新幹線乗車日記
最近の新幹線乗車の記録です。
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1999年10月以降に新幹線乗車の記録を書いてゆきます。乗った車両や編成番号も分かる限り書いてゆきます。 11月1日開始です。 |
1999年12月20日 長野新幹線
1E 「あさま」1号 E2系 N- 1編成2号車5番A席
1999年12月20日 長野新幹線 6E
「あさま」6号 E2系 N- 5編成2号車10番E席
この日も長野への仕事のため新幹線利用となった。前回(10月)と同じ行程であったが、先行のあさま503号でも1号でも長野到着時刻が殆ど変わらないため、乗車指定列車が変更になった。それもそのはず、503号は全駅停車であるが、1号は列車番号からも分かるとおり速達便のうちの1本で、途中大宮・上田のみ停車である。私にとって初めての「あさま」での駅通過、さらに好天時の「あさま」乗車も初めてである。
先行の503号出発時にホームに到着、車内をのぞき込むとほぼ満席であった、今回も自由席乗車、早めに来ておいて正解と思った。程なくスキーを持った若者達が私の後ろに列を作った。向かいのホームにはガーラ湯沢に向かう「たにがわ」が止まっている。
発車時刻ギリギリになって列車が入線してきた。編成番号を見ると量産先行車で長野新幹線トップナンバーのN-1編成でびっくり、乗り込むと指定席乗車の同僚が顔を出した。
すぐに発車、車内を見るとそれほど座席は埋まっていない。半分くらいは空席のままである。大宮で乗客が乗り込んできたが、3割程度の座席が空席のまま残った。私の座席もふたつとなりのC席はOL風の女性が座っていたが、となりのB席は空席のままであった。
列車は思い切り加速して、すぐに熊谷を通過して高崎にかかった。高崎駅通過中にブレーキがかかり、38番分岐器を分岐側制限速度一杯で通過、再び加速して関東平野北縁の山岳部に突っ込んだ。安中榛名を通過し、トンネルを何本か抜けると目の前がパッと明るくなった。列車は緩やかに減速して軽井沢駅を通過する直前、浅間山が美しい姿を現した。緩やかに伸びる稜線がいつ見ても美しい。
軽井沢駅を時速70キロ以下の低速で通過、またトンネルの連続である。佐久平を通過し、千曲川を渡ったところでスピードが落ちた。列車は久々の市街地を走り抜け、あっという間に上田駅到着。乗客の半分がここで下りていった。
上田からは私にとっては「いつも通り」の走りである。五里ヶ峯トンネルを一気に抜けるとすぐ長野である。
仕事は17時頃に終わった。解散になった後、同僚と二人で「お金を浮かせるために高速バスで帰るか、それとも新幹線で帰るか」かなりギリギリまで悩んだが、結局「疲れたから新幹線」で決着。ホームに下りるとちょうどあさま6号の乗車が始まろうとしていた。乗り込んで座席を確保し、駅弁や茶を買って時間をつぶす。発車するとしばらくは同僚と駅弁を食べながらくっちゃべっていたが、同僚の方は余程疲れていたようで、すぐに眠ってしまった。
列車は暗闇の中を猛スピードで走った。上田を出てからはどの辺を走っているのかよく分からない。一度速度が落ちて「ああ、軽井沢か」と分かった程度。次の目標物は安中榛名駅の灯りと、高崎市街の夜景であった。
車内は座席が半分と埋まっていない、ガラガラである。「あさま」は他の新幹線とは違い、速達便よりも途中停車駅が多い便の方が人気のようである。帰りも長野駅でホームの様子を見たら、速達便の6号よりも後続便(全駅停車)の自由席の方が行列が長かった。
列車は関東平野を激走し、無事に東京駅に到着した。これが1999年新幹線乗り納めとなった。
その他、11月28日にも東京〜京都間を「ひかり」「こだま」で往復したが、すぐに日記を書かなかったため編成番号及び乗車位置を失念してしまったので、書くのを断念します。
1999年10月27日 長野新幹線
503E 「あさま」503号 E2系 J- 4編成2号車5番A席
1999年10月27日 長野新幹線 536E 「あさま」536号
E2系 N-12編成2号車9番E席
前日(26日)になって急遽仕事での長野ゆきが決まった。慌てて旅支度をまとめて朝5時に家を出発。朝一番の電車で東京駅に向かい、6時50分頃に東京駅新幹線ホームに着いた。ちょうど乗車する列車が入ってきたところで、編成番号を見て
「なんでJなんだ」
と呟いてしまった。本来の「あさま」用E2系でなく、「やまびこ」用のE2系である。そういえばE2系乗車は3度目、過去の2度は「もっといい夫婦の日きっぷ」を利用した北海道旅行である。初日に中央本線の夜行「アルプス」と「ちくま」を乗り継いで長野へ行き、朝2番目の「あさま」で大宮へ、折り返し「こまち」併結の「やまびこ」で盛岡へ向かった。「やまびこ」もE2系だったので2度乗ったという訳。ただこの時は利用している乗車券がグリーン車乗り放題だったので、2度ともグリーン車であった。ようするに3度目で初めて普通車乗車という訳である。
E2系の普通車に初めて乗り込んだ感想は「なんか狭い新幹線だなぁ」。とにかく空席を見つけて座ったときの感想は「なんだ、300系まんまじゃん」…そう、座席に座って窓の外を見たときの目線といい、窓枠や窓の位置、そして窓の大きさといい300系そのままだった。ただシートピッチが狭く、座席は前傾姿勢で並んでいる。自然に座れば体重で前傾姿勢からは開放されるが。
とにかく慌てて出てきたので、上司と待ち合わせの列車の号数と時刻を確認しただけなので、この列車の停車駅など調べていなかった。ただ東京から長野まで1時間50分とは時間のかかる列車だと思って吐いたが。デッキ扉上の電光掲示が停車駅を流しはじめた「停車駅、上野、大宮、熊谷、高崎、安中榛名、軽井沢、佐久平、上田…」何だよ、これじゃ「こだま」じゃないか。先は長そうだと思うと発車である。雲は低くたれ込み、今にも降り出しそうな空の下へと走りはじめた。雲の厚さの割には浅間山の山頂部が少しだけ顔を見せていたが、上田を過ぎると季節はずれの大雨となった。
復路は17時32分の「あさま」6号に乗り遅れた。仕方なく後続の便にしようと思ったら10分ほどで次が出るという。ホームに降りるとすぐに乗車開始となり、座席に座って外を見ると屋根に降った大雨が太い水流になって窓ガラスを流れている。停車駅案内を見るとまた全駅停車、やめてくれー。
列車は水煙を巻き上げながら突っ走る、窓を縦に流れていた水流は、列車の速度とともに斜めに傾き、やがて真横になったと思ったら少しずつ消えていった。やっと外の景色が見えるようになったときには列車は五里ヶ峯トンネルに入った。
少し微睡むと列車は軽井沢に着いた。おおっ碓氷峠越えだと思い4号車の車内販売準備室へ足を運び、峠の釜飯を買い込んで夕食とする。座席に戻った頃には安中榛名に到着しており、ここを横川だと思いこませて釜飯の蓋を開けた。食べ終わったのは高崎を出発した頃だった。
列車は熊谷、大宮と過ぎて東京駅に到着した。東京も季節はずれの豪雨に叩かれていて、一部の路線が不通になっているなど大変な様子であった。
今回の「あさま」の旅はとにかく疲れた。長野新幹線一往復して駅をひとつも通過しなかったのだから、でも在来線時代に比べたら余程早かったんだろうなぁとも感じた。
この日撮影したE2系N編成「あさま」・長野駅にて
1999年10月3日 東海道新幹線
414A 「こだま」414号 100系 G-28編成5号車5番A席
1999年10月3日 東海道新幹線 476A 「こだま」476号 100系
G-37編成9号車9番A席
下の書き込みの復路である。松井山手にある妻の実家に一泊してから10時頃に新大阪駅に着いた。名古屋までの回数券を金券屋で手に入れ、新大阪のツアーズで名古屋から東京への「ぷらっとこだま」エコノミープランの申し込みをする。あいにく普通車が満席で、グリーン車でも自由席に定価で乗るのと変わらないからという理由でグリーン用の「ぷらっとこだま」を申し込んだ。本当は名古屋から鈍行乗り継ぎが東名ハイウェイバスに乗って安くあげるつもりだったが、体力的に辛いと言うことで新幹線に変更した。
新大阪駅新幹線ホームに上がったのは11時頃、前の日に結婚式を挙げた友人が「のぞみ」7号で新婚旅行に旅立つので見送ろうというのだ。ホームへのエスカレータの乗り場で運輸省の職員からアンケート用紙が配布された。今回の旅行について記入して送ってくれと言う。その中味を確認していたら先にホームにいた新婦の方にいきなり声かけられた。新婚さん方と3人で盛り上がっていると、友人がもうひとり見送りに来た。程なく彼らが乗る列車がやって来た、編成番号をみて私は叫んだ。
「あ、C-0だ! 試作車だ!」
この列車は700系で運用、そして旅客運用に就いたばかりの700系試作編成がやって来たのだ。二人の幸せそうな笑顔が700系のグリーン車に消え、残された私と友人は「こだま」が出るホームへ、友人の見送りを受けて私は「こだま」の客となった。「こだま」414号は最後まで0系で運用された列車である。この列車が0系の頃に何度か乗った。そしてこの日、この列車に乗ったことで0系が東海道から姿を消したという事実を実感した。もういつまで待っても0系が来ない、0系で最後まで運転されたこの列車が0系でないということでそれを実感した。少し悲しくなった。
友人に葉書を書いたりしているとすぐに名古屋に到着した。名物みそ煮込みうどんを食べ、時間が余ったので地下鉄の乗りつぶしをしてからもう一度新幹線ホームへ、まだ1時間近く時間があるのでホームの東京方で行き交う新幹線列車を眺めていた。
私をグリーン車に乗せた100系「こだま」は名古屋駅をあとにした。グリーン車の大きな窓に西日が柔らかに射し込んだ。車内には私ひとりしかいない。
「先行のひかり号の遅れのため、この列車は名古屋を2分遅れて発車しました。只今回復運転を行っています。お急ぎの処お客様には大変ご迷惑をおかけします…」
2分くらいの遅れなら気にならないのに、わざわざこんな放送が流れた。しかも三河安城を出発した瞬間に
「この列車、三河安城を定刻に出発しました。お客様には大変ご心配をおかけしたことをお詫びします。」
だって、だれか2分遅れただけでゴネたお客さんでもいるんだろうなと想像した。
浜松で貸し切り状態は終わり他の乗客が乗り込んできた。列車は黄昏の東海道を東へと走っていた。東海道新幹線とは言え、この「こだま」の車内はゆったりとした時間が流れていた。
三島から外国人客の一行が乗り込んできた。この人たちはどうも普通車用のレイルパスで旅行しているようだ。車掌が必死になって「この車両は特別車」と説明するが、なかなか通じない。「ディスイズファーストクラスカー」でもダメ、「ダブルデッカーイズファーストクラス」でやっと通じたみたいで外国人が立ち去ったときには小田原駅が迫っていた。
列車は丹沢を越え、闇の関東平野を突き抜けて新横浜を過ぎた。多摩川の鉄橋を渡る直前、南武線の黄色い電車が下に見えたところで「ああ、帰ってきたなぁ」と感じた。
列車は都会へと入り定刻に東京駅着。「こだま」2本乗り継いでの旅は終わりを告げた。
1999年10月2日 東海道新幹線 43A 「のぞみ」 43号 300系 J-11編成5号車5番E席
5月以来久々の300系「のぞみ」乗車である。今回は友人の結婚式に「のぞみ」で駆けつける。礼服を着て新幹線に乗るのは初めてだ。
前の日に東京〜博多間最後の300系「のぞみ」を見送るため東京駅新幹線ホームに来たばかり。何だか拍子抜けの気分のまま日本橋口のエスカレータを昇ると300系初期車の美しいボディが並んでいた。
「やったぜ、プラグの300系だ」
と大喜びしながら前の車両へ歩き、指定された車両の指定された座席へ向かう。すると私の席になぜか背広姿のおっさんが座っている。特急券を確認すると、おっさんの方が座席一列分席を間違えていた。
「のぞみ」5号の500系W-6編成のあとを追いかけるように、我らが300系も出発した。いつもの見慣れたビル街を走り、品川へ。ここで今までと違うルートを通ったので驚く。そういえば0系が引退した9月18日深夜から翌日未明にかけて品川付近で大がかりな路線変更があったんだっけ、品川客車区の横を通過するあたりで高架橋から降り、工事用の鉄壁で作られたトンネルの中をひたすら走るルートに変更されていた。品川駅に停車している列車も、京浜急行の電車も全く見ることが出来なくなってしまった。そのまま殆ど外を見ることなく八ツ山トンネルへ入った。
あとはいつもと変わらぬ「のぞみ」の旅である。新横浜の手前で加速して一気に時速270キロ走行へ、箱根を越えると今日は美しい富士山が姿を現した。列車は10月とは思えない強い日差しの中を西へと突き進んだ。
やがて名古屋をすぎて、関ヶ原を越えて京都を出発した。楽しみなのは大阪車両所脇の通過である。新幹線の窓から直接見える新幹線の車両基地はここくらいだから。車両所を見ると300系でシングルアームパンタに改装したJ-9編成がまず目に付いた。そして端の方には廃車回送待ちの0系Yk編成と、100系X編成が固めて留置されていた。0系がこの区画(要するに廃車待ちや波動用など普段使用していない車両が留置されていると思われるところ)にいるのは納得だが、なぜ100系X編成がここにほぼ全編成留置されているのだろう。この時はこの日の改正でX編成が引退したなど知らず、この時はX編成の運用が大激減して使用本数がついに1本か2本になった程度にしか思っていなかった。
そう考えていると列車は夏のような日差しが照りつける新大阪駅に到着。私は結婚式が行われる上本町へ急いだ。