第五章 1954年9月26日
〜洞爺丸事故とその後〜


1 台風「マリー」
2 台風との闘い
3 北見丸
4 洞爺丸
5 日高丸
6 十勝丸
7 嵐のあと
8 原因と教訓

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 長い戦争の時代も去り、青函連絡船も終戦後の早い時期に新造船の投入、それが功を奏し見事に復興を成し遂げ、新たな平和の時代に入っていた。徐々に物資不足や食糧不足といった事情も改善され、人々の生活も上向きとなって、日本は戦後という暗い時代から抜け出そうとしていた。
 青函連絡船における戦後復興は、前回紹介した「洞爺丸」「羊蹄丸」(初代)「摩周丸」(初代)「大雪丸」(初代)の4隻の客載車両渡船と、「北見丸」「十勝丸」(初代)「渡島丸」(初代)「日高丸」(初代)の4隻の車両渡船の就航がきっかけであった。青函連絡船は戦前に勝る陣容で津軽海峡を結ぶことになり、圧倒的な輸送力を誇ることになった。順次全船にレーダーが取り付けられ、視界不良による欠航が大幅に減った。

 津軽海峡に平和が訪れ、安定した輸送を続けていた1951年(昭和26年)5月9日のことだった。渡島半島にある福島町の沖合で一隻の漁船が直径1メートル、触覚のついた鉄のかたまりが流れているのが発見された…浮遊機雷である。朝鮮戦争のために朝鮮半島付近に敷設された機雷が、日本海を横断して津軽海峡まで流れてきたのだ。
 津軽海峡は騒然となって、青函連絡船は夜間全面運航中止となった。幸い貨物・旅客共に閑散期で当初は大きな被害はなかったが、夜間運航中止が伸びて8月になると人と貨物が海峡に押し寄せてきた。貨車は青森や函館の操車場に入りきらず、付近の駅まで航送を待つ貨車で埋まった。旅客は夜行便がなくなったため、夜間に青森・函館で着岸中の青函連絡船がホテル代わりに開放すると連絡船で寝泊まりする旅客が大勢出た。出港前に万が一に備えて全乗客に救命胴衣の着用が義務づけられ、救命艇を張り出された状態での航行となった。
 特に貨物の輸送力低下は経済界に打撃を与え、青函連絡船夜間運航中止は国会でも取り上げられた。
 結局、僅か3ヶ月で貨物便だけ夜間運航を再開、初便は「第十一青函丸」であった。乗員と貨車に添乗の荷主など全員が救命胴衣を着用、船橋はもちろん甲板にも見張り員が張りついた。青函連絡船全船に探照灯(サーチライト)が取り付けられ、救命筏(いかだ)を舷側に移動するなど救難対策が施された。さらに海上保安庁員が機銃を持って乗り込み、機雷を発見したらすぐに直ちに破壊する体制を取った。
 旅客便の夜間運航再開は2年後の1953年(昭和28年)4月にずれ込んだ。海上保安庁が海峡西側での哨戒を増やし、機雷発見に万全の体制を取るという条件の下での運航であった。第一船は「洞爺丸」、乗客は連絡船に絶対的な信頼を寄せており、誰ひとり不安を感じる客はいなかったと伝えられている。

 ここで簡単に、当時の船員の構成を書いておこう。
 船の長は当然のことながら船長である。当時の青函連絡船では船の運航責任はもちろんのこと、悪天候時に運行するか欠航するかの判断も全て委ねられていた。基本的に1船に2人の船長がいて、船そのものや船員の指導や人事に関してまで全責任を持つ乗組船長と、乗組船長が休日の際に乗り込んで船の運航に関する全責任を負う専属船長がいた。船長以下の各役職も2組あり、乗組船長以下のチームを「A組」、専属船長以下のチームを「B組」と称して交互に乗務した。
 船橋や船首や船尾で船の運航を指揮するのが航海士である(青函連絡船ではこの時期は「運転士」と称していたが、本文ではイメージを掴みやすくするためするため「航海士」の呼称で統一する)。一等から三等まであり、一等航海士は船長が非番の時間は船長代理として船を責任持って運航する立場で、二等航海士、三等航海士は船長や一等航海士の命令の元、船の操縦そのものに関わる役職である。離岸・着岸時は一等航海士は船首で、二等航海士は船尾で係留装置の指揮をし、三等航海士は船橋で船長の下で機関操作を中心にした指揮を行う。総員配置の時は二等航海士はレーダー担当、三等航海士はテレグラフ(機関室に機関操作を伝える装置)の担当となる。通常航海時は航海士が交代で当直となる。
 機関室で機関関係の全責任を持っているのが機関長、その下に機関部船員を指揮する一等機関士、二等機関士、三等機関士がいる。実際に機関の操縦をするのは機関士の仕事である。平常時は機関長と機関士が交代で当直する。
 陸上との無線連絡の責任を持つのが通信長である。無線室には通信長と主席通信士、次席通信士の3人がいて交代で当直に当たっている。当時の連絡船には二種類の無線が積まれており、ひとつはモールス信号による船舶無線、もうひとつは連絡船同志や国鉄の地上設備と連絡をとる無線電話でこちらは肉声による通信が可能であった。またレーダー装置の保守・管理も通信士の仕事である。
 船員の食事の世話、陸上から送られてくる船員の給料の仕訳と配布、客船では船客に対する世話と責任を持つ「事務部」を指揮するのが事務長である。
 ここまでが「士官」と呼ばれる上級船員達で、その中でも船長、一等航海士、機関長、一等機関士、通信長、事務長の6人は船の最高幹部で通称「サロン6職」と呼ばれていた。
 以下は普通船員と呼ばれる船員達である。
 航海士の指揮の下で甲板上の仕事をする人たちが甲板員である。船の係留作業、積み込まれる貨車の固定や解放やなど、甲板員にもいろいろな仕事がある。水手(いわゆるセーラー)、船庫手、船匠などがいて、仕事が多岐に渡っているためここではひとまとめに甲板員と称することにする。また船橋で船長の指示に従って舵輪を回し、舵取りの操作をするのは甲板員のひとりである操舵手である。
 機関室へ目をやると、ボイラー室でボイラーに石炭を注ぎ込む「釜焚き」作業をするのが火手、責任者は火手長である。機関に油をくべたりという手入れをする操機手、ボイラーの操作を缶手などの機関部員がいる。機関部員は暗い船底で油や石炭にまみれているが、彼らの存在があるからこそ船が波を蹴立てて走ることが出来るのだ。
 事務長の下で事務的な作業をするのが事務掛、他に事務部員として料理長、料理手、厨房長、そして客船では客室担当の給士(ボーイ)がいて接客を担当する。
 代表的な役職ばかりを連ねてみたが、他にも様々な役職があり「洞爺丸」の場合ざっと110人ほどの船員が乗り組んでいた。

 青函連絡船の車両渡船には、船として決定的な弱点があった。
 それは船尾に貨車積み込みのため大きな口が開いていることである。「石狩丸」(初代)として青函航路に就航したH型(博多〜釜山航路用車両渡船)には、玄界灘の荒波に備えて車両甲板の入口を水密扉で密閉する計画があった。だが、青函連絡船への転用にあたって水密扉の設置が中止された経緯がある。
 誰もが大波が来たらここから海水が浸入すると考えそうだが、意外にもそうでもなかった。車両甲板は喫水線から2メートル近く高い場所にある。停泊中は船は波と共に上下に動くために海水が入ることは考えられず、航行中も大波に持ち上げられたあとに船尾が水中に没しても車両甲板までは沈まなかったから、せいぜい入口のあたりが濡れる程度でしかなかった。追い波にも船の速度が勝ったため車両甲板に波が打ち上げることもなかった。
 ただ、例外はあった。1934年(昭和9年)3月21日のことである。函館は日本海を進む低気圧の影響で南からの強い風と雨に見舞われた。その中を「飛鸞丸」が上り4便として17時30分に函館を出港、函館湾の出口の葛登支岬沖まで来たところで急に風が強くなった。航行困難と判断して函館に引き返そうとしたが、切り上がり現象(第四章参照)が起きて船首を南に向けたまま舵が利かなくなった。やむを得ず青森への強行を決意し、「飛鸞丸」は南へ向かい始めた。大波浪は船を持ち上げ、次には奈落の底に突き落とす。船内では棚に収納しているものが落下し、客が船酔いで顔面蒼白となった。そして車両甲板には初めて波が打ち上げて、船体後部の車両甲板下にある石炭庫や操舵機室が浸水した。後部三等客室の船客を前部客室に移し、ドリルで穴を開けて操舵機室の海水を後部三等客室へ流し、石炭を濡らさぬように船員総出で車両甲板下の正甲板に流れた水をバケツリレーでくみ出した。その中には料理手などの事務職の船員の姿もあったと言われている。そして無線アンテナが強風で引きちぎられたため、陸上との交信が不可能になって「飛鸞丸遭難か?」というニュースが流れた。
 強行決意から激闘6時間、22日0時頃に竜飛岬灯台を確認、ほぼ同時に風向きが西に変わったため、西へ転進して1時に三厩湾に避難すること成功した。船員も乗客も歓喜の声を挙げて無事を喜んだが、無線アンテナの応急修理が終わり陸側に「飛鸞丸無事」を知らせると、帰ってきた返事は函館市が嵐の中の大火災で壊滅状態になったという知らせであった。「飛鸞丸」は22日昼過ぎまで三厩湾に停泊し、22日夕方に無事青森港に着岸した。
 車両甲板に海水が浸入したのは、洞爺丸台風の前ではこの1件だけであった。この時も海水は船尾から出入りを繰り返すだけで、海水が前方へと流れたり、継続的に溜まるという状況ではなかった。車両甲板下への浸水も船体後部に集中し、中央にある機関やボイラーは致命的な被害を受けていない。青函連絡船乗組員の誰もが、車両甲板からの浸水が沈没に繋がるなどとは考えていなかった。

 函館港は「天然の良港」ではあったが、唯一の弱点があった。
 それは「南〜南西の風」であった。函館湾は南に口を開いており、巴型の函館港は西に口を開いている。この口が重なる南西方向からの風に弱く、その中でも真方位(真北を0度にして時計回りに360度刻みの角度をいう、例として真南は180度、真西は270度である)205〜217度方向は葛登支岬と竜飛岬の間の細い隙間から直接日本海へ口が開いていて、対岸は能登半島から山陰地方となる。この間12度の方向から風が吹くと日本海を渡ってきた大波浪が函館港に直接入り込むことになる。さらに風の吹走距離が長くなるため、波は風との相乗効果で大きなうねりとなり、函館港に巨大なうねりが三角波になっていくつも押し寄せることになる。

 青函連絡船の復興がなり、浮遊機雷の恐怖も去って、連絡船は平和な津軽海峡を黙々と結んでいた。そして1954年(昭和29年)9月26日、青函連絡船にとって最大の悪夢の日を迎えるわけである。この日1日で車両支線の持つ弱点、函館湾の持つ致命的な弱点、これらが一気に青函連絡船を地獄へと変えたのだ。
 今回はその日1日の津軽海峡が本題である。

1 台風「マリー」

 1954年(昭和29年)の青函連絡船の陣容は、客載車両渡船が「洞爺丸」「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」の洞爺丸型が4隻、「第六青函丸」「第七青函丸」「第八青函丸」「第十一青函丸」「第十二青函丸」のW型が5隻、「石狩丸」のH型1隻で計10隻。車両渡船が「北見丸」「十勝丸」「渡島丸」「日高丸」の北見丸型(W型・H型の改良版)が4隻。合計14隻の陣容であった。
 うち「第十一青函丸」「第十二青函丸」「石狩丸」の3隻は進駐軍専用船で、進駐軍の貨車や客車、進駐軍兵士やその家族を輸送する専用船であったが、この頃になると余裕があれば一般の日本人乗客も乗せていた。
 また、「第六青函丸」「第七青函丸」「第八青函丸」の3隻は貨物便として運航されたが、客室は開放され旅客を乗せて運航されていた。この3隻を使用した便は、主に「かつぎ屋」と呼ばれる行商人に利用された。「かつぎ屋」とは青森から闇米を持って函館へ渡ってこれを闇市で海産物他の農産物と物々交換して青森へ帰り、それを売りさばいて商売する人々のことで、米俵をかつぐ姿からその名前が付けられた。終戦直後の食糧難の時代に生まれた職業で違法であり、戦後しばらくは取り締まりか厳しかった。だが食糧事情が好転すると黙認されるようになり、この時期になると行商のひとつとして認められるようになっていた。特にこの3隻が「かつぎ屋」専用というわけでもなかったが、「かつぎ屋」たちはこの3隻の船を利用することで「自分たちが背負う大きな荷物で他の乗客に不快感を与えずに済む」と考えていたようである。無論、洞爺丸型を用いた一般旅客便にも「かつぎ屋」が乗っていた。「かつぎ屋」たちは青函連絡船で津軽海峡を毎日のように往復し、船内では一番礼儀正しい客だったと言い伝えられている。
 W型やH型の客室定員は船にもよるが、二等・三等合わせて350〜400人程度であった。これらの船は戦時標準船として粗悪な部品で造られていたが、主機関換装、二重底化改造などの工事を受けて戦後生まれの船と同等の性能に改造しながら使用していた。

 8月、第九回国民体育大会が北海道で開かれた…全国持ち回りの国体が北海道で開かれる番に当たったのだ。戦後の復興は北海道の資源なくしては成り立たなかったといわれ、この国体は道内外共に北海道は「外地」ではなく本土の一部であると印象づける大会となり、全道民を挙げての盛り上がりとなった。
 その国体開会式への参加と北海道内巡行を兼ねて、昭和天皇・皇后両陛下が北海道を旅行することになって青函連絡船に乗船することになった。陛下は8月7日に青函連絡船で函館入りし、17日に渡って道内各地を周り、8月22日の国体開会式に臨んだあと空路帰京するという破格の長期行程であった。
 そのお召し船に「洞爺丸」が選ばれた。「洞爺丸」はお召し船としての整備を受け、気象観測用の計器類や航行用計器類が改めて検定を受け、万一の故障がないように機関やボイラー、操舵機や係留装置類などが徹底的に整備、点検された。船体も美しく磨かれ、ペンキも塗り直されて、就航から7年が過ぎようとしていた「洞爺丸」は、新造船のように美しく整備された。
 8月7日、海峡は平穏・薄曇りで絶好の航海日和であった。「洞爺丸」のメインマストに菊花章の天皇旗がひるがえり、天皇・皇后両陛下を乗せて鏡のように穏やかな海峡を渡った。函館山に差し掛かると百隻のイカツケ漁船が「洞爺丸」を出迎え、装飾船が「洞爺丸」に随行した。18時30分、「洞爺丸」が定刻に桟橋に着岸すると、港内の停泊船が一斉に安着を祝う汽笛を鳴らし、天皇・皇后両陛下の到着を出迎えた。
 「洞爺丸」が一番輝いていた航海であった。誰が翌月にこの「洞爺丸」に起こる悲劇を想像しただろうか?

 ここで洞爺丸型客載車両渡船の詳細を紹介しよう。
 外見は白と黒に塗り分けられ、遊歩甲板下にきれいに並んだ角窓が印象的である。船体の中央部に斜め後方に倒した太い煙突が4本そびえ、船尾は切り立った崖のような形状である。大きさは3800トンクラス、現在の中型のフェリーより少し大きめといったサイズか。全長118.70メートル、全幅15.85メートル。
 機関は蒸気タービン機関2機で合計出力は5300〜6000馬力、ボイラー6缶で蒸気を発生させた。この船から発電機は交流となり、すべての電機部品は高圧の交流電化となった。それまでは低圧の直流を使用しており、海水による絶縁老化により勝手に作動するなどのトラブルが絶えなかったので交流電化は待望されていたのだ。大出力モーターが必要となるため、当時の技術では交流化は困難とされていた揚錨機(ウインドラス…錨を上げ下げする装置)も交流化に成功。さらに一般電化製品の使用も可能になり、乗客サービス用に映写機の設置が可能となった。ただ、交流電化により万が一の際にバッテリーは使用できないので、端艇甲板に非常用ディーゼル発電機を装備した。
 船内は5層に分けられていて、最上層から順に端艇甲板、上部遊歩甲板、下部遊歩甲板、車両甲板、第二甲板と名付けられていた。端艇甲板は建物でいえば屋上にあたり、煙突4本と救命艇がずらりと並び、最前部に上級船員室と無線室があった。その上級船員室の真上が船橋で、緩やかなカーブを描くような形状であった。
 上部遊歩甲板は一等・二等客室である。中央の煙突部分を中心に前が一等区画、後が二等区画である。最前部に一等特別室が2室あり、その後に一等区分室が並んでいた。その後が一等出入り口広間で、天井はエッチングガラスにより自然光が取り入れられるようになっており、それに電灯照明が見事な照明効果を醸し出す贅沢な空間にソファが並ぶロビーとなっていた。続いて一等・二等客用食堂、ガラス張りの仕切と縞模様の壁紙に囲まれた当時としては先進的なデザインの食堂であったが、営業開始は食糧事情が好転した1950年(昭和25年)であった。その後に一等・二等案内所を挟んで二等寝台船室で、鉄道の二等寝台(のちのA寝台)に準じた寝台が並んでいた。そして二等入口広間、二等手洗い・洗面所を挟んで設置されていた二等雑居室は畳敷きの和室であった。それらを囲うように外には舷側通路が回廊のように続いていた。
 下部遊歩甲板から下は三等区画である。下部遊歩甲板は車両甲板の車両限界を取り囲むように設備されていた。太めの回廊に三等客用の食堂と194名分の三等椅子席が用意されていた。三等椅子席は洞爺丸型で初めて採用されたもので、2メートルくらいのベンチのような椅子が何列も並んでいた。下部遊歩甲板には大きな角窓が並び、三等客も津軽海峡の景色を楽しむことができた。
 次は車両甲板、入口は1線で入ってすぐにY字分岐器で2線にとなってワム型18両が積載可能であった。この数は青函連絡船の車両渡船で一番少ない航送車両数である。この甲板には客室区画はない。
 車両甲板の下、喫水線の少し下に第二甲板があった。中央に燃料の石炭庫があり、その前後に畳敷きの三等雑居室があった。三等雑居室はパイプや通風口がむき出しになっており、広々としていたが殺風景であった。車両甲板下の喫水線付近に客室が設けられたのは、戦後は洞爺丸型のみでこれが最後となる。さらに下の船底には、機関とボイラーが設置されていた。
 洞爺丸型は速力17ノットで青函間を4時間半で結んだ。
 同時に建造された北見丸型車両渡船も、性能はほぼ同等であった。

 9月18日、グアム島西方の海上に熱帯低気圧が発生した。熱帯低気圧は徐々に発達し、発生から3日目の21日に台風5415号「マリー」と命名された。台風は発達しながら沖縄近海を通過し、25日には鹿児島県に上陸した。さらに北西に進んで大分から広島を通って、米子付近から日本海に抜けると予報された。

 余談であるが、台風の名前の付け方について触れておこう。
 5415号とは1954年15個目の台風という意味を示す。「マリー(Marie)」は米軍がつけた台風の名前で、米軍極東気象観測班が台風に女性名をつけており名前はアルファベット順につけられる。その年に発生した台風に対しAから順に名付けるのではなく、年に関係なく通しでカウントされて84個の名前を順番に使用していた。この台風のときはMの順番にまわっており、「マリー」と名付けられたわけである。前者の4桁による台風番号の付け方は現在でも続いており、通常の気象予報では下2桁だけで呼称している。

 青函連絡船各船もこの台風の情報を収集していた。だが、台風は北上するほど勢力が弱まり、新潟付近から東北地方を横断して太平洋に抜けるのが通例である。
 台風は反時計回りの渦を巻いている。台風が北へ動くと台風の渦と進行速度の相乗効果により、台風の目の東南側で風浪が激しくなる。逆に台風の目の西側は渦と進行方向が相殺されて、風浪が比較的弱まる。台風が太平洋に抜ければ、津軽海峡は台風の目の西側になって大きな被害を出ることは考えられなくなる。稀に日本海を北上する台風もあったが、津軽海峡付近に到達する頃には前線の影響を受けにくくなって速度が上がり、さらに海水温が下がるために台風そのものも勢力を弱まってしまう。そのために津軽海峡では、台風による大きな被害を受けた経験は皆無であった。
 しかし、「マリー」は今までの台風と少し違っていた。まずは異常な速度である。時速約100キロの猛スピードで九州・中国地方を横断して、速度との相乗効果で台風の東側にあたる四国地方で被害を出した。これは台風としては異常な部類に入る。26日午前9時、台風は米子の沖合の日本海に達しそのスピードを維持したまま北西に進むと予報された。21時の到達予報圏として、米子沖から岩手県宮古市東の海上と、北海道稚内市東方海上とを結ぶ三角形が描かれ、17時頃には三陸地方から寿都の範囲内に到達すると予報された。その予報圏の中心に津軽海峡がある…青函連絡船各船はこの予報に緊張し、気象情報に耳をそばだてた。

 9月26日、いつも通りの朝が津軽海峡に訪れていた。雨は降っていたものの台風はまだはるか南、広島のあたりにあり、まだ気を引く存在ではなかった。なおこの日、「第七青函丸」は函館ドックで、「摩周丸」は神奈川県の浦賀船渠でそれぞれ工事をしており、定期便としての運用されていなかった。
 6時30分に3便として「洞爺丸」が青森を出港し、8時15分に「羊蹄丸」が函館を出港していた。
 「洞爺丸」には前日の25日午後からB組110名の乗組員が乗り組んだ。ただ、船長はB組船長(専属船長)ではなく予備船長であった。予備船長とは各船の2人の船長が揃って休日になった場合に乗り組む船長である。いろいろなくせの違う船に乗るために熟練の船長が予備船長として待機することになっており、この船長は無事故を誇るベテランの船長であった…どんな名船長でも起こしていたほんの些細な事故もない船長だったと言い伝えられている。
 船員達も普段のB組とは違う内容だった。スポーツの秋である、船員たちの行事として船員対抗の野球大会が計画されていた。この野球大会は船ごとにチームが組まれ、26日の日曜日に洞爺丸チーム対羊蹄丸チームの試合が予定されていた。B組からこの野球大会に選手として参加する船員が、A組と同一役職の船員と交代して、普段と違う船員編成になっていた。

 「洞爺丸」は無線を通じて台風の情報を集めていた。台風の速度は異常に速いため、この日の夕方には津軽海峡を襲うはずである。「洞爺丸」だけでなくこの日運用されている全部の船がそうであった。連絡船は鉄道との連絡という使命からギリギリまで運航を続け、嵐が去ったらすぐに運航を再開しなければならない。そのタイミングを見計らうために、台風や大型低気圧の接近には気象情報は欠かせないものであった。
 台風は正午には佐渡島(新潟県)の西の沖合100キロまで進んだと発表された。暴風圏の半径は約300キロ…台風からはるか離れた東京でも暴風となり、当時の観測史上二番目の記録となった強風が吹き荒れた。
 気象台は、台風はなおも速度を落とさずに北海道から東北南部へ向かうと予想した。この時点での予報でも台風の進路予報圏は津軽海峡を中心に描かれていたが、気象台は東北地方を横断して太平洋へと抜ける予報を捨てていなかった。予報通り太平洋へ抜ければ、台風最接近時に東〜北東〜北西と向きを変えながら風が吹き、台風の進行方向と相殺されて幾分風が弱まって吹くことになる。
 最悪の事態は台風が海峡の西を通ることである。この場合、台風最接近直後に危険域に入り「吹き返し」と呼ばれる猛烈な風が南西〜西〜北西へと向きを変えながら吹くことになる。その風は台風の進行との相乗効果でとてつもない突風になることが多いが、日本海側の方が海水温などの関係で台風が弱まることが多いのも事実であった。
 そして青函航路にとって重要な事柄だが、当時の気象観測体制は現在とは格段に違い、日本海には海上の定点観測点がひとつもなかった。よって予報外れが多く、青函航路の船長たちは発表された気圧配置から自分で天候を予測する術を身につけていた。だがこの台風の今後の動きを正しく予測できた者は、気象台関係者にも国鉄連絡船関係者にも誰ひとりとしていなかった。

 「洞爺丸」と「羊蹄丸」の後を追うように、両港から何隻かの貨物便が出港していた。「洞爺丸」が函館岸壁に着岸する直前の11時、青森から進駐軍専用1201便「石狩丸」が、函館から62便「渡島丸」が出港した。これと前後して海峡は時化模様になり、突如として東から20メートルを超える強風が吹き出したのだ。付近に強い低気圧が現れたときに起きる現象であるが、この時点では台風はまだはるか彼方で新潟沖にも達していない。全く予想外の時化であった。
 「渡島丸」はこの時化に難儀することになる、動揺は20度を超えて大波にたたき上げられた。
「風速東25メートル、波8、うねり6、動揺22度、進路南東で本船難航中」
 「渡島丸」船長の肉声による無線電話が青函連絡船全船に流れ、「難航中」という内容に他船は緊張する。船乗りにとって時化で難儀するのは通常の範囲であるため「難航中」というのはとてもじゃないが航行できない状況にあることをいい、端的にいえばこの無線電話は僚船に欠航を勧めるものであった。
 この頃「渡島丸」の後続便となる連絡船も続々と出港しており、12時30分に貨物便として「第六青函丸」が、13時20分に進駐軍専用便「第十一青函丸」が出港していた。「第六青函丸」は函館湾を出たあたり、「第十一青函丸」は函館山に差し掛かったところで「渡島丸」からの通報を耳にして運航中止を決断、函館に引き返すことになった。双方とも戦時標準船で、時化の中の航行に不安を感じたのだ。
 一方、下り便は「石狩丸」の後に31便「日高丸」(青森11時20分出港)が続いており、「石狩丸」の前には10時青森出港の5便「大雪丸」があった。こちらはどの船も函館への強行を決意し、そのまま時化の海峡へ突っ込んだ。東風の場合は航路が東よりの上り便より、西に大きく偏った下り便の方が影響が少ないためである。「渡島丸」は難儀していたが、下りの3船はすこし揺られたものの大したことなく海峡を乗り切った。これに青森14時20分出港の53便「十勝丸」が続く。

 11時に函館に3便として着岸した「洞爺丸」は、4便として14時40分に出港というダイヤであった。14時までに「渡島丸」以降の上り便はすべて欠航が決まっていたが、「洞爺丸」は定時出港の予定を変えていなかった。理由は戦時標準船より性能がよいことと、台風の津軽海峡接近時刻は17時頃と予測されており「定時出港」なら「洞爺丸」の性能があれば台風接近までに陸奥湾に逃げ込めるという判断である。
 14時8分、函館駅ホームに4便への接続列車である札幌からの急行「まりも」が入線し、道内各地から本州を目指す人々が「洞爺丸」に乗り込む。その中に国鉄北海道総局支配人と、札幌・旭川・釧路・青函の各鉄道管理局長という国鉄重役陣がいた。彼らは札幌での会議の後、東京の国鉄本社で開催される管理局長会議に出席する道中であった。このうち青函局長だけは所用により翌日の便を利用するため別行動し、他の管理局長は「洞爺丸」一等特別室に落ち着いた。
 「洞爺丸」の船長が4便出港のため船橋に立ったのは定時出港10分前、各部の船員たちも出港の準備に走り回っている。しかし「洞爺丸」の行く手を、海峡の時化のために函館山沖まで行って帰ってきた「第十一青函丸」が塞いでいた。乗っている進駐軍関係の乗客を「洞爺丸」に移乗させることが決まっていて、「第十一青函丸」着岸まで「洞爺丸」は動けないこととなった。船長は台風の接近のことを考えると、出港を1分でも遅らせたくなかったが、「第十一青函丸」着岸は4便定時出港時刻を過ぎた14時48分となった。だが乗客の移乗があるためすぐには出られない、船長の心に焦りが生じていただろう。
 乗客の移乗が終わったのは15時、タラップも外されて出港準備はすべて整った。だが桟橋から出港可能を示すブザーが鳴らない、船長の焦りがピークに達したとき桟橋助役が船橋に現れた。「どうしたんだ?」と船長が厳しい口調で聞くと「進駐軍用の荷物車と寝台車を積み込んでいる」とのことで、荷物車は既に可動橋に差し掛かっていた。
「この急いでいるときに荷物車はともかく、寝台車の積み込みはできない。船尾の二等航海士に寝台車積み込みはしないと伝えてくれ」
 船長は大声で言ったという。桟橋助役も渋々引き揚げ、桟橋職員に「寝台車積み込み中止」を伝えた。ちょうど荷物車を積み終えた機関車を切り離したところだったので、難なく作業中止となった。
 「洞爺丸」の係留索が外される作業が始まり、出港の汽笛も鳴り、船首を牽引する補助汽船の準備もできた。しかし、今度は荷物車を積み込んだばかりの可動橋が上がらない。たまりかねて船尾で指揮を取っていた二等航海士が怒鳴ると、「停電で可動橋が動かない」と桟橋職員から返ってくる。
 時計を見ると15時10分、4便定刻を30分過ぎていた。その間に台風は50キロも海峡に接近し、「洞爺丸」が陸奥湾に逃げ込めるかどうか微妙な時刻になっている。「停電が長引くならここで台風をやり過ごした方が良い」と船長は判断したのだろう。
「出港準備解除、本船はテケミする。」
 船長が静かに言った。テケミとは「天候警戒運航見合わせ」の頭文字を取ったものである。
 テケミの指示が船内から桟橋へと広がった頃、可動橋は音をたてて上がった。この日、函館市内は断続的な停電に見舞われ、この停電もそのひとつで僅か2分で復旧したのだ。結果論になるが、この2分が「洞爺丸」の運命を決めた。この時刻に陸奥湾を函館へ向け航行していた「十勝丸」が時化の海峡を乗り切って函館湾に到着していることを考えれば、この時に「洞爺丸」が再度出港を決意すれば無事に青森港に到着した可能性は高い。
 可動橋が上がっても、テケミの指示は取り消されることがなかった。そして函館港は昼だというのに薄暗くなり、強い雨を伴った東からの強風が吹き荒れた。

 15時現在の台風の観測結果が発表された。青森県の西方沖100キロの海上にあり、中心示度は968ミリバールで依然として北東へ時速100キロで進行中。17時頃に北海道南部に上陸して深夜までに北海道を横断するという予報であった。
 予報が海峡から少し西にずれた。予報圏の東端を通っても函館直撃で、海峡の東へ抜ける見込みはなくなった。

 函館港内は複雑な状況になった。まもなく5便「大雪丸」が函館港内に到着する予定である。函館駅の岸壁はふたつ、第一岸壁に「洞爺丸」、第二岸壁に「第十一青函丸」が着岸のままテケミとなっている。本来なら「洞爺丸」が4便として出港すると、入れ替わり第一岸壁に「大雪丸」が着岸して夕方に6便として折り返しの予定であった。さらに第二岸壁は「第十一青函丸」がいなければそのまま「石狩丸」が着岸の予定である。ところが両岸壁がテケミ船で埋まったため、「大雪丸」「石狩丸」ともに着岸すべき岸壁がなくて沖で錨を降ろして停泊するしかなかった。「大雪丸」には一般旅客が、「石狩丸」には進駐軍旅客がいるため、いつまでも沖でテケミさせる訳にはいかない。本来なら「洞爺丸」の乗客を降ろして沖に出すべきだが、「洞爺丸」は天候回復後すぐに出港の予定でいる上千人近い旅客が乗ったままで出港を待っているので、混乱を避けるためにも岸壁から動かせない状況だった。
 そこで第二岸壁の「第十一青函丸」を沖に出し、入れ替わりに5便「大雪丸」を着岸させて旅客と貨車を降ろす。続いて「大雪丸」を沖に出して「石狩丸」を第二岸壁につけて旅客と貨車を降ろしたら、そのまま着岸テケミとすることとした。貨物便で客がおらず、函館(貨物専用の有川桟橋)へ向かっている貨物便の「日高丸」「十勝丸」は沖でテケミとすることになる。
 15時17分、94便「北見丸」が函館(有川桟橋)を出港、港外に出たところでそのまま錨を入れてテケミとなった。前後して5便「大雪丸」が函館港外に到着、続いて「石狩丸」が港外に到着した。その数十分後には「日高丸」も函館港外に到着、「日高丸」は港外で岸壁が空くのを待っている「石狩丸」を追い抜いて、16時半に港内の安全な場所に錨を入れて停泊した。
 ますます風は強くなり、港内は避難船や停泊船で混乱が始まっていた。約8000トンの死船となった貨物船「アーネスト」が、停泊のためブイに固定していた係留索が強風で切れて漂流し始めたのだ。この船はイタリア船籍で、メキシコから石炭を積んで室蘭へ向かう途中に室蘭港外で座礁事故を起こし修理のために函館に来ていた。船主は廃船を決めて鉄屑としての買い主を捜すため、函館港内のブイに繋いで停泊させていた。船員は8人のみで、機関に火を入れることすらできなかったてんこの自分の意志では動けない大船が風で勝手に動き出したのである。停泊船は機関を暖めてはいたが、避難船がひしめくなか動くことができない。タグボートの出動を依頼する無線が飛び交った。その中で第二岸壁では、「第十一青函丸」と「大雪丸」の入れ替えが行われていた。
 「洞爺丸」の船内には千人近い乗客がそのまま残っていた。港外からのうねりがとどくたびに「洞爺丸」は大きく揺れて岸壁に船体を擦った。船酔いする客も出て下船を主張する客もいたが、給士(ボーイ)は乗客が降りることを認めなかった。それでも業を煮やした乗客の何人かが、桟橋職員用のタラップや船尾の可動橋から勝手に下船していった。乗船名簿に名前を残しながら下船した乗客は60人にも及んだ。この後の地獄から逃れた幸運な人たちである。

 その頃、青森港では16時20分に「渡島丸」が到着、そのまま着岸テケミとなった。隣の桟橋では「羊蹄丸」が9便として定時の16時半に出港するかどうかで悩んでいた。青森では風はそれ程でもなく、雨も降っていなかった。風は出港時刻が近付くに連れて弱まる一方で、16時すぎには殆ど吹いてなかった。だが気圧が下がり続けて981ミリバールを示し、台風の接近を示している。この状況に「羊蹄丸」船長が首を傾げていると、突然外が明るくなった。外を見ると青空が広がって風が止まっている…誰もが「台風の眼」だと直感した。ただそれまでの台風情報に比べると気圧が高い、それは他の台風と同様で津軽海峡に達するまでに衰弱したと「羊蹄丸」船長は判断した。今出れば台風を追いかけることになるから、船長は台風通過後の吹き返しを見極めるまではテケミと決意した。300キロの暴風圏を持つ台風が時速100キロで動いているという情報から、暴風圏が去るまでの3時間だけ海峡の様子を見極めてから出港することにしたのだ。

 函館港でも「洞爺丸」の船長が気圧計と睨めっこをしていた。台風がいつ、何処を通過するのか、それを見極めようとしていた。雨はますます強くなり、バケツをひっくり返したような勢いである。
 17時13分、旭川から急行「あかしや」が大雨をついて到着。本来は後続の6便の接続列車であるが、席に余裕がある限り急ぎの旅客を4便に乗せることになった。桟橋では「あかしや」から降りてきた客に等級ごとの番号札が配られ、下船者などがあったため空席数を調べ直した上で先着順に「洞爺丸」に新たな客を乗せた。こうして「洞爺丸」の船内はほぼ満席となった。
 その頃、船長はある変化に気づく、気圧が982.8ミリバールで底を打って上がり始めたのだ。船長は信じがたいものを見た気持ちに襲われただろう。だが17時に函館付近通過という予報を思い出して、台風の中心が最接近したと判断した。予想より気圧が高いのだから、かなり離れた処を台風が通過したと最初は判断しただろう。観測結果から推測すると台風は海峡の西にあり、これから南から西へ向きを変えながら吹き返しがあるはずだ。しかし、船は台風の進行方向と逆に向かうのだから、後は吹き返しの風向きと様子を判断すればすぐ出港できる。そう考えたはずだ。
 急に外が明るくなって、船長は驚いて外を見た…雨が止んで青空が広がっていたのだ。雲は茜色に染まり、綺麗な夕焼けを彩った。東の空には虹が出ていたのではないかと考えられる。
 台風の眼だ…函館で台風を追っていた者は誰もがそう思ったし、船長もその判断に自信があった。ただ気圧が思ったより高いのが気になったが、船長は他の台風と同様、北上するに連れて衰弱したと考えた…「どうってことのない低気圧に台風が変わってしまった」そう思ったに違いない。足の速さは衰弱しても変わっていないようだから、吹き返しを見定めるのに1時間、あとは出ても台風の進行方向と逆へ向かうのだから、風浪はすぐ弱まるはずである。船長は一等航海士を船長室に呼びだし、静かに告げた。
「遅れ4便として18時半に出港する。18時スタンバイ。」
「遅れ4便として18時スタンバイ、了解しました。」
 一等航海士が復唱し、「洞爺丸」の18時半出港は決定した。

2 台風との闘い

 17時25分、第二岸壁の「大雪丸」が乗客の下船と貨車の積み卸し作業を終えて離岸した。入れ替わりに「石狩丸」が第二岸壁に入ることになる。17時45分、「石狩丸」は錨を上げて第二岸壁へ向かい、「着岸見込み18時25分」を無線で伝えてきた。ほぼ同時に函館の空は再び不気味な真っ黒な雲に覆われ、強い南の風が吹き始めた。やがて風は南南西に変わり、平均風速は20メートル、突風が30メートルという強風になった。台風を追っていた誰もが「吹き返しがきた」と感じた…風は今がピークでじきに西に向きを変え、台風が遠ざかるとともに少しずつ弱まって行くだろうと。しかし、今までの咳やくしゃみをするような風ではなく、深く深呼吸をするような、重く不気味な風だったと言われている。
 港内には様々な避難船の他、航路を示すブイが沢山浮いている。それをよけるために船は速度を落とすのだが、速度が落ちると舵の効きが悪くなるので風に流されはじめた。「石狩丸」はそんな苦労しながらなんとか岸壁に接近し、船と岸壁が平行になったところで一度錨を入れた(この時の「石狩丸」船長は、第四章で紹介した「石狩丸」難航事件の際の船長である)。風は南南西、ちょうど岸壁の方向から吹いている。着岸するためにはこの30メートルにも及ぶ強風に向かって真横に動かなければならない。横に動くということは進行方向に対する表面積が大きくなり、風の影響をまともに受けるのだ。「石狩丸」の船長は無線で桟橋に補助汽船(タグボート)の増援を頼んだ。通常は2隻で横へ押して着岸させるのだが、3隻、4隻と補助汽船を増やし、5隻でやっと風の力に勝って「石狩丸」はゆっくりと横へ動いた。
 「洞爺丸」ではその間も出港の準備が続けられていた。「第十一青函丸」から下ろした進駐軍用寝台車も積み込んで、荷物車や寝台車4両と8両の貨車で車両甲板もいっぱいになった。「洞爺丸」の船長が出港のため船橋に立つと、目の前で「石狩丸」があまりの強風のため着岸に苦労しているところであった。あまりの強風で補助汽船を増やしても岸壁に近づけない「石狩丸」の様子を見て、二等航海士は不安を感じて港口に近い有川桟橋に電話で気象状況を問い合わせた。南南西から32メートルの突風が吹いているという返事を船長に伝えた。
 船長は自ら問い合わせた青森桟橋の気象状況を聞いて、「行ける」と確信していた。青森では986ミリバールまで気圧が持ち直し、風も南南西10メートル…天候は回復しているように見えていた。
 しかし、船長の目に信じられないものが飛び込んだ…気圧計だ、再び気圧が下がり始めているのである。台風の眼を自ら観測し、台風の中心が過ぎ去ったことをこの眼で確認している。風は一時期強くなってもすぐ西に変わって弱まるはずで、気圧も上がり始めるはずである。その上、二等航海士の報告によると函館港外は30メートル以上の風が吹いていることになる。
 何かがおかしい…船長は思ったはずだ。この現象はなんなのか、船長の気象知識からは判断できなかった。この船長は「天気図」の渾名を持ち、青函連絡船船長の中でも名物といわれるほど気象についての知識が豊富で、連絡船の船乗りの中で気象の知識については彼の右に出る者はなかった。その船長を戸惑わせる現象が目の前で起こっているのである。
 台風の通過をこの眼で確認し、その台風は猛スピードで遠ざかっている…今が台風の中心で気圧はこれから上がるに違いなく、強風は大気が不安定だから吹いている可能性もある。取りあえず出港しよう、港の外に出てみてあまりにも激しかったら港外で錨を入れて待てばいい。大型の台風といっても足が速いのだからそう長く待たされることはないだろう、その時間なら港外で耐えられる自信がある…船長はそう判断したに違いない。

 出港5分前、銅鑼の音が聞こえた
 相変わらず「洞爺丸」の前では「石狩丸」が難儀している。相当ひどいと船長は思った。予定時刻の18時半を回ったが、「石狩丸」はまだ迫り来る強風と戦っている。5隻に増やされた補助汽船が全力で「石狩丸」を岸壁に押しつけると、係留索がなんとかかかり「石狩丸」はやっと陸に固定され始めた。
「レッコーショアライン(係留索を外せ)」
 船長が三等航海士に命じた。三等航海士が復唱の後、船首と船尾にこの命令を伝えると「洞爺丸」と陸を繋いでいた係留索が外された。
「ワンロングブロウ(長声1発鳴らせ)」
 出港の汽笛が鳴った瞬間の18時39分、「洞爺丸」は遅れ4便として函館港を出港した。左舷機関を微速で回す指示を出すと船体が僅かに右を向く、船長が補助汽船に牽引を命ずると船首からロープで繋がれた補助汽船が「洞爺丸」を牽引して船首を沖の方へ回転させ、合わせて船長の指示により操舵手が舵を右へいっぱいに回して「洞爺丸」は強い風に押されるように函館岸壁を離岸した。乗客1167人、乗組員と公務職員147名の合わせて1314名が乗っていた。

 対岸の青森では「羊蹄丸」の船長が「洞爺丸」の出港を聞いた。青森桟橋では風は10メートル前後と比較的弱く、気圧も上がってはいたが981ミリバールが986ミリバールである。船長は「気圧が思ったより上がらない」と感じ、「台風の中心は過ぎたが、それほど遠くへは行っていない」と慎重な判断をした。風が弱いとはいえ、気になるのはその風向が南南西であることた。17時に台風が北海道に上陸して、時速100キロで遠ざかっているなら青森では風向きはもう西に変わっていなければならない。それが南南西の風と言うことは、台風はまだ渡島半島のあたりにいるのではないかと感じた。船長は低気圧が渡島半島の西を通るときの怖さを知っていた。どんな速度の速い低気圧でも北海道の東海上に到達すると大陸の高気圧に行く道を塞がれて速度が落ち、その間に他の低気圧や前線の刺激されて発達することが多いことを、知識でなく経験で知っていた。
 いずれにしろ、風向きの変化と気圧の上昇をきちんと見極めるまでは船を出すべきではない…そう判断した。
 「洞爺丸」の船長と比べて気象知識が少ないことが彼を慎重にさせたと考えられる。彼は乗客が給士を通じて苦情を言っているのも耳にしていたし、声高に「船長は臆病で意気地無し」と非難しているのも知っていた…ここは耐えなければならない。本当の海峡模様を見極めなければならない、「洞爺丸」の航海が順調に行くのを確認してからでも遅くないだろう。それまでは臆病で意気地無しになろうと、そう決めた。

 「洞爺丸」が函館を離岸した10分後、青森から下り最後の運航船になった53便「十勝丸」が函館港外に到着。港内は避難船でひしめいているため、函館山の沖に錨を入れてそこで風が止むのを待つことに決めた。無線で「石狩丸」が着岸に相当の苦労をしたのを、知っていたのだろう。これをもって「洞爺丸」以外の全連絡船がテケミ、函館港内外で、函館・青森の両岸壁で運行再開の時を待つことになった。

 「洞爺丸」は岸壁に船尾を向け、港外へ向かう航路に乗った。補助汽船が切り離され、両舷機関半速で港口を目指していた。港口が近付くと機関を全速にして巡航速度へと速力を上げ始めるが、防波堤が近付いてくると「洞爺丸」の船体は異常な揺れを感じ始めた…信じられないような大波浪が「洞爺丸」を襲いはじめたのである。波飛沫の固まりが船橋の窓に当たり、窓ガラスは壊れそうな音を上げた。波頭が風で飛んできて船橋などの船首部に当たり、船首の甲板員はびしょ濡れになった。防波堤を交わすと、ひときわ大きな波と猛烈な風が「洞爺丸」に襲いかかった。瞬間風速は40メートルを超えた。
 不意に汽笛が鳴る、誰も汽笛を鳴らす操作をしていないのに勝手に汽笛が鳴ったのである。二等機関士が船橋に飛び込んで「なぜ汽笛を鳴らしているのか」と聞いてきた。あまりの強風に煙突付近にある汽笛操作用のワイヤロープが引っぱられ、別の部品に引っかかって汽笛が鳴っていることが分かった。二等機関士が吹きさらしの端艇甲板に出て、汽笛の中間弁を閉じて汽笛が鳴らないようにした。汽笛が勝手に鳴り出すような強風は航海士や機関士はもちろんのこと、船長にも全く経験のない出来事であった。
「これはひどい、アンカーを入れる」
船長は言った。この状況で海峡へ出て行くのはどう見ても無謀である。船首の一等航海士と甲板員達に投錨の指示が伝えられたが、誰にも聞こえない。その間に機関は微速に落とされ、舵を左に回して船首を風上に向けた。横波を食らわないよう、波が来る方向に船首を向ける必要があったのだ。船長は船橋の窓を開けて、笛で投錨の指示を出したがこれも聞こえない。最後は手振りで投錨を指示して、やっと船首の船員達に「投錨」の命令が伝わった。「洞爺丸」の錨が荒れる海の底へ落ちていった。
「投錨時刻、19時01分。」
 三等航海士が時計を見て船長に報告した。出港から僅か22分、防波堤から1300メートルの場所であった。

 「洞爺丸」の船客には航海を中止し、風が止むまで港外で停泊して待つことは知らされなかったようである。多くの船客が船は青森へ向け航行しているものと信じていた。ただ、あまりの波浪に相当難儀していることは予想できたが…船について知識がある者、連絡船によく乗る者は錨を降ろす音で停泊したと気づいたようである。船内は変わった様子はなく、売店や食堂も通常通り営業され、乗客は普段と変わらない様子であった。遊歩甲板では多くの乗客が、港内の避難船が海面を照らすサーチライトの光とめったに体験できることのない大波を眺めてはしゃいでいた。誰も4時間後の地獄を想像すらしていない。
 「洞爺丸」から函館市街の夜景も見えていた…と思うと街中に青白いスパークが走り、船の灯りを残して街は暗黒になった。あまりの強風で電線が各所で切れ、ショートして全市停電となった。
 暗黒の海で、台風から避難する船達と台風との闘いが始まろうとしていた。

 風は弱まるどころか、南西に向きを変えてさらに強くなった。函館港の最大の弱点である南西の風が40メートル以上の強さで吹いてきたのだ。波は巨大なうねりとなって函館湾、そして函館港内にも押し寄せていた。
 その強風で函館港内は大混乱となる、前述の死船「アーネスト」が再び風で流されはじめたのである。港内は港口と様々な岸壁を結ぶ航路を残して避難船でびっしり埋まっていた。その中で8000トンの大型貨物船が、機関始動できないまま南風にのって北へと流されたのである。風下の船に混乱が生じ、様々な船がタグボートや連絡船の補助汽船の出動を要請した。殆どの船が錨を落としているため、これを巻き上げるのに時間がかかる。なんとか錨を巻き上げても船の機関は巨大で、きちんと暖気をとらないと機関に負担が生じて故障の原因となる。この強風下での機関故障は生命とりになる。また機関を始動しても船は原理上加速するのに時間がかかる上低速では舵が利かず、何処へどう進むか予想できない。むやみやたらに機関を全速へ持って行くと、舵が利かないままあらぬ方向に進んで他の船と衝突する危険がある。小型で力のあるタグボートの力が絶大なのだが、この風ではタグボートは出港できない。
 連絡船も「アーネスト」と衝突する危機に陥った…「アーネスト」の風下に「大雪丸」「日高丸」「第六青函丸」「第八青函丸」「第十二青函丸」がいた。いつでも逃げられるようサーチライトで「アーネスト」の姿を追い、錨を巻き上げて機関はいつでも始動できるように用意した。

 「北見丸」と「第十一青函丸」は港内は逃げ場が少なく、何かあったら危険と判断して最初から港外に逃げていた。それを知った「大雪丸」と「日高丸」の両船長は「ここも既に安全な場所ではない」と判断し、港外への避難を考えていた。「アーネスト」だけではない、「アーネスト」から逃げる国鉄外の船が風に流されて突っ込んでくる可能性も高い。
 まず「大雪丸」が決断した。補助汽船も出られず、この強風下流されるだけの大型貨物船を交わしきる自信がないために港外への避難を決意したのである。19時16分、錨を上げて機関を動かしたが、あまりの強風に船は思うように動かず、後方に投錨仮泊していた「日高丸」に接近しすぎて衝突しそうになった。ギリギリのところでやっと前進が利いたが、今度は舵が利かず前方の「第六青函丸」に吸い込まれるように近付いた。「第六青函丸」は汽笛を連呼して「大雪丸」に危険を知らせたがどうすることも出来ず、「第六青函丸」の側面に「大雪丸」の錨が接触し火花を散らした…しかし幸運にも他に接触箇所はなく、「大雪丸」は「第六青函丸」の甲板にいる船員の顔がはっきり見える距離で交わした。さらに偶然にも船首が港口を向いていたので「大雪丸」は全速で直進し、荒れ狂う函館湾に出た。
 続いて港外へ出たのは「日高丸」である。「大雪丸」と「第六青函丸」の接触を目の当たりにしたのを受けて自船の位置を確認すると、陸まで200メートルしかない事に気づいた。さらに錨が利かずに錨を引きずって流される「走錨」という現象が発生し、陸岸が刻一刻と迫ってきた。船長は港外避難を決意して総員配置を命令した…「日高丸」では手の空いている船員はなるべく休息をとるように船長が命じていたのであった。錨を巻き上げて、風と波に右へ左と揺られながら「日高丸」は「大雪丸」の後を追うように港外へ出ていった。
 「アーネスト」はさらに流され続け、風下の「第十二青函丸」に接近した。「第十二青函丸」も走錨が起きて自由が利かず、ついに「アーネスト」の巨大な船体が「第十二青函丸」船首に覆い被さり船員に緊張が走る。船首スレスレのところを左舷から右舷へと「アーネスト」は流れていった。「アーネスト」が「第十二青函丸」の前を通過すると、船長ははすかさず全速前進を命じて「アーネスト」の風上へ出た。今度は防波堤との衝突が予想され船長は港外避難を決意、錨を引きずったまま「第十二青函丸」も港外へと出ていった。

 その頃、函館駅第二岸壁に停泊中の「石狩丸」にも異変が起きていた。船員は見張りの甲板員とボイラー焚き当番の火手以外は、配置を解かれて夜食を取っていた。20時少し前、見張り当番の甲板員が食堂へ駆け込んできた。
「船長、大変です。ホーサー(係留索)が切れます!」
 甲板員は緊張した顔で怒鳴った。夜食をそのままに船員達が甲板へ上がると、船を陸に固定している鋼鉄製のワイヤーが、火花を散らしながら切れようとしていた。すかさず総員配置となった。機関室では急速暖気の手配が取られる、機関長は不測の事態に備えて機関をいつでも使えるように準備させていたのだ。船長は錨の巻き上げを命じ、桟橋には補助汽船の出動を頼んだ。着岸時と同じように5隻の補助汽船が出動し「石狩丸」を陸に向けて押し始めるが、今度は風の力の方が上であった。係留索は全て切断され「石狩丸」は風下に押し流されると同時に、船長は機関部に全速前進の指示を出した。機関長は海軍時代に過酷な機関使用の経験があり、無理を承知でいきなり機関を全速にした。「石狩丸」のスクリューがすごい勢いで周り、鋭い加速力を持って「石狩丸」は前進を始めた。岸壁に「石狩丸」押しつけていた補助汽船は、「石狩丸」の出足の鋭さに船首を引っぱられ、横転するのではと思うほど大きく揺れた。
 「石狩丸」はそのまま全速前進し、空いている錨地を見つけてそこに錨を降ろした。

 19時53分、国鉄海岸局が全連絡船に無線電報を送った。連絡船の現況を全船に知らせるためのもので、「十勝丸」「洞爺丸」の2隻が港外でテケミしていることを知らせる内容であった。これを受け取った連絡船はすぐに自船の状況を返信しなければならない。航路近辺にある12隻中11隻の連絡船がこれに応じたが、この電報に応じなかった「第十一青函丸」は19時57分に
「停電につき、あとで電報を受ける」
とだけ返答した。船内が何らかの理由で停電し、電報を送れない状況に陥って船内で応急修理しているのだろう。この連絡は非常用電源によると思われた。

 20時の少し前から、函館湾には巨大なうねりが押し寄せるようになった。南西の風に吹かれて波が巻き上げられ、うねりになる。しかも函館湾の場合、南西方向からのうねりは風の吹走距離が長く、非常に巨大なものに成長する。さらにうねりとうねりが重なりあって、巨大な三角波になる。
 港外に出た船は強風に加えて、この巨大なうねりとも戦わなければならなくなった。船はうねりに船首を没し、波が直接船橋を叩く。大音響に続いてうねりに乗り上げ船は上昇し、うねりが去るにつれて奈落の底へ落ちて行くのである。ジェットコースターに乗せられているような縦揺れに、横揺れが加わってどの船もまさに木の葉の如く揺れていた。棚に収納しているものはすべて落下し、引き出しはそのまま抜けて出てきた。「洞爺丸」の船室では乗客が右へ左へ前へ後へと転がり、他の船でも船橋や機関室の船員がすっ飛ばされたり転倒したりしていた。床においてある椅子や机は滑りだして、無線室で無線通信をしている通信士達はあまりの揺れに椅子を部屋の隅にロープで縛り付けて固定し、無線機器の前の地べたにあぐらをかいて通信業務に専念することになる。

 港外でテケミしていた「十勝丸」でも状況は同じだった。総員配置であったが火手の見習いだった一人の若い船員は、釜焚きがうまくできなかったためにこの状況下では使い物にならず、波浪で棚から落ちた物や抜け出した引き出しを片付け、整理整頓していた。うねりがひどく不安になって外を見ると並んで停泊している船があるのに彼は気付いた。
 その船の電灯が突然消えた。「あれっ」と思うまもなくその船は船首を空高く上げて棒立ちになり、船尾から順にねじられるようにゆっくり沈んでいった。沈むときの波のすごさは例えようがなかったという。

 同じ頃、港外に出た各船に今まで青函連絡船が経験したことのない異常が起きていた。
 車両甲板に海水が浸入してきたのである。過去に一度だけ経験があったが、その時は車両甲板の入り口付近に出たり入ったりというのが主であった。でも今度のは違う、船尾から大量の水が一度に入ると船首が下がったときに車両甲板の最前部まで水が入り、船首が上がってもそれが全部出ていかずに次の水が入って来るという有様だった。こうして次第に水が増えて、ある深さを持って「滞留」し始めたのだ。この「滞留」という経験は青函航路に車両渡船が就航してから初めての出来事で、それによって何が起こるのか誰にも想像できなかった。

 台風は18時には積丹半島の寿都付近に到達したと気象台は発表した。だが気圧はさらに下がって函館付近では980ミリバール近くまで下がり、「石狩丸」では50メートルまで読める風速計の針が振りきっていた。「洞爺丸」の船長はこの気象状況に納得が行かなかったようだ。

 この頃、北海道は後志、倶知安の北にある港町の岩内町で小さな火災が発生した。ところがこの火災は風に煽られて風下の民家にあっと言う間に燃え広がり、海岸に達したところで漁船の燃料を入れたドラム缶に引火、爆発して吹き飛び火の粉は街中に降り注いだ。その火の粉が瞬くうちに次の火災をあちこちで引き起こし、岩内町の4500戸の住宅のうち3300戸が焼失、死者・行方不明者63人を出すまでにそれほど時間はかからなかった。

 20時03分、台風のため函館港外に避難していた進駐軍のLST(米軍上陸作戦用舟艇)がSOSを発した。このLSTには米兵191人が乗っている。SOSを傍受した近くの船は助けに行く義務があるが、どの船も自分の身を守るのに精一杯でそれどころでなかった。海上保安部が付近船舶に問い合わせをしたが、「洞爺丸」と「十勝丸」が自船も難航中で救助どころでないと返答しただけであとは無言であった。「洞爺丸」のすぐ近くに海上保安庁の巡視艇「りしり」が停泊していたが、これも台風から自分の身を守るのに精一杯で他船の救助どころでなかった。
 LSTはやむなく、近くの陸岸に強制的に座礁することを試みた。これに成功して20時30分、SOSを解除した。
 さらに大阪の商船会社が保有し、名古屋から室蘭へ雑貨を運ぶ途中に函館港外に台風避難をしていた貨物船「第六真成丸」(2209トン)が「洞爺丸」の近くに投錨仮泊していたのだが、錨が利かずに巨大なうねりに流されて風下である北へ北へと流されていた。20時26分に函館湾の北に広がる七重浜海岸に座礁、船体はしっかりと砂浜に食い込み、10度ばかり傾きつつも危険はなく乗組員も無事であった。座礁を知られるSOSを打電しようとしたが、あまりの波浪で海水を頭から被ったため無線アンテナが使い物にならずSOSは発射することができなくなっていた。

 このように、既に函館港内外の海はひとつ間違えると大きな事故が起きる地獄の海になっていた。
 連絡船各船は、後部開口から入ってきた海水が車両甲板を浸し、車両甲板と機関室やボイラー室、石炭庫を繋ぐ換気口や出入り口から水が漏れていた。これがさらなる事故を生むことになる。しかし、まだこの時は青函連絡船が事故を起こして沈むなどとは、誰も思っていなかった。

3 北見丸

 前述してきたように、「洞爺丸」「大雪丸」「北見丸」「日高丸」「十勝丸」「第十一青函丸」「第十二青函丸」は港外へ出て台風と戦っていた。港外に出た船には台風をやり過ごすための作戦として、ふたつの選択肢があった。
 ひとつは「洞爺丸」のように船首を風や波の方向へ向け、錨を降ろしてその場で動かずに耐えること。もう一つは船首を風や波の方向に向け、錨は降ろさずに機関を動かして波間に船を進ませる方法である。前者の方法は「洞爺丸」の他、「日高丸」「十勝丸」が取ることになる。後者の方法を選んだのが、「大雪丸」「北見丸」「第十二青函丸」である。この後者の方法を踟厨という。

 「大雪丸」は港外へ出て、最初は投錨してやり過ごすつもりでいたが、すぐに走錨を起こして防波堤にぶつかりそうになったため錨を上げて航行を続けることにした。錨を上げて前進を始めると後部開口部から海水が浸入し機関室へ流れて発電機がショート、主機への潤滑油ポンプが停止して機関が停止してしまった。船長は「いかなる手段を使ってでも機関を全速で動かさないと沈没する」と機関部員に迫り、全速前進を命令。機関部の必死の努力ですぐに機関は直り、「大雪丸」は前進を再開した。今度は「洞爺丸」と衝突しそうになるが、巨大な風浪で自由が利かない状況下なんとか「洞爺丸」を交わす。さらに前進するとそこに「北見丸」がいたのでこれを避けようとするが、あまりの強風で操船が思うようにできず回避に40分もの時間を要した。「北見丸」を交わした「大雪丸」はさらに前進し、台風による巨大なうねりがいくつも続き不気味な海鳴りがする暗黒の津軽海峡へ乗り出して行った。船長は関門航路から、一等航海士は他社船から、それぞれ乗り込んだばかりだったので、行く先については二等航海士が指揮を執っていた。

 「北見丸」は94便として貨車を積み込んで函館を出港し、港外に出たところでそのままテケミとなった。恐らく天候が回復すればそのまま青森を目指すつもりでいたのだろう、港外で投錨して仮泊していた。
 20時頃から猛烈な風とうねりによって走錨が始まった。船長はすぐに踟厨航法を取ることを決めて錨の巻き上げを命じたが、波が揚錨機がある船首を洗っていたために作業は困難となって錨は引きずったままにすることにした。後部の開口部から海水が浸入して機関室とボイラー室に海水が浸入、焚火が困難になっていたが航行の自由はある程度あったのではないかと考えられる。
 21時頃「北見丸」は葛登支沖まで来た。南西側に陸地が張り出す最初の地点で、風もうねりもここなら若干少なくなる。「北見丸」は当面の危機を脱し、余裕が出てきた。船員達は「この調子なら本船は大丈夫だ、頑張ろう」と励まし合った。
 船体は左舷へ10度傾いたままだった。船長はこの傾きが気になったのであろうか、ヒーリング装置を使用してこの傾きを取ろうと考えた。10度の傾きを気にするほど余裕が生じていたのではないかと考えられる。ヒーリング装置とは貨車積み込み時に船の傾斜を補正する装置で、詳しくは第三章を参照されたい。
 まず後部船橋に行って遠隔操作でヒーリング装置を操作したが、どういう訳かうまく作動しなかった。そのために機関室にあるポンプを直接操作してみることになった。二等航海士と操舵手が機関室へ行き、ヒーリング装置のポンプを直接操作した。
 ところが、傾斜は直ろうとしない。タンク内を水が動いているのは間違いないが、船の傾きはそのままであった。15分ほど過ぎると船は少しずつ傾きを取り戻しはじめたが、今度は水平を越えても止まらず反対の右舷への傾きを急速に増した。傾斜の増し方が急で、船員達は慌てて周囲のものに掴まった。
 やがて25度で傾きは止まった。しかし、大した量でなかった船底の汚水が、急激にその量を増して一気に右舷側に流れてきた。機関長が「左舷に傾きを変えろ」と怒鳴る。
 操舵手は何処かに穴が空いてそこから海水が流れてきたと考えたが、他の船員は操舵手がヒーリング操作を誤ったと考えた。しかし、ヒーリング装置は水平の少し手前で止めるという手順通りに動かされていた。言い合っても仕方がなく、船員達は総出で排水に力を尽くした。それでも右舷への傾斜は少しずつ増えいった。船底に溜まった汚水は見た目には大した量でなかったが、見えない部分に大量に潜んでいたと考えられる。それが船体が水平近くになった瞬間に右舷へ流れ出し、右舷へ流れた汚水のために重心が狂って右に傾き、続いて左舷に残っていた汚水が一気に右舷へ流れてバランスを崩したと考えられる。
 22時20分、「北見丸」は右舷への傾斜に耐えられず、葛登支岬の東方3キロの地点で右舷に横転、沈没してしまった。SOSも遭難を知らせる無線も発することができなかった。夜が明けるまで誰も「北見丸」の沈没を知らなかった。
 乗組員達は暗黒の海に投げ出された。近くに陸地の影が見えるが、南西からの風とうねりがそれとは逆方向へ船員達を流した。船員達はこれから数時間に渡って、暗く冷たく荒れ狂う海と戦わなければならなかった。

4 洞爺丸

 「洞爺丸」の船橋では操舵手が船が通常航行しているときと同じように舵輪を握り、コンパスを見ながら船首方向を大声で報告していた。船橋は一番高いところにあるから一番揺れが激しく、何かに掴まってないと立っていられなかった。船長と一等航海士は窓枠をつかみ、二等航海士はレーダーに、三等航海士はテレグラフに抱きついていた。操舵手は舵輪の前の台の上にのって舵輪を操作していたが、その台があまりの揺れで操舵手を乗せたまま動き出した。操舵手が舵輪に抱きつくと、台は船橋の隅まで飛ばされた。
 「洞爺丸」は船首が風に立たず右へ左へと振られ、レーダーは「洞爺丸」が錨を支点に振り子のように右へ左へと振られているのを表示していた。右へ振られたときは右から波浪を受けて、左に振られれば左から波浪を受け、次から次へと押し寄せる巨大なうねりに弄ばれていた。
「少しひけてます」
レーダーを覗いていた二等航海士が叫ぶ、振り子のように振り回される「洞爺丸」の後の海岸線が徐々に近付いて来たのだ。錨が利かず、錨を引きずって波浪によって流される走錨が「洞爺丸」にも起きていた。
「スローアヘッド、ツーエンジン(両舷機関、微速前進)。」
船長が叫んだ。叫ばないと猛烈な風の音と船橋に波がぶち当たる音のため、命令が他の船員に聞こえないのだ。三等航海士が機関室に機関運転命令を知らせるテレグラフ(テレグラフの詳細は次章で説明)を操作するが、まだ「洞爺丸」は波に押されて少しずつ後ずさりしていた。
「ハーフアヘッド、ツーエンジン(両舷機関、半速前進)。」
船長が怒鳴って、機関の出力が上げられた。船は錨を支点に振り子のように振られている、そのため波が来る方向に合わせて右から波を受けるように左舷機関のみ全速にするなど、操船方法が複雑になってきた。

 「洞爺丸」の機関室ではかつて経験したことのない事が起きていた。
 前述の通り、車両甲板に海水が溜まり様々な点検口から水が機関室とボイラー室に流れてきていた。最初の漏水は左舷発電機上の脱出口からで、大粒の雨のようにざあっと降っては止まり、またざあっと降って来るという繰り返しで、左舷発電機は水を被って周辺は湯気で真っ白となった。続いて左舷天窓から海水が流れ落ち、天井の電球が音をたてて割れたと思うと見る間に左舷側のあらゆる場所から海水が落ちてきて左舷側にいた二等機関士以下全員がずぶ濡れになった。
「発電機と配電盤にカンバス(覆い)をかけろ」
機関長が怒鳴った。船橋から機関の命令を伝えるテレグラフが、「右舷全速前進」を命令してきた。蒸気弁を開いて右舷機関の回転数を上げなければならないが、カンバスをかける作業に手を取られ人出が足りない。じきに右舷からも水が流れ落ちてくるはずで、その予防策も必要だ。
「総員配置につけ」
機関長が怒鳴ると、非番の機関部の船員たちが船員室から機関室にゾロゾロと降りてきた。船底の機関室も船橋と同様、戦場の様相を見せはじめた。
 ボイラー室も浸水が始まっていた。右舷と左舷に3つずつボイラーがあり、うち右舷のもの全部と左舷の2つの合わせて5つのボイラーが使用されていた。やはり左舷から水が漏れていた。
 ボイラーに石炭をくべる「釜焚き」をしている火手は、立っているのがやっとの揺れの中で懸命に釜焚き作業を繰り返していた。一人が釜口を操作するハンドルにつかまり、一人が石炭を掬って船が揺れて水平になった瞬間に口を開いて5〜6杯のの石炭をささっと投げ込む。船が大きく揺れた瞬間、スコップを持ったまま飛ばされた火手がいた。
 車両甲板では救命胴衣をつけた甲板員が排水溝の手入れや、機関室やボイラー室を結ぶ扉を固定する金具の増し締めに懸命になっていた。甲板員達にとってこの車両甲板に水が溜まるという状況は初めてであったのはもちろん、先輩から聞いたこともないことであった。車両甲板には後部開口から波が打ち上げ、先端部まで海水が往復していた。大きな波が来ると甲板員達は貨車の上に逃げたり、エビのような姿勢で車両緊締具にしがみついたりして凌いだ。次第に車両甲板に滞留する水の量が増え、水が移動する勢いも激しくなると甲板員の作業は危険となった。
 左に傾斜していた船体が、右からの大波を食らって傾斜を右に変えた。この時、船体は激しい胴震いをたてて激しく揺れた。車両甲板の水が左舷側から右舷側へと一気に流れ、作業していた甲板員達は足下を掬われそうになって危険と判断して車両甲板から逃げた。同じ揺れの衝撃で機関室では機関長が左舷から右舷へと跳ね飛ばされ転倒、その上に水が流れてきた。同時にもう海の一部となってしまった車両甲板の下は右からも左からも浸水が始まり、それを止めることは誰にもできなくなった。

 船室にも混乱が生じていた。この日はかなり荒れて揺れるであろう事を予想し、船にある金だらいを全ての船室に配置した…船客が船酔いして嘔吐する際に使うものであるが、これが船のあまりの揺れで船室内を前後左右に走り回ってとても使える状況でなかった。さらに船客用の茶碗がしまってあるロッカーの引き出しが抜け落ちてやかんが吹き飛び、給士がそれをひとまとめに紐で縛った。
 三等船室では、大きな揺れが来ると老人や子供が船室の畳の上を端から端へと転がっていき、通路に落ちてあちこちで子供の泣き声が聞こえた。腹這いになって大きな揺れに耐える船客や、船室にロープを張り巡らせて大きな揺れに耐える「かつぎ屋」たちの姿もあった。
 二等船室では、入口広間に整然と並べられていたソファは動き回ってバラバラになってしまって、寝台船室では寝台から客から転がって落ちていた。だがそんな二等船室の一角で外国人客の一人が手品ショーで場を落ち着けて、そこだけ恐怖を忘れて笑い声が響いていた。

 ボイラー室では「洞爺丸」の運命を決定付ける悲劇が発生した。「洞爺丸」は車両甲板とボイラー室の間に燃料の石炭を貯蔵する石炭庫があり、ここに粉状にした石炭を保管していた。その粉状の石炭が海水と混じり、泥になって石炭庫からボイラー室に一気に流れ出したのだ。火手たちは慌てて石炭庫の扉を閉めようとしたが、泥状になった石炭を噛んで扉を閉めることができない。ボイラーの前は泥の海が広がった。
「出てきたやつを焚くんだ!」
火手長が怒鳴った。
 泥になった石炭は水を吸ってしまったため、罐にくべるとたちまち火種を消してしまう。
「蒸気を落とすな、水もなにもかも焚いちまうんだ!」
 ボイラーの火を落として蒸気圧を下げることは、機関を止めてしまい船を操船不能に陥れることになる…この嵐の中で機関が止まって操船不能となれば、漂流や沈没などの大きな事故を避けることは出来なくなる。様子を見に来た機関長が火手の一人を船橋へ状況報告に走らせた、船橋への連絡電話があったが海水が船底に溜まった影響で感電して受話器を掴むことはできなかったのだ。
「ボイラー室浸水甚だし。このような状況が続けば焚火不能となる恐れあるが、現在は部員の努力により焚火可能なり。」
ボイラー室では、火手達が真っ黒になって焚火作業を続けていた。しかし罐口から蒸気が上がり、火種は少しずつ消えていった。

 車両甲板は海水にどっぷり浸かってしまい、機関室では天井全体から雨のように海水が降り続いて、床に溜まった海水は膝のあたりまで量を増していた。排水ポンプを出力全開で回していたがそれでも間に合わず、床に溜まった水量が増えてゆく。
 唐突に発電機から凄まじいスパークが発生し、同時にベルの音が聞こえた…このベルは発電機から発生した電気が接地短絡すると鳴るようになっている警報である。ついに左舷発電機が水に浸かってショートしてしまい、同時に左舷発電機は停止して動かなくなった。さらに左舷機関が大きな振動をたてて、アキラかな異常回転をはじめた。
「左舷エンジンを止めろ!」
機関長は怒鳴る、機関を停止すると振動は止まった。機関を全開で動かし続けたから無理がたたったのだろうか。三等機関士が船橋へ走り「左舷機関故障」を伝えた。
「だめだ、ぶっこわれてもいいから、機関を全開で回すんだ。」
一等航海士が怒鳴り返した。片方の機関が止まったら船を風にたてることができなくなってしまう、この迫り来る大波を真横から食らったら瞬間で横転する危険もある。
「よし、左舷機関回せ!」
機関長は決断した。回し続ければ本当に壊れるに違いない、でも回さねば船そのものが危ないから回すしか手はなかった。全員が見守る中で再び左舷機関が回ったが、機関全体が振動し回転は正常でなく誰もが長くは持たないと予感した。

 21時25分、「洞爺丸」は函館桟橋に次のように打電した。
「エンジン、ダイナモ(発電機)止まりつつあり。突風55メートル。」
「洞爺丸」の悲痛な叫びであったが、陸側ではどうにもできず、
「こちらも非常配置でワッチ(監視)中、貴船も頑張れ。」
と応えるしかなかった。5分後、改めて「洞爺丸」に問いただす。
「発電機、エンジン模様知らせ。」
「左舷発電機故障、左舷機関不良、ビルジ引き(排水)困難」
「かろうじて船位を保ちつつあり。詳細あと。」
陸上に「洞爺丸」の悲鳴は伝わっていた。

 この頃、客室への漏水も始まった。まず車両甲板の下にある前部三等雑居室の右舷側の天井から、水が滝のように流れた。この水は数秒で止まったものの、畳2〜3枚を濡らした。甲板員が急を聞いて飛んできたが、大したことはないとすぐ引き揚げた程度であった。乗客達も特に慌てる様子はなく、何人かは畳に水が溜まった場所へ走り、落ちてきた冷たい海水で手拭いを冷やした。船酔いしている仲間や家族の額に乗せるためである。
 続いての漏水は車両甲板のすぐ上、下部遊歩甲板の三等椅子席であった。下部遊歩甲板に大きな角窓が整然と並んでいるのが「洞爺丸」の外観上の特徴である。この角窓のひとつが巨大な波浪に破壊され、ガラスが破れて船内に轟音と共に風が吹き込み、波が飛び込んできた…三等椅子席の乗客は騒然となった。
 この時、椅子席にいた女性客に割れた窓ガラスが当たった。女性はパニックに陥り、狂ったように泣きながら椅子から落ちて床を転げた。額から流れた血を見てそれまで押さえられていた恐怖感が一気に噴出したに違いない…その恐怖は三等椅子席の客に広がって行く。船内放送で乗客に医者はいないかと尋ねた、乗船名簿によると「洞爺丸」には医師と看護婦が一人ずつ乗っていたが、名乗り出はなかった。船酔いで自分の身体を管理するのが精一杯なのだろう。
 この状況でも、殆どの乗客も船員も連絡船が沈むなどとは考えていなかった。

 「洞爺丸」は片方の機関の出力が落ちて次第に波と風に押し流されるようになっていた。青函連絡船は34度の動揺に耐えられるように設計されていたが、大きな波が来て大きく揺れた瞬間に傾斜計の針はその34度を超えていた。
 機関室では機関長が祈るような気持ちで左舷機関の回転計を見つめていた。何がなんでも機関を回さねば船が危ない、船を守るためにも機関には持ちこたえてもらわねばならない。機関室は天井全体から雨のように海水が降り注ぎ機関などの高温部に当たって水蒸気になって立ち上っていたため、室内は風呂場のように真っ白で機関部員達は頭から濡れながら必死に動揺に耐えていた。床に溜まった海水は増える一方で、船が揺れたときに機関を水没させるのは時間の問題であった。
 再び左舷機関が更に激しい振動をたてた…と思うと煙がぽっと吹き出し、それきり回転しなくなった。ついに左舷機関は故障して停止してしまったのだ。「洞爺丸」のふたつの心臓のひとつが止まってしまったのだ。
「左舷エンジン、停止しました。」
操機手が船橋に走り込んで、震える声で報告した。
「左舷エンジンは本当に駄目なのか?」
船長は聞き返したがどうにもならない。この嵐の中での機関停止は、間違いなく大事故となる。
「右舷エンジンはどうだ?」
「ビルジ(汚水)排出困難で、時間の問題と思います。」
操機手はそう答えるしかできなかった。彼が報告を終えて船橋をあとにして揺れる船内を機関室へ戻ると、今度は右舷機関が同じように煙を噴いて止まってしまったという。操機手は再び船橋にそれを報告するため、船橋へ走った。
 機関長はボイラー室へ行った。ボイラー室では泥状になって噴出した石炭がボイラーの火を落としてしまい、5缶のうち3缶は既に火が落ちたのと海水に浸かってしまったために使用不能になっていた。火手たちはそれでも必死に「洞爺丸」の火を消さぬよう、残りの2缶に石炭を全力で放り込んでいた。
「エンジンが止まってしまった。もう焚かなくていいよ。」
必死に釜焚きをしていた火手たちに、機関長は言った。
「焚けと言われたって、焚ける状況じゃありませんよ。」
火手長は情けなさそうに答えた。
「しかし、右舷発電機は生きている。それを回すために蒸気がいる。」
「残った缶ふたつでちょうどいいところでしょう。だがそんなに長く持ちませんよ。」
 機関長はボイラー室を出て機関室に戻り、そこにいた部下達に次なる命令を下しした。
「電気係は端艇デッキへ上がり非常用電源を用意しろ、救命胴衣を忘れるな。あとは部屋に戻って貴重品を整理しろ、救命胴衣をつけてからやるんだ。」
 この命令は端的に言えば「船から逃れる準備をせよ」ということで、この嵐の中での機関停止は船の死を意味しているからだ。機関が完全に停止し発電機もいつ止まるか分からない状況となり、非常用に積んでいたディーゼル発電機の運転を命じたことなど、青函連絡船の機関長にはこれまで一度もなかった。
 火手長も残った2缶の火手以外に同じ命令を出していた、船底の機関室から機関部員達がゾロゾロと上がってきた。二等機関士以下一部の船員は波で洗われている端艇甲板に上がって非常用発電機の運転に取りかかったが、まさかこの発電機を使用するとは誰も考えていなかったせいで手入れもしていなかったため、うまく始動することはできなかった。
 機関長は船橋に上がり、自ら船長に両舷機関停止を報告した。悔しそうな声で涙混じりの報告だったといわれている。

 「洞爺丸」は両舷機関が止まったため波と風に対する抵抗力を完全に失って、巨大な波に翻弄されながら錨を引きずって流されるだけになってしまった。機関が止まって舵も利かないため船首を風にたてることはできなくなり、船は風浪に対して横向きになって左舷側のみから巨大な波を受けることになった。今までの両舷に揺られる大きな揺れは止まり、右舷にだけ一方的に傾くようになった。
「海岸までどのくらいだ?」
「1200メートルです。」
 船長の怒鳴るような質問に、レーダーを睨んだままの二等航海士が答えた。船の外は巨大な波と飛沫しか見えず、レーダーだけが頼りだった。
「よし、このまま七重浜に座礁する。」
船長は決断した…というより「洞爺丸」に残された唯一の手段はそれだけであった。七重浜海岸は函館の港外に続くなだらかな砂浜で、岩礁のない遠浅の海岸である。夏は海水浴場として賑わう函館市民の憩いの場で、現在のJR江差線にもその駅名がある。このまま南からの風と波に流されれば、「洞爺丸」は間違いなくそこに座礁するはずだ。そして砂浜に船底を食い込ませれば、船は停止して船が傾きも止まるはずである。
 22時12分、「洞爺丸」が函館桟橋に打電。
「両舷機関不良のため漂流中」

「海岸まで1000メートル。」
 レーダーを睨んでいた二等航海士が怒鳴った。船橋の船員達は全員、船底にずしんと来る座礁の瞬間を待っている。船員は極限の緊張状態となり、不気味な沈黙が船橋を支配した。
「風が落ちています。突風28メートル。」
操舵手が怒鳴った。波とうねりは極限まで大きくなっていたが風は着実に落ちているのが分かり、天候回復の最初の兆しが見えたことに船員達は安堵した。
「やまは越えた、あと少しの辛抱だ。」
船長の声が明るく聞こえた。
「防波堤灯台より267度(真方位)8ケーブル(約1300メートル)地点。風速18メートル、突風28メートル。波8」
 「洞爺丸」が無線で桟橋へ現在位置と気象情報を報告した。

「海岸まで800メートル。」
二等航海士が叫んだと思うと、船底から「ドン」という音が2回聞こえた。
「揚がったな」
「揚がっている」
船長と一等航海士が言う、第二、第三の衝撃が来た。三等航海士が時計を見て叫んだ。
「22時23分座礁。」
続けて、レーダーを睨む二等航海士が船位を報告した。
「防波堤灯台から267度、8ケーブル。」
「関係箇所に電報を打て、救助手配を依頼せよ。事務長、本船は七重浜に座礁した。これ以上は動揺もないと思われるから、救助船が来るまで心配しないで待つよう、旅客に伝えるように。それから念のため、救命胴衣を着用させるように。」
船長は矢継ぎ早に指示を出した。
 二等航海士も三等航海士も、座礁したと知って「大変な事故を起こしてしまった」と思うと同時に「これと一安心」と思った。船が海底に乗り上げて自力で動けなくなっては、航海士も出る幕はない。
 ところが、座礁したというのに「洞爺丸」はまだ風下へ流されていた。座礁したら止まると思っていた船体が、座礁しても海底を滑って漂流しているのである。そして右への傾きは止まらず、どんどん傾きを増している。このまま海底を滑り続けたらどうなるか…船長は嫌な予感がしたのだろう。
「全員、救命胴衣を着用せよ。500キロサイクルでSOS(緊急信号)を打て。」
 船長は叫んだ。500キロサイクルは国際法で定められた緊急信号の周波数で、船舶や陸上無線局には聴取義務がある。さらに一時間に二度、他の電波の発信を止めてSOSの発射がないかも確認しなければならない。その緊急信号の発射を命じたのである。
 操舵手が船橋の船員分の救命胴衣を持ってきた。船員達はそれを着用したが、船長と一等航海士はそれを受け取っただけで着用しようとしなかった。

 客室では乗客達は揺れに耐えながらも、比較的落ち着いていた。機関停止後は揺れも少なくなって船客達にも余裕が出ていたという。そこへ給士が来たと思うと、船内放送が流れた。
「救命胴衣をつけてください」
この瞬間、乗客達は初めて自分たちが生と死の狭間に立たされていることを知った。救命胴衣が格納されているロッカーが開かれると我先にと飛びつき、ロッカーに人々が殺到した。一部のロッカーは開かず、何処で見つけたのか斧を持った乗客がロッカーをぶち壊して救命胴衣を取り出した。
 二等船室では、手品ショーをしていた外国人客が他の船客達に救命胴衣を着用させていた。二等広間では何処から入ってきているのか、波が床を洗っていたという。
 三等船室では、人々が救命胴衣を奪い合い、転んだ人々を踏みつけて逃げ場を探し回っていた。転んで起きあがれなくなった老人は念仏を唱え、まるでその風景は地獄のようだったという。
「おじちゃん、怖いよ、助けて。」
ある給士にこの光景を見た少女が泣きついた。頭をなでながら
「大丈夫、心配しないでね。」
となだめたが、
「怖い、怖い…」
給士の耳に、ついに大粒の涙を流して泣き始めた少女の声がまとわりついた。
「船を出しておいて、今頃救命胴衣をつけろとは何事だ。どけ、そこを通せ、俺達を溺れされる気か?」
船室入口の階段で旅客を止めるかたちで立っていたその給士に、胸ぐらを掴んで男性客が殴りかかった。この頃、三等船室にはどこからともなく多くの水が流れ込んできていたのだ。
「やめろ、船に乗ったらボーイさんの言うことを聞くんだ。」
落ち着き払った別の客の声で、その男は大人しくなった。その客は迫ってきた水の傍で落ち着き払った態度をしており、その声に説得力があったのだ。
 しかし、この出来事がこの給士に痛いほどの責任感を感じさせた。三等客にとって船の代表者は船長でも事務長でもなく、接客用の白い服を着て客室で旅客に対応している自分なのだ。ここにいる旅客はこの自分を船の代表者として生命を預けられるかどうか見極めようとしている。今まで「大丈夫です」とだけ繰り返したが、もういい加減な言葉ではこの人たちを納得させられない、真剣勝負をしなければここのお客に殴られても仕方がない。
「上の者に聞いてきます。」
事務長に船がどうなっているのか、いつ避難指示があるのか、聞くために走り出した。
 下部遊歩甲板に上がると、彼は信じられない光景を見た。下部遊歩甲板には多くの水が流れ込んできていて、傾いている右舷側では胸元まで水が来ていた。この水が船底に近い三等雑居室に流れたら…乗客は先を争って狭い階段に殺到し、間違いなくパニックになる。乗客が少しでも冷静なうちに下部遊歩甲板に誘導しよう、彼は決断して三等雑居室に戻った。満員の旅客が一斉に彼を見た、「自分たちはどうすれば助かるのだ?」と全ての目が訴えていた。
「上に上がって下さい、私に続いて…」
言いかけたところで旅客が階段に殺到した。押し合い、前の人を引き倒し、転んだ人を踏みつけて、人々は狭い階段を上った。
 給士が船室を見た。ほぼ全員が船室から脱出しているのを見届けて、上へ上がった。さらに船体は右舷への傾きを強めた。

「SOS、洞爺丸。函館防波堤灯台267度8ケーブル地点に座礁せり。」
「本船は500キロサイクルでSOSを打ったからよろしく。」
 「洞爺丸」が22時39分から41分にかけて陸上に向けて打電した。国鉄の海岸局も函館の海上保安部も震撼した、青函連絡船のSOSが初めて入電したのである。だが船は座礁したのであって、その後沈没するなどと考えた者はいなかった。船は海岸から離れた岩礁に乗り上げたのではない、七重浜のような砂浜に座礁すれば船体は砂に食い込んで安定するはずである。陸上にいる誰もが「洞爺丸」に何が起きているか正確に把握することはできず、「遠浅の砂浜に座礁」したことで安全が確保されたと考えた。
 国鉄の対応は補助汽船を現場に急行させることであった。しかし、あまりの大波浪に港外にも出ることができずに引き返すことになる。風が若干弱まったとは言え波とうねりはこの頃がピークで、この状況で小さな補助汽船を出したところで新たな遭難を増やすだけである。誰も陸上から七重浜海岸に救援隊を出そうとは考えていなかった…これは誰も沈没を予想していなかった証拠である。船はその場に安定して止まり、乗客も船の中で無事で、救助船が来るのを待っている。誰もがそう思ったからこその対応であった。

 天は「洞爺丸」を見放したのか、船内の電灯の光がすうっと暗くなった。一度明るくなったと思った瞬間、「洞爺丸」の電灯は消えて真っ暗になった。船内に乗客の悲鳴が響いた。
「今何度まで傾いている?」
電灯が消えて真っ暗になり。さらに傾きが大きくなった「洞爺丸」の船橋で一等航海士が聞いた。
「45度です。」
操舵手が滑り台のように床を滑って答えた。
「大丈夫だ、船は起きあがる。」
船橋のガラス窓が割れて鋭い風が飛び込んで船員たちの帽子が飛び、波が船橋を洗った。船体の傾きは止まることなく増えていくと、車両甲板から金属の塊がぶつかり合う鋭い音が響いた…車両甲板の車両たちが一気に横転したのである。「洞爺丸」はさらに傾きを増して一気に90度近くまで傾き、船橋では右舷側から水が噴き出した。一等航海士は水に吹き上げられて望遠鏡に掴り、救命胴衣を着けていた二等航海士はレーダーから離れて水に浮き、三等航海士はテレグラフにまたがっていた…船長はそのまま水没したようだ。船員たちは今は上になった左舷の窓から脱出していった。既に左舷船腹は水平になり、マストも煙突も水中に没した。
 22時43分、「洞爺丸」はこうして七重浜沖600メートルの地点で横転、沈没した。船体は130度回転したところで煙突を海底に突き刺すような形で止まった。
 「洞爺丸」が横転した地点から、おびただしい数の人々が七重浜の海岸に向かって流されていた。人々は波に翻弄され、助かるかどうかも分からないまま波に弄ばれた。

5 日高丸

「アンカー、レッコ(錨を降ろせ)!」
 「日高丸」の船長の声が船橋に響くと船首甲板で甲板員が動き回り、錨が音をたてて海底を目指して落ちていった。前方に「十勝丸」の灯りを確認し、横っ腹から大波浪を食らう状況では「十勝丸」を交わしての航走は無理と判断して錨を降ろすことにしたのだ。
 「日高丸」は31便として「石狩丸」の後を追うように11時20分に青森港を出港、50分遅れの16時33分に函館港内に到着した。前述のように「アーネスト」が風で流され「大雪丸」と衝突しそうになるなど港内で危険な思いをして危険と判断、錨を上げて20時頃に港外へ出ていた。その行く手に「十勝丸」の姿を認めたのだ。

「どうして船は風に立たないんだ。」
船長は繰り返し呟いていた…どう操船しても「日高丸」は風に横っ腹を向け、側面から波を受けるばかりであった。当時の車両渡船でし車両甲板の側面上部に換気用の大きな窓が開いており、この側窓からも大量の水が車両甲板に流れ込むことになった。無論、車両甲板の後部開口部からも海水が流れ込んでいた。
 横っ腹から波浪をくらって右舷に一方的に傾き、このままでは瞬時に横転する危険もある。機関長と一等機関士が船橋にやって来た。
「機関室への浸水が甚だしい。」
船長は一等航海士に船内の浸水状況を確認するよう、命令した…と思うと。
「左舷に何かあるぞ!」
船長は突然大声で叫んだ。操舵手が探照灯(サーチライト)の電源を入れると、探照灯の光の輪が荒れ狂う海面を走る。そしてこの光の輪が物体の姿を捕らえた。
「左舷に沈没船、距離80メートル!」
三角錐の船首を上に向け、錨をぶら下げた沈没船が「日高丸」を目掛けて突進してきた。このままでは「日高丸」は沈没船と衝突してしまう、衝突すれば「日高丸」はただでは済まない。
「チェーン伸ばせ!」
船長は怒鳴った。チェーンを伸ばすとは錨と船を結ぶ鎖(チェーン)を全て伸ばして海中に落とすことで、錨を巻き上げるより時間がかからないので緊急を要するときに使われる手段である。この船長の叫びに船首の甲板員達が反応した。錨のチェーンを固定していたブレーキが放たれ、250メートルあるチェーンは火花を散らしながら全て海中に没した。これで船を固定するものはなくなった。
 しかし、沈没船は「日高丸」に吸い込まれるように迫ってきて、距離は60メートルを切った。探照灯の操作ハンドルにぶら下がった操舵手がたまりかねて叫んだ。
「船長、フルアスタン(全速後進)をお願いします。」
「なに!?フルアスタン?」
 船長に瞬間の悩みが生じた。沈没船は左舷前方からすぐにも衝突する勢いで迫っていて、避けるには後進するしかない。だが後進すれば車両甲板の開口部が大波浪に突っ込み、大量の水が車両甲板に流れ込むに違いない。それはただでさえ浸水して運転困難の機関を、さらに水に浸すことになるのだ。
 しかし後進しなければ、船そのものが危険だ。最悪の場合、瞬時に沈没である。
「フルアスタン、ツーエンジン(両舷機関全速後進)!」
船長は怒鳴った。三等航海士がテレグラフを操作して両舷機関全速後進を機関室に伝えると、「日高丸」は後ずさりを始めた。沈没船は衝突寸前まで迫り、操舵手は瞬間「もう駄目だ」と思わず足を上げた。手を伸ばせば届くところで沈没船を交わし、「日高丸」の後進につれて沈没船は遠ざかって探照灯の光の輪から外れて怒濤の海へ消えていった。だが
「浸水甚だしい」
と機関室から報告が来た。風は40〜45メートルで、依然止む気配は感じられない。「日高丸」はどうしても風に立たず横っ腹から波を受けるだけ、しかも沈没船を回避するための後進で機関室への浸水が余計にひどくなってしまった。
「浸水を止めなければエンジンは使用できなくなる。」
機関長が船長に迫った…船長はここで船をここに止めておくより、波間を走らせながら船を風に立てる踟厨に入るべきだと考えたのだろう。しかし、沈没船を避ける際に錨のチェーンは全て海中に落としてしまったので、巻き上げるのに時間がかかる。
「このままでき船が風に立たない、船を走らせる。アンカーを切れ!」
と船長の断が下った。アンカーを切るとは錨のチェーンを船から完全に切り離し、錨を海中に投棄することである。錨のチェーンは船首付近の船底にU字型の金具とピンによって固定されている。そのピンを外す作業が船首甲板の甲板員達に命令された。

 船首甲板の船底では、巨大なハンマーを持った甲板員達がチェーンを外す作業にかかった。錨が少しだけ巻き上げられると、チェーンを固定するピンに力が掛からないようになった。そして一人が巨大なハンマーを振るい、2人でその腰を支えながら動揺の合間を見計らって固定ピンをハンマーで叩いた。
 船橋ではあまりの揺れに、操舵手が船橋を端から端へと飛ばされていた。船橋からは近くにいた「十勝丸」の姿が見えた。「日高丸」と同じように横っ腹から波浪を受け、一方的に片舷に傾いているのが分かる。「十勝丸」の煙突の穴が見えるほど、向こうも大きく傾いていた。
「なに?チェーン切れた?」
船長が叫んだ。船首甲板の甲板員がチェーンを固定するブレーキを放つと、残り僅かのチェーンも火花を散らして海中に没した。「日高丸」はついに錨を失ってしまったのだ。
「フルアヘッド、ツーエンジン(両舷機関全速前進)!」
 船長ははずんで命令した。三等航海士がテレグラフを操作し、機関室に両舷機関全速前進を伝えられた。操舵手は舵輪を握り、船が何時動いてもよい体制が整った。船橋の船員全員の視線がスクリューの回転計に注がれる、機関室浸水で機関が故障しているが果たして船は動くのか…船が動けば何とかなると、皆が思っていた。船が異常に揺れる…既に錨を失った船の揺れはこの直後の悲劇を充分に予感させるもので、ドカンと大きな波に叩かれて右舷45度まで急激に傾いたのだ。だが、回転計は何十秒待っても動かなかった。
「もう駄目だ」
船長は力無く呟くと、「日高丸」最後の命令となる次の命令が出された。
「総員退船」
その名の通り、全員船から逃れよという命令である。船長により「日高丸」の命運が尽きたと判断されたのだ。

 二等航海士が復唱すると操舵手が総員退船を告げる汽笛のレバーを引いたが、汽笛は微かな空気音を上げただけで長年聞き慣れた「日高丸」の汽笛の音にはならなかった。二等航海士の傍にいた通信長が「SOSですね」と呟き、船橋から通信室へと帰っていった。操舵手は汽笛が鳴らないほど蒸気がないのでは舵輪を握っていても仕方がないと、舵輪の前から離れた。また大きな波が来た、船体は50度まで急激に傾いて船長と航海士が船橋の端まで飛ばされた。船は一定の速度をもって右への傾きを増し、同時に電灯が全て消えた。

 甲板では甲板員たちが救命用の角ブイを解放していた。角ブイが解放されると一人、また一人とそれに掴まり波に取れられて消えて行った。甲板で退船の指揮をしていた一等航海士が、救命胴衣を着用していなかった甲板員の一人に自分が着けていた救命胴衣を外して渡した。
「俺は船橋へ行く、最後まで頑張るんだぞ!」
救命胴衣を外して身軽になった一等航海士は、船橋へのタラップに掴まり手を上げて叫んだ。甲板員はためらいながらも救命胴衣を着用した。
 その頃、通信室では通信士たちが最後の仕事をしていた。SOSを打電していたのである。
「SOS 日高丸、防波堤灯台より西9ケーブル(約1500メートル)の位置にて、ソウ…(以下途絶)」
電文はそこまでだった。このSOSを打電している最中の23時40分、「日高丸」は右舷に横転して沈没した。

6 十勝丸

 最後に青森から函館港外に到着し、そのままテケミとなった「十勝丸」も台風との熾烈な戦いが続いていた。船底の機関室やボイラー室には大量の海水が流れ、機関の運転は困難を極めていた。「十勝丸」は港外に投錨仮泊する手段を取っていたが、走錨が起きて船がじりじりと流されてしまうため、機関をもって船位の保持に努めた。
 「日高丸」と同じように波は車両甲板の後部開口部と、側面の換気口から車両甲板に流れ込んでいた。車両甲板に溜まった水は、徐々に船底の機関室やボイラー室を浸していた。

「バンカーが流れた!」
ボイラー室で誰が悲痛に叫んだ。バンカーが流れるとは、粉状の石炭と海水が混じって泥になって石炭庫から流れ出すことである。火手たちの間では「バンカーが流れたら船は終わり」と言われている…石炭を流失したら焚くものがなくなってしまうし、さらに水を含んで泥になった石炭ではボイラーの火を落としてしまい、結果的に蒸気圧を落としてしまう。蒸気圧を落として機関の運転ができなくなったら、この大時化では船が危ない。その船の終わりを告げようとする事態がまさに目の前で起こったのだ。
「この傾斜を何とかしなければどうにもならない!」
「スコップを全部出せ!角俵の耐火粘土を積め!」
耐火粘土を積んで流失を少しでも防ごうと、火手たちが走り出した。ある者は耐火粘土を持って走り、ある者はスコップで泥水となった石炭を掬っていた。全員、頭から泥水をかぶって、目ばかりが白く光って誰が誰なのか分からない。よく見ると機関長が頭から泥で真っ黒になりながら、スコップで石炭を掬っていた。
 石炭庫からの泥水の噴出は何としても止まらず、泥水は膝のあたりまで上がってきた。懐中電灯で石炭庫の中を覗くと、ほとんど空になっていた。
 船がひときわ大きな波に叩かれた。壊れんばかりの胴震いと同時にたたき上げられ、奈落の底に落ちると今度は傾きが反対側に変わった。今まで一方に溜まっていたものが一気に反対側へ流れると、残りの無事だった石炭庫からも石炭が泥水になって流れ出した。ボイラー室の中は泥の海となり、深いところでは腰の辺りまで泥水が上がってきた。ボイラーの敷き板として使っていた厚さ3センチもの分厚い鉄の板が泥水に浮いて流れ出した。
 その悪条件の中で、投炭担当の火手は必死になって石炭をボイラーに投げ込んでいた。激しい揺れの合間を縫って泥水になった石炭をシャベルで掬い、身体を構えて扉が開いた瞬間に泥水を投げ込んだが、ボイラーの中から火に水をかけたときと同じ「ジュー」っという音が聞こえた。火が見えるようになってから次の石炭を入れたのだが、水を吸った石炭は火種を潰したためボイラーが発生する蒸気圧は少しずつ落ちていった。

 無線室では3人いる通信士のうち、2人が無線機に向かって地上や他船との連絡に当たっていた。通信長は機関運転が不安定になったことによる発電機の不良が原因で、レーダーの調子が悪くなったので船橋に行きっぱなしだった。LSTがSOSを発した頃、通信室の椅子に座って通信業務に専念していた次席通信士が大波で船が大きく揺れると同時に椅子ごと吹っ飛ばされた。一人で持てぬほどの頑丈な椅子が、人を乗せたまま飛ばされるなど初めての経験であった。2人の通信士は椅子をロープで固定し、無線機の前でレシーバーをかぶって床にあぐらをかいた。
「20時40分現在、葛登支灯台より62度、4.4カイリ(約8キロ)、南西の風30〜35メートル、突風40メートル、動揺右40度、左舷28度、本船半速前進中。」
地上からの問い合わせに答えたのだが動揺が激しすぎて電鍵を叩くことができず、電鍵を叩く次席通信士の腰を首席通信士が後から支えて2人がかりでやっとの思いで送信した。続いて気象台からの臨時海上予報警報を受信するのだが、あまりの波浪で船が大きく揺れているせいか、混信、雑音が多くて感度が悪くなっていた。アンテナが海水を被って絶縁性能が落ち送受信の感度が著しく低下、受け取った気象情報も脱字だらけであった。試験電波を発信してみると、送信出力が低下しているのが分かった。
 地上や他船からの無線通信で、どの船も台風と必死に戦っているのが手に取るように分かった。「石狩丸」の係留索が切られたこと、「第十二青函丸」が港外で巨浪に揉まれて難航していること、「大雪丸」が機関故障を起こしながらも海峡で台風と戦っていること、「洞爺丸」も機関や発電機が故障しつつあること…それら僚船の悲痛な叫びが「十勝丸」通信室にも聞こえていた。そして通信士たちの耳に「十勝丸」も機関室への浸水が始まり、機関や発電機が止まりつつあることが入ってきた。
 通信長が船橋から戻り、僚船の様子を通信日誌を見て確認した。
「やぁ、ご苦労さん、ひどいですね。」
事務長がそういいながら通信室に顔を出した。一等機関士が通りすがりに通信室にいた事務長を見つけ、笑いながら言った。
「事務長、明日の朝食は赤飯にお銚子一本つけましょうよ。」
一等機関士は返事も聞かずに機関室への階段を降りていった…機関室が壊滅的な状況にあることが、聞いてとれる内容であった。続いて
「電気が消えるぞ、電気が消えるぞ。」
何処かで誰かが怒鳴る声が聞こえた。同時に飛沫を頭からかぶって全身ずぶ濡れの三等航海士が通信室に顔を出し、
「電報を頼む、釜場(ボイラー)浸水、エンジン使用不能と打ってくれ。」
と叫ぶように言った。機関部がいかに深刻な状況にあるかを示すものであった。
「通信長、SOSを打つべきではないでしょうか?」
「よし、船長に聞いてくる。」
通信長は再び船橋への階段を上った。船がなんとなく右舷へ一方的な傾斜をするようになってきた。

 ボイラー室ではなおも流れ出た泥水状の石炭との戦いが続いていた。火手たちは腰まで泥水につかり、休む間もなく投炭作業を続けていた。その甲斐もなく、虚しく蒸気圧を示す計器の針は下降を続ける。
 ボイラー室の泥水はもう増えることはなかった、流れ出てきても増した分は隣の機関室へと流れたからだ。機関室もボイラー室から流れてきた泥水に加え、車両甲板から落ちてくる海水が大量に溜まっていた。やがて、その水はついに機関を浸した。機関に潤滑油を送るポンプが水没し、主機への潤滑油の供給が止まってしまった。潤滑油無しでは機関は焼き付くため運転は不可能で、ついに主機関は運転不能となった。
 続いて、泥水は機関室のヒューズボックスを浸した。中の端子が短絡して火を噴いたと思うと船内は停電し、電灯をはじめとする「十勝丸」の電気系統は全て停止した。機関員の一人が倉庫から電線を持ってきて切れたヒューズの部分を直接接続して電源の復活を試みたが、今度は蒸気圧が低すぎて発電機が停止してしまい「十勝丸」の電灯の明かりが戻ることはなかった。
 こうして蒸気圧の低下と浸水が原因で、全ての機関と発電機が運転不能になった。耳をろうする機械の轟音が途絶え、船底の機関室とボイラー室に不気味な静寂が訪れた。船外から激しい波と風の音が聞こえるだけの機関室に、機関長は機関部員を全員集合させた。手の空いている船員が機関室にローソクを並べて火をつけたので、機関室にはかすかな灯りがあった。ボイラー室からは真っ黒になった火手たちが、泳ぐようにして出てきた。
「よくやった。」
機関長は震える声で言うと、誰もが黙ったまま口を開こうとしない。何と声をかけるべきか誰もが分からなかったが、一等機関士が絞り出すように言った。
「機関長、蒸気がなくなりました。ボイラーもダメです。これ以上どうすることもできません。」
「みんな、よくやってくれた。全員、上へ上がれ。」
機関長が絞り出すように言うと、機関部員の船員たちはぞろぞろと機関室から出る階段を上っていった。最後に機関室を覗くと、ローソクの火だけがゆらゆらと揺らめいていた。水密扉を完全に閉めて、機関部員は一人残らず、機関室を後にした。

 通信室でも電気が消えた。停電と同時に通信室は闇に包まれ、レシーバーから漏れていた無線交信が聞こえなくなった。と思うとすぐに無線室の天井の豆灯がついた、電池による非常灯である。同時に無線機の非常用電源が作動し、再びレシーバーに無線交信の音が戻った…これら非常用電源は6時間持つ。
「エンジンルーム浸水のため消灯。水密扉を閉めるも浸水甚だし。監視頼むとお願いします。」
船橋から伝声管(声を伝えるパイプ)を伝って無線の指示が来た。船橋から戻ったばかりの通信長が復唱し、首席通信士は電文の作成、次席通信士は送信の準備に忙しくなった。いざ送信を開始すると電波の発射を確認する監視管(ネオン管)が光らない、出力が弱すぎるのだ。大波浪を被ったアンテナが絶縁劣化した上に、予備電源に切り替わったために、予備の小さな送信機で送信するしか手はなくなってしまったからだ。それでも何とか送信を終えた。
 通信室に機関長が入ってきた。後を追うように二等機関士と三等機関士が入ってきたが、みんな疲労しきった顔で黙っている。分かり切っていることだが、次席通信士が声をかけた。
「機関長、エンジンどうですか?」
「あとは天命を待つだけだ。」
機関長は力無く呟いた。もう機関も発電機も停止してしまい、誰にもどうすることも出来ない。力を尽くして船底で戦ってきたのにどうにもならない悔しさが、その声には溢れていた。
 桟橋から「貴船の詳細なる状況知らせ」と打電があった。次席通信士が船橋へその電報を伝えに行く、船橋では誰もが救命胴衣を着けて最後の奮闘を続けていた。船長だけは救命胴衣を着用せず、船橋の真ん中にあぐらをかいて大声で指示を出していた。次席通信士は通信室に戻ると皆に救命胴衣の着用を促し、通信室にいた全員が救命胴衣を着用した。
「電報たのむ」
二等航海士が通信室にやって来た。電文を作成し電報用紙に23時40分と受付時刻を記入すると、二等航海士が通信士たちに声をかけた。
「もう少しの辛抱だ、頑張りましょう。」
「こちらも意気軒昂!」
次席通信士が歯を見せて笑った。
 電文の送信が始まった。電鍵を懸命に叩いても地上局に何度も聞き返された。出力が弱すぎて聞き取れないのだ。予備電源で出力も低くアンテナが海水を完全に被ってしまい、アンテナの電流計を見るとほとんど針が振れていない。機関長と二等機関士が
「どうした、ダメか?」
何度も声をかけてきた。通信士たちはそれでも何度も何度もしつこく送信を繰り返し、ついに全文を送って相手から解信符号を受け取った。

「浸水だいぶ収まり、アンカーに異常なき限り安全なる模様。付近に沈没船漂流中。南15〜20メートル、いまだ衰えず。うねり南西7,動揺右20度。全員意気軒昂!」

 解信符号を受け取ってホッとする間もなく、目に見えて船体が右へ右へと傾き始めた。機関長と二等機関士が立ち上がった。
「SOSだ!」
通信長が悲痛に叫んで電鍵に手をかけたとき、車両甲板から金属がぶつかる轟音が響いた。車両甲板の貨車が横転した音で、同時に船体の右への傾斜は速度を増した。
「もう駄目だ、外へ出ろ!」
通信長は叫ぶと、通信室にいた船員たちは通信室から逃げ出した。通路から海水が上がってきて、もう少し遅かったら誰も通信室から逃れることはできなかっただろう。通信長と機関長は船橋への階段を上がり、首席通信士、次席通信士、二等機関士の3人は甲板へ出た。さらに船体の横転は早くなり、3人は船の回転にあわせて船腹から船底へと走り、海に飛び込んだ。
 23時43分、「十勝丸」は右舷に横転して沈没した。

7 嵐のあと

 七重浜に座礁した一般の貨物船「第六真成丸」では、総員配置を解かずに迫り来るうねりに耐えていた。
「灯りのついた物が流れています。救命筏のようです。」
海を見張っていた航海士が、波浪の中に光る物が浮いているのを発見し船長に報告した。救命筏(いかだ)や救命胴衣には海水と接すると灯りを放つ豆灯がついているが、その灯りを発見したのだ。船長が探照灯で救命筏を照らすように命じると、光の輪が海面を動いてその物体を捕らえた。確かに救命筏であるが、誰も乗っていない。しかし目が慣れたときに付近の海面を見て、船員たちは顔面蒼白になった。生きているのか死んでいるのかおびただしい数の人々が、救命筏の周りだけでなく「第六真成丸」の周りを埋め尽くすように浮き沈みしながら流れているのだ。荷物や木片が混じり、海面は粉を散らしたように見えていた。
「ロープを下ろして漂流者を救助せよ。」
船長の断が下った。船員たちがその命令に従ってロープを持って甲板に出た。
「つかまるんだ、離すなよ!」
船員たちはそう叫んで海にロープを投げる。この巨大なうねりの中で、漂流者を助けることは生命がけであったが、漂流者たちは死ぬ思いをしながら流されているに違いないのである。何度目かに投げられたロープに重みを感じ、船員たちは励ましの言葉を海に向かって何度も叫んだ。
 2人の遭難者がロープにかかって引き揚げられた。一人は乗客で、もう一人は二等機関士だという。二等機関士から「第六真成丸」船長に、青函連絡船「洞爺丸」が多くの乗客を乗せたまま沈没した旨が伝えられた…彼は「洞爺丸」の二等機関士であったのだ。1000人もの乗客が乗っている「洞爺丸」が近くに沈没したという事実に船員たちは驚愕した。
 船長はすぐに通信長にSOS打電を命じたが、アンテナが海水を被って電波の発射ができないと返される。
「アンテナを張り替えてSOSを打つんだ。」
船長は叫んだ。「第六真成丸」甲板では漂流者の救助と並行して、何人かがマストに登ってアンテナの張り替えを始めた。どちらも大波浪と強風の中で、文字通り生命かげの作業であった。
 日付が27日に変わろうとしていた頃、「第六真成丸」の無線アンテナが復旧した。通信長は早速SOSを発信した。

 港内に錨を降ろして停泊している「石狩丸」からは危機が去っていた。だが救命艇が風で飛ばされて使用不能、係留索を全て失い、調理室の小さな煙突が根元から倒れるなど被害が大きく、運行不能となっていた。
 だが、当面の危機は回避したために総員配置は解かれていた。通信室では首席通信士が当直担当となり、無線機に耳をそばだてていた。「洞爺丸」のSOSを聞いても驚くことはなく、座礁と聞いて「これで一安心」と思い休息を取っている通信長には報告せず、船橋の当直担当である二等航海士に報告した。二等航海士もそれほど驚いた様子はなく、休息を取っている船長に報告するということはしなかった。1000人以上の船客を乗せた船が遭難すれば、どんな事情があろうともSOSを打つのは当然だ。砂浜に座礁して安全と分かっていても救助を求めなければならないのは明白であるからSOSを打ったのであり、誰も本当に危険とは感じていなかった。むしろ「座礁」の二文字が「洞爺丸」に起きている事実を見ることのできない船外の人たちにとって、安全を保障する言葉に聞こえたのだ。
 首席通信士は通信室に戻って、再び無線機のレシーバーに耳を当てた…と思うと、強大な電波のSOSが耳に入った。符号から船名を割り出したところ、大阪の商船「第六真成丸」であることが分かった。SOSの内容は七重浜に座礁したことを告げている。本来ならすぐSOSに応えるが、「石狩丸」は前述したように航行は可能であっても強風で救命艇を失ったために遭難船の救助は不可能である。まだ風は収まったとは言え、うねりが高くとても港外へ救助に行ける状況ではない。函館には海上保安部がありSOSにここが対処するはずであるが、その海上保安部も応答しない。国鉄の陸上無線設備は他の連絡船との交信に大わらわなのだろう…しかし、SOSは執拗に続いた。船に余程危機的な状況が迫っていて緊急を要すると感じたのだろう、通信士は救助には行けぬがこのSOSに応えることにして電鍵を叩いた。
「貴船のSOS了解、函館海上保安部も不良ですがSOSを聴取したと思われます。こちらは連絡船石狩丸、函館港内で停泊中です。」
すぐ「第六真成丸」から返答があった。
「本船は七重浜に座礁し右舷に10度傾いているが、転覆の危険はないが監視を頼む。なお、本船付近に多数の漂流者が海岸に助けを求めているからもよりに連絡の方法はありますか? 本船も2名救助した、二等機関士カワカミと、船客アオキ。」
通信士は驚いた。「石狩丸」首席通信士と「洞爺丸」二等機関士とは家が向かいにあって顔なじみであった、その機関士が海面を漂流の後救助され「第六真成丸」にいるという。さらに付近に漂流者多数ということは答はひとつ、「洞爺丸」沈没としか考えられない…考えたくないことだが、僚船が1000人の乗客と共に海に消えたのである。通信士は続けて電鍵を叩いた。
「貴船から洞爺丸の様子は分かりますか?」
「海岸に座礁後横倒しとなり、その後電灯が消えたとのことです。それから船内に人が残っているらしいとのことのですがよく分かりません。洞爺丸の正確な位置は分かりません。本船の南西に座礁したのは分かっているのですが、視界が悪く距離不明。漂流者多数、至急連絡乞う。」
 通信士は通信を打ち切り通信室を飛び出した、「石狩丸」では通信室を出ると船長以下士官と呼ばれる上級船員の居室が続いている。その通路で「洞爺丸が沈没した」と通信士が叫ぶと、その声に目を覚ました船員たちが通信室にどっと押し寄せた。
「本当に洞爺丸は沈んだのか?」
船長は通信士に顔を寄せて聞き返す、
「船長、洞爺丸の二等機関士が漂流の後、救助されて第六真成丸にいるんですよ。第六真成丸では付近に漂流者多数といっています。これは洞爺丸沈没以外考えられません。」
通信士の説明を聞いても、船長は「洞爺丸」沈没を信じられなかったようだ。いや、そんな事故が起きたと思いたくなかったのかも知れない。しかし、船長の指示で青函局長宛てに打電した。
「第六真成丸の報によれば、洞爺丸沈没の模様。漂流者多数とのこと。」

 その頃「第六真成丸」通信室では船員たちが押しかけ、通信長のSOS打電を見守っていた。通信長が
「国鉄石狩丸が応答しました。」
というと、通信を見守っていた船員たちの間から歓声が上がった。「第六真成丸」甲板では引き続き暗い海面の漂流者たちを目掛けてロープを投げ、朝までに20人以上の「洞爺丸」の船客や船員を救助した。

 同じ頃「洞爺丸」から投げ出された人々の中で「第六真成丸」に助けられる事のなかった船客や乗組員が、続々と七重浜の海岸に打ち上げられた。生きたまま打ち上げられた者もあれば、意識のないまま打ち上げられた者、既に仮死状態にあった者、漂流中に溺れたり、凍えたり、漂流物にぶつかるなどして絶命した者、様々であった。そんな彼らが浮き輪や救命筏、船の部品や貨物や荷物とともに砂浜に一人、また一人と打ち上げられたのだ。意識のある者は巨大な波に再び引き込まれまいと、全力で走った。
 砂浜に座り込むように打ち上げられた二等航海士は、すぐに近くの民家に駆け込み連絡船が沈んだ事を告げた。その民家には多くの遭難者が駆け込んだが、みんな高いところによじ登ろうとしたり、何かに掴まって離そうとしなかった。船が沈没し、漂流したときの恐怖がまだ抜けていなかったのだ。
 七重浜海岸にあった飛行場の警備員は、強風の中懐中電灯片手に警備に当たっていた。彼が握っていた懐中電灯の光の輪に入ったのは、海を漂流して打ち上げられて動けなくなった人々の群だった。警備員はその遭難者を近くに民家に収容し、集落の人々を集めて救援活動をするために半鐘を鳴らした。集落の人々が海岸に集結し、多くの人は海岸へ一人でも多くの生存者を救うべく走った。またある者は病院へ行き医師の手配、ある者は警察への通報、ある者は江差線七重浜駅へ走り「洞爺丸」沈没を国鉄に通報した。
 海岸で救援活動に当たった者に、波から出てきた遭難者は抱きつくようにしがみついた。足下にはまだ息のある者が倒れていたが、動ける人に対応するのに手一杯で倒れている人や仮死状態の人に手が回らない。医師が来ても仮死状態の者はどうすることも出来ず、多くの人をそのまま見捨てるしかなかったという。「洞爺丸」に乗りつつも生きて海岸に戻ってきた者の多くが、そのような形で海岸で死を迎えた。
 通りすがりのトラックが生存者を函館市の病院に移送した。その内の一台が交番に立ち寄り、国鉄の「洞爺丸」が沈んだと通報したが、警察官はそれを信じなかったという。

 函館湾では、まだ連絡船と台風との闘いが続いていた。
 海峡へ出ていった「大雪丸」は、渡島半島の陸岸に沿うように南下を続けた。巨大な波浪と飛沫のために視界はゼロ、レーダーを頼りに航行を続けた。二等航海士が先代の「大雪丸」船長から「南西の風の場合は、木古内へ行け」と言われていたのを思い出し、船長と一等航海士に進言した結果だ。渡島半島の木古内湾は、南へ突き出た渡島半島が南西方向からの風を遮る地形になっている。
 操舵手が舵故障と叫ぶ、船底の操舵機室が浸水して舵が使えなくなってしまったのだ。やむなく左右の機関を交互に使用して舵代わりにして、なんとか操船を続けた。22時頃に機関が浸水して停止し、もはやこれまでと覚悟を決めて通信長はSOSの電文作成に取りかかった。原因は機関室が浸水して潤滑油ポンプが停止し、機関が停止したものであった。機関部員が必死になってポンプを修理、僅か5分で機関は復旧して「大雪丸」はさらに南下を続けた。あまりの揺れのため機関室にはロープが張られ、船橋では船長が右へ左へと飛ばされたという。
 日が変わって0時すぎに木古内湾に投錨。船員たちは無事を喜んだが、機関を酷使したために故障してその場で動けなくなってしまった。

 「第十二青函丸」でも強風と巨大なうねりとの戦いが続いていた。23時を過ぎると少しずつ風は弱まっていたが、うねりは少しも衰える気配を見せていなかった。その状況下でレーダーを見ていた二等航海士があることに気付きレーダーを様々に操作していた…近くに2隻の船影があったのだが1隻を残して消えてしまい、様々に調整しても現れなくなったのだ。2隻の船影が、それぞれ「日高丸」と「十勝丸」を示しているのは分かっていた。
「十勝丸がなくなった。」
二等航海士は悲痛に一等航海士に報告した。報告を終えて再度画面を見ると、残っていたもう一つの船影も姿を消していた…「沈没?」、嫌な予感が二等航海士を襲った。なおも様々に調整してみたが、2隻の船影は再びレーダー画面に現れることはなかった。
「日高丸と十勝丸の船影がレーダーから消えました。」
今度は船長に報告した。青函航路にレーダーが導入されてまだ数年、船影がレーダー画面から消えるという体験は初めてで、僚船が沈没しているいう事実を実感として感じることができなかった。
 通信室から船橋に報告が来た。「第六真成丸」と「石狩丸」の通信を傍受し、「付近に漂流者多数」との電文から「洞爺丸」沈没の可能性があるということであった。船員たちに言いしれぬ衝撃が走った…もしや、レーダーから船影が消えた「日高丸」と「十勝丸」も沈んだのか?
 日付が27日に変わると風は一段と弱まり、壁のように吹きまくる暴風という様相ではなくなってきたのみではなく、この時刻になってようやくうねりも衰えてきた。事務部から船員たちに茶が差し出され、渇いたのどを潤して互いに励まし合っていた。
 1時代になると、さらに風とうねりは収まり船の動揺も小さくなっていた。海面に手が届きそうな横揺れや、たたき上げられたり奈落の底に落ちたりという異常な揺れはおさまった。1時50分、「第十二青函丸」は機関を停止した。
「よくやった。」
「よく乗り切った。」
船橋の船員たちは、船長を囲んで喚起の声を上げた。船長を囲んで茶を飲んでいると、機関長も船橋に上がって無事を喜んだ。凄まじい時化を乗り切ったという安堵と、無事だった喜びが船員たちに広がった。
 だが、無線を通じて「洞爺丸」の悲報が次々に飛び込んできた。さらに「日高丸」がSOSを発したまま音信不通になり、「十勝丸」「北見丸」「第十一青函丸」も一切の連絡を絶っているという情報が飛び込んできた。

 「日高丸」と「十勝丸」の船員たちは沈没地点からうねりに乗って函館港へと流されていたが、防波堤が彼らの運命を分ける大きな障害として立ちはだかっていた。流されて港口まで来た船員たちは、運良く防波堤の切れ目に流された者以外は防波堤を越えるのに悪戦苦闘していた。体力のある者は青函連絡船の航路に沿って泳いで防波堤を交わし、また別の幸運を掴んだ者は巨大な波の頂上に乗って防波堤を乗り越えることができた。だが多くの船員は防波堤に到達する前に絶命するか、防波堤に激突して絶命するかのどちらかであった。船員たちはものというものに掴まり、仲間の船員を見つけては励ましの声を掛け合って漂流を続けた。
 「日高丸」のSOSを受けて再び補助汽船が出動し、港口付近で漂流している「日高丸」「十勝丸」の船員を発見して救助した。補助汽船の船員たちは助け上げた船員たちを何度も殴った…長時間漂流して救助された者は身体が極限まで冷えている上に疲労のため眠気を催す、救出された遭難者がそのまま眠ってしまえば待っているのは「死」だった。救助された船員たちを眠らせないように補助汽船の船員は生存者を殴り続け、身体が暖まったところで暖かい布団に寝かせた。その中に「日高丸」で一等航海士から救命胴衣を受け取った甲板員の姿もあり、後に救命胴衣を着けていない一等航海士の遺体が上がることになる。
 殴る必要もない船員もいた、強く気にかけていることのある船員は眠るどころの精神状態ではなかったのだ。救助された「十勝丸」通信士は、殴り続ける補助汽船船員に怒鳴った。
「俺も船員だ、海難の時はどうなるか分かっている。殴るのをやめてくれ。」
「いや、あなたも前の人と同じようになったら困る。前の人は大丈夫というから殴るのをやめたら、そのまま死んでしまったんだ。」
「分かった。でも俺にはどうしても行きたいところがある。(国鉄)海岸局だ。」
通信士は補助汽船が桟橋に着くと真っ先に下船した。海岸局にまっすぐ走り、陸上の通信士にたった一言言った。
「SOSを打てませんでした。」

 「北見丸」の生存者は長時間に渡る漂流の後、函館湾を横断して函館山の裏側に打ち上げられた。打ち上げられた船員たちは抱き合って無事を喜んだ後、一刻も早く沈没を知らせて仲間を助けてやらねばならないことに気付いた。しかし、岩場の多い波打ち際を歩けばまた大波に取られてしまう可能性があるため、船員たちは函館山の山頂を目指して山を登り始めた。靴を分け合い、何度も海水を吐き、倒木を何度もくぐり、暗い山道をひたすら登った。やっとの思いで山頂にたどりつくと、まだ真っ暗で函館の町は見えず台風の名残の海鳴りと空鳴りが不気味に響いていたという。休む間もなく函館市街に下る山道を下っていき、空が白みかけた頃に彼らは新聞社のジープに発見されて収容された。この船員たちから国鉄は「北見丸」沈没をやっと確認する。

 夜が明けると、次第に函館湾の惨状が明らかになってきた。補助汽船の船員が収容した船員の遺体の中に、「第十一青函丸」船員が含まれていることが発覚する。そして「日高丸」「十勝丸」の沈没地点付近に、裏返った船首だけを海上に出し錨をぶら下げた「第十一青函丸」が無惨な姿をさらしているのが発見された。二重底に改造されたばかりの新しい船底、そして水面スレスレに「第十一青函丸 SEIKANMARU No.11」の文字…恐らく「十勝丸」の火手見習いが偶然目撃した沈没船も、「日高丸」が生命掛けで交わした沈没船も、「十勝丸」が沈没直前にその存在を報告した沈没船も、この「第十一青函丸」であったのだろう。この海域では、「日高丸」「十勝丸」「第十一青函丸」以外の沈没船はない。
 七重浜の海岸もむごたらしい惨状を見せていた。「洞爺丸」の部品類や貨物や荷物、そして船員や乗客の遺体がゴミのように散乱していた。遺体は全て背をエビのように曲げられ、目を見開いたままの状態であった。あまりの波の大きさと強さに、人々は身体を強引に押し曲げられた上に目をこじ開けられたまま流され、その苦痛を味わいながら死んでいったのである。
 そして国鉄は、その多くの死者のために動き出した。医師団を七重浜海岸に派遣し、遺体収容作業と救助活動を開始した。陸上では車両工場が本来の業務を返上して、棺桶の制作に取りかかることになる。

 対岸の青森港も、「洞爺丸」の悲劇を耳にして早朝から騒然としていた。着岸のままテケミを守り通した「羊蹄丸」「渡島丸」の船員たちは、停泊中は電源を落とす無線機の電源を全て入れて情報の収集に当たっていたが、どうすることも出来ない焦りと信じられない出来事にただ呆然とするばかりであった。
 前夜には「早く船を出せ」と苦情を言い続けていた船客が、「もし出ていたら自分たちも死んでいたかも知れない、羊蹄丸の船長は生命の恩人で神様のようだ」と感謝の言葉を給士に伝えていた。事務長からそれを聞いた船長は有頂天になることはできなかった。自分が船を出さなかったのは、前夜に乗客の罵りの言葉にあった通り「意気地がなかったから」である。自分の気象に関する知識が、「洞爺丸」船長のそれよりも劣っていたために慎重になってしまったためであるのは確かだからだ。普段なら気象の知識のあるという事実はプラスに出るが、今回だけは異常な気象条件によってその知識がマイナスになっただけのことではないか…船長はそのことばかりを考えていた。自分に知識が不足しているのは確かで、決して自分は神なんかではないと思ったのだ。
 「羊蹄丸」が着岸している桟橋に、青森側の「洞爺丸」乗客の家族が詰めかけた…その殆どが「かつぎ屋」の家族たちだ。空席に彼等を不安と共に乗せて、「羊蹄丸」は台風通過後の第一便として27日朝に青森を出港した。台風の影響で海峡には少しだけうねりが残っていたが、台風一過で空はきれいに晴れ上がっていた。やがて「羊蹄丸」は函館湾に入ると、様々な浮遊物に囲まれた。デッキでは人々が、沈んで船底を見せている「洞爺丸」を一目見ようと左舷側の手すりに集まった。

 この事故で、「洞爺丸」は1155名が死亡し159名が生存、「第十一青函丸」は90名の船員全員が殉職、「北見丸」は70名が殉職し6名が生存、「日高丸」では56名が殉職し20名が生存、「十勝丸」は59名が殉職して17名が生存。合わせて乗客・乗員1430名が犠牲になるという悲劇となった。
 海外でもイギリスの「タイタニック」号沈没事件に次ぐ海難事故として報じられ、世界の目が函館湾の悲劇に注目した。「タイタニック」号沈没事件とは、1912年4月14日、イギリス船籍のホワイトスター社の「タイタニック」号(純トン数46329トン・全長269メートル、全幅26.2メートル・定員一等735名、二等674名、三等1026名、合計2435名・蒸気タービン機関16000馬力)が、乗客1320名と乗組員892名を乗せてイギリスのサザンプトンからアメリカのニューヨークへ向っている途中の大西洋上で氷山と衝突、救命艇で逃げ出した乗客と乗員705名は近くにいた別の客船「カルパチア」号に救助されたが、残りの1502名が死亡するという当時世界最悪の海難事故であった。
 後に「洞爺丸台風」と名付けられることになる台風は、岩内町の大火事を引き起こし、道内の木を何万本もなぎ倒し、北海道に空前の台風被害を残して、サロベツ原野を横切ってオホーツク海に抜けた。

 これから数日に渡り、七重浜海岸には乗客の家族が遺体収容作業を見守り、遺体が上がると同時に肉親の名を呼ぶ泣き声が聞こえた。国鉄では船内に残された遺体の収容のため、多くの潜水夫を投入していたが収容作業ははかどらず遺族達から不満の声が上がっていた。国鉄は貨物便4隻の遺体収容を後回しにして、「洞爺丸」の遺体収容作業を続けていた。赤ん坊をしっかり抱いたままの女性の遺体や、まだ幼い子供の遺体が上がったとき、収容作業の手が一時止まって一同ただ涙を流していたという。
 遺体収容所では多くの遺族が自分の肉親を捜していた。肉親の亡骸を見つけた遺族が遺体にすがって泣き声を上げると、すぐに近くにいる国鉄職員に「人殺し」と罵声が飛んだ。さらに遺体の取り違いや、遺体を使った詐欺なども起きて混乱していたと言われている。
 その収容所の入口で泣いて謝りながら遺族たちに頭を下げる年輩の女性がいた、「洞爺丸」船長の妻であった。彼女は夫が死んだという悲しみの前に夫が船を沈ませたという責任感の方が先に立ち、罵声を浴びるのを覚悟で毎日遺体収容所の入口に来て遺族たちに頭を下げていた。その「洞爺丸」船長の遺体は事故から約1週間後に上がった。救命胴衣も着用せず、手にはしっかり双眼鏡を握りしめたまま、掃海艇の網にかかったのだ。

8 原因と教訓

 事故直後から事故原因について語られた。台風は実際にどんな動きをしていたのか、船はどんな状況にあったのか…関係者の全てが「洞爺丸事故」を二度と繰り返したくないという思いで解明が進んだ。

 台風の動きは複雑かつ前例にないものであることがその後の気象関係者の調査で分かった。当日の予報は全て外れたことも一部の予報官は認めていた。
 この日、日本海側を台風が北上し、太平洋側を温暖前線が北上していた。それに先行して津軽海峡付近にも温暖前線が発生し、昼過ぎから北上を初めて津軽海峡付近に猛烈な東風を吹かせ、大雨を降らせた。同時に台風の南に伸びていた寒冷前線は徐々に台風の東に回り、奥羽地方で太平洋側の温暖前線と交わって閉塞前線となった。この閉塞前線通過時にも滝のような大雨が降り、前線通過直後に一時的に風が止んで雲が切れて晴れ間が広がった。この閉塞前線は16時頃に青森を、17時頃に函館を通過し、台風の眼と錯覚させることになる。
 その頃、台風は当日の観測結果より大きく西へずれて津軽海峡の西の日本海上に達していた。そこで西側から流入する冷気と東側の暖気に刺激され、中心示度が960ミリバールまでに発達した。さらに時速100キロ以上のスピードで北上していた台風は、オホーツク海上の高気圧に行く手を阻まれて急に速度を時速40キロまで落とした。台風は発達しながら函館の北西をゆっくり進むことになり、函館湾に猛烈な南西の風と、この風に乗って日本海を渡ってきた長大なうねりが長時間に渡って押し寄せることになったのだ。誰もその変化に気付くことはできなかった。
 気象予報のプロである気象予報官が、この結論を出すのに2年もの時間を要した。従って当日の台風の動きを正確に把握しきれずに、連絡船を出港させた「洞爺丸」船長を一方的に責めることは出来ないと思われる。もし日本海における台風の予測が正確で、当日にこのような予報を出した者が一人でもいれば、1954年9月26日という日は青函連絡船にとって台風通過で難儀した一日で終わっただろう。

 沈没に至る経過は船ごとによって大きく違う。
 「第十一青函丸」は生存者がないので断定は不可能だが、「十勝丸」火手見習いの目撃証言と発見された船体から推定は可能である。「第十一青函丸」は魚雷攻撃を受けた船舶のように轟沈の形で沈んでおり、船体を折る力が働いて一瞬で沈没したのは間違いない。「第十一青函丸」は直前に船底を戦時標準船独特の一枚外板構造から、他の連絡船に合わせた二重底への改造工事を行っていた。船首と船尾を除く船底部を切り落とし、そこに新たな二重底の外板を取り付けるという大工事であった。その新しい部分と古い部分が強大な波浪により一気に切断して沈没したと推定される。
 「北見丸」は前述のように、傾斜を直すためにヒーリング装置を使用したために沈没したと考えられている。傾斜の補正を考えなければ生還できたとの説は強い。
 「洞爺丸」「日高丸」「十勝丸」の3船は、座礁したという事実以外は似たような行程で沈没に至った。沈没せずに生還した連絡船にも共通して言えるが、車両甲板に開いた後部の大きな車両積み込み口から巨大な波が浸入して車両甲板に入った。これだけなら問題はないが、当日の函館湾でのうねりの波長と高さが重要な問題であった…当日の波の高さは6メートルで。これは車両甲板の中程までの高さ。波長は9秒で波の長さは120メートル、これは連絡船の喫水線の長さよりほんの少しだけ長さの波である。
 この波に合わせて船が上下運動する状況を考える。まず船首が波に突っ込み船首が上がると、船尾のすぐ後に前の波の山があるため海水が車両甲板に打ち上げる。船首が波を乗り越して徐々に下がると、打ち上げた海水が車両甲板の最前部を目指して一気に流れる。その波が船首の近くまで進み、船尾の持ち上がりがピークに達した少し後に車両甲板最前部の壁に当たり跳ね返る。次に船首に次の波が近づいて少しずつ持ち上がるのに少し遅れて、車両甲板の海水も船尾へと移動する。そして船首が次の波に突っ込んで持ち上がりが最大になるとまた船尾から海水が入るが、前の波で車両甲板に入った水はまだ船尾に達していないので排水されない。次に船首が下がり始めたときに船尾の少し前で次の波によって入ってきた海水とぶつかるが、船尾が上がっているのだから前の水はここで船尾へ向かう力を失って反転、次の波の水と一緒にまた船首へ向かうという現象を繰り返し、次第に車両甲板に溜まる水は増えていったのだ。この現象は喫水線の長さより数メートルほど波長が長い波の場合にだけ発生し、以外の波ではどんなに大きい波でも起こらない現象であることが水槽実験で実証された。
 このような波長の悪戯によって車両甲板には大量の海水が滞留し、車両甲板と機関室、ボイラー室、石炭庫を結ぶ扉の隙間から大量の水が機関室やボイラー室に流れた。この扉は海水が滞留するのが前提でなく、水密は完全ではなかった。そのために船底に近い機関室やボイラー室は水没して機関が故障、同時に石炭庫に流れた水は石炭と混じって泥水となってボイラー室を水没させて、機関の運転を不能にした。湾内は長大なうねりが殺到しており、機関運転停止によって連絡船は船位の維持が困難となり、船を風に立たせることが出来なくなって次第に横波を受けるようになった。その上、車両甲板の大量の海水が船の重心を上げ、傾斜時の復元性が著しく低下して最終的には沈没した。
 「洞爺丸」の場合は少し違う。同じように機関運転が不能になった段階で七重浜海岸へ向かって流されたが、この夜の七重浜沖には長大なうねりが運んできた砂が海底に溜まり、海岸から数百メートルの沖に大きな砂の丘ができていた。「洞爺丸」は流されている途中でその丘に触底し、船長と一等航海士はそれを砂浜に座礁したと誤認したと考えられる。そのまま風下に流されながら丘に何度かバウンドし、何度目かの触底で船底にある右船底にある「ビルジキール」が丘に突き刺ささったことで風下への漂流は止まった。突き刺さったビルジキールは海底をしっかり噛んでしまうが、風上から来る波浪により「洞爺丸」を風下へ押し流す力は止まらず、船体を右舷船底を軸に回転する方向に動かした…船長が船橋の船員たちに救命胴衣の着用を命じた頃に、この現象が起きたのであろう。船体は徐々に右舷へと傾きを増し、傾斜が50度に達した頃に車両甲板の貨車が転覆、同時に左舷側の錨のチェーンが切れて横転したと考えられている。
 「ビルジキール」とは船底の両舷端部に船首から船底へと伸びる竜骨板状の板のことで、横揺れ防止などのために取り付けられている部品である。後日引き揚げられた「洞爺丸」を調査した結果、右舷側のビルジキールは欠損してなくなっていた。
 港外に仮泊して助かった連絡船との明暗の差は、車両甲板に貨車が積載されているか否かの違いが大きい。貨車を積んでいない船では貨車の重量分船が浮き上がり、船尾から打ち上げる海水量が少なかった。その上貨車がなかったために車両甲板から船底への開口部の水密対策がとりやすくなり、機関室やボイラー室への浸水は僅かで済んだ。ただし客載車両渡船「大雪丸」は沈没船と同量の海水の滞留があったと考えられるが、南西のうねりを遮る地点まで何とか逃げ込んで幸運にも助かった。

 「洞爺丸」を始めとする連絡船沈没事件に対して函館地方海難審判理事所において審判が行われ、法の上に置いての責任関係が明確にされた。一般的な事件でいえば裁判に当たる。
 審判では気象関係の審判がなかったが、台風接近化に連絡船を運航した船長と国鉄の責任が問われた。さらに運行体制や管理体制、連絡船の構造などの青函連絡船の問題点が指摘される。国鉄側は「台風接近という自然現象による不可抗力」として上告し、審判は6年に及んだ。
 これに基づいて国鉄側は犠牲者への補償等に尽くすことになる。まだ日本が貧しかった時代の事件である、家族の働き手を失って路頭に迷った遺族が多くいた。これらの人々を救済するためには、国鉄が補償する以外は手はなく、殉職した船員や船長には悪いが国鉄の責任が問われる形となった判決は止むを得なかったことだろう。国鉄もこれを察しており、第一審裁決が出た1955年9月以降、国鉄に責任があるとして遺族への最終賠償を行った。
 ただハード面から事故再発を防ぐためには、この決着は禁物であった。事故の原因を冷静に捕らえ、国鉄は次々に新たな対策を立てていった。海難審判の結果を見て、連絡船の構造、青函鉄道管理局の運行体制の問題点が徹底的に洗い出されれ、船員たちの再教育などに乗り出す。
 特に運航面ではそれまで船長に委ねられていた天候による運航の決定権を、青函局指令が天候を総合的に判断して決定することに変更した。また台風や強大な低気圧の通過時は、陸奥湾の一番奥に抱かれて波浪や強風に強い青森港に連絡船を集結させることにした。洞爺丸台風の晩、青森港は函館港との比較では波も風も大したことがなかったという教訓である。

 さらに国鉄は津軽海峡輸送改善の究極の対策として、津軽海峡の海底にトンネルを掘る「青函トンネル」構想を実現に向け本格始動させることになる。これは戦前から構想があったものの、戦争や占領政策のため調査は頓挫していた。米軍の占領政策が終わったことで洞爺丸事故前年の1953年(昭和28年)から調査を再開していたが、「洞爺丸」沈没事故をきっかけに海底調査が本格化し、数年で海上からの調査はすべて完了した。
 1964年(昭和39年)5月8日、北海道側で調査坑(後の斜坑および先進導坑)の掘削が始まり「青函トンネル」は事実上の着工となる。現在の津軽海峡の動脈である青函トンネルは「洞爺丸」の悲劇が建設に拍車をかけたのは間違いではなく、「洞爺丸」の犠牲者の恨みの声がなければ青函トンネルはなかったかも知れない。

 最後に語るのは、台風により壊滅状況に陥った青函連絡船の再建である。
 青函連絡船は一夜のうちに客載渡船1隻と、車両渡船4隻を失った。さらに「大雪丸」「石狩丸」も要修理となり、14隻の陣容が一気に半分に減ったのである。
 特に客船の被害はひどかった。洞爺丸型4隻のうち、「大雪丸」は機関故障で使用不能、「摩周丸」はドック入りして工事中で
、まともに動くことが出来るのは「羊蹄丸」1隻で旅客輸送は大打撃を被った。通常輸送に加え「洞爺丸」遺族の輸送手段も確保しなければならず、客船の役割は事故処理においても重要となる。国鉄は取りあえず「大雪丸」の修理と「摩周丸」の工事を急ぐことにしたが、それでも復帰まで1ヶ月近くを要することになった。
 そこで国鉄は、広島鉄道管理局が保有し国鉄用燃料輸送に使用していた元稚泊連絡船「宗谷丸」と、引き揚げ軍人等の輸送に使用していた元関釜連絡船「徳寿丸」を青函航路に派遣した。「徳寿丸」は「洞爺丸」の代船として旅客船として運行し、「宗谷丸」は貨物船として青函航路に再就航した。また貨物輸送は車両渡船が減ってどうしても効率が落ちるため、一部を外注とした。言うまでもなく輸送力は大幅に低下し、一日も早く沈没船の復旧か代船新造が望まれた。
 事件から1年、沈没した5隻は引き揚げられて函館ドックに持ち込まれ、そこで徹底的に調査された。事故原因に繋がるものはないか、まだ船内に遺体は残っていないか、そして修理して再び使えるかどうか…遺体は流出しなかったものが多数発見された。特に「日高丸」機関室では、機関長と一等機関士が執務体制そのままの状態で発見されたという。
 調査の結果、「日高丸」と「十勝丸」の2隻は修理して再使用することが決まった。「第十一青函丸」「洞爺丸」「北見丸」の3隻は損傷が大きく、修理しての継続使用は困難と判断されてそのまま解体されてしまった。これら3隻分の代船が必要となり、国鉄はすぐに設計に取りかかった。代船は洞爺丸型や北見丸型そのままではなく、洞爺丸台風で露呈した欠点を補い沈みにくい構造の船とすることが求められた。

 代替新造されるのは事故で廃船が決まった「洞爺丸」「第十一青函丸」「北見丸」と同じ数、客載車両渡船1隻と車両渡船2隻である。特に貨物輸送の滞りが目立ってきており、まず車両渡船2隻を建造を急ぐこととなった。
 ただ急ぐと言っても手を抜いたわけではなく、大きな事故が起きたばかりだからその教訓を生かした設計となった。大きな変化を挙げると、車両甲板下の船底部は細かい区画に区切りそれぞれを水密扉で閉鎖できるようにして隣接した二区画に浸水しても沈まない構造としたこと、主機関は浸水に強いディーゼル機関としたこと、舵を2枚にして操船性能を向上したこと、車両甲板に後部開口部からの海水浸入対策を施したこと等である。
 こうして登場した2隻の車両渡船が、「檜山丸」(初代・3393.03トン・JMMI)と「空知丸」(初代・3428.27トン・JMMK)である。船影は今までのW型やH型に近いが、青函航路初のディーゼル機関の採用により煙突の形状が細くて長いものから、太くて短い楕円形のものに変化した。寸法も僅かに大きくなり、全長119.5メートル、全幅17.4メートルでこれが今後の青函連絡船の標準寸法となる。機関は前述の通りディーゼル機関が2機で、出力6400馬力で速力は17ノットだった。
 車両甲板への浸水対策は、この2隻では二種類の方式が試された。「檜山丸」では車両甲板側面の床面に近い場所に80センチ×50センチの放水口を20個並べて万一海水が浸入しても「急速に排水」する構造で、「空知丸」では船尾の貨車積み込み口に巨大な水密扉を装備して車両甲板を完全密封する構造とした。しばらくの試用の結果、車両甲板への浸水対策は「空知丸」の方法を採ることとなり、在来の連絡船にも車両甲板の後部開口部に水密扉が設置される。2隻は揃って1955年(昭和30年)9月に就航した。

 「日高丸」「十勝丸」は引き揚げられて修理が決まったとは言え、引き揚げ時に車両甲板から上をすべて失い、「十勝丸」に関しては船尾も失っていたので新造船を作るのに匹敵する大工事となった。煙突やマストの配置は修復前と全く同じで以前の両船の面影は残していたが、船橋周辺の意匠は直線中心だったものが曲線を主調としたものに変化し、前から見た印象は後述する新造客載車両渡船に似たものになった。性能面では機関関係はそのままだったが、舵が従来の1枚から2枚に増えて操船性能が向上した。さらに車両甲板には、海水浸入対策として水密扉が設けられた。
 2隻は1956年(昭和31年)4月と8月に相次いで青函航路に復帰し、青函航路最後の蒸気タービン船として活躍を続ける。

 さらに遅れて、「洞爺丸」の代船となる客載車両渡船も同じ思想に基づいて設計が進んでいた。設計中に車両甲板下には船室は設けないという思想が加わるが、「洞爺丸」とほぼ同じ構造・定員で作らねば在来船と共通運用できないという制約もあり、かなり構造に無理が生じることになった。
 1957年(昭和32年)10月、今までの青函連絡船のイメージをうち破るアイボリーと薄緑のツートンに塗られた連絡船が就航した。これが「洞爺丸」の代船「十和田丸」(初代・JJZR・6148.08トン)で、白と黒ばかりであった連絡船の最初のカラー化であり人々をあっと言わせた。外見は「洞爺丸」そっくりであったが、4本の太い煙突はさらに太くて短い1本となり、船首周りのデザインはさらに近代化され、青函連絡船廃止時まで活躍することになる次代の連絡船「津軽丸型」に近いものとなった。側面の大きな角窓は丸くて小さい水密窓に変えられ、船らしい外観になったが客船らしい船には見えなかった。全長120メートル、全幅17.4メートルと「洞爺丸」より一回り大きくなった。
 定員は二等470人、三等1000人の1470人…この頃には国鉄の運賃体系は二等級制となっていたために一等船室の設定はなくなっていた(後に国鉄では旧二等を一等に、旧三等を二等に呼称変更する)。機関は2600馬力のディーゼル機関が2機、速力は17ノット。
 しかし、その美しい外見と裏腹に中身は評判は良くなかったといわれている。車両甲板下を客室区画と出来なかったため車両甲板から上だけで1470人分の客室を取ったため窮屈な構造となり、狭い船室が多くできる結果となった。その客室も装飾は最小限に留められ、殺風景であったと伝えられている。さらにディーゼル機関の振動対策が現在の船ほど施されておらず、機関が発生するピストンの振動は乗客には不評であった…蒸気タービン機関は原理上、殆ど振動を出さなかったのと比較されたのである。運航する側も洞爺丸型の次の客載車両渡船が出るまで数年間だけのピンチヒッターとして割り切っていたのだろう、対策が立てられることはなかった(現に「十和田丸」は僅か7年で客室を撤去、車両渡船に改造される)。

 これで青函連絡船は洞爺丸事故から丸3年でやっと事故前の陣容を取り戻すことができた。助勤に来ていた「徳寿丸」「宗谷丸」は広島へ戻って本来の業務に戻った。
 さらに現存連絡船に対しても洞爺丸事故対策の工事が施された。外見上いちばん大きいものは、前述したように船尾の貨車積み込み口に水密扉を設けたことである。これは生き残った連絡船全船に施された。
 「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」の洞爺丸型では、下部遊歩甲板の角窓が丸い水密型の小窓に変わり、ボイラー燃料を石炭から重油に変更した。同時に船体の塗装を白と黒の二色塗りから、白と緑色(木賊色)の二色塗りに変更した。
 「第十二青函丸」「石狩丸」の2隻は、甲板上の客室があるために重心が高くなって横転しやすいのではないかという指摘により、1957年(昭和32年)までに客室は撤去されて純粋な車両渡船となった(「第六青函丸」「第七青函丸」「第八青函丸」の客室はそのまま残る)。なお「第十一青函丸」に施されて沈没の原因となった船底の二重底化工事は、「第六青函丸」「第七青函丸」「第八青函丸」は施工済み、「第十二青函丸」「石狩丸」は洞爺丸台風後に施工された。

 このようにして青函連絡船は、その歴史において最悪の事故を乗り越えたのだ。


 こうして、青函連絡船は自らに起きた悲劇を教訓として活かし、さらに安全で快適な連絡船に生まれ変わって高度経済成長の時代へ入って行くのである。洞爺丸事故を乗り越えた青函連絡船は、それからの20年で輸送量を大幅に伸ばしてまさに「黄金時代」を迎えるのである。
 次回ではその黄金時代を迎えた青函連絡船と、さらなる輸送力の増強と、新技術の導入によるスピードアップと効率化について語りたい。

 いよいよ青函連絡船は最高の時代、いちばん輝いていた時代を迎えるのだ。

つづく


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