映画「MARCO 母をたずねて三千里」について

 1999年、「母をたずねて三千里」は劇場版アニメとしてリメイクされて松竹系で公開された。ここではこの映画についての考察と感想を述べていきたい。
 物語は基本的にオリジナルの「母をたずねて三千里」に準じているが、メレッリの不在とそれに伴うバイアブランカ往復の省略、ペッピーノ一座との馬車旅の行き先がコルドバに変更されるなど、物語を90分で収めるための工夫があちこちにされている。

交通整理(「母をたずねて三千里」との相違点のみ羅列)
 ・物語は「大人になったマルコの回想」という構成となっている。
 ・母との別れシーンでは、マルコは旅行中と同じオレンジ色の上着を着用している。
 ・マルコの家はオリジナルアニメ7話で引っ越して以降のもので、最初からここに住んでいる。
 ・アメデオに「飼い主はトニオ」という設定がない。また拳銃で撃つ真似をすると倒れる隠し芸がある。
 ・ペッピーノ一座は旅をしてジェノバに流れ着くのでなく、元々ジェノバを根拠地にして活動していたような描写である
 ・登場当初のフィオリーナは暗い性格ではない。←フィオリーナがマルコを特別視する理由が無くなる。
 ・メレッリの不在、アンナは当初からメキーネス邸に働きに行った事になっている。
 ・ペッピーノ一座がジェノバを旅立つ際は、誰の見送りもなく夜にコッソリ船が出て行く。
 ・「フォルゴーレ号」の行き先を告げるのはジーナで、マルコは「密航」という手段を自分で思い付く。
 ・マルコは旅立ちに当たってアンナの写真を家から持ち出す。
 ・マルコの渡航は「フォルゴーレ号」のレオナルドから懇願される。
 ・リオデジャネイロに着いたマルコは当初から移民船に乗り換え予定だった(オリジナルは現地での急な予定変更)。
 ・マルコとフェデリコ一行は、最初から甲板で隣同士に乗っていた。
 ・フェデリコの性格が精悍な年寄りに変更。
 ・ブエノスアイレスでアンナが住んでいた番地は「ロス・アルテス通り180番地」。
 ・マルコがアンナが住んでいたロス・アルテス通りの家で聞いたアンナの行方は、バイアブランカでなくコルドバ。
 ・メレッリが不在のため、バイアブランカへ往復する理由が無くなる。
 ・メキーネスがコルドバに転居した話はここで得られる。
 ・上記に従い、再会したペッピーノ一座同行のもと向かう先はコルドバとなる。
 ・コルドバへの道中、コンチエッタが病に倒れることでマルコは一座と別行動を取ることになる。
 ・ロサリオの有力者バリエントスをマルコに紹介したのは、ペッピーノ経由でフォスコ。
 ・ロサリオの「イタリアの星」による義援金は、コルドバまでだけではなくトゥクマンまでの汽車賃が出るほど集まった。
 ・コルドバでメキーネスがトゥクマンへ転居したという情報は、メキーネス邸の向かいに住む夫人の情報となる。
 ・パブロはフアナと二人暮らし、祖父は不在。
 ・コルドバからトゥクマンまでは徒歩主体の旅となる(オリジナルは殆どが牛車隊同行)。
 ・行き倒れたマルコを救った老人と、トゥクマンまでマルコを馬車に乗せた青年がごちゃまぜになっている。
 ・アンナは病により、マルコが来ても少なくとも一昼夜は意識不明のままだった。
 ・上記に従い、気が付いたアンナとマルコの抱擁は朝のシーンとして描かれる。
 ・アンナは手術せずに快復する。←アンナにとっての「マルコが来てよかった」が描かれない。
 ・マルコがアンナを連れて帰る理由がないままエンディングで帰路となる。

内容の詳細
1話 母との別れシーンのみ再現
2話 昼食の支度のシーンなど再現
3話 マルコがジーナの仕事を手伝うシーンを再現
4話 (カット)
5話
6話 母からの手紙不着シーンのみ再現の上7話+10話混合展開の後ろに入る
7話 10話のシーンを挟みながら後半を再現
屋根上での出会いを一座との最初の出会いに変更
8話 マルコがピエトロにアルゼンチンに行かせて欲しいと懇願し、断られるシーンを再現
9話 (カット)
10話 7話シーンと合わせて、ペッピーノの病とロンバルディーニの発言を再現
11話 (カット)
12話
13話 一座は夜にコッソリ船出してしまう
14話 マルコが出て行ったあとの家の様子を再現
マルコが救命ボートで雨に耐えるイメージのみ再現
15話 ピエトロとジーナがマルコを迎えに来て以降を再現
16話 「フォルゴーレ号」船上の生活をダイジェスト再現
17話
18話 移民船乗船時のシーンのみ再現
19話 マルコとフェデリコ一行の出会いを再現(簡略化)
20話 「おおあらし」のシーンはほぼ再現
21話 (カット)
22話 ロハス邸のロシータとのシーン以外はほぼ再現
23話 (カット)
24話 マルコとフィオリーナの再会以降をほぼ再現
25話 馬車で草原を走りながらペッピーノが演説ぶるシーンを再現
26話 (28話以降を参照)
27話 深夜にマルコとフィオリーナが語り合うシーンを再現
他は28話以降を参照
28話 バイアブランカ往復はメレッリ不在のためカット
代わりにペッピーノ一座と共にコルドバへ向かうよう改変

途中ロサリオ近郊でコンチエッタが病に倒れ、マルコは別行動してロサリオへ向かうよう改変。
29話
30話
31話
32話
33話
34話
35話
36話
37話
38話
39話
40話 ロサリオ到着シーン以外はほぼ再現
41話 列車の旅はワンシーンのみ、メキーネス邸に到着したシーンは再現。
42話 最後のマルコとパブロ兄妹が草原で動物を追うシーン以外はほぼ再現
出会いシーンは改変
43話 (カット)
44話 後半のフアナが病に倒れて以降は再現
45話 貨車からつまみ出されるまではほぼ再現
46話 牛車隊はマルコの目の前を無情にも通過、よって牛車隊が関わる物語はカットとなり、徒歩の旅主体となる。
47話
48話
49話 アンナ再登場以外はほぼ再現
50話 立ち往生のマルコが救われる過程はダイジェストながらも細かく描写
51話 アンナ手術シーン以外はほぼ再現
52話 帰路の旅はエンディングでダイジェスト再現

考察・感想
・序盤…構成を見てびっくり
 映画が始まって、冒頭シーンでいきなり驚いた。「マルコと母との別れ」でスタートすると身構えていたら、突然出てきたのは自動車。「マルコの時代に自動車はおかしい」と画面にツッコミを入れようとしたら、一人の凛々しいおっさんが車から降りてくるではないか。「誰だこいつ…」とツッコミを入れるのを忘れてみていると、この男が大人になったマルコと解り…「フィオリーナは嫁さんになってないのかー!」と叫びたくなってしまった。そしてこの男の回想として物語が始まる。
 「母との別れ」シーンはオリジナルアニメまんまで進み、むしろ「ここまで変化が無かったらリメイクした意味が無いだろー」と感じたほどだ。だが劇中で1年の時が流れると、基本はオリジナルと同じながらも流れが変わってくるので少し安心する。

 だがマルコが買い物で街を歩くシーンでペッピーノ一座が早くも登場し、あれよあれよという間に屋根上でマルコとマリオネット練習中のフィオリーナが出会うシーンになるが…フィオリーナを見た瞬間「こいつ誰?」と画面に向かって叫んでしまった。
 まずその性格、マリオネットの練習を見ていたマルコを見て「消極的に出迎える」という態度でなく、あからさまに「逃げる」という反応を取る。それも含めて何が起きたか尋ねるコンチエッタにハキハキと応え、なんかマルコによって変わる要素など何処にも見られないのである。また目がぱっちりした顔に描き直されたことで、実際の性格とは無関係に視聴者に「暗さ」を植え付けることに失敗している。長々と書いたがフィオリーナのフィオリーナらしいところがバッサリと切られてしまい、出てきたのは最近のアニメにありがちな平凡な女の子でしか無かった。ここからは私個人の意見になるが、こんなフィオリーナにどうして萌えることができるだろう?
 このシーンの流れも問題だ、ここではマルコはフィオリーナの演技を認めるという大事な展開なのだが、フィオリーナはオリジナルとは違いそれを受け取らずに逃げようとする。そしてペッピーノが病で倒れ、ロンバルディーニを引っ張り出して大騒ぎした後にその点を思い出したかのように語り出すのは無理があるとしかいいようがなかった。これではフィオリーナが「マルコ教」の信者になる理由は何処にも生まれない。つまりブエノスアイレス上陸後に一座が全力でマルコを支援するという展開に、無理が生じるようになってしまったのである。

 そのペッピーノ一座がジェノバを離れるときは、誰にも知られないまま船が出て行くというこれまた山も谷もないシーンとなってしまって全く印象に残らないものになってしまった。これならこのシーンは流さなくても良かったのではないかと思うほどだ。それより隣に「フォルゴーレ号」が既に停泊していて、ジーナがこれが数日で出港する旨をマルコに語ってしまう点の方が印象に残る事になってしまった。そしてマルコが密航を企て、物語はオリジナルアニメを踏襲しつつマルコの出港へと流れて行く。

 序盤では中盤や終盤へ向けての伏線設定や、説得力の植え付けに完全に失敗してしまっている。ここまでの物語を見ただけで、なんでこの映画が評判が悪かったのか理解できた。BGMだけがやたら大仰で、物語としての体裁が崩れていることを多くの観覧者が見逃さなかったのだろう。特にこのアニメの場合、オリジナルの出来が良いだけにこれと比較されるとどうしても苦しいものだ。

・中盤…「省略」の使い方の善し悪しを感じる
 全52話の連続アニメを90分の劇場用長編に作り替えるには、何処かの展開をバッサリと切り落とす必要がある。その上で物語の展開や内容に変化があってはならないという制約を伴う。何処でどうバッサリと切るかは、今後「世界名作劇場」シリーズ完結編の考察で語りたいが、総集編制作者の腕の見せ所でもある。
 そしてこの映画の場合、ここからの中盤の展開がバッサリと切り落とす対象となった。

 「フォルゴーレ号」船上での生活がダイジェスト形式になったのは、あの物語を90分に収めることを考えれば仕方がない事だろうが、こうしていても上映時間は刻々と過ぎていく。その中で移民船移乗後の展開はある程度しっかりと描き、今後のロサリオでの物語の伏線としておいた。ここを切るとロサリオでの名シーンも同時に切り落とすことになるので、制作者は移民船での出来事をどう活かすかを考えたのだろう。結果、ラプラタ川遡上の話を切って「おおあらし」を入れたのだろう。

 ブエノスアイレス上陸後は、オリジナルの「完結編」とほぼ同じ展開を取ることになるのは面白い。両替所からシーンが始まり、マルコが所持金を盗まれ、それに気付かないままアンナが住んでいるとされている家を訪れるが別の街に住んでいることを知らされ、その情報に従って駅へ行って所持金が盗まれたことに気付き、涙ながらに列車を見送る。ここから修道院の話をカットして、マルコとフィオリーナの再会が駅での出来事の直後として描かれた点は「完結編」とほぼ同じ。この展開はある意味「母をたずねて三千里」のブエノスアイレスの物語としては「王道的」な展開なのだろう。
 このマルコとフィオリーナの再会であるが、ハッキリ言って白けた。序盤の展開を見るとマルコとフィオリーナはそれほど仲良くなっていない、いやフィオリーナにとってマルコが必要不可欠な存在にまで行っていないのだ。その程度の関係なのに遠い街で再会しただけでボロボロ涙こぼされたら…フィオリーナがこういう反応を取るだけの理由付けが無いままに暴走してしまったから白けたのである。その上母に逢えなかったと泣き出すマルコを、フィオリーナが抱きしめたからただでさえ白けているのに輪がかかった。どうもこの映画では、「マルコとフィオリーナの関係」というのが軽視され、フィオリーナをマルコの単なるガールフレンドとしてしか扱っていないように感じる。それは悪くないが、それならそれなりの描写に書き換えるべきであって、関係が変わったのにオリジナルと同じにするからひずみが生じるのだ。

 ここからはカットの嵐だ、マルコの母の行方はバイアブランカではなくコルドバさされたため、当然のことながらバイアブランカ往復の旅行はカットとなる。代わりにペッピーノ一座がコルドバへ向かうことになり、マルコは一座と共に馬車でコルドバへ向かうという物語が描かれる。そしてこのコルドバへの道中で、カットされたバイアブランカ往復のうち、往路でのシーンが一部再現される。同時にロサリオまでの船旅までカットとなったわけで、オリジナルアニメの考察で私が「第3幕」と提議した部分はその殆どがカットということになった。
 この展開だと気になるのは、ロサリオでの展開がどうなるかである。移民船でフェデリコが出てきた以上はロサリオでの再会、いやロサリオでオリジナルアニメとほぼ同じ展開が用意されているのは確実だ。これに対しマルコはペッピーノ一座と共にコルドバに向かっている。無論ロサリオの展開だけでなく、コルドバの展開をもオリジナルアニメを踏襲した展開にしようとすると、このペッピーノ一座がどうしても邪魔になる。つまりオリジナルアニメを知っていてこの映画を観覧している者の焦点は、何処でどのようにマルコとペッピーノ一座が別れるかという点に絞られる。

 ここでオリジナルアニメにない新しい展開が入れられた。コンチエッタが急病で倒れ、近くの修道院に収容して「当面安静」と診断されることで一座が身動きできなくなってしまうのだ。コンチエッタは脂汗を流して腹を押さえていたので、恐らく急性虫垂炎だろう。そうでなくこの出来事で一座の足止めが長くなるとペッピーノは判断し、マルコを別行動させることになる。ここでロサリオのバリエントスという人物を訪ねること、バリエントスはフォスコの紹介ということにされた。
 そしてマルコとフィオリーナの別れは唐突にやってくるが…この別れシーンはもう語るに耐えない白け方であった。マルコが母の写真をフィオリーナのところにおいていくか、この二人はそんな深い関係になったか?

 中盤は大幅なカットによって良くなった部分と、裏目に出た部分が見事に分かれたと言っていいだろう。
 上映時間という制限のため、思い切ってバイアブランカ往復を全面カットしたのは評価できる点だ。前述の「完結編」では「元あるものの総集編」という制約からどうしても思い切ったカットは出来ない、ここまで思い切れるのはリメイクアニメならではと言えるのだ。このバイアブランカ往復旅行を省略することで他のシーンを再現する時間が捻出できただけでなく、90分の劇場用長編として無理のない仕上がりになったのは言うまでもない。それに伴う物語の改編も上手く行っていて、特にメレッリの存在を消して訪ねる相手をメキーネス一本に絞ったのは物語を「わかりやすくした」効果があったと思う。
 逆にフィオリーナだけでなく、マルコとペッピーノとの関係に説得力が無くなってしまったのは裏目に出てしまった点だ。一座がマルコに力を貸す具体的理由がハッキリしないまま物語が続き、フィオリーナが思い出したかのように「後出しジャンケン」でその理由を口にするという展開は批判されても仕方が無い。この映画ではペッピーノ一座の思いは、行動に対してみんな後手に回っていて、後から思い出したかのようにああだこうだ言い訳をして無理に説得力を付けようとしていて気味が悪いったらありゃしなかった。これは序盤でカットしなくて良いところをカットしてしまったか、改編しなくて良いところを改編してしまったかどちらかの理由だろう。ちなみに「完結編」ではマルコとフィオリーナの関係は上手く抜き出されていて違和感がない。

・終盤…「王道的」展開でうまくまとめる
 ロサリオ以降の終盤は、一部を除いて「完結編」と同じ展開と言ってただろう。バリエントスの執事に侮辱され、フェデリコと再会して「イタリアの星」での義援金に救われ、コルドバで母に逢えずトゥクマンへ移動した情報を得、パブロと出会いフアナが病に倒れたのを全財産をはたいて救い、貨物列車に忍び込んでバレて放り出され、あとはひたすら徒歩でトゥクマンへというのは「完結編」の展開である。

 ロサリオでバリエントスの執事に侮辱されるシーンは、マルコは差別的発言をされるのでなく「ウソつき」呼ばわりされるという内容へ変わった。だが子供にとってはこの方が分かり易いだろう。ロサリオのこの後の展開は駆け足なもののオリジナルアニメと全く同じで、汽車旅の詳細が省かれただけでオリジナルアニメをなぞってコルドバに、そしてここに母がいないという絶望を味わうが、オリジナルアニメでは苦情を言うだけだったメキーネス邸の向かいの奥さんが「メキーネスはトゥクマンへ行った」という重大情報をくれるように改変。これによってマルコやパブロが「メキーネス」を捜して街を歩く展開のカットが決まる。
 パブロとの出会いも改変された。ゴミ漁りしていたパブロにマルコが驚く→これがパブロの気に障り殴り合いという展開ではなく、差し障りのないものに書き換えられている。この二人の友情物語はお互いに「第一印象の悪さ」からスタートするのが良いところ何だけどなー。
 そしてパブロの家へ、どんな夕飯が出たのかは解らないがゴミ箱を漁って出てきた物が調理されて食卓に上がったわけではなさそうだ。ここもマルコの微妙な表情と、それを普通と思って美味しく食べるフアナの対比がいいとこだったんだけどなー。
 で、その日のうちにフアナが苦しみ出す。上記の不満はあれどここからはオリジナルアニメに沿ってマルコが全財産を投げ出し、それを知ったパブロが身を張ってマルコを貨車に乗せてトゥクマンへ送り出す。ツッコミどころが無いままマルコが見つかって貨車から放り出されるシーンまでは順調に進む。

 ここから徒歩の旅となるのもオリジナルアニメとは違うが、牛車の旅を全面カットした「完結編」と共通点だ。従ってこの映画にも「完結編」にも「ばあさま」は出てこない。ただしこの映画では、合間に牛車隊の通過が描かれ、これがマルコに気付かずに通過するというオリジナルアニメから見ると信じられないシーンとなる。マヌエルは何してたんだ?
 そしてマルコの靴が破壊し、足を怪我し、遂に雪の中で行き倒れになるが、老人に救われてトゥクマン到着、この流れも「完結編」と同じだ。
 ツッコミどころがあるとすると、この徒歩旅行の背景だ。地図や航空写真、それに色々調べてみるとコルドバからトゥクマンの間は大平原なのだが…マルコが歩いているのはどう見ても山脈、しかも峠越えまでしている。この辺りで山脈と言えばアンデス山脈しかないぞ…マルコはトゥクマンでなくチリへ向かっているのか?
 確かに巨大な銀幕に描くには大平原でなく山脈の方が絵になる理解できる。かといって現実にない山を加えるのは感心しない。ここはもっと画面描写に工夫することは出来たはずだ。オリジナルアニメの49話は、大平原を歩いているだけなのにあんなに迫力があったぞ。

 そしてトゥクマンに到着し、郊外のメキーネス邸まで走り、母と再会する。この母との再会であるが引っ張る引っ張る…いい加減しつこいと感じた。
 フィオリーナとの再会や別れもそうなのだが、どうもこの映画は感動シーンを盛り上げようとして、余計な事をやってしまったり、伏線が張り足りないかのどちらかで滑ってる事が多い。この母との再会もそのひとつだ。
 マルコが到着してもアンナはなかなか気付かず、マルコは感極まってメキーネスに「なんとかしてくれ」と懇願する騒ぎとなるが、ここは引っ張らずにその後にもうひと試練与える方が良かったと思う。オリジナルアニメや「完結版」ではそう描かれており、アンナに「このままでは治らない」という試練を課し、その上で「マルコが遙々来たから快復した」という展開にした方が感動的だったと思う。これでは散々引っ張った上、マルコが「遙々やってきて本当に良かった」という要素が何処にもない。実はオリジナルアニメで描かれた「手術」という要素は、「マルコが母に逢えて嬉しかった」以外のマルコがやってきて良かったを描くためのものだったのだ。
 また「手術」要素がないのはマルコの決意が唐突で、これから決定的な理由を奪ってしまった。マルコが「医師になりたい」と決意した最終的な理由の一つに、ロドリゲス先生の治療法があったはずなのだ。彼の治療は医学的な技術だけでなく、精神的な面も病気の治療において重要だという事をマルコに残したのだ。だからマルコはお世話になったアルゼンチンの人達を精神的にも救いたいという気持ちをもって、最終的な決意をしたはずであるが、その要素が何処にもない。唐突にマルコが思い付きを語ったと言われても否定できない。

・登場人物
 多くの登場人物はオリジナルアニメと対して変わっていない。フェデリコが臆病でなくなり、コンチエッタの化粧が濃くなり、ペッピーノが凛々しくなるなど変化はあるが、この辺りは問題ないだろう。

 この映画で最も帰られてしまったのは、誠に遺憾ながらフィオリーナである。本来のフィオリーナはマルコと共に成長し、その上でマルコに対して同情と尊敬を持ってマルコの「信者」となった少女だ。彼女はマルコによって自分を認められ、見いだされ、それが理由でマルコが「好き」になり、さらに明るく人を慰められ、しっかりと「自分」を持った少女へと成長していったキャラであった。だがこの映画で最初に現れたフィオリーナは、そんな成長が必要のない自分を持った少女であった。自分の意見はハキハキと言い、物語が進んでも「マルコに見いだされた」という要素がないまま舞台でマリオネットを演じてしまう。彼女は劇中で父に認められない自分の不満を語っていたが、それに説得力がないほどの多才な少女として描かれてしまったのだ。
 結果、フィオリーナはマルコが好きな少女ではなく、単なるマルコのガールフレンドになってしまった。もちろんこの映画ではフィオリーナから見てもマルコは単なるボーイフレンドである。互いに影響し合い、物語が終わると「この二人は結婚するしかないな」と思わせる要素はなにひとつない。なのにこの二人は理由がないまま普通の友達以上に接近してしまい、これが重要なシーンで物語を白けさせてしまう結果になったのは言うまでもない。
 残念ながらこんなのはフィオリーナと認められない。ただしこれは担当している役者さんの問題ではなく、脚本の問題であるのは確かだ。この映画が上手く行かなかったのは、このフィオリーナの役割や立場というものに失敗したのは確かだろう。

 続いてジュリエッタの使い方。この映画では可哀想なほどジュリエッタには役割がなかった。画面の隅っこにいるだけ。これなら完全に画面から消して「コンチエッタとフィオリーナの二人姉妹」に設定を変えた方が良かったと思う。
 特に馬車旅の途中でコンチエッタが倒れたときは、画面を見ながら「なんでそこでジュリエッタを使わないかな…」と思った。オリジナルアニメでのジュリエッタはまさにそういう役割だったのだが…それだけではない、楽しいシーンや怖いシーンを盛り上げる重要な役割を担っていたし、もっと言うと美味しい食べ物を美味しそうに食べたりするだけでジュリエッタの存在感があったはずだ。これらの要素が不要のこの映画では、ジュリエッタは荷物になるだけで活躍の場がないのは明白。だったら最初からいなかったことにしておいた方が正解だ。出すならジュリエッタが必要になるシーンを描くべきだった。

・まとめ
 正直言って、オリジナルアニメを全話通しで見た直後だったのが良くなかったみたいで、この映画に対する印象はお世辞にも良いと言えるものでなかった。この映画とオリジナルアニメの比較で悪い点が目立ってしまい、特にお気に入りのフィオリーナが全く違う人物に書き換えられてしまったのは見るに堪えなかった。
 もし「母をたずねて三千里」をとりあえず見たいという人に出会って、この映画と「完結編」のどちらを見るかで悩んでいる人がいたら、私は迷わず「完結編」を勧める。総集編として「完結編」の方が出来は良いし、ちょっと窮屈な印象はあるが物語の起承転結が上手く行っているのは「完結編」の方なのだ。
 その上でオリジナルの「母をたずねて三千里」を見た人に、この映画を見る価値があるかと聞かれたら、「無理に見る必要は無い」と答えるだろう。

 そして実際に見てみて、何故この映画が興行として上手く行かなかったのかも理解できた。もしこの映画がうまく行っていれば「世界名作劇場」の各作品が順次リメイクされていた事だろう。それが無かったのがこの映画が失敗したという最大の証拠である。

 90分ではなく120分あれば、と思われる方もあるかも知れないが上映時間の問題ではない。現に「完結編」ではおなじ90分でもっと上手くまとめているのだから…。この映画を製作する人の何処かに「母をたずねて三千里」を理解していなかった人がいたのは否めない。理解していればフィオリーナをあんな現代風の軽い少女には描けなかったはずだ。ペッピーノ一座の行動を後出しジャンケンで理由付けするという、「後手に回った展開」をさせなかったはずだ。

 理由はどうあれどこの映画が失敗したことで、「母をたずねて三千里」という名シナリオが再び世間に広く出回る機会を失ってしまったのは悲しむべき事実である。願わくばあと5年位したら、もう一度リメイクに挑んで欲しいと心から願うものである。

・本作品のマルコの旅程
ジェノバ→リオデジャネイロ 船舶(外洋定期船) 15〜18話 10400km 2650里
リオデジャネイロ→ブエノスアイレス 船舶(移民船) 15〜22話 2240km 570里
ブエノスアイレス→ロサリオ 馬車 39〜40話 350km 89里
ロサリオ〜コルドバ 鉄道 41話 395km 100里
コルドバ〜トゥクマン郊外 鉄道・徒歩 45〜51話 566km 144里
合計     13951km 3533里
         
帰路(トゥクマン郊外〜ジェノバ) 馬車・鉄道・船舶 52話 13710km 3491里
往復合計     27661km 7024里

・おまけ
 「フォルゴーレ号」のレオナルドコック長が、緒方賢一さんなんでびっくりした。
 フェデリコじいさんがギベット先生(「わたしのアンネット」)だった。
 コンチエッタの声が、ヘンダーソン先生(「こんにちはアン」)だったので驚いた。
 端役にポルフィもいた、これが一番びっくりだった。
 コルドバからトゥクマンへの旅行についてだが、マルコが560キロ中500キロも歩き通すのはちょっと無理がある。だからここでは、貨物列車に潜り込んだマルコがなかなか見つからなかったという解釈を取らざるを得ない。マルコが貨車からつまみ出されたのは、オリジナルアニメで牛車隊と別れた辺りと解釈をすべきだろう。「完結編」を見るときもこの解釈に準じるべきと考える。

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