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…物語は何故か、1970年大阪万博の雑踏から始まる。
名台詞 「なにここ?」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 記念すべき本作品の第一声、厳密に言うと雑踏の人々の声が先だが、環境音ではなく台詞としての第一声はしんのすけのこの台詞だ。それは名場面欄に書く突然の何が起きているかよく分からない光景に対する、視聴者の素朴な疑問を主人公しんのすけが代弁するところから物語が始まっていることを意味する。
 この台詞に対するみさえの返事は「万博」とたった一言だが、この間が上手く考えられていて、この親子間(演じている声優間でもいい)にあるあうんの呼吸を感じさせてくれる。
 現在の5歳児が突然1970年の大阪万博に放り込まれた驚きと戸惑いを、上手に再現しているとも感じることが出来る。何が何だか訳が分からず、興味も持てずにぶっきらぼうに質問を投げかけるというのは、このような状況に置かれた小さな子供によく見られることなのだ。そんなリアルな「子供のいる風景」を余すところ無く描いているのが、アニメ版「クレヨンしんちゃん」の醍醐味の一つであることは疑う余地はないはず。この台詞もそんなシーンの一つだ。
名場面 大阪万博(芸術要素・ノスタルジー要素・ギャグ要素) 名場面度
★★★★
 映画が始まると、画面に広がるのは誰がどう見ても大阪万博。いや、子供が見たらそれこそ名台詞欄のしんのすけと同じ反応をするしかないだろう。現在の春日部市が舞台のはずの「クレヨンしんちゃん」に、1970年の大阪万博というシーンは非常に不釣り合いで、視聴者は物語との関連性が見えずに混乱する。だが視聴者を混乱させたまま物語は一方的に進んで行くのである、みさえがしんのすけに説明するという設定で大阪万博の詳細を説明し、外国人を見る事自体が珍しかった当時の人々のことを紹介したり、早速コンパニオンに声を掛けるしんのすけといった「いつものギャグ」と展開したあとにやっとしんのすけが「なんで万博にいるの?」という視聴者の次なる疑問をみさえにぶつけてくれる。ところがその答えが出ないうちに「万博会場に怪獣が現れる」という次の謎なる展開へと流れてしまい、また視聴者は頭を悩ますことになる。悩んでいるうちに野原一家は「万博防衛隊」に変身したかと思うと、なんら疑問が解決しないままタイトルとオープニングテーマとなってしまう。
 とにかく謎なのである、謎を説きたいと思う視聴者の思いとは違う方向へ進む物語の展開…これは臼井儀人さんが描くギャグでありがちの展開でもある(あるキャラクターの謎を説きたいのに話が横道に逸れたり、謎を無視して無理矢理物語を展開させる)。そのありがちな展開に視聴者が巻き込まれるという壮大なギャグでもあるのだ。つまり視聴者は何で1970年なのか、なんで大阪万博に野原一家がいるのかを知りたいのに、物語はそんなことお構いなしに展開し始めるのだ。視聴者が分かるのは、物語の展開に「大阪万博」が必要だという程度のことに過ぎない。
 また、一定の世代から上の人はこの万博シーンが良くできていることに感心するらしい。私にとって大阪万博は「生まれる前の出来事」なのでよく分からないが、知っていることに言わせると雑踏などの環境音から会場の様子まで本当によく出来ているらしい。実はこの物語、これら昔のシーンの出来がよくないと物語が成り立たないのである。このシーンが上手くできているからこそ、この映画は名作になったのだ。
研究 ・大阪万博
「1970年、大阪で日本万国博覧会、EXPO’70が開催された。『人類と調和と進歩』をテーマに、世界77カ国、民間企業・団体が多数参加し、半年間の期間中の入場者はなんと…6421万人!? げーっ、今の日本の人口の半分以上じゃない! これは世界の万国博覧会史上最高記録であり、日本史上最大のイベントと言えるだろう。」
 劇中でのみさえの説明を引用するとこんなもんである。日本が高度経済成長に湧いていた1970年に国内で行われた今のところ最大のイベントといって良いだろう。私も年配の人に生まれた年を聞かれると、「万博があった年」と答えると話が通じることが多かった体験がある。ものの本によると当時、家族で万博見物に行くのは一家の一大イベントであり、それを理由に子供が平日に学校を休むなんていうことにも寛大であったという信じられない話もある。万博に合わせて交通機関も整備され、東京オリンピックで開通した東海道新幹線が大阪万博を機に全列車を16両編成にアップグレード、現在の大量輸送に繋がる基礎が出来上がったきっかけとなった。
 国際博覧会は、その後1975年に沖縄(沖縄海洋博)、1985年に筑波(筑波科学万博)、1990年に大阪(大阪花博)、2005年に名古屋(愛・地球博)と計5会開かれたのは多くの方がご存じの所だろう。私は1970年と2005年以外の3つに行ったが、沖縄は5歳の時でハッキリとした記憶が無く、花博は日程の都合であまり見られなかった。1985年の筑波が最も印象に残っていて、また環境問題などに臆せず、偽善にも走らない真の科学技術の神髄に大いに酔った経験がある。
 物語はこの大阪万博から始まるが、現在劇のはずの「クレヨンしんちゃん」でなぜ大阪万博が出てくるのか、これはオープニングが過ぎればすぐわかる。

・「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」のオープニング
「ダメダメのうた」 作詞/作曲・LADY Q 編曲・森 俊也 歌・LADY Q/野原しんのすけ/野原みさえ
 このオープニングは、当時のテレビアニメ版で毎週流れていた歌である。曲の内容は大人が何でもかんでも「ダメ」だと言う事に関して、しんのすけが子供の気持ちを訴える内容だ。大人は子供の安全を守り、真っ直ぐなよい子にするためによく行うのが「ダメ」「いけません」という言葉で言葉を縛る行為だ。これには私も心当たりがあり、振り返って子供の立場から考えると確かにこの曲のしんのすけの気持ちだったのを思い出すのだ。自分にも思い当たる内容だからこそ、真っ先に大人達が叩きそうな歌詞でも存在していられたに違いない。
 曲よりもこのオープニングで印象に残るのは、背景に流れる粘土アニメだ。シロの顔をした「太陽の塔」の上にあるリングで、しんのすけとぶりぶりざえもんがプロレスをやるというものなのだが、これがコミカルで面白いのである。何度かピンチに陥りつつもなんとかしんのすけが勝利するのだが、チャンピオンベルトを締めてガッツポーズを出すのは最後に突如現れたひろしというのがオチとしてとても面白い。

…オープニングテーマを挟んで、その大阪万博会場に突如巨大怪獣出現。しんのすけ・みさえ・ひまわりは「万博防衛隊」に変身して戦いを開始、そんな中、ひろしだけは何故か戦闘機に乗って現れる。怪獣の火炎攻撃によって火焔に包まれる大阪万博会場、話題のソ連館やアメリカ館も破壊される。
名台詞 「あ〜っ! 月の石が〜っ! 俺まだ見てないのに〜っ! おのれ〜っ、もう許さんっ!!」
(ひろし)
名台詞度
★★★
 万博会場における怪獣との戦いにおけるノリで出てきたように感じるこの台詞だが、後になって振り返ると物語の設定上深い理由があったことに気付く。ここでバラすとこの物語を先回りしてしまうことになるで、まだ見ていない人がこの考察を読む事を考慮してここでは解説は控えておこう。
(次点)「あ〜、恥ずかしかった。」(みさえ)
…見ているこっちも恥ずかしかった>「ひろしSUN」。
名場面 しんのすけ乱入(サスペンス要素・ギャグ要素)。 名場面度
★★★
 大怪獣が暴れ火焔に包まれた万博会場を守ろうと、しんのすけとみさえは銃で応戦し、ひろしは戦闘機を使って果敢な攻撃を繰り返す。アメリカ館を破壊した怪獣に接近攻撃を仕掛けたひろしだったが、乗っていた戦闘機の主翼が怪獣に破壊されて墜落する。その墜落する機内でひろしがボーズを取る…って、これ本当に「クレヨンしんちゃん」なのか?と多くの人が感じるだろう。
 すると空からウルトラマンに似た巨体ヒーロー「ひろしSUN」が現れ、怪獣に怒りの一蹴を食らわす。「ああ、ひろしSUNが来てくれた!」とはしゃぐみさえに、「ただの父ちゃんだぞ」と白けるしんのすけ、ひまわりも喃語を駆使して白けている。そう、そのヒーローは顔がひろしまんまなのだ。「頼むわよ〜」と必死に場を盛り上げるみさえと白けたまんまのしんのすけをよそに、「ひろしSUN」は怪獣との格闘技を繰り広げて戦いを優位に進めるのだ。すると突然しんのすけが「父ちゃんばかりずるい、オラにもやらせろっ!」と叫んで走り出し、突然サイズも巨大になって怪獣の腹の上に乗って暴れ出す。「ひろしSUN」だったはずの巨大ヒーローは突然ひろしに戻り、しんのすけを制止する。「あ、すいません、ちょっとカット」とひろしが言うと、場面の角度が変わってここまで出てきた大阪万博の景色はスタジオセットだったことが判明し、どうやらひろしを主役にした映画を撮影しているという現況が明らかになるのだ。撮影クルーの背後にはここまでに出てきた「通りすがり」が全員並んでる。
 これで視聴者は、なんで唐突に大阪万博が出てきて、その時代にはいないはずのしんのすけが会場内を歩いていた謎が解けた瞬間でもあるだろう。このような謎を「クレヨンしんちゃん」という出てくるキャラクターの特性(主役が幼児)を活かした設定で明らかにしたという点で印象に残るシーンだ。
 しかし、「何故大阪万博なのか?」という謎が解けたと思うと立て続けに疑問が湧くだろう、今度は「何故ひろしが主役の特撮ヒーロー映画を撮影しているのか?」という謎である。さらにこのひろしの撮影が終われば、次はみさえを主役に「魔法少女みさリン」がの撮影が始まるのである。なぜこの夫婦が主役の、しかも古い子供向け番組みたいなのを撮影しているのか、新たな謎を突き付けてすぐに設定を明かさないもどかしさが、この物語の冒頭を否応なしに盛り上げるのだ。
研究 ・スーパーヒーロー「ひろしSUN」
 物語は冒頭の大阪万博シーンに続き、この大阪万博が怪獣に破壊されるという衝撃的なシーンへと進んで行く。なんで大阪万博なのか?という視聴者の疑問とは無関係に物語が進行し、名場面欄に書いたように唐突に謎が解けて次の謎へと繋がってゆくテンポの良さと、謎が謎を呼ぶサスペンス的展開によって否応なしに盛り上がる。
 この冒頭シーンで最も笑劇的な活躍をするのは、怪獣と戦う巨大ヒーロー「ひろしSUN」だ。身体はウルトラマン、顔は野原ひろしといういかにも臼井儀人さんが描きそうなヒーロー登場と、ひろしを必死に盛り上げるみさえと「ただの父ちゃん」と白けるしんのすけの対比は、まさに「クレヨンしんちゃん」の王道的なパターンでもあるだろう。
 ではこの「ひろしSUN」の詳細を考察してみよう。まずその身長であるが、「ひろしSUN」が大阪万博のシンボル「太陽の塔」からエネルギーを得ているシーンから推測できる。「太陽の塔」の高さは70メートル(資料によって65メートルと70メートルと違いがあるが、65メートルというのは「顔」や突端部を含まない高さのようだ)、だが「ひろしSUN」は万博当時に「太陽の塔」周囲に設置されていた「大屋根」(高さ30メートル)の上に載っている。従って「ひろしSUN」の立ち位置から見た「太陽の塔」の高さは40メートルということになる。このシーンをよく見ると、「ひろしSUN」と「太陽の塔」はほぼ同じ高さで描かれていることが分かる(突端部より僅かに低い)。つまり「ひろしSUN」の身長も40メートル程度、厳密に言えば38〜39メートル程度と見るべきだ。昭和40年代のヒーロー「ウルトラマン」の身長が40メートルという設定なので、これに合わせたと見るべきだ。ちなみに体重が推測できる資料はない。
 続いて「ひろしSUN」で目立つのは、腹部についている菱形のマークだ。これは「ウルトラマン」でいうところのカラータイマーだと思われ、エネルギーを使い果たすと点滅して電子ブザーのような音がするようになっている。この部分はエネルギー補給口や、ビーム発射口も兼ねているようだ。
 エネルギーは太陽エネルギーのようだ。劇中では「太陽の塔」の顔を太陽炉とし、太陽光を腹部の菱形マークに集中させて浴びることでエネルギーを得ていた。エネルギーが一定以上だと、この部分から「エキスポビーム」という破壊ビームが発射される。このビームは破壊だけでなく、使い方によっては破壊された物を元に戻すという効果もあるようだ(原理は追求しない)。
 この「ひろしSUN」、みさえの説明によると「宇宙からやってきた無敵のヒーロー」とのこと。宇宙と言ってもとてつもなく広いが、そのどの辺りから来たかはどうも考えられていないようだ。しかし、こんな劇中劇のネタキャラの考察でこれだけの文章を割くとは、つくづくアホだ(だが「クレヨンしんちゃん」の考察ならばこの程度がいいかと)。

…万博ヒーロー「ひろしSUN」に続いて、次はみさえの番となって「魔法少女みさリン」の撮影が行われる。これらの撮影は野原一家が訪れている「20世紀博」のアトラクションだったのだ。夫妻は20世紀グッズを売る店に入り浸り、しんのすけとひまわりは託児所に預けられる。託児所には風間君、ネネちゃん、マサオ君、ボーちゃんといったいつものメンバーがいた。
名台詞 「ねえ、この20世紀博ができてから大人達変じゃない? いくら子供の頃が懐かしいからって、あのはまり方は普通じゃないよ。(中略)だろう? うちのママも時々子供みたいな事言うんだ。ママ達だけじゃなくて、先生達もここにはまっているみたいだし。懐かしいって、そんないいものなのかなぁ?」
(風間)
名台詞度
★★★★
 20世紀博の託児所に集まった「かすかべ防衛隊」の面々とひまわり、どうやら彼らはこの場所で何度も顔を合わせていたようだ。みんなが揃ったところで、このメンバーの中で最も頭が良い(と思われる)風間君がこのような台詞で今起きている出来事と、自分達が持っている不安と疑問を皆にぶつける。
 もちろん、この台詞はここまで遠回しに「20世紀博」という今作品の舞台の存在をハッキリさせた後に、劇中でどんな問題が起きているのかという事が明かされる重要なものである。その内容は周囲の大人達が「20世紀博」にどっぷりとはまり込んでしまい、おかしくなっているという事実だ。「(中略)」の部分でマサオが自分の母親が「一人で着せ替え人形で遊んでいる」という異常を報告し、ネネは自分の母親もおかしいことを告げる(「いつものママじゃなーい(泣)」じゃないのか?)。さらにこの台詞が語られている最中、それぞれの母親が店内で出くわすシーンだけではなく、組長園長先生が嬉しそうに売店の品物を眺めているシーンや、よしなが・まつざか・上尾各先生が美少女戦士になりきっているシーン(このシーンのみ環境音が託児所のそれが止まって3人の声による「おしおきよ!」になっている辺りは芸が細かい)が画面に流れる。このようにして「20世紀博」というものに何らかの「毒」があることを示唆されるのだ。つまりこの台詞こそがこの物語の「本編」部分の導入と言っていいだろう、ここまでは「20世紀博」の存在を印象的にかつ遠回しに示しただけのシーンで本編にはあまり影響していない(ただひろしの台詞に伏線はあるが)。
 また最後の部分がこの台詞を強く印象付けている。「懐かしい」というものを知らない子供の視聴者の気持ちを見事に代弁しており、大人達がここまでのシーンを見て感じたノスタルジーに疑問を投げかけるのである。大人の視聴者から見ればまさに「いいとこ」を破壊された気持ちになるし、子供が見ればよくぞ言ってくれたと思うところだろう。こうしてこの台詞にはこの物語の主構造である「大人と子供の切り離し」を劇中のキャラに対してだけでなく、視聴者に対してもやってのけてしまうのである。そういう意味で、初見時からしても印象に残った台詞だ。
名場面 20世紀博へようこそ(ホラー要素) 名場面度
★★
 名台詞を含む託児所シーンが終わると、突如コンパニオンのおねいさんが画面に現れて今回の舞台となる「20世紀博」の解説を始める。その詳細は研究欄に譲るとして、このシーンを二度目に見た時に私は寒気を感じた。
 そう、ここは視聴している大人を物語、いや「20世紀博」に引き込んでしまうという不思議な魅力があるのだ。このシーンを見て「20世紀博が本当にあったらなぁ…」と感じた人は多いと思う。コンパニオンが語る具体的なイベント内容を聞いて、劇中の人々が羨ましいと思った人は多いだろう。少しでもそう感じた人はもう既に「20世紀博」に毒されているのだ、たったひとつの救いは自分が画面(またはスクリーン)の外にいたことだけだ。
 「20世紀博」の内容、それに描画の全てが上手く大人達の心を掴むように計算され尽くされていると思う。どれもが「こんなイベントがあったら…」と思わせるに十分な内容、特に冒頭の「ひろしSUN」や「魔法少女みさリン」が「自分が当時のヒーローやヒロインになりきれるアトラクション」と分かると、「自分ならあのキャラクターになりたい」と感じた人もいたことだろう。繰り返すがそう思ってしまった人は「20世紀博」に完全に毒されている。
 そしてこのシーン、通りすがりに出てくる家族連れの大人は笑顔、子供は嫌な表情と上手く区分けされている。名台詞シーンで語った「大人と子供の切り離し」は既に劇中では完成しており、このシーンでは視聴者に対するそれを決定づけることになる。勘の良い子供ならそんな大人の気持ちに気付いて、不安になるかも知れない。もちろん大人達は、自分が画面の中の世界に吸い込まれ掛かっていることなどに気付きもしない。そういう意味でこのシーンは寒気を感じるシーンだと感じたのだ。
 また、コンパニオンのおねいさんが語っているシーンでは、ただおねいさんを映すだけでなく、脇にパンフレットなどの小道具を置いてある辺りが「博覧会の窓口」という設定にリアルさを添えている。こんな小道具こそが、大人を本気にさせちゃうんだよなぁ。
研究 ・「20世紀博」
「ハイ、初めてでいらっしゃいますか? 当『20世紀博』には、20世紀のあらゆる物を販売するショップ、懐かしい遊びを心ゆくまで楽しんで頂ける広場、子供の頃に憧れたあのヒーローやヒロインになれるスタジオ、懐かしい味が味わえるレストランなどがあり、お客様がお客様自身のあらゆる思い出と出会える場でございます。どうぞ、子供の頃に帰って心ゆくまでお楽しみ下さい。」
 これが名場面欄で紹介したコンパニオンのおねいさんによる「20世紀博」の紹介内容である。これと画面描写から「20世紀博」というのがどんなイベントなのか、また何処で行われているのかを探ってみたい。
 まず会場の場所であるが、この後のシーンでみさえが「20世紀博が春日部にできてよかった」という台詞を吐いていることから、会場は間違いなく埼玉県春日部市とみていいだろう。ただ会場周辺は見渡す限りの田園地帯であるので、市街地からは離れたエリアのようだ。会場には駐車場が整備されていることから自動車での便が良い場所であろうから、国道16号沿いのあまり開発が進んでいないエリアで行われていると考えることができる。国道16号沿いならば千葉県千葉市から東京多摩地区まで集客力は1都3県にも及ぶし、国道6号や東北道や常磐道との連携で茨城・栃木方面へも影響力が及ぶだろう。鉄道利用の場合は東武野田線の何処かが最寄り駅になりそうだが、春日部駅からシャトルバスという線が現実的だ。
 だが物語が進むと別の事実が浮かんでくる。「20世紀博」のスタッフルームみたいな場所が出てくると、日本全国に会場があるような描写になっているし、スタッフの台詞や劇中に描かれる日本地図から察するとどうやら春日部を本部として日本全国で行われているようなのだ。画面描写から読み取ると、南から那覇・鹿児島・宮崎・長崎・福岡・北九州・高知・徳島・広島・岡山・鳥取・神戸・大阪・宇治・津・名古屋・静岡・松本・金沢・富山・横浜・東京・千葉・宇都宮・新潟・仙台・八戸・函館・札幌・釧路に「支部」があることが確認できる(北海道旭川市以北・以東については確認できず)。これはそれら30都市で同時開催されていると考えるべきであろう。すげー財力だ。
 続いてイベントの内容だが、ここで解説された以外の物も多くあると見るべきだ。先に挙げた日本地図には都市名の他、20世紀の様々な出来事や20世紀を象徴する施設名が書かれている。札幌冬季五輪や沖縄海洋博、ランランとカンカンや青函トンネルなど多くの文字が描かれている。もちろんこれらに関連にしたイベントが地域ごとに行われているはずだ。私が気になるのは「TSUKUBA-KAGAKU」の文字、もし冒頭シーンの大阪万博のように筑波科学万博を再現するアトラクションとかあったら行きたい。また「500KEI」って、500系「のぞみ」の事かなぁ。
 いかんいかん、私も完全に「20世紀博」に毒されている。

…「20世紀博」がやってきた春日部の街には、70年代の車や流行が溢れていた。野原一家は帰宅してひろしとみさえが当時流行っていたヒーローものや魔法少女もののビデオを見ていたが、ふと「今夜20世紀博から大事なお知らせ」があることを思い出す。一方、「20世紀博」を主催していた「イエスタディ・ワンス・モア」のリーダー、ケンが「大事なお知らせ」放映30分前に部下達に訓辞を述べていた。
名台詞 「ここに来るとホッとする。」「ここには外の世界みたいに、余計なものがないからな。昔、外がこの街と同じ姿だった頃、人々は夢や希望に溢れていた。21世紀はあんなに輝いていたのに、今の日本に溢れているのは汚い金と、燃えないゴミぐらいだ。これが本当にあの21世紀なのか?」「外の人たちは心が空っぽだから、物で埋め合わせしているのよ。だからいらない物ばかり作って、世界はどんどん醜くなって行く。」「もう一度、やり直さなければいけない。日本人がこの街の住人達のように、まだ心を持って生きていたあの頃まで戻って。」「未来が信じられた、あの頃まで。」
ケンチャコ
名台詞度
★★
 当サイトで数多くの名台詞を選び出してきたが、実は2人の登場人物でひとつの台詞を語っているという例を取り上げるのは今回が初めてとなる。
 ケンが率いる「イエスタディ・ワンス・モア」が何を企んでいるのかはまだハッキリ分からない。いずれにせよ世の中を20世紀に戻してしまおうという壮大な計画を実行中なのは確かだ。20世紀博内部のコントロールルームで日本全国の同士に訓辞を述べ、いよいよ計画をスタートさせたケン。彼が恋人チャコとともに「自分達の街」に戻り、家路につく途中でこの台詞を語り合うのだ。ちなみにBGMはベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」(作詞 北山修・作曲 加藤和彦)で、二人が歩く背景には昭和40年代を細部まで再現した街と、そこに生きる人々が描かれている。
 コントロールルームのシーンでは「20世紀博」というものが、単なるイベントではなく世の中そのものを20世紀に作り直してしまうべく存在していることが判明した。この台詞ではその主催者の企みの理由が語られている。彼らは20世紀という時代の懐古主義が強く、ついにやってきた21世紀という新しい時代を信じていないのだ。
 私はこの二人の台詞を聞いて、子供の頃に読んだ図鑑に描かれていた「21世紀の風景」を思い出した。空には超音速旅客機が飛び、陸にはリニアモーターカーが走り、新幹線は日本全国に張り巡らされ、自動車も浮上走行していて、家事の多くは機械が自動的にやってくれて、鉄腕アトムのような人の心を持ったロボットが実用化して人間と同等に生活しているという、人々はテレビ電話で連絡を取り合い、人類は増えすぎた人口を海底都市を造って移民させているという、今考えると酔狂なあのイラストだ。その世界と比べたら現実の21世紀はどうだい? 少子高齢化と不況でお先真っ暗、テレビ電話は広がらなかった代わりにポケットサイズの携帯電話が実現したがその通話料の支払いに追われ、今や高速道路無料化などという新政権の公約によって新幹線の全国展開どころか鉄道業界がかつてない危機に直面している。「地球温暖化」という掴み所のない現象が人々に環境意識を持つことを強要し、都市近郊の緑はどんどん失われて赤字を大量生産するハコモノばかりが目立つ世の中…確かに実際の21世紀は、あの酔狂なイラストに比べたら夢のない世界になっている。
 このように、この台詞を聞いた大人は自分が子供の頃に描いていた21世紀と、現実の21世紀のギャップを感じてケンとチャコが言っている事が正しいと感じてしまう。確かに現実の21世紀には夢がない、それじゃダメじゃんか…と。
 だがこの台詞、20世紀を知らぬ子供の立場で聞くと印象は違うはずである。子供に言わせれば自分が生まれるより何十年も前の世界になるなんてまっぴらな話でしかなく、ここでのケンとチャコの思いも世の中を黒く染める悪人の台詞にしか感じないはずだ。子供の立場で考えれば、その頃は昔の話でしかなく、不便で古くさくて耐えられない世界なのだから。
 こうしてまたも、物語は見ている大人と子供の切り離しにかかる。そうして次のシーンでは子供達を恐怖のどん底に突き落とし、大人達の目を覚まさせるという展開へ急変させるのだ。
名場面 「20世紀博からのお知らせ」(ホラー要素・僅かにギャグ要素) 名場面度
★★★
 よる8時、野原家のテレビが「20世紀博からの大事なお知らせ」を放映する。その内容はコンパニオンのおねいさんがでてきて、「明日の朝お迎えにあがります。皆さんご一緒に、愉快に過ごしましょう」と言うだけ。すぐにテレビは次の番組と思われる、青年が「ソースラーメン」(うげっ)を食べているシーンに切り替わる。
 しんのすけが意味が分からず疑問の言葉を発したかと思うとすぐにテレビの電源が切られ、ひろしとみさえがゆっくり立ち上がる。無表情で「明日に備えて早く寝なきゃ」「そうね」と言ったかと思うと、まるで何かに操られているように歩き出す。「寝るの? ごはん食べないの? ねえ母ちゃん、オラ腹減った」と訴えるしんのすけを無視して電気を消し、寝室へ向かう夫婦。途中みさえは冷蔵庫に立ち寄り、しんのすけのネギを1本渡す。「なにこれ」と問うしんのすけに「ネギ」とだけ言い残して、ひろしとみさえはすぐ布団に入って寝てしまう。そしてこの異変が野原家だけのものではないと示すべく、街の空撮になって家の灯りがひとつずつ消えて行くシーンが流される。この光景に多くの子供達がただならぬ異変を感じ、恐怖したことだろう。
 ここまで若干の問題はあったものの、とにかく平穏に進んでいた物語が突如暗転した瞬間だ。ひろしとみさえは何かに取り憑かれたかのように表情を失い、見ている方は劇中のテレビに流れた「20世紀博からのお知らせ」が原因であることがすぐわかる。つまり大人達が「20世紀博」に夢中になっていたのでなく、毒されていたと分かる瞬間だ。そしてこの直前シーンのケンとチャコの会話…とにかく何かが始まったのだ、大人達を20世紀に引き戻してしまう何かが。
 このシーンは恐怖感を煽るべく細かいところまで工夫されていると感心する。まず「20世紀博からのお知らせ」が本当に「20世紀博」というものになりきっている点、白黒画面に古くさい画面と音という演出は夫婦の変化を見る前では「凝ってるなぁ」と感心するが、それを見てしまうと「これも怖がらせるための効果だ」と感心する。劇中のテレビ画面が真に迫っているからこそ恐怖感は倍増されるのだ。そしてそのメッセージがたった一言であり、最後に「愉快に過ごしましょう」と付け加えたこともポイントが高い。そして夫婦の変化、立ち上がるときの動き一つとっても「取り憑かれちゃった感」がうまく再現されているし、無言で電気のスイッチを切るみさえの怖いこと怖いこと。
 その中でもギャグを忘れていないのが、かえって恐怖感を煽っているかも知れない。みさえが「20世紀博」に取り憑かれつつも、本能的に子供に食事をさせようと考えるのだが、それがネギ1本というのは見ていて滑稽だが、見方によってはあの子供思いのみさえをそこまで変えてしまったというとらえ方もできてしまうだろう。
 こうして物語が本格的に動きだす。ここまではいわば前置きみたいなものだ。
研究 ・イエスタディ・ワンス・モア
 ここでは「20世紀博」の主催団体、「イエスタディ・ワンス・モア」について考えてみよう。
 「イエスタディ・ワンス・モア」は直訳すれば「昨日をもう一度」という意味になるが、元ネタは1973年に流行したカーペンターズの楽曲のようだ。この団体の主目的は世の中全体を20世紀に戻してしまうこと、それ向け人々を洗脳するために「20世紀博」を各地で開催していたようだ。
 構成メンバーが何人ぐらいで、どのような機関がスポンサーなのかは分からないが、前回研究のように日本国内31都市(春日部本部含む)にネットワークを拡げているという事は財閥系企業並みの資金力と組織力を持っているのは確かのようだ。
 劇中で描かれる建物は春日部の総本部と思われる、見たところ8階建ての時計台を持ったビルの上に東京タワーに似た自立鉄塔が建っているという外見だ。劇中で描かれた「20世紀博」の内容だけにしちゃ建物がでかすぎると思ったが、この建物の中にはケンとチャコが住む街であり、昭和40年代を精密に再現した「夕日町」がある。空の色などをきれいに再現するとなると、この建物の地下2階辺りから地上3階くらいまでをぶち抜いてこの町を作っているのだろう。ここではなんと、人々が昭和40年代の生活を再現しながら生活しているのだという。
 ここに生活している人はこの段階では「イエスタディ・ワンス・モア」も構成員とその家族なのだろう、ケンによる世の中を20世紀に戻す作戦が始まっていない段階からこのような光景なので間違いないだろう。「イエスタディ・ワンス・モア」に加入すると、住居が与えられるようだが代わりに昭和40年代の生活を再現しなければならないということだ。そしてこの街は「20世紀の臭い」を採取するために作られた物であり、その臭いを散布することで人々の記憶を刺激して世の中を20世紀に戻してしまうという計画のようだ。その全段として「20世紀博」を開き、その観客に前もって臭いを嗅がせることで多くの人々を先行して洗脳したのだろう。
 夕日町については物語が進んだ段階で、改めて考察しよう。

朝、しんのすけが目を覚ますと何かに取り憑かれたように家にあった駄菓子を食べるひろしとみさえ。二人は仕事や家事を放棄し、家の居間でごろ寝を決め込む。しびれを切らせたしんのすけは、ひまわりを背負ってようち園へ行くが…ようち園バスは来ないし、街の人々も先生達も仕事しないで遊んでばかりいる。
名台詞 「もう! 父ちゃんも母ちゃんも変だゾ。いつもみたいにしろ〜っ、ご飯作れ、歯を磨け、顔洗え〜っ! 服着替えろ、髭剃れ、会社行け〜っ! 何で? 今日お休みじゃないでしょ? お仕事しなくていいの? 朝イチ会議とか、外回りとか、接待とか…。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 多分、この映画を見ている多くの人は「劇中では休日なのか?」と疑問に感じる暇もなく、ひろしとみさえが駄菓子をむさぼり食いごろ寝を決め込むシーンを見せられて不安に感じていることだろう。そこへしんのすけがこの台詞で突き付ける事実は「この日が平日である」こと。休みの日なら百歩譲ってこれでも許されるかも知れないが、だがこの日はあくまでも平日で、ひろしにとっては会社へ行かねばならない日であるし、もちろん専業主婦のみさえにも家事が山ほど有るはずだという現実をきっちり提示する。
 このテの長編アニメでは、劇中のその日が平日か休日か何て作る方はあまり考えていないだろう。後付で「今日は日曜だし」とキャラクターに言わせたり、平日か休日かなんてことを気にさせないつくりだったりする。もちろん他の「クレヨンしんちゃん」劇場版では後者を取っていることが多いし、「ドラえもん」にしろ宮崎駿もの(の中でも現代日本が舞台のもの)など多くの長編アニメでは後者の作りになっている(「名探偵コナン」等は前者が多い)。主役となる子供達の活躍に大人が同行することが多く、大人がついて回るには明らかに「平日」では問題があることは社会人なら分かるだろう。だがこの物語は、ここでハッキリと「この日は平日である」と視聴者に突き付けるのである。
 つまり「平日」だとハッキリさせることでこのひろしやみさえの変貌が本気であることもハッキリしてくるし、何よりもようち園の先生方だけでなく街の人々が遊びほうけているというただでさえ異常な描写に本気度が増すという役割を果たすことになるのだ。例えばこの物語が何らかの形で「休日」と設定されてしまえば、この後の人々が遊びほうけたりするシーンは白けたものになってしまうだろう。それだとただ単に「20世紀博に呼ばれたから行く」だけになってしまうのである。一人一人がやらねばならない事を放り出してまで遊びほうけ「20世紀博」へ連れ去られてしまうからこそ、「何かに取り憑かれておかしくなった」という設定が成立するのだ。
 つまりこの物語が「平日」の出来事だとハッキリさせるのは重要なことであり、それを唯一示したこの台詞はこのホラー的展開を盛り上げるために重要なものなのだ。
名場面 大人達が連れ去られる(ホラー要素・メカニック要素)。 名場面度
★★★
 しんのすけはひまわりを背負ってようち園に着くが、そこでは先生達も仕事せずに遊びほうけていた(このときのよしなが・まつざか両先生のしんのすけに冷たく当たる演技は秀逸)。しんのすけが園庭のベンチに腰掛けてそれを見ていると、どこからともなく「証城寺の狸囃子」の電子オルゴールが流れてきて、ようち園の先生方だけでなく街の人々もこれに反応して遊ぶのをやめる。ただならぬ気配を感じたしんのすけが音の方へ行ってみると、そこには古くさいオート三輪が隊列を組んで走っていた。そして街の大人達はまるで取り憑かれたかのように笑顔でそのオート三輪の荷台に乗り込む、「埼玉紅さそり隊」の不良少女達も、かすかべ書店の二人組も…。しんのすけはその中に恋する「ななこおねいさん」を見つける、追いかけるがななこもしんのすけを突き飛ばしてオート三輪に乗り込んでしまう。ようち園の先生達はようち園の送迎バスでオート三輪の車列に加わり、その後ろを走るオート三輪には…ひろしとみさえが乗っていた。「父ちゃん母ちゃん、何処行くんだ〜っ」と叫びながら追いかけるが、ひろしとみさえは「シェー」という古いギャグを残して去って行く。しんのすけは必死に両親を追いかけるが、追いつくはずもなくオート三輪は走り去る。
 何かに取り憑かれた大人達の様子、そしてその連れ去られる不安感というのをよく描いたと思う。「証城寺の狸囃子」のメロディは何処までも機械的で、これがかえって見ている子供達を不安にさせることだろう。そして笑顔の大人達、その大人達が笑い合う声…これらの再現がとても良く、だからこそ「何処へ行っちゃうの」感を見ている方が強く感じる。ここまで見ていた大人達は自分達もあのオート三輪の荷台の上にいたかも知れないと、背筋が凍るシーンだ。
 またこのシーンにおける自動車の描き込みが秀逸で、先生達が乗っているようち園バスが浮いているのは言うまでもないだろう。詳細は研究欄に。
研究 ・オート三輪
 いよいよ序盤の見どころである大人達が去れ去られてしまうシーンだ。このシーンは名場面欄に書いた通り、大人達が何処かへ行ってしまうという不安なシーンもさることながら、劇中に出てくる自動車が精密に描かれていることで印象に残った人も多いだろう。アニメの「クレヨンしんちゃん」は意外にも乗り物が精密に描かれていることが多く(原作では常に最小公約数的描かれ方をしているのだが)、見ている方が感心することも多い。テレビアニメに出てくる東武電車の精密さには感動した。
 しんのすけが住む街に隊列を組んでやってきたオート三輪は二種類、先導して「証城寺の狸囃子」のオルゴールを流していたのは小型のオート三輪としては有名すぎる「ダイハツ・ミゼット」。昭和32年から14年間にわたって生産され、軽トラックのブームを巻き起こした名車でもあり、少し古い人で車に詳しい人なら誰でも知っているトラックなのは間違いないだろう。「ダイハツ・ミゼット」をご存じない方はこちらを参照して頂きたい(久々に勝手なリンクです、問題がありましたら外させて頂きます)。
 隊列の主力で、大量にやってきて大人達を荷台に載せて走り去った青いオート三輪は、「ダイハツ・MC型」というトラックだ。劇中に描かれているのはその中でも2トン積や3トン積という大型のタイプであることは、外見の特徴から判明する。このトラックは昭和37年から10年ほど製造されていたようで、劇中に出てくるのはその初期タイプの模様。詳しくはこちらを参照して頂きたい(こちらも勝手なリンクです、問題がありましたら外させて頂きます)。
 さらに伴走車として多くの古いクルマが出てくるが、こちらは単なる伴走車でしかなく物語に直接絡まないので、絡んだときに改めて紹介しよう。

大人達が連れ去られるという事態に、「かすかべ防衛隊」の面々がしんのすけの家に集まり当面の対応について考える。
名台詞 「こっそり、大人達の国を作ってるとか。」
(ボーちゃん)
名台詞度
★★
 しんのすけ、風間君、ネネちゃん、マサオくん、ボーちゃんからなる「かすかべ防衛隊」が消えた大人達が何処へ行ったのかについて語り合う。ネネちゃんが「20世紀博へ行ったんじゃない…きっと私たち捨てられちゃったのよ」と言えば、マサオくんは泣き、しんのすけが「大人達、本当にあの中で遊んでいるのかな?」と問う。これにボーちゃんがこう答えるのだ。そしてしんのすけが「オトナ帝国ですな」と答える部分までが名台詞の範疇に入るかも知れないが、「オトナ帝国」というキーワードを出させるきっかけになったのは間違いなくボーちゃんのこの台詞だ。
 この台詞は「オトナ帝国の逆襲」というサブタイトルを提示するきっかけでもあるし、今回彼らが戦わなければならない相手は両親を含んだ大人達全員であることを示唆している。こうして最初の対決相手をハッキリさせると共に、この子供達に大人が誰も味方に付かないという不安を年齢問わずに確信させられる台詞でもあろう。
名場面 「スナック カスカビアン」(ギャグ要素) 名場面度
★★★★
 不良小学生に制圧されているコンビニに忍び込み、食糧を得ようとしていた「かすかべ防衛隊」の面々だったが、結局は不良小学生に見つかってしまい食糧確保に失敗する。腹を空かせたまま街を歩く6人(「かすかべ防衛隊」+ひまわり)は、しんのすけと風間君の言い合いから突然しんのすけがスナックのママ風に語り出し語り出したと思うと、目の前にあったスナックに飛び込む。これにノせられる形で一行は「食べ物があるかも知れない」という理由でスナックに入る。店内では「店の雰囲気のせいか、それともお酒の臭いのせいなのか」分からないが怪しいギャグシーンが繰り広げられ、再び一行が外に出て「何していたんだろう?」と悩むシーンまでが一連のギャグシーンだ。
 このシーンのギャグこそが細かい台詞回しまで含めて、この作品における最も臼井儀人作品らしいギャグが描かれていると思う。個性的なキャラクターが独特の世界に他のまともな人たちを巻き込んでノせてしまう展開で、そのノせられた世界そのものとそこで描かれてるギャグが軽快かつノリが良いのだ。「クレヨンしんちゃん」における「かすかべ防衛隊」の個性的なキャラクターを見れば、その被害者がいちばんまともな風間君になることが多いことや、ノせる側はしんのすけかネネだという事はよく理解できるだろう。さらに常にその世界にはまり込むボーちゃんや、被害者になったりその世界にはまり込んだりを臨機応変に使い分けられるマサオというキャラクター性、現実を維持しようとするが結局最後にはノせられてしまう風間君…これらの個性が最も良く出ていて素晴らしいギャグシーンになっていると思う。
 「クレヨンしんちゃん」以外の臼井儀人作品を知っている人なら、このシーンを見れば「らしい」と感じ、間違いなく「臼井儀人作品」が映画になっているんだと痛感するシーンのはずだ。
 このシーン、映画館の銀幕で見てみたかった。
(次点)街灯が消えるシーン(ホラー要素)
…上記、名台詞シーンの後店を出てきたら外は既に夕暮れ。その中で突然街灯が消える。もちろん大人達が「20世紀博」に連れ去れてしまい、電力会社にも人がいないからだ。この街灯の明かりが消えた直後の子供達のどよめきがリアルで、続いて子供達のうち一人が走り出したのをきっかけに皆があてもなく走り出すシーンはとてもリアルで、これが恐怖感を誘う。何よりも「かすかべ防衛隊」の面々の会話途中の唐突な出来事だったのが、さらに恐怖感を増している。この辺りの展開はホラー映画としての完成度は高いと思う。
研究 ・大人達がいない世界
 この部分では大人達が街から消えると何が起きるのか、ということがかなり克明に描かれている。街には親を捜していたであろう子供達が行くあてもなくしゃがみ込み、ある者は仲間達と徒党を組んで行動する(しんのすけ達もそうだ)。誰もが突然やってきたこの危機をどう乗り切るか、子供なりに考えて行動しているのであろう。
 大人達が連れ去られるシーンで、高校生である「埼玉紅さそり隊」の面々が一緒に連れ去られたことを考えると、少なくとも15歳以上の人は根こそぎ連れ去られたと考えて良いだろう。さらに劇中の街の風景では、小学生以下の子供しか残っていない様子なので、ここで言う「大人」とは交通機関が大人料金になる中学生以上を指しているのかも知れない。
 劇中でも描かれた通り、こうなった場合の最大の問題は食糧だ。野原家では家に残っていた食料は全て両親によって食い荒らされていた事を考えると、他の家庭でも状況は同じと見て良いだろう。もちろん子供同士でも「力の論理」は働くわけで、力の強い者が当面必要な食料を確保するのに成功するだろう。劇中でもその論理は働いており、街のコンビニエンスストアは見たところ小学生低学年程度の悪ガキに制圧されていた。恐らくもっと店の規模が大きくなるにつれて制圧している子供の年齢も上がってくるに違いない。街の中手スーパーは小学生中学年位の悪ガキ共に、大手のスーパーやショッピングモールなどになると高学年の子供達が制圧しているだろう。もちろん誰もが生命を賭けているのだから、劇中のコンビニで描かれたように兄妹以外には簡単に食糧を分けるはずがない。しんのすけ達が半ば思いつきではあったが、子供なら誰も近寄らないであろうスナックに飛び込んだのは正解だろう。恐らく普段子供達だけでは行かないような居酒屋なども穴場かも知れない。ただし食べ物は「素材」だけで料理できる人間がいないことにはどうにもならない可能性が高いが(同じ理由でレストランや喫茶店やファーストフードなども穴場かも知れない)。
 劇中では電気が止まったことが示唆されるが、風間君の推理通りライフラインは全て停止したと考えて良いだろう。ただ「20世紀博」に必要な電力がどうなっているかは疑問だが、そこは細かく考えないことにしよう。もちろん交通機関も停止しており、子供が親類を頼って遠くへ行くことも不可能。頭の良い子供が親の自動車を運転する可能性は高いが、そのようなシーンは描かれていない。
 テレビでは昔の番組が掛かり、ラジオでは古い歌ばかりがかかっているというシーンがあったが、これはテレビ局やラジオ局の大人達がおかしくなったのではなく、「20世紀博」が流しているものだと考えられる。「20世紀博」の建物には鉄塔があるので、これが電波塔となっている可能性は高い。
 もちろんこんな生活がいつまでも続けられるはずはなく、大人達を連れ去った「20世紀博」側もこれを知っているはずだ。食糧確保に失敗した子供達が空腹と、夜になって暗くなったことで心細さに、心が押しつぶされそうになる頃を狙って「お迎え」に行くのだ。もちろん食糧確保に成功した子供が「お迎え」に応じないことも織り込んだ上で。

そんなこんなで夜が訪れる。電気が止まり緊急用ラジオを聞いていた「かすかべ防衛隊」の面々だが、そのラジオは古い曲ばかりかかっている。と思うと突然「20世紀博からのお知らせ」がラジオから流れてくる、その内容は大人達がどうなったかと、子供達に投降を勧告する内容だった。出迎えに応じなかった子供は、反抗者とみなすという内容だった。
名台詞 「よい子のみんな、こんばんは。私はイエスタディ・ワンス・モアのリーダー、ケンだ。君たちのパパやママは、20世紀博で子供に戻って楽しく過ごしている。時間は逆戻りを始め、もう進むことはない。君たちの未来は消えたのだ。間もなく迎えの車が行く、それに乗りなさい。こちらに来れば温かい食事もあるし、パパとママにも会える。来ない者は反抗分子と見なし、明朝8時を期して捕らえる。当然、パパとママにも会わせない。どちらを選ぶかは自由だが、私は素直な子の方が好きだな。」
(ケン)
名台詞度
★★
 いよいよ「20世紀博」の主催団体である「イエスタディ・ワンス・モア」が子供達に最後通牒を突き付ける。ラジオを通じて街に取り残された子供達に投降を促し、応じない者は反抗者として扱うという宣戦布告でもあろう。こうやって物語は「20世紀博について」「大人がいなくなる」という序の段階から、いよいよ「大人の世界に戦いを挑む子供」という構図が完成して物語は次の段階(実質的な戦い)に進むのである。その物語がいよいよ次の段階へ進むことを示唆する台詞がこれで、これを聞いた視聴者はしんのすけらがこの投降勧告に応じず、捕らえに来た大人達に立ち向かうという展開が見えてきたはずだ。
 この台詞は良くできていると思う、途方に暮れている子供を誘い出すための文句が全部揃っているのだ。大人がいなくなった街に取り残されている子供が最も会いたい相手…「つまり親に会える」と言う点、前回研究部分を考えれば小さな子供を中心に確保できずに困っている物…「食べ物がある」と言う点、これだけあればこの状況に置かれた多くの子供達は出迎えに応じるだろう。その上で言う事を聞かなければそれら必要なものが手に入らないと強調した上で、素直で言う事を聞く子供は歓迎する旨を言えば大多数の子供達はこの呼びかけに応じるだろう。
 現に「かすかべ防衛隊」の中でもマサオ君だけは呼びかけに応じて出て行こうとする。だが状況を冷静に分析して「これは罠だ」と判断した他のメンバー達は賢いというほかないだろう、まぁ「スナック カスカビアン」で食糧確保に成功したから冷静でいられるんだろうけど。
 もちろん彼らと同じように、店舗等を制圧して食糧を確保できている子供達は同じ行動を取ったに違いない。ケンにとってはそれは想定の範囲内で、ちゃんと言う事を聞かなかった場合の対処法を前もって語っておくのだ。これで当面生活に困っていない子供も、多少心が揺らぐであろう。
 またこの台詞には、この作品のメインテーマの一つである「未来」という点を最初に提示する台詞でもある。大人達が過去に逃避したことで子供達の未来が消えるという展開に、いろいろ考えた大人達も多かったことだろう。子供達は怖がるしかない部分だが。
名場面 夜が更けて行く(芸術的要素) 名場面度
★★★★
 夜、「20世紀博」の建物から大きな花火がいくつも打ち上がる。それと同時に昭和40年代の古いギャグが立て続けに流される。これは世の中を20世紀に戻してしまう作戦が上手く行っていることを誇示するものだろう。「20世紀博」会場は不夜城のように輝き、花火はあくまでも美しく華やかだ。
 これをしんのすけら「かすかべ防衛隊」の面々が、しんのすけの進言によって入り込んだデパート「サトーココノカドー」の屋上から無言で見ている。
 画面が「20世紀博」の華やかなシーンから、「かすかべ防衛隊」の面々へと変わると華やかなBGMはフェードアウトし、風の音だけが残るようになる。この「かすかべ防衛隊」の面々が無言で立ち尽くす姿にいろいろな不安が込められているはずだ。迎えに行くから来いという大人達に逆らった不安、大人達と戦わなければならない不安、親は無事なのだろうかという不安、いつまで見つからずに過ごせるかという不安、これからどうなってしまうのだろうという不安…これらを何の台詞も発しないことで表現する手法は多くのアニメ等で取られているが、いつもおバカばかりの「かすかべ防衛隊」の面々がこうなったら見ている方も余計に不安になってしまうというつくりで感心した。多くのギャグアニメではこういうシーンでもギャグキャラクターにはこういう態度を取らせないが、この作品では敢えてこう普通に描くことで見ている方の不安を煽るのだ。
 こういうシーンが劇場版「クレヨンしんちゃん」が成功した理由の一つでもあると私は見ている。ギャグ作品という枠に捕らえられず、真面目に締めるところは締め、その上で強烈なギャグを含んだ冒険譚として仕上げたところに完成度の高さを感じる。「クレヨンしんちゃん」でそれが可能になったのは、何てったってキャラクターの多彩さによるところが大きいはずだ。しかも主人公しんのすけの両親や、一緒にいる友人達「かすかべ防衛隊」のメンバーなどの設定や性格も上手く考えられているからなのだ。その上であれだけのギャグと、あれだけの物語が作れるのだからそのキャラを生み出した原作者の臼井儀人さんは素晴らしい人なのだと思う。アニメの「クレヨンしんちゃん」を見てこういうシーンがあると作品のすばらしさを感じ、本当に凄い漫画家さんの作品を世間で流行する前に見つけ出して読んでいたんだと感じてしまう。このシーンはそんなシーンの一つだ。
研究 ・子供達の扱い
 大人達が連れ去られたのに引き続き、今度は子供達が連れ去られることになる。「イエスタディ・ワンス・モア」は子供達を連れ出しやすいように、大人達がいなくなったあと子供達を放置し、親がいない不安と空腹をたっぷりと味合わせたところで連れ出すという巧妙な手段に出た。名台詞欄の通り、ケンは子供達が誘い出されやすいように言葉を選んで投降勧告をラジオで流すと、子供達は吸い寄せられるように迎えの車の所へ集まった。ちなみに迎えの車とは、昼間に大人達を連れ去ったオート三輪の集団である。
 子供達を連れ去った「イエスタディ・ワンス・モア」構成員の会話によると、ここで投降に応じた子供達は親に引き合わせることはせず、再教育して夕日町の住人にしてしまうとのことである。ケンの投降勧告にあった「パパとママに会える」というのは嘘で、投降に応じた子供達は隔離される運命にあるというのだ。そこで行われる再教育とは何だろう、昭和のヒーローやヒロインもののアニメビデオを見せ続け、昭和のテレビで流行ったギャグを教え、昭和の流行やイベントを勉強させ、昭和の生活習慣や風俗を徹底的に叩き込むと言ったところだろう。これではいかん、原作が平成2年スタートの「クレヨンしんちゃん」もこの世から消されてしまう。
 ではしんのすけ等、投稿に応じなかった子供は? ケンは「捕らえる」とは言っていたけどその先については語られていない。前述の構成員の会話でも「さあな」で終わってる。てことは捕らえられたらとんでもない目に遭わされるのではないだろうか? 臼井儀人さんの漫画流に行けば、筋肉モリモリと男と強制的に熱い口づけをさせられたり、黒板をひっかく音をずっと聞かされたり、見ている映画をクライマックスシーンの直前で止められたり、読売新聞を読もうとすれば「コボちゃん」の部分だけ切られてなくなっていたり…。
 冗談は置いておいて、いずれにしても無事では済まされないのは確かだろう。だけど投稿に応じなかった子供など放っておけば手間も金も人手もかからないのに、だって街には大人達がいないんだからいずれ子供達は生活に困るのだからって、深く考えたらいけないか。

夜が明けて朝の8時、いよいよ「20世紀博」にいる大人達による子供狩りが始まった。ケンの指示によって春日部へ子供狩りに向かう大人達の中に、ひろしやみさえも含まれていた。
名台詞 「たぅやったたうけー」
(ひまわり)
名台詞度
★★★
 名台詞、というかしんのすけの妹で赤ん坊の野原ひまわりの声をやっている人の名演技と言った方が正しいかも知れない。テレビアニメ・劇場版問わずアニメの「クレヨンしんちゃん」でひまわりちゃんの声を聞く度に、声を入れているこおろぎさとみさんの名演技に感心している。この台詞もそんなしーんのうちのひとつだ。
 デパートの中で必死の逃亡戦を繰り広げる「かすかべ防衛隊」の前に、「20世紀博」に毒されて完全に人が変わってしまったみさえが立ちはだかる。「おとなしくしなさいねー」と子供達を捕まえる事を宣言する台詞を聞くみさえを見て、赤ん坊のひまわりはやっと母に会えた嬉しさを体現する。そして抱っこしていたネネちゃんの腕をふりほどいて、ハイハイでみさえのところへ行って足に抱き付く。だがみさえは「なんだこの赤ん坊は? 離しなさい」とひまわりをふりほどこうとする。その時に何かを訴えるようにひまわりがこう叫んだのだ。
 「クレヨンしんちゃん」劇中で「たいや」「たいの」という独特の喃語だけでひまわりが何かを訴えるシーンは多く、アニメ化の際にこれを上手く再現しているといつも感心するのだ。もちろん自我が確立していない赤ん坊がこういう態度を取ることは現実には殆ど無いのだが、赤ん坊が何を考えているかというのを表現した「クレヨンしんちゃん」のひまわりは現実的な赤ん坊でなくても面白いキャラだ。だからこう描くのは当然なのだが、原作ではこの喃語を全てひらがな表記にすることで対応している。それも多くのシーンで、タ行で始まる喃語をしゃべらせたという漫画は「クレヨンしんちゃん」以外では見たことがない。多くの漫画で喃語は「だぁ」と表現されることが多い。これも臼井儀人作品の独特のものなのだ。
 その臼井儀人作品独特の世界観を見事再現し、その上でひまわりの気持ちをキチンと演じきっているこの声優さんが素晴らしいと思うのだ。このシーンにおいても最初に母親を見つけた感激と愛しさのあまり抱き付く時の喃語(「たいやったったった…」)にしっかり気持ちがこもっているし、ここに挙げたこの台詞等は「母ちゃん、私よ、ひまわりよ」と必死に訴えているように見えるのだ。喃語しか使えないからこそ、本来意味のない言葉に心を込めねばならず、「クレヨンしんちゃん」の中で声を入れるのが一番難しい役だと思う(「クレヨンしんちゃん」のキャラはどれも大変だと思うけど)。
 ひまわりちゃんの声を担当しているこおろぎさとみさんは、舌っ足らずの幼児や動物の声で定評があるとのことだが、私はこの人の演技を最初に知ったのは「少年アシベ」のゴマちゃん役だ。ゴマちゃんとひまわりは役どころが似ているような気がする(立場は大きく違うが)。その次にこの人の声を聞いたのは「おじゃる丸」の愛ちゃん、つまり熟女声にちょっと萌え〜だった。その時は野原ひまわりを同じ人がやってるなんて知らなかった…。
 ちなみに当サイトで取り上げたアニメの中では、そちらにも書いたが「こんにちはアン」のノアとエラを担当している。
名場面 子供狩りへ出発(メカニック要素) 名場面度
★★
 「20世紀博」の朝、正門前でケンが子供狩り開始の指示を出す。子供狩りに行かされる大人達の中に眠そうな顔のひろしやみさえ、組長先生まで混じっている。ひろしは何故自分が行かねばならないのかと文句を言うが、ケンはこれに「捕まえれば(20世紀博において)ほしいものをやる」と言って大人達の統率に成功する。といってもそこにいるのは大人の身体をもった子供なのだが。
 このやりとりが終わると、彼らが乗る車がブレーキ音をきしませてやってくる。大人達はこの車に分乗し、また乗り切れなかった分は組長のようち園バスに乗り込んだ。そして先導にケンの白いスポーツカーが現れる。スポーツカーのハンドルを握るケンが「行くぞ」と言うと、車のエンジンが唸って春日部へと消えて行く。
 このシーンは緊迫感溢れるBGMも相まって、物語で最も緊張感が高いシーンとなっている。大人達に反抗しているしんのすけらとの開戦が、ふまく描かれたと言えよう。
 この場面で最も素晴らしいのは出てきた車の描き込みなのだが…詳細は研究欄にて。
感想 ・子供狩り
 「20世紀博」の大人達は、前夜のケンによる投降勧告の内容に従って投降してこなかった子供達を捕らえに出発する。それには「イエスタディ・ワンス・モア」構成員だけでなく、前日に連れ去った多くの大人達を動員し、小回りが利くよう小型車を中心に多くの自動車を用意した。さらに大人達は武器にならない武器を持っていて、何処まで本気なのか分からなく描いている辺りは臼井儀人作品らしい。
 ひろしのケンの会話から察するに、ここで動員された構成員以外の大人達は投降勧告に応じなかった子供の親たちのようだ。彼らは前日、夜遅くまで心ゆくまで「20世紀博」で楽しんだのだろう、誰もが眠そうな目をしている。この大人達の中には明確に描かれていないが、「かすかべ防衛隊」の面々それぞれの親たちも混じっていることだろう。
 だが組長、いや園長先生だけは事情が違うようだ。恐らく用意した車だけでは動員した大人達全員を乗せることは不可能だと判断され、連れ去られる際に自分が経営するようち園の送迎バスで来ていたから声がかかったのだと推測される。ようち園の送迎バスは見たところマイクロバスのようなので、大人なら20人程度の乗車が可能となったはずだ。組長先生はこの運転士として動員されたに違いない。
 構成員達が乗り込んだクリーム色の小さな自動車は、一般家庭にマイカーを拡げたことで日本の自動車史にその名を残す「スバル360」である。1958年に販売開始されたこのクルマは、徹底的な軽量化と部品の小型化によって小さくて広いキャビンを実現した上、当時の一般家庭でも手が届く価格設定としたことで日本に「マイカー時代」の到来を告げた名車である。このクルマの開発史も非常に有名で、NHKの名番組「プロジェクトX」でも取り上げられた程だ。このアニメでも「スバル360」の特徴がキチンと描かれ、特に屋根だけ別素材で作られている点を上手く再現していると思う。
 ケンが乗るスポーツカーは昭和40年代に一世を風靡した「トヨタ2000GT」である。当時オートバイの分野で日本のトップメーカーだったヤマハと共同開発で1967年より製造を開始、特に発売前に当時最高の人気を誇っていたイギリス映画「007シリーズ」に主役メカとして登場したこともあって、カーマニア以外にも絶大な人気を誇ったスポーツカーである。劇中ではエンジン音と共に車体全体が震えるように描き込まれ、このクルマの力強さを表現している。特に斜め後ろから描いたカットは秀逸だ。

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