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第1章 「マシュウ・カスバート驚く」
名台詞 「嬉しいような悲しいような気がするわ。だってこのドライブ、とっても楽しかったんですもの。楽しいことがおしまいになると、私いつも悲しくなるの。その後でもっと楽しいことが待っているかも知れないけれど、それがたいていそうでないときの方が多いのよ。私の経験ではね。だけど、家に着くのかと思うと嬉しいわ。いよいよ本当の自分の家に行くんだと思うと、またじーんとここ(胸)が痛くなってくるわ。」
(アン)
名台詞度
★★★
 マシュウとアンを乗せた馬車はグリーンゲイブルズまであと1マイルの場所まで迫る。もうすぐこの馬車でのひとときが終わると知ったアンがマシュウに語った台詞がこれだ。
 この台詞はアンが思ったことを語っただけだが、マシュウの表情をみれば分かるように家にたどり着いた瞬間にアンがどれだけ悲しい思いをするかという事を思い出させるように上手く言葉が選ばれていると思う。そう、カスバート兄妹が受け入れるつもりなのは女の子ではなく男の子、ここまで妹のマリラがかなり気難しそうな人として描かれていることを考えれば、家に着いた瞬間にアンの幸せなひとときかは終わりを告げるであろう事を思いだし、視聴者の多くがこの台詞を聞いてマシュウと同じ表情をしたことだろう。
名場面 アンとマシュウの出会い 名場面度
★★
 アンを降ろした列車が走り去ってから、かなり時間を経てからマシュウが駅に現れる。待ち人が来たと思って立ち上がったアンを無視してベンチに腰掛けたマシュウは、自分が持っている懐中時計が止まっていることに気付き、慌てて駅舎に飛び込んで駅長に話を聞く。駅長は「5時半の汽車」は30分も前に行ってしまい、マシュウの客があそこだとホームにいる少女を指さす。「違うんだ」と自分が男の子を引き取りに来た事を説明するマシュウだが、駅長はその辺のことを少女に聞くよう言い残して帰ってしまう。
 仕方がないのでその少女の方を見ると、少女も立ち上がりマシュウに声を掛ける。相手がマシュウだと分かると手を差し出しながらなかなかこない理由をあれこれ考えていたことを筆頭に洪水のごとくしゃべり出すアン、それに圧倒されるマシュウ。圧倒されつつもアンの妄想に自分まで桜の花びらの中にいるように錯覚してしまうマシュウがなかなか気持ち悪くてよかったぞ。我に返ったマシュウは遅れたことを詫び、アンの鞄を持とうと手を差し出す。アンは取っ手が抜けるから自分で持つと言い張るまでがこの「出会い」だろう。
 このシーンは物語の始まりとなる出会いを強く印象付ける。そして「女性が苦手」なマシュウが、あっという間にアンという少女に対して心を開いてしまうまでが上手に描かれている。アンの純粋に「マシュウ・カスバート」という名前だけを頼ってきたこと、アンの持つ空想力と話術によってあっという間にこの女性が苦手な老人はこの少女の虜になってしまったのだ。
 こうして物語は幕を開いた。
  
今回の命名 「喜びの白い道」…駅からグリーンゲイブルズへ向かう途中にあったりんご並木。アンが初めて通ったときは満開で「きれい」という言葉では言い表せないものだった。
感想  突然ではあるが「赤毛のアン」の考察を連載開始、この作品はそれこそ多くのサイトで原作との比較や物語そのものについての研究がなされているので、当サイトではその辺りは他に任せるという意味で省略し、あくまでも当サイトでのフォーマットの基本形式となる「名場面」「名台詞」をひとつずつ選んでの一転集中型の考察を中心に進めたいと思う。
 さて第一章、物語の殆どがアンとマシュウの会話だけで終わってしまう。だがその中にアンの新しい生活に対する期待が大きく描かれ、最後の方では「本当は男の子を引き取りたい」とするマリラを思い出して不安になるマシュウが上手に描かれる。また「アン」という少女の性格は今回でかなり紹介されたと見ていいだろう。
 この第1章は制作側に試行錯誤があったのではないかと思う。「喜びの白い道」の花びらが舞うシーンで妖精達まで出てきてしまう演出や、アンの空想がすぐ映像化されてしまう演出、さらには主要人物の初登場シーンでの額縁表示とか…おかげで凄く印象に残る回となる。「赤毛のアン」全話視聴は恐らく27年ぶりくらいだと思うのだが、この第1章はハッキリ覚えていたもんなぁ。最後に見たのは小学5年生前後、平日朝の再放送だった。 

第2章 「マリラ・カスバート驚く」
名台詞 「そ、そうさのう。あの娘は実に面白い娘だよ。駅からここに来るまでのおしゃべりを、お前にも聞かせたかったよ。」
(マシュウ)
名台詞度
★★
 激しく同意(笑)。
 何とかアンをこの家に置いてやれないかとマリラに言おうと言葉を選ぶマシュウに、マリラが「あの娘に魔法でもかけられっちまったんじゃないだろうね」と問う。その返事がこれなのだが、あの会話でこれまで女の子と楽しい時間を過ごすなんて事があり得なかったマシュウですら変わってしまったのである。同じ事をマリラに言えば…やっぱおもしろがっただろうね。
名場面 アンとマリラの出会い 名場面度
★★★
 グリーンゲイブルズに到着すると、アンはマシュウに連れられて家の中に入る。程なく台所の方からマリラが出てくる、そして間髪おかずに「あら? マシュウ・カスバート、それ誰なの? 男の子はどこ?」に尋ねる。その声に驚愕の表情を浮かべるアン、「男の子はいなかったよ、この子しかいなかったんだ」とマシュウは答えるが、マリラはそんなはずはないと力説する。この子で間違いはないと駅長にも確認したとマシュウが言えば、スペンサー夫人に直接会わなかったのかと問い詰めるマリラ…そのやり取りの間黙っていたアンは遂に耐えきれず、鞄を落として力説する。「私がいらないのね、私が男の子じゃないからいらないのね」…驚きの表情のマリラ、そして沈黙の時が流れる。「そんな事じゃないかと思ってみるべきだったんだわ、今まで誰も私の事欲しがる人なんていなかったんだもの。何もかもあんまり素晴らしすぎて、長続きするはずないって考えてみるべきだったんだわ! ああ、私どうしよう。泣き出しちゃいたいわ。」と絶叫のように言い放って号泣するアン、「そんなに泣くことはないんだよ」とマリラが慰めるが「いいえありますわ、おばさんだって泣くわよ。おばさんがもし孤児で、自分をもらってくれる家に行ったのに、男の子じゃないから要らないなって言われたら、おばさんだって泣くわよ!」と絶叫する。それでも何とかなだめようとするマリラだ。
 マリラの困惑とアンの絶望が上手に描かれている。男の子が来ると信じていたマリラのアンを見たときの表情と、必死に言い訳するマシュウを責め立てるあの表情が何とも言えない。期待が外れて予想外の事態にぶち当たったマリラは、不器用な女性でもあるためにそれを包み隠さず正直に表すしかなかったのだ。そんな女性を上手に描き、見ている方も「うんうん、あるある」と思いつつ見ていた事だろう。
 対してアンの絶望もこれまた凄く、力の限り絶望するのである。サブタイトルはこの力一杯絶望するアンの様子を見たマリラの事を言っているのだろう。アンの力の限りの絶望はありきたりの言葉では消え失せるわけがない、話が変わって「お前を引き取る」と言わない限りは。だがこのシーンではマリラがそう言い出す空気はどこにもなく、視聴者も一緒に絶望に落とされるのだ。
  
今回の命名 「きらめきの湖」…正式名称「バリーの池」、アンはその名前じゃ物足りないらしく、自分で名付けたこの名前でゾクゾクっと感じた。
感想  エンディングのスタッフロール見て「そう言えば…」と思った。この回、アンとマシュウとマリラの3人しか出ていない。登場人物たった3人、でもそれを感じさせない不思議な話だったと思う。その理由はもうこの時点で3人の性格付けが完成している点が大きいと思う。私は「赤毛のアン」原作を読んでいないので何とも言えない部分であるが、恐らくこの3人に限って言えば原作の性格や設定を忠実に引き継いでいるのだろう。性格そのものが改変されたルーシー、原作の性格に味付けをしたアンネット、開始時の年齢設定を変更したセーラ、というように「世界名作劇場」では主人公について性格や設定が変えられていることが多く、特にその性格変更に合わせて物語の展開を味付けしていない序盤でちょっとポロが出たりもしている。特に少人数での会話を原作通りに引っ張ってきたりすると「あれ、展開と登場人物の性格が合わない」と感じてしまったりするのだ(序盤のセーラなんか身体の大きさが変と思うシーンもあるし)。原作をまだ読んでいない「ポリアンナ物語」ですらそう感じるシーンがあった。ここまで3人の会話だけで話を引っ張っておきながら、全くそのような破綻がないのはそういう意味だと思う。
 しかしグリーンゲイブルズに到着した後のアンの絶望の演技は今見ると感心する、これが当時新人の声優さんかと思うほどの迫真に迫った演技だ。この人がルシエンやラビニアやジミーやジョーという「おいしい役」でもって「世界名作劇場」シリーズの看板声優のうちの一人になるっていうのは本放送当時ではまだ先の話だが、早速その片鱗を見せるだけの事はやっていたのね。この独特の台詞回しは「赤毛のアン」紹介サイトによるとほぼ原作のままらしい、ちょっと読んでみたいけど今は忙しいのでパス。

第3章「グリーン・ゲイブルズの朝」
名台詞 「あんな娘は今まで見たことも聞いたこともないよ。マシュウの言うとおり、確かに面白い娘ではあるね。私までが、あの娘が次に何を言い出すか、待ち構える始末だもの。私にも魔法をかけるつもりなんだろうよ、兄さんはとっくにかかってしまったもの。でもマシュウはどうかしてるよ、女の子をうちに置いて何になるって言うんだね。」
(マリラ)
名台詞度
★★
 居間でアンがアオイや桜の木に名前を付けたと聞いたマリラが、その直後に物置で独り言を言う。その内容はアンによって自分と兄がどうなってしまったかという分析であった。アンがあまりにも突拍子のないことを言うので自分までがアンの次の一言を待ち構えるようになってしまったと自覚しているのだからすごい、その上でこのままだと自分も兄のようになってしまうと不安になっているのだ。だがそこはマリラ、本来どうするべきなのかを思い出して、女の子は引き取らないという決意を新たにする。
 でもマリラの誤算は、もう既に自分がその「魔法」にかかってしまっていることだ。アンが次に何を言い出すかと期待を込めて待ち構えるだけで、アンにとっては十分なのだ。だがマリラにはまだアンに優しくする理由が存在しないだけの話で、この女性はアンという少女にちゃんと興味を持ってしまっているのだ。マシュウにはその理由があった、今までになかった素直で無垢な気持ちを自分に思い起こさせてくれたことだ(本人に自覚があるかどうかはわからない)。だからマシュウはアンを置いておきたいと思うのだが…ここがこの時点でのマシュウとマリラの違いと言うことになるのだ。
名場面 グリーン・ゲイブルズとの別れ 名場面度
★★★
 午後、マリラはアンを馬車に乗せて外出する。無論男の子を頼んだのに間違って女の子が来てしまったため、スペンサーを通じてアンを孤児院に送り返すためである。マリラはマシュウは絶対に行きたがらないと判断し、自分で行くことに決めたのだ。
 マリラが馬車を出すと、マシュウが走りゆく馬車に向かって声を掛ける。ジェリー・ブートという男が夏の間農作業を手伝ってくれるという話だが、マリラは「孤児院から手伝いの男の子をもらおうと言い出したのは兄さんなんですよ!」と吐き捨てるように言うと、馬車を凄い勢いで出発させる。アンは振り返ってボニーに、雪の女王様に、そしてマシュウに別れの言葉を叫ぶのであった。
 マシュウは何かに取り憑かれたかのように馬車を追って駆け出す、だが追いつくはずもなく馬車が去っていった方向を見つめ、呆然と立ち尽くす。その後ろ姿が何とも言えない味を出している。しばらく立ち尽くした後、がっくりと肩を落としてマシュウは家へ戻る。その歩いてゆくときもたまにアンが去った方向を振り返るのが何とも言えない。
 アンをたった一日で失ってしまったマシュウの悲しみ、そしてナレーターの解説にもあるようになぜアンを家に置いてやるようにマリラを強く説得しなかったのかという後悔、これが見る者の心に強く突き刺さってくるシーンだ。マシュウはアンとの出会いによって、何か今までになかった物を得ていたに違いない。その正体は恐らく素直で無垢な気持ちという物だろう、だがそれを前面に出せず妹すら怖がってしまった自分の不甲斐なさにも腹を立てていたに違いない。
 しかしこの物語、考察しようと思った部分をみんなナレーターが先回りして言っちゃうんだよな〜。
 
今回の命名 「雪の女王」…寝室の外に桜の木。
「ボニー」…窓辺に咲くアオイの花、アンはこの二つの植物への命名時に、マリラに対して何故名前を付けるのかを語る。無論名前があれば親しみを感じるからだと言うことだ。。
 
感想  今回も3人だけで物語が進む。この段階では登場人物が少ないのに本当にテンポがいい、でも考えてみれば劇中ではまだ20時間くらいしか経ってないんだよな。1章はそれこそアンとマシュウが駅で出会ってから家に近付くまでの数十分の話だろうし、2章は家に着いてから寝るまでの数時間の話。今回は朝起きてから昼過ぎまでだろうからだんだん1章辺りの時間が長くなってる。劇中での時間の短さの割には、なんか色んな事が起きているように感じるから不思議だ。
 今日にもここを出て行かねばならないというアンの悲しみと、そとの風景のすばらしさのギャップを上手く利用してアンの気持ちを表現している。「世界名作劇場」シリーズではこんな複雑な表現しているのはあまり例を見ない。原作で言えば「小公女」の後半は「壁のこちら側と向こう側」という状況を強調して、セーラの現況とこれから起こりえる事のギャップが上手に表現されていたが、「小公女セーラ」になったときにこの設定は引き継ぎつつもこの構図はあまり強調しなかったもんなぁ。
 マシュウもマシュウなりに、アンを引き止めようと色々やったがやっぱ押しが弱かったってところだろう。その辺りはナレーターが解説してしまうが、その辺りの描写にもっと時間を割いても良かったのではないかと思う。

第4章「アン・生立ちを語る」
名台詞 「しかし、そんなアンの願いをよそに、馬車はスペンサー夫人の家があるホワイト・サンドに向かって、軽快に走り続けた。」
(ナレーター)
名台詞度
★★★
 嫌な事が起きると分かりきっているのに、無情にも時間が流れ去っていくという経験は誰にでもあると思う。現代人でも連休最終日とかにそう思うことはあるだろうし、私にとっては昨年後半は裁判所へ出頭する日がそうだった。その無情な時の流れという物をこのナレーションが上手に表現している、「スペンサー夫人の家に着いたら何もかもが終わってしまう」と嘆くアンの台詞に連動して、余計なことを言わずに馬車が刻々と目的地に近付いている事実のみを淡々と語ることで、アンの「スペンサー宅には着かないで欲しい」という願いと、その願いが遠からず打ち崩される事を表現しているのだ。
 しかし、当サイトの「名台詞欄」にナレーターの台詞というのも何度か上がっているけど、こんなに早く出てくるとは思わなかった。ここまで主要な登場人物は4人しかて出ていないのに、当欄に登場した人数は既に4話で4人…今から集計結果が楽しみだ。
名場面 アンが生い立ちを語る 名場面度
★★★★
…と名場面に選んだシーンはこの物語の半分以上を占める長いシーンだが、このシーンは序盤の名場面として外せないだろう。馬車でスペンサー宅へ向かうアンとマリラ、アンはいつものように自分の想像や空想を語ろうとするが、マリラはどうせおしゃべりするなら自分の生い立ちを語れとアンを促す。アンはその辛い話がどうしても嫌で、一時は拗ねたりするけれど結局は自分の生い立ちを語る。それも空想を語るときのような明るい声ではなく、落ち着いた声で。
 そのアンが語った内容よりも、それを聞いたマリラの反応だ。マリラは明らかに「聞いてはいけない話」を聞いてしまったのであり、明らかにそれを自覚している表情をしている。赤ん坊の頃に両親を亡くしてからまともな愛情を受けることが無かったこの少女の話に、驚いて同情してしまったのだ。その証拠にマリラがアンに聞いたのは、学校へ行ってなかったのかというありきたりの質問と、アンを引き取った里親達がアンに良くしてくれたのかと言うことだった。マリラはアンの暗い過去と明るい性格のギャップを目の当たりにして恐らく感じ始めているに違いない、「この娘に何かしてやれないか」「自分たちならこの娘にしてやれることがあるはずだ」と。
 これはマリラがアンを引き取る決心をするための重要な点となるだろう、テストに出てくるので覚えておくように(意味不明)。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  アンの生い立ちだ。今回語られたアンの過去の中で、どれくらいが現在BS−フジで好評放映中の「こんにちはアン」に反映されているのだろうか? アンの思い出話に出てきたトマスのおじさんが海に連れて行ってくれた話とかあるのかな? 「赤毛のアン」では「小さな黄色い家」をアンは見たことがないって事になっていたのね、早速「赤毛のアン」と「こんにちはアン」における設定の相違が出てきたぞ。
 今回も劇中で流れた時間が短い、グリーン・ゲイブルズからスペンサー宅のあるホワイト・サンドまで5マイルって言ってたから、だいたい8キロ位の道のりだ。馬車が時速10キロで走っていれば50分弱の時間でしかない。1章の駅からグリーン・ゲイブルズまでは20〜30分位の出来事だと思っている。4話進んで劇中時間が24時間経っていないのは珍しいんじゃないかな? でも「世界名作劇場」シリーズで劇中時間が一番短いのは「トム・ソーヤーの冒険」らしいが。

第5章「マリラ決心する」
名台詞 「恵み深き天の父よ…教会で牧師さんがそうおっしゃってたわよね? 恵み深き天の父よ、喜びの白い道や、きらめきの湖や、ボニーや雪の女王のことで厚くお礼を申し上げます。本当に感謝します。お願いの方はあんまりたくさんあって全部言うと時間が掛かるので、一番大事な物ふたつだけにします。どうか私がグリーン・ゲイブルズにいられるようにしてください。それから大きくなったら美人になれますように。お願いします。あなたを尊敬するアン・シャーリーより。かしこ。」
(アン)
名台詞度
★★★★
 就寝の時刻、アンの部屋にやってきたマリラは脱いだ服はキチンとたたむことと、就寝の前には必ずお祈りをするようアンに指示する。アンは就寝前のお祈りを知らないというのでマリラは跪いて自分が神に感謝していることや願いを祈るように言うのだ。そしてアンが言った祈りの言葉がこれだ。
 台詞自体が面白いのもあるが、この台詞にはアンの本音が詰まっている点で物語展開上も重要ではないかと思う。まずアンがグリーン・ゲイブルズがあるこの地をどれだけ気に入ったかという点、神への感謝として真っ先に思い浮かんだのがそれらの美しい景色との巡り合わせであることからすればよく分かるだろう。その結果として次にお願いとして出てくるグリーン・ゲイブルズにいられるようにして欲しいという思い、アンはこの地が気に入っただけでなくそこに住むマシュウとマリラも好きになったに違いない。最後の願いはアンが持つコンプレックス、赤毛でやせていてそばかすだらけの顔をなんとかして欲しいというのは目下彼女の永遠の悩みでもあるだろう。お願いが全部言うととても長いというのは他にどんなのがあるのかも気になって、視聴者に想像させるだけの余地もあって面白い。私としてはアンの大きな願いより、小さく些細なお願いの方が100倍面白いと思うな〜。
名場面 マリラの決心 名場面度
★★★
 アンが就寝すると、マリラは今に戻って来て呆れたような表情で「あの娘が今夜初めてお祈りをしたなんて信じられますか!?」とマシュウに問う。驚くマシュウにマリラは続ける、「何か適当な着物ができ次第、すぐに日曜学校へ行かせますからね。これからは忙しくなりそうです。ええ、世の中を渡って行くにはそれぞれ苦労を分け合わなくちゃならないけど、これまで気楽にやってきた私にとうとう番が回ってきたようですよ。」(←名台詞次点にしようかとも思った)と続ける。「そうさのう、お前の出番のようだな。」と静かに答えるマシュウの声に、マリラは遠くを見つめるような表情で答えるシーンだ。
 このシーンこそがマリラの決心というサブタイトルにあったテーマの部分であろう。独身で子供も作らず気楽に生きてきたマリラだが、当然彼女の人生設計には子供を設けて育てるなんてものは計画されていなかっただろう。ところがこんな形で当然女の子を育てることになり、ここまでは成り行きで物語を進めていたような感じだが、名台詞シーンでのアンの様子を見るにつけて自分が本気でアンを育てようと決心したのである。まずは日曜学校を通じて最低限の知識と常識を身につけさせること、これがマリラが決心したアン養育の第一歩だ。その決意を聞く兄マシュウの表情もいい、自分が気に入った女の子を引き取って共に生活するに辺り、この妹にならばしっかりと躾や教育を任せられるという確固たる信頼が表情に出ているのだ。今回までにこの二人にアンが引き取られることが決まった、次回はその決意を知ったアンの反応ということになるだろう。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  ケイトキターーーー!!! やっぱこの声、私の中ではケイト・ポップルなんで。それともう一人、タラちゃんキタですぅ、「世界名作劇場」でサザエファミリーの声ってあんまり無かったような。ルーシーとアンネットでマスオさんが出てたか。
 さすがにスペンサー宅でブルエット夫人を見てしまったら、この人にアンを渡してはならんと誰もが思うだろう。特に前話で出てきたアンの生い立ちを知っているならなおさらで、視聴者は「ありえねー」って思うわけだ。劇中のアンもそれを痛烈に感じているし、何よりもマリラも同じ思いだったのは大きい。ブルエットという人にあの短時間のシーンでよくぞあそこまで「人をこき使うタイプの人」しいうオーラを描いたと思う、あの人の性格付けをした脚本も凄いし、それを指示した監督も凄いし、何よりも演じている声優さんの演技も凄いだろう。もっとも原作に出ているとすれば元々のキャラクターがしっかりしているわけだが。
 スペンサー夫人宅を後にしてからのシーンは、マシュウ・マリラ兄妹とアンの対比が好きだ。もうアンを引き取る気まんまんでそれを前提に今後の事を語り合う兄妹と、まだアンがこの兄妹に引き取られることになったと内定したことを知らず、期待と不安の間を揺れ動くアンの心境の対比だ。この対比は物語の外から見ているからこそ面白く、劇中の人間であればそれを一番楽しんでいるのはマリラかも知れない。名台詞のシーンを見ていれば分かることだ。

第6章「グリーン・ゲイブルズのアン」
名台詞 「あんたはただのグリーン・ゲイブルズのアンじゃないの。何度私がコーデリア姫なんだと空想しても、そのたびにあんたの顔が見えるのよ。でも、どこの誰だか分からないアンよりも、グリーン・ゲイブルズのアンの方がずうっとずっといいわね。私はグリーン・ゲイブルズのアンよ、グリーン・ゲイブルズのアンよ! ダイアナ、心の友になってね!」
(アン)
名台詞度
★★★
 祈りの聖句を自室で一人で覚えるようマリラに命じられたアンだが、アンはいつの間にか聖句を覚えることをやめて自分がコーデリア姫になった妄想を始める。服装までは上手く妄想できても、髪の色と肌の色の妄想がどうしても上手くいかない。そんなアンが部屋の鏡のところまで走って行き、鏡の向こうの自分に向かって言う言葉がこの台詞である。
 アンは過去に何度もこの自分が「コーデリア姫」になった妄想をしたことがあったのだろう。そのたびに同じように髪の色と肌の色で躓き、同じように鏡に向かっては鏡の向こうの自分に「あんたはただのアンだ!」と叫び続けていたに違いない。だが今回は違う、「ただのアン」ではなく「グリーン・ゲイブルズのアン」という立派な称号が付いたのだ。自分が「ただのアン」ではないことに気付いたとき、アンは再びこの家のアンとして迎えられたことの喜びを噛みしめたシーンなのだ。台詞の後半ではアンは踊り、さらにまだ見ぬ少女を勝手に心の友にしてしまってその家へ向かって呼びかけてしまう。そんな普通なら考えられない事をしてしまうほど、アンは喜びで訳が分からなくなってしまっているのだ(ま、アンならこれは通常の行動かも知れないが)。
名場面 グリーン・ゲイブルズに置いてもらえることを告知される 名場面度
★★★★
 午前中はアンに対してまだ沙汰はなく、アンは不安で大好きなおしゃべりも妄想に耽る余裕もないままマリラに命じられた家事を淡々とこなす。だが午後になるとアンの胸は遂に限界に達した、「お願いです、私を余所にやってしまうのか、そうでないのか教えてください」と単刀直入にマリラに聞くのだ。「朝のうちずっと我慢していたけど、もうとてもたまらないんです」と震えながらに今の心境を打ち明けるアンに、マリラは表情一つ変えずに布巾を熱湯で洗うように指示したはずだがそれをやっていないと指摘する。アンは無言でマリラに指摘された布巾を洗う作業を済ませ、マリラに向き合う。この間の沈黙がアンの不安を上手に再現していていいと思う。アンと向き合ったマリラは一気に言う「私たちはあんたをここに置いておくことに決めたよ。つまりね、あんたがいい子になるように努めて、感謝の気持ちを見せるならばだよ」…アンはまず驚き、そして一瞬笑顔になったかと思うと今度はその顔を歪ませて涙を流す。この表情の変化だけでアンの喜びを再現したのは凄いと思う。それを見てどうしたのかと聞くマリラに、アンは「私、泣いてるの。どうして涙が出るのか分からないわ」と正直に言い、この喜びは嬉しいなんてものじゃないと力説してまた涙を流す。「私一生懸命やります。でも何で泣いてるのかしら?」と問うアンに、「それはすっかり興奮しているからだ」とマリラは冷静に答える。
 このアンの喜びの表現に尽きる。表情の変化だけで台詞が無くても視聴者にはこの瞬間をアンがどれだけ待ち望んでいたかわかるってもんだ。ま、それでも黙ってられないのがアンであって、ちゃんとどれだけ嬉しかったか力説してくれるのだが…。このマリラに「ここに置いておくことにした」と言われてから、驚き→笑顔→感涙と次々に表情を変化させるアンは序盤では屈指のシーンだろう。その前の「不安」の表情も含めて。
 

 
今回の命名 「心の友」…グリーン・ゲイブルズから見える丘の上の家に住むダイアナ・バリーの事。目も髪も黒くて頬は薔薇色というのはマリラ談。アンはまだ見ぬその少女を勝手に心の友にしてしまうが、本当の心の友になるのはまだ先の話。しかし「赤毛は私だけでたくさん」って…。
感想  このアンがマシュウとマリラに引き取られると決まるこの回までが、「赤毛のアン」のプロローグ的な部分であろう。次回予告を見れば分かるとおり、次からはいよいよアンが日常の中で色々と「事件」を起こしてゆく物語へと変わってゆくようだ。ここまではアンがグリーン・ゲイブルズのマシュウとマリラにどのようにして引き取られたかを丁寧に描いてきたと思う。登場人物も最小限に減らし、1章と5章以外はアンとマシュウとマリラの3人だけで話を進めるという徹底のしようだ。
 そうそう、よく理由が分からないままなのはなぜマシュウもマリラも、アンに自分を呼び捨てで呼ぶように頼んだかだ。当然アンは驚くわけで、なんとかおじさんとかおばさんという当たり障りのない呼び方を許してもらおうと懸命になるが、二人はこれを譲らない。ひとつの想像としては、アンを単に子供として受け入れたのでなく、対等の立場の人間として扱おうとしていたのかも知れない。特にアンが過去に引き取られた家では家族と言うより使用人同然の生活をしてきたことをマリラは知っている、これはマリラなりのアンに対する愛情表現なのかも知れない。一方マシュウも理由は「アンと対等」というところだが、マシュウの場合は父性愛としての愛情表現だろう。
 しかし、アンが話した「ケティ・モーリス」の話を聞いて私もマリラと同じ感想を持ってしまった。妄想と現実が混同されてしまっているのであり、ちょっと怖かったなぁ。このエピソードも「こんにちはアン」に出てくるのかな?

第7章「レイチェル夫人恐れをなす」
名台詞 「少しぐらいかんしゃく持ちでも、素直だったらそれでいいんだよ。嘘つきやずるい子供よりはどれよりましか知れやしない。ねぇ、マリラ。あんた方がこの子を引き取ったからといって、もうお気の毒様なんて思わないよ。あっはははははは…」
(レイチェル夫人)
名台詞度
★★★
 アンの謝罪を受けたレイチェル夫人が、「小さい頃は赤毛だったのに大きくなったら綺麗な金褐色に変わった人がいる」と励ましの言葉をかけてアンを喜ばせた後、アンとマリラに語る台詞だ。これを聞いたマリラは驚きの表情でアンとレイチェル夫人を見つめる。
 今回の話ではアンの性格がテーマだったと見ていいだろう。アンという少女の短所と長所、前半で短所を浮き彫りにして、アンが自分でそれを理解してラストでアンの長所を描き出す。その中でアンの短所(かんしゃく持ち)を引き出し長所を語る人物こそがレイチェル夫人で、この台詞はアンの性格の長所である「良くも悪くも素直である」という事を示すのだ。そしてマシュウとマリラはアンのそんな長所を見抜いたからこそアンを引き取ったのだと理解したのだ。
 レイチェル夫人がアンが素直だと認めたのは何処かというと、あの長い謝罪の台詞だろう。アンが「心から悪いと思っている」という事を表現するために力の限り謝罪するのだが、その言葉のひとつひとつを取ってみても嘘やゴマスリはなく、自分の心の中の言葉で精一杯語ったのがレイチェル夫人に通じたのだ。
(次点)「女っていうものは、みんな強情でいかん。」(マシュウ)
…マシュウがアンとレイチェル夫人に起きた事件を聞いた感想だ。この台詞に出てくる「女」っていうのは、恐らくマリラやレイチェル夫人だけでなく、アンをも指して言っているのだろう。そしてマシュウはアンに強情になって欲しくないと思いつつある行動に出る。
名場面 帰り道 名場面度
★★★★
 アンがマリラに連れられてレイチェル夫人のところへ謝罪へ行った帰り道、二人は語り合いながらグリーン・ゲイブルズへの道を歩いていた。道の向こうにグリーン・ゲイブルズが見えてくると、アンは突然マリラの手を握り「家へ帰るって嬉しいものね、あれは私の家よね。ああマリラ、私本当に幸せだわ」と呟く。マリラはどう反応していいか分からず、一瞬アンを驚いた表情で見つめた後は黙って家へ向かう。今回のラストシーンは手をつなぎ、寄り添い歩く二人の後ろ姿だ。
 アンはマリラの手を握らずにはいられなかったのだろう、アンは今回の一件を通じてマリラからしっかりと「愛情」を受け取ったからだ。レイチェル夫人とあのような事件を起こした自分に対し、適当にあしらったり甘やかして終わりではなくちゃんと自分と向き合った上で自分が進むべく方向を示してくれたマシュウとマリラの愛情という物をしっかりと感じたに違いない。この人達なら今までの里親達とは違いちゃんと愛情を持って自分と向き合ってくれる「親」になり得るとアンは心の底から感じたのだ。そう思ったらマリラの手を握らずにはいられなかった…序盤での感動シーンだ。
  
今回の命名 新たな命名無し
感想  レイチェル夫人言う言う、アンも負けずに言う言う。笑っちゃいけないまじめな話なんだけど笑えてしまう、確か「赤毛のアン」しそういう話が多かったと子供の頃に見た記憶が戻って来た。「ひどく痩せぽっちで器量が悪いんだね」「それにひどいそばかす、それに髪の赤いこと、まるでニンジンだね」…確かにそりゃないよ、もしアンが自分の娘で近所のおばはんにこう言われたら「そりゃ言い過ぎだ」と抗議すると思う。「下品で失礼で心なしの人」「デブで太って不格好で、多分想像力なんかひとっかけらもないんだろう…」…アンも負けてないけど、これを自分の娘が近所のおばはんに言ったら、たとえあんな事を言われた直後だとしてもやっぱ「そりゃないよ」と叱るだろう。とまあこの二人のやり取りはどう考えてもどっちもどっちなんだけどね、やっぱこうなっちゃったら子供とその親が引かないことには子供にとって良くないのは目に見えてる。だからマリラが取った行動も、レイチェル夫人がとった行動も正しいと思うのだ。
 マリラはそんなアンにちゃんと向き合うのだ、アンの気持ちを理解した上でレイチェル夫人に謝罪するように促し、それでもアンが言うことを聞かないとなれば閉じ込めるしかないというのは理解できる。ただしこれ、現在の日本でやっちゃダメよ。たとえ食事をキチンと与えていようが、これは「監禁」という名の立派な児童虐待に当たるんだって。あ〜、嫌な世の中だ。
 マシュウの行動も好きだ。こっそりとアンの部屋へ行って、アンにちゃんと謝罪するように説得するのだ。こっそりとやってきたというマシュウの行為はアンの素直な気持ちを呼び覚ますという意味で重要で、やっぱマリラはマシュウで持っているしマシュウはマリラで持っているとも思えるシーンだ。こうしてアンは、マシュウとマリラがキチンと向き合ってくれた事で正しい行動へとかり出されていく。ここまでのアンにこういうことはあったのか? その答えは「こんにちはアン」に期待だな。
 しかし、今回はレイチェル夫人が加わっただけ。相変わらず登場人物が少ないままだ。ま、学校へ行くようになれば賑やかになるんだけど。

第8章「アン 日曜学校へ行く」
名台詞 「そうとも、友達なんてそう簡単にできるものじゃないよ。」
(マシュウ)
名台詞度
 日曜学校で友達に恵まれなかったとマリラに報告するアンに、マシュウはこのように声を掛ける。アンが日曜学校が楽しくなくて落胆しているのをもう既に見抜いているのか、それともさしあたりのないことを語っただけなのかよく分からないが。「そのつもりで行ったけど上手くいかなかった」と語るアンとセットで、マリラに二人は性格的に似ていないのにそういうところで気が合うんだと評される。
 この台詞の後、マシュウはマリラとレイチェル夫人の会話を聞いて、マリラにアンとダイアナを引き合わせることを提案するのだが、マシュウはアンの孤独を誰よりも強く感じたに違いない。見知らぬ土地で頑張っていこうとしているアンに何よりも必要なのは「友」だと言うことを判断していたのだ。
 さらにダイアナはアンに合うのではないかとも言う、マシュウは「人を見る目」はありそうだ。
名場面 ラストシーン 名場面度
★★
 物語の最後、小川のほとりで一人で拗ねているアンのところへマリラが行き、アンに声を掛けるとアンはマリラに抱きつく。その後二人並んで家に帰るが、家の前で待つマシュウを見つけると、彼の胸に飛び込んで行く。台詞もなく挿入歌がBGMにかかるだけのシーンだが、画面を見ているだけで嬉しくさせられる。
 このシーンで3人はどんな会話をしたのだろう。その想像力をかき立てられるシーンだ。恐らく台詞なしのシーンになった理由の多くは、「残り時間が足りない」からだろうけど、ひれを上手に処理したと思う。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  「私は風になって教会へ飛んでいこう!」とアンが叫んで走り出したシーンでは、脳内でアンが「きーん」って言っているように聞こえてしまう。これはかつて再放送を見たときも同じ感想だったのだが、やっぱあの走り方はどう見てもアラレちゃんにしか見えない訳で…ってそんなことはどうでもいいや。
 今回はアンとマリラのちょっとした対決だ、人前に出るならきれいに飾りたいアンと、人前だし教会だからこそ質素な服装で十分と考えるマリラ。私はどっちかってえとマリラ側の人間なんで、マリラの言い分の方が理解できた。でもアンの「流行に乗りたい」という気持ちはやっぱ女の子なんだなー。
 それにしてもアンが日曜学校で周囲の人々に受け入れられなかった後の思いは秀逸だと思う。期待に胸を膨らませ、袖も膨らんでいるつもりで行ったのに、何をどう間違ったのかどうもうまく行かない。いやアンは何も間違って無くて、本当は誰もアンのことを知らないのに勝手に噂するのが悪いんだが。いずれにしろここでアンが周囲に受け入れられなかった事実は、次回に向けての伏線になってゆく。アンは「友」の存在を強く望むようになるのだ、そしてその必要性を少なくともマシュウが認めているのだ。
 さて、いよいよ次は満を持しての「心の友」ダイアナの登場だ。

第9章「おごそかな誓い」
名台詞 「あの娘のいいところはね、ケチでないところですよ。私、嬉しくて。ケチんぼうな子供くらい嫌なものはないですからね。驚くじゃありませんか、あの娘が来てからまだ2・3週間しか経ってないのに、もうずうっと前からいるような気がしますよ。あの娘のいない家なんかとっても考えられません。でも兄さん、だから言ったじゃないかなんて顔はしないで下さいよ。そんな顔は女からされても嫌だけど、男からじゃ我慢できませんからね。」
(マリラ)
名台詞度
★★★★
 夕食後、皿洗いをしながらマリラが兄にアンと暮らした感想を述べる。この日のダイアナとの付き合い方を見て、さらにその後のアンの発言を聞いて、マリラはアンが自分が大嫌いなタイプの子供ではないと分かって素直に喜んでいる台詞なのだ。明るくて心が広くて何よりもケチではない、これがマリラが描いている理想の子供像なのだろう。これまでに「明るい」ことだけはマリラには判断がついていたが、他の部分は判断できずにいた。それはアンが同世代の子供と接するのを見ていなかったからだ。アンがダイアナという友人を得て、その友人といろいろなものを分け合って共に生きようとする姿を見て、まりらはやっとアンが心が広くケチでない少女だと判断することが出来たのだ。
 そしてマリラがアンの性格を自分にとって理想の子供の性格だと分かって喜び、さらに「アンがいない生活には耐えられない」と発言するに至って多くの視聴者が「だから言ったじゃないか」と思うだろう。そのタイミングを見計らったかのように「でも兄さん」以降の後半部分…この台詞が上手くできるのはそうやって視聴者の心理をうまく使っている点だ。マリラはマシュウにこの台詞の後半部分を言っている設定だが、実はこの台詞は視聴者に向けて言っているのであろうと思われる。
名場面 おごそかな誓い 名場面度
★★★★★
 これまでの人生経験、さらにグリーン・ゲイブルズに来てからの事件を経てアンは友を持つことを強く望むようになっていた。それもただの友ではない、「心の友」という何もかもを話せる相手だ。アンは隣家のダイアナの話を聞き、彼女が心の友になってくれるのかどうかずっと気にしていた。
 一方のダイアナも、隣に一風変わった女の子が引き取られてきて興味を持っていた。アンの武勇伝は人づてにいろいろと耳にしており、この娘とだったら仲良くなれるかもしれないと感じていたようだ。つまり互いに出会う前から「親友になれる予感」というものを持っていたのがこの出会いの前提であって、アンもダイアナも目の前に現れた少女が期待していた通りの少女だったことですぐに心を開く。
 庭で二人きりになったアンとダイアナ、「あなた、私を好きになれると思う? 私を心の友にしてもいいくらいに?」とアンが聞けば、ダイアナは「かれると思うわ」とすぐに返答する。喜ぶアンに「遊び相手が出来たら楽しいに決まっている」「他に一緒に遊べるようなあんなの子は近所にいない」とダイアナは続ける。するとアンは身を乗り出すようにダイアナに迫り、「永久に私の友達になると宣誓してくれる?」と問うアン。「それならしてもいいわ」とダイアナが答えたことで、この「おごそかな誓い」となる。
 本当は流れている水の上で誓いを立てねばならないのだが、庭には水の流れがないので花壇の通路を水の流れに見立てて宣誓をする。「太陽と月のあらん限り、我が心の友ダイアナ・バリーに忠実なることを、我厳かに誓います」。しばらく無言で見つめ合う二人、しばらくするとアンは今度はダイアナが誓いを立てるように促す。「我が心の友アン・シャーリーに忠実なることを、我厳かに誓います」…今度は笑い合う二人。ダイアナが「あなたって変わっているわね、でも本当にあなたが好きになれそうだわ」と言うと二人は喜んで草原へと駆け出す。
 この二人がただの友で無いことを示す重要なシーンである。何よりも「友」を欲していた二人が、その友を得て喜び合うのだ。またこの変わった宣誓に、驚いた表情も嫌な表情ひとつ見せず応じたダイアナのその部分だけで、この娘がアンと性格の合う少女だと誰にでも判断できるだろう。こうして世界の文学史上稀に見る名コンビが誕生したのだ。
 
今回の命名 新たな命名無し
感想  「赤毛のアン」初回視聴は小学2〜3年生の時の本放送、つまり現在の私の娘と同じ歳のころに見たことになる。その時もそうだし、現在見てもやっぱ解けていない謎をここで語ろう。それは「ダイアナの髪型ってどうなってるの?」ということである。恐らく髪を中心で二手に分け、アンのように三つ編みにしているのだろうが、これを後ろから前へ折り返しているのか前から後ろへ折り返しているのかというのが一つ目の謎。二つ目はダイアナを印象付ける大きな赤いリボンは、アンと同様に三つ編みにした髪を固定する役割を持つのか、それとも折り返した髪を固定しているのかという点である。それが分かれば一度半分ジョークで、娘を同じ髪型にしてみたいのだが。
 それはともかく、私が好きな1話でもあるし、またよく覚えている1話でもある。3話位まではほぼ完璧に覚えていたのだが、その後は殆ど記憶がなく、この回だけ強烈に印象に残っているというのが正しい。何が強烈かって、やっぱあのおごそかな誓いであろう。初対面の人といきなりあんな儀式をしてしまうなんて、子供の頃も凄い人だと思って見ていたよ。
 またそけだけではない、ダイアナの母もアンが気に入った様子で安堵できる回でもあるし、何よりもレイチェル夫人との事件を親子共々知っていたためにアンの心配が杞憂となる部分も面白い点である。さらにアンに土産を買おうとして菓子屋に入ったはいいが、そこでオロオロするマシュウの姿も面白くていい。
 またアンの「決してケチではない性格」も見えてくるのであるが、これについては名台詞欄で語ったとおり。この回は様々な発見や面白いシーンが重なっていて、しかも物語展開上重要なダイアナの登場という序盤のキーポイントである回なのは間違いない。
 しかし事情があるとは言え、付き合いを重ねてから共通点を見つけて親友になるのでなく、親友になるのが前提の出会いというのは変わっていて面白いぞ。
 

第10章「アン・心の友と遊ぶ」
名台詞 「私、心の友のために『はしばみ谷のネリー』を歌うわ! 覚えてね。」
(ダイアナ)
名台詞度
★★★★
 アンが日曜学校で誰にも相手にされなかった事を語ると、ダイアナはそれは誰もアンを知らなかったからであり次からは自分が紹介すると宣言する。それに対してアンが今までの友達はみんな想像の中にしかいなかったこと、それが全て過去のことになって今はダイアナという友がいると喜んで語ると、ダイアナは立ち上がりこう言って歌を歌い出すのだ。
 ダイアナはアンの過去について深い同情をするとともに、アンにとって自分がいかに必要な存在であるかと言うことを理解したに違いない。親もなく今まで友というものを持ったことがないアン、彼女に自分が出来ることは「心の友」になることしかないのだ。またちゃんと菓子を半分ずつ、いや妹の分まで分けてくれたアンの心の広さに感動し、この日一日のいろいろな思いを込めてダイアナはアンに歌を捧げたのだろう。
 また最後の「覚えてね」の一言には、アンとこの歌を一緒に歌いたいという願いが込められている。アンは前話で「宣誓」という形でダイアナとの友情を確認したが、ダイアナにとっての親友としての確認は一緒に歌う事なんだろう。
名場面 気絶ごっこ 名場面度
★★★
 いや〜、今回の二人の遊びの時間はどれを取っても面白すぎで当欄でどこを抜き出そうか真剣に迷った。純粋に見ていて一番面白く、印象に残った遊びを選ぼうと思ったらこれになった。アンがダイアナから借りて読んだ小説にはよく気絶する人が出てくるらしい、アンはそれを読んで「一度気絶をしてみたい」と言い出す、そして二人で気絶の真似を始めるのだ。アンは最初、真剣に倒れてしまって腰をしたたかに打つが、ダイアナは腰を打たないようにそっと倒れるところなんかリアルでいいと思う。しかし気絶の真似をして遊んだキャラなんて、日本アニメ史上滅多にいないのではないか?
 
今回の命名 「妖精の鏡」…草原で見つけた「つりランプの欠片」、妖精が虹を集めて作ったというのはアンの想像。
「アイドル・ワイルド」…ダイアナの遊び場である草原の樺の木立、「緑の屋根を頂いた大きな東屋」と言うのはアンの感想。
「ドライアドの泉」…森の中にあるきれいな泉、木の妖精の名前と知ったダイアナは、アンは名付けの名人と感心する。
  
感想  いや〜、見ていて楽しい回だった。二人が遊んでいるだけの話なのだが、別に何がどうなるわけでもなく、二人がピンチになったり冒険したりするわけでもないのにこんなワクワクして物語に引き込まれるのだから凄い。「南の虹のルーシー」でルーシーとケイトがウサギを追いかけているシーンと同じで、それだけで面白くなるようにキャラクターの性格付けが考えられているのだ。ままごとから気絶まで、二人の遊びは奇想天外で面白い。アイドル・ワイルドでのままごとなんか、アンがちゃんとドアの開け閉めを徹底するほどその世界に入り込んでいるのに、ダイアナはたまに現実に戻ったりしているのが見ていて可笑しい(ま兄妹の分のお菓子をもらえば普通は現実に戻るが)。
 今回の展開なんて名台詞欄に書いた部分だけなのだが、これだけのために丸々1話使って引っ張る引っ張る。だけど冗長になることもなく、ダイアナがアンを心の友にして良かったと心の底から思うまでを上手に描いていると思う。
 それにしても、「心の友」っていうと思わずジャイアンの顔が頭に浮かぶのは私だけじゃないだろうなぁ。

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