「小公女セーラ」へ戻る

・まずは交通整理(12月20日加筆)
新しい事実が判明する度にこの項は書き換える。なおこの欄においては、キャラクター名は原作(「世界名作劇場」版で初めて名が付いたキャラはその名前で)に準じた表記とし、原作や「世界名作劇場」版とどのように変わっているか分かり易くしようと思う。

登場人物
ミレニウス女学院 … ミンチン女学院
黒田セイラ … セーラ・クルー
黒田龍之介 … ラルフ・クルー
黒田薫子 … セーラの母
三村笑美子 … アメリア先生
三村千恵子 … ミンチン先生
三浦カイト … ベッキー
東海林まさみ … アーメンガード・セントジョン
武田真里亜 … ラビニア・ハーバート
小沼誠一郎 … 「料理番」(「世界名作劇場」版のジェームス)
小沼日出子 … 「女中頭」(「世界名作劇場」版のモーリー)
亜蘭由紀夫 … デュファルジュ先生
ネミィ … メルチセデック(「世界名作劇場」版のメル)
鈴村路美 … ロッティ・レイ
栗須慶人…クリスフォード
「柏原」…ラム・ダス(「世界名作劇場」版のラムダス)

原作との共通点(かつ「世界名作劇場」版との相違点)
・ラルフ死去時のセーラの反応は原作のそれに近い
・先生が教科ごとにたくさんいる
・セーラに小悪魔的要素がある
・最終回のミンチンとクリスフォードの会話は原作のそれに近い
・セーラがミンチンに「プリンセスに戻って良かったですね」的なことを言われ セーラは「自分はそれ以外のものになるつもりはなかった」旨を答える

原作との違い(「世界名作劇場」版と共通事項)
・エミリー人形が不在(これが最も大きな違い)
・舞台が現在の東京
・登場人物か全員日本人(インド人は除く)
・ラルフは最初からダイヤモンド鉱山を経営している
・セーラのインドでの生活が描かれた
・アーメンガード アメリア ガートルードが太ってない
・一人になったときのアメリアの性格(一人になると酒を呑んで気晴らしする上に卑屈になる)
・ベッキーが男と言うだけでなく頭が良くて勉強熱心で学校へ行きたがっている
・ベッキーが最初からいる
・マリエットに相当する人物がいない
・ミンチン学院に年少組が存在しない
・ミンチンとセーラの母が同級生
・セーラがフランス語を得意とする理由は「小さな頃から英才教育を受けた」から
・ネズミは最初ベッキーの部屋に出てくる
・理由はともかくセーラは授業中に欠伸をするらしい
・ベッキーが掃除に入ったセーラの部屋で居眠りをする セーラに誕生日プレゼントをする 等の富豪時代のセーラとベッキーの関係を強化するエピソードの省略
・誕生パーティ開催を聞いたセーラは困惑せず素直に喜ぶ
・富豪時代のセーラが「朝食を一人で全員分作る」エピソードを追加することで「料理番」との対立構造を明確にした
・バロー弁護士相当の人物がいない
・バローがいないのでセーラを引き取って下働きとして使うことを考案したのはミンチン
・ラルフの死因は熱病でなく事故
・クルー家はダイアモンド鉱山事業の失敗による資金枯渇ではなく鉱山事故による賠償で資産を失う
・理由はどうあれセーラは他人の話を聞いているうちに居眠りしてしまう
・ネズミの命名はアーメンガード相当人物と一緒の時
・ミンチンが些細な理由で屋根裏に上がってくる
・ベッキーはセーラのことなどより自分の私利私欲を優先する性格(それは違うと気付けばセーラに八つ当たり)
・料理番や女中頭は仕事の能率よりも目先の小銭を優先する
・理由はどうあれアーメンガードがセーラへのいじめに荷担する(「小公女」という物語を根幹から破壊する重要な点)
・セーラはミンチンが好きだと明言する(原作では「嫌いだ」とハッキリ言っている)
・学院のみんなが修学旅行に出る(行き先は上高地・昔は箱根だったらしい)
・セーラが院長に「あなたは間違っている」と突き付ける
・ミンチン学院に演劇をやる伝統がある
・アメリアは鈍感で空気が読めない(原作や「世界名作劇場」版では「空気が読めるからこそ逆らわない」性格である)
・ロッティは年少生徒ではなくアメリアの友人の娘で その父が出張中にアメリア相当人物が数日間預かるという設定に
・ロッティ相当人物がセーラの屋根裏部屋へ行くのは夜泣きしてどうしようもなかったから
・ロッティ相当人物がセーラの後を追っかけて台所までついて行く
・ベッキー相当人物やデュファルジュ相当人物までが「セーラママ」呼ばわりする
・アメリアがセーラに優しくした恩を売る
・ロッティ相当人物は生徒ではない
・セーラに給料が出てる(子供の小遣い程度)
・学院に授業参観がある
・「屋根裏パーティ」用のお菓子はセーラが用意する
・デュファルジュ相当人物がベッキー相当人物にも授業をつける事を申し出る
・アーメンガードが孤児
・クリスフォード相当人物はインドでなくアフリカで財産を築いた実業家
・クリスフォード相当人物とラムダス相当人物の役割が逆
・カーマイケルとその家族(原作の「大家族」)に相当する人物の不在
・デュファルジュ相当人物はセーラの母及びミンチン相当人物の過去を知っている(ミンチンは初恋の相手)
・セーラが金持ちに戻るのは鉱山が成功したのでなく 事故の責任がなくなったから
・デュファルジュ相当人物は実は他の名門学院の理事長だった
・学院経営は破綻寸前に追い込まれる
・セーラが財産復帰後の財力で学院を買い取る ただしミンチン相当が院長続行他が条件
・セーラがクリスフォードに引き取られた夜 屋根裏にベッキーのための「魔法」がされるのでなくセーラ本人が屋根を伝ってやってくる
・料理番と女中頭は他の料理人や女中の部下となる
・セーラを助けたパン屋は学院の専属パン屋となる
・ベッキー相当はセーラが学院を乗っ取ったことで学院の下働きを自ら辞める
・最終的にネズミは小屋も用意されて正式に飼われる

「世界名作劇場」版との共通点(かつ原作との相違点)
・ラルフは軍人ではなく実業家
・デュファルジュ先生の存在感が強い
・セーラが「はい、院長先生」を連発する
・ラルフ死去後のセーラの立場は「生徒ではない」ということを明確にした点
・下働きに落ちたセーラが着る服が学院にあったものでありセーラ私品の喪服ではない
・下働きになったセーラの仕事は「下働き」全般であり「教員の補助」ではない
・セーラが1日だけ生徒に戻るエピソード(「世界名作劇場」版第25話に相当)がある
・セーラが病気で倒れるエピソード(「世界名作劇場」版第35話に相当)がある(ただし下働きになって間もなく)
・「料理番」と「女中頭」は夫婦(原作では二人の関係は明確でない)
・学院の経営は厳しい
・「代表生徒」のシステムがありラビニア相当人物が担当
・アーメンガード相当が薬を出す役回りになっている
・セーラが下働きに落ちた直後にアーメンガードが学院に不在だった期間がない
・ラビニアが特別室に入るエピソードがある
・ベッキー相当人物が使用人休暇期間中に里帰りする
・ロッティが「セーラママ〜!」と五月蠅い
・「魔法」第一回目からベッキーの分を含めた二人分の食事が用意されている
・デュファルジュ相当人物が解雇される
・最終的にセーラが学院生徒に復帰する
・院長は最後にセーラに対し感謝の念を持つ

「世界名作劇場」版との違い(原作にはない部分)
・ピーターに相当する人物の不在
・誕生パーティ用のドレスをミンチンが購入するエピソードを始めとして誕生日プレゼントのエピソードを省略(ただし誕生パーティのドレスはミンチンが購入したという設定のみ生きてる)
・セーラが父の死を認識するのが誕生日よりずっと後
・モーリー相当の人物は学院の台所で働いている事や夫について不満を持っている
・セーラから食事の配膳を受けたラビニアが落とすのはパンではなく食器
・セーラが熱を出して倒れた原因はラビニア相当人物に水を浴びせられるという嫌がらせを受けたから
・セーラが1日生徒に戻る理由はデュファルジュ相当人物の友人でフランス語教育の権力者が見学に来るから
・セーラは代表生徒にならない
・セーラが1日だけ生徒に戻れという院長の命令を一度断る(どちらにしろ拒否はできないのだが) アーメンガードから服を借りない
・ラビニアが特別室に入った際にセーラは専属となる
・使用人に休暇が発生する理由が「夏休み」ではなく「修学旅行」
・ベッキー相当人物用が帰省の際にセーラも同行する
・ラビニア相当人物に学院を裏から操れるような権力はない
・セーラは院長から二度も追放を言い渡され その通り出て行く(「世界名作劇場」版では1度)
・追放を言い渡されたセーラは 一度目はロッティに救われ 二度目は教会に逃げ込む
・教会に逃げ込んだセーラがクリスフォードに助けられる展開となる

 特にラビニア相当の真里亜と、ジェームス相当の誠一郎は、メイクや性格付け、それに声の出し方についてまで「世界名作劇場」版を意識したと思われる。その他、それぞれを演じる俳優さんが「世界名作劇場」版を見て勉強したのは確かだろう(ベッキーの動きやミンチンの怒鳴り声に面影が見られる)。また脚本についても「世界名作劇場」版をかなり意識したものではないかと推察される。

第1回(2時間スペシャル)
感想  いよいよ「小公女」のテレビドラマ板、「小公女セイラ」がスタート。「小公女セーラ」をきっかけに「小公女」という物語を研究した当サイトとしては、このテレビドラマ板もリアルタイムで追っていこうと思う。
 心配だったキャラクターについては、三村姉妹以外はうまく再現したと判断している。原案のベッキーが男性キャラに書き換えられた点については賛否両論あると思うが、私としてはいまのところは賛とも否とも言わずに見守りたいと思う。基本的に「小公女」という物語は女だけの世界の物語であり、悪い言い方をすれば女性だけが集まったときの醜態とそれを乗り越えて生きるセーラとベッキーの物語とも言える。原作で物語を通じて出てくる男性キャラは「料理番」程度で、「世界名作劇場」版ではそれにピーターが加わる程度、ラルフやラムダスやクリスフォードというのは物語全体を通じて出てくる人ではないだろう。そう考えれば、「小公女」という題材をこのようなかたちでメディア化する場合、「物語を通じて出てくる男性」をどのように配置するかが問題になる、このドラマ板ではベッキー役を男性に置き換えて解決させようとしているのだ。
 三村姉妹については、姉の方は原案に近いミンチン院長を上手に再現したと思う(いくらなんでも星一徹はないだろーと思ったが)。だが妹だ、アメリアという女性は姉の罵声にひたすら耐えつつ、それに逆らえないという役回りを演じることでミンチンが発する「女性の醜態」を際だたせる役割がある。だがこのドラマの笑美子はこれを踏襲しつつも、全く違う印象の女性に置き換えられているのだ。というのは原作や「世界名作劇場」版でも、アメリアが「部屋で一人になった場合」が描かれていない。これは今まで視聴者の想像に任されていた部分であるが、「小公女」という物語でアメリアの位置というのはかなり格下で、読者や視聴者が想像力を働かして様々なキャラクターに作り替えてくれる位置ではないのだ。だからこそこのドラマで、この部分の映像化に手を付けたというのは見逃せない面白い部分でもある。自室で一人になったアメリアが酒を呑みながら、くまのぬいぐるみを相手に愚痴ってるなんていうのは、原作や「世界名作劇場」版でもありそうではないか。
 笑ったのはラビニア相当の真里亜、もう髪型と表情が完全に「世界名作劇場」版のラビニアになりきっているから大笑いした。両隣をジェシーやガートルード相当の人物に囲まれている点も。アーメンガード相当の人物には…ちょっと萌えられないなぁ。「いじめられ役」としての何かが足りないんだよね。
 それに好印象なのは誰も髪を染めていない点、海外の作品を日本に持ち込んだからと言って無理矢理に登場文物を海外仕様にするのでなく、あくまでも「日本人による日本の物語」として昇華させようという意気込みを感じる。
 「小公女」という素案を現代日本に舞台を置き換えて脚本化した冒険は高く評価したい。今時の薄っぺらい恋愛ドラマとか韓流ドラマの垂れ流しなんかよりも何倍もマシだろう。舞台を日本にするにも、大正自体とか昭和初期とかにすれば違和感はなかったかも知れないが、そこを敢えて現在の平成ニッポンにしたという点は本当に冒険だと思うのだ。
 それに最後に一言、CGのメルが妙に浮いていて気持ち悪かったぞ。
研究 ・セイラと誠一郎の関係構築
 第一回は物語の始まりからラルフが死去してセイラが下働きに落ちるまでを描いた。原作の第一章から第八章の途中まで、「世界名作劇場」の第1話から第13話に相当する。
 基本的には原作、または「世界名作劇場」版を踏襲した展開だったがひとつだけこのドラマオリジナルのエピソードが組み入れられた。それは真里亜が「この学院の仲間として受け入れられるためには一度全員分の朝食を一人で作らなければならない」とでっち上げるというものであった。面白いのはセイラがこれを真に受けて実行するのでなく「売られた喧嘩」として実行する点で、この辺りの負けず嫌いな部分は原作のセーラから性格を受け継いだと言っていいだろう。セイラはカイトの力を借りつつも見事に全員分の朝食を作り上げ、しかも院長先生から「いつもより美味しい」との評価を受けることになる。
 このエピソードは原作や「世界名作劇場」版で見落とされていたひとつの視点を付け加える役割を果たしていると思う。それはセーラと「料理番」(原作)または「ジェームス」(「世界名作劇場」版)との対立であり、彼がセーラを毛嫌いしてこき使う姿が描かれるが、原作や「世界名作劇場」版ではある意味当然の主従関係として描き、またセーラがお嬢様だから鍛え直す事を示唆する台詞を挟むだけで説得力を持たせようとした。
 だがこのドラマの舞台は現代日本、「料理番」相当となった誠一郎がセーラを徹底的にこき使うことについて「理由」を持たせる必要が生じた。一流の寄宿学校のコックと言えば一流の料理専門学校を出ていることだろう、そんな人物が理由もなく部下を奴隷のように扱うなど現代日本では考えられない。だから誠一郎が「侮辱された」と感じるエピソードを挟み、彼がセイラを奴隷のように扱うのはその恨みによるものという、現代の情勢では自然になる描写にしたのだと思う。料理のプロを自認しているなら、せいぜい高校生程度の少女がもっと美味しい料理を作ってそれが美味いと褒められれば…卑屈な人なら自然に恨みを持つだろう。
 こうして物語は「原作では気にしなくて良かったがこのドラマでは見過ごせない点」をひとつクリアして進んで行くこととなった。今後どんな展開になるのか、ネット上などでは否定的な声が多いが、私としてはとりあえずは期待したい。

第2回
感想  えっと、まず真里亜を担当した女優さんにはファンレターの封を切るときは注意した方がいいと誰か忠告を…。
 今回の物語で目に付いた点は、特に「世界名作劇場」版の「小公女セーラ」を見た時に視聴者が感じる「本音」を絞り出している点が大きいと思う。水島かをり(原作や「世界名作劇場」版に相当するキャラクターなし)が真里亜に未だセイラを怖がっている事を指摘する点や、院長が笑美子(アメリア相当)の生き方をズバズバと批判する点、細かいところでは風呂に入っていないからセイラが臭いという点…原作や「世界名作劇場」版で敢えて避けてきたことを、赤裸々にするという点は興味深い点であった。
 もちろん原作で言う第9章「やねうら室」や「世界名作劇場」版でいう14話「深夜のお客様」に相当する展開をキチンと再現してくれたことについては、アーメンガードのファンとしては喜ぶべきてんではあるが…やっぱテレビドラマ板のまさみって「何か」が足りない。深夜にセイラの部屋に来た事で優しいのは確かだ、だけど「アーメンガード相当のキャラ」として見るとなんか違うんだよなぁ。テレビ版のまさみは、それはそれでいい役していると思うんだけど。
 セイラが1日だけ生徒に戻るエピソードは間違いなく「世界名作劇場」版から持ってきた物語だが、これをうまくテレビドラマ板限定の設定に合わせてきたと思う。「年少組」という設定がないから「設定を原作に合わせる」という「世界名作劇場」版なりの理由がないので、このエピソードをどう処理するかはポイントだったと思う。詳しくは研究欄を。
 しかし、ネズミの名前が…。
研究 ・1日だけ生徒に戻る件について
 今回は原作や「世界名作劇場」版と比較で言えば、ラルフが死去して気もない頃の物語が描かれている。原作で第8章の後半から第9章まで、「世界名作劇場」版の13〜14・16・25話に相当する。
 今回は原作より「世界名作劇場」版をベースに話をテレビドラマ設定仕立てに作り直したと言っても過言ではないだろう。アーメンガードに相当するまさみがセイラの部屋を訪れる展開は原作ベースであるものの(こちらは「世界名作劇場」版も原作をほぼ踏襲している)、今話後半の主軸となったセイラがフランス語授業の見学者のため1日だけ生徒に戻るエピソードは「世界名作劇場」版オリジナルの話でである。院長先生が「助成金」(「世界名作劇場」版では「援助」)に釣られて独断でセイラを1日生徒にしてしまい、その授業でセイラが見事なフランス語で見学者を感心させるという内容は全く同じ。ただ「世界名作劇場」版ではセーラが1日生徒になるのは、その後セーラが年少生を受け持ち原作の設定に近づける(原作では教員の補助がセーラの仕事で、年少生の先生を当初から担当している)ための伏線であるが、このテレビドラマではセイラが授業を上手く展開することで院長との対立を明確(というか互いに自覚させる)にする役割に過ぎない。
 さらにテレビドラマ板ではセイラがマリー・アントワネットについて語るのがこの授業内であったのは興味深い。「世界名作劇場」版ではセーラが富豪時代の授業中シーンで一度、アーメンガードが深夜の屋根裏に来たときに一度語られているが、前者ではまだセーラが特別待遇だったから意味はないいし、後者ではミンチンはそれを聞いていないからはやり問題はない。ところがテレビドラマ板では、フランス語に1日だけ生徒として復帰させられた際のスピーチとしてマリー・アントワネットの事が引用され、これを聞いた院長がこれを「当てつけ」と受け取ることでさいら対立を深くし、「セイラが嫌いだ」とハッキリ言わせるための理由とさせている。

第3回
感想 こんなのはアーメンガードではない!

 こんなんはアーメンガードがモデルの人間だと絶対に認めるわけに行かない。アーメンガードという「小公女」を彩る名キャラが強姦された以上に強い憤りを覚えた。どういう形でセイラと仲直りするにしても、たったひとつの取り返しの付かない1シーンを描いたことによって「まさみ」というキャラは「アーメンガード」とは別人物になった。「まさみ」というキャラは「小公女」という物語を破壊し、そのせいで私が「小公女セイラ」というドラマを完全否定することになる確率はかなり高い。
 セイラに対するいじめを原作や世界名作劇場版より過激にするのと、アーメンガードにまでいじめに荷担させるのは別次元の問題だ。前者だけなら「小公女」としての物語は成立するが、後者は「小公女」という物語を根底から破壊する。念のため言うが、アーメンガード相当の「まさみ」を演じる女優の罪ではない、これは脚本の問題である。
 他の感想は、もうどうでもいいや。という訳で今回の放送を持って「小公女セイラ」を批判的な視線で見るようになりそうなのでよろしく。
研究 ・…
 たったひとつのシーンをきっかけに、書く気欲を完全に失った。
 当コーナー、来週にはもうないかも…

第4回
感想  まさみがセイラに直接手を下した件についてどう解決させるのかと思ったら、「怒ってないの?」「怒ってないわ、全然」「よかった!」…それだけかよ? ふざけんなよ。まぁもう私にとっては「まさみ=アーメンガード」じゃないからいいんだけどさ、アーメンガードは「一線を越えたらダメ」という事を知っていて、まさみは知らないんだからさ。まさみにはもう「相手がセイラでよかったね」(棒読み)としか言いようがない。
 じゃあ脚本家に聞いてみたい、真里亜がセイラを「完全しかと」といういじめ方をしていた件は何処行った。セイラが土下座して解決しましたか? それだけかよ? ふざけんなよ。あのさ、「総しかと」っていじめは尾を引くもんなんだよ。特にいじめた側が権力を持つ人間ならなおさらだ、だから今回の展開ではカイト以外はセイラを完全無視するのが普通だ。そんな状況で生徒達が大挙して屋根裏に押しかけたり、マリアが倒れた際の主役の代役をセイラになんて絶対にあり得ない。「総しかと」といういじめが解決するには、いじめの原因になった以外にも理由が必要だがそれがなされていない。
 どちらもどうしてもああいうシーンとして描き、かをりに「人望」をテーマにした台詞を真里亜に向かって語らせたかったなら、今回の演劇のエビソードに入る前に「セイラには人望がある」というテーマで1話費やし、生徒達とセイラの絆を描かなきゃならなかったと思う(それはセイラが下働きに落ちる前でも後でも構わない)。その上でトマトなんか投げさせちゃ…ダメだ、前話はどう物事を脳内補完するにしてもネックになる。「小公女セイラ」第3話ラストシーンは永遠にこの物語の汚点となるだろう。
 ただ今回の物語、展開として悪くないと思ってる。セイラが真里亜を看病するときに小悪魔的な要素を付け加えたのは面白かった。あれは原作のセーラにあって「世界名作劇場」版のセーラにはない要素だ。「世界名作劇場」版のセーラは理由は同あれ「嘘はつかない」という側面がある、だがセイラは時は状況によって嘘は必要だと言うことを心得ている。これはセーラとセイラの年齢設定の差による年相応の態度の変化というべきだ。共通点は「どうやったら禍根を残すトラブルを避けられるか」という判断力があり、それに忠実に従うことだろう。
 しかし、カイトについては前回のセイラへの「いじめ」をカバーするだけの良さがあったと思う。この展開においてのみベッキーをカイトという男に付け替えたのは正解かも知れないと感じた。ま、二人の関係を見ていると既に「カイト=ベッキー」でも無くなってはいるが、ベッキーがいない不足を上手く補っていると思う。
 長々と感想を書いたが、やはり前回に行った「破壊」の回収という点においてかなりの不満が残っているのは確かだ。いじめを大袈裟に描いた(ラビニア対セーラの問題ではなく学院全関係者対セイラの関係になった)割にはその影響を全く描かず、それによって捻れた関係の修復にどれほどの時間と労力を伴うかという面が描かれていない。なにもかも「セーラ」というキャラクターの大きさだけで終わらせてしまい、登場人物達はなんの教訓も得ていない。やはりこんないじめというものを軽く扱ったドラマなどやはり子供に見せるわけにはいかない、現に私は娘にはこれを見せていない(録画を子供が寝た後の土曜深夜に見ている)。
 それに、真里亜が唐突に一般室に戻っていたのも解せないぞ。これもセイラが土下座したら特別生じゃなくなったってか? この脚本の甘さはいい加減にして欲しい。
研究 ・「小公女」に対する本音
 かをりというキャラはあくまでも「小公女」を見た読者側の本音を代弁する係に徹しているようだ。特に「世界名作劇場」版を見た人はラビニアに権力だけでなく人望も必要だという事実を言いたくてたまらないと感じた人もいただろう。それに亜蘭先生の言う「セイラは人のコンプレックスを刺激してしまう」という指摘も同様だ。
 だがこのかをりって人、たまに言わなくてもいい余計なことを言ってしまっているのが玉に瑕。
 もうダメだ、私にとっては「小公女セイラ」の見どころはそこだけになる。

第5回
感想  正直言って今回の話、先週の次回予告で見た時はかなり不安だったが見終わってみると安心した。セイラは田舎で夢のような生活をしても逃げだそうと考えなかった点は「小公女」らしいし、セイラとカイトの関係を単なる同僚同士ではなく、かつほんのちょこっとだけ恋愛要素を含んだ(カイトの側)微妙な関係にしたのはうまく考えたと思った。これが二人の関係を完全な恋愛関係にしてしまったらそれはもやは「小公女」ではなくなるし、恋愛要素を完全払拭したら土曜日のよる8時に放映するテレビドラマとして考えると面白くはないだろう。この微妙な関係こそが「小公女」というシナリオを「男が見ても耐えられる」ように改変するポイントとなるのだ。ちなみにこのカイトの仄かな心境を「世界名作劇場」版で演じていたのがピーターであることは言うまでもなかっただろう。
 そろそろやめて欲しいのは院長とセイラ母の昔の思いで。その回想シーンにおける少女時代の心境が物語に直接影響しているようにも見えず、あれは院長とセイラ母がかつて同級生でそりが合わなかったという前提だけで充分だと思うんだけど。あの長い回想シーンは物語のテンポを止めて冗長化させるだけで、物語の展開にメリットがないと思うんだけど。
 でもさ、カイトの実家でのセイラの服装、原作でも「世界名作劇場」版でも見られなかったセーラの姿だから新鮮で良かったぞ。それに和食を食べるセーラというのも。
 で、次回ロッティがでるのか? セイラママーって…。それとちゃんとしたアーメンガード役を出して欲しい、あんなざーとらしいアーメンガードはいらない。
研究 ・カイトの実家
 今回は「世界名作劇場」版29話に相当する話である。「世界名作劇場」版では学院の夏休みを利用してベッキーが里帰りするのだが、テレビドラマ版では「学院の修学旅行」で全員留守という設定に書き換えられ、ベッキー相当のカイトの帰郷にセイラが同行するという展開となった。そのカイトの実家が何処にあるのか、検証してみよう。
 劇中で二人は夜行列車とバスを乗り継いだようだ。降りたバス停には鉄道廃線跡が伸びていた。カイトの実家は低山に囲まれ、山がちではあるが海からはそんなに離れていないであろう事が読み取れる(最も近い海岸から遠くても30キロ程度だろう)。
 「ミレニウス学院」が東京にあると仮定した場合、2009年11月現在東京から「夜行列車」(定期列車)で行ける場所はかなり限定される。しかもカイトの給料でセイラ一人を急遽乗せることが出来たのだから、乗った列車は間違いなく寝台特急ではなく夜行急行列車だ。すると上野駅と金沢駅を結ぶ急行「能登」に限定される。で、廃線跡というと…何処だろう?
 バスは考察の対象として検証するのは不可で、バスの年式とかからみると撮影用に中古のバスを一台購入したと考えられる。ちなみに鉄道車両の車内シーンはどうみてもスタジオセット。
 ちなみにロケ地は千葉県は小湊鐵道沿線(終列車に乗り遅れるシーンで判明)で、カイトの故郷シーンの撮影地は養老渓谷だったようだ(橋の上から川を見下ろしたシーンで判明)。

第6回
感想  どーでもいいけど笑美子うざい。アメリアはセーラの味方をしたからと言って、セーラに恩を売るような性格じゃなかったぞ。そんなの「アメリアまで一緒になってセーラをいじめる小公女」みたいで嫌だ。千恵子が笑美子を「あなたって丸い顔して悪魔ですね」と評したのは、原作や「世界名作劇場」版ののアメリアに言ってやりたいと思った人は多いだろう。
 しかし路美を演じた子役も「泣き」の演技は気合い入ってたなぁ。ひょっとして「泣き」を基準にしたオーディションで決めたのかな?
 亜蘭先生の台詞、よかったお。それと「かをり」って人は、「21世紀の小公女」って役どころなんだろうな。
 夜中のセイラと千恵子の会話はある意味「小公女」という物語における二人(セーラとミンチン)の関係の深層を突いていると思う。人を信じて自分の信念に従うセーラと、人を信じず周囲の空気を凍らせつつ信念をねじ曲がった信念を信じるミンチン。こんな二人が真っ向からぶつかったら仲良くやっていける訳がなく、やりあったら物事を優勢に進められるのはミンチンだが、実は傷つくのはミンチンだという構図だ。原作も「世界名作劇場」版もこうしてミンチンが傷つく様子は描かれていないが、疲弊して行っているのは確かだ。その疲弊が次から次へとセーラをたたきのめす事件を起こすのだが。このドラマではそのミンチンの傷をしっかり描くことにしているようだ(千恵子がセイラをやたら殴るのはこの点にあるらしい)、これが良い方向へ出るか悪い方向へ出るかは物語を最期まで見ないと分からないんだろうなぁ。
研究 ・「泣き虫ロッティ」
 今回は原作&「世界名作劇場」版のロッティを、設定を大幅に変えて登場させた。しかも泣き虫で我が儘な性格を増強させた上で、満を持してという感じで出してきた感がある。
 原作や「世界名作劇場」では年少生として登場し、セーラが下働きになる前に大泣きしたところをなだめられたことによって、セーラを母親として認めて絆を深めたロッティ。このドラマでも役どころは全く同じとなった。
 ただしドラマ版では学院の設定が大きく違うので、それに合わせて設定も変えられている。年少生生徒という設定はアメリアの知人の富豪が学院に預けた幼児という設定に変えられ、学院にずっといるわけではなく一時的にやってきたという設定となった。さらに学院から追放という沙汰が下っていたセイラを学院に留める役割を持つことになる。
 しかし、次の回では現代に舞台が移ったら困難と思われていた子供にパンをやる物語があるみたいだなぁ。アンヌをどう設定するんだろう?

第7回
感想  「セーラの腹を鳴らす」なんて「世界名作劇場」版でもやらなかったぞ。しかしパン屋の前で500円玉を拾うセーラ…なんだかなぁ、今時拾った500円玉を正直に名乗り出る高校生なんているだろうか? で、いまどき道ばたで腹すかせている子供なんているのか? アンヌはどうなるんだと思って期待してみていたら、まさか兄妹に置き換えられるとは…。まさか4ペンスを500円玉にして原作まんまやるとは思わなかった。パン屋のおかみさんは間違いなく「小公女」のこと言ってたな。
 前々回辺りからの流れではベッキー→カイトという設定と、それに「世界名作劇場」版におけるピーターの役割を付加したことは正解だと思った。「俺は嬉しかったよ、どんな理由があるにしてもセイラを探してこいと言われて嬉しかったよ」…う〜ん、格好良すぎる。また「絶対に自分を曲げない事」がセイラと院長の共通点であることを喝破する点もすがすがしい。原作も「世界名作劇場」版も、ミンチンとセーラの共通点である。
 でもあのゆかりって女は邪魔、ブログでも話題になっているが「小公女」は単なるいじめ劇ではない。まさみや真里亜じゃないが、なんか見ているだけでムカつくキャラは「小公女」に必要ない。そういうキャラは原作にも「世界名作劇場」版にもいなかった、「愛の若草物語」のデービットが大嫌いという人の気持ちが今になってよく分かるぞ。んで悪気を抜くとこの物語に無理矢理恋愛沙汰を持ち込もうとするし、こんなストーリークラッシャーは今まで見たことない、「愛の若草物語」のデービット以下だ。んで「あの人(セイラ)はあっち側の人だよ」って、そんな誰も(視聴者も登場人物も)が分かりきっていて割り切っている事を示唆するためだけに、あんな長々と物語に居座って展開を破壊しておいて他に役割はないのかよ? ふざんけんな、氏ね(一部自主規制)、もう出てくんな。邪魔だから正直いなくなって欲しいし、今回の1話は冒頭部分(「親切なパン屋さん」のエピソード)を除いて丸々イラネ。そろそろ限界かなぁ、これ見続けるの。でもブローチにまつわる回想シーン直後の院長の台詞良かったぞ。てっきりセイラが「ブローチは自分が持ち出して湖に落とした」と告白するのかと思ってた(笑…分からない人は「赤毛のアン」参照)。
 久々は晴れやかに終わったなぁ。何か違和感が…。
研究 ・「親切なパン屋さん」
 今回は「世界名作劇場」版23話の「親切なパン屋さん」のエピソードが再現された。セーラがパン屋の店先で4ペンス硬貨を拾い、それを店に届け出たところで「それで好きなパンを買うように」とパン屋のおかみさんに促され、パンを買ったらホームレスの子供に出会ってほとんどのパンをあげてしまうという話。これは原作のエピソードで「世界名作劇場」版に引き継がれた名シーンでもあり、さらに原作と「世界名作劇場」版では結末への伏線となる。このテレビドラマ板でもセイラが子供達にパンをやった後、パン屋のおかみさんが出てきていて原作通りの展開に出来るような構成にはしてあるが、なんかそれを影でコソコソ見守る男がいてちょっと不気味だったぞ。
 このエピソードは現代日本に舞台を置き換えたテレビドラマでは再現不能と判断していて、カットされるものと覚悟していただけに正直今回、このエピソードが出てきたのは驚いた。現代の日本ではホームレスの子供が腹を空かせて道ばたにいるなんてまず考えられないから。テレビドラマでは「そこはフィクション」とうまく割り切ったようだ。さらに言えば4ペンス効果が500円玉に置き換えられた点についても、「小公女」原作の時代設定における貨幣価値を考慮すればあながち間違っていないと思われる。またドラマ板のセイラに渡されたパンの量も、現在の日本で500円で買えるパンの量とほぼ等しかったと思われる(パン屋が手作りのパン屋だったことが前提)。
 で、もしかして次は「屋根裏のパーティ」?

第8回
感想  カイトの言動が大袈裟だよ、あいつあんな目立つ奴だったっけ?
 真里亜もラビニア相当とは認めたくなくなったなぁ。ラビニアっていうのは確かに見栄っ張り(「世界名作劇場」版設定)だが、自分が見栄を張るに当たっては嘘を吐かないキャラのはずだ。家庭環境や親のこと、自分が着ている服に至ってまで「自分のありのまま」を正直に言うだけで自然に見栄っ張りのキャラになってしまうという人格のはずで、親のことや家族のことなどには嘘を言わなかったし、何よりも親を尊敬している。だからこそどんなにセーラをいじめても魅力的なキャラのはずなのだが…。ああいう父親を設定して娘がそれを隠しておきたいという設定は理解するにしても、親を尊敬しないラビニアではそれがセーラをいじめても「この娘にもいろいろ考えがあるんだ」と同情できない。今後、真里亜のセイラに対するいじめ単なるDQN娘の戯れにしか見えず、視聴者から見れば到底許せない物になってしまう。真里亜が「世界名作劇場」版のラビニアと同じなのは髪型だけだ。
 だがセイラが父親を事業参観に引き入れたことに対する真里亜の気持ちには理解を示す。セイラは真里亜のことに首を突っ込みすぎだ、原作や「世界名作劇場」版のセーラは他人の「踏み込んではいけない部分」は知っていて、そこに入って行かないのがよいところだったけど。セイラが真っ直ぐすぎてたまに暴走するのは、明らかに原作セーラの性格を引き継いでいるようだ。「世界名作劇場」版のセーラはだからこそ失敗しない人物として描かれているので、誰かにこのような説教を受けない性格となっている。
 さらにまさみがアーメンガードらしくなくなった。あんなに頭が切れる台詞をいうアーメンガードというのは想像付かない。だが友人だからこそセイラに厳しいことをいうという態度は、素晴らしいものであるぞ。しかし、孤児だったとは…孤児ならあの髪型のまま赤毛にそばかすだろ?(意味不明)
 で、隣にインド人が来てない段階だから「魔法」が来るとは全く心の準備ができてなかったぞ。たしかに今回の終盤はそうでもしないと救いようのない展開であったが…「魔法」はこうい風に心の準備がない段階でくるからこそ印象に残る。今回は最後はうまく仕上げたと感心した。しかし、魔法発覚時の描写がまんま「世界名作劇場」版とは…パクリと言われても仕方ないぞ。
研究 ・「屋根裏パーティ」
 どういうきっかけに話を持ってゆくかがポイントだと思ったけど、これについても実写版独特の設定にうまく合わせて処理したと思う。「セイラに給料が出ている」という設定を上手く活用し、セイラが茶菓子を提供してある日突然パーティを仕掛けるという設定に変更した。エピソードとしては「セイラとまさみの友情物語」という1対1の関係に主軸を変更し、ベッキーを含めた少女同士の息抜きという要素ではなくなっている。ドラマ版では「セイラとまさみのおそろいのハンカチ」という新アイテムを用意され、原作のような「魔法」への伏線となっていない点は「世界名作劇場」版との共通点であろう。
 事件後のことだが、原作ではそのまま物語中盤のみどころのひとつ「魔法」のシーンとなり、「世界名作劇場」版ではアーメンガードが屋根裏に上がれなくなる理由付けと空腹シーン多発への伏線となっている。このドラマ板では今話の主軸である授業参観を前に、アーメンガード相当(私は認めてないが)に「親への通知」という罰則が与えられるという設定付け的な展開ととするのが直接的な理由だ(ちなみにこのアーメンガードへの罰則は原作と同じだ)。その上で授業参観エピソードを追加してまさみとセイラの亀裂を描き(本当はそうでないはずだが)、ここから亜蘭先生による個人授業が告げ口されるという展開へ流し、それによってセイラの心をズタズタにする展開への入り口となっているのだ。これは結果的に今話のラストシーンとなる「魔法」への伏線となり、ドラマ版の「屋根裏パーティ」は原作のそれと同じ役割を持ったことになる。
 次回、「デュファルジュ先生の帰国」。ご期待下さい(笑)。

第9回
感想  さて、魔法の張本人は屋根裏に食事を用意するとき、なぜ二人分必要と分かったんだろう?
 前半での真里亜のセイラに対する態度、それにセイラがいなければ学院は平和だとする見方は「小公女」という物語の見方としては間違ってないと思う。ただしそれを「小公女」を再現する際にキャラクターに語らせるのは間違ってると思う。もちろんラビニア相当の真里亜にかおりが言った台詞もそうだ。前者は見る側が考えるものであり、見る側の想像力によって提示されるひとつの見方だから見せる側が示唆するのは変で、視聴者の想像力を奪ってしまうものだ。後者は視聴者が耐えるべき物で、「水戸黄門」で謎の老人の正体を先回りしてバラしたいのを放映時間中必死に堪えるのと同じだ。もちろん、物語終盤には印籠に相当する物が用意されているはずだ。
 いずれにしても真里亜は「単なるDQN」決定、アーメンガードに引き続き私はこいつをラビニア相当人物とは認められない。
 亜蘭先生と院長の昔話は、原作に付け加えるエピソードとしては秀逸だろう。原作にしろ「世界名作劇場」版にしろ、ミンチンとデュファルジュにああいう過去があったと想像したら面白い。亜蘭先生がそれを院長に告白するのはやめさせられる段になってというのもリアルで良い、色んな意味で「辞めると決まれば怖い物はない」状態だろう。でその過去を通して、今の院長と真里亜が同じとでも言いたいのだろうか? でも少女時代の院長からは真里亜のようなDQNさは微塵も感じられないぞ、少女自体の院長は仕事中の見知らぬ相手に私情をぶつけるようなアホ娘には見えないぞ。
 しっかし、最後の最後にセイラとカイトの恋愛ものにしてしまったところは心境的に複雑だ。「小公女」という物語には恋愛要素はなく、必要性も感じないのだが、このドラマの設定通りベッキーが男だったらセーラがそれに恋してしまうと言うのは当然の成り行きとも考えられる。ベッキーという人物はセーラよりある意味においては人間が出来ており、セーラが生きて行くために必要な仕事について何枚も上手だし、なによりもセーラに対しいろいろ世話をしている。ドラマ版の設定を見て「ベッキーが男になる」という変更点を知ったとき、真っ先に「セーラとベッキーの恋物語」という展開を想像してしまったほどだ。でもそれを現実に見せられてしまった心境はかなり複雑だ。
 さて、「魔法」に続いていよいよクリスフォード相当人物登場、名字がそのまま栗須というのはずっこけたが。学院の中身を探った謎の警備会社の人はいったい何者だったのだろう? 転入予定者が雇った探偵とはにわかに信じがたいが…その上、こいつらに亜蘭先生も栗須か転入者と関係ありそうで本物の「小公女」とは別の部分で続きが気になるようになったぞ。ま、アーメンガードもラビニアもいないんじゃこれは既に「小公女」ではないが…
 どうでもいいけど、ラストの真里亜・かおり・まさみの3人が仲良く視聴者プレゼントの案内をしているコーナーは、違和感が強くて良かったぞ。
研究 ・クリスフォード登場
 いよいよ原作や「世界名作劇場」でクリスフォード氏に相当する人物が明確な形で現れた。実は前々回からセイラの動きを探る謎の人物として登場はしていたし、今回の序盤で「魔法」を作った張本人だと言う事だけはハッキリ分かる。だが彼がセイラやその父に関わりのある人物で、この状況のセイラを保護できる唯一の関係者である栗須慶人という人物であることが今回のラストシーンでようやく分かる。彼はアフリカを中心としたエリアで活躍する青年実業家のようで、その暮らしぶりを見る限り相当の金持ちだと言う事は間違いない。
 そしてクリスフォードにはラム・ダス(「世界名作劇場」版のラムダス)がいるように、栗須慶人には「柏原」という執事がいる。しかしこの栗須と柏原の関係は原作や「世界名作劇場」版と逆になっているのがポイントだ。原作では主人であるクリスフォードに召使いのラム・ダスという関係で、病弱で機敏な動きが出来ないクリスフォードがラム・ダスを使ってセーラに「魔法」の贈り物をするという展開だ。またセーラの心優しい行動や気品溢れる言動は、クリスフォードが直接見たのでなくラム・ダスからの聞き話という設定になっていた。対してドラマ版では若くて暴走しがちな主人栗須と、老練で落ち着いた執事の柏原という関係になっていて、セイラの言動等は栗須が直接目撃するし、「魔法」の贈り物もどうやら自身で届けているようである。これを暴走として諫める柏原という一面もある。
 またクリスフォードはロンドンでセーラを捜している、と言うのが原作や「世界名作劇場」版のでの重要な設定で、なのに実は隣に住んでいたという要素は「壁の向こうとこちら側」という演出のために無くてはならないものであった。だがドラマ版ではこれらの設定はあっさりと捨ててしまい、栗須とセイラの父は古くからの知り合いという設定はそのままだが、栗須は街中で子供にパンをやるセイラを偶然見かけるという展開を取った。不自然ではあるが学院の敷地脇を通りかかった際(今後の展開によっては実は不自然でなかったとなる知れないが)に、中で働くセイラの姿を見つけ、「魔法」を可能にするという展開だ。
 また今回は栗須が絡むのかどうかよく分からない伏線もおおく示唆されている。まずは学院に大金持ちの娘が転入生としてやってきて寄付もしてくれるという件、これは転入生側がセイラの境遇を知って流れるわけだが、この際にセイラを探っていた警備会社を名乗る人物が栗須と関係ある可能性がある。柏原による調査と、転入生側の調査時期が一致しているだけでなく、「警備会社の人」のシーンをきっかけに双方がセイラの詳細を掴むことになったという事実から関連が想定されるのだ。次に亜蘭先生、亜蘭が学院を出て行くときにわざわざ自分の正体を明かしかけて口を止める、このようなシーンが挟まれたときはその人物に何かしらの裏事情があると想定される場合だ。亜蘭と謎の転入生、どっちか(あるいは双方)が栗須に繋がるのは間違いないと私は踏んでいるのだが…それが明らかになるのは恐らく次回だろう。

第10回(最終回)
感想  いやぁ、うまくやったね。栗須が出てきて、「柏原」がアレならばどう考えてもスーリャの出番がない、だから栗須とセイラをどう繋げるかは今回を見るに当たっての焦点だったと考えられる。教会に逃げ込んだセイラを栗須が探し出して救うという展開は、猿を使わない手段としてうまく繋いだと思う。ま、他にはあり得ないけど。
 院長対栗須の会話は原作を踏襲したため、「世界名作劇場版」とは全く違う印象になった。原作で言う「ほかのものにはなるまいと思っていました」に相当する台詞を、全く意図が同じ台詞をセイラが口にしたことで、いちおうこの作品は「小公女」としての体裁を最低限保つことが出来たと思う。逆にアメリア=笑美子先生ブチギレシーンは展開は同じながらもオリジナルな台詞回しとして、「アメリアと笑美子の違い」を上手く吸収していると感じる。
 物語の終わりについては研究欄に回そう。いずれにしても最後はドラマ版としてはうまくまとめた方だと思う。一部不満はあるにはあるが、それを解決するにしても放送時間が絶対的に足りないから仕方ないってトコだろう。
研究 ・物語の終わり
 一時はどーなるかと思ったが、結局最終回まで全部視聴した。
 今回物語の「オチ」をどうつけるかが問題で、そこに一番注目して視聴に望んだと言っていい。
 まずは亜蘭先生、その正体も前半で明らかにされる。他の学院の理事長と言うだけでなく、院長とセイラの母の関係を知っているという展開。だけどその「関係」について詳しく語られることはなく、次のシーンに行ってしまう(ここまでさんざん見せられた無意味な過去の回想シーンと同内容をセイラに語ったという理解で良いのだろうか?)。亜蘭先生の正体が明かされたのは良いが、なんかその設定が上手く使われないまま、亜蘭先生は「学院を最初に乗っ取ろうとした悪人」として印象に残る結果に、これでは今まで自分の首を掛けてまでセイラを助けてきた彼の立場ってものが…。
 そして「学院の新経営者」として院長室に現れるセイラ、セイラが学院を乗っ取った上で院長以下の学院人事はそのままという条件を付ける点については、原作で主になりつつも「世界名作劇場」版では完全に消された「因果応報」的要素である。その上で「世界名作劇場」と同じように院長への助け船とするという複雑な展開を見せた。セイラが院長を救った理由も、「おかげで自分の知らない世界を知ることが出来て強くなれた」というセイラの感謝の念が語られており、これは「世界名作劇場」版アニメでも同じだが口には出さなかったものであると考えられる。さらにこの設定を活かして、小沼夫妻には上司をつけて苦しませるというシーンは視聴者に「因果応報」という結果を分かり易く見せつけ、気を晴らさせる物として大事だし、何よりもそのシーンが滑稽で面白い。
 院長については原作はともかく、「世界名作劇場」版より変化が大きくなっている。その最大のものは素直になった事だろう。また原作や「世界名作劇場」版では全く救いの無かったアメリアも、ドラマ版の笑美子が教師として成長するという終わりとなっていくらか救いがある内容となった。
 よして夜中にセイラを想うカイト、カイトは隣の部屋から聞こえるセイラの声に部屋を飛び出す。原作や「世界名作劇場」版ならそこにあるのは「魔法」だが、ドラマではそこにセイラがいて全てを打ち上け、カイトはそれを聞いて学院の下働きを辞めると決意する。そしてカイトとのラブシーン、ありゃ絶対キスだけじゃなくて押し倒してるぞ…って、日本のテレビドラマだとどうしてそう見えてしまうんだろう? それはともかく、カイトを退場させたのは良い判断だったと思う、多くの視聴者が「カイトは栗須の下働きになって学校へ行けるようになる」って展開を予想しただろうが、そのとおりやったら白けたに違いないので良い意味で裏切ったと思う。
 真里亜やかをりとの関係のオチは、もういいや。これだけは大したオチがなく終わってしまって消化不良、セイラを総代にするにしても、他に展開があるだろーと思った。真里亜がさんざセイラをいじめたのが不問とは…あの女、なにひとつ変わってないし成長してないぞ。またかをりについては、ここまでああいうキャラにしてきた伏線が全く回収されておらず、中途半端な終わり方をしている。
 ドラマ版の結末は原作の要素を活かしつつ、「世界名作劇場」版では取り入れられずに視聴者の数少ない不満点のひとつとなった「因果応報」要素を削った点を改善し、その上でセイラの財産が復活したことを最大限利用して院長を救い、「世界名作劇場」版と共通点となる「院長を救った理由」を明確にしたのも良かったと思う。反面、生徒との関係については簡単に終わらせてしまい、生徒同士の物語は中途半端な物となってしまった。またせっかく亜蘭先生が再登場したのに、その正体や立場を生かし切れずに終わってしまった点もマイナス要素だろう。総合的に考えると、悪くはない終わり方をしたと私は思う。

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