第七章 海峡の落日
〜青函連絡船の廃止と「その後」〜


1 鉄道連絡船の終末期
2 輸送量大激減
3 連絡船延命工事と国鉄改革
4 青函トンネルと青函連絡船廃止
5 連絡船のあと

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 1970年代初頭まで、日本は高度経済成長に沸いていたのは前回書いた通りである。その未曾有の好景気がついに終わりを迎える。しかし、国鉄にとって景気が悪くなるだけの話では済まされなかった。高度経済成長の大輸送の裏に、大きな環境変化があったことに、多くの人は気付いていなかった。
 青函航路を含めた国鉄全体の輸送量は1970年代に入っても、絶対的な数字の上では増加を続けていた。しかし、全交通機関の中における国鉄の地位は次第に下がりつつあったのである。国内道路網の整備による道路交通事情の向上は国鉄による短中距離の貨物輸送と旅客輸送のシェア(全体に対する分担率)を次第に下げ、航空網の整備により長距離旅客輸送のシェアを、港湾設備の整備により海運に長距離貨物輸送のシェアをそれぞれ落とすことになっていた。いわゆる「国鉄離れ」が進み、輸送量の増加と国鉄の輸送シェアは反比例していた。それでも国鉄の輸送量は大幅に増加していたのだから、この時代の物流がどれだけ旺盛だったかを伺い知ることが出来る。
 国鉄は多様化する顧客のニーズを把握できず、対応に苦慮しながら高度経済成長を乗り越えていた。きっかけがひとつあるだけで多くの顧客を失う、青函航路を含めて国鉄全体がそんな危険な状況にあった。国鉄自体も1964年度に初の赤字決算となり、以降赤字は雪だるま式に増えることになる。

 1973年(昭和48年)10月に勃発した第四次中東戦争によって、アラブ石油輸出国機構がイスラエルを支持する国と非友好国への石油供給削減処置を敷いた。それに伴い輸出機構側が原油価格の70パーセント値上げを発表、世界的な石油価格の暴騰を招いた。よって石油の輸入依存率の高い国をインフレと不況が襲い、世界的な不況が全世界を駆けめぐる…いわゆる「オイルショック」である。
 日本は基幹産業の殆どを、中東から輸入された石油に頼っていたため大打撃を受けた。石油の値上がりにつれて物という物の原材料が値上がりして、その後を追うように物価が跳ね上がり、人々は買い出しに奔走した。高度経済成長に沸いていた日本の景気は、一夜のうちに不況のどん底に突き落とされたのだ。
 これに伴い需要が抑制されたため、交通機関を利用する人々も貨物も大幅に減った。青函航路も同じで、うなぎ登りであった貨物・旅客輸送量が激減した。だがこれは「一時的なものになると思われた」というより、「一時的なはず」であった。
 オイルショック後の景気は徐々に持ち直した。鉄道は「省エネルギー」の観点から言えば他の交通機関より有利で、これを「売り」にすればオイルショックは本来、国鉄が失ったシェアを取り戻す絶好のチャンスであった筈である。
 しかし、「オイルショック」前後の大事な時期に国鉄が行ったことは、度重なる運賃の値上げと労働争議によるストライキや遵法闘争であった。各々、国鉄の歴史が持つ事情があるとはいえ、いちばん大事な時期に顧客を無視していたのである。ただでさえ始まっていた国民の国鉄離れは一気に加速し、景気回復後は貨物も人も国鉄には戻ってこなかった。代わりに航空旅客は一気に増えて、自動車交通量もこの時期に跳ね上がる。東京対札幌だけの旅客輸送実績を見ると、国鉄利用者は全体の5パーセントにも達しなくなった。

 政府も国鉄の崩壊に対して無策ではなかった。しかし、小手先の経営改善策ではどうにもならないところまで国鉄の経営状態は追い込まれた。1980年代になると「国鉄の再建は分割・民営以外に方策はない」と判断され、1986年(昭和61年)11月に国鉄の分割・民営を盛り込んだ「日本国有鉄道改革法」が国会に上程され賛成多数で可決。翌年4月に国鉄は分割・民営されて現在のJRグループが発足した。
 青函航路を含め、国鉄が運航していた鉄道連絡船は、JR各社に引き継がれることになる。 

 いっぽう、1980年代に入ると青函航路は新たな問題に直面する。高度経済成長期の酷使によって「津軽丸型」の寿命が急速に近づきつつあったのだ。しかし、青函トンネル完成時期がハッキリしないため、新造船を作るわけにも行かずに対応に苦慮することとなる。
 さらに貨物輸送量の激減により「渡島丸型」は過剰配置となり、使い道がなくなって係船される連絡船まで出てくる始末となった。古くなった「津軽丸型」を置き換えるために、余剰の「渡島丸型」を客載車両渡船に改造するなど、青函トンネル開通を前に苦しい対応を続けなければならなかった。
 そして、青函トンネルは幾多の出水事故を乗り越えて完成が近づいていった。北海道新幹線計画が延期され、青函トンネルは在来線として開通することとなった。それはこの状況下では青函連絡船の終焉を意味していた。

 また、この時代にはJR西日本宮島航路を除くすべての国鉄連絡船が姿を消すことになる。その歴史もふまえて、ここで一気に紹介したい。

1 鉄道連絡船の終末期

 国鉄連絡船は1970年代〜1980年代にかけて次々に消滅、鉄道連絡船の時代が終わったことを意味していた。1970年(昭和45年)現在、青函・宇高・仁堀・宮島・大島の5航路を擁していた国鉄であったが、その殆どがこの時代に役目を終えて廃止の運命を辿る。

 大島航路は赤字が続く瀬戸内海の他連絡船を尻目に、黒字経営が続いていた。国鉄全路線を見ても黒字路線は数えるほどしかなかった中で、低下するシェアを守り健全経営を維持していた優良児であった。当初山口県から赤字航路を引き継いだのだが、見事に経営再建を成し遂げた。
 1970年(昭和45年)に就航した三代目の「大島丸」は来る日も来る日も満員の乗客で溢れていた。旅客の評判は上々で、もう一隻欲しいとの声が出るほどであった。国鉄航路の人気で他のフェリー会社も大島航路進出や大島寄港を実施したが、他社航路と役割分担が自然に出来上がってうまく共存共栄することに成功していた。
 そんな大島航路にも「黒い影」は忍び寄っていた。「大島丸」就航と同じ年の10月に本土と大島を結ぶ延長1876メートルの「大島大橋」の建設が始まったのだ。「大島丸」は橋の建設を見上げながら大島島民の足として運航されていたのである。そして着工から6年、橋の開業の日が決まった。同時に大島への連絡は橋を経由したバス路線に転換されることとなり、大島航路の廃止が決定となった。
 1976年(昭和51年)7月4日、「蛍の光」のメロディと多くの大島島民に見送られて「大島丸」が最期の航海をした。廃止直前の1日平均輸送実績は旅客が5250人、荷物784個、自動車536台と文字通り島民の足としての役目を立派に果たした。翌5日に大島大橋が開通、大島航路は国鉄バスに転換されてその歴史を終えた。「大島丸」は「安芸丸」と名前を変えて宮島航路へ転属する。

 大島航路と対照的なのは仁堀航路であった。
 仁堀航路は本州・四国連絡航路のバイパスとして誕生したが、その後の経営に積極性を欠いて新造船の投入も後回しにされていた。
 その新造船は1974年(昭和49年)秋に完成した「瀬戸丸」(399トン)であった。全長43.6メートル、全幅10.2メートル、定員200名、自動車24台という立派なカーフェリーである。国鉄が建造したカーフェリーの中で一番美しい連絡船であった。
 しかし、この船は前途多難のスタートとなった。建造中にオイルショックで材料費が高騰、造船所は国鉄に発注費の値上げを求めたが、国鉄はそれに応じなかった。そこで話がこじれて「瀬戸丸」は完成しても国鉄に引き渡されることはなく、交渉によって解決した1975年(昭和50年)春になってやっと引き渡され、就航した。
 新造船の投入で仁堀航路はダイヤ改正をした。運航時間の短縮をして利便性の高い時刻にダイヤを設定した。だが、1隻で1日2往復の便数ではフリーケンシー(多頻度等間隔運行)サービスを行っている民間航路とは競争にもならず、旅客も自動車も利便性の高い民間フェリーに奪われて国鉄航路は空気を運んでいるのに等しい状況であった。1日の平均輸送実績は旅客119人、自動車10台に過ぎなかった(1981年度実績)。
 国鉄は仁堀航路の経営改善は不可能であると判断し、仁堀航路の廃止を決定した。東北新幹線開業に国鉄が沸いていた1982年(昭和57年)6月30日、「瀬戸丸」が仁堀航路最後の航海をした。架橋や海底トンネルによる鉄路に代わるわけでもなく、純粋に「赤字」を理由に廃止された国鉄連絡船は他に例を見ない。船齢僅か7年の「瀬戸丸」は売却され、堀江桟橋跡に「仁堀航路の碑」が残るだけとなった。

 宇高航路は本州と四国を結ぶ重要路線として日夜人と貨物が溢れていた。高度経済成長による輸送量増加に加え、1972年(昭和47年)春の山陽新幹線岡山開業によって輸送量は1974年度にピークを迎える。そこで宇高航路は車両渡船「第三宇高丸」と客載車両渡船「讃岐丸」の置き換えと、高速船の投入を決定した。
 宇高航路の陣容は客載車両渡船「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」の「伊予丸型」が3隻と最初の自動化船「讃岐丸」の合わせて4隻と、車両渡船「第三宇高丸」であった。そのうち「讃岐丸」と「第三宇高丸」は船速が遅くて問題になっていた。そのため速度向上による効率アップとそれによる輸送力強化を狙い、1974年(昭和49年)に建造されたのが「伊予丸型」第四船となる二代目「讃岐丸」である。基本設計は先の「伊予丸型」3隻と同じであるが、3隻の使用実績をふまえて細かい改良がなされた。
 二代目「讃岐丸」投入により「第三宇高丸」は引退したが、諸般の事情で初代「讃岐丸」は名を「第一讃岐丸」と改めて1年ほど活躍が続いた。国鉄連絡船で同一船名の船が2隻同時に在籍した例は「讃岐丸」だけである。
 さらに国鉄では新幹線岡山開業と同時に宇高航路に高速船を投入し、新幹線と一体となった四国への高速輸送計画を立てていた…宇高間60分かかっていたのを高速艇で23分で結ぶというのだ。国鉄ではこの計画に向けて使用する高速船の種類を選定した結果、宇高航路高速船としてエア・クッション船を採用することとなった…いわゆるホバークラフトである。ホバークラフトとは浮力タンクの上に船体が乗った小型高速艇で、一台のガスタービンエンジンからプロペラを介して後方と下方に大量の空気を送り込み、浮上しながら推進する船のことである。浮上ファンによって浮き上がり、推進ファンによって飛行機と同じようにプロペラで前へ進むため水の抵抗はなく、最高速度は52ノットを誇った。舵は飛行機と同じように、船尾に垂直に立つ尾翼に設置された方向舵による。
 国鉄は三井造船からホバークラフトMU-PP5型1隻をリース、同型の予備船1隻を必要に応じて借り受ける契約を交わし、宇高航路へのホバークラフト就航に全力を注いだ。ところが運行開始まで2ヶ月を切った1972年(昭和47年)1月末に海上保安庁から「営業延期せよ」との指示が来た。瀬戸内海は往来する船が多くて安全性に問題はないかという確認であった。さらに漁業問題が浮上して調整に難航して半年以上が過ぎ、季節は秋も深まろうとしていた。
 1972年(昭和47年)11月8日、「かもめ」と名付けられたホバークラフトが宇高航路に就航、営業運航を開始した。「かもめ」は総トン数22.8トン、全長16メートル、全幅8.6メートルのアルミ合金製で旅客定員は52名であった。「かもめ」の高速運航は好評で、四国を目指す新幹線からの乗り継ぎ客で常に満員であった。「かもめ」が検査などで運行出来ない場合は、三井造船保有の同型船「はくちょう」が駆けつけた。運航率91パーセント、乗船効率67パーセントと営業的に大成功し、民間航路による高速艇運航の口火を切ることにもなった。
 連日満員で「かもめ」では対応できなくなった国鉄は、改良型のホバークラフトを発注した。今度はリースではなく国鉄が自前で保有することになる。全長は2.2メートル延長されて18.2メートル、全長が伸びた分旅客定員を14名増やすこととなった。
 この新造ホバークラフトは1980年(昭和55年)4月に「とびうお」として就航した。船体の塗色は東海道・山陽新幹線に倣ったものとした。

 華やかに見える宇高航路も、高速船以外は旅客数の大幅な激減に喘いでいた。1975年(昭和50年)の山陽新幹線博多開業は、観光客を九州指向に変えるとともに、三原や広島などから民間の高速船で松山方面へ渡る新たな四国連絡ルートを浮上させることとなった。さらに1978年(昭和53年)、本四連絡橋児島坂出ルート(瀬戸大橋)の建設が始まり、これが宇高航路にとってとどめとなった。
 1987年(昭和62年)4月、国鉄は分割民営されて宇高航路は四国旅客鉄道(JR四国)に運営が引き継がれた。そして翌1988年(昭和63年)4月11日、鉄道と道路の併用橋である瀬戸大橋が開通し、宇高航路は大きな転機を迎えることとなった。客載車両渡船「伊予丸」「土佐丸」「阿波丸」と、ホバークラフト「とびうお」は同時に引退して売却の道を歩んだ。「讃岐丸」はJR四国保有の観光船に改造され、瀬戸内海の周遊航路で活躍することになる。航路そのものは新たに高速艇「しおかぜ」をリースで調達し、細々と運航を続けることになる。
 しかし、瀬戸大橋の開通は宇高航路の生き残りの道を全て塞いでいた。高速艇「しおかぜ」1隻による運航は、知名度が低かったことも手伝って旅客数は限りなくゼロに近かった。僅か2年後の1990年(平成2年)3月21日をもって「しおかぜ」の運航も取りやめとなり、JR四国は宇高航路の運航休止を申し出た。事実上、宇高連絡船が姿を消したのはこの日である。
 1991年(平成3年)3月16日、JR四国は宇高航路の正式な廃止を運輸省に届け出た。山陽鉄道が岡山〜高松間に鉄道連絡船を運航してから88年、鉄道院が宇野〜高松間に航路を移転して81年、長い歴史の幕を閉じた瞬間であった。
 「讃岐丸」は観光船としてさらに活躍したが、船の老朽化が問題になったのと、「宇高連絡船」そのものが人々の記憶から薄れ利用客が少なくなっていたのが問題になっていた。1996年(平成8年)11月、「讃岐丸」の廃止が決まり売却されることになった。人々に惜しまれながら「讃岐丸」は宇高連絡船の生き残りとして最後の航海をし、宇高連絡船はこの世から姿を消したのであった。

 宮島航路は高度経済成長と当時の観光ブームに乗って旅客がうなぎ登りに増えたが、オイルショックによる不況で観光客が激減、その後景気が持ち直したら今度は他社航路との熾烈な乗客争奪戦が始まっていた。国鉄では臨時便の運航体制を常時敷くこととし、廃止となった大島航路の「大島丸」を「安芸丸」と改めて投入することにした。さらに1978年(昭和53年)に新造船の導入を決意、2隻を発注した。
 こうして投入されたのが「みせん丸」(三代目)と「みやじま丸」(三代目)である。それまでの「山陽丸」と「みやじま丸」(二代目)を置き換え、さらにダイヤ改正して観光客の動きに合わせたきめ細かなダイヤを組んでフリーケンシーサービスも開始した。結果、昭和50年代後半からは輸送実績は上向きに転じた。
 国鉄分割民営を目前に、新会社の負担を軽減させるために老朽化した「安芸丸」を新造船に置き換えることにした。こうして1987年(昭和62年)3月に建造されたのが「ななうら丸」である。「みせん丸」「みやじま丸」と同型船で、この「ななうら丸」は国鉄が建造した最後の船となった。
 「ななうら丸」就航後すぐに国鉄は分割民営、宮島航路は西日本旅客鉄道(JR西日本)の運営となった。JR西日本は宮島航路で積極的な運営を続け、1996年(平成8年)4月にはJR最初の連絡船「みせん丸」(四代目)を建造して旧「みせん丸」を置き換えた。最新の「みせん丸」は前後の区別がない双頭船で、宮島航路のように短区間の航路をビストン輸送するのに適した構造となっている。
 続く2006年(平成18年)5月には、JRで2隻目となる連絡船「みやじま丸」(四代目)が就航する。この船の最大の特徴は日本のフェリーとして最初の電気推進船となったことで、船底にはスクリューはなく360度回転可能なポッド型推進器を備えている。客室も時代を反映し、車椅子に対応したバリアフリー船室を備えている。「みやじま丸」(四代目)は旧「みやじま丸」を置き換えた。
 さらに2016年(平成28年)11月には、「みやじま丸」(四代目)を基本に一般的なスクリュー推進に変更するなどの改良をした「ななうら丸」(三代目)が就航。これが先代の「ななうら丸」を置き換えたことで、国鉄が建造した連絡船は姿を消すこととなった。

 こうして国鉄連絡船の歴史は、宮島航路だけを残して現在に至る。

 なお、南海電鉄と系列の南海フェリーが連絡運航する和歌山・小松島航路は鉄道連絡船に分類されるが、この場では国鉄連絡船に話を限定することとして話を割愛した。国鉄分割民営後にJR九州が博多〜長崎オランダ村間と、博多〜釜山間に航路を設定して鉄道と通し乗車券を発売するなど鉄道連絡船としての経営を行っていたが、これも国鉄連絡船に話題を限ったためにここでは割愛した。

2 輸送量大激減

 1970年代前半、青函航路も高度経済成長に沸いていたのは前章で話したとおりである。新造船を投入してもすぐに輸送量の増加がそれによる増加分に追いつき、青函航路は隘路として輸送制限まで行う有様であった。
 当時の陣容は、「津軽丸型客載車両渡船」が「津軽丸」「八甲田丸」「松前丸」「大雪丸」「摩周丸」「羊蹄丸」「十和田丸」の7隻、「渡島丸型車両渡船」が「渡島丸」「日高丸」「十勝丸」の3隻、洞爺丸事故直後に遭難船の代船として建造された車両渡船が「空知丸」「檜山丸」の2隻、同じ経緯で産まれた客載車両渡船「十和田丸」(初代)を改造した車両渡船「石狩丸」、合わせて13隻の陣容であった。これら13隻で貨物繁忙期は1日30往復というダイヤを組んで高度経済成長の大輸送に当たっていた。
 それでも輸送力は不足していた。30往復というダイヤは既に限界に近かったが、車両渡船「空知丸」「檜山丸」「石狩丸」の3隻の速度が低く、貨車積載数も低いという問題を抱えていた上でのことであった。国鉄ではこの3隻も「渡島丸型」に置き換えればこの3隻分の速度向上が実現し、さらに全連絡船の速度が等しくなることによってあと2往復の増発が可能と考えた。さらに貨車積載数も1隻あたり10両以上増えるため結果として大幅な輸送力増強を図れると試算、早速「渡島丸型」3隻の追加発注の準備にとりかかった。

 そこへ「オイルショック」が青函航路を襲った。青函航路は貨物を中心に大幅に輸送量を落とし、10年としないうちに輸送実績は貨物・旅客共に最盛期の半分に落ち込むほどの大幅な激減であった。その頃これは「オイルショック」に伴う一時的なものと考えられていて、一時的な不況を乗り越えれば青函航路にまた貨物や旅客は戻ってくると誰もが信じていた。景気が持ち直せば、「オイルショック」前の活気が戻ってくるはずであった。
 その景気回復後の大輸送に備えて「渡島丸型」3隻の追加発注は実行される。「渡島丸型」の図面は使用実績をふまえて一部書き替えられたが、外見上の変化は殆どない。
 こうして1977年(昭和52年)に生まれたのが「渡島丸型」最後の3隻となる「空知丸」(二代目・4123.6.トン・JQAD)、「檜山丸」(二代目・4107.96トン・JJRE)、「石狩丸」(三代目・4105.62トン・JPHE)の3隻の車両渡船である。基本寸法や性能、貨車積載数は他の「渡島丸型」と同じである。三代目「石狩丸」は青函連絡船で最後に建造された船となり、「石狩丸」の名は国鉄青函連絡船で唯一、船名が三代に渡った名前である。
 入れ替わりに初代「空知丸」「檜山丸」、二代目「石狩丸」は売却され、これによって青函連絡船は全て同じ速度・性能で揃えられることになった。輸送力が向上し、「オイルショック」後の好景気への備えは万全となった。

 しかし、この追加発注が裏目となる。日本の景気が回復しても青函航路の輸送量は減り続ける一方であった。

 この時代に他の交通機関ではでは大きな変化が起きていた。
 航空界での変化は、札幌冬季オリンピックや沖縄海洋博覧会を契機に日本航空がB747SR型とDC10-30型、全日本空輸がL1011型といった大型旅客機を国内線に投入した。1便で300〜500人もの旅客と、多くのコンテナを搭載して圧倒的な貨物を運べる巨大旅客機の投入は東京〜札幌線を中心にした北海道路線にも及んだ。大型旅客機の投入による航空機輸送の効率化は座席あたりのコストを大幅に下げ、航空運賃が低下する方向へ向かった。航空運賃低下は遠距離を中心にした旅客と貨物の航空機への転化を促し、1970年代後半には東京〜札幌間を移動する旅客の95パーセント以上が飛行機を運ぶことになる。
 道路交通も大きく変革していた。日本道路公団が建設していた東北自動車道は、1970年代の終わりに東京から青森まで一部区間を除いて開通した。未開通の僅かな区間だけ一般道を走れば青森まで高速道路で繋がったことになり、貨物の長距離トラックへの移行が加速した。1980年代初頭には東北自動車道全線が一本で繋がり、さらに北海道でも高速道路の建設が始まっていた。それと同時に一般国道の整備も進み、自動車交通による物資輸送はより円滑なものになってゆく。
 船舶も例外ではない。この頃には民間フェリーや貨物船にも「津軽丸型」を手本にした自動化船の導入が進んでいた。どの船も船員数を大幅に減らして効率が上がったため、船舶運賃の低下は進んだ。さらに港湾設備が整備されると共に、船の大型化も進んでいた。

 このような変化によって交通機関全体の運賃は低下する方向へ向かっており、また民間ならではの特色を持った輸送体制が敷かれることになった。
 国鉄はこの変化に着いてゆくことが出来ずに取り残された。赤字は赤字を呼んで、この交通運賃低下の時代に値上げを繰り返していたのである。さらに国鉄の複雑な労使問題がこの時代に一気に表面化し、国鉄の労働組合はストライキを繰り返し、遵法闘争と呼ばれる戦法で度々列車を遅らせた。国鉄は信頼性は低下し、国民の国鉄離れが加速した。この影響は青函連絡船にそのまま現れていた。

 次第に貨物便を中心に空車の貨車を運ぶだけの便が増え、さらには空船が運行されるに及んだ。明かな輸送力過剰状態で、このままでは津軽海峡で壮大な燃料の無駄遣いをしてしまう。
 国鉄は苦慮したあげく、車両渡船2隻を「当分の間」使用を停止することになった。1978年(昭和53年)10月に「渡島丸」が係船されて使用停止となり、翌年3月に「日高丸」がこれに続いた。双方とも誕生から僅か9年、まだ若い船なのに突然働き場を失ったのだ。両船は函館ドックの岸壁に繋がれ、青函航路が再び活況を呈することを信じて復活の時を動かずに待った。「空知丸」以下追加発注船の就航から僅か1年のことであった。

3 連絡船延命と国鉄改革

 青函連絡船は輸送量の大激減と同時に、もうひとつの問題にぶつかっていた。
 それは「津軽丸型」の予想以上の老朽化の早さであった。元々「津軽丸型」の寿命は18年として設計されており、1980年代初頭にそれぞれ寿命を迎える予定にはなっていた。しかし、高度経済成長期に酷使したせいもあって予想以上に老朽化が進行しており、問題は深刻であった。
 これまでの青函連絡船の歴史ならば、客載車両渡船の老朽化はそのまま新造船の設計・投入を意味していたが、この時代の青函連絡船はそうは行かない事情があった。海底では青函トンネルの掘削が進行しており、1970年代末に開業が予定されていたのだ。本来の計画であれば既に青函トンネルは開通しており、連絡船の存廃問題とは別に「津軽丸型」はトンネル開通と同時に引退するはずであった。
 ところが青函トンネル掘削は度重なる出水事故と、海底の断層が予想以上だったために工事は難航し、開通時期が小刻みに延びていた。1979年春開業が、1年伸び、3年伸び、ついには5年以上の開通の遅れは必至とまで言われるようになった。このために青函連絡船は「津軽丸型」の代船計画も立てられず、かつ「津軽丸型」を廃船にもできずに、老朽化が急速に進む「津軽丸型」を使い続けるしか手段はなかった。

 ここで国鉄は青函連絡船に対してさらなる対策を施すことになった。全体的な輸送バランスと配船を見直し、客載車両渡船7隻、車両渡船4隻、係船2隻(車両渡船)、合計13隻の体制を抜本的に変えて、客載車両渡船7隻、車両渡船3隻、係船1隻(車両渡船)、合計11隻の体制とすることにした。
 内容は「津軽丸型」のうち老朽化が激しい2隻を廃船、その代替はまだ船齢の若い「渡島丸型」2隻を客載車両渡船に改造して対応。これによって不足する車両渡船は係船中の1隻を復帰させることとした。残る5隻の「津軽丸型」には老朽化部分を徹底的に調査した上で、経年対策工事という延命処置を施すことになった。
 それとは別に連絡船の乗り心地向上対策として、「津軽丸型」のうち1隻と「渡島丸型」から改造される客載車両渡船2隻に、横揺れ防止装置を装備することになった。
 具体的には「津軽丸型」のうち老朽化が特に激しかった「津軽丸」と、甲板機器類が他船と違って保守・管理に難を来していた「松前丸」の2隻を廃船、入れ替わりに「渡島丸型」の新しい方から2隻「檜山丸」「石狩丸」を客載車両渡船に改造し、純車両渡船が減る分は係船中の「日高丸」を復帰させるというものであった。そして25往復の便数を実状に合わせて21往復に減らすことになった。

 この計画に先だって1981年(昭和56年)夏に検査のためドック入りした「十和田丸」に横揺れ防止装置を取り付ける工事が行われた。青函連絡船で採用された横揺れ防止装置は「フィン・スタビライザー」と呼ばれるもので、両舷の船底湾曲部に長さ1.8メートルのフィン(ヒレ)を横方向に向かって張り出させたものである。フィンは電動油圧式で角度を変えられるようになっており、装置に組み込まれたジャイロが船の動揺を検知すると自動的にフィンの角度を変えて揺れを押さえるという方式のものであった。例えば船体が右に傾き出したとき、右舷のフィンを上向きに、左舷のフィンを下向きにすれば、それぞれのフィンに発生した揚力が船体を元に戻すわけである。入出港で港内を航行するときや、着岸時はフィンを折り畳んで船体内に収納することも可能であった。
 この装置の搭載によって、「十和田丸」は横揺れの8割も減少することになって、冬季の時化の中でも快適な船旅を提供できるようになった。ただ「横揺れ防止装置」の名前の通り、横揺れを抑制するものであって縦揺れには全く効果はなかった。
 この「フィン・スタビライザー」、本来は「津軽丸型」設計時の図面に書かれていた。しかし、高度な自動化で予算を超過し、この装置の搭載が削られることになったという経緯があった。従って「十和田丸」への搭載にも大きな支障はなく、予算さえあれば「津軽丸型」全船への装備も可能であった。ただ悪化する国鉄の台所事情を考えると「十和田丸」1隻と改造客載車両渡船2隻への装備が精一杯であった。装備船が「十和田丸」に選ばれたのは「津軽丸型」7隻の中で一番新しいという理由であった。

 同じ年の秋、「石狩丸」がドック入りした。広大な甲板に客室を設置する大工事のため、半年に渡るドック入りとなった。1982年(昭和57年)春、「石狩丸」は装いも新たに青函航路に戻ってきた。細長くて美しかった144メートルの船体は、後半分にだけ大きな荷物を背負ったような船影となった(当サイト写真コーナーに写真あり)。煙突と後部マストは一層分持ち上げられ、「津軽丸型」をも圧倒する威風堂々たる姿に生まれ変わった。性能は変わらないが、「十和田丸」に装備された横揺れ防止装置「フィン・スタビライザー」が装備された。トン数は4965トンに増え、定員は650名となった。
 「石狩丸」に新規に設けられた客室部分は2層に分かれていた。車両甲板のすぐ上、従来の船楼甲板は「下部船楼甲板」と名が改められた。40人分の桟敷席2室と、自動車20台を搭載できる自動車積載室となっていた。青函航路の自動車航路は航路の落ち込みと裏腹に年々人気が上がっていたが、問題だったのは「津軽丸型」では自動車が露天積みで波浪や大雪による被害が耐えなかったのである。この「石狩丸」の自動車搭載スペースは青函航路として初の屋根などで囲まれたものとなり、これで自動車も安全に海峡を渡れるようになった。
 その上の層が新たに設けられた「上部船楼甲板」である。最前部に入口広間と売店とミニロビーがあり、あとは左舷側が椅子席、右舷側が桟敷席となっていた。普通船室ばかりで等級はなく、また食堂もなかった。桟敷席はそれまでの連絡船と基本的に変わらなかったが、椅子席は鉄道連絡船普通椅子席で初めてリクライニングシートが採用された。座席は鉄道用の流用品で、北海道の183系気動車特急の普通車用の座席を採用した。
 上部船楼甲板の上には広大なスペースの遊歩甲板となっていた。船客はこの広大な遊歩甲板から海と触れあうことができた。
 「石狩丸」が3月31日に就航すると、入れ替わりに「檜山丸」がドック入りして同一の工事を受け、「石狩丸」と全く同じ仕様の客載車両渡船に生まれ変わって10月1日に就航した。この2隻はグリーン船室や食堂の設定もなく、定員も「津軽丸型」の半分程度しかなかったために「津軽丸型」と区別して使用されることになり、「津軽丸型」を使用した一般旅客便を補完する運用についた。末期の青函連絡船の時刻表を見ると、「石狩丸」「檜山丸」使用の便には「グリーン・食堂の設備はありません」と明記されていた。
 また「檜山丸」が改造のためにドック入りすると同時に、係船されていた「日高丸」が航路に復活した。これら改造客載車両渡船の就航に合わせて桟橋設備も改良され、「渡島丸型」サイズの船が函館第一桟橋以外全ての桟橋に発着可能となった。

 この改造客載車両渡船と入れ替わりに、同じ年の3月4日に「津軽丸」が、11月12日には「松前丸」がそれぞれ引退した。引退してしばらくは函館港内に係留されていたが、翌年までに売却された…引退した青函連絡船は売却されるとそのままスクラップになり鉄筋などに姿を変えて「死」を迎えるのだが、この2隻は「津軽丸型」の経済性の良さが認められて、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に売却されたのであった。両船とも塗装が塗り直されて1983年(昭和58年)春に北朝鮮の元山港へ旅立って行った。
 その後「津軽丸」は北朝鮮からサウジアラビアへ転売され、船主が税金を滞納して差し押さえられてしまったためにスエズ係船され、そのまま1998年(平成10年)に火災事故を起こして果てた。「松前丸」の行方は、1986年(昭和61年)に北朝鮮を旅行した日本人による目撃情報が1件あるだけで、どうなったか解っていない。

 そして残った「津軽丸型」に対して、「経年対策工事」という船の延命工事が施される。「津軽丸型」各船ごとの劣化状況の詳細がチェックリストにまとめられ、この結果を受けて徹底的な修繕工事を行うものであった。その内容は腐蝕が進んでいた外板や甲板の補強、機関やプロペラシャフトなど駆動部の大規模修繕や部品交換、電気機器類の最新技術のものへの交換…等。これら工事は1981年(昭和56年)から3年掛けて「津軽丸型」各船を船齢20年まで使うことを前提に行われ、引き続き1984年(昭和59年)からはさらに4年使うことを前提にした工事が各船に対し行われた。

 1982年(昭和57年)11月15日、国鉄は上越新幹線開業(大宮〜新潟間)と同時に大規模なダイヤ改正を行った。この時に東北本線も特急を中心に大幅な運航体系の変化があり、6月に東北新幹線(大宮〜盛岡間)が開業していたのを受けて東京〜盛岡間の昼行特急をすべて廃止。東京から青森への連絡は東北新幹線「やまびこ」(上野〜大宮間は新幹線専用接続列車を運行)と、盛岡〜青森間に運転区間を変更した「はつかり」を接続させて行うことにした。これで大幅な速度向上が可能となり、東京(上野駅)を早朝に出発し、大宮から新幹線と特急を乗り継ぐと午後に青森を出る連絡船に接続、函館では最終の特急に接続してその日のうちに札幌までゆくことが可能になった…東京・札幌間の鉄道による日着が初めて可能になったのだ。
 そして、東北本線在来線から旅客列車が減った影響で貨物列車の速度を上げることが可能になった。青函連絡船の便数は1日21往復となった。

 しかし、東北新幹線も青函連絡船の助けにはならなかった。青函連絡船のみならず、国鉄全体の輸送量は持ち直すことはなかった。特に貨物は惨憺たる状況で、国鉄は事態を改善するために貨物輸送方法の大改革を行うことになった。
 それまでの貨物列車は貨車ごとに行き先も積み荷もバラバラで、貨車は固定的な運用をされていたわけではなかった。貨物をのせた貨車を路線毎に設定された貨物列車が一駅ずつ迎えに行き、主要駅にあるヤードに集結して行き先毎に仕分け、編成を組み直して目的路線を目指す。ひとつの貨車は目的地まで何本もの貨物列車に繋がれ、切り離され、最終的には目的駅のある路線の貨物列車に連結されて目的駅で切り離される…このような方法を採っていた。この方式は道路交通が発達していない時代には最も確実な方法であったが、トラック輸送が発達すると非効率の上に時間がかかると言うことになって次第に荷主から敬遠されるようになった。
 そこで国鉄はこのような一般の貨物列車を全て廃止し、貨物営業は輸送区間が決まっている専用貨物列車(一定区間で石油類や鉱物類などを運ぶ貨物列車)と、トラックと二人三脚で目的地まで物資を輸送する貨物ターミナルを用いたコンテナ列車に限定することになった。
 このダイヤ改正は1984年(昭和59年)2月1日に行われた。貨物列車が多くの国鉄路線から姿を消すと同時に、旅客列車運転体系も普通列車を中心に大幅に変化した。特に地方都市において普通列車のフリーケンシーサービスを始めるなど地域密着型のダイヤに移行し、現在のJRの列車運行体系に繋がるダイヤがこの時に誕生した。

 このダイヤ改正は青函連絡船の運航体系を大幅に変えることになる。津軽海峡を越える貨物列車運行本数が激減するため、同時に青函連絡船も貨物便を中心にした大幅減便が行われることになったのだ。運航便数は4往復減って17往復へ、これによりさらに2隻の車両渡船が余ることになった。同時に函館の操車場(ヤード)に直結していた有川桟橋は、ヤードそのものが機能を停止するために必要性が薄れた上、便数削減により函館側は2桟橋で足りることになったために廃止されることになった。戦時の大輸送で突貫工事で作られて40年、函館港口付近に設置された有川桟橋はひっそりとその役目を終えたのである。
 同時に係船中であった「渡島丸」と、同時に就航した「日高丸」「十勝丸」もこのダイヤ改正で引退することになった。「渡島丸」は就航から10年としないうちに係船され仕事を失い、青函連絡船に在籍した15年間のうち6年半は全く使用されないという誰も予想しなかった生涯を歩んだ。「日高丸」も3年間の係船期間があったが、復帰後僅か2年での引退であった。同時に就航した「渡島丸型」初期の3隻のうち、在籍期間を通じてまともに使用されたのは「十勝丸」ただ1隻であった。
 「渡島丸」「日高丸」「十勝丸」の3隻は、廃止された有川桟橋に現役時代を彷彿とさせる姿で係留されていたが、後の国鉄民営化までに売却されてスクラップとなって果てた。

 そしてこのダイヤがほぼそのままで、青函連絡船は終末期を迎える。最後の陣容は「津軽丸型客載車両渡船」が「八甲田丸」「大雪丸」「摩周丸」「羊蹄丸」「十和田丸」の5隻、「渡島丸型」を改造した客載車両渡船が「石狩丸」「檜山丸」の2隻、「渡島丸型車両渡船」が「空知丸」1隻、あわせて8隻であった。ネームシップを失ったこの8隻の陣容が、航路廃止まで続くことになる。

 1986年(昭和61年)、国鉄の分割民営が決定した。青函連絡船は北海道旅客鉄道(JR北海道)に引き継がれることになるが、青函トンネル開通が近いことから引継前に船員などを大量に人員整理することとなった。青函連絡船船員は分割民営と同時に日本各地に散ることとなり、JR東日本やJR東海に採用が決まった船員や、精算事業団に採用された船員、その他JR外の採用が決まった船員もいる。青函トンネル開通までの間、JR北海道に採用が決まった船員だけでは足りないため、JR東日本やJR東海の協力を得て連絡船船員の他JR社員はJR北海道に出向のかたちで連絡船の運航に携わることとなった。
 それでも8隻の連絡船を動かすには人員が足りなかった。その分は国鉄を定年退職した船員OBを臨時職員として非常召集することとなった。OB達は「我々が青函連絡船の最期を見届けよう」と二つ返事でこの非常召集に応じ、分割民営直前までに95名の連絡船船員OBが海峡に帰ってきた。彼らは連絡船に戻るとすぐに現役時代のカンを取り戻し、現役船員よりも頼りになる存在として青函トンネル開業のその日まで連絡船に乗り組むことになる。

 1987年(昭和62年)4月1日、日本国有鉄道は旅客6社と貨物1社の鉄道会社と、その他関連企業に分割民営されてJRグループが誕生した。青函連絡船はJR北海道の運営となり、1年後に決まった青函トンネル開業まで「JR連絡船」の短い歴史が始まる。
 連絡船の煙突に描かれていた国鉄のシンボルマークは、JRグループの統一マークに変更された。これまで青函連絡船の船籍港は国鉄本社のある東京であったが、JRへの引継と同時に連絡船を運営するJR北海道函館支社のある場所、函館港に変更された。名実共に函館は青函連絡船の母港となったわけである。

4 青函トンネルと青函連絡船廃止

 青函連絡船がこのような歴史を歩んでいる間も、青函トンネルの掘削は続いていた。
 青函トンネル着工までの道程は前回に書いた。津軽海峡の海底では北海道・本州の双方から海峡の中央を目掛けてトンネルを掘り進み始めたのである。
 一口にトンネルといっても青函トンネルでは3本のトンネルが掘られていた。
 まずはどのトンネルよりも先に掘って海底部の地質調査などを行う「斜坑」と「先進導坑」。「斜坑」は着工が調査時代だったため当初は「調査坑」と呼ばれ、両側の海岸線近くから250パーミルの急勾配で海面下280メートルの「斜坑底」を名付けた場所を目指す。斜坑底に到達するとそこに排水設備などを設備し、そこから3パーミルというごく緩い上り坂で海峡中央を目指す「先進導坑」となった。完成後の先進導坑は排水坑となり、斜坑底に設置されたポンプでトンネルの湧水をくみ出すためのトンネルとなる。斜坑は本坑工事の物資搬入に使用されたあと、完成後は非常脱出口や保守用通路、斜坑底のポンプに繋がれたパイプが並んで排水坑ともなった。現在、竜飛岬にある「青函トンネル資料館」の体験導坑として、青函トンネル設備見学用ケーブルカーが運転されているのが本州側の斜坑である。
 また斜坑は、海面下140メートル地点の本坑との交差点(「定点」とよばれ、後の海底駅である)から海底部と地上部へ向けて本坑工事を始めるための重要なトンネルでもある。並行して現在は換気口になっている立坑も掘られた。
 次に説明するのは「作業坑」である。本坑の西側30メートルの場所をつかず離れずして、本坑より先に並行して掘られるトンネルである。作業坑から本坑へ梯子状に連絡通路を渡し、本坑最先端掘削部の裏側にコの字型に先回りして掘削現場を増やし、本坑工事を早める役目を持っていた。海底の水平部にかかるところで先進導坑と接続され、水平部では先進導坑が作業坑の役割を担う。完成後は保守用通路として使用され、保線員の巡回や保線器具の搬入や搬出に利用されている。
 そして「本坑」、完成後に列車が走る文字通り本当のトンネルである。正式着工と同時に本州側・北海道側の双方の地上入口と、双方の斜坑と本坑が交差する海面下140メートル地点に設けられた「定点」からの、合計6箇所から掘削が開始された。高さ9メートル、幅11メートル、断面100平方メートルという巨大なトンネルである。

 作業坑と本坑の掘削は、着工開始と共に海底部の複雑な断層にぶつかって難工事となっていた。1974年(昭和49年)1月には北海道側で、2月には本州側で、作業坑が異常出水事故を起こした。出水事故が起きると排水のため、数ヶ月に渡って工事を中断せざるを得なかった。工事は大幅に遅れて当初の1979年(昭和54年)完成の予定は、1982年(昭和57年)以降になると発表された。さらに工期の遅れは工費をも引き上げ、当初2014億円と想定していたものが、3554億円に上がると試算された。
 さらに「オイルショック」によって日本の経済は北海道新幹線どころではなくなっていた。需要は抑制されて日本全国に計画されていた新幹線計画は完全に棚上げとなってしまったのである。青函トンネルはそこを通る予定だった北海道新幹線の建設が決まらないまま、工事を続けることとなった。

 1976年(昭和51年)5月6日、吉岡側作業坑は定点から4588メートル地点まで掘り進んでいた。その手前、数キロのところから緑灰色をした火山れき凝灰岩と泥質岩を主成分とした亀裂の入りやすい軟弱な地質に変わり、水が多くて吉岡側作業坑の工事は難航していた。発破も自動掘削機も使用できず、作業員はツルハシを片手に手でトンネルを掘っていた。1974年のの異常出水地点はこれより1キロほど手前であったが、同じ地質の区間だった。
 この日の未明3時、山鳴りと共に坑内に雨のように降っていた湧水がピタリと止んだ。作業員たちは「何か変だ」と語り合って作業を止めた。すると雷のような轟音と共に、掘削現場の上部から滝のような水が流れてきた。出てきた水はあっと言う間に現場の機器類を水没させ、作業員は泳ぐように現場から逃れた。
 水は勾配の下方に溜まり、早朝には坂道を上ってトンネルを約100メートル水没させたところで止まった。この頃は毎分5トン程度だったので、大した出水ではないと考えられた。トンネル工事で出水事故が起こると周囲に穴を開けて「水抜き」をしながらポンプで排水をするが、この作業が現場ではうまく行っていなかった。ポンプを全て稼働して水を抜こうとしても水はいっこうに減る気配はなく、むしろ僅かずつ増えていた。現場では排水困難の原因を探る作業も並行して進んでいた。何のことはない、ポンプへのパイプが詰まっていたことが分かったのは、昼を過ぎて13時近くになっていた。万が一に備えて、240メートル後方にコンクリート袋を積み上げて堤防を作っていた。
 14時頃、出水地点から再び雷のような音が響いた。コンクリートで固めていた掘削地点が崩落して一気に大量の水が出てきた。その水の出方は今までの経験を超え、トンネル工事で誰も経験のない毎分80トン以上もの膨大な水が一気に作業坑にあふれ出したのだ。約100メートル後方でバランスを保っていた水が一気に上昇をはじめ、あっと言う間に240メートル後方に作りつつあった厚さ9メートル、高さ3メートル程までに完成した堤防を破壊した。僅か1時間で水は作業坑400メートルを水没させ、現場では新たに約440メートル後方に二つ目の堤防を増設、同時に1500メートル後方の非常水門を閉じた。
 その二つ目の堤防も6日夕方に破壊され、さらに後退して1300メートル後方にみっつめの堤防を築いたが、これも6日深夜破壊された。日付が代わって7日午前1時には1500メートル後方の非常水門が破壊され、水は作業坑を全て飲み尽くす勢いでさらに増えていた。現場から約2キロ後方に作業坑と先進導坑を結ぶ立坑があった。ここまで水が達して先進導坑へ大量の水が流れたら…斜坑底にあるポンプ設備が瞬く間に水没、吉岡側の現場は排水する術を全て失ってしまう。そうなれば排水の術がないまま水が増えるに任せるしかなく、青函トンネルは水没するであろう。
 作業員たちは本坑と作業坑を結ぶ連絡坑の堤防を破壊して、本坑に水を流して先進導坑への立坑に水が到達する時間を稼いだ。本坑は作業坑より断面積が大きいので、時間を稼ぐにはこれしか手はなかった。この間に作業坑と先進導坑を結ぶ立坑に強力な堤防を作り、先進導坑とその起点にあるポンプを守ることとした。しかし、立坑に堤防を作る作業を始めた頃には既に水はすぐそこまで迫っていたので、作業員はセメント袋を積み上げて袋を破っただけの堤防を作ることにした。セメント袋に水がしみ込めばセメントは固まる、セメントが固まるのと水がセメント袋の壁を破壊するののどっちが早いのか、神ならぬ身の知る由もなかった。
 本坑が水瓶になって作業坑が水没する速度は下がったが、相変わらず水の勢いは収まらなかった。8日になって先進導坑への立坑が水没、毎分2トンの水が先進導坑へ落ちた。恐れていた先進導坑の水没が現実となりつつあったのである。現場では懸命の排水作業も虚しく、水没区間は徐々に増えていた。設置されているポンプの容量よりも、排水量の方が大きく上回っていたのである。そのために鉄建公団が保有する排水ポンプが全国から集められていた。
 ところが出水から4日たった10日、突然事態が好転する。出水現場に水と共に押し出された大量の土砂が出水現場を塞ぐ形となり、出水が止まったのである。出水量は激減し、斜坑底のポンプを全部動かせば当面はこれ以上の水没はないと分かり、先進導坑の水没も僅かで止まることが分かった。青函トンネルは当面の危機を脱し、作業員たちは歓喜の声を挙げた。水没区間は作業坑3015メートル、本坑1493メートル、出水量は12万トンにも達した。
 その晩、上越新幹線中山トンネル(出水事故を起こしてコースが変更され、この影響で現在も減速運転を強いられている)から毎分5トンのポンプ4台が到着した。本州側の現場からも毎分5トンのポンプが2台届き、それまでのポンプと合わせて毎分58トンの排水が可能になった。その後ポンプは毎分98トンまでに整備された。斜坑には太い導水パイプが敷かれて強力な排水が開始されると水没区間は徐々に後退し、7月までに出水現場に人が入れるまでに排水が進んだ。調査の結果作業坑の進行方向に巨大な水の層が有ることが判明し、出水事故付近だけ作業坑を西に大きく迂回させることになった。出水現場は完全にコンクリートで塞がれ、今は誰も入ることは出来ない。水とともに溜まった土砂の撤収作業に手間取ったが、半年後に作業坑の掘削は再開された。

 以後は出水事故は一度もなかった。順調に工事は進んだがこの出水事故でさらなる工事の遅れは必至となり、開通は1986年(昭和61年)と予定された。
 行程は大幅に遅れたが、徐々に完成は近づいていた。まず1979年(昭和54年)9月に本州側、翌年3月に北海道側の作業坑が先進導坑と接続、作業坑は役目を先進導坑に譲って工事を終えた。すぐに本坑も海面下240メートルの最深部に達し、海峡中央部の海底をほぼ水平に進むことになった。海底部で日本有数の断層と遭遇したが、これまでの経験を活かして事故もなく断層を突破した。そして、先進導坑の未掘削区間は徐々に減り、1982年(昭和57年)には対岸の地質調査用ボーリングのドリルの音が聞こえるまでに迫っていた。海底で双方から堀り続けたトンネルが繋がる日は目前まで来ていた。

 それとは別に青函トンネルの使用方法についても明確な決定はなかった。青函トンネルを通るはずだった北海道新幹線の建設は棚上げになったままである上に、津軽海峡を渡る旅客も貨物の大幅に落ち込んだままである。青函トンネル不要論から始まって、道路転用や石油備蓄基地構想など様々な案があったが、1982年(昭和57年)までに暫定的に在来線列車を通すということで決着した。当初は青函間で自動車を運ぶ「カートレイン」の構想もあったが、民間フェリー会社の猛反発にあって実現していない。
 同年夏にトンネルと在来線線路を結ぶ路線工事に着工した。津軽線中小国駅付近と青函トンネル入口、江差線木古内駅付近と青函トンネル入口とを結ぶ路線である。当初は途中に駅は設けず、曲線や勾配も緩め、トンネルなども大きくして新幹線規格で作られることになった。青函トンネルと含めて「海峡線」と名付けられて、開業予定は1988年(昭和63年)と決まったのはこの時である。

 1983年(昭和58年)1月27日9時24分、青函トンネルからはるばる東京の首相官邸まで伸ばされた発破ボタンを、当時の内閣総理大臣であった中曽根元首相が両手で押した。すると本州と北海道を隔てていた最後の1メートルの壁が音をたてて崩れ、青函トンネルの先進導坑が貫通した。土煙の向こうに対岸の作業員たちの姿が見えると、万歳をしながら双方の作業員が駆けだし、対岸からトンネルを掘り抜いた作業員と抱き合って喜んだ。
 2年後の1985年(昭和60年)3月10日10時5分、本坑がこれに続いて貫通した。最後の発破ボタンを押したのは当時の運輸大臣であった山下元運輸大臣である。本坑開通と同時に工事はトンネル掘削という土木工事から、線路敷設などの鉄道工事へと移り、1988年開通に向けての準備が着々と進んだ。

 1987年(昭和62年)4月に国鉄が分割民営されると、青函トンネルでの鉄道運営はJR北海道に委ねられることも決定した。JR北海道はトンネル開業までの1年間は青函連絡船を運航することも決まっていたが、その後の扱いについてはJR北海道が判断するとされていた。分割民営直後の4月24日、JR北海道の会長は記者会見で「青函連絡船は青函トンネル開業と同時に廃止せざるを得ない」と公式にコメントし、青函連絡船の廃止は決定的となった。同時に青函連絡船存続運動を続けていた青森・函館の市民グループや、自治体などによる青函連絡船存続に向けての運動がさらに大きくなってゆく。
 そしてこれら青函連絡船廃止の動きは、航路に旅客が戻ってきて再び活況を呈するという皮肉な状況を巻き起こす…廃止の話を聞きつけた人が「最後にもう一度」「一度乗ってみたい」と航路を訪れたのである。JR北海道函館支社が連絡船の旅情を上手く宣伝して札幌や東京でキャンペーンを行ったのをきっかけに、JR東日本も独自に青函連絡船のキャンペーンを繰り広げたことが相乗効果を起こし、さらにJR東海や西日本でもキャンペーンの輪が広がった。キャンペーンに乗って夏頃から青函連絡船に人々が殺到し、何年か振りに連絡船は満員となって乗船制限や積み残しが出る状況になった。1987年度の輸送実績は14年振りの旅客上昇を示し、函館の観光施設にもその効果が出てきた。

 その年の11月25日、JR北海道、青森県、青森市、北海道、函館市による会談が行われた。青函連絡船をどうするのか、最後の話し合いとなる席である。この会談の結果が青函連絡船の行く末を正式決定するもので、自治体側から最後の妥協案として、廃止後の夏に地元でのイベントの一環としての臨時運行がJR北海道に要請された。
 そして結論が出た。青函連絡船は青函トンネル開業と同日の1988年(昭和63年)3月13日に廃止。廃止後は連絡船のうち「津軽丸型」2隻を、保存のため函館市と青森市に1隻ずつ譲渡すること。廃止後の1988年6月から9月まで2隻を使用して復活運航をすること…以上3点が合意された。青函連絡船存廃問題に対して、市民側とJR側のぎりぎりの妥協であった。

 年が明けて1988年(昭和63年)1月6日、青函連絡船廃止を目前にして検査有効期限の切れる「大雪丸」が一線から退くことになった。本来は年末に廃船の予定であったが、連絡船廃止を前に多くの旅客が航路に殺到し、年末年始の繁忙期を乗り越すために急遽必要と判断されて1ヶ月ほど寿命が延びた。
 連絡船は1隻欠けて7隻で最期を迎えようとしていた。年末年始の繁忙期を過ぎても航路には多くの人々が訪れて、別れを惜しんでいた…惜しまれながら役目を終える、これもまた歴史である。
 陸上では青函トンネルでの列車の試運転と乗務員訓練が順調に進み、開業を待つだけの段階に達していた。

 3月13日朝、青森駅から電気機関車牽引の快速列車「海峡」1号が、函館駅から特急電車「はつかり」10号が、多くの乗客を乗せてそれぞれ対岸を目指して発車した。二つの列車は青函トンネルにほぼ同時刻に入り、海峡中央部ですれ違い、ほぼ同時刻にトンネルを抜けた…青函トンネルが開通した世紀の瞬間である。人々は船も飛行機も使わずに、列車で津軽海峡を渡るという事実に感動した。同時に貨物列車も連絡船からトンネルに切り替えられ、青函トンネルは北海道と本州を結ぶパイプとして津軽海峡に新しい歴史を刻み始めた。
 そして同日の夕方、函館から「羊蹄丸」22便が、青森から「八甲田丸」7便が出港した…青函連絡船最後の船である。無数の紙テープが舞い、ブラスバンドの「蛍の光」に見送られての最後の便は日本全国から多くの人々が殺到して満員であった。鏡のように穏やかな海峡中央部では両船はできる限り近づき、人々はすれ違う船に精一杯手を振って見送った。
 様々な人々が様々な方法で最終便を見送り、出迎えた。自衛艦が両船を追走し、青森港では大勢の人がペンライトを振って「羊蹄丸」を出迎え、函館港では多くの市民が自動車のライトで「八甲田丸」を照らした。

 1988年(昭和63年)3月13日20時50分、両船とも無事に着岸した瞬間、青函連絡船は80年に及ぶ歴史に幕を下ろした。

5 連絡船のあと

 青函連絡船は同じ年の6月3日に復活した。北海道と青森県で行われたイベントに合わせて復活運航に当たったのである。1日2往復で船は「羊蹄丸」と「十和田丸」の2隻だけで、夜は海上ホテルとして両船を青森・函館の両桟橋に開放した。連絡船の復活運航は好評であったが、9月18日のイベント終了をもってこの運航も終わり、青函連絡船は永遠に津軽海峡から姿を消した。

 最後まで活躍した「津軽丸型」はその後、バブル経済による好景気と、バブル崩壊後の不景気という時代の流れに乗って波乱の道程を歩む。
 「八甲田丸」は青森県に払い下げられ青森桟橋の跡地に保存され、船内は世界初の鉄道連絡船博物館となった。2012年以降は後述する「羊蹄丸」で展示されていた展示品が移設され、青函連絡船の歴史を今に伝えている。
 「大雪丸」は東京港で海上ホテルに使用されるために東京の会社に引き取られたが、海上ホテルとしての停泊海域問題がこじれて営業できなかったためにこの会社が倒産。横浜のドックに引き取り手がないまま係留されていた。1996年(平成8年)にドック側が「大雪丸」を解体することを発表すると、九州の食品関係会社がこれを引き取ると申し出た。商談は成立し「大雪丸」はきれいに改装されて、船内もホテルとして改造された。そして1997年(平成9年)に長崎港に回航され、「ホテルビクトリア」という海上ホテルに生まれ変わって営業を開始した。だが保有会社が倒産し、外資系ホテルグループの運営になって数年の2005年(平成17年)にホテルとしての営業を終了。中国の企業に売却されて長崎港から姿を消した後のことは解っていない。
 「摩周丸」は函館市が買い取り、函館桟橋跡に保存されてシーポートプラザという名の函館の新しいスポットとなった。船内には青函連絡船の歴史を伝える展示もあり、船橋などが公開されている。1993年(平成5年)の日本海中部地震の津波で被害を受けたが、すぐに修理されて再び桟橋跡に展示されている。「摩周丸」の所有者は当時はJR北海道や函館市などが出資した第三セクターであったが、現在は函館市の所有となっている。
 「羊蹄丸」は日本船舶振興財団に引き取られた。1992年(平成4年)夏にイタリアのジェノバで開かれた海洋博覧会で日本パビリオンとして展示、その後は東京都の臨海副都心整備を待って1996年(平成8年)から「船の科学館」で保存展示された。外舷塗装はジェノバ海洋博覧会出展の際に白と青の塗り分けにの塗装に塗り替えられたが、2003年(平成15年)12月に青函連絡船時代の塗装に戻された。2008年3月には青函連絡船運行開始100周年のイベントが行われるなど、東京で青函連絡船の歴史を現在に伝え続けていた。だが2011年(平成23年)に「船の科学館」が建物の老朽化などが問題になって9月一杯で無期限の休館となると、「羊蹄丸」の展示公開も休止となってしまった。翌2012年(平成24年)3月までに「羊蹄丸」は「えひめ東予シップリサイクル研究会」に無償譲渡され、解体船の資源リサイクルについて研究するために解体されることになった。「羊蹄丸」は愛媛県新居浜東港に回航され、ここで約1ヶ月半の間一般公開された後、車両甲板で保存されていた機関車や客車を搬出。さらに香川県多度津町に回航され、この地でリサイクル研究を目的とする解体が行われて果てた。
 「十和田丸」は国内の船会社に買い取られ、初の国内定期クルーズ船として横浜〜神戸間の定期航路に就いた。その間に貸し切りによる日本一周クルーズも行われ、函館港に帰ってきたこともあった。しかし1992年(平成4年)1月に旅客減少を理由に定期便運航が取りやめとなり、アメリカ企業に売却されてフィリピンのリゾート地に回航されてで観光客相手のカジノ船となった。このカジノ船としての営業も長続きせず、数年後には当地で放置状態にあったという。2008年(平成20年)にバングラデシュの解体場に回航され、解体されて果てた。
 「空知丸」は国内でしばらく係船されたあと、1990年(平成2年)にギリシャのフェリー会社に売却された。旅客設備がつけられて、車両甲板に自動車を積めるように改造されてカーフェリーとなって黒海や地中海で活躍した。2004年(平成16年)に韓国に一度売却された後、2006年(平成18年)には前述とは違うギリシャの船会社に売却と所有者が転々としたが、この間はずっとスロベニアに係船されていた。その後もスロベニアに係船され続け、2011年(平成23年)トルコの企業に売却されるとイスタンブールに回航され、翌年夏にこの地で解体されて果てた。
 「檜山丸」は「財団法人 少年の船協会」に引き取られ、1989年(平成元年)から青少年研修船「21世記号」として日本国内や周辺国を巡回した。ところが経費が予想以上に嵩んで運行継続が困難になり、1992年(平成4年)から岡山県のドックに長期間係留されていた。1999年(平成11年)になってやっと買い手がつき、韓国の船会社に引き取られた。カーフェリーに改造されて韓国内航路に就航予定だったが、2000年(平成12年)にシンガポールに転売されてこちらでカーフェリーとして活躍した。後にインドネシアに売却されてスラバヤ付近でカーフェリーとして運行されたが、2009年(平成21年)に火災事故を起こして全焼して果てた。
 「石狩丸」は1988年(昭和63年)夏に北海道広尾町でのイベントで展示された後、大阪の企業に引き取られて関西空港の工事に使われる予定だったとされていた。ところがすぐに香港の会社を経てギリシャの船会社に転売され、1990年(平成2年)にカーフェリーに改造された。その後、船会社をいくつか転々としながら地中海航路でカーフェリーやチャーター船として活躍していたが、2006年(平成18年)にインドへ回航され、解体されて果てた。

 青函トンネルは開業後暫くは、青函トンネルブームに乗って客足を伸ばしていた。特に東京〜札幌間直通の寝台特急「北斗星」や大阪〜札幌間の寝台特急「トワイライトエクスプレス」は人気で売り出しと同時に満席になる状況であった。1999年(平成11年)には新型の豪華寝台特急「カシオペア」が、東京〜札幌間に加わる。
 しかし、開業ブームが去ると次第に客足は遠のき、寝台特急以外の乗客数は大幅に落ち込んだ。JR北海道では快速列車「海峡」にカーペット敷きの車両やカラオケボックスを連結し、車体に人気アニメキャラクターの絵を描いたりとあらゆる方法で集客に努めていた。
 貨物輸送では青函トンネル開業で今までにないほどのスピードアップが可能となり、さらに天候による欠航も大幅に減ったために津軽海峡を渡る貨物の多くが鉄道に集まった。現在は本州と北海道を結ぶ貨物輸送は、青函トンネルを経由する鉄道輸送がその中心的役割を担うほどになっている。
 2002年(平成14年)12月、これまで盛岡止まりだった東北新幹線が八戸まで延長開業した。同時にダイヤ改正がされると、これまで東北新幹線に接続して青森とを結んでいた特急「はつかり」は廃止となった。代わって八戸から青森を経由して函館とを結ぶ特急「白鳥」の運転が開始され、JR北海道受け持ちの列車は新型車両が投入されて「スーパー白鳥」の名で営業運転開始した。またこのダイヤ改正では青函トンネルを通る旅客列車は特急に統一されることになり、青函間を結んでいた快速列車「海峡」は姿を消した。
 2010年(平成22年)12月、東北新幹線は新青森まで延長開業して東北新幹線は全線開業を達成した。同時に特急「白鳥」「スーパー白鳥」は新青森〜函館間の運転に改められて、新幹線に接続して津軽海峡を結ぶ列車へと変化した。翌年3月からは東北新幹線に最高速度320km/hの高速列車「はやぶさ」の運行が始まり、東京〜新青森間は3時間を切って函館まで5時間余りで到着できるようになった。
 だが、この高速化は青函トンネルで好評を博していた寝台特急に暗い影を落とすことになってしまう。青函トンネルの新幹線対応工事によって、青函トンネルの深夜帯の運行が困難になった事も手伝い、2015年(平成27年)に「北斗星」と「トワイライトエクスプレス」が、翌年には「カシオペア」がそれぞれ海峡から姿を消した。
 2016年(平成28年)3月、遂に北海道新幹線が新青森〜新函館北斗間に開業、津軽海峡にいよいよ新幹線が姿を現した。青函トンネルは貨物列車と軌道を共用しているため140km/h運転となったが、東京〜新函館北斗間を4時間余りで到達できる時代がやってきたのだ…昭和30年代まで津軽海峡渡航だけで4時間半掛かっていたことを考慮すれば、これは大きな躍進のはずだ。北海道新幹線開業と同時に津軽海峡を結んでいた特急「白鳥」「スーパー白鳥」は廃止となり、津軽海峡を結ぶ鉄道の歴史は現在に至ることになる。

 青函連絡船廃止後の海峡では、フェリー会社が津軽海峡の王者となって君臨する。その中でも中心的な東日本フェリーでは、好景気も手伝って連絡船廃止と同時に積極的な運営に出た。
 ひとつはフェリーの高級化である。船内にエスカレータを設置して旅客の船内移動を楽にし、豪華なラウンジや展望船室を設けた豪華フェリー「べにりあ」が1988年(昭和63年)に就航した。同型船はさらに数隻ほど青函航路に投入され、文字通り津軽海峡の新しい女王として君臨した。だがバブル経済崩壊で利用客が減ると青函航路に見合った船が投入されるようになり、「べにりあ」のような豪華な大型フェリーはもっと所要時間の長い航路に転属されて津軽海峡から姿を消す。フェリーは時間がかかっても青函トンネルの半分の運賃で青函間を結んでいるため、ローカル客が高運賃の青函トンネルを嫌って流れてきている。特に2002年以降は津軽海峡線経由の列車は全て特急になったため、その運賃格差は大きくなっている。
 そして当時の東日本フェリーが津軽海峡で実施したもう一つの施策は船の高速化で、青函航路にジェットフォイル「ゆにこん」(初代)を就航させた。水中ジェット推進機で多量の水を後方に噴射して高速を出すこの船の就航によって、青函間は船で2時間を切って青函トンネル経由の快速「海峡」を凌駕した。この初代「ゆにこん」の定期船による津軽海峡渡航時間…青函間1時間40分は、まだどの船も破っていない。しかし、急行料金があまりにも高く利用客が伸び悩んだため、1996年までに引退した。
 代わって就航したのが、大型高速フェリー「ゆにこん」(二代目)である。今度は自動車やトラックの積載も可能になって、青函間を約2時間で結ぶこととなった。また時化の時の欠航率も下がったため、安定した津軽海峡の高速輸送を保てることとなったが、燃費が悪くて採算が合わないことを理由に2000年(平成12年)に運行を取りやめ、、台湾に売却された。

 しかし、津軽海峡だけでなく多くの本州〜北海道間航路を擁していた東日本フェリーは、1990年代の積極的な航路展開や、多角経営が上手く行かなかったことが原因となって2003年(平成15年)に債務超過に陥って倒産してしまう。そして広島県呉市の海運会社に吸収合併されるかたちで再建され、積極展開していた航路は大幅に整理宿小されて津軽海峡近辺航路だけとなり、最終的にはこの海運会社がフェリー部門を分社化するというかたちの新しい東日本フェリーが誕生する。
 新生東日本フェリーは津軽海峡で積極的なフェリー事業に乗り出す。ここで東日本フェリーが着手したのは、「ゆにこん」引退で途絶えていた高速フェリーの復活だ。大型高速船を数多く輩出しているオーストラリアのインキャット社のウェーブ・ピアサー型高速船を投入し、青函間1時間45分で結ぼうという計画であった。ウェーブ・ピアサー型とは極端に細長い下部船体を持つ双胴船で、船体が極端に細長いことで波による抵抗が減るだけでなく、自らが起こす波も小さくなるので周囲の影響を抑えながら高速航行が可能となるタイプの船だ。ただ双胴船とはいえ船体が極端に細長いので、船のサイズにどうしても限界がある。
 2007(平成19年)年9月、白い船体に魚などのイラストが描かれたこの高速船は「ナッチャンRera」と命名されて青函航路にデビューした。翌年春には第二船「ナッチャンWorld」がこれに続く。最大1746人の乗客と、普通自動車195台、トラック33台を乗せて36ノットで航行するこの船は、津軽海峡だけでなく当時の日本のフェリーの代名詞的存在になっていた。
 ところが新生東日本フェリーをまた経営危機が襲う。この頃世界を襲ったリーマンショックと呼ばれる不況がきっかけで燃料費が高騰し、東日本フェリーは経営が行き詰まってしまったのだ。2008年秋、東日本フェリーは青函航路、函館・大間航路、青森・室蘭航路から撤退することとなった。青函航路と函館・大間航路、それにこれら航路の船は1972年(昭和47年)から青函航路で貨物フェリーを運航し2000年(平成14年)より一般旅客フェリーに業態を変更した道南自動車フェリーが引き継ぐことになったが、青森・室蘭航路については引き継がれずに廃止となった。また高速フェリー「ナッチャンRera」「ナッチャンWorld」は引き継がずに、運行を取りやめることとなった。

 東日本フェリーの航路を引き継いだ道南自動車フェリーは社名を「津軽海峡フェリー」と改め、津軽海峡におけるカーフェリー業に特化して行くこととなる。運行をやめた高速フェリー「ナッチャンRera」は台湾に売却され、「ナッチャンWorld」は函館フェリーターミナルに係船されて夏季繁忙期だけ臨時便(青函間2時間45分)として使用されることとなる。2011年の東日本大震災では自衛隊の要請で被災地への緊急援助部隊の輸送や、援助物資の輸送などに大活躍した。後に「ナッチャンWorld」は夏季の臨時便運行を取りやめ、防衛庁に貸し出されて戦車輸送などの訓練にかり出されるようになる。現在は防衛庁との間で使用契約が結ばれていて、訓練や有事の際は自衛隊と物資輸送などに使用されるという。
 津軽海峡フェリーでは現在、4隻のフェリーで青函間を結んでいる。これとは別に1973年(昭和48年)から青函間で貨物フェリーを運航し、2000年(平成14年)より一般旅客フェリーに業態を変更した共栄運輸と北日本海運のフェリーが青函航路でフェリーを運航している。共栄運輸と北日本運輸は貨物フェリーとしての運航開始時から業務提携を行い、「青函フェリー」のブランド名で津軽海峡を結んでいて、現在は両者で2隻ずつ計4隻のフェリーが運航されている。最後にこの文章を加筆修正した2018年3月現在、青函航路で活躍して津軽海峡の歴史を刻んでいる船の名を明記して本文を終わりたいと思う。

・津軽海峡フェリー(青函航路)
 「ブルードルフィン2」(旧「ほるす」)7003トン 1994年就航
 「ブルーマーメイド」8860トン 2014年就航
 「ブルードルフィン」8860トン 2016年就航
 「ブルーハピネス」8800トン 2017年就航

・共栄運輸
 「3号はやぶさ」2107トン 2000年就航
 「はやぶさ」2949トン 2014年就航

・北日本海運
 「あさかぜ5号」1958トン 1998年就航
 「あさかぜ21」2048トン 2009年就航


 そして、現在も津軽海峡はそこに厳然と存在する。
 海の上で、海底の底で、海を渡る人々の歴史はまだ続いている。
 ここでは、青函連絡船を中心とした海峡の誕生からこれまでの歴史をここに書いてきた。まだ書き足りないことは多々あるが、ひとまず終わりにしたい。
 海峡の交通機関の変化、丸木船から始まって、それが帆船になり、汽船になり、巨大システムとして作り上げられた連絡船となり、海底トンネルへと変わっていく歴史と人々の努力を少しでも読みとっていただければ、幸いである。


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