青函連絡船「羊蹄丸」惜別記事


いよいよ台場より愛媛へ旅立つ「羊蹄丸」

 

 昨年9月一杯で、「船の科学館」が閉館し、保存展示されていた青函連絡船「羊蹄丸」も展示を終了した。
 その後、最も気になっていたのは「羊蹄丸」の「今後」であった。青函連絡船に思い入れのある者は、これに一縷の望みを賭けていたに違いない。まだ何処かで何らかの形で「羊蹄丸」が公開される、そんな日が来ることに一縷の望みを賭けていた。
 だが、結果は我々のその「望み」を打ち砕いた。引取先は愛媛県新居浜市「東予シップリサイクル研究会」…この名前を見ただけで私は内容を読むまでもなく嫌な予感がしていた。そしてその予感通り「リサイクル」の研究を目的とした解体であった。「羊蹄丸」に死の宣告が下されたのである。
 だが異国の地で人知れず解体された僚船に比べればまだ幸せな方だろう。国内で、しかも解体船舶の再利用という有意義な活用法を模索するための解体である。彼女の死は決して無駄にならないと納得ができる内容でもあった。
 そして、その引取先が決まって以来、ずっと待っていた情報は「羊蹄丸の引取先への回航」というものであった。だがこの情報はなかなか入ってこなかった、まさか何の情報も出ないままに回航されてしまったのか…。
 そんな不安が過ぎり始めた2012年3月19日、ついに情報が出た。3月25日朝、彼女は愛媛へ向けて曳航されるという情報が「船の科学館」から発表された。発表から当日までわずか6日という短期間ではあったが、私は偶然にもその日は何も予定が無く、また娘も母親と旅行に出てしまい留守という偶然が重なって完全に自由に動ける日であったため、すぐにどのように追いかけるか検討に入った。彼女との最後の別れを、何処でどのように迎えるのか…恐らく、愛媛での展示公開は行けないであろう。
 この記事は、その「羊蹄丸」を最後に追いかけ、最後の別れとなった記録である。

2012年3月25日
いよいよ訪れた最後の別れの朝。
彼女はいつもと同じようにそこに佇んでいた。。
だが、周囲に目をやると異様な雰囲気に包まれているのが嫌でも解った。
永久停泊を解く作業をするクレーン船。
既に公開していない船を見に来た人々。
そして、船首付近に見える複数の曳き船。

嫌でも「別れの日」が来た事を思い知らされた。
船尾を見る。
これまではこの光景が、この船との「再会」を印象付けるものであった。いつも彼女が「おかえり」と言ってくれているような気がしていた。
船首に回ると多くの見送りの人で溢れているのが解った。
もちろん、これまで「羊蹄丸」の展示で来訪者に「青函連絡船」の語り部として活躍されてきた、元乗組員の人達もそのなかにいた。
手に銅鑼を持っている、と言うことは出港時に鳴らすんだなとすぐ理解出来た。
「ありがとう」の気持ちは、現役時も一乗客でしかなかった私も同じだ。
では、ここで「羊蹄丸」の最後の旅をサポートする船を紹介しよう。
夷隅丸

総トン数 243トン

船主 海洋興業(株)
竣工 2007年7月23日
建造 京浜ドック

本回航では、「船の科学館」を出港してから東京港を出るまで、進路警戒船として運行。
上総丸

総トン数 243トン

船主 海洋興業(株)
竣工 2008年3月15日
建造 京浜ドック

本回航では、「船の科学館」を出港してから浦賀水道を通過まで、進路警戒船として運行。
とよら丸

総トン数 193トン

船主 グリーンシッピング(株)
竣工 2009年9月

本回航では、全行程において曳き船として運行。
午前8時15分頃、周囲が慌ただしくなってきた
出港の銅鑼が鳴る。「羊蹄丸」にとって最後の航海が、今始まろうとしている。

「船の科学館」も、周囲に停泊している船も、この信号旗を掲げた。

 
「ご安航を祈る!」
ついに「羊蹄丸」が、「とよら丸」に曳かれて動き始めた。
彼女が動いたのは実に17年ぶりのことだろう。

私が「羊蹄丸」が動いているのを見たのは、青函連絡船復活運行時の1988年8月以来。実に24年ぶりに彼女が動いているのを見た。
その動き出した彼女を見て、感動と、これが最後だという悲しさが、一度にこみ上げてきた。

ちなみに「津軽丸型」全てを含むと、1992年1月に神戸港で旧「十和田丸」の「JAPANESE DREAM」を見て以来20年ぶりに動いている連絡船を見たことになる。
彼女は我々に別れを惜しむように、その巨体をゆっくりゆっくりと前進させる。私は半ばフリーズしたままその光景を見ていた。シンボルマークが目の前を横切ったとき、ふと気が付いて写真を撮った。

そして「何かが足りない」と思った。
その足りないものを、気付くと一人で口ずさんでいた。

「蛍の光」だ。
「後部大部屋」の窓の列が過ぎて行くと、「羊蹄丸」の文字が通り過ぎる。いよいよ目の前から彼女の姿が消える。
彼女との思い出が、いろいろよみがえってきた。

初めての出会いから、このお台場でのことまで。

今、私に最も大きな影響を与えた乗り物が、私の前から去っていく。
彼女がいなかったら、私は船と自然に関心を持つことすら無かっただろう。
船尾が通り過ぎると、その動きに合わせて私の首も進行方向である西を向く。
このときはなかなか積極的に写真を残そうという気持ちになれずにいた。とにかくこの船が去って行こうとするのが悲しく、ただ見送るだけだった。
写真もこのように人混みを気にせずにスナップ的に撮った物ばかり。
でも、これらの写真からこの船がどれだけ多くの人に惜しまれて去ったのかということがおかわり頂けるだろう。
その時の空気を記録した写真として、今考えると良い写真になったと思う。

彼女が動き出してからこの写真まで、私はほぼ動いていない。
我に返ったとでも言うべきなのか、とにかく彼女の後ろ姿を記録しなければ、と思って前の人垣を器用に避けて撮った写真が以下に続く。
更新で曳く「とよら丸」、「羊蹄丸」周囲をがっちり固める「夷隅丸」(右舷)と「上総丸」(左舷)。

右舷から「夷隅丸」が近付くとき、「ふくうら丸トモ押せー」って聞こえてきそうな錯覚に陥った。
ちょいとズーム気味にしてみる。
もう塗り直してから8年、流石に少し色あせているが、威厳たっぷりに東京港を進む。
右舷側にいた「上総丸」が後方へ後退、すると羊蹄丸はその美しい姿を我々に見せてくれた。
住み慣れた台場を離れ解体への旅だと解っているのか、その後ろ姿がとても寂しそうに見えたのは気のせいか?
「とよら丸」が写らないよう色々工夫した写真がこれ。
こうして見ると、フェリーが出て行くだけの光景にも見える。
また、在りし日の連絡船を思い出す方もいることだろう。
そして彼女はゆっくり、ゆっくりと遠ざかって行く。その速度がもどかしいほどゆっくりだ。
そして「羊蹄丸」がこれまで繋がれていた地点から、最後に見えたのはこんな感じであった。科学館南側の浮き桟橋越しの光景である。

銅鑼を鳴らした元船員さんが、寂しそうに「行っちゃった…」と語ったのが印象的だった。

「羊蹄丸」がこの地を去ったという現実を突き付けられたのはこの光景を見たときだ。
船の科学館の南側、「宗谷」の向かいがこんなに広かったなんて。

(画像の上にマウスを合わせると、「羊蹄丸」がいたときの写真になります)
いつも「羊蹄丸」を見上げたこの場所で、いつもと同じように視線を送っても、やはり彼女の姿はない。
繋がれる船がいなくなった施設だけが、彼女がここにいたことを告げている。

(画像の上にマウスを合わせると、「羊蹄丸」がいたときの写真になります)

 ここまでが「船の科学館」前で「羊蹄丸」を見送った記録だ。
 今回の撮影も一人で来たが、来てみれば誰かに会うもので、今回は会社の同僚のF氏とばったり会ってほぼ行動を共にしていた。「ほぼ」というのは、一番感傷的だった彼女が動き出してから我に返るまで、F氏は別のところで撮影していて私のところにいなかった。話し相手がないとこうも辛いとは、その時がくるまで思ってもみなかった。
 ちなみにF氏は、「羊蹄丸」が出て行くと「次は海ほたるで撮影する」「また後ほど」と言い残して、バイクに跨り去っていった。

 もちろん、私のこの日の行動はこれで終わらない。
 最終的な見送り地点へ向けて、愛車を首都高湾岸線→横横道路という順で走らせることになる。首都高に入ってまもなく、大井の海底トンネルから空港へ渡る海底トンネルの間、運河を渡るところで何気なく海側を見たらそこに彼女の姿があった。
 運転中で写真に撮るわけにはいかなかったが、早速先回りに成功した形だ。

次のページに進む