2021年10月5日、仕事の合間にスマホでインターネットのニュースを確認した私は、そこにあったニュースを見て驚いた。
 西武鉄道2000系のトップナンバー編成、2001編成がついに廃車回送されたという「のりものニュース」がソースのニュースであった。おそらく私が見たニュースの履歴からニュースサイト側が選んで表示したのだろうけど、こういうニュースが鉄道ファン系の情報チャンネル以外からもたらされたことに非常に驚いた。

 同時にこのニュースは、鉄道好きとしての私の心の中に大きな穴を空けてしまった。
 私にとって「鉄道好きとしての原点」である鉄道車両が、この世から姿を消すのである。

 西武鉄道2000系は1977年に登場、西武新宿線の専用形式として数を増やし、その後1988年に新2000系にモデルチェンジされてからは池袋線にも投入され、西武鉄道の130年近い歴史の中ではもっとも数が多い車両である。
 そのトップナンバーで第一号車が、2001編成と言うわけだ。

 西武鉄道2000系が西武新宿線にデビューした1977年と言うのは、私が西武新宿線の沿線に越してきたときと同じである。引っ越してきて西武新宿線の電車たちに触れた幼かった私だったが、越してきてまもなく初めて見たこの当時の新型電車に一瞬にして惚れて憧れた。そしてそれからずっと、私はこの西武鉄道2000系とともに育ってきたと感じている。時には「他の路線にいない自慢の電車」であり、時には「地元の乗り飽きたつまらない電車」だったこともある。でも私と西武新宿線との記憶には必ずこの2000系があったのは事実だ。他のもっと古い電車や、もっと新しい電車を追いかけているときでさえ、常に2000系はそこにいたのである。もちろん鉄道好きとしての活動ではなく、日常や所用での電車利用でもかならず2000系はそこにいた。

 その中でもトップナンバーの2001編成は格別な思いがある。私が最初に見て惚れた電車であるのは確かだし、言うまでもなく最も付き合いが長い2000系でもあることで、数ある2000系の中で私が最も愛している2000系と言って過言ではない。
 その2001編成がこのたび老朽化により引退し、解体のために横瀬駅へ廃車回送され44年の生涯に幕を閉じたというのだ。

 こにニュースを受けて私が廃車回送先である横瀬駅を訪れることにしたのは2021年10月16日、悲しい廃車回送のニュースから10日の月日が流れていたが「まだ解体は始まっていない」ことを願って横瀬へ向かった。

 横瀬駅について駅の裏側へ回ると、そこに解体を待つ2000系の姿があった。
 番号が見える方向から見ると…
 ススキの向こうに「クハ2001」の文字が確認できた。
 私が最も愛した電車である2001編成が現役を退いたという「現実」を受け止めねばならない瞬間だった。
 文字部分を拡大してみた。西武鉄道の旧社章とともに、西武鉄道史上最大勢力である2000系トップナンバーを示す誇らしい数字だ。
 角度を変えてみたが、どうしてもクハ2001号車の顔がうまく撮れない。
 まるで最期の時を迎えているのを悲しみ、その悲しい顔を隠そうとしているかのようで、見ていて悲しかった。

 場所を変えてみよう。
 場所を変えると、かろうじて「顔」が見えただけでなく、編成全体の写真とすることもできた。
 写真先頭から2001-2101-2202-2301-2302-2201-2202-2002の8両編成となる。
 中間の4両目と5両目2301-2302は他編成からの組み込み車で、元々は初代の2131-2132だった車両なので生粋のトップナンバー車ではない。
 つまり元々は1977年に6両編成でデビューしたものが、1983年に2両増結して8両編成になったということだ。
 だが組み替え後はそんなことは無関係にトップナンバーを名乗っていた。

 ちなみに手前に少しだけ見えるのは、2両編成の2407編成。こちらは既に解体が始まっていて、2407の顔は見るも無惨な状況になっている。
 先頭車だけを望遠で撮ってみた。「行き先と種別表示3色LED」と「運行番号幕予定窓が白色」という組み合わせは、晩年は2001編成だけの特徴だった。
 昔はスカートもなく、横の行き先もなかった。44年間の長い生涯の中で、時代に合わせてあちこち改良されてきたのだ。

 横瀬駅の解体線で解体の時を待つ2001編成を見て、私は「2001編成引退」という現実を受け止めざるを得なかった。

 2001編成の生涯は大手私鉄の通勤電車としては長い方となる44年、西武鉄道の通勤電車としても破格の長寿だったと思う。
 1977年に登場し、最初の変化は1983年に他編成から中間車を2両もらって6両編成から8両編成になったこと。1990年代初頭に横にも行き先表示がつき、1990年代中頃には更新修繕で内装の全面的な交換と先頭部へのスカート装着、その後も行き先表示の3色LED化など変化していった。
 2010年11月、多摩川線にいた101系223編成が廃車された日から2001編成は西武鉄道通勤電車の最古参車両となった。順当にいけば旧101系の次は旧2000系が淘汰される番であるが、西武鉄道の車両事情が4扉車である旧2000系の引退を許さなかった。混雑緩和と旅客サービス統一のために特に新宿線や池袋線といった本線系統に残っている3扉車、新101系や3000系の淘汰が優先されたのである。こうして2001編成は最古参車両となったのちも11年間にわたって活躍を続けることになる。彼は後輩たちが先に引退して行き、自分が取り残されるように生き残ったのをどんな風に感じていたのか?
 そして、新101系も多摩湖線や多摩川線などの支線用を残して全車引退、3000系も2014年までに全車引退するといよいよ旧2000系に淘汰の陰が忍び寄ってくる。2015年10月に2023編成(田無事故復旧車)の廃車を皮切りに旧2000系の淘汰が始まるが、最初は6両編成の廃車が優先されて8両編成の2001編成などは生き延び、続いて9000系の支線転用による新101系淘汰が優先して行われたことで旧2000系の廃車は進まず、2001編成はここまで長生きすることになったのだ。

 次に私が撮影した写真から、2001編成の末期の活躍を見ていきたいと思う。

 2013年6月の撮り鉄時に2001編成を撮影した記録は、当サイトでも紹介済みだ。
 カーブが多い新宿線で、その身をうらなせながら進む2001編成のこの写真は、自分が撮った2001編成の写真で最も気に入っている1枚だ。
(花小金井〜小平間にて)
 2014年7月、西武新宿線に復活した「おくちちぶ」号を追いかけているときも、2001編成の姿を記録している。
 この頃はまだ旧2000系の置き換えは始まっていなかったが、「2001編成はそう長くない」と考えていた。
 そこから7年も生きながらえたとは、まさに予想外の展開だった。
(鷺宮〜下井草間にて)
 トップ画像に使ったこの写真は、2017年4月の桜の季節に撮ったもの。武蔵関の桜と2001編成の逢瀬は2021年春が最後だったことになる。この写真はタイトルを入れてばかりだったので、タイトルが入っていない写真の紹介は初めてだと思う。
(武蔵関〜東伏見間にて)
 2019年春に武蔵関の桜と電車の撮影をした際も、2001編成は私に元気な姿を見せていた。
(武蔵関〜東伏見間にて)
 上写真の列車が西武新宿まで行って、折り返し戻ってきたのがこの列車。この写真を撮影した2019年春には、2001編成はもう来月にでも廃車になるんじゃないかと心配していたが、それから桜の季節を二度も超えた。
(武蔵関〜東伏見間にて)
 各駅停車で田無へ行った2001編成が回送で折り返してきたのを撮ったこの一枚が、私が現役時代の2001編成を撮影した1枚となった。
 その後、仕事中に西武立川の松中通りの踏切で何度もこの2001編成を目撃していた。あるときは2連をぶら下げて10両で、あるときは単独で8両で…。
 最近ではこの8月にも2連をぶら下げ急行運用で拝島へ下ってゆく2001を見たばかりだった。思わず「まだ現役だったか…」と思ってみていたものだ。
(武蔵関〜東伏見間にて)

 この2001編成は幼かった私が本格的に鉄道に興味を持った原点である。繰り返しになるが幼い私の前に鮮烈にデビューし、それ以来ずっと共にあったの車両だ。

 2000系がデビュー間もない頃、幼かった私はどうしてもこの電車に乗りたくて、家族で出かけたときに「新しい電車に乗りたい」と散々我が儘を言って母を困らせたことをハッキリと覚えている。その日の往路では「じゃあ帰りに乗ろう」と誤魔化され、復路の高田馬場駅でそれを覚えていた私は「何が何でも乗るんだ」と聞かなかったのだ。
 「こんどの電車は各駅停車、その次の電車が急行電車、本当は早く帰りたいから急行に乗りたいけどこんどの各駅停車が新型だったらこれに乗って帰ろう。だけどそのあとの急行にどんな電車が来たとしてもそれで帰る、いいね」と母に諭され、私はこの母からの条件提示を受け入れることにした。
 そして、私は高田馬場駅のホームで「今度の各駅停車上石神井行きが2000系でありますよう…」と心の底から祈った。その祈りが通じたのか、数分後に私の目の前には「普通 上石神井」の表示を出しているピカピカの2000系の姿があり、母は約束通りこの電車に乗って帰ることにしてくれた。

 これが私が初めて2000系に乗ったときのことで、今も忘れずに残っている幼い日の記憶だ。そしてこの時の2000系が2001編成であろうことは、2000系の歴史と私の記憶を重ね合わせると間違いない事実と考えられる。

 その頃からずっと新宿線を見守ってきた2001編成は時代と共に姿を変えながら、他の西武鉄道の仲間たちとともに活躍してきた。デビューの頃は赤い旧型電車が圧倒多数だった新宿線で、これまた数少なかった101系とともにフラッグシップ的な活躍をしていた1970年代。それが旧型電車が数を減らし、赤い電車だった701系とその仲間たちが2000系と同じ黄色一色に塗り替えられて新宿線の主役となった1980年代。2000系が新2000系にモデルチェンジされて大量投入され、新宿線だけでなく池袋線でも活躍を開始して両線の主役となった1990年代。銀色の6000系や20000系が西武鉄道のメインルートで主役の座を奪っていった2000年代。同族経営に終止符が打たれたことでユニークな外観と、工夫をこらした内装で西武鉄道のイメージを変えていった30000系や40000系が看板になる2010年代…。
 このような時代の変化のなか、新宿線で2001編成は地味な活躍を続けていた。いつの間にか一緒に走る車両は自らより新しい車両の方が多くなり、「西武鉄道で最も古い電車」になってからも10年以上黙々と働き続けた。

 その2001編成の活躍を見ながら、小学生になったばかりだった私は歳を重ねて今は50を超えたおっさんになっている。子供の頃、「でんしゃに乗って小さな冒険旅行」の往復にこの2001編成が来た日のことも覚えている。通学や通勤の足としても2001編成を何度も利用してきた。こうして一緒に育ってきた思い入れ深い車両だった。

 そんな2001編成の廃車回送のニュースを聞いて、最期にもう一度会いたいと思って今回は横瀬まで足を運んだ。なんとか解体前に間に合ったかたちだが、やはり最も愛していた電車とこういうかたちで最期の逢瀬を迎えたことはとても悲しいことだった。

 西武鉄道にお願いしたい。2001編成の先頭車1両だけでいいから、「西武鉄道最初の本格的な4扉車」「西武鉄道史上最も車両数が多い2000系の第一号車」として保存できないものだろうか。それに無理があるのは重々承知である。だが2001編成は西武鉄道の車両史を語る上で避けては通れないものだろう、その第一号を保存して後世に残すことは十分に意義があると私は考える。

 このような我が儘を書いたところで、2001編成への弔辞としたい。


さらば 鉄道好きとしての私の原点である2001編成よ。
長きにわたり、お疲れ様です。
そして、安からに…

前のページに戻る