心象鉄道4.国鉄/JR東海119系電車
(グリーンマックス・KATONゲージ)
わが青春の飯田線


模型写真 119系スカイブルーは永遠に不滅です…


 私が鉄道での旅で全国を飛び回るようになったのは高校生の頃、友人から譲り受けた「青春18きっぷ」による日帰り旅行がきっかけだった。
 その思い出に残る最初の訪問地が飯田線であった。この路線で旅の楽しさを覚えた…新鮮な発見と感動、列車に乗って車窓を眺めている間の幸福感…全てあの日に飯田線の電車が教えてくれた。
 私にとっての飯田線は、そんな思い出がある国鉄民営化直前の1987年冬。
 無論その時代の飯田線を模型として残しておきたい、その思いから購入した119系であった。しかし人間欲が出るもので、その後の何度か通った飯田線も模型で残したいと考えるようになって、気づけば車両が増えて時代設定に困ったり、設定から外れた車両まで登場してしまった。
 今回はそんな我が家の119系電車を紹介する。

1.はいじま版飯田線小史

 まずはこの119系電車が活躍する飯田線という路線から紹介しなければならない。
 飯田線は愛知県の豊橋駅と長野県の辰野駅を結ぶ全長200キロ弱の長大ローカル線である。豊橋から愛知県内はほぼ豊川に沿って路線が延び、静岡県に入るとほぼ天竜川に沿って信濃を目指すという旅情あふれる路線である。
 特徴はこの距離の間に実に94もの駅数を数えることで、この駅の多さや線形の悪さもあって普通列車で全線通すと6〜7時間の長旅となる。
 この駅数の多さは、飯田線が持つ歴史による。
 飯田線前史として挙げられるのは、明治時代の中央本線のルート選定から始まる。現在の中央本線は諏訪から塩尻へ抜けて木曽川沿いを中津川へ下るルートを取っているが、実は現在の中央自動車道のように辰野から飯田へ抜けて恵那山を越えて中津川へ至るルートも検討されていた。しかし、当時は鉄道線路で恵那山を越えさる事は技術的に不可能と判断され、木曽川沿いのルートに決定された経緯がある。
 同じ頃、1897年に豊川鉄道という小さな鉄道が豊橋から豊川まで鉄道を開通させた。豊川鉄道は豊川沿いに鉄道を延ばし、1900年には現在の大海駅まで開業した。大海からは鳳来寺鉄道という別の鉄道が線路を延ばし、1923年に三河川合まで鉄路が延びる。1925年にはこれらの鉄道は電化された。
 1926年、愛知電気鉄道(現在の名古屋鉄道)が名古屋の神宮前から豊橋の手前の豊川鉄道小坂井駅まで路線を延ばした。小坂井からは豊川鉄道の線路脇に線路を敷き、2本の線路を共用することで豊川鉄道と愛知電気鉄道が複線運転できるようにした。この運転方式は現在もJR東海と名古屋鉄道の間で行われている。
 ここまでは三河側の話であったが、信濃側でも中央線飯田経由構想が潰えた後も伊那・駒ヶ根・飯田といった信南地域への鉄道建設の夢そのものが潰えることはなかった。
 1927年、これらの地域を結ぶために設立された伊那電気鉄道が辰野と天竜峡を結ぶ鉄道を完成させた。さらに天竜川沿いに南下して鳳来寺鉄道と線路をつなぐ路線の工事が進められ、1937年に三信鉄道として三河川合と天竜峡が結ばれ、4つの鉄道会社に分かれていたとは言え現在の飯田線が全線開通した。
 しかし、飯田線の鉄路が1本に繋がった頃から日本の歴史は戦争への道を歩み始める。特に日米開戦となり、ミッドウェイ海戦に敗れて敗走するようになってくると物資は極端に不足。そのため鉄道業界でも鉄道会社の再編や国有化が行われる事となり、1943年に豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道の4社は国に買収され、ここで初めて「飯田線」という名前が付く。
 終戦後の飯田線の歴史に転機が訪れるのは1952年、天竜川に巨大な「佐久間ダム」が建設されることとなり、一部線路が佐久間ダムによるダム湖の底に沈んでしまうことになった。そこでこの区間(中部天竜〜大嵐間)は天竜川から一本東側の谷を流れる水窪川沿いにルートを変更し、新たに4駅を設けることになった。この区間は日本の中央構造線と呼ばれる断層があって地質が悪く、工事は困難を極めた。城西駅付近では川沿いの断崖をトンネルで貫く予定だったが、地質が悪くてトンネルが崩壊してしまいやむなく水窪川上にルートを取ることとなり、川の対岸近くまで行って渡らずにそのまま戻ってくる珍しい形状の鉄橋が架けられた。余談ではあるが、ここで飯田線と併走する国道152号線沿いでは中央構造線が地表に路頭している箇所が数多く見られ、国道自体も水窪町北部の一部区間は最新の土木技術を持ってしても完成させることができなかったという難所を抱えている。この区間を自動車で通過するには他の峠を越える林道を迂回しなければならない。
 1987年の国鉄分割民営で飯田線は全線JR東海に属することとなり、現在に至る。


2.実車について

 119系電車について語る前に、119系登場直前の飯田線の車両について語らなければならない。
 1980年代初頭の飯田線は日本全国で活躍を終えた旧型電車が、最後の余生を過ごすべく集結していた路線だったと言っても過言ではない。かつて首都圏や近畿地方で通勤・通学輸送に使用されていた電車が都落ちして集結、中には戦前生まれの古豪と呼ぶべき車両や、日本初の長距離用電車であり「湘南電車」こと80系電車の姿もあった。
 日本全国の旧型電車が集結しただけあって、鉄道好きには「動く旧型電車の博物館」と言われ人気であった。自動車ファンでクラシックカーの愛好家がいるのと同じである。しかし、この状況は一般旅客からは評判は良くなく、また旧式の電車を使い続けることは運用やメンテナンスの点からも効率的とは言えなかった。さらに都市圏で酷使した電車が中心だったために車両の老朽化も問題となっており、国鉄は飯田線電車の早期置き換えが必要であるとの結論を出していた。
 しかし、1980年代前半と言えば国鉄の苦しい経営状態が末期的症状を呈していた時代で、度重なる運賃値上げでもどうにもならないところまで追いつめられていた時代である。既に民営化も視野に入れた抜本的な経営再建までもが言われていた時代で、このような時代にローカル線に新車投入というのは難しい相談でもあった。
 そこで生まれたのが119系電車であった。車体と主要機器の多くは新造であったが、台車を始めとする一部の部品は当時廃車になった車両から流用という設計であった。
 車体や下回りは当時山陽地方ローカル線に同じような事情で投入された105系電車に準じた。しかし、山陽地方のローカル線は極端な長時間の運用はなかったために通勤電車として作られたか、飯田線は3〜4時間乗車は当たり前という特殊な路線なため、クロスシートの車内やトイレの設置など105系を近郊型電車として改良した内容と言っても良いだろう。基本的にはクモハとクハの2両編成であったが、登場当時はクモハ×2とクハで3両編成も存在した。
 車体は天竜川の水をイメージしてスカイブルーにアクセントの灰色帯が入れられた。この119系電車はJR化前後の一時期を除いて全車が飯田線で活躍しており、他の路線では見られない飯田線独特の車両となった。
 119系は飯田線に君臨していた旧型電車をすべて置き換えてあっという間に飯田線の主役となった。さらに飯田線専用の郵便荷物車、クモユニ147も登場して同じ色に塗られて編成の端っこに連結される姿も見られた。
 その後、飯田線には急行列車の廃止で余剰になった急行型電車165系が転入してきた。すると119系はいきなり余剰になってしまい、余剰分は冷房装置が載せられて静岡へ転属した。ここで派手な塗装に変更され、「するがシャトル」と命名されて僅か数年ではあるが静岡都市圏のフリーケンシーサービス列車に投入される。これは119系が唯一飯田線以外で活躍した例である。
 1988年になると、3両編成は使いづらいという判断となって119系は全部2両編成とされた。同時に列車増発による編成数不足が問題となっていたため、編成からはずされた「クモハ」に運転台を増設して単車運転可能に改造した。これが119系100番台で、この車両は単行で豊橋近辺のフリーケンシー列車に運用されたり、2両編成への増結用として運用されたりした。
 1990年代にはいると飯田線に転属した165系は老朽化と車両性能が飯田線に合わないことが問題となった。飯田線は平均駅間が短いため電車の性能は加減速を重視した通勤型電車の性能が求められる、だが165系は元来急行用のため高速性能が重視され、飯田線のような駅間が短くて頻繁に加減速が繰り返される路線での各駅停車運用に使用するには適していなかった。
 そこで再度飯田線を119系で統一して165系を全廃する方向性が決定された。まず静岡地区に当時の最新型である211系を投入、これで静岡に転属していた119系を捻出して飯田線に戻して165系と置き換えるという車両転配が行われることになった。
 静岡で「するがシャトル」に使用されていた119系は211系の投入とともに順次飯田線に帰ってきた。最初はあの派手な「するがシャトル」塗装のまま飯田線で活躍したが、じきに他の119系と同じくスカイブルーに戻されると誰もが思っていた、ところが検査で工場に入った「するがシャトル」119系が塗り替えられた色は他の119系と同じスカイブルーではなく、白い車体にJR東海のイメージカラーであるオレンジ色のラインを入れた「JR東海色」であった。
 あっと言うまに「するがシャトル」だった119系は「JR東海色」に統一、さらに今までスカイブルーだったオリジナルの119系までもスカイブルーから「JR東海色」に塗り替えられた。この塗り替えはファンにとってショックが大きいものだった。
 そして元「するがシャトル」の119系にだけ冷房装置がついているのに他にはついていない事が問題になっていた。JR東海では119系に全車冷房を取り付ける事となり、1990年夏頃からこの取り付け工事が始まった。冷房をつけた119系は当然の事ながら「JR東海色」に塗り替えられ、冷房改造工事が終わった1992年までにスカイブルーの119系は姿を消した。
 その後しばらくは119系に変化はなかったが、2001年になって飯田線もコスト削減を狙って一部列車でワンマン運転が行われることになった。そこて2両編成の119系の一部がワンマン運転に対応するため客室扉の回路変更、運転台に料金箱設置などの工事を行っている。

現在の119系
(JR東海色・非ワンマン車)

3.模型について

 Nゲージ119系はグリーンマックスから完成品が発売されている。これはグリーンマックスでも2代目製品で、最初は119系登場間もない頃に発売されたクモハ−クハの2両編成板キットであった。数年前にグリーンマックスが本格的に完成品の販売に復帰し、その初期製品として119系が選ばれた。
 なお、119系については某メーカーも完成品の発売を予告していたが、これは正式な企画中止のアナウンスがないままなかったことになっている。まぁそこはプラ完成品第一作目で発売を4年近く遅らせるという重大なミスを犯してしまったからなぁ…119系もグリーンマックスが完成品発売を発表する前に企画を発表していたが、第一作目が遅れている間にグリーンマックスに先を越されたという訳だ。
 グリーンマックスに話を戻す。私は初代の板キットも高校時代に2箱購入し、3両を完成させていた。1箱はストレートに作ったがもう1箱は「ニコイチ」で119系100番台とした。この119系はその後の地震で被災する、震度4の地震に襲われたときに部屋のスピーカーが当時実家の自室にあったレイアウトをめがけて落下、走行中だった客車列車と駅に停車していたこの119系に直撃した。双方ともグリーンマックスのキットを完成させたもので客車はバラバラとなり、119系は自作改造の100番台はバラバラに、2両編成のクモハが電気的な発熱を起こしていた場所に押しつけられたのか、側面のプラスチック車体が溶けるという事態となってやむなく全車廃車にした経緯を持つ。以後もグリーンマックスのキットを再組立しようという構想は浮かんでは消えた。現にキットが1箱未組立のまま我が家に転がっている。
 完成品としてリニューアルした119系はビデオテープケースに収められた2両セット中心という、グリーンマックス完成品の典型的な内容で発売された。登場時のスカイブルー・「するがシャトル」・「JR東海色」の3色からなり、「するがシャトル」はクモハ−クハの2両編成セットのみ、他はこの2両編成セットの動力込み・動力なしの他に119系100番台を2両納めたセットも用意されている。
 私が再現したい119系は国鉄時代末期、当然購入するのはスカイブルー塗装であった。しかし国鉄時代末期の姿ではクモハ−クハの2両編成にしかならず、これでは面白みがないと言うことで100番台セットも購入した。クモハ−クハのセットは2セット、100番台は1セット購入し、全部で6両となった。
クモハ119 クハ118
 グリーンマックス完成品を初めて手にしたのだが、仕上がりは値段相応になっていて問題ないと思った。ただ前面の前照灯・尾灯周りの処理がもう少し何とかならなかったのかとは思った。また帯色は薄い灰色であるが、もうちょっと灰色が濃かった気がする。それ以外の表現は的確で特に前面の運転台窓周りのブラックフェイス処理の再現は秀逸である。
 再現する時代が「国鉄時代末期」のため、その時代に合わせて最終仕上げである。グリーンマックス119系の場合、完成品とはいえ屋根上パーツは未取り付けでこれは自分で取り付けねばならない。国鉄時代末期として完成させるには屋根上パーツを全て使用…つまり列車無線アンテナを装備したJR仕様と同じとすればいいのである。さらに車体にはJRマークの取り付けは行わず、製品のままの塗装と表記を活かすことになる。最後に連結器を全て車体取り付け式のTNカプラーに統一して閑静とした。
運転台付近の屋根周り
国鉄時代末期に時代設定を合わせた
 さて、こうして完成した119系であるが、これだけではつまらない。そう思って100番台を購入したのである。
 ただし100番台車はJR化後約2年の月日を経て誕生した、つまり2両編成は国鉄時代の設定としているので正直に言えば存在自体がエラーとなる。だが100番台もどうしても欲しい。そこで100番台も2両編成に仕様を合わせ、「もしも国鉄時代末期に100番台がいたら…」というウソ電としてしまった。と言っても字津ぶつのスカイブルー時代との違いはJRマークの有無程度である。ウソ電119系100番台をとくとごらんあれ。
119系100番台
こちらが本来の運転台だから「前」になるのか?
こちらが増設側運転台、つまり「後」である。
運転室ドア周りの表記類の再現がイイ!
 119系100番台は単行で走らせる他、2両編成と連結して3両として運行する事も考えられる。その場合は連結向きはどっちでもいいようで、私が初めて100番台を見たときなどは、クモハ−クハ−クモハ(100番台)というクハを中間に挟んだ3連で運転されていた。この編成だとパンタグラフが先頭に立つことになり、電車らしい「顔」を辰野側で見せてくれることになる。私はこの3連が一発で気に入ったため、この編成も模型化できるように考えたのであった。
クモハ−クハ−クモハの3連
先頭にパンタグラフが来るのがカコイイ!
100番台を真横から見る
ローカル電車らしくていい。

 我が家の119系のついての記述はこれで終わらない。
 カトーが115系などに連結する荷物電車クモニ143系を発売しているのだが、一時期このクモニ143系を119系と同じ塗装にして限定発売したことがあった。ちなみに飯田線で119系と組んでいた荷物電車は郵便室付きのクモユニ147系で、クモニ143系とは外観がかなり違う。これら荷物電車は1986年11月のダイヤ改正で国鉄の荷物輸送が全廃されて廃車された(一部は千葉で使用されたか)。
 しかしこのスカイブルーのクモニ143系、我が家では使い道がなく押入の中で眠っているだけであった。そこでこのスカイブルーのクモニ143系を119系と連結してしまおうと企てた。
 ただそのまま連結するのではウソが酷すぎるので、外見を少しでもクモユニ147系に近づけることにした。と言ってもクモニ143系にあってクモユニ147系にはなかった前面のスカートを外したという程度である。実はクモユニ147系も塗装済みキットと言う形で発売はされているが、新進メーカーからの発売であるために価格が高過ぎで、119系のために手が出なかったのが正直なところである。こんな経緯もあってお気軽に「クモユニ147系のつもり」とすることにしたとという側面もある。
クモニ143系スカイブルー
これを119系と連結させることに
119系と編成を組んだクモニ143系(クモユニ147系風味)
スカートを外して飯田線らしくしたけどいかがでしょう?

 この異メーカー連結運転で一番怖かったのはスカイブルーの色調の違いであったが、これが見事にズレてしまった。その上灰色帯については全く色が違うという有様、両社の中間の色があればなー…とつくづく感じた。ああ、完成品小加工による混結はうまくいかないものである。
カトーの飯田線色とグリーンマックスの飯田線色の違い
ちょっと鬱になった

 以上が我が家の119系である。119系と言えばやっぱりスカイブルーと言うことで色だけにこだわって時代設定とかがいい加減になってしまった感が否めない。
 119系は予算の都合がついたら、「するがシャトル」も欲しいなと思っていたりする。静岡の都市圏輸送でなくスカイブルーの119系と混用されて飯田線で活躍していた時代を再現したい。

2013年11月10日追加記事へ