新幹線の思い出話

私はどうして新幹線の魅力に取り憑かれたのか


200系F編成
今は300系好きの私ですが、私を新幹線にハマらせた張本人はこの200系F編成かも知れない。

 まず最初に、私がなぜ新幹線に興味を持つことになったのかを綴ってみたいと思います。これを語るところから始めないとこのコーナー全ての話が始まりません。
 一度に全文章をまとめて公開すると読みくたびれる方もいると思いますので、少しずつ公開していきます。

1.最初に新幹線に乗るまで

 私が生まれたのは1970年、大阪での万博も無事終了し、大量輸送体制を完成させた東海道新幹線は西へと伸びようとしていた頃だった。赤ん坊の頃は鉄道など乗り物を見せれば喜んだという乳幼児期の私。物心ついた頃には鉄道の絵本や図鑑などに囲まれていた。それの最初に大きく出てくるのは必ず新幹線。ようするに物心付く前から新幹線=すごい列車というイメージがすり込まれていた。じきに新幹線は世界一速い列車だと知るが、前述のすり込みにより「当たり前じゃないか」と受け止めていた。小学生に上がると西武線沿線に引っ越したこともあり、興味が西武新宿線の電車へ移ったのと、家族旅行などで新幹線に乗る機会がなく秩父へ行くのにレッドアロー号に乗ったりという状況となり、新幹線は手の届かぬ遠い乗り物という存在になった。よく乗る西武線や親戚の家に行くときに乗る京浜急行の電車などがわかるようになってくると、手の届かぬ遠い憧れの電車から遠ざかり、手の届く電車ばかりを追い続けていた。

 最初に新幹線に乗る機会が訪れたのは小学6年生の夏。父の会社の人たちと家族で那須高原へ旅行へ行ったときである。この時は往路は急行「なすの」165系を利用し、帰りも鉄道利用と聞かされて喜んだ。しかも話のネタに6月に開通したばかりの東北新幹線に乗ってみようという話になったのである。今まで手が届かずに一方的に憧れてただけの新幹線についに乗る日が来る、しかも出来立てホヤホヤの東北新幹線だ。私はその日を指折り数えて待ち、家にあった新幹線の本を読みながら「乗ったらこうなんだろうなぁ」と勝手に想像していた。
 1982年の7月下旬、待ちに待った那須旅行に出かけた。往路は予定通り急行「なすの」の旅となり、165系に満足して黒磯駅に降り立った。那須で2泊過ごした帰りは、昼過前の新幹線「あおば」になるはずだった。
 帰る当日になって、父の友人が「車に余裕があるから一緒に乗って帰りませんか」と父に持ちかけた。この一言で帰りの交通機関が新幹線から東北自動車道に変わってしまったのである。私は「新幹線に乗るって言ったじゃないか」と父に泣いて抗議したのを覚えている。だが受け入れられるはずもなく、こうして東北新幹線初乗車は幻と消えて、私は泣きながら父の友人が運転する自動車に乗り込んだ。
 東北新幹線初乗車は、5年先の話になる。

 中学生になると興味の対象が地元の鉄道から全国的な鉄道へ移ってきた。特に新幹線と寝台特急への興味は強く、小遣いが出ると午前中は交通博物館で遊び、午後から夕方にかけて東京駅へ移動して夕方までは新幹線ホームで発着する新幹線を眺め、夕方からは在来線ホームで寝台特急を眺めていた。0系の姿が手が届くほど目の前にあったけれど、扉の向こうはまだ別世界でこの頃から「いちどこいつに乗って博多へ行ってみたい」という夢を抱く。在来線ホームでは寝台特急を見て同じように「これで九州へ行きたい」と思うわけだが。時刻表をみながら「こういうプランなら片道寝台特急、片道新幹線で九州へ行けるなぁ」なんて夢を膨らましていた。

 そんな時に東海道新幹線初乗車の機会が巡ってくるのである。中学校の修学旅行が京都に決まり、その往復は新幹線利用となった。この頃の東海道新幹線は100系試作車が製作中で、最初の試運転まであと数日という時期であった。当然旅客列車は0系ばかりで、往路は「こだま」スジの臨時列車で全駅停車しながらの旅を楽しんだ。乗った車両は37形式2000番台ということだけしか覚えていない。復路は「ひかり」スジで名古屋以外無停車であった。帰りも2000番台車だったのをハッキリと覚えている。
 車内で私は初めての時速200キロの走行に感動し、凄いスピードで流れる景色に見入っていた。こんな楽しい乗り物が世の中にあるなんてと思った。そしていつかこいつに乗ってもっと遠い場所を旅するんだと心に決めた。

2.それでも新幹線改札の向こうは別世界

 私は高校に上がると、アルバイトしてお金を貯めて自分で旅行に出るようになる。
 だが、高校生が学校の合間に行っているアルバイトだから収入には限度がある。旅行は「青春18きっぷ」や周遊券を使うものばかりで、当時の私にとって多額の特急料金を払わない限り新幹線に乗ることは出来なかった。従って新幹線の改札の向こうは当時の私にとって別世界であった。
 だが、全く乗らなかったわけではない。高校1年の3月、名古屋から普通列車乗り継ぎでの帰りに、信号故障で列車が遅れたためにやむなく浜松から静岡まで「こだま」に乗った。0系1000代の本当に小さな小窓から外を見ていたら目が回り、以降新幹線に乗るときは進行方向右側に乗ろうと決意したのがこの時。その数日後が国鉄分割民営のその日で、国鉄が最後に出した企画乗車券「謝恩フリーきっぷ」(1987年3月31日に限り国鉄全線全列車の自由席乗り放題という出血大サービスな切符、6000円)を使用して高山本線へ行ったのだが、その時に朝一番の「ひかり」(当時は0系)で名古屋へ向かった。同じ切符を使用する人々で車内は大混雑、しかも6時ちょうどの列車には乗れず4分後にあとを追いかける特発列車に乗った(それも大混雑でデッキの外も見えない場所に押し込められた)。当時は編成記号などには興味がなく、どんな編成が来たのかも今となってはわからないが、国鉄最後に乗った0系は大窓車であったは間違えない。
 国鉄時代の新幹線乗車記録は、中学校の修学旅行と、ここで紹介した2本、計4本であった。

 高校2年に上がって、やっと東北新幹線初乗車の機会が訪れる。修学旅行が北海道に決まったのだが、その数年前に起きた日航ジャンボ機墜落事故(1985年8月12日・日航機が群馬県に墜落して乗客乗員520名が死去、4名が重傷)の影響で父母が飛行機利用に反対した。その上生徒側からも「廃止になる前に修学旅行で青函連絡船に乗せてくれ」という意見が出た。学校側が折れて北海道への往復が飛行機から東北新幹線〜特急「はつかり」〜青函連絡船と変更になったのである。
 この修学旅行の往復とも東北新幹線F編成であった。当時日本一の速度を誇った列車は「やまびこ」でF編成で運用の殆どの列車で時速240キロ運転が行われていた。我々はその日本一速い列車の旅を楽しんだのである。特に帰りは当時新車だった200系2000代組み込みの編成が来た。我々は11号車乗車だったので普通の200系であったが、それでも内装が100系並に向上されており、新車気分の旅を楽しんだ。

 そして、そのスピードと迫力に感動した。もっと新幹線に乗りたい、もっと新幹線の旅をしたいと思った。

 1987年末にはJR東日本乗り放題切符「EEきっぷ」(現在のウイークエンドフリーきっぷに当たるが、当時は3日間有効だった)で東北旅行の際、初日は上越新幹線乗り潰しの行程にした。トンネルばかりで景色が見えないと聞いていたが、高崎以南と長岡以北の平野部でスピードを堪能し、トンネル区間では当時小学館から出ていた「勾配・曲線の旅」シリーズ(JR全線の勾配・曲線・トンネルや橋梁の長さがわかるという凄い本)を読んで、あまりのトンネルの長さと、それに対する通過時間の短さに驚いていた。さらに「あおば」で仙台へ一往復し、ローカルな新幹線の旅も覚えた。この頃から新幹線の旅に本格的にハマって行くのである。
 しかし、1988年は新幹線に乗る機会が全くなかった。青函連絡船や「C62ニセコ」など他に追いかけるものが忙しく、とても新幹線に乗る予算は出なかった。前述の東北旅行から高校卒業後の1989年6月まで新幹線乗車記録は途絶えるのである。

3.年に一度の贅沢旅行

 高校を卒業し、就職すると旅行に今まで以上に予算がかけられるようになり、新幹線はぐっと身近な乗り物になった。
 まず東北方面へよく行くようになった。するとお世話になるのは東北新幹線や上越新幹線である。東北新幹線ではF編成の速達便ばかりを狙っていた。当時最速の時速240キロ運転に感動し、はまりこんでいたのである。すぐに上越新幹線がF90番台編成で275キロ運転を開始するが、これにはなかなか乗る機会ができなかった。
 この頃に体験したのが、今や退役寸前の「食堂車」である。
 1989年夏、広島へ一泊旅行をした帰りにX編成の食堂車を初体験した。最初のメニューはカレーライスだったと記憶している。続けて1990年秋、神戸への旅で私にとっては最初で最後となった0系N
編成の食堂車でカレーライス。高速で流れる東海道の景色を眺めながらの食事は、忘れられないものである。
 そして1989年から毎年秋に関西方面を旅行することになる。この時に、私は「年に一度の贅沢旅行」として新幹線でグリーン車を利用することになった。この頃の東海道新幹線の主力は100系G編成。関西地方を旅して疲れた身体を100系のゆったりしたグリーン車のシートに沈めて帰りの時を過ごした。
 さらに静岡方面への旅行で「こだま」の客になることもあった。新幹線乗り回しを続ける状態も数年で途切れてしまう。
 1991年頃から付き合いのあった旅仲間が、殆ど新幹線には興味のない連中ばかりで、その人々に付き合うと在来線ばかりの旅となってしまった。
 その中でも1992年7月、山形新幹線「つばさ」の初乗りも楽しんだりした。在来線の旅と新幹線の旅を融合させながら、私と新幹線の付き合いは「単なる一旅人」ではなく、より思い入れの深いものとなってゆくのである。

(以下、「4.300系のぞみの時代」に続く)

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