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第41話「妖精たちのパーティ」
名台詞 「セーラママもエミリーも、こんなところで寝てるんだわ。かわいそう。」
(ロッティ)
名台詞度
★★
 ハロウィンパーティ最後の企画、生徒全員でカボチャのランタンを片手に学院を探検するのだが、ロッティはこの企画からこっそり抜け出して馬小屋へ向かう。自分が母と慕うセーラが馬小屋で寝起きしているのは本当なのかを確かめに行くのだ。屋根裏へ一人で行ったこともロッティにとって馬小屋への道のりには恐怖はない、恐がりもせずに馬小屋に着き戸を開くと、確かにそこにはエミリーとセーラの両親の写真があった。ロッティはその事実に幼い心を痛める。
 その直後にラビニア達が幽霊に返送してロッティを怖がらせるシーンになり、大きな事件が起こるためなかなか印象に残らないだろうが、この時のロッティの悲しそうな表情は今までにないロッティの表情…つまり単純に子供が悲しくて泣くというものでなく、自分にとって大事な人が悲しく辛い目に遭っているという事実に触れて心から悲しんでいるのだ。このようなロッティの多彩な表情はアニメだけのものだ。
 小説版でもこのシーンはあるが、この台詞はない。アニメでは簡単に見つかったエミリーが小説版では見つからず、探しているうちにラビニアがお化けになって出てくるのだ。
名場面 次回予告(w 名場面度
★★★★★
 この回は火を噴く馬小屋にセーラが飛び込みなんとかエミリーとお父様を救出したが、セーラに炎が迫ってきたところで終わる。そこですかさず大げさな次回予告を入れて視聴者を1週間も焦らすのだ。
 「吹き出す煙は逃げまどう私とエミリーを包み、激しさを増してゆく炎が助けを求める私の悲鳴を遮るのでした…」というセーラの解説の背景に、焼け跡と化した馬小屋と燃えさかる馬小屋の様子が交互に繰り返され、セーラの恐怖の表情が炎に照らされている画面で終わる次回予告は「小公女セーラ」の中で最高の緊迫度を持っていて一番優れていると思う。これを見てしまったら次回を見ない訳には行かなくなる。
 今回の物語を最後まで見続け、この予告を見せられたらもうセーラが焼け死ぬようにしか見えないわけで。いや、セーラが焼け死んだら物語が終わってしまうからものすごい救出劇があるのだろう。そんな期待にワクワクして次回のサブタイトルが「雪の日の追放」という火事と全く無関係のものであるって事が頭に入らない。いや、物語がどう転ぶかネタバレしてしまう次回の単純なサブタイトルは目立たせたくなかったに違いない。こんな良くできた次回予告は他のアニメで見たことがない。
 しかし次回予告が名場面なんてありかよ?と思う方もいると思うが、この41話は次回予告の印象が本編のそれを超えてしまっているのだから仕方がない。事実私も「小公女セーラ」を今回全編通して見るまで、本放送時から唯一覚えていた次回予告はこの回なのだから。で本編のことは最後に火事になったこと(その前のロッティが馬小屋に行く辺りから)しか思えてなかった。普通は次回予告を20年以上覚えているなんてあり得ない、それほど印象に残る次回予告だったのだ。
 
(次回予告に繋がる火災シーン)
今回の
アーメンガード
この回の彼女もとっても可愛いので選ぶのに苦労した。まずはさらに太った…じゃなくて、水に浮かぶリンゴを取るゲームに挑む彼女、思い切り息を吸い込む彼女を見てると本当に楽しそうだ。もう1点は船のゲームでアメリアに「引きこもりになる」と言われて慌てる彼女、ゲームで真剣になるこの光景の彼女は可愛いし楽しい。
  
アーメンガー度
★★★★★
感想  全体的にほのぼのとしていた回だった。よく見るとこの回ではセーラに辛く当たる人がいないのだ。せいぜい買い出しの時にモーリーがピーターと遊ぶなという程度だが、それも当然の範囲内だろう。
 ハロウィンパーティでもラビニアはセーラと仲良く遊ぶ。あんなのはいじめじゃない、BGMが重いからそう感じてしまう人は多いだろうけど、あれはどう見てもラビニアがゲームにムキになっているだけだ。試しに音を切ってこのシーンを見てみよう、あの重いBGMがないためにラビニアがセーラやベッキーとともにほのぼのと遊んでいるようにしか見えない。そんなラビニアを可愛いと思える人は、多分人生で一度や二度はいじめられた経験のある人だ。別にラビニアが占いゲームにイカサマでセーラに勝ったとしても、セーラはいじめられたとは思わないはず。「遊びだから」で終わってしまって心に傷つく事もなければ、へこたれたり挫けたりすることもないだろう。特にイカサマであればなおさら。
 そういう風にあのシーンを見ると、ラビニアはこの席で心からパーティを楽しんでいるだけであって、ゲーム後の気まずさはそのパーティの主役とも言える人間が大番狂わせでゲームに負けたからに過ぎないと見えるようになる。前話からラビニアがセーラへの態度を軟化させたという私の説は本当なのだ。そうでなかったら、ラビニアはゲームでなくもっと屈辱的ないじめを考えるのだ。たとえばゲームに使う船を用意させるだけとか、自分の船にわざと穴をあけて自分が負け、イカサマが発覚したときに「セーラよ、セーラが私を妬んで…」とか言い出すのがいつものラビニアのはずである。
 しかし、本放送当時の日本ではハロウィンというのはそんなメジャーな祭りではなかったと思う。かといって誰も知らないというわけでも無かったと思うが。メイポール祭と一緒でイギリスの文化紹介としてハロウィンパーティを入れたのだろう。
 パーティのゲームで水に浮いたリンゴを口で取ろうとするアーミィたんが可愛くてよかったお。セーラやラビニアと一緒の船のゲームの占いによると、アーミィたんはヒッキーになると…。
研究 ・馬小屋の火事
 前にも書いたが、「序盤での主人公親子の別れ」「主人公または準主役の病気(大怪我)」「火事」は「世界名作劇場」シリーズの華である。まぁどの物語もこれが全部揃うことはなくたいてい一つか二つ、そのシーンが物語のヤマ場となって話の流れがガラリと変わったりするのだ。私の印象に残るものでは、「母をたずねて三千里」のマルコと母の別れ、「南の虹のルーシー」でのポップル一家が最初に住んでいた家が焼失するシーンとルーシーの記憶喪失、「わたしのアンネット」では序盤の母の死とダニー谷底転落シーンの他にアンネットが凍死しかかるシーンも…「ふしぎな島のフローネ」なんか家族全員が遭難して死にかかるも当然。この3つのどれもないのって、「赤毛のアン」がそうじゃないかな?
 「小公女セーラ」はこの3つのうち最初の二つは揃った。ラルフの死で裕福な少女の物語は下働きの少女の物語へと変わり、セーラが重病になったことで「魔法」が起こってセーラは自分を助ける人がいることを知って生きる希望を持つ。「華」が既に二つ出てきたからもう無いだろう、と思っていたらこの火事だ。
 失火の直接原因はロッティがランタンを落としたことにより、その原因を作ったのはラビニアのいたずら心である。だが誰もそれで火事になったとは知らない。火事に最初に気付くのは鼻がきくベッキー、藁が燃えるにおいがすると聞かされたセーラは馬小屋へ向かって走る、そしてエミリーとお父様を救出するために火の中へ飛び込むのだ。何とかエミリーとお父様を抱いたセーラに、恐ろしい火の手が迫る。そしてあの次回予告…。
 この火事はこの物語が大きく動くことを予想させるのに十分だ。原作から脱線しまくっている以上は、原作を知っている人でもこの先どうなるのかと不安でたまらなくなるだろう。原作と同じような結末にちゃんと行けるのかどうか、それすらも怪しくさせる物語の動きが「火事」という形で現れたのだ。

 この話はアニメオリジナルで原作から台詞一つの引用もない。だいたい原作ではハロウィンパーティなんて無いし、馬小屋が火事になることもない。小説版ではクリスフォード邸でのクリスフォードとあの洋服屋主人の会話シーンと、ハロウィンパーティの途中からが再現されているが、話の雰囲気がかなり変わっている。それは例の船のゲームではラビニアのイカサマによりセーラはあっさりと負けてしまい、この違いをきっかけに小説版のこのシーンではアニメと展開が変わってしまうのだ。ベッキーの指摘によりアーメンガードがラビニアのイカサマを発見し、アーメンガードは本気に怒ってしまう。セーラが「遊びだから気にしていない」というのも聞こえないようだ。そしてアニメでは前話で繰り広げられたアーメンガードとラビニアの対峙シーンとなるのだ。
 それともう一点の違いはラビニアが馬小屋でロッティをおどかした理由が単なる悪戯で無いと明記されていることだ。火災シーンはアニメと小説版で違いはない、セーラに炎が迫ったところで次章となるのも同じだったりして…。 

第42話「雪の日の追放」
名台詞 「先生は私に親切だったことはありませんでした。それに、ここが私にとって家だったこともありません。」
(セーラ)
名台詞度
★★★★★
 アニメのセーラが初めてミンチンに口答えする。放火の濡れ衣を着せられた上に罵声を浴び、セーラがあの目でミンチンを睨むとミンチンは怒りを爆発させてセーラをはり倒す。その瞬間は灯具に映し出された状況で再現されているのは、セーラがはり倒される瞬間を直接見せないための配慮だろうか?
 はり倒されて倒れたままのセーラに「一体お前はこれまで誰のおかげで生きて来られたと思ってるんです? お前をこの家に置いてやった私の親切のおかげなんですよ!」という押しつけがましく白々しい台詞を吐くと、倒れていたセーラは静かに立ち上がりこの台詞を吐く。しかもミンチンを真っ直ぐ見据え、怯むことなく一気にこれを言い切るのである。原作セーラ並の強気の発言である。
 台詞そのものは原作の別場面でセーラが言ったことで、私はこの台詞は原作セーラの一番の名台詞だとも思う。それはラルフの死によってセーラがミンチンにメイド働きをするように宣告された時で、学院に置いてやるという自分の親切に対し感謝の言葉はないのかと聞かれたときの返答として原作セーラが答えた台詞である。アニメではミンチンの言うままに力無く感謝の言葉を言うが、原作セーラは今までミンチンに親切にしてもらったことは無い上、この学院を家とは思っていないと先に宣告しておく言葉としてこの台詞を吐くのである。原作ミンチンはこの言葉に怒りを爆発させるが、セーラがこの言葉を吐くと同時にあっという間に部屋を出て行ってしまったので震えながらセーラの後ろ姿を見送るだけだった。
 アニメではこの台詞は終盤に移された。ミンチンが学院に置いてやったことを親切と嘯き、それを強調する台詞を吐いた返事であることは原作と変わらない。これを聞いたミンチンが怒り大爆発なのも同じだが、アニメの場合は火事という別の事実がありセーラが放火犯と濡れ衣を着せられている状況下である。つまりセーラが何か反抗的な言葉を口に出せば追放を宣告されるのが間違いない場面でこの台詞を言うのだ。つまりこの台詞は「セーラが学院から出て行かされる」という新展開のトリガーを直接引き、「世界名作劇場」シリーズの華である「火事」による物語の転換を印象づけ、セーラの身の上が再度変わる(学院のメイドからホームレスへ)事態へと物語を導いてしまうのである。ここまでアニメではセーラの立場や居場所まではいじらなかったが、今回ついにそのような重要な点まで設定を変えてしまったのである。
 原作に存在して印象深い台詞が、アニメでは原作にない展開への誘導点になるとはなんとも皮肉である。このような意味も含めて、この台詞は「小公女セーラ」と言う物語のなかでは非常に重要であろう。
(次点と言うかツッコミ)「セーラママ可哀想」(ロッティ)「当然よ」(ラビニア)
…だから、おまいらが火を付けた張本人と原因だろうに…。
名場面 学院を去るセーラ 名場面度
★★★★★
 馬小屋に放火した嫌疑をかけられた以上、それが濡れ衣であってもセーラはもう学院にいることは出来ない。ミンチンに学院を出て行くよう宣告されたセーラは覚悟を決めて学院を出て行くことにする。
 生徒のほぼ全員やベッキーら少女だけではない、学院の飼い猫のシーザーまでもがセーラとの別れを惜しむ。セーラは戸惑うことなく学院に背を向ける。ベッキーが後を追おうとするがそこを馬車が通りすがるのは「世界名作劇場」らしいお約束。ベッキーの「お嬢様〜」という叫びがむなしく響き、ロッティが「セーラママ〜」と泣き叫ぶ。その泣き声にセーラは一度立ち止まり泣き始めるが、セーラの泣き声は寒風にかき消されて殆ど聞こえず、涙は頬を伝う前に風で飛ばされる。そしてセーラは真っ直ぐ正面を見据えたかと思うと再び歩き始めロンドンの街へ消えて行く。
 文句なしで「小公女セーラ」屈指の名場面であるミンチン学院追放のシーンは、セーラが自分の力で生きて行く決意と本当は行きたくないと言う未練とが複雑に入り交じる主人公の心情を最も効果的に描き上げた「世界名作劇場」シリーズ屈指の名シーンであるとも思える。学院を立ち去るセーラの悲しそうな表情や、正面を見据えたときの決意に満ちた表情だけでなく、ここに寒風の音やロッティが泣き叫ぶ声を効果的に入れて視聴者の期待と不安を煽る。学院を追い出されるエピソード自体が原作にはないので本放送ではネタバレも無かったから、見る者全員がこのシーンによってこの物語の展開に驚いたものだ。
 このシーンは小説版では軽く流されているが、文章化するのが難しい上にその必要性は薄いだろう。小説版ではこの前後で学院から出るセーラの気持ちを盛り上げている感がある。
 セーラが学院を追い出されたことで、物語は原作にもない方向へと突き進んで行く。しかし、このようなシーンで1話が終わるのでなく、CMにも入らずにそのまま次のシーンというのはちょっと違和感があったような。
  
(次点)ミンチンがアメリアにセーラを連れ戻すように命じるシーン
 ミンチンが何一つ自分の思いとおりにならない事を悔しがっているのが良く現れている。市長夫人の前ではセーラを持ち上げなきゃならないし、学院はお金持ちの子供の顔色をうかがいながら経営しなきゃならないし…ミンチンはこうして自分の学院すらも自分で操れないことが分かっているのだろうなぁ。小説版にはこの辺りのミンチンの気持ちが詳細に書かれている。
今回の
アーメンガード
セーラが追い出されると知って号泣する彼女、彼女が「大泣き」するのはこの時だけ。どちらかというと目に涙を浮かべてひたすら悲しむタイプの彼女だが、セーラが追い出されると聞いたらもう号泣するしかなかったわけだ。
アーメンガー度
★★★
感想  あの〜、先週の大げさな次回予告は何だったんですかぁ? あんなにあっさりセーラが火事場から助かるなんて…。
 でも物語はそれ以上に重大な展開を迎えてしまった。冷静に考えればミンチンの頭の中で「馬小屋火災」→「セーラの放火」という妄想が広がるのは火を見るより明らかなわけで、そこでサブタイトルが「雪の日の追放」ならば展開は見えるし、そちらに時間がいるから火事に時間をかけていられないわけだ。と当時も納得してしまった。
 今回は物語の展開が一大局面を迎える大事な話である。学院を追い出されたセーラが何を見るのか、それに何話か割くのかなと思っていたのだけど…ピーターとロンドンの下町を歩くシーンを見たときはちょっと展開が早すぎるのではないかとと感じた。そう言えば火災が収まってから追放されるまでもあっという間だったし、物語の切り方も何かおかしい。物語の後半でセーラがマッチ売りに就職するまでも早すぎる。2話くらいかけそうな話を強引に1話に押し込んだのかな?と当時思ったりしていた。まぁミンチンとの対峙シーンはちょうどいい長さかも知れないが。
 そしたら特番だかなんだかで、当時はこの後3週間もお休みだったのね。当時の私は3週間もセーラに会えないのが凄く辛かった。その頃は腕を骨折したりで私の気持ちも沈みがちで、セーラにどれだけ励まされていたかという時期だったのに。で時期的には3週間も休んだらもう12月だから話数もそんなに残っていないわけで、いったいどういう風にラストへ持っていくのか、クリスフォードとの関係はどうなるのか、それが気になって早くセーラの放送が再開されないかと思ったものだ。
 物語の急展開は今回だけじゃなくて、毎回のように続くんだと予想もできた。いよいよ話はハッピーエンドに向けて大きく動き出すんだと。
研究 ・「マッチ売りのセーラ」
 この話はアニメオリジナル、「名台詞」で紹介した台詞だけは原作から引っ張ってきているが、他は完全なオリジナルである。小説版では学院を追い出されたセーラがピーターに会うまでが文章化されているが、セーラとピーターが会った場所が違う。アニメではセーラが川の畔に佇んでいるところをピーターに発見されるが、小説版セーラは最初からピーターに頼るつもりで市場へ向かったのだ。
 セーラはピーターの紹介で「マッチ売りの少女」になるわけだが、まさかそんな展開になるとは原作「小公女」を知っている人は思わなかったことだろう。確かにセーラの物語は「マッチ売りの少女」と通ずるものがある、特にアニメのセーラはいつマッチをすりだしてもおかしくないような状況だったし、セーラ得意の「○○のつもり」はマッチをすると美味しい食べ物が浮かんだりするあの物語を彷彿とさせる。それが本当に雪の街角でマッチを売ることになるとは誰が想像したことか?
 ちなみに「マッチ売りの少女」はアンデルセンが1848年に書いた作品で、書いた時と劇中の時代設定が同じならば「小公女」の約40年前の話と言うことになる。19世紀ってヨーロッパの街にはこういうマッチ売りがいたのだろうか? セーラの場合はマッチ工場に雇われ、工場で作られたマッチを売るための売り子となったと解釈して良いだろうが、当時は本当に少女がマッチを売って歩くなんてしていたのだろうか? ネットで調べてみたがよくわからない、この「マッチ売りの少女」は子供の頃から何度か聞かされ、何の疑問もなく聞いてきたから昔の欧米の街ではこのような少女が当たり前にいたように感じるだろう。でもよくよく考えてみれば、当時もマッチはマッチ屋さんで売っていたような気がする。
 さて、セーラはマッチ売りでそれなりの実績を上げていたのだろうか? どうやらいくつかは売れていたようだ、次話でドナルドが買ってやった分は別にしても、今回のラストシーンではセーラが持っているケースのマッチは少し減っているように見えた。恐らくあの状況ではケース一杯のマッチを持たされるのは間違いないだろう。
 それとセーラの取り分がどのくらいなのか。マッチ一箱が今の使い捨てライターと同じ位なら1ペニーと見て良いだろう。同じ工場の売り子として働くメアリーは、マッチ売りから帰ってきてざっと20枚以上の硬貨を持っていたが、そのうち1〜2割程度しかもらえなかったようだ。ケースに30個のマッチが入るとして、全部売り切ったら売り上げは2シリングと6ペンスといったところか、取り分が1割ならば3ペンスだし、2割なら6ペンス。以前この欄でセーラの世界では1ペニー=80〜90円という計算をしたが、2割としても多く見積もって現在の日本円で450円位の儲けにしかならない。
 それでも家族と同居ならば食べる位はなんとかなりそうだし、子供の仕事ならこんなもんという解釈も出来る。なかなかリアルな世界じゃないか、と思える。

第43話「幸せの素敵な小包」
名台詞 「私、セーラにはきっといつか変わったことが起こるって思っていたわ。だって、あの人自身もすごく変わっているんですもの。」
(ガートルード)
名台詞度
★★★
 セーラが贈り物のきれいな服を着て、サイズがぴったり合っていると言うことでセーラは再び学院での生活が許される。それを聞いて学院の生徒達の大部分は素直に喜びを爆発させる。ラビニアと一緒にセーラをいじめていたガートルードとジェシーも興奮してセーラの話題をするが、その中のガートルードのこの台詞はセーラの数奇な運命や態度や性格といったものを如実に表している台詞だ。そう、セーラは変わり者なのだ、何があっても挫けないだけでなく、プリンセス様のつもりなど「つもり」遊びを本気で実行し、想像力豊かで賢い性格的な面だけでない。父が死んで無一文になったと思ったら、今度は何処の誰かは知らないが高級な服などを送って来る人がいる。セーラ以外の誰もがこの時点のセーラを見てそう思うことだし、またさらなる急展開で新しい運命が訪れることを嫌でも予期させられる。そんな登場人物や見ている者の大部分の人々の思いを、劇中でガートルードが代弁してくれたのだ。
 同じ思いにありながらそれが気に入らないのがラビニア、ラビニアはセーラがまた学院での自分の地位やプライドを脅かす存在になりはしないかと不安でたまらず、それが怒りの表情として表れる。
 原作でもこの台詞はある。小包の服を着たセーラを見てという全く同じ状況下で全く同じ台詞が出てくるのである。そしてアニメと同じように本を読む者や登場人物全員の思いを代弁する台詞となっている。ただし唯一違う点は、原作の場合この台詞を言うのはガートルードでなくジェシーなのだが。
(次点…じゃなくてツッコミ)「おだまり! セーラの後ろには誰か有力な保護者がついていることがわかったのです。毛布も食器類も、いえ、あの屋根裏の豪華な食事も、きっとその保護者が差し入れていたに違いないのです。いいですね、セーラを今までのようにメイド扱いにしてはなりません。わかりましたね?」(ミンチン)
…ミンチンの読みは完璧なんだけど、そこまで完璧にセーラの身の上が推理できるなら、既に手遅れって事も十分に想像がつくと思う…。
名場面 小包を開くシーン 名場面度
★★★★
 学院に呼び戻されたセーラはミンチンと対峙する。ミンチンはセーラに相変わらずの言葉をかけた後、セーラに小包が届いたから呼び戻したと告白する。この小包が誰から届いたのか知らないというセーラに、ミンチンはナイフを渡して小包を開けるように命じる。この時のキラリと光るナイフを持つミンチンの怖いこと怖いこと。
 セーラはまさに恐る恐るという感じで封を切り、箱をひっくり返すように開ける。そして中から高級な衣類と文具が出てくるのはアニメでも原作でも有名なシーンである。セーラはまた( ゚д゚)ポカーンだし、アメリアはともかくミンチンまで素直に驚き、豪華な衣類に我を忘れて目を見張る。だがアニメの場合、我に返ったミンチンはセーラに誰からの贈り物かを問いつめ、セーラが分からないと答えるとサイズが合うかどうか調べるから着るように命ずる。そしてセーラに服のサイズがぴったりだと分かると、ミンチンは突然セーラが富豪の娘だった頃のような優しい声に変わって、セーラに学院で生活することを許すのである。
 ここも物語が一気に展開することを告げる重要なシーンだ。また「魔法」第二弾とも言えるこのシーンにアニメではかなりの時間を割いている。セーラの立場がメイドから一段だけ上に上がるきっかけであり、また元の鞘に収まる前触れでもあるのだ。12話以降延々とセーラに対するいじめに耐えてきた視聴者に、やっと安堵の時が訪れたのだ。
 このシーンも原作・アニメ・小説版ともにほぼ共通である。アニメと小説版では一部の台詞に違いがあるのみでほぼ同じ、ただ違うのは学院に戻ってきたセーラがベッキーやアーメンガードに逢うのはミンチンに住むことを許された後である。従ってセーラが贈り物の服に着替える部分について違いがある。
 原作では若干の違いがあるが流れはほぼ同じである。違いはセーラが学院から追い出されていないため(「魔法」の直後のエピソードとなる)、玄関に置かれている小包を取りに行くようセーラは命じられる。荷物を学院の中に入れたセーラは玄関の広間に荷物を置いて宛名人を確認しているときにミンチンがやってきて、早く荷物を宛名人のところへ持っていけとセーラを叱る。それにセーラは困惑の表情で自分宛であることを告げる。アニメでは「屋根裏の右側の部屋の少女へ」という宛先を聞いてアメリアが「左はベッキーだから右はセーラだ」という趣旨の台詞を言うが、原作ではこれはセーラの台詞である。
 それと原作にはミンチンがセーラ宛の小包であるか調べるために、セーラに服を着るよう命じるシーンはない。荷物の中身を見ただけでセーラに有力な保護者がいると想像を始める、そして自分のセーラに対する仕打ちは間違いだったのではないかと不安になる。アニメではアメリアが「セーラに変わった親戚がいるのではないか?」と勘ぐるシーンがあるが、原作ではこれはミンチンの妄想になっている。
 このように「小公女セーラ」は「魔法」からかなり遠回りをして、原作では「魔法」の直後になるところへ帰ってきた。その間に原作とはかなり違う設定や前提を内包していたのだ。ここから最終回の途中まで原作「小公女」の流れに沿った展開に戻るが、もう最後の展開は「小公女」と同じにはなれない。原作とは違うもう一つのラストシーンに向けて一直線の展開があるだけである。
 
今回の
アーメンガード
追い出されたセーラが帰ってきてとりあえず喜びの表情を浮かべる彼女、これはセーラと意外に早く再会できたことを喜んでいるのだろう。それとセーラが学院に住むと聞いて喜ぶ彼女、この回の彼女も可愛く描かれていて選ぶのに苦労した。
 
アーメンガー度
★★★★
感想  セーラが学院に戻って来て最初にアーメンガードに会った時、手を変に動かしながらセーラに声をかけるが言葉にならないアーミィたん可愛い。…って当時は本当に萌えてた。
 何週間かぶりに日曜の夜に帰ってきたセーラ、ここで間をあけたのは正解だろう。「花のささやき」2番に合わせて「マッチ売りのセーラ」のシーンがしばらく流された後に物語に入る。つまりピーターの家に厄介になっていた間のセーラがどんな生活をして、何を見たのかは視聴者の想像に委ねられたわけだ。この作りも今のアニメじゃなかなか出てこないと思う。
 ドナルドの復活はこの子がラスト前のヤマ場に絡んでくることを十分に予感させたし、小包が届いたシーンもヤマ場が近いことが十二分に想像が出来る。つまりセーラと一緒に耐える期間は終わりを告げ、後はどのように印籠が出てきて、光圀の心が晴れていたっていう光景になるのかを楽しみにするだけなのだ。この回から次回予告が無くなって後番組の予告が入るようになるし…。
 この話はセーラの気持ちの変化がうまく描かれていると思う。自分で働く楽しみを知って一人で生きて行く決心をしたのにアメリアが迎えに来て学院に戻るように言い出したときの困惑、ミンチンを前にして小包を見せられたときの恐怖と疑問の表情、小包を開けたときの驚きの表情、贈り物の服を着て見せた時のすました表情、高級なプレゼントが間違いなくセーラ宛と判断したときのミンチンの変身を見たときの驚きの表情、そして最後は魔法の食事や服の贈り物の送り主への感謝の表情…セーラの気持ちと表情の変化が多彩に豊かに描かれている。この表情の変化が多彩だからこそ、見ている方も感情移入が出来るし、この先の展開を楽しみに出来るのだ。
 去年「完結版」でこのシーンを22年ぶりに見たとき、ミンチンが突然セーラに優しくなるところで「へ〜んしん!」と言っちゃったな。あの変わり身は大魔神みたいで笑えるが、あのシーンのミンチンはそう描くのが正解だと思う。
研究 ・帰ってきたセーラの学院での立場
 この話はセーラがミンチンと会うまではアニメオリジナルだが、以降は原作に沿った話となる。小説版ではこの話の全編が収録されており、ほぼアニメに沿っているが細かい点で違うところもある。ピーターの家にアメリアが迎えに来たときのセーラはハッキリと「帰ることは出来ない」と返事するし、ベッキーがセーラの居場所をミンチンに語ってしまったのは、ミンチンに脅されたからというようなくだりもある。
 原作では設定の違いによる変化が大きい。最も変化が大きいのはセーラが夜になって屋根裏に戻りベッキーと語り合っているシーンだ。二人はその晩の「魔法の食事」を食べるが、食べ終わるとセーラは炉の炎を見つめて悩む表情をする。ベッキーがどうしたのかと聞くとセーラは魔法の食事や服のプレゼントをした人は自分たちに正体を現したくないから探し出すのは失礼に当たるが、なんとかしてその人に感謝の気持ちを伝えたいと悩んでいると答える。そして「魔法使い」に手紙を書くことを思いつき、魔法の食事と一緒に便箋とペンとインクが届けられていたのを思い出し、それを使って手紙を書いてテーブルの上に置くのだ。それなら魔法使いさんを探し出さなくても感謝の気持ちが伝えられるから大丈夫とも言う。
 さて、原作・アニメ・小説版の3つの中で原作と小説版で共通しているのにアニメだけハッキリしていないというものがこの話にはひとつある。それは学院に戻ったセーラの立場である。
 原作と小説版では戻ってきて屋根裏に住むことを許されたセーラの立場は「生徒に戻った」ことが明記されている。原作では小包がセーラ宛で中身は高級な衣類と知ったミンチンがセーラには有力な保護者がいると判断し、この送られて来た服を着ることを認め、買い出しなどの下働きはしなくて良いとされた上で、着替えたらすぐに教室へ行って授業に出るように言われる。そしてその次はセーラが授業に復活するシーンとなる、その中で「名台詞」紹介の台詞がジェシーの台詞として出てくる。
 小説版では数行に渡ってセーラの身分がどう変わったかが書かれている部分があり、その中でセーラの屋根裏部屋に家具が置かれて敷物が敷かれたこと等が書かれている。その中でセーラの身分にも触れられており、一人の生徒として扱われるようになったと明記されている。
 アニメではどうだろう? ミンチンがセーラに台所で働かなくて良いと言うし、ジェームスとモーリーにもセーラをメイド働きさせるなとは言うが、セーラの身分が何なのかについてミンチンは明確に語っていない。屋根裏部屋の暖炉で火を炊くことは許されても、家具や敷物が敷かれたという描写はないし、授業にも出ていない(次話)。想像するに、下働きと生徒の中間みたいな扱いでとりあえずミンチンが引き取ってそこに住まわせているという身分なのだろう。恐らくアニメのミンチンはセーラのバックアップする人間が分かるまではその立場で住まわせ、その人物が判明して大金持ちならまた学院の生徒にするだろうし、そうでなかった引き取らせる等のそれなりの対応を取るつもりだったのだろう。

・「屋根裏の右側の部屋」
 もう一点、「屋根裏の右側の部屋」について考えたい。セーラの部屋はどこから見たら「屋根裏の右側」なのか。
 これにはミンチン学院の間取りを考える必要がある。ここではセーラの部屋の位置を探るため、ミンチン学院の間取り図を作ってみたので参照していただきたい。推定や想像も多いので確定的ではないかも知れないが、大方こんな感じだと思われる(「南の虹のルーシー」のアンガス通りの家は2階建てだが、ミンチン学院は3階建て5フロアなので書くのが大変だった)。これでもジェームスとモーリー、それにマリエットが何処に住んでいたのかが分からないままだ。これを見ていただければセーラの部屋は、玄関から見れば「屋根裏の右側の部屋」になるのがおわかりいただけるだろう。
 小説版設定がアニメを踏襲しているが、小説版のミンチン学院がアニメと違う間取りなのは明白なのだ。小説版でも小包は「屋根裏の右側の部屋の少女」が宛名人であることは変わらないが、実は別の事実があって間取りが違わないと話が成り立たなくなる。それはセーラの父が死んでセーラが屋根裏に住むようミンチンに言われるシーンで、小説版ミンチンがセーラに「お前の部屋は屋根裏の一番奥」と言うのである。アニメのミンチン学院では「屋根裏の一番奥」はベッキーの部屋だし、もしベッキーが手前の部屋を使用しているならばセーラの部屋は玄関基準で屋根裏の左側になってしまう。そうするとあの小包はベッキー宛の荷物になってしまう(それはそれであの服を着ているベッキーを見てみたいが)。さらに「屋根裏の一番奥」は裏から見ない限りはどうしても左側になってしまう。つまり小説版のミンチン学院は元になったアニメ版とは違うと断定せざるを得ないのだ。
 原作ではミンチン学院の間取りが分かるシーンがない。つまり「屋根裏の右側」というのがどんな基準なのかわからない。ただしミンチン学院にセーラとベッキー以外のメイドが存在する原作でも、屋根裏の住民はセーラとベッキーだけのようだ。

第44話「おおこの子だ!」
名台詞 「この子が…ラルフの娘だったんだ…。」
(クリスフォード)
名台詞度
★★★★
 この話はこれに尽きる。32話でクリスフォードがセーラを引き取るべく捜していることが判明してから、我々視聴者はどれほどこの台詞を待ち続けていたことか。セーラがスーリャを届けにクリスフォード邸を訪れ、せっかく来たのだからと恐らく「魔法使い」の正体であろうクリスフォードに会って直接お礼を言おう、セーラはその程度のつもりだったはずだ。対するクリスフォードはドナルドから「マッチ売りの少女」と「隣の屋根裏の少女」が同一人物と聞かされた上に、その少女がインド語を知っていると聞いてやっと「もしや…」と思い面会を求めたセーラをすぐに部屋に通す。
 そしてセーラがかつてインドに住んでいたと聞き…いや、それだけで十分だろう、インド生まれで両親を亡くして天涯孤独になった少女、これだけで「目の前にラルフの娘がいる」という状況証拠は揃ったのだから。あとは名前を聞かねばならないが、自分の興奮を抑えられずカーマイケルに名前を聞かせる。
 セーラが名前を言ったとき、ラルフは思わず車椅子から立ち上がる。そしてこの台詞だ。目の前にいるセーラこそが自分が探していたラルフ・クルーの娘であり、預かっているラルフの財産と自分の財産を相続させる人物であると認めた瞬間なのだ。と同時にセーラの辛く悲しいメイド時代は終わり、今度は書類上ダイヤモンド鉱山の持ち主と変身するのだ。
 この台詞を言われた後も、セーラはこの場に、いや自分自身に何が起きているのか分からなかったのだろう。( ゚д゚)ポカーンという表情を少しも変えずにこの回の終わりまでクリスフォードを見つめる。
 原作も小説版もこの部分は少し違う。原作クリスフォードはセーラが父の名を言うと狂人のように「この子だ」と繰り返し叫ぶし、小説版では「君だったのだ、君が探し求めていたラルフ・クルーの娘だったんだ…」と言いながら涙を流す。しかしどれも見る者が待っていた台詞なのは変わらず、セーラの辛い時代が完全に終わったことを告げる台詞であるのは間違いない。
(次点というか…)「それがわからないんです」(ドナルド)
…ドナルドとジャネットの話を聞いて「マッチ売りの少女」に興味を持ったクリスフォードが、その少女の名前を聞くがドナルドは名前を聞いていなかった。もしドナルドが名前を聞いていて「セーラ・クルーって言うんだよ」なんて言っていたら、大人が他に誰もいないクリスフォード邸の中は大騒ぎに。「ラルフの娘」を連れていないカーマイケルを見て「ちょうどよかった!」と…。
名場面 この子だ! 名場面度
★★★★★
 「屋根裏の少女」「マッチ売りの少女」の正体であるセーラこそがクリスフォードが探し求めていたラルフの娘と分かるこのシーンは、「小公女セーラ」のクライマックスであろう。このシーンを持って11話からずっと辛い目に遭い続けていたセーラのメイド時代は終わり、セーラとともにずっと耐えてきた視聴者も救われる気持ちがするのだ。
 大方の筋は原作もアニメも小説版も同じである、細かい違いは研究欄で言うことにしてここではアニメの流れを追う。セーラの屋根裏部屋の窓辺で凍えていたスーリャをセーラが助け、クリスフォードてにセーラが届けに来るのだ。その際にクリスフォードの召使いのインド人が対応するが、彼らは英語が通じずセーラはインド語で挨拶をする。これを家の中から出てきたドナルドが目撃し、クリスフォードに伝えることによって物語の大転換が始まる。セーラがインド語を知っていると聞いたクリスフォードはセーラをすぐに部屋へ通すように言う。
 セーラが「魔法」や服の贈り物のお礼を言うと、すぐにクリスフォードは本題に入る。セーラに「インド語を知っているようだが…?」と聞くと、セーラはずっとインドで育ってきた自分の過去を語る。しかしこれはクリスフォードにとっては重大な事実だったのだ、そう自分が探しているラルフの娘と同じなのである。クリスフォードは緊張してセーラに直接問うことが出来そうもなく、カーマイケルにセーラの名を聞き出すよう命じる。
 セーラが自分の名前を名乗ると、クリスフォードは立ち上がって「この子だ!」と力無く言う。何が起きているのか理解できずに驚くセーラの表情は秀逸だ。( ゚д゚)ポカーンとしたままセーラは固まる。
 このシーンはクライマックスだけに制作側もかなり気合いを入れたと見られる。パリにラルフの娘はいなかったと聞かされて落胆していたクリスフォードの心境の変化の描写はいいし、ドナルドの暴走的な活躍もいい。
 
今回の
アーメンガード
出番なし 工エエェェ(´д`)ェェエエ工 アーメンガー度
 
感想  昔も今も思うことだが、なぜセーラはクリスフォードへの手紙にベッキーの名は出すのに自分の名前は書かなかったんだろう。「屋根裏の少女ことセーラ・クルー」とか署名していれば、スーリャが来るまでもなくそれを読んだクリスフォードが「あの子がラルフの娘だったのか…。」とか言い出してミンチン学院に乗り込む、そしてセーラは無事クリスフォード邸に…って原作でもこの手紙にはベッキーの名前を出しておきながら自分は名乗ってないのね。
 やっとセーラとクリスフォードが繋がった。でも「水戸黄門」ならまだ印籠シーンまで行ってなくて、たまに印籠シーンの前に助けられる農夫や商人がご老公の正体を知る話があるが、「この子だ」のシーンはそれに当たる。悪役が居ないところで印籠を出しても仕方がない。そりゃともかく。
 本放送時に見たとき、ラストシーンを見ながら「長かったよ…」と呟いてた。この回の放送は12月の半ば、ラルフの父が死んだのが3月半ばの放送だから9ヶ月もの間セーラとともに耐えてきたのだ。「この子がラルフの娘だったんだ…」でその9ヶ月も一緒に耐えてきて良かったと思った。その長い視聴期間に感じたことをいろいろ思い出したりもしていた。
 ここまで来れば残りの展開も読めてくる。まずは悪人は懲らしめられなければならない、ミンチンやラビニアとの決着で残りを費やすのだろう。同時にベッキーやアーメンガードとの関係はどうなるのか? セーラは学院を出て行くのか? もう最終回まで数話だけどまだまだ楽しみがあると感じた。「世界名作劇場」シリーズは最終回が近くなると展開がバレバレでつまらなくなるという話はあまり無い。「ふしぎな島のフローネ」なんか「島から脱出」という大転換を経ても最終回直前までこの家族が全員生きて帰れるかどうかハラハラしながら見ていたし、「赤毛のアン」もアンが大学へ進学してエリートコースへ行くのかと思ったら最終回直前に「曲がり角」があって大転換した、「南の虹のルーシー」に至ってはラストへ向けて話が大転換するのは最終回のひとつ前の話のラストシーンである、それを見ても結末が想像できないというすごさだ。あ、でも「わたしのアンネット」は最後の方が冗長すぎと当時感じていた。
 セーラもこの例に漏れず、セーラがこのまま富豪に引き取られても解決しない部分が残っている。しかも、当時は知らなかったことだが原作とは違う結末なのだから原作を読んでいた人も最期まで楽しめるのだ。
研究 ・「この子だ」
 この回は全部原作踏襲の話である。アニメも小説版も前提の違いを除けば原作にほぼ沿って話が進む。さすがに「小公女」のクライマックスでもあるこの部分は手をかけてしまったら別の話になってしまう。ここを活かして結末を違う形に持って行く、こういう試みがアニメと小説版では試されて成功したように感じる。
 だが細かい違いは多い。これについて考察してまとめよう。
 この話の始動はセーラが「魔法使い」に手紙を書くところといっても過言でないだろう。このエピソードは原作・アニメ・小説版ともに全く同じであると言っても過言ではない。ただ原作の文章は原文からの訳文なので日本語としてはおかしくなってしまっているのと、原作にはこれをクリスフォードが読み上げているシーンはない。直接「この子だ」のエピソードに絡まないが、セーラとクリスフォードが直接繋がる最初のやり取りだから無関係ではない。
 本格的に話が転がるのはスーリャがセーラの部屋に来るか、またはドナルド達兄妹がクリスフォード邸を訪れるかのどちらかである。原作と小説版では前者、アニメでは後者である。まずスーリャが屋根裏に来るシーンであるがこれも原作・アニメ・小説版ともに全く同じだが、原作ではこの出来事は夜に起きている。つまり原作スーリャは夜こっそりラムダスの部屋を飛び出して、ベッキーに本を読んであげているセーラのもとに来たのだ。セーラは天窓からスーリャを救出すると、スーリャを暖めて翌日の朝にクリスフォード邸に届けることにしたのだ。
 次はドナルド達がクリスフォード邸を訪れるシーンであるが、これもアニメと小説版はあまり変わらない。原作とは前提が違うのでその分だけ書き換えられたというところだ、原作では8人兄妹のうちの3人がクリスフォード邸を訪れ、クリスフォードに父親が連れてくるラルフの娘とされている少女の話や、自分の家の向かいにある学院でメイド働きをする「乞食でない女の子」の話をする。「乞食でない女の子」はここ何日かですっかりの立場が変わり、きれいな服を着て授業にも出るようになったから誰かに見つけられたに違いない、と会話するのだ。
 続いてカーマイケルが帰ってきたシーンである。原作ではモスクワから、アニメと小説版ではパリからカーマイケルが帰ってくるが、ラルフの娘とされる少女は連れていなくてクリスフォードが落胆するのは同じである。その少女が人違いだった理由はアニメでは語られていないが、原作では名字が似ているから勘違いしていた事が、小説版では財産目当ての偽物に騙された事が理由とされている。そしてどのメディアもカーマイケルが今度はロンドンで探すことを提案し、小説版では提案したところで次のシーンへ行ってしまうが、他では手始めに隣の学院からという話が出てくる。共に隣には身元もハッキリしない気になる少女がいるが、とてもラルフの娘とは思えないという話になってしまう。
 ここで玄関の呼び鈴が鳴ってセーラが来る。原作では呼び鈴が鳴るのでなく、ラムダスが「隣の屋根裏の少女が来た」と報告に来るのだが、ラムダスはクリスフォードが会って話がしたいと言うに違いないという理由で引き留めたのだ。アニメと小説版ではインド人の召使いが対応し、これにセーラがインド語で挨拶をしたところをドナルド(と小説版の場合はラムダスも)に目撃される。そしてアニメではドナルドがクリスフォードとカーマイケルに「マッチ売りの少女」と「屋根裏の少女」が同一人物でしかもインド語を使えると報告し、小説版ではラムダスが隣の屋根裏の少女はインド語を知っていると報告。それを聞いたクリスフォードはセーラを部屋に通すよう命じる。小説版の場合はここに「もしたしたらラルフの娘はすぐ近くにいたのかも知れん。」というクリスフォードの言葉が入る。
 そしてクリスフォードとセーラがついに向かい合う、原作セーラはラムダスの方を向いて「この猿をあのインドの水夫に渡してよろしいでしょうか」とクリスフォードに聞く、クリスフォードは驚いて「なぜ彼がインドの水夫と分かったのか?」と聞くと「わたくし、インドで生まれたのですもの」とセーラは答える。するとクリスフォードは驚いて興奮し、カーマイケルにセーラに色々と聞いてみるように言う。原作カーマイケルはセーラがいつ学院に来たか、どういう経緯で孤児になったのかを一通り聞くと興奮したクリスフォードは待ちきれない様子でセーラの父の名を問う、するとセーラは「ラルフ・クルーと申しました」と答え 、「この子だ!」となるのである。なお、小説版はアニメとほぼ同じで台詞の言い回しが一部で違うだけである。
 アニメはクリスフォードが「この子だ」と言い、セーラが驚いた表情でクリスフォードを見つめるシーンで次話となって学院のシーンになってしまうが、原作と小説版には続きがある。小説版ではその状況の部屋にドナルドが飛び込んできて「マッチ売りの少女」はこの人だと報告する、ジャネットも「本当に不思議な話だ」と言うと涙で頬を濡らすクリスフォードが笑顔になるシーンが描かれて学院のシーンに切り替わる。
 原作セーラは「この子だ」と繰り返し叫び狂人のようになっているクリスフォードを見つめて「わたくしがどうかしたとおっしゃったの?」と、アニメや小説と違ってこの状況が分からないことを口に出す。カーマイケルがこのクリスフォードがセーラをずっと捜していたことを説明すると、セーラは震えながら「それでもその間中、私はずっと壁の向こうのミンチン学院にいたのだわ」と呟く。セーラは父がクリスフォードに騙されて死んだと勘違いしており、カーマイケル夫人がこの誤解を解く。ドナルドが6ペンスを恵んだときに名前を聞いていれば…と後悔し、ジャネットはラルフの娘が見つかったことをとても喜んでいるとセーラに告げる。だがセーラのクリスフォードへの疑心はなかなか解けない、こんな近くにいた自分に気付かなかったこともそれに追い打ちをかけていた。このひとつひとつの誤解とすれ違いをカーマイケル夫人は説明し、さらに「魔法」の送り主はクリスフォードである事を言うとセーラは驚き、やっとクリスフォードへの疑心が晴れる。

 長くなったが各メディアの「この子だ」はこんな感じ。このシーンをよく見るとメディアによって鍵になる人物が違うことが分かるだろう。
 アニメでは鍵はドナルドが握っていた。ドナルドが暴走気味に「マッチ売りの少女」と「屋根裏の少女」が同一人物であることと、セーラがインド語を使えることをクリスフォードに報告していなかったらこの面会は実現していたかどうか怪しい。ラルフの娘の行方はやはり分からないと知らされたクリスフォードの精神的な疲弊を考慮すると、クリスフォードがセーラに特別に興味を持つこの報告が無ければ会うことを断った可能性は高い。
 アニメの流れを踏襲する小説版で鍵を握っているのはドナルドにはならなかった。その鍵をラムダスか奪い取った形になったのだ、クリスフォードとカーマイケルが今後のラルフの娘の捜索について語り合っているところへラムダスが割り込む形になった。クリスフォードは気を悪くしてセーラとの面会は後日にしたいとハッキリ言っている。ここでいつもは従順なラムダスが「あの少女はインド語を知っている」と言うとクリスフォードは顔色を変えて「すぐに部屋に通してくれ」という。この流れでは間違いなく鍵はラムダスだ。
 原作ではラムダスが鍵を握っているように見える、猿を届けに来ただけのセーラを主人が会いたがるだろうと引き留めたのはラムダスである。しかし、ここにもうひとつ重大な事実がある。原作セーラは父の「親友」が父を騙し、それによって父が死んだとと勘違いし、その人物を恨んでいたのだ。無論クリスフォードがその当人だと知るとクリスフォードに対する疑心が芽生え始める。この誤解が解けない限りはセーラの方の扉が開かないのだ。このセーラの扉の鍵を開いた人物は誰か? それはアニメでは殆ど活躍が無く、声優までガートルードと一人二役にされているカーマイケル夫人である。カーマイケル夫人は主人が仕える人に対する誤解を解くため、誠心誠意セーラに事の成り行きをひとつひとつ説明し、セーラの誤解を解いて心の扉を開ける。アニメではセーラの扉は最初から開いていたからこの役目は必要ない。
 アニメで鍵を開ける人物がドナルドになった理由はなんとなく分かる、やはり男の子が活躍しなきゃダメだったのだろう。「小公女セーラ」において男の子の活躍はピーターだけで他の少年はみんなピーターの手のひらの上でしか活躍していない。そこでピーターに絡まない男の子に活躍してもらう必要があったのだろう。ドナルドはここまでセーラを思うつもりが逆に傷つけていたりなどいいところがなかった、これでは視聴しているドナルドと同じ世代の男の子が悲しむだろう。万人受けするためにはドナルドの活躍が必要だったのである。「小公女」は基本的に女の園の物語で男性の活躍がないから、そのままアニメに出来ないのだ。
 物語もここまで来ればあと僅か、次は悪役が懲らしめられる話になってくる。日本人に受けるためには悪人が懲らしめられ、改心させられなければならないのだ。

第45話「ミンチン院長の後悔」
名台詞 「お嬢様…、ここへはもう、帰ってこないんですね…。」
(ベッキー)
名台詞度
★★★★
 仕事を終えたベッキーが一人で屋根裏への階段を上る、いつもセーラと二人で上った階段だ。いや、セーラが学院から追放されていた数日間は一人だったかも知れない。でも今度はセーラが手の届かぬところへ行ってしまった、ベッキーにはそんな思いがあっただろう。そこで心の中の呟きとしてのこの台詞が出てくる。
 この一言にはベッキーがどれだけセーラを慕っていたか、その慕っていた人間が突然手の届かないところへ行ってしまった哀しみが見事に表現されている。それでもベッキーの学院での日常は続く、セーラというベッキーにとってなくてはならないものを欠いたままで…この台詞を聞くとさっきまでセーラがまた幸せになれると喜んでいた視聴者は、そのベッキーの現実に引き込まれて「セーラとベッキーの別れ」という悲しい出来事に涙が出てくるのだ。泣きながら屋根裏への階段を上るベッキーを見て、視聴者が思い出すのはセーラがラルフの死を告げられた日の夜、ベッキーが泣きながら最初にセーラの屋根裏部屋を訪れたときのことだろう。
 だが天はベッキーを見放してはいない、屋根裏に上がったベッキーはセーラの部屋から灯りが漏れているのに気付く。恐る恐るセーラの部屋を覗いてみると…そこにはあの「魔法」がベッキーのためにかけられていた。ただいつもと違うのはラムダスがセーラからの手紙を持って待っていたことである。ベッキーはセーラがまだ自分のことを想ってくれていると知り、今度は喜びの涙を流す。視聴者もセーラの優しさに感動の涙を流す。
 原作も小説版もこのシーンの展開は同じだ、その中でも小説版はアニメと全く同じ展開で唯一違うのは最後の「魔法」はセーラの部屋でなくベッキーの部屋にかけられていた事だけである。原作では、セーラがいなくなって悲しみに暮れるベッキーがせめて最後にあの「魔法」をもう一度見ようとセーラの部屋の扉を開ける、すると昨夜までと同様に「魔法」がかかっており、ラムダスがセーラからの手紙を持って立っていた。ラムダスからセーラが「ベッキーが泣きながら眠るようなことが無いように」と手紙を書いたということと、クリスフォードがベッキーにセーラの侍女になって欲しいと考えているから会いたがっているという旨を伝える。そして「魔法」は翌日までに全て片付けると言い残してラムダスは天窓からそっと出て行く、その後ろ姿を見てベッキーは「魔法」が誰の仕業だったのか理解する。
 この台詞で始まるベッキーの悲しみとその後の喜びの落差、ベッキーとセーラの思いを現すこのシーンは何度見ても涙なしで見られない。
(次点)「お隣の方でございます、お隣の方でございます、クリスフォード様とおっしゃるのはお隣のご主人様でございます。」(ベッキー)
…アメリアがインドから届いたセーラ宛の手紙を読む。祈るような表情のベッキー、険しい表情のアーメンガード、身を乗り出して話を聞くロッティ、この3人がセーラの新しい運命を初めて知る時の表情がアニメでは克明に再現された。そしてダイヤモンド鉱山の話がやっぱり本当だったこと、セーラを捜している保護者がいることを知った皆は静かに安堵の表情を浮かべる、その静けさの中でベッキーがクリスフォードという人物は隣の人だと叫び、心からの安堵の表情を見せる。このベッキーの表情の変化は良いが、アーメンガードが可愛くない…。
 どうでもいいが、この手紙が1日早く来ていたらどういう結末だったんだろう?
名場面 ダイヤモンドプリンセス・セーラ 名場面度
★★★★★
 「私どもはお父さんを亡くされたセーラさんを精一杯お世話してまいりましたわ。あ、セーラさんもその恩は心得ているはず…」と嘯くミンチンにカーマイケルは「でしょうかな?」、クリスフォードは「ではご自分でお確かめになられたら良いでしょう。」と答える。ミンチンがクリスフォード邸に来たと聞いたセーラは恐怖と困惑の表情を二人に見せている。なのにミンチンがこんな事を言い出したのが許せなかったのだろう。ここでミンチンを懲らしめようと意地悪が始まる。
 クリスフォードとともに階段の下に立ったミンチンの前に、黄色い高級なドレスを着たセーラが現れる。胸にはダイヤモンドが輝き、セーラの表情は窓からの逆光線のせいでまるで神のようだ。数日前までボロボロの服を着てメイド働きをしていたなどとはとうてい信じられない。このセーラを見てミンチンは言葉を失う。やっとセーラの名を口にすると、セーラはお決まりの「はい、院長先生。」という返事を返す。やはり目の前で美しい衣装に身をまとうのはセーラなのだ。
 そしてミンチンは恐れおののき、ついには腰が抜けてその場に座り込んでしまう。その時の表情が滑稽で哀れである。やっと印籠が出たのだ、今のミンチンは印籠を見せられて土下座をする悪代官と同じだ。クリスフォードというご老公からミンチンへの沙汰は次回になるが。
 このシーンはやはりダイヤモンド鉱山の話は本当で、実は破産などしておらず世界有数の金持ちのままであったというセーラの真実を知ったミンチンが打ちのめされる瞬間である。なぜミンチンが打ちのめされるかは簡単、守銭奴のミンチンは大金持ちをそうとは知らずぞんざいに扱ってしまい、自分の手から離れてしまってそのお金持ちの恩恵にあずかることが出来なくなったからだ。今まで主人公に辛く当たってきた人間が徹底的に打ちのめされ、今後改心して行くためのきっかけであるこのシーンは「小公女セーラ」の結末を象徴するシーンで、物語全体を通してみても文句なしの名場面だ。
 でもこのシーンはアニメだけのオリジナルである。アニメではセーラの身の上の変化とミンチンに対する仕置きを視覚的に表現するためにこのようなシーンに仕上げたのだと思われる。この効果は絶大で、ずっとセーラと共に耐えてきた視聴者はミンチンに対しざまーみろと思うのである。苦労した者は報われ苦しめてきた者は懲らしめられるという単純明快な勧善懲悪ストーリーとなったが、水戸黄門の例を挙げるまでもなくこのような物語は日本人だけでなく世界中の人々に受け入れられる。このシーンによって「小公女セーラ」には原作「小公女」と違う結末が約束され、似て非なる物語として完成したと考えられる。
 ちなみに原作ではミンチンとクリスフォードやカーマイケルとの会話はほぼ同じであるが、この会話をセーラが見ている前でするのである。そしてミンチンはセーラは学院に戻るべきだと主張するが、クリスフォードもカーマイケルもそれを認めない。ミンチンは続いてセーラに学院へ戻るように言い「私はあなたを愛していました」と嘯くと、セーラは「それには気付きませんでした」と答え、それでもなお学院に戻ってくるようにいうミンチンにセーラは「あなたは私がなぜ学院に戻らないかをよくご存じのはずです」と答える。ミンチンはぶち切れて「これでプリンセス様になったような気がするでしょう?」というと、セーラは「私はほかのものにはなるまいと思っていました」とこの物語の主題となる言葉をぶちまけるのだ。原作でのこの会話シーンはこの他にも面白いやり取りが多く見所が多い。
 小説版ではミンチンがクリスフォード邸に来てから「セーラさんもその恩は心得ているはず…」と言うまでは同じ展開、しかしその返答の「でしょうかな?」はクリスフォードの台詞となり、彼は続けて「魔法の食事」の事を知ったミンチンがセーラをどう扱ったか考えればその答えは明らかだと言う。そしてミンチンは屋根裏の豪華な食事やセーラへの服のプレゼントの主がクリスフォードだと悟り、そのクリスフォードが自分とセーラの関係を知っていたと分かってショックを受ける。
  
今回の
アーメンガード
セーラが隣に行ったと知って怒り狂う院長を見て、不安な表情を浮かべる彼女。また事件が起きるのだわ…と思っていることだろう。そしてアメリアがインドからの手紙を勝手に読んだ事で、セーラの不幸が取り払われる事を知って安堵と喜びの表情を露わにする彼女(ラビニアが…)。セーラの苦しみが終わることで自分の悲しみからも解放された瞬間だ。
 
アーメンガー度
★★
感想  いよいよ最終回が目前に迫る。今回はサブタイトルからしてミンチンが打ちのめされる話だとすぐ分かる。印籠を見せられてへたり込むミンチンの姿は本当に水戸黄門の悪代官みたいだった。
 そして雪の中を転びながら歩き、学院でもまともに立っていられないミンチンを見て、典型的アニメの悪人の行く末なんだがその描写が滑稽で本当に惨めに見えた。今まで何も自分の思い通りに出来なかったミンチンがとどめを刺されたと考えることができる。なんかミンチンの背中に哀愁すら感じていた当時だった。
 アメリアの怒りはごもっとも。あそこまでぶち切れるなんて当時は考えもしなかった。アメリカの怒りに圧倒されてミンチンと一緒に視聴者である私まで圧倒されていた記憶がある。
 見所満載で感想すらまとまらない回でもあるが、その中でも好印象なのはインドのボンベイから手紙が帰ってきたことだ。あの手紙どうなったんだ?と考えながらずっと見ていたから…てっきりあの手紙がきっかけになってセーラとクリスフォードが繋がるのだと思っていた、当時はそう考えてみていて見事に予想を裏切られたなぁ。
 次はいよいよ最終回、「世界名作劇場」で物語が終わるのをこんなに寂しがったのは他にない。たいていは次を楽しみにしていたのだが、セーラだけは終わるのが寂しかった。それだけ当時も気に入っていたと言うことだ。
 余談だが、またエンディングの映像が視聴者から届いたイラストだった。最後から2番目のセーラを書いた子、お日様とセーラが可愛かったけど「せいら」って、なんか「キャスバル兄さん…」とか言い出しそうだ…でもその子、もういい年なんだろうなぁ…。
研究 ・アメリアの怒り
 アメリアが怒る、とにかくキレる。今までの鬱積を全部爆発させてミンチンに詰め寄る。
 アメリアは自分は利口でないから姉に逆らわなかったとそれまでの自分について白状し、そして全部言いたいことを言ってしまうつもりで、何かにとりつかれたかのように一気にまくし立てる。
 アメリアが怒りモードになるきっかけは、アニメではミンチンからクリスフォード邸での出来事を聞かされただけでアメリアは怒りに燃える。だが原作と小説版ではちゃんときっかけが存在する。原作では話を聞かされたアメリアはミンチンに自分は利口でないから姉に逆らわなかったと前置きした上で、ミンチンのセーラへの扱いを批判する(原作アメリアはこの段階ではまだキレてない)。それに怒りの声を上げたミンチンに対してアメリアはここでキレて、「どうしてこんな事を言い出したのか自分でも分からないわ」と叫び、「でもどんな目にあっても言い出したことだから最後まで言う」とさらに続ける。つまり原作アメリアは口を滑らせてミンチンを批判してしまい、それを高圧的な態度で抑えようとしたミンチンを見て怒りが爆発したようだ。この後はアニメと言っていることは同じであるが、それにミンチンが金持ちには平身低頭で貧乏人はぞんざいに扱うこと、アメリアがそんな姉に逆らわないことがセーラにはお見通しだったと加え、その上で誰とでも分け隔て無く対応するセーラは本物のプリンセスだとする。アメリアは興奮してヒステリーになってしまい、ミンチンが鎮痛剤を飲ませて寝込んだところを看病する羽目になる。以降ミンチンはアメリアを恐れる。
 小説版ではミンチンが「私たちがもっと早く気付いていれば…」と言ったのが気に入らなかった。セーラに辛く当たったのは姉であり自分ではない、自分はセーラを気の毒に思っていた、なのに姉は妹の自分も同罪だと決めつけたのが納得がいかなかったのだと推測される。そして「お姉様が全てをぶちこわしたのよ」と怒りモード全開で叫ぶ。以降はアニメと同じ。
 アメリアが言うことはミンチンのセーラに対する扱いの批判でセーラの服も食べ物も酷かった上に働かせすぎだったこと、セーラの性格とそれに対するミンチンについてでセーラは良い子で親切にすればちゃんと報いたはずでミンチンはそんなセーラが嫌いだったという指摘、そして学院のこれからでセーラの事が生徒の親たちに知れたら生徒達がこの学院から出て行くであろう事の3点である。どれもこれも真っ当に考えれば当然のことで、これに気付かないミンチンはもう抜けているとしか思えない。そして指摘が正しすぎるため、原作ミンチンはアメリアに鎮痛剤を飲ませて眠らせ、アニメと小説版のミンチンは「私がバカだったのよ」と叫んで泣きアメリアはされを見て呆然とする、恐らくミンチンが泣いたのを初めて見たのだろう。
 この回はこれまでの物語について、ミンチンに対する後処理と見ていいだろう。最終回ではラビニアに対する後処理があり、最後の大団円に持って行くことになる。
 ちなみにこの回はほぼ全てが原作踏襲で物語が進む。アニメオリジナルの部分はボンベイからセーラに手紙が届き、これによって学院の生徒達がセーラの新しい運命を知るという設定である点だ。原作ではクリスフォードに引き取られたセーラからアーメンガードに手紙が届き、アーメンガードがその内容を読み上げることで学院のみんながセーラの新しい運命を知る。そこにはダイヤモンド鉱山の話が本当だった事と、父が破産していなかったこと、クリスフォード邸に引き取られたこと説明され、アーメンガードがクリスフォード邸に遊びに来るように誘うものであった。ベッキーもこの話を聞いてセーラの事を知る。
 「魔法」最終夜の違いについては「名台詞」で、クリスフォード邸での事は「名場面」で語ったとおり。

第46話「また逢う日まで」
名台詞 「きっと何十年も経って、あなたがダイヤモンドプリンセスからダイヤモンドクィーンになった頃にね。その頃はきっと私、アメリカ大統領夫人になっていると思うけど。」
(ラビニア)
名台詞度
★★★★
 「小公女」と違う「小公女セーラ」の結末はこの台詞に象徴されよう。セーラとラビニアが和解し、ラストシーンではこんな会話で笑い合う二人が見られるのである。和解をしたと言ってもラビニアはセーラに屈したのではない、セーラに追いつき追い越そうとする決意の表れがこの台詞と読みとることも出来る。
 この台詞は小説版にも存在するが、アニメではラストシーンの港での見送り光景の時に出てくるが、小説版ではラビニアとセーラが和解するシーンで出てくる(名場面欄参照)。
 ラビニアのこの最後の台詞は、ラビニアの生き方を示しているようでもある。常に自分が一番でないといられない性格と、誰よりも大きい野望を高いプライドを持ち、誰にも屈しない生き方である。ラビニアが本当にファーストレディになったかどうかはともかく、このセーラと和解しつつも屈しなかった彼女は、主人公と和解するいじめキャラの中でも特筆に値すると想われる。
(次点というか…)「わ! じゅう、じゅ、じゅ、じゅう、あわ、あわわわわわ、あわわ、じゅうまんポンド! ああ〜…」(ミンチン)
…驚くのも無理はない、以前計算したとおり現在の日本円に換算すればにじゅうおくえん!だから(1ペニーでぶどうパン1個が根拠)。これがセーラのミンチンへの「裁き」の結果だ。これも「小公女」にないもうひとつの結末のうちのひとつ。
名場面 セーラとラビニアの和解 名場面度
★★★★
 「小公女」と違う結末、これを象徴するのがラビニアとの和解シーンだ。本来ならば最終話の名場面はパン屋での話なのだろうが、私は「小公女セーラ」としての結末を考えればこちらの方が重要で印象にも残っている。パン屋の件はもう一話増やした上で最終話1回前に移動し、空いた時間でピーターやロッティやアーメンガード、それに洋服屋主人の話をもっと入れてやって欲しかったと思う。あれだけセーラを助けたのにあんなあっさりと退場じゃみんな可哀想だ。
 ミンチンが生徒全員を呼び、セーラが学院の生徒としてまたこの学院に帰ってきた事を告げると生徒達は喜びを爆発させる。ジェシーとガートルードまでがこの歓喜の輪に加わり、ラビニアは一人になってしまう。ラビニアはセーラに向かって歩き、歓喜の輪の中に入ってセーラと見つめ合う。そして16秒の沈黙を経て「おめでとう、セーラ。」と祝福の声をかけるのだ、「私、あなたさえよければ仲良しになって上げてよくてよ。」と続け、セーラは「本当はあなたと友達になりたいと思っていた。」と答える。そして二人はがっちりと和解の握手を交わす。
 このアニメのラビニアは単なるいじめキャラで終わるとは思えなかった。声優さんが「世界名作劇場」シリーズにたびたび出てくるアンやルシエンでおなじみの山田栄子さんだからという理由もあるが、このアニメでは原作と比較すると1にベッキー、2にラビニアの順でキャラの役割が膨らまされている。ベッキーについては原作に踏襲したラストでも十分に膨らんだ部分が吸収できるが、原作では自然にいなくなっているラビニアはそうはいかない。あそこまで徹底的にセーラに恨み、セーラをいじめ続けたラビニアとの決着は必要になってしまったのである。
 そこでアニメの「違う結末」にはラビニアとの和解というのは避けて通れなくなっていた。その事前段階として39話のアーメンガードVSラビニアのシーンがあり、ここでラビニアに本音を吐かせてラビニアを少し楽にさせる展開を用意する。そして徐々にラビニアにはセーラに対する態度を軟化させ、悩みながらも結局は過去を水に流してセーラと和解する道を取るようにしたのだろう。アーメンガードVSラビニアの対峙が別の終わり方をし、セーラに対する態度が相変わらずの小説版ではこの和解があまりにも唐突すぎて不自然すぎる。
 小説版でもこの和解シーンはあるがアニメとは雰囲気がかなり違う。小説版ラビニアは「あなたには負けたわ」と肩をすくめながら言うと、セーラが「あなたとお友達になりたかった」と答える。するとラビニアは「調子に乗らないで、次は私が勝つ番よ、あなたがダイヤモンドプリンセスなら私はファーストレディかしら」と言って笑う。
 セーラとラビニアの和解には、いがみ合い続けた者同士でもいつかきっと笑って話し合える日が来るというメッセージが入っているようにも取れる。
 
今回の
アーメンガード
最終回も彼女は非常に可愛く描かれたのでこれも選ぶのが大変だった。真面目に最終回は彼女が出てくるシーン全てを取り上げたいほどで、まさにアーメンガードの集成大といったところだ。まずベッキーのこれからを聞いて階段の下で微笑む彼女、彼女はベッキーも友としていたことはこのシーンから明らかだろう。続いて人が変わってしまったような院長先生を見て驚く彼女、彼女の表情も抜群にいいのだが隣で首を傾げているロッティがさらに良い味を出している。最後はまたセーラと一緒に勉強が出来ると知って「あなたのことが心配だったの」と涙を浮かべて喜びを表現する彼女、この喜びは今後セーラと堂々と親友付き合いが出来るという喜びであろう。。
  
そして彼女のラストシーン、さらばアーメンガード、また逢う日まで…
アーメンガー度
★★★★★
感想  見事な大団円。ミンチンはどうなるのかと思っていたらセーラからの巨額な寄付で立ち直り、ラビニアとは和解してすべてが丸く収まる。どちらも展開としては不自然ではなく、ミンチンはアメリアによって過去がバラされた事が伏線だろうし、ラビニアの方は39話以降の流れを見ていればこの結末は分かっただろう。
 10万ポンドって本放送の時はどれ位の額なのか分からなかったが、学校を経営している人間がもらったらショックで倒れそうな額だからジャンボ宝くじで1等前後賞が当たった位の額かと思っていた。そしたらその10倍は軽く行っていたわけで…この寄付額の設定についてはちょっとやりすぎの感もあるが、当時なら周囲の土地を買い占めて校舎を大きくすることも可能だったんじゃないかな? いずれにせよこれでラビニア父の寄付は雀の涙程度になったのかな?
 最後の「花のささやき」2番に載せた回想シーンは見直したら涙が出た、セーラと一緒に耐えてきたのが自分のことのように感じたからだ。嵐の中で訪れた洋服屋の主人の対応、マリエットとの別れ、病気で寝込んでいるところへ来訪したラムダス、マッチ売りのセーラ、デュファルジュ先生との別れ、「魔法」第二夜、馬小屋の火事、じゃがいもを拾う衛兵の順で流れてくるが、終盤の流れの速さを通り過ぎるとどれもこれも随分前に見た話に感じる。ちなみにどのシーンも劇中の画像のようだが、病気のセーラの元に来たラムダスのシーンだけは劇中のものでないような気がする。36話でラムダスが屋根裏に来たときはセーラが目を開けるシーンはなかったような…。
 いずれにしろ最終回が終わり、本放送当時は一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。今までに見たアニメ番組で最終回がこんな寂しかったのは初めてである。それほどこの物語は自分の心の中に深く入ってきていたのだ。
 余談だが、ミンチンに「みなさ〜ん」と甘い声で呼ばれたときのアーメンガードの( ゚д゚)ポカーンとした表情に、当時はたまらなく萌えだった。最終回もエンディングは視聴者のイラスト、今度は「三丁目の夕日」に出てきそうなセーラが混じってた(口が「あの形」だったら完璧だったのに…)。最後から二人目のセーラとラルフを描いた人、最高だよ。
研究 ・物語の終わり
 どんな物語でも始まりがあれば終わりがある。「小公女セーラ」もこの話を持って終了である。最終回は原作とは全く違う流れとなり、結末そのものも原作と違う結末を迎えた。
 アニメと小説版では、セーラはミンチン学院に10万ポンドという多額の寄付をしてミンチンを救う。セーラのことで気落ちしていたミンチンはこれで復活し、生徒達に甘い声で接するようになるのだ。
 続いてベッキーはミンチン学院から引き抜かれ、クリスフォード邸のメイドとして働くことになる。これについては「小公女セーラ」のファンサイトで色んな解釈や賛否両論があるようだが、私としてはセーラはベッキーをメイドとしてだけではなく心の友としても迎えたと解釈している。ベッキーにとってセーラに仕えるのは夢のような話であり、またなりたい職業の一つでもあっただろう。その上で苦楽を共にした最高の友であり、お互いに無くてはならない存在のはずだ。だからといってベッキーをタダで住まわせるわけにはいかない、ベッキーの家族が借金を抱え(小説版設定)仕送りを待っている以上は給料を出さねばならない。このためにベッキーはメイドとなるしか手はないはずなのだ。だがセーラにとっては最良のメイドとなるはずだ。
 次はミンチンが甘い声で生徒達を集め、セーラが再び学院に戻り、通いで共に勉強することになったことを伝える。生徒達は喜びを爆発させ、ロッティはセーラに抱きつき、アーメンガードは泣きながらセーラに「あなたのことが心配だった…」と言う。ただこのシーンは小説版では少し違い、甘い声のミンチンの姿はなく、セーラのこれからについてはセーラが自分で説明するのだ。
 続いて「名場面」で記したセーラとラビニアの和解があり、話は学院のクリスマスシーンへ。そこにクリスフォードがセーラへのクリスマスプレゼントとして、かつてセーラの元にいたポニーのジャンプとオウムのボナパルト、それに馬車を探し出して渡したのである。そしてセーラはピーターの牽く馬車でロンドンの街へ出る。そこで例のパン屋へ行ってアンヌとの再会、飢えた子にクリスフードの負担でパンを食べさせるという提案をする。
 ラストシーンはロンドン港、セーラは財産の引き継ぎと墓参りのためベッキーと一緒にインドへ旅立つ、ラビニアと笑い合い、今までセーラを助けた多くの人たちに見送られてセーラはインドへ発つ。メアリーやガラス屋やアムロ煙突掃除というマイナーなキャラまでもいるのに、洋服屋主人が…。そして辛かったシーンの回想で物語は終わるのだ。
 小説版は最後の最後が少し違う。ビジュアルでの表現が出来ないためセーラを乗せた船が出るシーンで終わるのは同じだが、みんなに見送られてとか回想シーンというのは省かれている。その代わりラストシーンはセーラがエミリーに声をかけて終わっている。
 原作では物語の終わりはかなり違う。ベッキーがセーラの侍女になる話は前話に相当する最後の「魔法」のところで確定的になっている。最終話に相当する部分はセーラとクリスフォードやカーマイケルの家族との話から始まっている。「大家族」ことカーマイケルの子供である8人の兄妹はセーラと仲良くなれたことを喜び、特にセーラのメイド時代の話を聞いてセーラを尊敬していた。その中でも「魔法」の話が一番人気だったようだ。クリスフォードとセーラも気が合って実の親子のような良好な関係となった。クリスフォードはそんなセーラに色んなプレゼントをしてセーラを驚かせるのが楽しみだったようだ。
 ある日、セーラはあのパン屋での出来事を思い出す。そしてセーラは自分の財産を使ってあのパン屋さんに飢えた子を見つけたらパンを分けるようにできないかと考えるのだ。早速セーラはそれを実行するためにクリスフォードと共にパン屋へ向かう、その時に出かけるセーラの姿を隣の学院の窓からミンチンが見下ろしていた、きれいな服を着て馬車で出かけるセーラとベッキーの姿はミンチンにとってあまり見たいものではないのだ。そのベッキーはセーラの侍女になったことを心から喜び、何処へ行くにもセーラと一緒だった。
 パン屋で人の良いおかみさんと再会、おかみは自分もお腹を空かせているはずなのにホームレスの女の子にパンを与えたセーラに感動し、以来同じように飢えた子供を見つけるとパンを分けてやっているのだという。さらにおかみはあの時の女の子の話もした、セーラが「あの子に会ったの?」と聞くと「この奥の部屋で働いている」と言う。おかみはその女の子、アンヌを呼んでセーラと対面させる。アンヌはセーラをじっと見つめた。するとセーラはアンヌが飢えた子供にパンを与える役目を引き受けるに違いないと言う。
 そしてセーラはパン屋を後にして馬車で去っていった、その後ろ姿を見えなくなるまでアンヌが見送るところで原作「小公女」は幕を閉じる。
 終わり方は原作とアニメでは全く違う。原作ではアニメと違い、クリスフォードに引き取られたセーラは二度と学院と関わることはない。かといって学院に仕返しをするわけでもなく完全に我関せずの方針を貫くのだ。よってミンチンが救われることもないし、ラビニアと和解することもない。パン屋の話が最重要テーマとなってラストを迎えるのだ。
 実は私はまだ見ていないが、アメリカで「小公女」が映画になったことがある。舞台がロンドンからニューヨークに変えられるなど多くの設定が変わっているが、この「小公女」の結末は原作とも日本のアニメとも違い、セーラがハッキリとミンチンに仕返しをするそうだ。私が読んだ感触もそうだが、どうも原作「小公女」はラストシーンのインパクトに欠けるような気がする。大団円という感じでも「正義は勝つ」と言う感じでもなく、セーラがクリスフォードに引き取られたかと思ったら、後半になって突然出てきたパン屋の話が唐突に出てきてハイおしまいみたいな。やはり物語の序盤からいる人物との話の決着は欲しかった、と言っても原作ではセーラに絡む人物が少なすぎ、ベッキーとミンチンやアメリアとの決着がつけば他はどうでも良いような程度でしか扱われていないから仕方がないが、アーメンガードやロッティとの話やラビニア達との話をもうちょっと上手く仕上げられなかったのか?とも思う。学院という設定を上手に生かしきれないまま終わってしまっているので、アニメや映画になったときにここに力が注がれたのだろう。
 アニメの大団円は「小公女」のもうひとつの結末としては素晴らしいものだと思う。中途半端な終わり方でなく、決着を付けるべきところにはキチンと決着を付けたのが良かった。ただピーターの扱いはもうちょっと考えろとは思ったが。なにはともあれ、不満ではない終わり方だ。

・「小公女セーラ」のエンディング
「ひまわり」 作詞・なかにし礼 作曲・森田公一 編曲・服部克久 歌・下成佐登子

 この物語の終わりを告げる曲も印象に残り、曲の背景に流れる馬車(37〜38話・45〜46話除く)の映像と共にやはり覚えていた。「世界名作劇場」ではオープニングでは物語や主人公のイメージを前面に押し出した画像を使い、エンディングでは動きは少ない画像を流す。でも「母をたずねて三千里」のエンディングは劇中の映像を使い回していたような…。
 この曲は耳につきやすいメロディと歌詞が特徴で、特に「よわむしは…」のところは独特でこれが本放送時は耳について離れなかっただけでなく、20年以上の時を経てこのエンディングに再会したときまでちゃんと覚えていた。いや、字幕を見ながらではあるが歌えた。
 エンディングもやはり当時「さだまさし」にはまりつつあった私は、編曲もあって親しみやすいものだった。一部はさだまさしの「第三者」という曲に使った手法を入れているようだ。
 曲自体は「小公女セーラ」という物語で一貫されている「くじけたらダメ」というメッセージで終わるようになっている。セーラの辛いメイド時代を遠い道のりに例え、セーラと一緒に耐えている者を励まし続ける良い曲に仕上がっていると思う。
 背景画像にはセーラを始めとする登場人物は一切出てこないが、色んな形の馬車が画面を横切り、最後は何故か二階建てバスが登場する。セーラの時代に二階建てバスがあったどうかは怪しいが、馬車は当時のロンドンの風情を伝えているのではないかと想像することは可能だ。最後の二階建てバスは何故か画面中央で立ち止まるが、あれだけは何の意図があるか分からない。
 この背景画像は前述の通り37〜38話と45〜46話では当時の視聴者から投稿されたイラストコーナーとなり、この画像が見られたのは46話中42話。しかし当時の投稿イラストが未だに有料動画サイトなどで流されているとは思わなかった。
 しかし、エンディングに登場人物が全く出てこないアニメも珍しいだろう。

・総評
・物語について
 ここでは当時の記憶でなく、最近になって見直しての評価をしたい。
 今回、アニメだけでなく「原作小説」とアニメを再度小説化した「小説版」の3つを見比べる形となったが、中学生の頃に見た「小公女セーラ」の世界観が広がって色々な角度から物語を見直すことが出来た。アニメや小説版という「小公女セーラ」は原作「小公女」とはストーリー展開に大きな相違があり、結末も似て非なるものとなるために「セーラ」という主人公の考えや変化が違った角度から見られるように出来ている。見方によっては「小公女」と「小公女セーラ」は互いに補完し合っている関係とも取れるが、どれも単体でも物語としてはかなりレベルは高いと思われる。
 各話ごとの感想にも書いたが、アニメ「小公女セーラ」は明確に3つの物語に分けることが出来る。1話から13話までの「セーラがどん底に落ちるまでの物語」、14話から29話前半までの「どん底でセーラが何を見たかの物語」、30話後半から46話までが「セーラとクリスフォードの物語」となる。ただ25〜27話は「どん底でセーラが何を見たかの物語」ではなく、セーラを助けようとするがそれによって全てを失う人物について描かれた「セーラとデュファルジュ先生の物語」というちょっと違う展開に分類できる。29話後半から30話前半は完全な番外である「ベッキーの里帰り」という、物語の展開が変わる前のクッションであると考えられる。
 アニメは始まりから終わりに向けてだんだん展開が早くなる印象を感じた。これはかつて本放送で見たときも同じ印象を持っている。セーラが学院にやってきてからラルフの死まではゆっくりと物語が進行していた。セーラが学院にやってきて最初の授業が終わるまでで3話、主要なキャラの紹介にそれぞれ1話(3人分だから計3話)を使い、その他に中盤以降のセーラとラビニアのいじめ関係を構築する話に1話、セーラが落ちぶれる前に徹底的に持ち上げられる話で1話、ベッキーとの関係構築に1話を費やし、ここまで贅沢に話数を費やしつつも物語の合間には学院での生活をキチンと描いているという細かい作りがなされていて、話が分かりやすいだけでなく見る者をしっかりと引き込む作りになっている。登場人物同士の関係構築がしっかりしているので、話に奥行きが出来て「はまる」者も出てくるわけである。
 最も話がゆっくり進むのはラルフの死からセーラがメイドとして働き始めるまで、これにほぼ3話も費やすのだ。劇中ではこの間に24時間しか話は進んでいない。セーラが大富豪の娘という立場からメイドまで落ちるのは一瞬だが、ここに時間をかけてこの一瞬を引き延ばしてゆっくり描いたのがまた良いと思う。このセーラの立場の変化に乗り遅れる視聴者は居ないと思うし、何よりもここで「立場の違い」による境遇の変化をじっくり書いて当時のロンドンにおける階級社会や貧富の差というものまで視聴者にわかりやすく描いたのは他に例を見ない。上記の3つの分類の中で劇中の経過時間が一番短いのは明らかにこの「セーラがどん底に落ちるまでの物語」である。
 中盤でも「どん底でセーラが何を見たかの物語」の部分はやはりゆっくりと物語が進む。基本的には物語の始まりが朝で、その日一日の出来事として1話が描かれるようになる。最初はセーラの味方になる人物像を一人1話ずつ描き出し、そこから話を広げる手法を取った。これでさらに物語の奥行きが広がるのは間違いない。さらにミンチンやラビニアのいじめを原作以上に強烈に描き上げ、それに対するセーラの苦労を描き出して視聴者をセーラに引き込む。ここではミンチンやラビニアの人物像やいじめの理由をハッキリさせずに、とにかく機械的にセーラをいじめさせるのは当時の社会問題である「いじめ」の現場を再現するためだったろう。そのような状況で視聴者がセーラと共に色々なものを見せられるようにしている作りがこれまた良かったと思う。
 夏休みシーンにいじめシーンも休みとなり、視聴者がホッとしたところで物語を一気に転換させるというのも現在のアニメではなかなか見られない作りだ。視聴者が安堵しているうちにこれまでの先が見えない悲惨な話は、いつのまにかハッピーエンドの希望が見える話にすり替わっているのである。
 クリスフォードが現れて以降、特に「追放」の後はちょっと流れが速すぎるような気がする。やはり何度見ても42話と43話の間に1話入れて「ロンドンの街で働くセーラが何を見たか」のエピソードが欲しかったし、45話と46話の間に1話入れて再び訪れたセーラの立場の急変をじっくり描いて欲しかったのと、結末前にもう少し話をまとめて欲しかった気がする。特に42話から43話の流れはセーラが学院を追放されたという設定を生かしきれないままに終わってしまったような気がする。ただこの間のストーリーを視聴者の想像に任されたとの解釈も可能で、セーラがマッチ売りをしながらどんな生活をして何を見たかという想像を巡らせるのも悪くはないと思う。
 全体的には「小公女」を元に上手くアレンジがされ、誰でも楽しめる作品に生まれ変わったと思う。やはり主人公と共に長い間にわたって耐え、最後はハッピーエンドというストーリー、しかもセーラに辛く当たった人物まで全てハッピーエンドになる展開というのは支持を得やすいだろう。どんな登場人物に感情移入して見ても必ずハッピーエンドになるのだから…。

・登場人物について
 登場人物については「世界名作劇場」のどの作品にも言えることだが、キャラクターの配置や役割分担がハッキリしていてわかりやすい。いじめる役と助ける役もハッキリしているし、友達関係という点においてもベッキーの一番近くで支えるという役割や、アーメンガードのいざって時に立ち上がる役割、ロッティはセーラのために猪突猛進という役割を背負わされ、見事に果たしきったと思う。またクリスフォード関連の人物の役割もハッキリしている。
 次に各人の原作との違いであるが、セーラは「気の強さ」を多少薄めた感はあるが根本的には原作と殆ど変わっていないと思う。ただ原作セーラは人前では泣かないように心がけていた節があるが、アニメでは誰の前でもよく涙を流しているという違いはある。ベッキーは原作ではあまり台詞がなかったがアニメではよくしゃべる性格に変わっており、「笑うことを知らない」という負の部分が消され、かつ家族をキチンと描いてその家族への優しさを加えて事で好感度を上げた。
 ミンチン学院関係については、アーメンガードは基本的に原作の性格を踏襲しつつも、セーラのためなら立ち上がって強気になれるという勇気ある少女に変えられている。ロッティは年齢設定を変えた上でセーラを純粋な瞳で見つめて猪突猛進に思う性格が付けられた。ラビニアは原作では単なる皮肉屋だったが、アニメではセーラをハッキリといじめる人物に設定自体が変えられ、性格的にはプライドが高くお山の大将でないと気が済まない性格に描かれ、さらに「代表生徒」という原作になかったシステムをミンチン学院の設定に加えたことにより、セーラを恨む理由を明確に与えた。ミンチンは原作とほぼ同じだが、アニメの物語進行の都合で性格が良くなったり(ラビニアがセーラを専属メイドにしようとしたとき等)悪くなったり(セーラに謎の小包が届いたとき等)しており、少女時代の設定を追加して根っからの悪人でなくごく普通の人であることを強調した。アメリアは誰が見てもセーラを気の毒に思っていると見えるように設定が変えられた。ガートルードとジェシーは変わらず。原作の「料理番」と「女中頭」にはそれぞれジェームスとモーリーという名前が付けられ、二人とも原作通りセーラを徹底的に使う設定のままだが、ジェームスについては時と場合によって実力重視的な発言をするようになり、セーラに辛く当たるのはモーリーの方が多くなってる。原作でははじめての授業のみ登場のデュファルジュは、南フランス生まれという設定と誰にでも対等に接する優しい先生としての性格が与えられた。パスカル先生は原作では全く違う役柄、パリで発見された「ラルフの娘らしい子」を養女として引き取った夫人として名前だけ出てくる人物でしかないがアニメではデュファルジュの後任として登場した。
 学院の外では、ドナルドは純粋さな優しさでセーラを傷つけるという役割は変わってないものの、その後それを反省して少しだけ成長するようになった。ラムダスは原作では冴えないインド人という描かれ方をしていたが、アニメではカッコイイインド青年に変えられた。クリスフォードは原作踏襲だが、セーラがラルフの娘と分かったときの反応は狂人じみていない。
 この他、「小公女セーラ」オリジナルの人物が加えられている。セーラを外から助け、視聴する「男の子」が感情移入するために設定されたピーター。セーラを遠くから見守り、駆け込んできたときには的確にセーラに手を貸した洋服屋主人。その他一発屋まで入れるときりがない。
 この物語ではそのキャラ配置がまた絶妙である。セーラに辛く当たる人物にラビニアを加えた事で原作とはいじめのパワーバランスが乱れてしまった。これが乱れると話が変わってしまう、原作ではセーラに辛く当たるのはミンチンと料理番と女中頭だけで、セーラはこれにベッキーと耐えるだけである。ところがセーラへのいじめにラビニアが加わったことで、ベッキーと耐えるだけではいじめ側の力が強すぎて物語が変わってしまうのだ。そこで学院の外にはピーターを置き、学院の中ではアーメンガードとロッティを「セーラを助ける役」に役柄を変えて配置した。これが絶妙でピーターは距離があるせいで助ける力が強くないし、アーメンガードとロッティはいざって時に役に立つ程度で多くは助け船を出せずに悩むという気弱な性格が表に出てしまうのである。これによっていじめられる側で一緒に耐える人間は人数が増えてもパワーはあまり増えておらず、その中でたまにアーメンガードやロッティが勇気を振り絞るという構図にした。つまりセーラが辛い目に遭う状況はあまり原作と変わらないが、なんとか最後の方でラビニアを倒す位の事は出来る程度のパワーバランスで物語を進めることが出来たわけである。
 登場人物がどんな台詞を吐いていたかは、各話考察で「名台詞」を再確認して欲しい。全て私の個人的な見解で選んだものだが、どれも私から見ればそのキャラクターを象徴する台詞を選んだつもりだ。むろん登場回数が多いとそれだけ印象に残っている。最後に名台詞欄登場回数を順位にしたので、これを見て私にとって印象に残っているキャラクターというものを理解して頂きたい。

名台詞登場頻度
順位 名前 回数 コメント
セーラ 15 やはり主人公、印象に残る台詞を多く吐いている。富豪の頃もメイド時代も一貫して優しさ溢れる台詞と強気の台詞で視聴者を魅了した。特に20話の台詞は私にとって「小公女セーラ」が心に残る名作となるだけでなく、人生観を変える重要な台詞だった。
ベッキー この物語でベッキーが印象深いのは、セーラと一緒にいて助けていたとか性格的に良い要素が多いだけではなく、名台詞を多く吐いている事も理由にあると思う。主人公以外では堂々の名台詞数1位。特に8話での台詞はベッキーの健気さが強調されている。
ラビニア セーラと対等の時に印象に残る台詞を多く吐いているのが特徴。意地悪キャラながらも印象に残るのはそのせいか? でもラビニアがセーラをビシビシといじめていた頃にはそれほど印象に残る台詞は吐いてない。
洋服屋店主 物語全編を通じて4回しか出てこないのに印象に残る台詞多く、圧倒的な存在感を示している。
アーメンガード セーラの友人として、またダメキャラとしての名台詞多し。彼女の立場で物語全編を通して見るのも面白そうだ。
ピーター 名台詞が多そうで思ったより少なかったのは物語唯一の男の子。主人公を助ける男の子というだけで存在感高いからいいか。
ロッティ 「小公女」→「小公女セーラ」という変化で飛躍的に存在感が上がった。原作では殆ど出番がないのが実情だったのに。
ラルフ 回想シーンを除けば最初の2話しか出ないから仕方ない。あんな父親になりたい。
ミンチン 圧倒的な存在感の割に印象に残る台詞は一度だけ。やっぱこの人、あの「怖さ」で印象に残ったのかも?
ドナルド 子供の純粋さの優しさと怖さを見せつける。時に純粋な優しさが人を傷つけるという良い見本を見せてくれた。
パン屋のおかみさん あの優しい台詞に泣かされそうになった。セーラと一緒に耐えた視聴者の立場としてもあの台詞は暖かく泣ける。
アメリア 気弱で姉に逆らえないという性格は忘れられないが、この人の台詞は二十数年ぶりに見ても殆ど思い出せなかった。
デュファルジュ 本放送時、私を泣かせたのはこの先生。20話のセーラの台詞とデュファルジュの名台詞がこの物語で一番印象に残った台詞である。
ガラス屋の兄ちゃん ガーラスー ガーラスー …二十数年の時を経て覚えている売り声も凄い。
ガートルード ラビニアにくっついているだけの彼女が、一度だけ全登場人物や視聴者の気持ちを代弁するのが印象深かった。
クリスフォード やはり「この子だ!」は外せないわけで、この一言で物語が大転換して一気にラストへ向かうことになるのだから。

・テレビドラマ版「小公女セイラ」(2009年10月〜12月・TBS系列にて放映)
 こちらは「小公女」をベースに、時代設定を現代日本に置き換えたという冒険的なテレビドラマ。登場人物は原作をベースとしつつも、殆どのキャラの名前は日本人名となっていて年齢も日本の高校生程度に引き上げられている。ミンチン女学院も日本の寄宿女子高校に書き換えられ、これによって年少の生徒が出てこなくなるなど物語の雰囲気は大きく変わった。
 キャラクターのメイクや性格付けは「世界名作劇場」シリーズの「小公女セーラ」の影響を多大に受けており、特にラビニア相当人物の髪型や料理番相当人物の口調にそれを垣間見ることが出来る。
 物語の展開は「小公女」とはかなり違っており、原作通りの展開が見られるのは物語の一部である。代わりに現代日本の高校生の行事である修学旅行や、演劇会などのエピソードが加えられており、「小公女」が現代日本に来たことに関しての不自然さがないように出来上がっていると思う。
 このドラマについて「リアルタイム視聴」というかたちで考察したので、ここに発表しよう。なお登場人物の照合や、設定の違いについては考察ページ冒頭の「交通整理」を参照して頂きたい。

テレビドラマ版「小公女セイラ」考察入り口

・はいじまオリジナルストーリー
 42話と43話の間と45話と46話の間にそれぞれ1話ずつ欲しいと書いたが。私は本放送で見たときから45話と46話の間にこんな事があったはずだ、と妄想していたことがある。最終話の展開があまりにも突然で、その間にどんな事があって最終話の展開となったのか、当時あれこれ妄想していたのである。無論、「こんな事があったらなぁ…」というのも混じっている。
 今回、それを思い切って文章化してみた。物語としてまとまっているかどうかは自信が無いが、興味のある人は一読して頂きたい。

「小公女セーラ」はいじまオリジナルストーリー入り口

・追加考察
 「小公女セーラ」視聴から少し時間が経ち、落ち着いてから考えた私の解釈をここに紹介しよう。

「小公女セーラ」の舞台を考える
セーラのロンドンでの行動範囲


アーメンガードファンによるアーメンガードファンのためのページ
特集!アーメンガード

(番外編「ラビニア大特集!」を当面の間通常公開)(更新)

私にとって強印象の作品について考える
「世界名作劇場」と私

「小公女セーラ」の小さな謎
エンドクレジットの謎について


「小公女セーラ」完結版について

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