心象鉄道2.国鉄181系特急形電車・特急「とき」(カトー・トミックス製Nゲージ) |
日本の鉄道史を塗り替えた「名車」と呼べる車両はたくさんある。電車による長距離輸送を実現し「長距離は客車で」という常識を覆した国鉄80系電車、電車による超高速輸送の可能性を切り開いた小田急3000系SE車、世界初の超高速鉄道を実現させた新幹線0系電車…私の歴史解釈ではこれらの電車がなければ鉄道は次のステップに進むことが出来ない重要な「名車」だと思っている。 そして昭和30年代後半、東海道新幹線が開通するまで東海道という大舞台で活躍した車両が「こだま形」特急電車である。 過去の「名車」を自分の手で模型にすることはあるが、この「こだま形」については私独特の視点と思い入れでもって模型にする歴史設定が他の人ではなかなかやらないであろう「こだま形電車最晩年の姿」とすることにした。今となっては「歴史上に名を残すだけの名車」であるが、私は最晩年の姿だけは自分の記憶にある。 それは国鉄の一時代を彩った優雅な特急列車の姿ではなく、一昔前の旧型特急車という烙印を利用者から押されつつも必死にその当時の特急列車のグレードに追いつくべき背伸びをし、老体に鞭打って最後の役割を全うする古豪の姿であった。 そんな「こだま形電車」のもうひとつの現実を敢えて模型化した。今回はそれを紹介したい。 |
1.はいじま版「こだま形」電車小史
時は昭和30年代まで遡る。敗戦の貧しい時代を乗り越えた日本は経済成長によって人々の移動や物流が伸びて行く時代を迎える。 80系電車で長距離普通列車の電車化に成功していた国鉄はさらに最先端技術を取り入れて101系通勤電車を開発した。大型高性能の通勤電車は輸送力だけでなく、静寂な車内と揺れが少ない乗り心地という快適性までも実現していた。これに気をよくした国鉄車両技術陣は、東海道線の特急列車に電車を導入してスピードアップという案を上げる。電車は機関車1両だけが非常に重い客車と比べると軽量で、それだけ線路に与える影響も少なく当時の地上設備を大幅に変えることがなくスピードアップが可能なことと、機関車の付け替えや編成の逆転などの手間が省けて効率的に車両を使えるようになるということであった。 昭和33年(1958年)、20系電車は特急「こだま」として東海道本線に華々しくデビューする。最高速度は110km/に引き上げられ、東京と大阪を6時間50分で結んだ。この僅か40分のスピードアップが重要で、早朝に出発して昼過ぎに目的地に着く便と、夕方に出発して深夜に到着する便の2往復を設定して東京〜大阪間の鉄道による日帰り(滞在時間2時間半)が始めて実現したのである。 「こだま形」が東京〜大阪間を中心にした東海道本線系統以外の列車に始めて登場したのは新幹線開業前の昭和37年(1962年)である。前年のダイヤ改正で日本全国的に特急が走ることとなり、東京から各主要都市へも東北本線方面に特急「はつかり」「ひばり」が、長野・北陸方面には特急「白鳥」(後の「白山」)が運転されたが、新潟だけは直接特急では行けず取り残された形となった。そこで上越線に「こだま形」を投入して東京〜新潟間に特急列車を走らせることとなった。 新幹線開業によって東海道を追われた「こだま形」は大阪以西の山陽本線系列に新天地を見いだすことになった。多くの「こだま形」が新幹線開業前夜の一夜のうちに西へ移動し、翌日からは何事もなかったかのように新大阪〜博多間の特急「つばめ」、新大阪〜下関間の特急「しおじ」などで活躍を開始した。しかし「こだま形」は直流専用のためそのままでは交流電化の九州には入線出来ないので、九州では電気機関車牽引で走行することとなり、そのための対応工事が行われた。 昭和40年代に入ると北陸・東北方面に「こだま形」に似た交流電化区間入線可能な新型特急車481系による新設特急が好評だったのを受け、長野県や山梨県方面を目的地とした特急列車を新設する動きが出てきた。また同時に好評の「とき」を増発する必要性も出てきたため、さらに181系が増備される事になった。 時は流れて昭和47年(1972年)3月、新幹線は遂に新大阪以西へと踏みだし山陽新幹線となって岡山まで延長開業した。これが西へと活路を見いだした「こだま形」の山陽本線での活躍の場を失うきっかけとなる。山陽本線での走行区間が短くなったことによって、同じく山陽本線特急として活躍していた交流区間の九州乗り入れ可能な481系での特急が多くなった。現場では全特急を481系(またはモデルチェンジタイプの485系)に統一した方が効率的と判断され、「こだま形」は山陽本線から撤退することとなった。 昭和48年(1973年)度の冬、新潟県を中心にに記録的な豪雪が襲いかかる。「こだま形」にも容赦なく豪雪は襲いかかり、雪が電気器機類に舞い込んでスパークする故障が相次ぎ、故障車の修理が追いつかず「とき」はまともに運転出来ない日々が続いた。故障を直しても次の日には同じ車両が同じ故障で電車区に戻ってくる始末で、1月に運休列車本数が16本、月末には予備車確保が出来なくなって運行本数を1往復減らせざるを得ない状況に追い込まれた。 昭和49年(1974年)「とき」に新鋭の183系1000番台電車がデビューした。この新型電車は大雪の日でも故障せず、安定した運転が確保されるようになり好評のうちに迎えられた。翌年にはこの183系1000番台に碓氷峠で補助機関車と協調して走行出来る機能が加えられ、長編成が組めるようになった189系電車が「あさま」「あずさ」に投入された。両形式の電車は年と共に増備が進んだ。 昭和53年(1978年)のダイヤ改正で生き残りの「こだま形」の編成が大幅に変えられる。老朽化が激しい食堂車とグリーン車は編成から外されて食堂車はそのまま廃止となり、グリーン車は余剰になった485系のグリーン車を改造して連結することとなった。それだけではグリーン車が足りないので将来485系に組み込み可能なグリーン車を増備、これが「こだま形」最後の車両新造となった。 昭和57年(1982年)11月、大宮〜新潟間に上越新幹線が開業した。同時に在来線特急としての「とき」は全廃され、新幹線の列車名にその名を引き継いだ(一時「とき」の名が廃止されていた時期もある) 最期まで残った「こだま形」グリーン車のうち1両はドアが増設され、東海道本線の「湘南電車」の色に塗られた。そして増発により不足していた湘南電車のグリーン車として近郊電車に挟まれて活躍することになった。この車両は後にJR東日本に引き継がれ、東海道本線に二階建てグリーン車に取って代わられて波乱に満ちた生涯を終えた。 現在、「こだま形」先頭車が神戸市内の鉄道車両メーカーと新潟の車両基地に1両ずつ保存されている。「こだま形」り歴史を現在に伝える貴重な車両である。 いきなり正直に告白するが、私が151系・161系・181系といった「こだま形」に乗った経験があるかどうかは不明である。「乗ったことがある」とも「乗った経験が全くない」とも断定出来ないのである。これは私が幼少の頃の記憶が曖昧なためである。 私が鉄道知識を少しずつ身につけていった小学生時代、まず低学年の頃に主に軽井沢の往復に出会う特急の名前を覚えることから始まっていた。上野駅を彩る多彩な特急電車達、信越特急や急行が出入りする高架ホームからは「とき」「白山」「あさま」という特急が発着していることを知った。そして発見した「とき」だけはボンネットタイプの、当時の私は「古い」と思った独特の形の車両が使われている事を発見した。編成で見るとグリーン車だけ屋根が一段高いようでぼこっと飛び出している。 私が小学6年生の時、軽井沢への往復は兄と二人で独自に鉄道移動をすることになった。往路は八高線を北上して高崎で信越本線の普通列車に乗り換えるというパターン。この時に高崎駅で見送った「とき」が私にとって最後に見た「こだま形」となった。そして最後までグリーン車の出っ張りの謎は解けなかったのである。 月日は流れ、中学・高校と歳を重ねるに従って色んな鉄道知識を吸収した。主に古本屋で安く仕入れてきた昔の鉄道雑誌が知識の源となったのである。その中に「とき」で活躍した最後の「こだま形」を特集した記事があった。そこで「とき」のグリーン車の出っ張りについての謎が解けたのが中学3年の時である。 私にとっての「こだま形」は、ひとつの車両形式の歴史と新幹線が出来る前の東海道本線の様子を教え、私が鉄道の歴史という物を考えるきっかけのひとつになった。 |
3.模型について
上記をよく読んで頂ければ、私が模型化に挑んだ「こだま形」電車は末期の末期、「とき」として「こだま形」としての最後の活躍をしていた頃になるのは容易に想像出来よう。 カトーの「こだま形」は私が鉄道模型を始めて手にした1977年頃にはもうラインナップされていたようだ。これはNゲージ車両としてもかなり歴史が長い部類に入る。1990年代に入って多少手を入れる程度の手直しがあった、クリームの色調の変更とヘッドマークステッカーの変更、オプションパーツの運転台屋根上ライトの点灯可能化などが仕様として代わった。私が購入したのはこの時代のものである。 私が買ったのは前述の通り、まだ「しおじ」仕様と「とき」仕様に分かれる前のカトー製181系である。カトーは一度再生産を逃すと次がいつになるか分からないと言うことで慌てて予算を用意して購入に踏み切った。末期の「とき」を再現するために買ったのは先頭車が2両、中間車は普通車のモハばかり8両(4ユニット)、そしてトミックス製の485系グリーン車が2両という組み合わせで、購入した模型屋の店員に「?」という顔をさせたのを覚えている。 まずは最大の問題は先頭車だけでも「とき」仕様に近付けなければならないことである。山陽本線の正統派「こだま形」と比べ、「とき」用の「こだま形」には様々な相違が見られる。模型的に目立つところではスカートの半分の位置で切断して大きな雪掻きを付けたこと、屋根上にあるカバー付きの警笛である。警笛はいいパーツが当時なかなか手に入らなかったので諦め、せめてスカートと雪掻きだけでもと思い改造を始めた。
さて、次に大事なのはグリーン車である。私にとっての「こだま形」はグリーン車の屋根が飛び出した凹凸編成である。 同時に買ってきたトミックス製の485系グリーン車とカトー製「こだま形」を連結してみて驚くべき発見をしてしまった。本来ならば低重心で作られている「こだま形」と、交直流双方に対応する機器類を床下にぶら下げるために車高を上げざるを得なかった485系の間には実物で125ミリの違いがある。これは「サロ181-1100」も485系と全く同じ車体を持っているため、末期の「とき」における普通車とグリーン車の車高の違いそのままの数値でこれがグリーン車が「出っ張っていた」原因なのであった。
こうして私は自分にとって一番思い入れが深い「こだま形」を手にすることに出来たのである。自分で再現したグリーン車の「出っ張り」を見て、「とき」で最期の活躍をしていた「こだま形」の勇姿を思い出す。 |
以上が我が「石神井急行」に在籍する急行「こだま形」です。 歴史上の名車を自分が思い入れある時代の姿での再現、趣味的にはこの時代の「こだま形」は人気がないようですが往年の名車の最期の活躍として記憶に留めている方も多いでしょう。 また、この記事を執筆中に偶然にも模型化した特急「とき」の通過地点である新潟県中越地方で大きな地震があり、多大な被害が出てしまいました。上越線特急「とき」の跡を継いだ新幹線「とき」が脱線するなど、鉄道も大きな被害を被っています。新潟で保存されている「こだま形」先頭車はどんな思いでこの悲劇を見ているのでしょうか? 「こだま形」については、今度は「こだま」でデビューした20系時代の姿で揃えたいなぁ。マイクロエースさん、早く再販して下さい(その前にお金が…)。 |