貨客船「児島丸」「玉藻丸」の2隻が老朽化したのを機に新造客船である「山陽丸」「南海丸」の2隻が投入された。既存の「水島丸」を含めて客船3隻と車両航送用艀で対応していたが、増え続ける貨物に対応して車両渡船「第一宇高丸」「第二宇高丸」が1929年(昭和4年)と1934年(昭和9年)に投入された。鉄道連絡船で始めてディーゼル機関を採用し、宇高間の所要時間を1時間短縮して大幅に輸送力を上げる。さらに1942年(昭和17年)には前述のように、「第一関門丸」「第二関門丸」「第三関門丸」「第四関門丸」「第五関門丸」の5隻の車両渡船が関森航路から転属、この陣容で戦時輸送を乗り切ることになる。この他に宇高丸型の車両渡船増備の計画もあり、実際に船も発注されていたが様々な事情でキャンセル。結局は関門丸型の転属で決着した経緯がある。
 宇高連絡船は1945年(昭和20年)に米軍機の銃撃を受けたが、船の喪失は皆無であった。

 「内地」と「外地」を結ぶ大動脈である関釜連絡船は、輸送量の増加が青函航路より激しかった。航路開設時から活躍していた「壱岐丸」(初代)「対馬丸」(初代)は大正時代末期に引退し、替わって8000馬力のタービン機関と8缶のボイラーを持つ3500トンクラスの大型連絡船、「景福丸」「徳寿丸」「昌慶丸」の3隻と、ほぼ同時期に建造された貨物船「高麗丸」「新羅丸」の2隻が就航していた。
 しかし、満州を中心に様々な「事変」が起きると爆発的に輸送量が増え、関釜連絡船の大幅な増強が望まれることになる。そこでさらに大型の連絡船が投入されることになり、1936年(昭和11年)に現在でも国鉄鉄道連絡船の最高峰と言われる7000トンクラスの大型貨客船、「金剛丸」「興安丸」が投入された。またこの2隻は鉄道連絡船の中でも抜群の性能を誇り、17000馬力の蒸気タービン機関を搭載し「金剛丸」は当時の日本商船最高速度記録となる23.19ノットの速力を記録した。その性能から戦時中に海軍に徴用されて空母に改造される危機が訪れるが、陸軍が関釜航路における本船の重要性を説いて回避されたという、海軍と陸軍の双方に優秀性が認められた経歴も持つ。
 金剛丸型が就航すると、昼間に荷役作業をして夜に運行というパターンで前述の景福丸型と共に運用された大幅に輸送力は増加したが、すぐに日中戦争が勃発したため関釜航路の輸送量の増加は止まるところを知らなかった。すぐに夜行便だけの運行というわけには行かなくなり、貨客分離が計画された。そこで1940年(昭和15年)誕生したのは、純貨物船である「壱岐丸」(二代目)「対馬丸」(二代目)である。この2隻は「昼間荷役・夜運行」パターンで玄界灘の貨物輸送に従事した。これにより客船はピストン運行が可能になって増発が行われ、輸送力に余裕ができたかに見えた。しかし1941年(昭和16年)に大東亜戦争勃発、これをきっかけに関釜航路にも怒濤の如く人や貨物が押し寄せてすぐに輸送力が不足する事態となった。
 1942年(昭和17年)には金剛丸型を基本にさらに大型化しつつも、戦時設計で構造を簡易化した「天山丸」「崑崙丸(こんろんまる)」の2隻が就航。7900トン超という大きさは車両航送をしない鉄道連絡船では最大のものとなる。機関の性能は金剛丸とほぼ同じであったが、最高速力がさらに上がって23ノットを超えた。これも当時文句なしの日本商船の速度記録である。また、この船から船体の塗装は戦時警戒色に替わった。この天山丸型は5隻が計画されたが、様々な事情によりこの2隻で終わってしまった。
 1942年現在の関釜航路の陣容を整理すると、景福丸型客船3隻(「景福丸」「徳寿丸」「昌慶丸」)、高麗丸型貨物船2隻(「高麗丸」「新羅丸」)、金剛丸型客船2隻(「金剛丸」「興安丸」)、壱岐丸型貨物船2隻(「壱岐丸」「対馬丸」)、天山丸型客船2隻(「天山丸」「崑崙丸」)、合計すると客船7隻と貨物船4隻の合わせて11隻が玄界灘を行き来していた。

 それとは別に、関釜航路でも車両航送を始めるべく準備を開始していた。本土側は九州の博多港を起点にし、朝鮮半島側では釜山に車両航送設備を整えるという計画で博釜航路と呼ばれる。ただ、両方の港で鉄道のゲージ(レール間の幅)がを始め車両の大きさなどの規格が違うという問題があった。本土側の鉄道は狭軌で朝鮮半島は広軌であったが、車両渡船は本土側の規格で統一されることになり車両甲板のレールは狭軌となった。
 そして船名は決まっていなかったが車両渡船の第一船も発注された。車両渡船の内容は青函航路の戦時標準船W型に改良を加え、H型という新しい戦時標準船の基本形式を取得した。H型は博釜(はくふ=HAKUFU)の頭文字を意味しており、W型との違いは、船首形状、機関とボイラー、貨車積み込み口への水密扉設置などが挙げられる。第一船の建造は戦時中の物資不足の中で始まった。

 米軍は潜水艦による日本の輸送船の破壊に力を入れていた。戦地や植民地への輸送船や連絡船による輸送路を破壊することによって、本土との連絡手段を絶ち飢餓状態に追い込んで戦意を落とす作戦である。しかし、米軍は日本海側での潜水艦作戦は考えていなかった。日本海の北の入口である宗谷海峡や間宮海峡は大国ソ連を刺激しないために潜水艦による接近を避けており、中央の入口の津軽海峡や西の入口である玄界灘は潮流が激しく、潜水艦での通過は危険と判断されていたのだ。
 ところが米海軍潜水艦指揮官の一人が「対馬海峡を結ぶ大型鉄道連絡船」に興味を持っていた。潜水艦「ワーフー」(SS-238)の艦長、ムッシュ・モートンである。モートンは太平洋統合情報センターでこの連絡船の情報を調べていた。船の数、船影、大きさ、航路、時刻。調べられるあらゆる情報を入手し、1943年(昭和18年)夏に「ワーフー」で基地港のハワイを出港した。

 1943年(昭和18年)10月4日夜、旅客479名、乗組員176名の計655名を乗せて「崑崙丸」は下関を出港した。接続予定の列車が大幅に遅延し、いつもは満員のはずの船内は定員の2割程度しか乗客がいなかった。日が変わって5日、響灘を横切った「崑崙丸」は沖の島の東北東の沖18キロの地点に達した。
 突然、左舷船尾に叩き付けるような大音響が響いた。同時に大水柱が上がり、船体は大きく左に傾いた。何が起きたか分からぬまま急を告げる汽笛を鳴らしたが、その汽笛の音も虚しく船体は船尾から徐々に沈み始める。やがて「崑崙丸」は船首を空へ向けて棒立ちになり、船尾から暗い海中に引きずり込まれ、2時10分頃に沈没した。その間僅かに5分、乗客の多くは就寝中で避難するどころか起こされる間もなく、暗く荒れた海中に引きずり込まれ583人もの人々が犠牲になった。
 これはムッシュ・モートンの「ワーフー」の仕業である。「ワーフー」はハワイから太平洋を北上、闇夜にまみれて宗谷海峡から日本海に侵入。獲物を求めて日本海を南下し玄界灘に達した。そして自らが興味を持っていた連絡船を発見。その船尾に魚雷を放ち、「崑崙丸」に命中したのである。
 鉄道省は「崑崙丸」遭難に強いショックを受けた。沈没直後の7日まではなんだかんだ理由をつけて夜行便を出港させたが、8日からは被害の拡大を恐れて夜行便は全面運行中止とした。「ワーフー」によるものと思われる日本商船の沈没が相次いだためである。
 だが、この一件で帰らなかったのは「崑崙丸」だけでなかった。「崑崙丸」を撃沈させた「ワーフー」も、さらに朝鮮近海で他の日本商船を2隻撃沈させて「目標達成」を報じた後は音信不通となって基地に帰還しなかった。米軍側にとって「ワーフー」の未帰還は大きなショックとなり、以後は潜水艦による日本海侵入作戦は中止となった。

 その後、関釜連絡船に対する直接の攻撃はなかったが、1945年(昭和20年)3月27日夜、マリアナ基地を飛び立ったB-29の大編隊が下関上空に現れた。そして関門海峡近海に大量の機雷を投下していったのである。この機雷が新たな悲劇を生む。
 4月1日、2431名の乗客を乗せた「興安丸」が下関出港1時間後に機雷に触れて中破。5日、貨物便の「壱岐丸」が下関近海で機雷に触れて航行不能という被害が立て続けに起きる。どちらも沈没という最悪の事態が免れたが、海底で黙って船の通過を待つ機雷の出現に関係者はショックを受けていた。しかも、その機雷が磁気、水圧、音響、それらの回数をカウントしてランダムに決められた回数になると浮上してきて爆発、船に危害を加える「回数起爆装置」が付けられた機雷であることが分かり、掃海はお手上げとなった。
 5月25日、ドック入りを終えて回航中の「新羅丸」が関門海峡で機雷に触れて沈没。27日、玄海島付近で「金剛丸」が機雷に触れ、他船に乗客を移し替えて曳航中に沈没。6月12日には関門航路の「下関丸」(機雷に触れた金剛丸の救援していた)が沈んだ「金剛丸」の目の前で機雷に触れて沈没した。鉄道連絡船以外にも、この海域で多くの艦船が機雷に触れて沈没し、大型船だけで150隻に及ぶ船が沈没、関門海峡一帯の海は「船の墓場」と化していた。
 そこで海軍と協議の結果、関釜連絡船は舞鶴・敦賀・新潟に分散配備して朝鮮半島との輸送船として使用することを決定した。この決定がされた1945年(昭和20年)6月20日、まだ船が残っているのに、昨日までと同じ海がそこにあるのに、戦前の鉄道連絡船の歴史を彩ってきた日本最大の鉄道連絡船航路・関釜連絡船はその歴史に終止符を打った。

 稚泊航路は本格砕氷貨客船である「宗谷丸」「亜庭丸」の2隻で宗谷海峡を結んでいた。
 米軍は宗谷海峡での行動を自粛していた。これはひとえに大国ソ連を刺激しないためであったが、1945年(昭和20年)6月12日を皮切りに宗谷海峡をゆく日本船舶に攻撃を仕掛けるようになった。稚泊連絡船も攻撃されたが、その都度爆雷で応戦しながら魚雷を交わし、宗谷海峡で鉄道連絡船の沈没は避けられた。7月に入るとドック入りのため、「亜庭丸」が函館へ回航された。

 以上が青函航路以外での鉄道連絡船の大東亜戦争における戦災である。しかし、まだ鉄道連絡船の戦争の歴史は終わらない。この後、青函航路が大規模な空襲を受け、それによる船の転配がさらに大きな苦労をすることになるのだ。

3 青函連絡船全滅〜終戦

 1945年(昭和20年)7月14日、津軽海峡に朝が訪れた。風もなく波は穏やかで、雲一つない夏の穏やかな海が、東から昇ってきた朝日に照らされ、穏やかな夏の海峡の1日が始まったかに見えた。
 函館・青森の両市では早朝からけたたましい空襲警報のサイレンの音が鳴り響いた。東の空を見上げると胡麻を散らしたような飛行機の編隊が近付いてくるのが見えた。米海軍第38機動部隊の空母7隻と軽空母6隻から飛び立った艦上戦闘機・爆撃機・雷撃機が襲ってきたのだ。その攻撃目標は、北海道東南部や東北北部の飛行場と港湾設備と船舶。中でも空母「エセックス」「ランドルフ」
、軽空母「モントレイ」「バターン」の部隊(戦闘機21機、爆撃機34機、雷撃機47機)には「津軽海峡内の船舶」が第一攻撃目標として指示されていた…つまり、彼らの使命は青函連絡船を最優先で攻撃することであった。
 青函連絡船を攻撃目標にした102機の攻撃機隊は津軽海峡上空に集結すると、「エセックス」「モントレイ」から発艦の部隊は青森へ、「ランドルフ」「バターン」の部隊は函館へと進路を取り、「獲物」となる連絡船を求めて低空飛行を続けた。

 「第二青函丸」は0時05分に函館を出港し、青森へ向けて上り便として航行中に空襲警報を受信。深泊半島先端の大島沖を通過した5時15分、東の空から米軍機の4機編隊が「第二青函丸」目掛けて突進して、船橋に機銃掃射を受けた。機銃掃射を浴びた船橋では、船長以下10名以上が負傷。海軍警戒隊が機銃で応戦、士官食堂や左舷煙突付近に命中弾を受けて機関長以下多くの負傷者を出すも、米軍機を撃退することに成功した。「第二青函丸」は青森へ向け航行を続けるが、船長が死去、二等航海士と三等航海士が負傷したために以後の指揮は一等航海士に委ねられた。

 「翔鳳丸」は青森岸壁に到着直後の5時10分に空襲警報を受けた。船内にいた旅客を大急ぎで下船させて沖へ出ると、「第二青函丸」が果敢にも米軍機と戦っている光景が船員達の目に飛び込んだ。警戒航行の体制に入りながら様子を伺っていると、やがて米軍機が「第二青函丸」に撃退されて飛び去ってゆくのが見えた。安全を確認してから「第二青函丸」の後を追うように青森に引き返し、青森港外に投錨仮泊した。

 「第六青函丸」は1時に函館を出港して「第二青函丸」の後を追うように青森を目指して上り便としての航行を続けていた。5時10分に空襲警報を受信、米軍機数機が「第六青函丸」を発見し攻撃を仕掛けてきたが、幸いにも被害はなかった。そのまま航行を続けて青森港外に投錨仮泊する。

 「津軽丸」は2時41分に下り旅客便として70名の乗客を乗せて青森を出港していた。海峡に差し掛かった4時50分に空襲警報を受信して反転、津軽半島の三厩湾に避難した。2時10分青森出港の「第一青函丸」も「津軽丸」の前を下り貨物便として航行、5時15分に海峡中央部で空襲警報を受信して反転、「津軽丸」の後を追って三厩湾に避難する。2隻は三厩湾に並んで投錨した。

 「第四青函丸」は5時10分に函館を出港して海峡に差し掛かろうとしていた。5時40分に空襲警報の打電を受け、警戒に入ったところで米軍機に捕捉された。編隊から何機かが「第四青函丸」を目掛けて急降下爆撃を仕掛けてきた。機銃で応戦しながら回避行動に入ったが一弾が船尾左舷側命中、三等船室(貨物の荷主が乗る船室)から炎が上がると同時に操舵パイプが切断されて舵が利かなくなった。そうなると爆撃を回避することもできず、米軍機は入れ替わり立ち替わり「第四青函丸」に攻撃を加える。その様相は爆撃訓練のようであったとも言われている。
 その後、手動での操舵は可能になったが時既に遅く、船橋をはじめとする甲板上の構造物は既に四散炎上していた。乗組員は爆弾の雨の中必死に消火活動に努め、操舵して船を守ろうとしたが、一人、また一人と銃弾に倒れた。やがて車両甲板付近に炸裂弾を喰らい、ボイラーが損傷して水蒸気を吹き出してしまう。6時20分、前部船倉に900キロ爆弾が命中、喫水線下に破孔を生じたこれがとどめとなった。5分後に船尾を空高く上げて棒立ちになり、船首から沈没した。沈没地点は葛登支灯台南西3.5マイル地点。54名が戦死し24名が救助され、この空襲で最初の沈没船となった。

 「第十青函丸」は函館に着岸して貨車の積み卸しがほぼ終わった5時10分に空襲警報を受信、5時50分に避難のため出港した。港口を交わしたときに敵機に捕捉され、米軍機が「第十青函丸」に蜂のように群がった。全火力をもって応戦したが、6時5分に左舷船尾に命中弾、続けて左舷にもう一発の至近弾を受けた。後部船倉と機関室への浸水が始まり機関部員は必死の防水作業に当たったが及ばず、船は見る間に左に50度まで傾いた。6時30分、防波堤灯台から北北西600メートル地点に沈没したが、乗組員は全員救助された。

 「松前丸」は函館5時出港の貨客便として出港準備中であった。旅客を乗せて貨車を積み終えたところで空襲警報を受け、旅客はすぐ降ろしたが26両の貨車を載せたまま5時20分に避難のため出港。港口付近に出ると「第四青函丸」が激しい攻撃に晒されているのが船員達の目に入った。そのうちの何機かが「松前丸」を発見し、攻撃を加えてきた。右舷に命中弾と至近弾を受け、船橋の計器類が四散。船長は七重浜への座州を決意し、進路を北へ向けて全力航行を開始する。その途中で機関室右舷に命中弾を受け、右舷側側面に縦8メートル、横12メートルの大穴が開き、そこから火の手が上がった。6時30分に北防波堤から北へ1000メートルの七重浜海岸に座礁、その場で「松前丸」は猛火に包まれた。船員達は消火活動に努めたが、船長は消火困難と認めて総員退船を決意した。なおも米軍機の攻撃は執拗に続き、銃弾の合間を縫って船員達は船から脱出して七重浜の海岸へと泳いだ。「松前丸」はその場で燃え尽き、22名の戦死者を出し、73名が救助された。

 「第三青函丸」は3時05分に青森を出港し、下り便として海峡中央部で函館を目指して航行していた。5時10分に空襲警報を受けるとまもなく、下北半島方面から米軍機4機編隊が低空で接近してくるのを発見。蛇行動して回避に努めたが、無線室と発電機室に被弾して外部との通信が不可能となった。6時を回ると6機編隊が新手として加わり、「第三青函丸」に徹底的な攻撃を繰り返した。機銃で応戦したが多数の負傷者を出し、操船が困難になる。
 さらに次から次へと新手が加わり、「第三青函丸」に攻撃を加えた米軍機は50機を越えたという。7時過ぎに空中魚雷が命中、これがとどめとなって7時30分に矢越岬の南南東3.8マイルの地点に沈没した。戦死者64名、13名が救助された。

 「第七青函丸」は函館ドックで工事中であった。5時30分に空襲警報が発令されると同時に米軍機の姿が見え、米軍機はドックにも攻撃をしかけてきた。数機ずつが編隊となって波状攻撃をしかけたが、被害は外板に銃痕がついた程度であった。隣の岸壁にいた海防艦が対空放火で応戦、一発が敵機に命中して搭乗員が落下傘で脱出するのが見えたという。敵機はそれによりドックへの攻撃を止めた。

 14日午前中の攻撃は、一時的に曇ってきたために7時30分頃までには中止された模様である。9時53分には空襲警報も解除された。
 この段階で既に「第四青函丸」「第十青函丸」「第三青函丸」の3隻の車両渡船が沈没、客載車両渡船「松前丸」が大破炎上、「第二青函丸」では船橋に被弾して死傷者が数多く出ていた。この時点での沈没船(炎上船)はすべて函館側にいた船であった。

 正午頃になると雲が切れ始め、午後になると空が晴れ上がって真夏の真っ青な空と眩しい太陽が海峡を照らした。すると午前の攻撃に比べて圧倒的に数を増やした米軍機が海峡を目指して飛んできたのが見えた。そしてその米軍機は迷うことなく青函連絡船に突進していったのである。

 「第六青函丸」は午後になって再び空襲警報を受信。錨を上げて深泊半島の山陰に隠れるべく東に向けて全力前進した。しかし野内沖で敵機に捕捉され、次から次へと「第六青函丸」に襲いかかった。「第六青函丸」は全機銃をもって応戦したが、爆弾が上甲板に命中して左舷側の煙突が倒壊し負傷者が多数発生した。とにかく沈没を免れるために浅瀬を目指し、婆子岬の岩礁に座礁した。なおも銃撃戦は続くが、船体中央部に直撃したロケット弾により料理質付近から火の手が上がる。続いて船橋に直撃弾、この爆弾は船体を貫通して車両甲板で炸裂し船橋を四散させた。機関室も破壊されて蒸気を噴き出し、左舷煙突は倒壊、料理室から上がった火の手は船員室を包んでいた。その場で「第六青函丸」は燃え尽き、戦死者35名、41名が救助された。

 三厩湾に逃げ込んだ「津軽丸」は空襲警報の解除を受けて、12時50分に抜錨して「第一青函丸」とともに函館への航行を継続した。14時40分、眼前に北海道の大地が迫ってくる狐越岬近くで再び空襲警報を受信。「第一青函丸」は三厩湾に引き返したが、「津軽丸」は安全な錨地を探すことなくそのまま突き進んだ。「津軽丸」に暁部隊大佐が乗っていて、船長に「重大な作戦があるので急ぎ北海道へ渡りたい」と迫ったとする説もあるが定かではない。燃料の石炭が足りなくなり、船に閉じこめられて不快な思いをしている乗客を一刻も早く降ろしてやりたいという気持ちが函館への航行継続を決心させたという説もある。
 程なく函館山上空に敵機の編隊が見え、その大部分が迷うことなく「津軽丸」に突進して機銃掃射を皮切りに攻撃を津掛けてきた。「津軽丸」は狐越付近に座礁することを決意し右へ方向転換、程なく第一波である米軍機の6機編隊の攻撃を受けた。敵機は正確に船橋と機関室を銃撃、船橋では負傷者が出た。全機銃で応戦するが全く効き目がなく、船橋付近に至近弾を受けてその水柱が無線室を破壊する。今度はパイロットの顔がハッキリと解るほど近付いてきた爆撃機が通り過ぎたと思うと、船体中央部のボイラー付近に爆弾が命中、汽罐室から火の手が上がり、同時に水蒸気が巨大な柱となって吹き上がった。さらに客室後部でも爆弾が炸裂、すると、旅客も船員も船首方向へ避難を開始するが、敵機はこの人々に容赦なく機銃掃射を浴びせかけた。続いて船橋付近にも爆弾が命中、船橋が粉々に吹っ飛んで機銃で応戦していた海軍警戒隊員が吹っ飛ばされて真っ逆様に海面に落ちてゆくのが見えたという。やがて船が左へと大きく傾き、徐々に沈み始める。ここで船長は総員退船を決断、車両甲板に逃げ込んでいた船員や乗客が海に飛び込み始めた。その直後の15時10分、「津軽丸」は船首を空高く突き上げ、船尾から急激に沈没した。旅客52名が死亡、18名が救助。船員は75名が戦死、24名が救助された。

 青森で負傷者を下船させた「第二青函丸」は14時30分に再び空襲警報を受けた。安全な場所を探そうと錨を上げた瞬間、10機以上の編隊が「第二青函丸」に攻撃を仕掛けた。ロケット弾や小型爆弾が車両甲板に命中、その時点では致命的な損傷はなかったが、直後に船橋後部に直撃弾。これが船体を支える梁に被害を与えて致命傷となり、「第二青函丸」は船橋後部で真っ二つに折れて15時30分に沈没した。21名が戦死、44名が救助。

 「飛鸞丸」は早朝の空襲では難を逃れ、青森港に停泊していた。14時15分に空襲警報を受信するとジグザグ航行をしながら回避行動に出た。すぐに米軍機に捕捉され、数機編隊から執拗な攻撃を受けた。機銃で応戦したが、煙突後部に命中弾、その他多数の至近弾を浴びた。15時16分頃に船体が急激に傾いて15時20分に青森港外に沈没し、17名が戦死し80名が救助された。「飛鸞丸」には船員養成所実習生53名と教官と指導員の合わせて56名が乗り込んでおり、このうち14名が戦死した。皆童顔の残る14〜15歳の少年達であった。

 青森港外に錨を入れていた「翔鳳丸」は14時40分に敵機来襲を発見、直ちに錨を上げて回避行動に出たところで目の当たりにしたのは「飛鸞丸」と米軍機の熾烈な戦いであった。目の前で「飛鸞丸」が沈むと、米軍機は迷うことなく「翔鳳丸」に攻撃を仕掛けてきた。5機編隊の敵機が波状的な攻撃を仕掛けてくるが、最初の8発は全弾交わすことができた。しかし、続く攻撃では煙突後部に命中弾を食らって火の手が上がった。さらに敵機の機銃弾や爆弾が雨のように「翔鳳丸」に降り注ぎ、特に警戒隊員が機銃を撃ち尽くしてしまうと敵機は低空飛行で爆弾投下を開始した。やがて船級付近に二発の直撃弾を喰らい、続いて左舷中央船体に直撃弾を喰らいこれがとどめとなる。船体は猛火に包まれると共に徐々に傾斜を増し、15時40分に船長は総員退船を命令を出した。しかし救助艇は全て焼き尽くされており、船員達はそのまま海に飛び込んだ。15時55分、青森港外に「翔鳳丸」は沈没。47名が戦死し48名が救助された。

 函館ドックで工事中の「第七青函丸」は午後になって再度空襲警報を受信、急遽船を動かして回避することにした。その途中で敵機に発見されて七重浜方面へと逃げる。14時40分に命中弾3発を食らい、発電機がやられて電気の使用が不可能になった。機銃などで応戦の結果敵機は去ったが、損傷が激しく連絡船としての使用ができない状態にされていた。辛うじて沈没は免れ、修理のため再び自力で函館ドックに戻ったが、現実には航行不能の状態であった。

 「第八青函丸」は函館港で待機していた。14日〜15日にかけて度重なる米軍機の攻撃を受け、船体や機関に激しい損傷を受けて航行不能となった。だが人的被害はなかった。

 三厩湾に避難した「第一青函丸」は、津軽半島方面は午後も薄曇りだったため14日は難を免れた。翌15日まで三厩湾に実を潜めていたが、15日に発見されて13時30分頃に米軍機50機編隊の攻撃を受けた。直ちに機銃で応戦したが、船体中央部に多数の命中弾と至近弾を受けて船体は左に大きく傾斜、14時40分に船橋を海面に残して沈没した。乗組員等は全員陸軍の舟艇で避難し、無事であった(この「第一青函丸」に対する攻撃の様子と思われるカラー映像が、攻撃した米軍機のガンカメラによって撮影されている。これが保管されたのちに日本側にフィルムが渡り、2017年夏にNHKが「青函連絡船への空襲」旨のテロップ入りでテレビ放映している)。

 2日間の青函連絡船の被害は、沈没8隻、大破炎上2隻、損傷による航行不能2隻(大破)、計12隻が被害を受けて使用不能となった。12隻というのは当時の青函連絡船の全部であり、文字通り青函連絡船はこの日、米軍の空襲により全滅したのである。使用できる船は1隻も残らなかった。
 万一の空襲の際に連絡船を守るはずだった函館山要塞は、連絡船が次々に沈められるのを黙って見ているだけで砲門はひとつも火を吹かなかった。それもそのはず、函館山要塞とは名前ばかりで戦後になって一般に開放されると砲門がひとつもなかった事が判明する。
 青函連絡船の責任者であった海務課長は、連絡船全滅の責任を問われて旭川師団本部に出頭を命ぜられた。結局は出頭日の前に終戦を迎えたために出頭せずに済んだが、出頭のための資料で海務課長は痛烈な軍部批判を用意していた…「航路警備の弱体」「情報の遅延」「連絡船武装の弱体」「船橋防護施設の不備」「疎開錨地選定の無計画」が連絡船全滅の原因でありその責任は軍部だけではない。しかし、それらの項目が実現していたとしても軍が敵軍を壊滅しない限りは同じ結果だったという内容であり、極刑覚悟で青函航路の実状を訴えるつもりであったと言い伝えられている。

 運輸通信省では青函連絡船の建て直しを至急行うことにした。まず工事のため偶然にも函館ドックにいた稚泊航路の「亜庭丸」を緊急に青函航路に転属、工事を急がせて運航することとした。そして、大破して使用不能となったものの、沈没や炎上を免れた「第七青函丸」「第八青函丸」の2隻に応急修理をして復帰させようと計画した。さらに航路を失って散り散りになった関釜連絡船の生き残りの船を青函航路に転属させることを決定した。だが、それらが実現するまで時間がかかると予想された。
 それまでのつなぎとして、まず海軍に協力を要請し特設砲艦「千歳丸」と特設巡洋艦「浮島丸」を就航させせた。双方とも海軍に徴用された客船を軍艦に改造したものであり、旅客輸送に充分耐えられるものであった。このうち「浮島丸」の方は、戦後に強制労働の朝鮮人帰還輸送中(違法輸送であった)に舞鶴港で雷撃されて沈没、犠牲者を数多く出したことで知られるようになる。この2隻の青函航路就航は7月17日で、全滅から僅か2日で海峡輸送をなんとか復活させた。それほどまでに青函間の輸送は重要視されていたのである。
 続いて船舶運営会保有の貨客船、「樺太丸」を傭船して就航させた。「樺太丸」は山陽鉄道が製造させたかつての関釜連絡船第一船、「壱岐丸」(初代)であった。
 「亜庭丸」が工事を終えて青函航路に加わったのは7月23日。続いて「第七青函丸」が7月25日、「第八青函丸」が29日に青函航路に復帰。空襲による傷が痛々しかったが、この車両渡船の復帰が青函航路復興の第一歩となる。同時に「千歳丸」「浮島丸」は原隊に戻った。

 関釜連絡船の生き残りの船達は、日本海側の港と朝鮮半島の間で細々と物資輸送をしていた。そこに青函航路へ急ぐよう指示されるが、燃料の石炭も水も足りずに準備に手間取った。その間に「天山丸」が隠岐島付近で空襲に遭いロケット弾の直撃を食らって炎上、沈没した。また「昌慶丸」も京都府の宮津港で空襲を受け、左舷船腹に至近弾を受けて沈没。「対馬丸」は朝鮮半島の元山への物資輸送を命令されて去り、終戦の僅か2日前に機雷に触れて損傷、ソ連軍の南下を恐れて自沈して果てることになる。
 函館を目指したのは「景福丸」「壱岐丸」2隻だけであった。「景福丸」は8月6日に隠岐島を出発、「壱岐丸」は4日に山口県の仙崎を出港、2隻とも函館への道程は平坦でなかった。昼間は米軍機の攻撃を避けるために最寄りの港に入ろうとすると爆撃を恐れた地元民に拒絶され、島影を探しては身を潜め、夜は沿岸沿いに隠れるようにとぼとぼと北を目指す。入港できないので水や石炭の補給もできず、ついに海水を沸かして航行することになった。こんな様子で函館に着いて青函航路に就航したのは戦後となった。

 8月10日、青森市の鉄道施設や港湾設備が米軍機に襲われた。青函連絡船を全滅させた機動隊が再び襲ってきたのだ。敵機は深泊半島に身を潜めていた「亜庭丸」を発見し、朝6時30分に第一波である16機編隊が銃撃を浴びせかけ、以後20機以上の編隊が繰り返し執拗に「亜庭丸」を攻撃し投下弾数は300発に及んだ。「亜庭丸」は猛火に包まれて夜になって19時30分にその場で沈没したが、乗組員は攻撃の隙を見て脱出して全員無事であった。砕氷船で頑丈とは言え、たかだか3000トンクラスの旅客船を沈めるのに軍艦並の手こずりようである。味方の支援は何一つなく、こんな下手くそになぶり殺しされて沈められた「亜庭丸」はさぞ無念だったことだろう。

 8月15日終戦。しかし、北の稚泊航路では戦争は終わったわけではなかった。ソ連軍が南下して戦闘状態になったために、樺太の日本人難民の輸送が待っていたのである。樺太や北方領土では8月15日以降も日本軍とソ連軍による組織的戦闘が継続され、ソ連が一方的に停戦するまで続いた。8月23日に稚泊航路は「宗谷丸」一隻での難民輸送を終える。最後の便には船室通路は勿論、船倉やボートデッキ、船員室の廊下や機関室の通路まで乗せられるだけの人を乗せ、定員790名のところに4500人あまりが乗船と記録されている。この便が稚内港に入港すると、最北の鉄道連絡船「稚泊航路」もその歴史に終止符を打った。
 役目を終えた「宗谷丸」はすぐに函館港を目指した。米軍の空襲でボロボロになった青函連絡船を助けるためである。

 青函連絡船の戦争は終わったが、戦いはまだ続く。復興に向けてのさらに辛い戦いが青函航路の歴史には残っているのである。

4 青函連絡船復興とGHQ

 日本が敗戦し、米進駐軍が日本本土に上陸してGHQ(連合国最高司令部)による占領政策が開始された。すべてが米進駐軍の管理下に置かれ、日本国内の鉄道や船舶も例外でなかった。GHQによって国内では大型船の建造は禁止となり、今まであった商船も船体にGHQの識別記号である「スカジャップナンバー」を入れられた。船の英頭文字と3桁の数字の組み合わせで決められた。

 空襲でボロボロになった青函連絡船には、終戦と同時に人々がどっと押し寄せた。北方戦線からの復員者、北海道で強制労働させられていた朝鮮人、食糧の買い出しに翻弄する人々、ヤミ商売をする人々…常に青函連絡船の乗り場は人が溢れ、船待ちの長い列が延々と続いていた。
 終戦直後の青函航路の陣容を整理すると、車両渡船「第七青函丸」「第八青函丸」、貨客船が関釜航路からの転属船「景福丸」と稚泊航路からの転属船「宗谷丸」、純貨物船が関釜航路からの転属船「壱岐丸」、合わせて5隻しかなかった。輸送力は当然のように不足したため、さらに空襲で沈没した元関釜航路の客船「昌慶丸」「徳寿丸」を引き揚げ修理して投入することにした。青函航路の被災船も調査し、青森県野内沖に座礁・炎上した「第六青函丸」を修理することに決定した。
 旅客船が足りなかったため、車両渡船「第七青函丸」「第八青函丸」の甲板に木製の客室が建てられた。続いて「壱岐丸」の甲板や船倉にも客室が設けられ、修理された「第六青函丸」の甲板には鋼製の本格的な客室(定員394名)が設けられて客載車両渡船となった。「第七青函丸」「第八青函丸」も「第六青函丸」と同等の客室に改造されて客載車両渡船となる。客載車両渡船になると同時にボイラーを5缶に増設し、煙突も増えた。

 だが輸送力の不足はどうにもならない。皮肉なことにこれで一番困ったのは青函連絡船を全滅させた米軍当人であった。米軍は日本に進駐すると同時に、ソ連を牽制するために北海道に大部隊を送り込んでいた。しかし、青函連絡船が壊滅状態にあったために物資の輸送がままならず、相当な苦労をしていた。
 米軍は運輸通信省になんとかするように迫った。そこで運輸通信省は建造中で完成目前であったW型車両渡船「第十一青函丸」「第十二青函丸」の2隻と、博釜航路用に開発し投入予定でやはり完成目前であったH型車両渡船1隻の建造許可を求めた。GHQ側もすんなりとこれを認め、早速建造の続行を指示した。
 こうして1945年(昭和20年)10月から翌年5月にかけて生まれたのが「第十一青函丸」(JLLW・2850.71トン)と「第十二青函丸」(JWEZ・3161.44トン)である。ボイラーが5缶になって性能が上がったとはいえ、戦時標準船には変わりなかった。外観はW型ではあったが煙突が1本増えて3本煙突になった。
 続けてH型の第一船「石狩丸」(初代・JWSZ・3146.32トン)が1946年(昭和21年)7月に就航する。玄海灘の荒波に備えてボイラーは6缶、煙突も4本であった。ただ、車両甲板の水密扉の採用は見送られた。青函連絡船では、「石狩丸」以降の車両渡船の船名は北海道の支庁名となる。
 これらは就航してすぐに甲板に「第六青函丸」に同様の客室が設けられ、客載車両渡船となった。これで青函航路復興への期待がかけられたのも束の間、この3隻は揃って「進駐軍専用船」に指定されて一般旅客・貨物の利用は禁止されてしまった。3隻は日米講和条約が結ばれてGHQが撤退するまで、GHQ専用船として活躍することになる。

 さらにGHQは青函航路へLST(米軍の上陸舟艇)を貸し出し、これを車両渡船に改造して使用するように命令を出した。これに応じて函館港と小湊港にLST用の車両航送設備を整備、1946年(昭和21年)3月から運行を開始した。これが青函航路の貨物用補助航路である「函館・小湊航路」の始まりである。LSTは12隻が貸し出される予定であったが、実際には2隻(Q021・Q022)しか運行されなかった。
 LSTの運航は困難を極めた。上陸作戦用という特殊用途から喫水が浅く、津軽海峡の波浪に揉まれて船員でも酔うような状況だったという。操船も困難で、僚船の連絡船から厄介者扱いされた。しかも甲板を車両甲板に改造したはいいが、狭すぎて小型貨車しか積むことができず扱いづらかった。
 一番大変だったのは燃料補給である。LSTの機関はディーゼル機関で、燃料は軽油であった。函館・青森・小湊各港には軽油補給施設がなく、燃料切れが近付くと往復8日を費やして横須賀まで回航するしか手はなかった。
 LSTによる輸送は1948年(昭和23年)2月をもって終了した。後述する新型連絡船の投入もあるが、LST使用の非効率が最大の要因と思われる。約2年で航送車両数は2隻あわせて19411両である。これが青函航路の補助航路になるはずだった「函館・小湊航路」の全実績である。
 その年の10月「函館・小湊航路」の本格運航に備え、小湊第一岸壁に「第六青函丸」が試験着岸を行った。ところが試験によって判明した不備な点を直すことはなく、再び小湊桟橋に連絡船が着岸することはなかった。翌年7月に函館・小湊航路の中止を発表し、1965年(昭和40年)3月20日に正式に廃止された。車両航送を行う国鉄連絡船で、一番短命であった。

 青函航路は終戦時には10往復のダイヤだったのが、1年で15往復に増やすことができたが中身は火の車であった。輸送量が増えて戦時中より過酷な輸送を強いたのは勿論、戦時中の無理が祟って故障や事故が今まで以上に頻発するようになったのだ。
 1945年(昭和20年)11月28日、「第八青函丸」が青森岸壁で貨車積み込み中にヒーリング装置が利かずにその場で沈没。原因は船底清掃をせずに運行を強いたためで、進駐軍の軍法会議にかけられたがろくな整備をさせずに過酷な運行を強いたのはGHQだったため責任を問われる者はなかった。「第八青函丸」は程なく引き揚げられて修理されるが、この事故をきっかけに事故が続く。
 1946年(昭和21年)2月には「第十一青函丸」が葛登支沖に座礁、3月には「壱岐丸」が函館港外で座礁、6月には修理のために曳航されていた「第六青函丸」の曳航索が切断して漂流、7月と10月には「第十一青函丸」が機関故障、10月と11月に「第八青函丸」の機関が故障、1947年(昭和22年)1月にはLST(Q022)が下北半島の貝崎沖に座礁。欠航を伴った故障だけでもこれだけの事故が起きていた。

 当時の青函航路を監督していたのは進駐軍函館停車場司令部(RTO)であった。RTOはこれらの事故を「船員の腕が悪い」からと決めつけ、故障や事故の度に連絡船船員達に暴力を振るった。時化で船が遅れるとRTOの顧問が着岸と同時に船橋にあがり、船長と機関長を殴ったこともあった。本省からGHQ本部の鉄道司令部大尉の命令で函館へ来た運輸通信省青函連絡船技官を理由なく拘置所に入れた事実も残っている。
 1947年(昭和22年)12月12日、北海道付近にふたつの巨大な低気圧が接近し津軽海峡は大時化であった。青森から時化をついて函館に到着した「宗谷丸」「第十一青函丸」の2隻はあまりの強風に着岸できず、港内に投錨仮泊するという事態を迎えていた。風はますます強くなり、うねりが大きくなって三角波のせめぎ合う津軽海峡は連絡船を運航できる状況ではなく、全船が天候を警戒して欠航となっていた。
 その状況下、RTOは進駐軍専用船「石狩丸」に出港するよう命じた。船長は天気図を示して海峡の天候模様を説明し出港は危険であるという船長判断を述べたが、RTOは出港命令を変えなかった。船長といえどもGHQには逆らうことはできない。
 「石狩丸」はやむなく出港することにした。風は西から吹いている、函館を出港したら津軽半島を目指して船首から風を受けるように航行し、海峡中央をすぎたところで反転して下北半島へ船首を向け、船尾から風を受けるような航路を描くことにした。そうすれば大波浪を側面から受ける可能性は低く、瞬時に横転・沈没という危機からは免れることができると判断した。進駐軍兵士115名、貨車38両、客車3両を積み込んで「石狩丸」は11時19分に猛吹雪の函館港を出港した。
 函館港を出て函館山を交わすと、凄まじい波浪と風、吹雪が「石狩丸」を襲った。視界はなくなり、船体が大きくきしんで上へ下へと揺れた。船体は波にたたき上げられ、奈落の底へ落ちる揺れを繰り返す。船体の動揺は36度、窓から外を見れば海面に手が届きそうな揺れである。棚に収容しているものが片っ端から落下し、乗っていた進駐軍兵士は船酔いと沈没の恐怖に怯え、顔面蒼白で口をきくこともできない者が多かった。
 14時19分、「石狩丸」は海峡の反転地点に差し掛かった。ここで東へ反転しなければ青森へ向かうことはできない。船橋の操舵手が舵輪を回したが船は向きを変えることができない。目一杯舵輪を回し、舵を操作しても船の向きを変えることはできなかった。あまりの強風で船が切り上がり現象を起こしたのである…切り上がり現象とは強風による風圧で、船首が風が吹き出す方向を向いたままに回頭できなくなることである。飛行機の尾翼を想像すればどんな現象か理解できると思う。
 つまり「石狩丸」は津軽半島に船首を向けたまま直進しかできなくなったのだ。船長は乗り切るのが困難であると判断、船首をそのまま津軽半島へ向け錨を少しだけ降ろして漂流することにした。強風と大波浪は相変わらずで、船体は右へ左へ上へ下へと大揺れしていた。救命艇が大波に叩かれて破壊した。
 やがて日が暮れると今度は岩礁への乗り上げが懸念された。一度は青森を目指すことも考えたが、なおも切り上がり現象により回頭ができない。錨を引きずって大波浪の中を進むうち、21時35分、錨が海底の砂を噛んだのを確認した。そのまま投錨仮泊に成功。位置は三厩湾の中であった。
 恐怖に震えていた進駐軍兵士は喚起の声を上げて無事を喜び、船橋に押し掛けて船員達の必死の苦労に感謝した。その場に13日朝まで仮泊し、13日11時35分に「石狩丸」は無事に青森港に入港した。
 「石狩丸」に乗船していた進駐軍指揮官がGHQ本部に「青函連絡船で大時化に遭って死ぬところだった」と報告したとされている。GHQがこの難航事件の真相を究明し、RTOの青函航路に対する横暴を知ることになる。この「石狩丸」難航事件をきっかけにRTOは態度を改め、連絡船船員の操船・航海技術を心底信用して横暴な態度は取らなくなった。無論、時化の中への無理な出港命令もなくなった。
 

5 洞爺丸型客載車両渡船就航

 「第十一青函丸」「第十二青函丸」「石狩丸」の3隻を投入しても、青函航路の状況は好転しなかった。輸送力の不足は慢性化しており、質が低くて故障が相次ぎ抜本的な対策が必要になった。決定的だった点は車両渡船が少なかったことである。関釜航路から転属の純貨物船「壱岐丸」は青函航路では事実上貨物船として使用できず、甲板や船倉に客室を急造して旅客船として使うしかなかった。5隻の車両渡船と2隻のLST改造船では迫り来る貨車の輸送に対応できず、両港には常に滞貨の山があった。日本人の貨物を運べるのは「第七青函丸」「第八青函丸」、遅れて復旧した「第六青函丸」の3隻だけであった。
 そこで、運輸省はGHQに鉄道連絡船用の船舶の新造を陳情していた。連絡船増備は北海道や四国の復興とエネルギー資源輸送に不可欠であること、造船という一大事業により日本工業界全体の復興を促すことが可能であることなどを理由に挙げた。

 1946年(昭和21年)夏、GHQは運輸省に対して鉄道連絡船新造の許可を出した。内容は青函航路に客載車両渡船と車両渡船4隻ずつ、宇高航路に客載車両渡船3隻、補助汽船6隻、計17隻3万2000トンもの大事業が許可されたのである。
 運輸省は総力を挙げて連絡船の設計にかかり、すぐに基本設計を整えて発注した。これにはウラがあって、GHQの考えが変わって急に許可取り消しという事態を恐れたものであった。またこの大事業の許可の裏には、出来上がった船が国家賠償として取り上げられるという噂も出た。現に1947年(昭和22年)2月になって青函航路の客載車両渡船4隻の建造許可は取り消し命令が出た。既に第一船が進水直前まで完成し、二船目以降の部品も買い取った直後である。「ここで造船取り消しとなれば運輸省は多大な違約金を払わねばならない」という内情を説明するのみならず、GHQの関係者を様々な接待でもてなすなどした結果、GHQが折れて取り消し命令は撤回された。

 これは戦後最初の大事業となった。鍋や鍬や釜を作って辛うじて生きていた造船会社にとって起死回生のチャンスであり、敗戦で暗い気持ちに沈んでいた国民にも「自分たちの力で復興が出来る」という明るいニュースとして広がった。
 ただ喜んでばかりもいられなかった。造船施設は空襲により破壊されており、船を造るのに必要な資材は極限まで不足していた(このため、この連絡船建造の受注がを断念せざるを得なかった造船会社もあった)。造船会社の社員達はまず造船施設を急ピッチで修理し、続いて食糧を詰め込んだリュックサックを背負って資材を求めて全国を走り回った。造船所の構内にはボロをまとった工員が動き回り、一同食べることも事欠く悪条件の中、船を作り上げていった。

 1947年(昭和22年)11月、白と黒に塗り分けられた美しい新造客貨船が函館港に到着した。青函航路戦後初の客載車両渡船「洞爺丸」(JTAP・3898.03トン)である。下部遊歩甲板に綺麗に並んだ角窓、流麗な船橋と船首、後に少し傾けた4本の太い煙突…終戦直後の物資不足の中で作られたとは思えない、美しい船であった。定員は一等44名、二等255名、三等633名の932名。車両甲板には2本の線路が敷かれ、18両の貨車が搭載可能であった。
 1年のうちに同型船「羊蹄丸」(初代・JTCP・3896.17トン)、「摩周丸」(初代・JLXQ・3782.42トン)、「大雪丸」(初代・JTBT・3885.77トン)の客載車両渡船が続く。
 同時に車両渡船の新造も進んでいた。戦時標準船のW型を基本設計とした「北見丸」(JQGY・2928.10トン)「日高丸」(初代・JQLY・2932.01トン)、H型を基本設計とした「十勝丸」(初代・JGUD・2911.77トン)「渡島丸」(初代・JDZQ・2911.81トン)、合わせて4隻が就航した。基本設計はW型やH型であるが、中身は大きく違った。4本煙突に6缶のボイラー、5500〜6000馬力の機関という装備は「戦時標準」から抜け出した。ただW型とH型の違いは搭載貨車数に現れており、W型が44両、H型が42両である。両形式とも混用され、総称して「北見丸型車両渡船」という。
 同時にに宇高航路にも3隻の客載車両渡船が新造された。「紫雲丸」「眉山丸」「鷲羽丸」の3隻で、洞爺丸型客載車両渡船を一回り小さくして煙突を2本にしたような出で立ちであった。

 洞爺丸型客載車両渡船・北見丸型車両渡船の投入により、他航路からの転属船やLSTは次々に引退し、青函航路は自力で力強く戦後の歴史を切り開くことになる。
 人々はすし詰めの列車から、まだペンキの匂いの残る新造客船に乗り込み、溢れる湯水で顔を洗い、広々とした船室で身体を伸ばし、大きな角窓から津軽海峡の景色を眺めた。その時、乗客は戦後の辛い時代であることを忘れ、敗戦から復興への決意を新たにしたのであった。

 青函連絡船の辛く長い戦争は、終わりを告げた。


 これが青函連絡船の戦争の歴史である。青函航路は効率よく貨車を渡航させるシステムへと成長したが、空襲、全滅という末路をだどり、その絶望の中から奇跡的に極めて短期間で立ち上がったのである。そして青函連絡船は戦前にも増した陣容で、日本全体の復興を支えて行くのである。
 しかし、復興なって力強く立ち直ったかに見えた青函連絡船の歴史を一変させる悲劇が待っているのである。青函連絡船の歴史を語る上で裂けて通ることの出来ない悲劇、「洞爺丸事故」である。次回は終戦から9年後に起きた洞爺丸の悲劇を通じて、青函連絡船の問題点や教訓という歴史に触れてみたいと思う。

つづく


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