西武2000系と私 ・出会い 私の実家が練馬区の上石神井に転居したのは1977年春、当時の私は小学1年生になったばかりの頃であった。 学校が終わり午後になると、特に友人と遊ぶ約束のない日は母の買い物に着いていくのが日課だった。その理由は母に駅前まで連れて行って貰い、母が駅前のスーパーで買い物している間は駅前の踏切で行き交う西武新宿線の電車を眺めようというものであった。 当時の西武新宿線はまだ赤い電車が主力で、まだ幼い上に越してきたばかりなので電車の型式なんかは全く解らなかった。それでも友人が教えてくれたのか、たまにやってくる黄色い電車が「101系」だと言うことだけは知っていた。101系は西武秩父線開通と同時に池袋線に登場した、当時デビュー8年目の通勤電車。基本的には池袋線用だったが冷房車を入れてサービスを池袋線レベルに合わせる目的で、新宿線にも若干数いた。 その101系以外は赤い電車ばかりである。切妻三枚窓スタイルの411系や451系、正面に貫通扉が着いたいかにも古めかしい車体のクハ1411形、二枚窓が美しい551系や601系、101系と似たような車体だけど赤くて冷房のない701系…それらの形式名を知ったのは小学3年生頃で、まだ当時はそんなことも知らずに赤い電車を眺めていた。 夏も近いある日、いつものように上石神井駅前の踏切で電車を眺めていると、突然本川越方面から初めて見る電車がやってきた。電車はとてもきれいで「新型」だと言うことは幼い自分でもすぐ理解できた。正面はこれまでの西武線で見たことのないパノラミックウインドウに正面貫通扉、そして国鉄の通勤電車のように沢山並んだ扉。回生ブレーキを効かせて進入してくるその音は、この春に乗った東急新玉川線の当時最新型電車と同じ音だった。お客は誰も乗って無くて、今にして思うと「試運転」だったのだろう。とにかく突然現れた見たこともない新型電車に遭遇し、とても興奮したのを覚えている。買い物を終えて私を迎えに来た母に、私は興奮したまま新型電車を見た感動を語った。 …西武2000系との出会いであった。 ・初めて乗った日 この新型電車との遭遇という経験で興奮と感動を覚えた私は、さらに駅前で電車を見るのが楽しみになった。それだけではない、友人と遊びに行くにもわざわざ電車が見える場所を主張したほどだ。そしてその線路際へ足を運んだうちの何回かに一度は、この新型の電車を目にすることが出来た。最初の何回かは初めて見た時と同じようにお客は乗せてなかったが、じきに他の電車と同じように行き先を掲げてお客を乗せて走るようになった。この電車の形式名が「2000系」であることも、学校の友人が教えてくれた。 もちろん、お客を乗せて走っているのを見た私はこの新型電車に乗りたくてたまらなかった。その最初の機会は所用で母の実家に出かけた時であった。私はこの時に「2000系に乗りたい」と駄々をこねた記憶が今でも鮮明に残っている。往路は「帰りに乗ろう」と誤魔化され、その復路に往路でのことを思い出して再び駄々をこねたのは言うまでもない。母や兄は「いつ来るか解らない電車を待つわけに行かない」「どうせこれから沢山作られていつでも乗れるようになる」と説得されたが、やっぱこういうのは新しいうちに乗りたいのが子供ってもんだ、帰りの高田馬場駅での私の我が儘は留まると言うことを知らなかった。 そこで母が私に条件を示してきた。「今度の電車が各駅停車の上石神井行き、その次の電車が急行の本川越行き。早く帰りたいから急行に乗りたいけど、もし上石神井行きに新型が来たらこれに乗ろう。違ったらその次の急行がどんな電車でもそれに乗って帰ろう」という条件を提示し、私はこの案を飲み込むことにした。 もちろん電車が入ってくるまで祈ったのは言うまでもない、上石神井行きでも急行本川越行きでも、どっちでも良いから2000系が来るようにと。そして意外にあっけなく答えが出た、先行の上石神井行きにできたてほやほやの2000系がやってきたのである。高田馬場駅の狭いホームで大喜びの私、母は約束通りに私をこの2000系に載せてくれた。ちなみに途中で追い抜いていった急行本川越行きは、赤い電車だったのをハッキリと覚えている。 初めて乗った感動もハッキリ覚えている、やっぱ電車の走行音は新玉川線の電車と同じだと感動し、「新しい電車が地元の新宿線にも来たんだ」と改めて感動したこと。扉が閉まるときの「パシャッ」と言う音が妙に気になったこと(←いつの間にかこの音は聞けなくなってしまった)、なによりも冷房がよく効いていて涼しかったのが最も印象に残っている。 今回の模型を「普通 上石神井」の行き先にこだわって製作したのは、こんな幼い日の記憶も理由の一つであることは明記しておこう。 ・身近な電車としてウォッチング 時と共に2000系の数が増え、代わりに赤い電車が古い方から少しずつ姿を減らしていることにも気付いていた。私が3年生に上がる直前には新宿線の赤い電車はほぼ一掃され、代わりに池袋線から冷房を載せられて黄色く塗り替えられた701系がやってきた。さらに5年生頃になると新宿線にも新101系と呼ばれる2000系の次の新車がやってきて、いつしか新宿線から赤い電車は完全に姿を消して関東大手私鉄の主要路線としてはかなり早期に全車冷房化を達成する。 そんな中で2000系という存在が新宿線だけの存在であり、池袋線にはいないことは幼い頃から気付いていた。たまに池袋線に乗ったとしても同じ西武線でありながら2000系の姿はなく、私はこれに疑問を感じるよりも誇りを感じていたのは確かだ。特に2000系の次の新型として池袋線に導入された新101系はそれまでの101系から大きな変化は無く、走って見ても走行音が101系と全く同じで当時の私の「子供心」が疼かなかったのは否めない事実だ。これまでの西武線とは全く違うデザインの電車で、当時の最新型の音をたてて走る2000系が自分の最寄り路線である新宿線だけの存在だというのがとても嬉しかったのだ。 私が中学生近くなる頃、西武新宿線ではこれまで6両編成だった各駅停車を8両編成に改めるダイヤ改正が計画された。この改正と前後して6両編成だけだった2000系に変化が生じたのも私は見逃していない。一部の編成は8両編成に編成を伸ばされたし、それとは別に6両編成に増結して8両編成を作るための2両編成が登場したのを、上石神井の「車庫ウォッチング」で発見していたのだ。特に増結用2両編成は先頭車に二つのパンタグラフが堂々と載っていて、その威風堂々とした外見に心を惹かれたものだ。この編成改変が一部の編成をバラした上で行われた事は、中学校に上がってから先輩に聞かされることになる。 私が高校に上がる直前の1986年3月、雪景色の田無駅で悲劇が起きた。折からの大雪で立ち往生した2000系8連の電車に、後続の同じく2000系8連の電車が追突するという痛ましい事故だ。多くの怪我人が出たが重傷者や死者が無かったのは不幸中の幸いだが、この事故によって6両編成と2両編成の2000系がそれぞれ2編成ずつ被災し、長きにわたって上石神井の車両基地の一番奥に留め置かれることになる。うち追突地点から一番遠かった2両はすぐ復帰したが、8両は復旧不能と判断されて2000系初の廃車となってしまい、残りの6両(被災が少なかった車両を集めて6両編成1本にした)の復旧にも長い時間が掛かることになった。 だがこの頃から2000系ウォッチングが楽しくなり始めたのは事実だ。2000系が事故でダウンした分は、しばらくは池袋線から101系を借りて運行していたが、翌1987年夏に2000系に次なる変化が現れる。夏休みのある日に親戚の家へ行った帰り、「これまで見たこともない2000系」に出会うのだ。これまで2000系は皆同じ外見で作られており、ハッキリと「これは見たことないぞ」と瞬時に解る車両はなかった。 その「これまでに見たこともない2000系」は上石神井に向かう下り電車が鷺ノ宮駅に停車したときに、ちょうど上り電車として出て行くところだった。その出て行く2000系を見た私は周囲の乗客が驚くのも構わず「なんだ?」と声を上げてしまったのをハッキリ覚えている。私が最初に気付いた「違い」…それは車体側面中央部に行き先を表示するための穴が開いていたことだ。当時の2000系に側面の行先表示は取り付けられておらず、当然行先が表示できるような穴が開いているわけもない。だがそこで見た2000系は行先表示用の穴が空けられていて、それを車体色と同じ黄色い板で塞いでいたのだ。 「なんだ?あれは?」と思ってじっくり眺めたかったが、もうその西武新宿行きの2000系はかなり加速しており、屋根上の通風器が新101系と同じ「押し込み形」に改められている点を確認するのが精一杯だった。本来なら先にチェックすべき車両の番号を見落としたのは痛恨だった。そのため二学期が始まって西武電車に興味のある友人にこの目撃談を伝えても、なかなか信じてもらえなかったという状況まで生んでしまう。当時は現在のようにインターネットですぐに情報が入ってくる時代でもなく、ましてや当時の西武鉄道は自分で車両を作って走らせていたのだから、甲種輸送とかでの目撃談なんかも入ってこなかったのだ。この2000系が田無事故の代替車として新しく作られた物であること、同年度内に事故に被災したのと同じ6両編成2本と2両編成2本が製作されること、編成番号はそれまでの2000系の続き番であること、車内の雰囲気は2000系より3000系(1983年から走っている池袋線専用の2000系の次の形式)のそれに近いこと、側面の行先表示をいつでも付けられるよう準備がされていること、同年度末期に落成する2両編成2本は側面の行先表示を本格装備しての登場になること…この新しい2000系の詳細を知るのはこの年の秋になってからだった。 1987年秋、学校の授業の一環でいまは無き西武鉄道の所沢工場を見学した。私はここで生まれて初めて「電車が作られている」光景を目にすることになる。そこで作られていたのは前述の「これまでに見たこともない2000系」の2本目、つまり田無事故代替の6両編成2本目となる2033編成であった。これにも行先表示の穴が空けられており、案内してくれた西武鉄道の社員にあの穴は何なのかということと、いつからあの穴を使って横にも行き先を表示するのかという事を質問したのを覚えている。 1988年2月のある日、通学時に見た2000系全部に些細な変化が起きているのを発見した。最初は「前面の行き先表示が鮮明になった」くらいにしか感じず、その理由が分からなかったのであるが、次にすれ違った2000系を見て何が変わったのか気付いた。それは前面の行き先の文字が反転したのである。これまでは普通に紙に書いた文字のように、白地に黒い文字で行き先が書かれていたが、この2月のある朝を境に黒地に白い文字で行き先が書かれるようになったのだ。唐突にこれまで「見慣れた2000系」が見られなくなった驚きと、この変化が僅か1夜で2000系全部に及んだ驚きとで通学時から興奮したのは覚えている。そしてこの変化を待つかのように、田無事故車代替で作られた残りの車両…つまり西武新宿線の車両で初めて横にも行先表示をするようになった2000系最後の2両編成2本が営業運転に入った。 そして既に、前述の工場見学の段階で次に起きる2000系の大変化を教えて貰っていた。その内容は「2000系の大量増備」とフルモデルチェンジ。1988年3月発売の鉄道雑誌には、その詳細と完成予想図が記事になっていた。新2000系の時代がいよいよやってくるのである。 ・次の出会い 1988年の春、私は「北海道ワイド周遊券」を利用して春休み丸々全部を北海道で過ごした。その2週間に及ぶ大旅行を終えて帰って来たのは新学期が始まる前日の朝。ラッシュが終わって昼間の平穏さを取り戻した高田馬場駅ホームで帰宅する電車を待っていた。2週間も東京を離れると流石に懐かしいものだ、そして懐かしいわが西武新宿線にも2週間ぶりの乗車、どの車両が私の帰りを迎えてくれるのだろう?と頭の中で考えていた。 「急行本川越行き4ドア8両編成の電車です」とのアナウンスですぐに2000系が来ると解った。平日昼間の急行なら2000系8両編成の活躍の場だ、3本ある8両編成のどれかが来るに違いない。どれが来るかな〜?…いよいよホーム下にある接近警報音が鳴り、見慣れた黄色い車両が近付いてくる…車両が見えた瞬間、私は目を丸くして驚いた。やってきたのはこれまで西武新宿線で見たことがない車両だったのだ。2週間の大旅行から故郷に帰ってきた感動は、瞬時に消えた。 その車両が視界に入ってから停止するまでの間で、やっと目の前で何が起きているのか理解した。そうだ、この前面デザインは鉄道雑誌に載っていた「2000系増備車」の完成予想図と同じだ、つまり偶然にもできたてほやほやの新車に当たったと言うことだ。2000系をベースにブラックフェイス処理を入れて雰囲気を大きく変えた顔、こぼれ落ちそうなほど大きな一段窓の側面、燦然と輝く側面行き先表示の「急行本川越」、窓が大きい上に明るいデザインでこれまでの西武線とは全く違う雰囲気の車内…私は2週間の大旅行からの帰りと言うことを忘れこの新しい電車に見入り、一目で気に入った。これがこの後、新宿線だけでなく池袋線も含めて西武鉄道の主役として君臨することになる新2000系との出会いだ。もちろん最初の乗車は「かぶりつき」、最初に乗った新2000系は「クハ2604」であった。 そしてここから先の私の西武電車ウォッチングは、そのまま新2000系ウォッチングであったことは言うまでもないだろう。面白いことに新2000系は製造時期によって少しずつ違う車両が出ることになる。最初は「何番目の編成が出た」とだけ追っていたが、ある日の通学時にたまたま乗った新2000系6両編成の2番目の編成が「なんかおかしい」と思ったところから始まった。この2053編成はよく見たらそれまでの新2000系と顔は違うわ、運転台は旧2000系と同じ配色になっているわ、何かとおかしかったのである。 それから1年単位で今度は側面の窓が大きくなったり元に戻ったり、ドアの開閉音が変わったりといろいろと変化していった。その変化を見つけては記憶するのがとても面白かった記憶がある。もうそれから20年の月日が流れているのでどの編成にどういう特徴があったかはかなり忘れているが、当時は事細かく記憶の中に入っていたのは確かだ。 1991年夏のある日、西武新宿線の新2000系は8両編成も登場して2063編成まで出そろっていた。そろそろ次の2065編成が出るのではないかと心待ちにしていたが、なかなか新宿線にやってくる様子はない。そんな折に石神井公園駅近くの銀行に用事があって池袋線の線路沿いまで出かけた時、目の前の線路を「急行池袋」の表示を出した2065編成が通過していったので仰天した。ついに新宿線の名物であり誇りであった2000系が池袋線に正式導入されたのだ、これまで池袋線の4扉車運用テストや、団体列車の間合いで2000系が一時的に池袋線に貸し出されお客を乗せて運転したことはあったが、この2065編成は初めて池袋線をホームグラウンドとした2000系となったのだ。じきに新宿線の2063編成や2061編成といった比較的若い新2000系も池袋線に取られ、代わりに池袋線からは古くなった101系が新宿線に転属してきて701系を置き換えた。つまり新宿線に必要な車両を新宿線に直接投入するのをやめ、池袋線に新車を入れてそれによって溢れた車両を転用して「だるま落とし」のように701系を淘汰するという方針に改められたのだ。根っからの新宿線ファンであった私は、仕方が無いこととは言えちょっと悔しい気分になったのは言うまでもない。だがこの後作られた新2000系が全て池袋線に投入された訳ではなく、6両編成の2047編成や2049編成、8両編成の2081編成以降の何本かは新宿線に投入されている。 1992年夏、池袋線に地下鉄有楽町線乗り入れを視野に入れた6000系が登場した。これによって新2000系の生産に終止符が打たれることになる。新2000系の大量投入によってかつては西武鉄道の中でも少数派だった2000系は、気付けば西武鉄道を代表する通勤電車となっていただけではなく、大手私鉄でも有数の車両数が製造された車種として記録に残ることになってしまった。だが2000系の製造が終わったことは、自分と共に成長してきた電車の成長が終わったことを意味しており一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。 ・そしてその後 新2000系が大量投入されてからは、通勤や所用で毎日乗る電車となったと言っても過言ではない。新2000系が増える前は通勤(通学)でも毎日2000系に当たると言うことではなかったが、特に1990年以降は一日に一回は必ず乗るようになりつつあった。 2000系の生産が終わって以降の西武新宿線の変化は、西武鉄道が満を持して投入した新型特急電車10000系による「小江戸」号の運転開始という嬉しいニュースがあった。これまでロマンスカータイプの特急がほとんど無かった(休日のみ2往復だった)西武新宿線に突如出現したクィーンを、運行開始初列車から追いかけ回した記憶がある。 続いて池袋線の地下鉄直通対応として登場した6000系が新宿線にも投入されるようになった。新宿線初のステンレスカーは、これまで黄色ばかりだった新宿線の「電車の色」を久しぶりに変えることになり、鉄道に興味のない客からも注目されていたのを目撃している。6000系は何度か池袋線の車両と入れ替わりがあり、一度だけ後期製造のアルミ車がやってきたのも目撃している。だが最終的には搭載機器の都合で地下鉄乗り入れが出来ない最初期の2編成が「新宿線用」として落ち着く事になる。 池袋線専用だった301系(新101系8連タイプ)や3000系も新宿線にやってきて、さらには新2000系と同じ車体の9000系は当初は新宿線用として登場したこともあり(後に全車が池袋線に転出)、新宿線の陣容は701系列と2000系で9割を占めていた80年代より賑やかになったのは確かだ。そして新世紀を睨んだアルミ製通勤電車20000系統場の頃までが、私が西武新宿線やその支線の沿線にいた時代の話で、以降はJR中央線や青梅線の沿線住民になったことでよく分からない。 またこの間に旧2000系が老朽化し、車体を中心に更新工事が行われている。車外はスカートを付けただけでほぼ変わらなかったが、車内はものによっては原型を留めないほどイメージが変わった。この2000系を見て複雑な心境になったのも覚えている。自分が幼いときから追いかけてきた電車の姿が変わってしまった寂しさと同時に、2000系より後に出た新101系や301系が淘汰されているのにそれよりも西武新宿線という舞台で長生きが出来そうだという嬉しさの双方を感じているのだ。 そして現在、西武新宿線のフラッグシップとして活躍しているのは最新型の30000系「スマイルトレイン」。私はこの電車を拝島線の線路を素通りする通勤のバスからたまに見かけるだけだ、だがその踏切で黄色い2000系の姿を見かけると、私が小さい頃からずっと見続けてきた電車がまだ現役でいることを嬉しく感じることがある。最近になって行先や種別の表示が変わって、各駅停車は「普通」ではなく「各停」と表示されるようになり、「拝島快速」なる新しい列車にも当然のように2000系が運用されている。それとは別に行先表示がLEDの電光掲示板に変えられたりした車両があったり、戸袋窓が埋められた新2000系も見かける。2000系は私が沿線住民として毎日のように利用していた頃と姿を変えているが、それこそがまだ当分現役でいられること、しかも「西武新宿線」という西武鉄道の表舞台で活躍を続けることの証であろう。 西武新宿線とは縁遠くなったけど、離れていてもこの電車の動向をいつまでも見守り続けたいと思っている。 「西武2000系を作ってます」トップに戻る |