2010年2月27日 小田急電鉄小田原線渋沢〜新松田間 どの鉄道にも印象に残る「顔」はある。それは大型観光地を抱える大手私鉄各社を彩るロマンスカーだけでなく、人々の日常の足として活躍する通勤電車にもその鉄道会社を印象付ける「顔」がある。 現在の通勤電車は、どの鉄道会社も製作コストを下げるためにだんだん似たような顔を持つようになってきた。もちろんどこの自社のオリジナリティを出そうとデザインを凝らしているが、結局はJR車のコピー品や車両メーカーの標準車体という縛りから抜けられず、悪く言えばこの「縛り」を誤魔化すために各社が実用性能などではなく「デザイン」で誤魔化しているのが現在の通勤電車だ(勿論よく言えば「各社とも制約の中でうまく自社の顔を作っている」ということになるが)。 だが私の少年時代である80年代までは、その現在の通勤電車とし違う各社の「顔」があった。それは私鉄各社による電車の「使い方」の違い、それによる利便性を追求して出てきた答えが詰まった「コスト削減」とはまた違う効率化の姿だ。 混雑時間帯と閑散時間帯で編成両数を替えるため、車両基地や駅での連結作業を重視して折妻2枚窓することで作業スペースを作る事に徹底的にこだわった西武鉄道。 運転席同志の連結時に乗客や乗務員の通り抜けの便を重視し、かつ踏切事故に備えて高い位置に運転席を置くことを追求した東武鉄道。 固定編成単位での電車の使用を前提に、制作費の低減だけでなく「ワンハンドルマスコン」という当時最先端の技術でスペースを取られるため切り妻車体にこだわらざるを得なかった東急電鉄。 …挙げればキリがないが、大手私鉄の中に戦前から続くスタイル…つまり正面中央に扉をつけ、その真上にヘッドライト、扉の分を含めて三枚のフロントガラス、行き先は正面の扉の窓下という配置に合理性を見いだし、それを徹底的に貫き続けた私鉄がある。それが小田急電鉄だ。 小田急電鉄では昭和初期の開通時から「行き先は正面真ん中、フロントガラスの下」を徹底追求した。それは戦後になって高度経済成長を迎え、行き先表示が「看板」からロール幕式の表示装置になったことで他社がデザインを大きく変えても、小田急だけは頑なまでに「正面真ん中フロントガラスの下」を貫いた。最新型ロマンスカーなど技術的に最先端を行くイメージの鉄道会社が、通勤電車のデザインについては戦前のデザインを貫いたのである。やがて車両が大型の20メートル車になっても、車体の色が茶色一色→上半分黄色と下半分ブルーのツートン→現在のアイボリーに水色帯と変わって垢抜けても、実に1982年度に最後の5000系が製造されるまで、地下鉄乗り入れ仕様の9000系以外はずっとこのデザインを貫いたのだ。 小田急沿線に親戚があり、子供の頃からよく小田急線を利用していた私にとって、自分が乗る小田急線はロマンスカーではなくこんな古めかしい顔の通勤電車であった。だから小田急線といえぱこの顔が方程式のようにあたまに叩き込まれていて、真っ先に思い浮かぶまさに「小田急線の顔」がこのデザインの電車だったのだ。 その顔の電車も、近年は新型通勤電車の登場によってどんどん数を減らしている。5000系まではどの形式の電車も同じような顔で、余程小田急の通勤電車に詳しい人でなければ、鉄道好きでも正面から見ただけでは形式の区別が付かなかったほどだ。それが今や1形式までに数を減らし、5000系の後に出てきた形式毎に顔の違う電車に置き換えられてきた。既に昨年度以降は、10両編成を組むと両側がこの顔になることはないという状況まで数を減らした。 2010年2月、新幹線500系の撮り鉄に小田原まで出かけた私は、その帰り道に小田急線の線路際に愛車を止めてこの「顔」を着けた通勤電車の姿をカメラに収めることにした。今回はその撮影行の記録である。
※注記…小田急電鉄5000系は、4両編成を「5000系」、6両編成を「5200系」と呼称する事になっているが、ここでは面倒なのでどちらもまとめて5000系系列という意味で「5000系」と表現する事にする。
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