心象鉄道2.国鉄181系特急形電車・特急「とき」(カトー・トミックス製Nゲージ)
私が「知っている」唯一の「こだま形電車」


美しきボンネット特急「こだま形」

1.はいじま版「こだま形」電車小史
2.私と「こだま形」電車
3.模型について


 日本の鉄道史を塗り替えた「名車」と呼べる車両はたくさんある。電車による長距離輸送を実現し「長距離は客車で」という常識を覆した国鉄80系電車、電車による超高速輸送の可能性を切り開いた小田急3000系SE車、世界初の超高速鉄道を実現させた新幹線0系電車…私の歴史解釈ではこれらの電車がなければ鉄道は次のステップに進むことが出来ない重要な「名車」だと思っている。
 そして昭和30年代後半、東海道新幹線が開通するまで東海道という大舞台で活躍した車両が「こだま形」特急電車である。
 過去の「名車」を自分の手で模型にすることはあるが、この「こだま形」については私独特の視点と思い入れでもって模型にする歴史設定が他の人ではなかなかやらないであろう「こだま形電車最晩年の姿」とすることにした。今となっては「歴史上に名を残すだけの名車」であるが、私は最晩年の姿だけは自分の記憶にある。
 それは国鉄の一時代を彩った優雅な特急列車の姿ではなく、一昔前の旧型特急車という烙印を利用者から押されつつも必死にその当時の特急列車のグレードに追いつくべき背伸びをし、老体に鞭打って最後の役割を全うする古豪の姿であった。
 そんな「こだま形電車」のもうひとつの現実を敢えて模型化した。今回はそれを紹介したい。

1.はいじま版「こだま形」電車小史

 時は昭和30年代まで遡る。敗戦の貧しい時代を乗り越えた日本は経済成長によって人々の移動や物流が伸びて行く時代を迎える。
 その時代の変化はそのまま日本の大動脈である東海道本線に現れていた。東海道本線は昭和25年(1950年)に投入された史上初の長距離電車80系の投入により東京近郊圏の輸送効率化とスピードアップを実現、昭和31年(1956年)には東海道本線の全線電化が実現して貨客共にスピードアップを図り、近代的な設備が整いつつあった。
 しかし、東京と大阪という日本の二大都市圏を結ぶ特急列車「つばめ」「はと」はまだ前時代的な物であった。電気機関車牽引になったとはいえ機関車が重厚な客車を牽引していた。最後部には一等車として特権階級しか乗れない展望車を連結、優雅な食堂車と共に冷房を完備するなど豪華な設備を備えていたが、それとは裏腹にリクライニングシートを装備しているとはいえ空調は暖房のみの二等車(現在のグリーン車)と、ロマンスシートとはいえ回転しない一方向向け固定シートの三等車(普通車)など古くさい設備と言わざるを得ない内容であった。またこれらの設備のため折り返し時には編成ごと逆へ向けねばならず効率も悪く、速度も上げられず最高速度95km/hで東京から大阪まで7時間半を要していた。
 そんな東海道本線の特急は連日人で溢れていた。特急の増発とスピードアップの必要性は日を追う毎に高くなり、国鉄はこの状況を放っておく訳にも行かず特急列車のスピードアップを検討していた。大型機関車と軽量客車の組み合わせでスピードアップを狙う方向性で検討が進んでいたという。

 80系電車で長距離普通列車の電車化に成功していた国鉄はさらに最先端技術を取り入れて101系通勤電車を開発した。大型高性能の通勤電車は輸送力だけでなく、静寂な車内と揺れが少ない乗り心地という快適性までも実現していた。これに気をよくした国鉄車両技術陣は、東海道線の特急列車に電車を導入してスピードアップという案を上げる。電車は機関車1両だけが非常に重い客車と比べると軽量で、それだけ線路に与える影響も少なく当時の地上設備を大幅に変えることがなくスピードアップが可能なことと、機関車の付け替えや編成の逆転などの手間が省けて効率的に車両を使えるようになるということであった。
 旧来からの運転方法にこだわる客車派論者との激しい論争があった。そして実際に客車と電車を用いた走行実験の結果、客車のままスピードアップを行えば軌道強化など地上設備の大幅改良が必要であり莫大な予算を必要とするため、電車の高い車両価格や開発費を考えても電車の方が安上がりかつ効率的なスピードアップが可能と判断され、史上初の電車による長距離特急電車の開発がスタートした。
 ここで登場したのが、モハ20系電車。のちに「こだま形」と呼ばれる特急電車である。

 昭和33年(1958年)、20系電車は特急「こだま」として東海道本線に華々しくデビューする。最高速度は110km/に引き上げられ、東京と大阪を6時間50分で結んだ。この僅か40分のスピードアップが重要で、早朝に出発して昼過ぎに目的地に着く便と、夕方に出発して深夜に到着する便の2往復を設定して東京〜大阪間の鉄道による日帰り(滞在時間2時間半)が始めて実現したのである。
 車両もここで現在の特急列車のグレードが確立したと言っていい。全車冷暖房完備となって窓を固定化して機密性を高めたため、すきま風もなく騒音のない車内が三等車でも実現した。当時は一般家庭にもオフィスにもクーラーなどなかった時代であり、国鉄も全車冷房化には慎重だったと言われる。二等車はラジオ付きのリクライニングシート、三等車は回転式のロマンスシートとなって乗り心地を向上させた。全車水洗式トイレも完備されて衛生面での問題もなくなり、空気バネの採用で滑るように走る電車を実現させた。ただし走行時間帯の関係から食堂車の連結は見送られ、代わりに軽食堂「ビュフェ」が連結された。
 特急「こだま」はビジネス客を中心に連日盛況となり、「こだま形」を増備して欲しいという声が上がる。程なく老朽化した旧来の「つばめ」「はと」の電車化と、全特急の電車化によって効率的に車両を使って特急の増発が計られる事となった。その間に「こだま形」は20系という形式名を151系と改めている。
 昭和35年に「こだま形」の増備車が誕生した。「つばめ」「はと」の電車化により一等車の代わりになる車両が必要とされ、片方の先頭車は二等車設定となった上「パーラーカー」という特別二等車となった。一回り大きな窓と車内に並ぶ1人掛けフルリクライニングシート、運転室は以後には1室だけ4人用個室が設けられ、飛行機のファーストクラスに匹敵する「豪華電車」が連結された。同時に食堂車も連結され、旅客は車内での食事が可能となってさらに長距離の運転に耐えられるようになった。
 この増備分の登場で「つばめ」「はと」が電車特急に生まれ変わる。さらに翌年のダイヤ改正で全国的に特急列車を運行する計画が立てられ、この時にも「こだま形」は増備されて、東京と宇野を結んで宇高連絡船を介して四国とを結ぶ「富士」、同じく大阪と宇野を結ぶ「うずしお」、早朝深夜に東京〜名古屋間に設定された「おおとり」の各特急に投入された。さらに山陽本線の電化によって「つばめ」が西へ延伸されることとなり、昭和37年(1962年)に東京〜広島間での運行となった。
 ところが「こだま形」にも暗い影が忍び寄る。昭和39年(1964年)の東海道新幹線開業は「こだま形」を東海道本線という檜舞台から引きずり下ろすこととなった。「こだま形」新天地を求めて西へ、或いは北へと大移動をすることとなる。

 「こだま形」が東京〜大阪間を中心にした東海道本線系統以外の列車に始めて登場したのは新幹線開業前の昭和37年(1962年)である。前年のダイヤ改正で日本全国的に特急が走ることとなり、東京から各主要都市へも東北本線方面に特急「はつかり」「ひばり」が、長野・北陸方面には特急「白鳥」(後の「白山」)が運転されたが、新潟だけは直接特急では行けず取り残された形となった。そこで上越線に「こだま形」を投入して東京〜新潟間に特急列車を走らせることとなった。
 ところが151系「こだま形」は比較的平坦な東海道本線での使用を前提としていたため、日本列島を横断するために急勾配が長く続く上越線での使用には耐えられないことが分かった。「つばめ」広島乗り入れでも広島県内の勾配区間走行については補助機関車を必要としたが、これは急勾配区間が短いためにこのような対応でもよいと判断されたためである。上越線では急勾配が長いために補助機関車で対応するのは現実的でなく、この急勾配区間を自力で走れる車両が必要となった。
 そこて「こだま形」151系を若干モデルチェンジした161系が設計された。基本的には151系と同じであるがギアを落として急勾配に対応することとした。また自動車で言えばエンジンブレーキに当たる「抑速ブレーキ」を装備して下り急勾配への対応を取った。当然「パーラーカー」の連結は見送られ、東海道より短い編成での投入となった。
 昭和37年6月から
上越線特急に「とき(朱鷺)」と名付けられて161系がデビューした。これが以降20年に渡って上越線に君臨する「こだま形」の歴史の始まりである。当時は1日1往復、新潟を朝出発して昼過ぎに上野に着く上り列車と、上野を夕方に出発して新潟に夜着く下り列車というダイヤが組まれた。上野〜新潟間の所要時間は4時間40分であった。

 新幹線開業によって東海道を追われた「こだま形」は大阪以西の山陽本線系列に新天地を見いだすことになった。多くの「こだま形」が新幹線開業前夜の一夜のうちに西へ移動し、翌日からは何事もなかったかのように新大阪〜博多間の特急「つばめ」、新大阪〜下関間の特急「しおじ」などで活躍を開始した。しかし「こだま形」は直流専用のためそのままでは交流電化の九州には入線出来ないので、九州では電気機関車牽引で走行することとなり、そのための対応工事が行われた。
 山陽本線を走行するに当たって、前述の広島県内の急勾配区間では補助機関車による後押しが必要となったが、山陽本線に特急が増えるとこの補助機関車使用がネックとなった。そこで151系に対してモーターのパワーアップや「抑速ブレーキ」の追加、さらに制御系など電機部品の大幅な交換をして急勾配区間に対応する大改造が施されることとなった。改造を行った「こだま形」は形式名を151系から181系と改めて区別して使用されるようになる。前述の上越特急用の161系も同内容の工事が行われて181系の仲間に加わる。
 さらに西へ進んだ「こだま形」は利用率の低さからかつて東海道で豪華さを誇った「パーラーカー」を普通車に改造した。外観はそのままの大きな窓のまま普通車用の座席に交換され、かつての豪華さは消えた。

 昭和40年代に入ると北陸・東北方面に「こだま形」に似た交流電化区間入線可能な新型特急車481系による新設特急が好評だったのを受け、長野県や山梨県方面を目的地とした特急列車を新設する動きが出てきた。また同時に好評の「とき」を増発する必要性も出てきたため、さらに181系が増備される事になった。
 こうして新たに製造された181系は増発分の「とき」の他、新たに新設された上野〜長野間の特急「あさま」と、新宿と松本を中央本線経由で結ぶ「あずさ」に投入された。「あさま」「あずさ」の走行区間には独特の事情があり、これらの181系は特別装備の使用となった。
 「あさま」が走る信越本線には最急勾配区間で名高い碓氷峠(横川〜軽井沢間)があった。ここを通過するためには必ず補助機関車の後押しが必要なため、上野側の先頭車に機関車連結のための装備が施されることとなった。またこの超急勾配を補助機関車後押しで通過する際、連結器に過大な力がかかるため編成は8両に制限された。そのために定員を確保するため、食堂車も軽食堂も連結されないこととなる。
 「あずさ」が走る中央本線は電化開業が古い山岳路線であり、一部のトンネルは一般の電化トンネルより断面が小さい。このような場合まずパンダグラフが引っかかるのだが、「こだま形」は低重心構造で車高が低いのでこれは問題がなかった。ただし代わりに運転室の屋根に着いているヘッドライトが支障するため、これを省略することとなった。
 こうして「こだま形」は関東・甲信越地方をも新たな活躍の舞台として拡げ、成長して行くのだった。

 時は流れて昭和47年(1972年)3月、新幹線は遂に新大阪以西へと踏みだし山陽新幹線となって岡山まで延長開業した。これが西へと活路を見いだした「こだま形」の山陽本線での活躍の場を失うきっかけとなる。山陽本線での走行区間が短くなったことによって、同じく山陽本線特急として活躍していた交流区間の九州乗り入れ可能な481系での特急が多くなった。現場では全特急を481系(またはモデルチェンジタイプの485系)に統一した方が効率的と判断され、「こだま形」は山陽本線から撤退することとなった。
 翌年の5月までに「こだま形」は順次山陽特急から引退し、山陽本線を追われた正統派の「こだま形」は再び東海道を上って関東甲信越地方で活躍する新進派の「こだま形」と合流することとなる。そこで「とき」「あさま」「あずさ」の増発用として使用されるようになる。さらにスキー客用の臨時特急「新雪」や避暑客用の臨時特急「そよかぜ」「くろいそ」という季節特急が新設される。
 そしてこの関東甲信越地方が「こだま形」終焉の地となるのである。

 昭和48年(1973年)度の冬、新潟県を中心にに記録的な豪雪が襲いかかる。「こだま形」にも容赦なく豪雪は襲いかかり、雪が電気器機類に舞い込んでスパークする故障が相次ぎ、故障車の修理が追いつかず「とき」はまともに運転出来ない日々が続いた。故障を直しても次の日には同じ車両が同じ故障で電車区に戻ってくる始末で、1月に運休列車本数が16本、月末には予備車確保が出来なくなって運行本数を1往復減らせざるを得ない状況に追い込まれた。
 また故障は「とき」だけでなく、寒冷地を走行する「あさま」と「あずさ」にも相次いで発生するようになってきた。
 この豪雪による被害を鑑みて在籍している「こだま形」を全車検査した結果、甲信越地方に於ける雪や寒さとの闘いが厳しく、また山陽本線から転属してきた正統派「こだま形」ではそれに老朽化が加わり、予想以上に痛みが早く進んでいる事が判明した。さらに原因として特急形は速度が速くて効率的に運用されるため、1日辺りの走行距離が他の車両よりも多いことも指摘された。
 ここで国鉄は「こだま形」を上越新幹線開業まで全車使用することを諦めた。181系「こだま形」に代わる新型特急として房総半島の特急に投入された183系電車に、耐寒・耐雪装備を施した183系1000番台電車を開発することになる。これによって「こだま形」を古い順に廃車して交換することとなったのである。

 昭和49年(1974年)「とき」に新鋭の183系1000番台電車がデビューした。この新型電車は大雪の日でも故障せず、安定した運転が確保されるようになり好評のうちに迎えられた。翌年にはこの183系1000番台に碓氷峠で補助機関車と協調して走行出来る機能が加えられ、長編成が組めるようになった189系電車が「あさま」「あずさ」に投入された。両形式の電車は年と共に増備が進んだ。
 同時に「こだま形」電車の廃車が始まった。国鉄から蒸気機関車列車が消えて動力近代化計画が完了すると同時に、国鉄の電車に大きな功績を残し高速輸送の先駆けとなった「こだま形」の廃車が始まるのはなんとも皮肉な話である。山陽から流れてきた正統派「こだま形」から順次廃車が進み、次第にその数を減らして昭和50年(1975年)6月には「あさま」から、年末には「あずさ」から撤退した。
 ところが「こだま形」は完全に消滅せず、「とき」の一部で細々と生き残ることになる。これには事情があり、予算の問題と建設が進んでいた上越新幹線の絡みもあった。新幹線の開業が予定されている路線に新型の特急を大量に投入することは認められず、新幹線開業後に他路線への転用が不透明になる分まで新車に変えることは出来なかったのである。

 昭和53年(1978年)のダイヤ改正で生き残りの「こだま形」の編成が大幅に変えられる。老朽化が激しい食堂車とグリーン車は編成から外されて食堂車はそのまま廃止となり、グリーン車は余剰になった485系のグリーン車を改造して連結することとなった。それだけではグリーン車が足りないので将来485系に組み込み可能なグリーン車を増備、これが「こだま形」最後の車両新造となった。
 この時に組み込まれたグリーン車は「こだま形」の車体でなく、それ一回り大きい車体の大きい485系と同じだった。低重心構造の「こだま形」の編成美は乱れ、グリーン車2両だけ背が高くて屋根が一段飛び出す凹凸編成となってしまったのである。僅かに「こだま形」のグリーン車が残されたが数が少なく、必ず2両のうちの1両は背が高いグリーン車が入って流麗を誇る編成美が乱れてしまった。これが「こだま形」最期の姿である。

 昭和57年(1982年)11月、大宮〜新潟間に上越新幹線が開業した。同時に在来線特急としての「とき」は全廃され、新幹線の列車名にその名を引き継いだ(一時「とき」の名が廃止されていた時期もある)
 これで「こだま形」は全車職を失い、全車両が廃車の対象となった。車両基地に保管されていた車両は順次工場へ運ばれて解体され、スクラップになったかに見えた。
 しかし、解体されずにまた工場が出てきた車両がある。国鉄の財政事情が末期的症状を呈し、車両が足りないところへ容易に新車を入れるわけにはいかなくなったのである。また「こだま形」の解体作業の末期には特急電車の短編成化による増発という方向性がされ、485系を中心に先頭車が不足する事態となったのである。

 最期まで残った「こだま形」グリーン車のうち1両はドアが増設され、東海道本線の「湘南電車」の色に塗られた。そして増発により不足していた湘南電車のグリーン車として近郊電車に挟まれて活躍することになった。この車両は後にJR東日本に引き継がれ、東海道本線に二階建てグリーン車に取って代わられて波乱に満ちた生涯を終えた。
 それとは別の解体のため工場入りしたと思われた先頭車2両は、ほぼそのままの形で番号だけを変えて再び国鉄の本線上に戻ってきた。前述の特急増発のため特に九州で特急形485系の先頭車が不足し、それを補うために485系先頭車に改造されて「こだま形」がかつて電気機関車に牽引されて入線した九州へ、今度は自力走行可能な電車として乗り入れを果たしたのである。「とき」の最晩年の姿とは逆に先頭だけ車高の低い凹凸編成の先頭車として、九州島内の各都市を結んだ。
 そして平成4年(1992年)夏、JR九州に787系が往年の名列車「つばめ」の名前を冠して登場したのを見届けるかのように、「こだま形」最後の車両が引退して廃車となりその34年間に及ぶ活躍に終止符を打った。

 現在、「こだま形」先頭車が神戸市内の鉄道車両メーカーと新潟の車両基地に1両ずつ保存されている。「こだま形」り歴史を現在に伝える貴重な車両である。

2.私と「こだま形」電車

 いきなり正直に告白するが、私が151系・161系・181系といった「こだま形」に乗った経験があるかどうかは不明である。「乗ったことがある」とも「乗った経験が全くない」とも断定出来ないのである。これは私が幼少の頃の記憶が曖昧なためである。
 子供の頃、夏の家族旅行は祖父母が所有する別荘がある軽井沢であった。軽井沢というとブルジョワの優雅な別荘生活を思い浮かべる方もあるだろうが、私の家族と親戚の軽井沢での過ごし方は単に「長期滞在してもお金がかからない」という一点にあったと思う。夏の間の生活を軽井沢に移し、日常生活が移動するだけである。我々はそこで兄妹のように親しんだ従兄弟たちと虫取り網片手に森の中を探検したりと言った大自然と戯れていた。
 この個人的な幼少の頃の思い出が「こだま形」電車に繋がることは上記の小史と読み比べることによって容易に想像がつくだろう。そう、この軽井沢への往復に愛用したのが信越本線を走る特急列車や急行列車であり、特急となれば私が3歳の夏までは「あさま」「そよかぜ」に181系「こだま形」が活躍していたのである。
 確かに、幼稚園に通うようになった年の軽井沢への復路にボンネットタイプの特急列車に乗った記憶が脳の片隅に残っている。だが当時私が幼少で細かい車両の形式の区別がつく訳もなく、何月何日の何時頃の列車だったのかも覚えていない。乗ったのは485系に碓氷峠通過対策を施した489系のボンネット形である可能性も否定出来ない。従ってこの時に乗ったのが本当に「こだま形」だったのかの断定は今となっては不可能で、私が「こだま形」に乗ったかどうかについて「不明」とした最大の理由となっている。

 私が鉄道知識を少しずつ身につけていった小学生時代、まず低学年の頃に主に軽井沢の往復に出会う特急の名前を覚えることから始まっていた。上野駅を彩る多彩な特急電車達、信越特急や急行が出入りする高架ホームからは「とき」「白山」「あさま」という特急が発着していることを知った。そして発見した「とき」だけはボンネットタイプの、当時の私は「古い」と思った独特の形の車両が使われている事を発見した。編成で見るとグリーン車だけ屋根が一段高いようでぼこっと飛び出している。
 多分小学2〜3年の夏休みと思われる記憶にしっかり残っている形での「こだま形」との出会いであった。その後も「とき」との出会いは軽井沢の往復に何度もあった。その中でもボンネットタイプの「とき」に出会うのが楽しみとなってきた、何度目かに出会った時に横の行き先が電光幕ではなく、当時の高崎線普通電車と同じように細長い鉄板に書かれた「サボ」であることを発見する。
 その車両が181系という新幹線開業前の東海道線で大活躍した特急電車の末裔である事を知ったのは小学4年頃だと思う。少年向けの鉄道本「大百科シリーズ」「入門シリーズ」に書かれていることが本格的に理解出来るようになったのである。昔の特急のページに同じ電車が「こだま」のヘッドマークを掲げているのを見た時、この電車と鉄道の歴史を一瞬で理解した。
 でも理解出来なかったのはグリーン車だけが屋根が高くて他の電車から飛び出している事だった。昔の「こだま」のマークをつけた写真でもグリーン車だけ出っ張っている物はない。当時の私にとって「とき」=「こだま形」=「グリーン車の出っ張りの謎」という公式が出来上がってしまった。その出っ張りの謎を不思議そうに眺め、私にとっての「こだま形」はグリーン車が飛び出した凹凸編成が強く印象づけられてしまった。

 私が小学6年生の時、軽井沢への往復は兄と二人で独自に鉄道移動をすることになった。往路は八高線を北上して高崎で信越本線の普通列車に乗り換えるというパターン。この時に高崎駅で見送った「とき」が私にとって最後に見た「こだま形」となった。そして最後までグリーン車の出っ張りの謎は解けなかったのである。
 その年の秋に上越新幹線が開通。私は在来線の「とき」には一度も乗ることがなかった。

 月日は流れ、中学・高校と歳を重ねるに従って色んな鉄道知識を吸収した。主に古本屋で安く仕入れてきた昔の鉄道雑誌が知識の源となったのである。その中に「とき」で活躍した最後の「こだま形」を特集した記事があった。そこで「とき」のグリーン車の出っ張りについての謎が解けたのが中学3年の時である。
 同じ頃、東海道本線のグリーン車に改造車等が増えてきたためにそれらを観察するのが面白かった時期がある。鉄道雑誌を通じて「こだま形」181系グリーン車を改造したものが東海道線に組み込まれているのを知っていた。その車両(サロ110-301)を見つけた時の喜びと言ったらなかった。社会人になってこの車両の廃車が噂された時に「何とか乗れないものか」と東海道線の普通列車に乗る時に粘ったりしてみたが、遂に私が乗れる時には目の前に現れなくて悲しい思いをした(同時に廃車になった他の珍車は来たのに…)。

 私にとっての「こだま形」は、ひとつの車両形式の歴史と新幹線が出来る前の東海道本線の様子を教え、私が鉄道の歴史という物を考えるきっかけのひとつになった。
 同時に車両を観察してある特徴を発見し、その謎に挑んで自分で調べて解決させたものでもある。「こだま形」の模型を手にすることになった時、この原体験から時代設定や編成内容が決まるのである。


3.模型について

 上記をよく読んで頂ければ、私が模型化に挑んだ「こだま形」電車は末期の末期、「とき」として「こだま形」としての最後の活躍をしていた頃になるのは容易に想像出来よう。
 「こだま形」電車のNゲージ模型は、老舗カトーから「181系」としてかなり以前から出ているものがひとつと、最近になってマイクロエースが出した「151系」としてのものがある。無論私は「181系」として作るのだからカトー製だ。このページのトップを見て「トミックス?」と思った人はもうしばらくすると理由が分かるので読み続けて頂きたい。

 カトーの「こだま形」は私が鉄道模型を始めて手にした1977年頃にはもうラインナップされていたようだ。これはNゲージ車両としてもかなり歴史が長い部類に入る。1990年代に入って多少手を入れる程度の手直しがあった、クリームの色調の変更とヘッドマークステッカーの変更、オプションパーツの運転台屋根上ライトの点灯可能化などが仕様として代わった。私が購入したのはこの時代のものである。
 その後、従来の製品を特急「しおじ」仕様として山陽時代の姿であると明記し、それとは別に上越仕様をセット販売することとなる。先頭車はスカートがショートタイプに変更されて台車前に雪掻きが付き、運転台屋根上の警笛はカバー付きになるなど「とき」用の「こだま形」の特徴を掴んだものであった。しかしこのセットだと私にとって不要なグリーン車や食堂車がついてきてしまうため、後になってこれが出てきても悔しさはなかった。

 私が買ったのは前述の通り、まだ「しおじ」仕様と「とき」仕様に分かれる前のカトー製181系である。カトーは一度再生産を逃すと次がいつになるか分からないと言うことで慌てて予算を用意して購入に踏み切った。末期の「とき」を再現するために買ったのは先頭車が2両、中間車は普通車のモハばかり8両(4ユニット)、そしてトミックス製の485系グリーン車が2両という組み合わせで、購入した模型屋の店員に「?」という顔をさせたのを覚えている。

 まずは最大の問題は先頭車だけでも「とき」仕様に近付けなければならないことである。山陽本線の正統派「こだま形」と比べ、「とき」用の「こだま形」には様々な相違が見られる。模型的に目立つところではスカートの半分の位置で切断して大きな雪掻きを付けたこと、屋根上にあるカバー付きの警笛である。警笛はいいパーツが当時なかなか手に入らなかったので諦め、せめてスカートと雪掻きだけでもと思い改造を始めた。
 「銀河パーツ」の雪掻きを購入してまずはどのように取り付けるかを検討した。まずスカートにカッターを入れて下半分を切断、その切断面の寸法と「銀河パーツ」の雪掻きについている取り付け用突起部の間隔が一致することが分かっていたので、単純に切断したスカートと雪掻き突起部を瞬間接着剤で接合しただけである。
 後は上越用「こだま形」のもう一つの特徴である赤ラインである。かつて東海道に「こだま形」が数多く走っていた時代、「とき」用161系と東海道用を識別するために161系先頭車のボンネットに入れられた横一線の赤い帯である。東海道から「こだま形」が去って識別の必要性が消えても、「こだま形」が「とき」から完全撤退するまで関東甲信越で活躍した「こだま形」に入れられた特徴である。当時の写真が掲載されている鉄道雑誌を眺めながら、慎重にマスキングしてGMカラーの「赤2号」を塗装した。製品の赤と色調が少し変わったがあまり気にせず末期のイラスト入り「とき」ヘッドマークを取り付ける。こうして私の元に「とき」として最期まで活躍していた「こだま形」先頭車が模型として復活した。


「とき」らしくなった「こだま形」先頭車
ショートスカートと雪掻きでかなり印象は変わる
ちなみにライト類の縁は赤色で正しい

 さて、次に大事なのはグリーン車である。私にとっての「こだま形」はグリーン車の屋根が飛び出した凹凸編成である。
 まず説明しなければいけないのは、このグリーン車の種類である。末期には「こだま形」オリジナルのグリーン車も若干いたようだが(そのうちの1両が東海道線に転用された)、私はこれを見た事がないか記憶にないかのどちらかで、私が見た「こだま形」は必ずグリーン車2両が飛び出していた。この「背の高いグリーン車」も実は2種類が存在、ひとつは九州にいた485系グリーン車から一時的に改造されて連結された「サロ181-1050」、もうひとつは将来485系グリーン車に改造するのを前提として485系と同じ車体構造で新たに新製した「サロ181-1100」である。本当は両者が入った編成がいいと思ったが、当時は初期タイプ485系グリーン車は製品として無いために屋根廻りを中心に大改造をすることになってしまうため、グリーン車は新製タイプの「サロ181-1100」で統一することにした。実際にも当時のグリーン車はこれが最多数であったらしい。
 「サロ181-1100」は485系でも最後期に製造された「485系1000番台」のグリーン車と全く同じ車体を持っている。違いは電光幕式の行き先表示が使えないためにサボを表示できるよう受け金具かが取り付けられていたこと程度である。Nゲージで「485系1000番台」を模型化して販売しているのはトミックス、つまり末期の「とき」編成を再現するためにはトミックス製の485系グリーン車が必要なのである。

 同時に買ってきたトミックス製の485系グリーン車とカトー製「こだま形」を連結してみて驚くべき発見をしてしまった。本来ならば低重心で作られている「こだま形」と、交直流双方に対応する機器類を床下にぶら下げるために車高を上げざるを得なかった485系の間には実物で125ミリの違いがある。これは「サロ181-1100」も485系と全く同じ車体を持っているため、末期の「とき」における普通車とグリーン車の車高の違いそのままの数値でこれがグリーン車が「出っ張っていた」原因なのであった。
 実物で125ミリをNゲージサイズに変換すると、0.8ミリという数値になる。0.8ミリというと小さい模型の世界ではかなりハッキリ分かる数値であるのだが…カトーの「こだま形」にトミックスの485系を連結してみた結果、485系の屋根が0.8ミリ飛び出さなかった、綺麗な一直線の編成美が保たれてしまったのである。
 これは大変と双方の模型を見比べてみた。模型を見る限り車体の縮尺自体が間違っていることは無さそうだ。つまりこれは車高だけの問題と言うことになる、
カトーの「こだま形」が「私の足ながおじさん」になってしまっているのか? それともトミックスの485系がシャコタンなのか? 持っている鉄道雑誌などの資料をひっくり返し、電卓で寸法を計算して出てきた結果を見て双方の車高をモノサシで計ってみた。
 そして何度も車高を計った結果、トミックスの485系がシャコタンであるという結論に落ち着いた(厳密に言えばカトーの「こだま形」も若干高いのだが、誤差はトミックスの485系の方が上)。本来ならば見逃してもいい問題であり、だからといってトミックスの485系にケチを付けるわけでないし、我が家で保有しているトミックスの485系全部の車高を上げる必要があるとも思わない。しかし今回は形式の違いによる凹凸を再現しなければならない、トミックスの485系がシャコタンであるという些細なエラーが私にとっては致命的なエラーとなってしまったのだ。
 トミックスの485系は既にかなりの数を持っていたので構造は熟知している。何処をいぢって車高を0.8ミリ上げるかか問題になった。最初は台車と床板の間に0.8ミリのプラ板を入れることを検討したが、これでは台車と車体の間隔が開きすぎて不格好になってしまう。そこでトミックスの485系をまじまじと眺めてみた。
 そしてある欠点を見つけた。トミックスの485系は床板が車体に多少めり込んだ形になってしまっている、これはひょっとすると設計上のミスがあって本来はこのめり込みはないように作ろうとしたと考えられる。その証拠にこのめり込みによって車体ギリギリの所にある配管などの再現が折角細かく作ってあるのに車体に隠れて見えなくなってしまっている。そしてこのめり込みを計ってみたら0.6ミリ位あった。
 つまり、床板のめり込み解消を元に戻したついでにさらに0.2ミリ上げればカトーの「こだま形」と連結してちょうどいい凹凸が出ると言うことである。そこで私は床板と車内の座席パーツの間にプラ板を入れて高さを調整することにした。トミックスの485系は床板と車内を直接繋いでいるのでなく、高さ方向の繋ぎは座席パーツからガラスパーツを介しているためである。色んな暑さのプラ板を床板と座席パーツの間に挟んでは外し、また厚みを変えて挟んでみる。そしてある厚さで組み立ててモノサシで車高を計ると、ちょうどいい高さに落ち着いた。おそるおそるカトーの「こだま形」と連結してみると、あのグリーン車の「出っ張り」が見事に再現された。


完成した「サロ181-1100」


0.8ミリの攻防戦の果てに車高の違いを再現出来た


この角度から見ると「出っ張り」がよく分かるだろう

 こうして私は自分にとって一番思い入れが深い「こだま形」を手にすることに出来たのである。自分で再現したグリーン車の「出っ張り」を見て、「とき」で最期の活躍をしていた「こだま形」の勇姿を思い出す。
 今後の課題として、運転席上についている耐雪カパーに護られた警笛を再現してみたい。また末期の「こだま形」は台車が新形式のものとなっており、これの再現もしてみたいがなかなか台車が出回らないので困っている。


 以上が我が「石神井急行」に在籍する急行「こだま形」です。
 歴史上の名車を自分が思い入れある時代の姿での再現、趣味的にはこの時代の「こだま形」は人気がないようですが往年の名車の最期の活躍として記憶に留めている方も多いでしょう。

 また、この記事を執筆中に偶然にも模型化した特急「とき」の通過地点である新潟県中越地方で大きな地震があり、多大な被害が出てしまいました。上越線特急「とき」の跡を継いだ新幹線「とき」が脱線するなど、鉄道も大きな被害を被っています。新潟で保存されている「こだま形」先頭車はどんな思いでこの悲劇を見ているのでしょうか?
 新潟つながりということで、この場を借りて被害に遭われた方々にお見舞い申し上げるとともに、犠牲になられた方のご冥福を祈りたいと思います。

 「こだま形」については、今度は「こだま」でデビューした20系時代の姿で揃えたいなぁ。マイクロエースさん、早く再販して下さい(その前にお金が…)。

「心象鉄道」トップに戻る