第六章 黄金時代
〜津軽丸型の時代〜


1 戦後の鉄道連絡船
2 「津軽丸」型客載車両渡船就航
3 「渡島丸」型車両渡船就航
4 輸送力強化・最大36運航計画
5 青函トンネル着工

前のページに戻る


 日本の歴史は高度経済成長の時代を迎える。津軽海峡を渡る人も貨物もかつてない勢いで急上昇するが、当の連絡船は戦中〜終戦直後の設備のまま、「洞爺丸事故」で更新された部分以外は殆ど手を掛けられることもなく、老朽化と輸送力不足が問題になっていた。
 そこで昭和30年代後半になると、国鉄では青函連絡船について根本から改良を加えることになり、さらなる効率的な輸送と、合理化を推し進めることになった。
 輸送力を増強するために最初に考えられる手段は船を増やすことであるが、船の数を増やすとなるとそれに応じて岸壁と桟橋設備の増強を行わなければならない。青函連絡船ではほぼ全部の連絡船が一斉に寿命を迎えるため、予算などの都合で桟橋関係の増強は無理である。従って既存設備をそのまま活用して、輸送力を増強しなければならない。
 次に考えられるのは、船の大型化と速度向上である。
 船の大型化に関しても桟橋設備の関係で限度がある。その寸法は「洞爺丸事故」直後に代船として建造された「檜山丸」「空知丸」「十和田丸」が採用した全長120メートル・全幅17.9メートルが限度であった。全幅17.9メートルという数値は、桟橋に対し船体を僅かに斜めに着岸させて有効面積を広げるという手法で得られたものである。
 そこで全長をできる限り伸ばし、客載車両渡船でも40両以上の貨車積載を目指すことにした。客際車両渡船では従来の全幅17.9メートルのままでの最大長となる132メートルとして、貨車積載数を48両(ワム車換算)とした。車両渡船については全長をさらに伸ばし、当時の桟橋設備などを考慮した最大長とすることになった。これによって国内の鉄道連絡船最長となる144メートルとし、55両もの積載を可能とするものができることになった。車両渡船では全長が伸びた分だけ全幅を拡げることが可能となって、18.4メートルとなった。ただし車両渡船では寸法が大きくなったことで、青森側では第二・第三岸壁、函館側では有川桟橋のみにしか着岸出来きなくなってしまい、桟橋運用の自由度が低下してしまう欠点を生じてしまった(のちに一部の車両渡船を客載車両渡船に改造した際に、桟橋設備が改良されて函館第一桟橋以外全てに着岸出来るようになった)。
 そして、速度向上である。戦前の「翔鳳丸型」以降、車両渡船や客載車両渡船は17ノットで所要時間4時間30分、折り返し時間が75〜95分で1日1船が2往復するという前提でダイヤが組まれていた。それを所要時間3時間50分、折り返し時間を55分に短縮すれば1日1船2往復ともう片道の運航が可能となり、2割の輸送力増強が可能と試算された。
 さらに船体構造を工夫すれば、ドック入りの回数を半減させて予備船の数も減らすことが可能と考えられた。その上で船を同型船で統一する(客載車両渡船と車両渡船の違いのみとなる)ことで、従来は14隻で運航されていた青函連絡船は数隻減らしても大幅な輸送力増強が可能であると結論付けられた。

 こうして1960年代に設計されたのが、津軽丸型客載車両渡船と、渡島丸型車両渡船である。この型の連絡船は青函連絡船最後の船形となる。
 これらの船のキーワードは、「自動化」である。まずこれについて説明しよう。

 それまでの船は、船橋から船を直接制御することは不可能であった。船長の指示は航海士を通じて船内各部に伝わり、その部署で機器類を操作することによって船が船長の指示通りに動くというものであった。
 例えば船長が「全速前進」を指示すれば、航海士が船橋にある「テレグラフ」を操作する。テレグラフとは船長からの機関運転の指示を伝えるもので、船橋に送信機が、機関室に受信機がある。船橋の送信機は針のついたハンドル状のもので、この例では針が「全速前進」に来るようにハンドル操作をする。するとベルの音が鳴って機関室に命令が送られる。機関室の受信機は円盤形のメーターになっており、船橋からの指示を受信するとベルが鳴り、この例の場合は「全速前進」を針が刺すようになる。当直の機関士はこれを見て機関弁を操作し、機関の回転数を上げる操作をしたのだ。いうまでもなくこれは伝達装置を使った手動操作であり、このために船橋には主機関、補助機関別に、さらに左右別に分けられてたくさんのテレグラフ送信機が「林立」していた。
 自動化とはこの行程を自動化することであり、船長が「全速前進」と命令すると船橋の航海士がレバー操作をするだけで「全速前進」に遠隔操作することが可能になったのだ。「可変ピッチプロペラ」の採用により船の速度の増減が機関の回転数でなく、プロペラのピッチで行うようになったためである。船橋からテレグラフは姿を消し、中央に大きな制御板があるだけになった。

 そして、機関士の仕事は機関の運転から運転状況の監視と保守が中心に変わった。機関室中央にある完全空調完備の機関総括司令室で機関の全状況が一目で分かるようになり、部品毎に人を配置する必要もなくなった。

 出港・入港操作も大きく変わる。
 出港時は航路に船首を向けるために、補助汽船が船首を航路方向へ回頭させるために牽引していた。さらに着岸時には船首と船尾に1隻ずつの補助汽船で船を真横に動かす必要があった。それを「バウ・スラスター」の採用により出港時の補助汽船による牽引を不必要とし、着岸時の補助汽船も船尾の1隻のみとすることに成功した(さらにスクリューの左右推力差操縦を併用すれば補助汽船無しでも着岸出来るが、定時運航が困難になるので青函航路では着岸時の補助汽船1隻使用を基本とした)。バウ・スラスターとは船首の水面下に横方向に開けたトンネルに横方向に推進力を出すプロペラを設備したもので、これにより船首を真横に動かすことが可能になった。

 さらに機関の配置が大きく変わった。これまでは一台の主機関で1本のシャフトとプロペラを回すというのが基本であった。それを1つのプロペラに4機ずつの主機関を設備し、通常は3機ずつで運航し、、最悪の場合でもうち2機ずつで運航できるようにした。これによって機関に余裕が生じたため、万が一の機関故障でも別の機関を使えば運航でき、さらには営業運航しながら一部の機関を止めて保守・点検が出来るようになった。つまり機関の停止が必要な定期検査も航行中にローテーションで行うことも可能となったため、検査による運用離脱の必要も年1回まで減らせるとされた…これをマルチ・プル機関という。
 さらにディーゼル機関の採用により、釜焚きの火手が必要なくなって大幅な人員削減が実現した。機関部員を中心に大幅に船員数は減ることになった。

 日本の商船で最初の「自動化船」も国鉄連絡船であった。高度経済成長による急激な輸送力増強のため、10両しか貨車を積めない車両渡船「第一宇高丸」「第二宇高丸」に変わる24両積みの客載車両渡船として、1961年(昭和36年)に宇高航路に就航した「讃岐丸」(初代・1828.89トン)であった。
 前述したように機関の操作を船橋から遠隔操作できるようにし、補助汽船の力を借りずに離着岸を可能とするなど当時の最新設備を取り入れていた。この船では推進装置に通常のねじ型プロペラでなく、V.S.P(フォイト・シュナイダー・プロペラ)を採用した。このプロペラは縦方向に回転軸を持った円盤に、下向きの羽根を4枚装備した形状のもので、そのプロペラの角度や回転軸を調整することによって前進や後進はもちろん、旋回やその場回頭、真横に動くという動作も可能であった。速度調整と操舵をまとめてプロペラで行うために舵までも姿を消したが、横方向の海流が強いときに舵を一定の方向にずらして直進する「当て舵操船」が出来なくなって、船はジグザグにしか動けないという情けない状況になってしまった。元々V.S.Pはタグボート向けに開発されたもので車両渡船のような大型船には向いておらず、「讃岐丸」の他は宮島航路の一部の一部に採用されただけで連絡船での採用は広がらなかった。
 さらに客室には鉄道部品を多用して建造費の安くすることに成功した。一等船室(旧二等)には「こだま型特急電車」(151系)の一等車(現在のグリーン車)の座席をそのまま使用し、二等船室(旧三等)には「東海型準急電車」(153系)の二等車(普通車)の座席をそのまま使用した。座席だけでなく、帽子掛、網棚、窓の固定具、天井板、化粧板まで鉄道車両の部品を流用し、本当に「鉄道連絡船」らしい船内になったと言われている。余談ではあるがこの「讃岐丸」以降、宇高連絡船の船名は四国各県の旧国名をローテーションで使うようになる。
 この「讃岐丸」の長所や短所が調べられ、その上で青函連絡船の新造船の仕様も決まっていった。

1 戦後の鉄道連絡船

 本章では青函連絡船の歴史を語る前に、戦後の国鉄連絡船の歴史を語ることから始めよう。

 1949年(昭和24年)6月に、日本の国有鉄道の管轄は運輸通信省〜運輸省による直接運営から、公共企業体である「日本国有鉄道(JNR・以後国鉄とする)」が設立されて、国鉄に運営が移管された。
 終戦時の国鉄連絡船は、関釜航路と稚泊航路が敗戦によって失われ、青函・宇高・関門・宮島の4航路のみとなった。戦後の国鉄連絡船の歴史は、新しい航路の誕生から始まる。

 終戦直後、山口県が県営で大畠と大島を連絡する航路を開いていたが、この航路が財政難と燃料の入手困難で運営が行き詰まっていた。この航路は「県道」の扱いだったために運賃は無料で値上げすることもできずに、山口県は終戦直後の悪条件に耐えられず国に航路を運営するように要請した。
 こうして1946年(昭和21年)4月に誕生したのが「大島航路」(大島連絡船)である。大畠駅で山陽本線と、大島桟橋では国鉄バスと連絡する立派な「鉄道連絡船」となった。
 国鉄は前運営者である山口県から「山口丸」「第二山口丸」を譲り受け、さらに宮島航路から「七浦丸」(初代)を転属させて運航を開始した。譲り受けた「山口丸」「第二山口丸」は老朽化が激しかったため、新造船を建造して対応することになり誕生したのが「五十鈴丸」「玉川丸」「五月丸」の3隻である。この3隻は純粋な新造船でなく、敗戦により解体された日本海軍が放置した船を改造したものである。「五十鈴丸」「玉川丸」は元魚雷運搬船、「五月丸」は海軍運貨船であった。うち「五十鈴丸」はすぐに他航路に転属になる。
 その後、1961年(昭和36年)6月に新鋭のカーフェリー「大島丸」(初代・257トン)が大島航路に登場、「玉川丸」「五月丸」は引退して大島航路はカーフェリーとして航路が生まれ変わった。ところがこれが「大島丸」にとってこれが仇となった。5トン以内の自動車一台しか積めなかったので、自動車の普及によりすぐにに対応できなくなったのだ。この頃には民間の船会社が瀬戸内海のいろいろな島へカーフェリーを運航するようになり、自動車航送台数の少なさは国鉄航路の大きな欠点となっていた。
 1964年(昭和39年)、「大島丸」は登場から僅か3年で大島航路から他航路へ転属。変わって宮島航路から「みやじま丸」(二代目)を転属してくると同時に、自動車6台を搭載できる「周防丸」(89総トン)を就航させた。さらに「みやじま丸」に少しずつ改造をくわえて3年かけて自動車搭載数を1台から2台に増やすと同時に二代目の「大島丸」を襲名して活躍したが、すぐに代船建造が計画された。
 1970年(昭和45年)3月、自動車15台と350人の乗客を運ぶ本格的なカーフェリーで、大島航路の決定版となる三代目の「大島丸」が就航。二代目「大島丸」は引退して「周防丸」は予備船となった。

 大島航路とほぼ同じ頃に誕生した鉄道連絡船がもうひとつある。
 国鉄は鉄道省時代から宇高航路以外に、本州・四国連絡航路がもう1本必要と考えていた。これは有事の際に航路が一本だと壊滅的な被害を受けたときに完全に連絡が途絶してしまうという不安があり、さらに宇高航路だけでは輸送力が不足して抜本的な対策を立てる必要があったのだ。鉄道省は瀬戸内海全体に渡り詳細な調査をし、広島県の仁方駅(呉線)と愛媛県の伊予北条駅(予讃本線)を結ぶのが妥当と結論を出した。
 ところが関門トンネルが開通して関森航路の「関門丸」5隻が宇高航路に転属すると、宇高航路の輸送力増強が実現する。さらに戦局が悪化してくると新航路の開設どころではなくなり、宇高航路のバイパス航路の構想は立ち消えになってしまった。
 戦後、本州と四国を結ぶ唯一の鉄道連絡船であった宇高航路に人々が殺到し、混乱していた。そこで国鉄はこの航路計画を復活させることにした。四国側の桟橋を海流等の都合で伊予北条から西へずらして堀江駅に選定し、「仁堀航路」として運航を開始することになった。
 1946年(昭和21年)5月1日、宇高航路に次ぐ第二の四国連絡航路として仁堀航路の運航が始まった。当初は関門航路にいた「長水丸」(410トン)を転属させて対応したが、航路開設と同時に活況を呈して連絡船は常に満員の状況であった。すぐに「長水丸」1隻では対応できなくなって、国鉄は旧陸軍の曳船「映海丸」を客船に改造して投入。ところがこの船は短い区間をピストン輸送する仁堀航路には合わず、代船として宇高航路の「水島丸」を転属させて対応した。
 1951年(昭和26年)、「長水丸」「水島丸」に代えて大島航路にいた「五十鈴丸」を仁堀航路に配置。「長水丸」「水島丸」より性能がよかったため、スピードアップが可能になった。2隻はそれぞれ元の航路に帰っていった。
 ところが仁堀航路が常に満員の客を乗せていたと言っても、旅客の内容に問題があった。殆どの旅客が四国へ帰る復員者や、ヤミ米やヤミ塩と果物を物々交換する行商人であった。戦後の混乱が落ち着くと同時に利用客は潮が引くように減って、僅か数年で最盛期の1割にまで急激に輸送量が落ち込んだ。1950年代になると民間フェリーの復興も進み、桟橋の立地が不利だったこともあって民間との競争からも取り残される状況となった…既に1950年代初頭に部内に廃止論が出始めていたといわれている。
 1964年(昭和39年)12月、仁堀航路・宮島航路・大島航路を運航していた広島鉄道管理局は、連絡船合理化対策として大幅な船の配置転換を行った。仁堀航路の「五十鈴丸」を宮島航路へ、宮島航路の「みやじま丸」を大島航路へ、大島航路の「大島丸」を「安芸丸」(初代)と改称の上、仁堀航路へ転属させた。これは大当たりで、仁堀航路は自動車航送数で命を繋ぐことになる。すぐに自動車航送力が不足し、「安芸丸」の一等客室を撤去して新たに8台分の自動車航送スペースを確保した。しかし、一般旅客の輸送量は伸び悩み、慢性的な赤字に苦しむことになる。

 宮島航路でも新たな動きがあった。国有化されて以降新造船の投入がなく、1901年(明治34年)建造の「弥山丸」「七浦丸」が活躍していた。この2船は1920年(大正9年)に関門航路から来た転属船で、老朽化が問題になっていた。
 そこで国鉄は宮島航路に新造船の投入を決定、1954年(昭和29年)に242トンの客船を発注した。山陽鉄道が航路を開設した際に新造した「厳島丸」以降において、初の宮島航路への新造船となった「みやじま丸」(初代)である。「弥山丸」「七浦丸」は予備船に格下げされ、「みやじま丸」は所要時間12分で航路をピストン輸送した。
 1960年代になり自動車の数が増加すると宮島航路での自動車航送の要望が高くなり、1962年(昭和37年)に「みやじま丸」をカーフェリーに改装して自動車1台の積載が可能となった。自動車航送開始によって「みやじま丸」の運行効率が低下するため、8〜12トン・定員12人の木製小型自動艇(いわゆるモーターボート)「みゆき」「みさき」「かざし」の3船を投入して運行本数を確保した。
 1964年(昭和39年)に広島鉄道管理局の連絡船合理化策により「みやじま丸」は大島航路に転属し、代わりに仁堀航路から「五十鈴丸」が転属してきた。続いて宮島航路に新造船を投入することが決まり、3隻のカーフェリーが発注された。それが「山陽丸」(二代目)「みやじま丸」(二代目)「みせん丸」である。120〜160トン、定員200〜300人、自動車は1〜2台の搭載が可能で、「山陽丸」のみ一等船室の設定があって一隻ずつしか配備船のない大島航路や仁堀航路の共通予備船としても活躍することになる。

 関門トンネル開業により車両航送による貨物輸送専門の関森航路を失った関門航路は、戦前からの「豊山丸」「長水丸」「下関丸」の3隻で関門トンネルの旅客輸送を補完する輸送をしていた。関門トンネル開通後の下関・門司の両駅が市街地から離れてしまったため、両市街地間を結ぶ交通機関として生き残ったのである。戦後すぐに3隻ともカーフェリーに改装され、1947年(昭和22年)からは自動車航送を開始した。
 1953年(昭和28年)6月28日、北九州一帯を襲った集中豪雨は濁流となって関門トンネルを襲った。幸い通過中の列車はいち早く異変に気付いた機関士の機転により脱出、列車水没という大惨事は免れたが、関門トンネルは1800メートルにわたって水没して長期に渡って不通となる事態となった。トンネルの排水ポンプは泥が詰まって使用不能となり、9万立方メートルもの水を吐き出すために日本各地から排水ポンプが集められ、保線員が線路に溜まった泥を手で掻き出した。7月13日夜に当時の国鉄総裁自らが乗った試運転列車を運転、その後電気関係の復旧が進んで営業列車の運転再開は7月19日となった。
 この間、関門航路が関門トンネルの代行輸送を担うことになる。3隻の在籍船に宮島航路の「七浦丸」が手助けに加わり、旅客や手荷物をピストン輸送した。往年の本州・九州連絡航路としての関門航路が復活したひとときであった。
 だが1958年(昭和33年)に国道関門トンネルが開業したことで、利用客は減少の一途をたどることになる。旅客の減少による赤字が累積し、国鉄は関門航路の廃止を決定した。1964年(昭和39年)10月31日、東海道新幹線開業や東京オリンピック開催といった華やかなニュースの陰でひっそりと、国鉄関門航路は廃止されて63年の歴史に終止符を打った。同時に「豊山丸」「長水丸」「下関丸」は売却された。

 宇高航路は本州・四国間輸送の大動脈として成長していった。1947年(昭和22年)〜1948年(昭和23年)にかけて、新造客載車両渡船「紫雲丸」「眉山丸」「鷲羽丸」の3隻が就航。それまでの客船と第一〜第五「関門丸」は全て他航路に転属するか売却されるかの運命をたどった。さらに1953年(昭和28年)には大型車両渡船「第三宇高丸」が就航し、客載車両渡船3隻と車両渡船3隻による輸送体制が整った。なお「第三宇高丸」は国鉄連絡船で始めて船体色を今までの白と黒のツートンから、白と緑のツートンとしたカラー船であった。
 1955年(昭和30年)5月11日朝、旅客781名と貨車15両を積載して高松を出港した「紫雲丸」は、出港して間もなく高松に入港するために転進した「第三宇高丸」と衝突、「紫雲丸」が瞬時に沈没して修学旅行中の小学生を中心に168名の犠牲者を出す事故を起こした。前年に「洞爺丸」事故を起こしたばかりの国鉄はさらに糾弾され、当時の国鉄総裁が引責辞任する事態となった。国鉄はこの事故に鑑み、航路の上下分離など徹底的な再発防止策を採ることになる。「紫雲丸」は引き揚げられて修理され、船名を「瀬戸丸」(初代)に改めた。
 1961年(昭和36年)になると車両渡船「第一宇高丸」「第二宇高丸」の2隻が老朽化したために、代船として投入されたのが「讃岐丸」(初代)である。「洞爺丸」「紫雲丸」の事故の教訓を最大に活かすと同時に、あらゆる操船操作を自動化した「自動化船」の第一船である。詳細は序に記した。

 このような歴史の上、1964年(昭和39年)まで国鉄連絡船は青函・宇高・仁堀・宮島・大島・関門の6航路で戦後最大の陣容となっていた。関門航路はすぐに廃止されたが、青函航路のみでなく国鉄の鉄道連絡船の歴史そのものが戦前の大輸送期に続く二度目の黄金時代であった。

2 「津軽丸」型客載車両渡船就航

 昭和30年代初頭、高度経済成長の影響を受けて津軽海峡を横断する旅客と貨物が急激な伸びを示し始めた。戦後の貧しい時代は終わりを告げ、日本は未曾有の好景気に沸いたのである。好景気は物流を刺激して貨物輸送量を伸ばし、人々の生活が裕福になって旅行ブームが訪れた。5年間で旅客は5割、貨物は3割もの伸びを示し、1960年(昭和35年)頃から青函連絡船の輸送力は不足し始め、近い将来輸送が破綻することが目に見えてきた。
 ところが連絡船は一部を除いて戦時中から戦後にかけて建造されたもので、当時の最先端技術で作られたとは言え物資不足の中で作られたものが多く、次第に不備な点が目立つようになってきた。
 当時の青函連絡船の陣容は、洞爺丸型客載車両渡船「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」、洞爺丸の代船として建造された客載車両渡船「十和田丸」、W型改造の客載車両渡船「第六青函丸」「第七青函丸」「第八青函丸」の3隻、W型車両渡船「第十二青函丸」、H型車両渡船「石狩丸」、北見丸型車両渡船「渡島丸」「十勝丸」「日高丸」、檜山丸型車両渡船「檜山丸」「空知丸」、総勢客載車両渡船7隻と車両渡船7隻の計14隻であった。「十和田丸」「檜山丸」「空知丸」の3隻はディーゼル機関を採用していたが、他の船はすべて蒸気タービン船であった。そのうち「羊蹄丸」「摩周丸」「大雪丸」の3隻は重油炊ボイラーに改造されており、無煙化の一端を担っている。
 洞爺丸事故後に建造された「十和田丸」「檜山丸」「空知丸」の3隻を除き、どの船も戦時中〜終戦直後に作られたもので、老朽化と設備の不備、それに故障が増えて維持費がかさむようになってきた。さらに戦後の新技術の導入や洞爺丸事故の再発防止対策のため、改造を重ねたことも老朽化を早めた一因となっていた。

 国鉄では青函連絡船のみならず、他の航路についても似たような現状が続いており「連絡船船室調査委員会」を発足して連絡船各航路の実態について本格的な調査をしていた。委員会はこれら終戦前後に作られた連絡船を今後も長期に渡って使用するのは得策ではないと国鉄側に答申し、各航路の連絡船の総取り替えを決定した。序項で紹介した宮島航路、仁堀航路、大島航路の新造船も、この委員の答申に従って建造したものもある。
 1961年(昭和36年)1月、国鉄部内に「青函連絡船取替委員会」が発足。青函航路の実状、連絡船各船の現状を調査して、審議の結果1965年(昭和40年)までに青函連絡船のうち9隻を6隻の大型高速客載車両渡船に置き換えることを決定した。
 具体的にいうと1964年(昭和39年)度中に3隻を建造し、洞爺丸型2隻とW型1隻を置き換える。翌年度にさらに新造船3隻を建造して、洞爺丸型1隻、北見丸型1隻、W型2隻、H型1隻を置き換える。洞爺丸事故で被災した際に大修理をを行った「十勝丸」「日高丸」、洞爺丸事故後に建造された「檜山丸」「空知丸」「十和田丸」は当面そのまま使用するという内容だ。
 そして新造連絡船は当時の先端技術の粋を集めた最新鋭船とし、機関部を中心に大幅な自動化と合理化を図って船員数を減らすことによって運航費を節約できるものとする…これについては人員削減反対ということで労働組合側から猛反発を食らい、その交渉と調整に手間を喰うこととなる。
 旅客定員は1200人程度、当初は船室を二等(それまでの三等)のみとすることも考えたが、結局は運行を開始したばかりの特急列車に合わせて一等・二等の二等級とすることとなった。さらに遊歩甲板上に自動車を積載する設備をいつでも追加出来るよう準備工事がされ、将来の自動車航送に備えた。
 連絡船の設計は順調に進み、1963年(昭和38年)5月に第一船の建造に着手した。

 当時の青函連絡船は、本州と北海道を往復するほぼ全ての旅客と貨物で溢れていた。多くのビジネス客や観光客が連絡船で海峡を行き来していたのみならず、終戦直後の混乱が収まって時は経ていたものの「かつぎ屋」と呼ばれるヤミ行商人の姿はまだ残っていた。
 1958年(昭和33年)、東京・青森間に東北地方初の特急列車「はつかり」が、連絡船夜行便接続のダイヤで運行を開始した。1961年(昭和36年)には北陸本線経由で大阪と青森を結ぶ特急「白鳥」が新設され、「はつかり」と同じく青函連絡船夜行便に接続するダイヤが取られた。「白鳥」運行開始と時を同じくして、北海道側でも函館・旭川間に特急「おおぞら」(現在の「北斗」に相当)が、「はつかり」「白鳥」と青函連絡船夜行便を介して接続するダイヤで運行開始された。これら特急列車の列車番号は下りが「1」、上りが「2」で揃えられ、接続する青函連絡船夜行便の便名も下りが「1便」、上りが「2便」と揃えられた。
 「はつかり」は当初は蒸気機関車牽引の客車列車での運転であったが、1960年(昭和35年)に国内初の気動車特急となるキハ81系に置き換えられた。「白鳥」「おおぞら」は、当初からキハ81系を改良したキハ82系という気動車特急で運行された。「はつかり」「白鳥」は後に電車化されるが、北海道では当時から現在に至るまで気動車で運転されている。いずれにしても、こうして世はスピード時代に移り変わって行ったのだ。
 連絡船はこの高速特急列車を連絡する重要な役割を持つこととなり、さらに連絡船には海峡を渡る人が押し寄せた。青森・函館の両駅には列車から連絡船へ、或いは連絡船から列車へ、よりよい座席を確保しようと桟橋通路を猛スピードで走る人々の姿が長距離列車や連絡船が到着するたびに見られるようになった。
 春になると、故郷を離れて都会へ出てゆく人との別れのシーンが連絡船で日常的に見ることができた。出港5分前に給士が銅鑼を鳴らして船内を回ると、見送りの人々は出港が近いことを知り後ろ髪を引かれるように船を下りる。出港時に「蛍の光」が流され、五色のテープが桟橋と連絡船の間に数多く舞うのが見られた。テープは一本また一本と千切れ、故郷に残る人々と新たな思いを胸に旅立つ人の最期の繋がりをゆっくりと断ち切る。
 そんな乗客達の姿も、青函連絡船の黄金期を飾るに相応しいものであった。

 1964年(昭和39年)、日本は東京オリンピックへ向けての好景気に沸いていた。国鉄でも東海道新幹線の建設、主要路線の電化工事や複線化工事など近代化が進んでいた。
 この年の春、白と濃紺に塗り分けられた新品の船が函館港に入港した。この新しい船を一目見ようという市民と、労働組合の合理化反対の赤い旗に出迎えられての入港であった。国鉄が誇る最新鋭連絡船で、青函連絡船の大型高速連絡船の第一船となった客載車両渡船「津軽丸」(二代目・5319.71トン・JQUW)である。今までの車両渡船の中で最大の大きさを誇り、その堂々とした姿は見る人を圧倒した。既に同型船が6隻(最終的には7隻となる)建造されていて、この型の連絡船を「津軽丸型客載車両渡船」という。

 「津軽丸型客載車両渡船」の詳細を説明しよう。
 船体は全長132.0メートル、全幅17.9メートル。船影は当サイトの写真展示のページにあるのでそちらをご覧頂きたい。定員は一等(グリーン船室)330人、二等(普通船室)870人の1200人。貨車は4本の線路にワム型貨車48両の積載が可能であった。
 機関はマルチプルタイプのディーゼル機関方舷4機ずつ合計8機搭載し、防振対策を厳重に施して設置された。出力は1機当たり1600馬力、通常航海速力は18.2ノットでこれは青函連絡船最初の「比羅夫丸」型以来のスピードであった。なお試運転時の最高速力は20.6ノットであった。操船は徹底的な自動化が図られ、船員数は「洞爺丸型」で125名必要だったのが、「津軽丸型」では49名にまで削減された…労働組合が騒ぐのも無理はない。
 船内は5層になっていた。最上部は屋上に当たる「航海甲板」、最前部に船橋と通信室があり、中央と後部に煙突があるだけで広大な甲板となっていた。
 その下が「遊歩甲板」、ここは一等区画である。最前部は上級船員室、続いて4人1組のコンパートメントの一等寝台船室、寝台船室用の手洗い洗面台を挟んで一等指定席があった。一等指定席はひとり掛けのリクライニングシートが並び、座席はレッグレスト・フットレストが装備された国鉄最高級座席であった。続いて一等広間、ソファが並んだロビーで一等客用売店も設置されていた。後半分は中央を境に二つに分かれており、左舷側は一等桟敷船室(自由席)、右舷側は一等椅子席(自由席)である。椅子席は特急列車の一等車と同じふたり掛けのリクライニングシートが並んでいた。最後尾と外周部は遊歩甲板となっており、旅客はここで海に触れあうことが出来た。遊歩甲板最後尾は自動車搭載設備の準備工事がされていて、詳細は後述するが後にここに自動車が積み込まれることとなる。
 その下が「船楼甲板」、二等船室区画で一般的な旅客の空間である。最前部は船員室、続いて二等客用の手洗いと洗面所が続く。船室内は中央を境に左右に分かれており、左舷側が二等椅子席、右舷側が二等桟敷席となっていた。二等椅子席は北海道の気動車特急(キハ82系)の二等車と同じ座席を船舶向けに改良(回転機能を廃し、座面下に救命胴衣を格納できるようにした)して使用した。中央部左舷には入口広間があって売店と事務案内所が設備されており、中央部右舷には食堂があった。なお後年の改造で、中央部の入口広間より後方の船室は全て桟敷席に改造され、このスペースは「後部大部屋」とも称されるようになる。
 客室区画は以上で、以下は「車両甲板」と「第二甲板」である。車両甲板は4線の線路が敷かれているだけの広大なスペースで、船内いっぱいのスペースをとった。第二甲板は機関室と一般船員室である。

 1964年(昭和39年)5月10日、「津軽丸」は「第六青函丸」を置き換える形で就航した。大型で快適な連絡船は好評で、あっと言う間に人気者となって「海峡の女王」の名を欲しいままにした。
 続けて8月12日に第二船「八甲田丸」(5382.65トン・JRRX)が就航し、「大雪丸」「摩周丸」の2隻が代わりに引退した。「八甲田丸」はかつての「十和田丸」で好評を博した淡い緑色とクリームの塗り分けで登場、「津軽丸型」では外舷塗装の塗り分けを建造する造船会社に一任したのであった。
 12月1日には「松前丸」(二代目・5376.32トン・JMTO)が就航、外舷塗装は緑色とクリームの塗り分けであった。「松前丸」は「第八青函丸」を置き換えた。
 1965年(昭和40年)になると、5月16日に「大雪丸」(二代目・5375.99トン・JPBI)が「第七青函丸」を置き換える。「大雪丸」の塗装は「八甲田丸」と同じ淡い緑とクリーム…ここで問題になったのは同じ緑系の塗装を採用した連絡船が3隻続いた上、残りの2隻も緑系の色で建造されていることが判明したことであった。ここで国鉄は塗り分けを造船所に一任するのを中止し、仕様に塗り分けも盛り込むことになった。残りの船も既に塗装も進水も済んで完成直前であったが、慌てて塗り替えられることになった。後に「津軽丸」は灰色、「八甲田丸」は黄色、「松前丸」は黄緑色、「大雪丸」は濃い緑色、という風に船体の下半分の塗装が塗り替えられることになった。この塗り分けは船名識別に役立ち、これまでと違い遠目にも船の識別がつくようになった。
 こうして6月30日に「摩周丸」(二代目・5363.33トン・JHMI)が就航、外舷塗装は当時開業したばかりの東海道新幹線に合わせた青色と白の塗り分けとした。「摩周丸」は「羊蹄丸」「第十二青函丸」を置き換え、ここに戦後の青函連絡船を支えてきた「洞爺丸型客載車両渡船」とW型の全船が引退した。
 8月5日に「羊蹄丸」(二代目・5375.93トン・JQBM)が就航、外舷塗装は在来線特急列車に合わせた赤色と深いクリームの塗り分け。「渡島丸」「石狩丸」を置き換えて「津軽丸型」は全船が出そろった。

 「津軽丸型」6隻が全船出揃い、在来の「十和田丸」「檜山丸」「空知丸」「日高丸」「十勝丸」とともに青函連絡船の一員としての活躍が始まった。当初は足慣らしの意味も含めて在来船と同じ17ノットで青函間4時間半で航行していたが、1965年(昭和40年)10月のダイヤ改正を機にスピードアップし「津軽丸型」を使用した便について18ノット青函間3時間50分・停泊55分で1船1日2往復半に改められた。運行回数は23往復となり、輸送力を大幅に増加させた。

 この「津軽丸型客載車両渡船」が青函連絡船廃止のその日まで、「海峡の女王」として津軽海峡に君臨することになる。

3 「渡島丸型」車両渡船就航

 「津軽丸型」の大量投入によって輸送力を大幅に増加させた青函連絡船であったが、それに対する需要の伸びの方が上回っていて、「津軽丸型」投入後もそのまま無策であればすぐに輸送力が不足することが明白になった。
 そこでさらに大型高速の車両渡船が必要と判断されて、「津軽丸型」を1隻追加発注して捻出される客載車両渡船「十和田丸」の客室を撤去して車両渡船に改造する工事をすることとなった。
 さらに「洞爺丸事故」の影響で引き揚げ修理直後だったために置き換えが見送られた「日高丸」「十勝丸」についても、大型高速の新造船3隻に置き換えることとした。ここで置き換える連絡船は旅客を乗せない車両渡船とする計画となり、「津軽丸型」から客室部分を省略したタイプの新たな車両渡船を設計することとなった。

 まず「津軽丸型」の追加発注船が1966年(昭和41年)11月1日に「十和田丸」(二代目・5397.59トン・JMUK)として就航、塗り分けは橙色と白。入れ替わりに初代「十和田丸」は「洞爺丸」の代船として登場して僅か9年でピンチヒッターとしての役割を終えて車両渡船に改造すべくドック入りとなり、「石狩丸」(二代目・3366.51トン)として1967年(昭和42年)5月に再就航した。二等客室はすべて撤去され、車両甲板の線路数を4本に増やしてワム型貨車43両の積載を可能とした。一等船室の後半分は広大な甲板に、前半分は船員室に改造された。端艇甲板にずらりと並んだ救命ボートは1隻を除いて撤去され、乗客で賑わったかつての初代「十和田丸」の面影はどこにもなかった。

 続いて新型の車両渡船の設計が始まった。当初は「津軽丸型」の客室部分を省略しただけのものを考えていたが、貨物輸送部門から隘路解消のため貨車航送数を増やして欲しいという強い要望があった。そこで序章にも記したとおり、全長が「津軽丸型」の132メートルからさらに伸ばされることとなった。はじき出された数値は、全長144.6メートル、全幅18.4メートル、貨車積載数ワム型貨車55両。国鉄連絡船としては戦中に登場した関釜連絡船「天山丸」型を凌いで最大を誇ることとなった。青函連絡船では桟橋設備の関係からこの大きさでは一部桟橋にしか着岸出来ないなどの使用制限が生じることとなり、これ以上大きな船を作ることは不可能である。

 1969年(昭和44年)秋、大型高速車両渡船の第一船「渡島丸」(二代目・4075.15トン・JFLQ)が津軽海峡に姿を現した。この形式の船を「渡島丸型車両渡船」という。
 細長くて美しい流れるような船体、白と橙色に美しく塗り分けられた外舷…中央にどっしり構えた太い煙突はその細長い船体に不思議にマッチしていた。実用本位に造られた船であるがとても美しくもあり、筆者はこの「渡島丸型」こそが日本の鉄道連絡船で最も完成された車両渡船と信じている。
 全長は144.6メートル、全幅18.4メートル、貨車積載数ワム型貨車55両、その数値は国鉄連絡船の車両渡船最大のものとなった。機関関係や性能は「津軽丸型」と同一で、18.2ノットで青函間を3時間50分のダイヤで結んだ。後半分に広大な甲板があったが、設計ではここに国鉄型の5トンコンテナ(現在のJR貨物標準のコンテナ)を最大50個積載することにしていた。青函連絡船の車両航送がパンクした際に、コンテナによる貨物輸送を計画していたのである。

 「渡島丸」は同年10月1日に初代「日高丸」を置き換えるかたちで就航した。圧倒的な輸送力は他船を凌駕し、輸送力増強が追いついていない現況であった青函航路は同型船の一刻も早い第二船以降の登場を心待ちにしていた。
 翌1970年(昭和45年)春に「渡島丸型」の第二船である「日高丸」(二代目・4089.04トン・JBRK)が函館港に到着、4月5日に就航して最後の蒸気タービン船であった初代「十勝丸」を置き換えた。1908年に「比羅夫丸」が採用し、青函航路標準として長年にわたって愛用された蒸気タービン機関は、62年目でついに青函航路から姿を消したのである。
 さらに同年6月30日には、「渡島丸型」第三船である「十勝丸」(二代目・4091.73トン・JCAO)が就航した。これを機に貨物船でも所要3時間50分・停泊55分で1船1日2往復半のダイヤが引かれることになり、青函航路はさらなる輸送力増強が実現した。

 1970年(昭和45年)夏の青函航路の陣容は、「津軽丸型」が「津軽丸」「八甲田丸」「松前丸」「大雪丸」「摩周丸」「羊蹄丸」「十和田丸」の7隻、「渡島丸型」が「渡島丸」「日高丸」「十勝丸」の3隻、「檜山丸型」が「檜山丸」「空知丸」の2隻、それと改造車両渡船「石狩丸」のあわせて13隻である。「津軽丸型」就航前は総勢14隻であったから船の数は減ったが、輸送力は大幅に増加した。

 同時期に宇高航路にも大型新造客載車両渡船「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」の3隻が、在来の「瀬戸丸」「眉山丸」「鷲羽丸」を置き換えた。国鉄連絡船は戦後のイメージを払拭し、色とりどりの連絡船によって高度経済成長の大輸送に立ち向かうこととなったのである。

4 輸送力強化・最大36運行計画

 「津軽丸型」「渡島丸型」の新造連絡船を大量投入しても、青函間の輸送力は不足してパンク寸前の状態が続いていた。特に下り貨物の需要の伸びが極端に高く、貨物輸送実績は1960年(昭和35年)から1970年(昭和45年)の10年間で倍もの伸びを示した。旅客も同時期に4割増という伸びを示し、旅客扱い便もダイヤ改正の度に増やされていった。
 1964年(昭和39年)のダイヤ改正で、東北本線初の寝台特急「はくつる」の運転が開始された。同時に北海道側でも特急列車が増発され、青函航路の下り早朝便・上り深夜便を介して札幌方面への特急に接続するダイヤで運転された。特急列車による東京・北海道連絡ダイヤが前述の昼行特急「はつかり」〜青函連絡船夜行便〜北海道特急に続いて2本できたことになり、これが青函航路の旅客増に拍車をかけることになる。東北本線寝台特急「はくつる」は好評で連日満員となり、翌年には仙台まで常磐線経由の「ゆうづる」も誕生する。
 ちなみに「はくつる」「ゆうづる」は蒸気機関車牽引の客車列車でスタート、後に蒸気機関車は電気機関車に代わり、「ゆうづる」の一部以外は電車化されることになる。さらに「ゆうづる」は青函トンネル開業後に札幌直通の寝台特急「北斗星」に発展解消し、2010年代の北海道新幹線開業直前まで運行が続くことになる。

 さらに青函連絡船に新しい積み荷が加わることになる…それは「自動車」であった。モータリゼーションの波は津軽海峡にも訪れ、1960年代に入ると青函間でも民間によるカーフェリー運行が始まっていた。当時、道南海運、青森商船、共栄運輸の3社が青函間にカーフェリーを運航していたが、主に運送会社の長距離路線トラックを運んでいて一般の乗用車が気軽に乗れるものではなかった。さらに所要時間も長く、荷役にも時間がかかっていたので青函間に10時間以上要した。そのため、マイカーの運転者から「国鉄連絡船による自動車航送」の要望は多かった。船の性能が良いのでスピードアップできること、欠航率が低く安定した輸送を確保できること等が理由であった。
 そこで国鉄は青函航路にカーフェリーの要素をつけ加えることとし、「津軽丸型」では遊歩甲板後部に自動車積載の準備工事を施して建造した。ところがこの動きを知ると青函間でカーフェリーを運航していた船会社から「民業圧迫」だとして猛反対の声が上がり、特に新造船を就航させたばかりの道南海運の反対は猛烈だったという。
 国鉄はそれらの船会社との交渉に乗り出した。津軽海峡を横断しようとする自動車は今後も増えるはずで、国鉄連絡船のカーフェリー進出は新たな需要を掘り起こして、共存共栄が計られるのは間違いない。折衝の結果、これらの船会社から同意を得ることができて、早速函館・青森の両桟橋に自動車航送用のスロープやエレベータといった設備の建設を開始した。同時に「津軽丸型」7隻の遊歩甲板後部に自動車用の固定金具や、金具を固定するロープと着脱式の自動車用車止めを設置し、自動車6台の搭載を可能なスペースとしたのである。「津軽丸型」ではこれらの器具をいつでも取り付けられるように準備工事がされていたので、工事は短期間で終わった。
 1967年(昭和42年)6月1日0時01分、遊歩甲板後部に自動車6台を乗せた「十和田丸」が青森港を出港した。青函連絡船が自動車航送を開始し、新たにカーフェリーとしての役割も担った瞬間である。当初は他社路線に運航便がない時間を狙った1日2往復のみであったが連絡船の自動車航送は好評で連日満員となり、これに伴って他社でも自動車航送実績が伸びて行く。すぐに自動車航送扱い便の設定が増やされ、遊歩甲板の自動車積載区画も広げられて最終的には1隻12台まで搭載が可能となった。しかし遊歩甲板に露天積みだったため、冬季の時化では自動車は津軽海峡の荒波を頭からかぶることになり、吹雪の日は自動車が雪で埋まる事態も発生している。後年、国鉄は自動車航送利用者に洗車のサービスなどを行うことになる。

 1968年(昭和43年)5月16日9時46分、北海道襟裳岬南東120キロ、深さ40キロを震源とするマグニチュード7.9の強い地震が発生。東北・北海道に大きな被害を与えた「十勝沖地震」である。青函航路も大きな被害を受け、青森の3完璧、函館の2岸壁、有川桟橋の2岸壁すべてが被災して運航不能となった。
 地震と共に津波警報が発令され、運航中の連絡船は全て沖で待機となった。着岸していた連絡船も急いで沖に出され、津波に対して万全の体制で臨んだ。地震発生から約1時間で津軽海峡に津波が来襲、その後8時間以上に渡って何度も押し寄せた。沖で待機となった連絡船では乗客に食事を提供し、地上の情報を逐一乗客に告げていた。夕方には津波の危機も去り、連絡船は旅客が乗っている船を優先的に被害の少なかった函館第一岸壁と青森第一岸壁に着岸させて徐々に運航を再開したが、桟橋設備が破壊されて通常運航とはいかなかった。
 全ての岸壁で応急修理が施され、5月18日までに青森の全岸壁が使用可能に、5月20日までに函館・有川の合わせて4岸壁のうち3岸壁までが使用可能になって徐々に運航便数を通常に戻そうとした。
 ところが、函館第二岸壁は壊滅的状況であった。可動橋や乗船タラップの主塔が大きく傾いたり沈下し、自動車航送設備についてもほぼ全滅、待合室から桟橋への旅客通路も破壊されて使用不能となった。自動車航送は第二岸壁でしかできなかったため、当面の間自動車航送を中止する方向で応急修理し、5月21日に桟橋設備が機能を回復して旅客は団体客のみ扱いということで復旧して、同時にほぼダイヤ通りの運航が可能となった。可動橋設備やタラップの老朽化は既に問題になっていたので、その後一部の便を欠航させながら本復旧工事と共に新技術を取り込んだ大幅な改良をし、廃止時まで続く設備がこの時に出来上がることになる。
 自動車航送設備の復旧にはさらに時間を要し、取扱再開は地震発生から半月以上が過ぎた6月4日であった。
 さらに函館・青森共に桟橋待合室が地震で大破してしまった。青森は応急修理をして使用できるようになったが、函館では桟橋待合室の建物そのものが倒壊して応急処置も出来ないような状況で、第一岸壁の旅客通路にベンチを並べて仮待合室として応急的に使用するしかなかった。被害状況を調査した結果、双方の桟橋待合室の本復旧は建て替え以外にないと判断され、それまでの待合室は撤去して新しい待合室を建設することになった。双方とも鉄筋コンクリート3階建ての新しい待合室として生まれ変わることになり、7月に着工して急ピッチで工事を進め、青森は12月25日、函館は12月1日から新しい待合室の共用を開始した。この桟橋待合室も青函航路廃止まで使用されることとなる。
 こうして、青函連絡船は大震災というピンチも乗り越えた。

 同じ1968年(昭和43年)10月、国鉄が東京から順々に伸ばしてきた東北本線の電化が青森まで達し、東北本線の全線電化が実現した。同時に日本全国規模のダイヤ改正が行われ、東北本線の昼行特急は電車化と同時に大幅に増発することになった。上野・青森間の特急「はつかり」も増発され、青函連絡船夜行便接続列車の他に、東京対函館輸送を目的とした下り夕方便・上り午前便、下り深夜便・上り早朝便接続列車なども登場した。北海道の特急も東北本線の特急にあわせて増発された。
 同時に貨物列車も蒸気機関車牽引から電気機関車牽引に変わったため、大幅にスピードアップされることになった。青函連絡船の輸送力増強はこのダイヤ改正のためにあったのだが、すぐに輸送力が不足してきてしまった。

 青函連絡船のダイヤは停泊時間の見直し等で次から次への運行本数が増やされてきた。「津軽丸型」が出そろって3時間50分ダイヤが引かれたときに20往復、「十和田丸」を初代から二代目に置き換えて22往復、その後の見直しで23往復、「渡島丸型」就航で26往復…そして1972年(昭和47年)3月ダイヤ改正では28往復にまで便数が増えていた。そしてこのダイヤには貨物繁忙期に予備船も全て動員した30往復のダイヤが盛り込まれており、10月6日から31日までの貨物繁忙期にこの30往復のダイヤが実施された。一部時間帯を除いて函館・青森の両港から30分間隔に連絡船が出港し、船橋に立てば先行便も後続便も見えたという。貨物はそれでやっとさばいている状況で、旅客も溢れんばかりの人が集まっていた。旅客便だけでは運びきれず、「津軽丸型」で函館桟橋発着の貨物便に臨時に旅客を乗せたこともあった。
 1971年(昭和46年)度の青函航路の輸送実績は旅客497万人、貨物855万トンで「津軽丸型」就航前の輸送実績に対し旅客で36パーセント、貨物で44パーセント上回った。さらに輸送量は上昇傾向を示しており、15年後には旅客900万人、貨物1710万トンになると試算された。
 さらに輸送量が増えると試算されたため、国鉄では17ノットしか出せず足が遅い「檜山丸」「空知丸」「石狩丸」の3隻も「渡島丸型」に置き換えることを決定した。これが実現すると等速・高速連絡船が30分間隔に両港を出港し、最大36往復のダイヤが引けると計算された。しかし、これには港の港口付近で連絡船のすれ違いをしなければならず危険で、これを避けようとすると折り返し停泊時間を一部の便で45分にしなければならず、貨車の積み換え作業に無理が生じることとなる。よって具体的な計画は32往復止まりとなり、これが現状の設備による青函連絡船運行回数の限界と考えられた。32往復実現のために港内の浮標の位置の変更が必要で、新造船発注と並行して関係機関に届け出をした。
 造船所では、全船を18ノット3時間50分とすべく、追加発注した「渡島丸型」3隻の建造の準備が始まろうとしていた。本州から北海道へ渡る貨物と人の数はうなぎ登りに増え、青函連絡船の輸送は底なしで精一杯の輸送力増強策が必要であった。全ての計画は、さらなる輸送力増強に向けて動き出したのであった。

 1973年(昭和48年)度、青函航路の輸送実績は貨物は前年・前々年とほぼ同じであったが、旅客が更に増えて499万人となった。この頃には船客担当の船員は忙しくなり、いつしか船内の銅鑼は実演ではなくテープ放送に切り替えられた(なお別れの紙テープは、テープ受け渡しによる事故で乗客に死者が出て以降禁止になっている)。この年の8月5日、夏休みのせいもあって青函航路にはどっと人が押し寄せた。乗り切れなくなった旅客をバスで有川桟橋へ運び、有川発着の「津軽丸型」使用の貨物便に旅客を乗せた。この日の輸送人員は上り19080人、下り34560人を記録し、一日の輸送人員で航路最高記録となった。有川発着の便に旅客を乗せたのは、後にも先にもこの日限りである。

 しかし、この後に青函連絡船に起きる大きな変化を、誰も予測できるものはいなかった。ここまでが青函航路の「黄金時代」である。

5 青函トンネル着工

 青函連絡船が黄金時代を迎えていたこの頃、青函連絡船が津軽海峡から姿を消すことになる出来事が津軽海峡で始動することになる。それはいうまでもなく、青函連絡船の歴史を語る上でどうしても避けて通ることが出来ない青函トンネルの建設だ。

 津軽海峡に海底トンネルを掘って鉄道で直接結ぼう…この構想はずっと以前からあった。戦前の1939年(昭和14年)頃には関門トンネル建設によって技術的な自信をつけた鉄道省技術陣は、次の目標として津軽海峡と玄界灘に海底トンネルを掘ろうと考え始めていたという。
 この頃、日本では「亜細亜循環鉄道」という大構想があった。そのルートは東京から東海道・山陽本線に広軌の別線を建設、関門トンネルを通じて九州を経由し、玄界灘にトンネルを掘って対馬を経由して朝鮮半島に上陸、釜山・ソウル・平壌と朝鮮半島を北上し、途中で二手に分かれてひとつは北京から南京を経由して上海・香港に至り、もうひとつは長春を経てハルビンへ向かうという路線であった。
 この鉄道構想では、東京から大陸へもう一本の路線が考えられていた。これがは東京から東北本線を北上、「津軽海峡にトンネルを掘って」北海道へ上陸し、稚内から宗谷海峡トンネルで樺太へ渡り、さらに間宮海峡の一番浅い部分を埋め立てた上に線路を敷いてロシアに上陸、ハバロフスクを経てハルビンへ向かうという路線であった。ハルビンで合流したふたつの路線は、満州を経てシベリアに入り、シベリア鉄道経由でユーラシア大陸を横断して、最終的にはドーバー海峡トンネルを経由してロンドンへ直通するという壮大な構想であった。
 この構想を実現させようと、1940年(昭和15年)2月に玄界灘と津軽海峡に海底トンネルを掘ることを前提とした調査が行われることとなり、同時期に東海道・山陽本線の広軌別線計画も進んで「弾丸列車」計画として着工までこぎ着けた。
 処が大東亜戦争が勃発し、戦局が悪化すると「亜細亜循環鉄道」どころではなくなっていた。海底トンネル調査は中止され、建設が続いていた「弾丸列車」も日本坂トンネルや丹那トンネルの一部が完成しただけで建設は中止となった。関門トンネルだけは建設が進み、戦中に完成を見る。
 ここでの本題である青函トンネルはもちろんのこと、現在の日本の大動脈である東海道・山陽新幹線の構想もこの「亜細亜循環鉄道」大構想から産まれたのだ。双方とも戦争の激化で調査や建設は中断するが、戦後になって構想は復活する。青函トンネルについては後述になるが、「弾丸列車」については作りかけで放置されていた施設の一部が東海道新幹線に転用されて開通を見る。東海道新幹線と青函トンネルは計画は産まれた経緯や歴史を見ていると、兄妹であることが分かるだろう。

 大東亜戦争が終わり、アメリカの占領政策下で国鉄の技術者が集まって青函トンネルについての論議が始まっていた。戦後日本に残された国土の中で開発の余地があるのは北海道のみ、その北海道への物資を運ぶ大動脈である青函連絡船は空襲で壊滅状態にあった。その青函連絡船が復旧したとしても、いずれ輸送が行き詰まるという論は説得力があった。それから20年後の昭和40年代に、その予想は的中して青函連絡船は次々に新造船を投入しても輸送力が追いつかない事態になるのはまだ先の話。
 1949年(昭和24年)に運輸省内に非公式の「津軽海峡調査委員会」が設置された。海底地形図などの資料が集められ、距離の短い下北半島と汐首岬の間の海底は水深が深すぎてトンネル掘削は不可能と判断された。そのために津軽半島と渡島半島の間にトンネルを掘ることを前提に海底地形調査を行ったところ、津軽半島と渡島半島が尾根のような地形(鞍部)で繋がっていることが判明し、津軽海峡に海底トンネルを掘ることは可能と判断された。
 この鞍部は津軽半島の竜飛岬と渡島半島の白神岬の少し東側を結んでいる。現在の津軽海峡付近の地図を見ると、青函トンネルは海峡の最短部の海底を結んでいるのでなく、最短部の少し東側を通っていることが分かる。多少海底部が長くなったとしても、深い所を掘らずに済むようにこの鞍部にトンネルを掘った結果である。もし最短区間にトンネルを掘っていたら、水深250メートルという落ち込みに当たってトンネルの掘削は不可能であっただろう。
 しかし、日本を占領していた米進駐軍が青函トンネル調査を「不要不急」として調査中止命令を出してきた。このため青函トンネルの調査は打ち切られ、トンネル技術者たちも散り散りになってしまった。

 1952年(昭和27年)、サンフランシスコ講和条約により米進駐軍の占領政策から開放されて日本が独立国家としての道を歩み始めると、国鉄のトンネル技術者たちは再び一堂に会して青函トンネル建設の研究を開始した。
 それに追い討ちをかけるように、1953年(昭和28年)8月の国会は鉄道敷設法別表の「予定線」に「青森県三厩付近ヨリ渡島国福島付近ニ至ル鉄道」を追加し、国として青函トンネルを建設する意志を決定した。これを受けて海峡では本格的な調査を再開、ボーリングなどによる地質調査を開始した。
 1954年(昭和29年)9月26日、洞爺丸事故が起きた。国鉄に対する糾弾とともに、最大の事故再発防止策として青函トンネル建設の声が急速に高まった。当時の運輸大臣は現地を視察し「連絡船による形式が完全に解決できないとすれば、多数の乗客の安全を預かる当局として青函トンネルを実現させねばならない」と記者会見で語った。国鉄ではこの事態を受けて事故から5ヶ月後に「津軽海峡連絡隧道技術調査委員会」を発足させ、青函トンネル掘削の可能性についての結論を急ぐことになった。1956年(昭和31年)5月に委員会は国鉄総裁に報告書を提出、津軽海峡の精密な地形図を添えて「建設は可能、工期10年、工費600億円」という内容であった。
 さらに海上、陸上から様々な調査が続けられた。ボーリング、超音波による地質測定、漁船を用いての海底の岩石の採取、潜水艇を用いての海底調査…陸上や海上からできる限りの調査をし海底地質図が完成すると、当時の技師たちは「海の上からの手探りの調査は決定打とはなり得ない、もう調査坑を掘る以外に実現の術はない」と声を上げた。

 1961年(昭和36年)5月、国の鉄道建設審議会は予定線であった「青森県三厩付近ヨリ渡島国福島付近ニ至ル鉄道」を調査線に編入するのが適当と答申し、いよいよ青函トンネルは調査坑を掘削する本格的な調査が認められることになった。
 同年3月には「日本鉄道建設公団」(以後「鉄建公団」と略)が発足、直轄工事として青函トンネルに関する調査を引き継いでいた。全国から国鉄のトンネル掘削作業員のベテランが集められ、この年の5月8日に北海道側で調査坑として斜坑掘削が開始された。5年後には竜飛岬の近くで本州側からの、やはり調査坑としての斜坑掘削が開始される。浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返した青函トンネル構想は、いよいよ津軽海峡の海底に挑む日が来たのである。地上ではまさに高度経済成長のただ中、青函連絡船は相次ぐ新造船の投入にも輸送力が追いつかない状況であり、青函トンネル開通は津軽海峡の隘路解消を意味しており、天候に左右されない安全な北海道への貨物・旅客輸送を実現するものであった。
 斜坑工事は北海道側の工事は順調であったが、本州側では地質が悪くて難工事となって出水工事なども発生した。それぞれ約5年の歳月をかけて斜坑を海面下250メートル付近まで掘り進み、そこから対岸を目指す水平坑である「先進導坑」の掘削が開始された。

 1964年(昭和39年)10月、東海道新幹線が開業した。新幹線は技術的にも営業的にも大成功し、すぐに国鉄は日本全国に新幹線を通そうと構想を立てる。日本に背骨を通す東海道・山陽・東北・北海道の各新幹線と、太平洋側と日本海側を列島中央部で結ぶ上越・北陸新幹線を完成させるという構想であった。既に山陽新幹線の建設は開始され、東北・上越新幹線も着工を目前に控えていた。
 そんな中、調査中の青函トンネルを新幹線用と出来ないかという論が上がった。当時の青函トンネルの計画は、津軽線三厩駅の4キロほど北と、松前線(現在は廃止)の渡島福島駅近くを結ぶ全長36400メートルで計画されていたが、この計画では新幹線を通すことは出来ない。北海道新幹線用の新たな青函トンネルを掘るわけには行かないと言う論が上がって、在来線ローカル客は連絡船に回すことにして、遠距離直通客の新幹線と貨物専用を前提に青函トンネル設計を見直すことにした。
 青函トンネルの勾配や曲線が緩和され、さらに掘削中の安全性を考慮して土かぶり(海底とトンネルの間の距離)も大きく取られた。そのために青函トンネルは陸上部分の延長が伸びて、53854メートルの長大なトンネルになることとなった。この長さは日本国内のトンネルはもちろん、完成すれば世界一の鉄道トンネルになると言われていたイギリス・フランス間のドーバー海峡海底トンネルの約51800メートルを上回ることになった。
 北海道新幹線と共に、青函トンネルに対する道民の夢は広がった。東京と札幌を5時間50分で結び、農産物を連絡船に載せることなく直接本州へ遅れるようになるという事実は、北海道が本州の一部と同等になることを示していた。

 1970年(昭和45年)9月26日、鉄道建設審議会は青函トンネルを調査線から工事線に昇格した。これに先だって同年7月に本坑工事を手助けする「作業坑」の掘削を開始、このトンネルは本坑と並行して掘られ、本坑に先回りして掘られて本坑掘削現場を飛び地のように先に増やしてやったり、梯子状に本坑へ横坑を伸ばして資材の運搬・搬出の手助けをしたりする目的を持っていた。事実上はこの作業坑掘削開始が着工といっていいだろう。
 1971年(昭和46年)4月1日、いよいよ青函トンネルの本工事実施命令が出された。現地でも鉄建公団本社でも青函トンネル建設に向けて慌ただしい動きがあった。調査報告を元に工事実施計画書を作成するためであった。
 9月に工事実施計画書が出され、認可された。内容は、トンネル全長58.85キロメートル、トンネル内径9.7メートル、軌道は新幹線方式であるが貨物列車通過を考慮した三線式、最小曲線(最も急なカーブ)半径6500メートル、勾配は取り付け部1000分の12・海底部1000分の3、最深部は海面下256メートル、工費2014億円、完成予定は1978年度となっていた。
 11月14日、北海道民の夢を託した青函トンネルの起工式がトンネル両側で盛大に行われた。トンネル完成までに北海道新幹線着工が約束され、青函連絡船もローカル輸送用とトンネル補助のために残るという構想で、津軽海峡のバラ色の未来を誰もが信じていた。この十数年後に青函連絡船が廃止されるなど、考えた者は誰もいない。


 ご覧のように青函連絡船は航路廃止の僅か十数年前まで、新造船をいくら投入しても輸送力が間に合わないという時代であった。青函航路は隘路であり、隘路解消の決定版として青函トンネルの建設が開始された。この輸送量の向上は何時までも続く、誰もがそう思っただろう。
 しかし、青函連絡船の黄金時代はまもなく終わりを告げることになる。青函航路を含めて国鉄全体をひっくり返す変化がこの後の日本に起こり、青函連絡船も国鉄もまっすぐに消滅への道をたどることになる。
 次回はそんな時代の連絡船を紹介せねばならない。最後には連絡船なき後の津軽海峡にも触れてみよう。

つづく


前のページに戻る