走れ!超特急
1999年9月18日の意味
1999年9月18日が意味するもの。それは0系の東海道区間からの撤退であるが、その意味を深く考えると「新幹線の一時代の終わり」にたどりつく。
0系について、東海道新幹線について、それらと1999年9月18日について、客観的に語ることにしよう。
1.0系という車両
1964年10月1日、東海道新幹線東京〜新大阪間が開業。この一番列車が0系だった。誰もが知っていることであるが0系は新幹線最初の営業用車両である。その時、この車両が35年も同じ区間を走るなんて誰が想像したことだろう。普通の鉄道車両なら登場から30年も経てば支線に追いやられるなどの末路をたどり、まずは東海道新幹線のような表舞台には立てないだろう(鉄道車両の年齢は人間の半分と考えればよいだろう)。
0系は新幹線列車の増発・増結や、山陽区間への延伸に伴い増備が続き、マイナーチェンジを続けながらも、1986年に製造が打ち切られるまでの22年間に渡り3216両製造された。しかも、開業当時の車両は1970年代後半には老朽化が進んで廃車となり、その変わりに投入されたのも0系だった。そう、0系の後継車が0系だった時代があったのだ。古くなった車両を置き換えるのに同形式車を新造したという例は、0系の他に聞いたことがない。
つまり、その製造車両数の多さや、0系が0系を置き換えたという歴史を見ていると、0系という車両が技術的に完成された車両であったことは否めない。それが新幹線開業35周年を目前に控えた今日でも0系が見られる最大要因であろう。
さらに0系は、世界で初めての超高速鉄道車両である。時速200キロ以上での営業運転を初めて実現し、世界最速列車の地位を、フランス国鉄TGVの開業までの17年間保ち続けたという偉大な車両であるのだ。新幹線の成功…0系の走りが当時、世界の常識であった「鉄道は過去の乗り物で斜陽化するのみ、これからは航空機と自動車の時代である」という考えを覆し、世界の鉄道に「鉄道は超高速・大量輸送で生き残れる」ことを示し、ヨーロッパに高速鉄道網を作るきっかけにもなった。世界の名だたる高速列車、フランス国鉄TGVも、ドイツ国鉄ICEも、スペイン国鉄AVEも、日本の新幹線0系の成功がなければ誕生しなかったといわれている。
そう、日本の鉄道が世界に自信を持って誇れる車両が0系であり、0系は世界の鉄道の救世主であり、0系は世界的な名車…地球上のあらゆる鉄道車両の中で最高の名車といっても言い過ぎではないだろう。
まずは、9月18日という日にそれだけ技術的価値の高い車両が、最初に使用された区間から引退するということである。
2.0系が消えるまで
100系がまだ新車だった頃、実は0系は東京〜新大阪間の方が見られる確率が高かった。二階建て食堂車を連結する100系は東京〜博多間直通の「ひかり」のみ(朝夕の間合い運用はのぞく)に充当されていたからだ。国鉄が分割民営され、JRが発足してJR東海の経営が軌道に乗ると、東海道新幹線向けの100系G編成(二階建てグリーン車2両で食堂車の変わりにカフェテリアを設備したタイプ)を大量増備。この100系G編成大量増備の前に東海道0系は「ひかり」の定期運用をあっという間に失ってしまい、さらに初代「のぞみ」である300系が大量生産されるに至ると、300系に「ひかり」運用を追われた100系に「こだま」運用すら奪われてしまった。
東海道新幹線は、度重なる列車の増発で列車の運転余裕がダイヤ改正のたびに少なくなっていった。「のぞみ」が誕生し、1時間に一本の運転となると、「ひかり」は「のぞみ」から逃げるために「のぞみ」並の高速運転を強いられるようになっていた。現在の東海道「ひかり」の殆どは「のぞみ」運用もこなせる車両、300系でないと運用できないといわれている。その「のぞみ」に追われる運行形態は「こだま」にも及んでおり、古くて加速性能が100系や300系に劣る0系では非常に辛いものになっていた。ひとたび列車が遅れれば、0系の足の鈍さが遅延回復の足を引っ張るようになる。17年間に渡り世界最速列車の地位を欲しいままにした東海道0系の哀れな末路である。
東海道新幹線に車両を乗り入れていたJR西日本でも、このような事情で東京乗り入れ「ひかり」から予定より早く0系を撤退させざるを得なくなった。さらにJR東海・西日本間の車両乗り入れ距離調整(乗り入れをしている鉄道会社間で、車両使用料金の決済をしなくなすむように互いの車両の乗り入れ距離を同じにすること)のために「こだま」として東京へ乗り入れていたJR西日本0系も、100系をJR東海から譲渡されたことによって100系に置き換えられている。よってJR西日本から乗り入れの0系も、臨時列車で僅かに姿を見るだけで、これも今年夏が最後と言われている。
つまり、9月18日に東海道0系が定期運用を離脱すると、本当に東海道新幹線から0系がなくなってしまう。臨時列車でしばらく残るだろうけれど、「この時刻に行けば必ず0系がいる」ということはなくなる。
3.東海道新幹線という線路
0系が産声を上げたのは当然の事ながら東海道新幹線である。1964年に東京〜新大阪間が開業したことは前述した。
厳密にいうと、新幹線というのは在来線の線型改良増線区間なのだから、東海道新幹線とは東京〜新神戸間を指すのだろうが、新大阪で列車の運行体型が大きく変わっていることや、保有している会社もここが切れ目になっていること、一般的には「東海道新幹線・東京〜新大阪」「山陽新幹線・新大阪〜博多」で定着しているので、このホームページでもこの呼び方に倣っている。
東海道新幹線は、日本列島の中心を走る関西や東海地方と関東地方を結ぶ重要な路線である。もっと言い方を変えると東日本と西日本を結ぶ路線ということだろう。対して山陽新幹線は路線が日本列島の西に位置しており、東日本に住む人たちにとっては非常になじみの薄い路線だ。山陽新幹線沿線に住む人々が東北・上越新幹線を見るのと同じである。
0系が生まれた場所が、東海道新幹線イコール日本列島の中心だったから、東日本・西日本まんべんなくその人気が広がり、日本中の人々に夢を与えることができたのだろう。また東京と大阪を結ぶ列車は、昔から最高レベルの車両が走っており、いつも人々の憧れだった。東海道を走る列車は常に日本人の心の中にあったのだ。
9月18日に0系が東海道新幹線から姿を消すということは、日本列島の中心から0系が消えるのであり、東日本に住む人々にとっては0系が完全に消滅するのと同じである。大阪以西に出掛ければ0系を見ることはできるけれど、普通の人にはそんな機会がしょっちゅうある訳ではない。
4.0系のこれから
ここでは私の想像力をフルに活かして、0系の未来について語ろう。ここに書いてあることはほんの一部を除いて私の想像であり、鉄道会社側の正式な情報を使用したものではない。
JR東海では、9月以降も臨時列車として0系が走るかも知れないが、その機会も僅かであろう。最後の0系の検査切れまでにダイヤ改正がされ、0系が乗れるダイヤは同時に東海道から消滅し、例え0系がそこにあって使用可能であったとしても、0系を使用することができる列車がないという状況になって、東海道新幹線では0系は使い道がなくなる。
それとは別にJR東海は0系の保存を予定しており、既に飯田線中部天竜駅に併設されている「佐久間レールパーク」に先頭車のカットボディが保存・公開されているという。浜松工場内にも数両が保管されており、これらが我々の目に触れるような形で保存されることを願わずにはいられない。
さらに700系の「のぞみ」投入が進むと、「ひかり」が300系で統一されて100系の廃車が始まるであろう。現に「のぞみ」700系化は着々と進んでおり、300系で東京〜博多間を通す「のぞみ」は7月から1往復半となってしまう。東京〜新大阪間「のぞみ」への700系投入が本格化する頃、ポスト0系として作られた100系は、0系の後を追うように古い順に姿を消すのだ。
JR西日本の0系の活躍はまだ数年続くであろう。だが東海道への乗り入れはなくなるに違いない。
来年春からJR西日本も700系を導入し、新大阪以西の「ひかり」運用に投入するという。同時に0系をグレードアップした「ウエストひかり」用の0系が職を失うことになるだろう。さらに700系が投入が進めば「ひかり」から0系が撤退し、「こだま」専用になるであろう。そこまでは僅か1〜2年程度の話と思われる。
それでもさらに700系か、別の新車かは分からないが新車の製造が続けば「ひかり」の100系が単編成化されて「こだま」に落ちて来るに違いない。その頃には二階建て車両は廃車になり、中間車に運転台をつけて先頭車にするなどして6両編成や8両編成の100系が登場するのではないだろうか。そうやって0系の「こだま」も西へと追いやられると思われる。
そして5〜6年後、小倉〜博多〜博多南間で運用されている4両編成が0系最後の姿となるのである。それでも0系は新幹線40周年…0系40周年のその日を、この短い区間で生きたまま迎えるに違いない。そして新幹線の西の果てで世界の名車0系は、その栄光に満ちた生涯を閉じるのである。
これはあくまでも私が立てたシュミレーションであり、あくまでも予想でしかないからひょっとしたら別の筋書きとなるかも知れない。でもこう考えるのが一番妥当だと信じている。
0系が東海道新幹線から姿を消す、ということについていろいろと書いてみた。この他にも書きたいことはたくさんあるのだが、それは追って書くことにしたいと思う。