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…デパートの中で「イエスタディ・ワンス・モア」の構成員や、洗脳されてしまったひろしやみさえに終われるが「かすかべ防衛隊」一行はなんとか逃げ切る。一行が逃げ込んだ先は、ようち園バスの床下だった。一行はさらにバスの車内に逃げ込んだところで袋のネズミとなってしまい、状況打開策としてしんのすけがバスを運転して逃げることを提案する。子供じゃ運転できないと一同は反論するが、ボーちゃんが「園長先生の運転を見てたから出来る」ということでこの計画は実行に移された。
名台詞 「オラもうこんな地味な仕事嫌だ。それにずるいぞボーちゃん、一人だけ運転して、不公平だゾ。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★
 「クレヨンしんちゃん」には幼児や子供の本音を何に臆することなく表に出しているという魅力もある、そういう視点で見るとこの台詞はこの「クレヨンしんちゃん」という漫画の特徴的を示す台詞でもあろう。
 何とかバスを走らせてデパートの駐車場から脱出した「かすかべ防衛隊」一行は、さらに逃走を続けるべき速度を上げようとする。ハンドルを握るボーちゃんが「4速」と命じるが、クラッチ担当のしんのすけが言う事を聞かずギアが変わらない。これに風間君が文句を言うとしんのすけはこう答えたのだ。
 そう、子供に言わせれば「運転者」というのはハンドルを握って一番目立つ席にいる人のことなのだ。子供の目線で見れば見れば船の船底に近い機関室で必死にエンジンを動かしている人ではなく、船橋で指揮を出している船長か舵輪を握っている操舵手が「船を動かしている人」に見えるだろう。それと同じ事がここで起きただけと言えばそれまでだが、しんのすけがこの論理に従って反乱を起こす事は彼らの子供らしさを引き出す重要な点なのだ。この台詞でしんのすけは、「目立ってカッコイイ事がしたい」という子供らしい我が儘を見せるのだ。このような子供の論理や行動は、多くのアニメ等で「物語の展開優先」のため見落としがちな点でもある。
 そしてこの台詞はこの後のカーチェイスシーンを盛り上げるために、「かすかべ防衛隊」の子供達全員が車の運転を経験するという名シーンへと繋がって行くのだ。子供達が子供らしく立ち回ることによって名シーンや名ギャグが生まれる「クレヨンしんちゃん」の素晴らしさが、この台詞に表れていると言っても過言ではないのだ。
名場面 やれ(ギャグ要素) 名場面度
★★
 上記名台詞を受け、ボーちゃんが全部の役をローテーションしようと提案、これは早速実行に移される。最初の運転担当はマサオだが、マサオは「僕地味な役で良いよ」と泣きながら遠慮する。それを見たネネが例のウサギのぬいぐるみの顔を殴り「やれ」と言って、あごで運転席を指す。それを見たマサオは直立不動になって「はいっ」と答える。
 これも臼井儀人作品らしいギャグの一つだ。ネネがウサギのぬいぐるみを殴るギャグは、「クレヨンしんちゃん」定番ギャグの中で最も臼井儀人作品らしいもののひとつだ。本来ならばこのギャグは、本当は短気で怒りっぽいのに人前では優しいママを演じ、そのギャップに耐えきれなくなったネネちゃんママが憂さ晴らしにやっていたという設定だったのだが、いつの間にか娘のものになってしまったという経緯がある。だがネネがウサギのぬいぐるみを殴るシーンも非常に様になっているのは確かだ。
 そしてこのネネの様子を見たしんのすけの驚いた表情やマサオの反応が臼井儀人作品らしく仕上がっており、かつネネの表情は出さずに目が描かれず口の動きだけというのは「脅し」という行為に走るネネの二面性を示し、ネネを悪役にしないための配慮でもある。ただこのシーンにひとつ足りないもの…それはネネに殴られているウサギのぬいぐるみが冷や汗を流していない点だ(これがあれば★4つだった)。
 名場面欄でしんのすけに思い切り子供を演じさせておきながら、続くこのシーンでは皆が子供らしからぬ言動を取る。この落差こそが「クレヨンしんちゃん」のギャグの醍醐味であり、この漫画がギャグマンガとして成功した理由の一つであることは確かだろう。
研究 ・ようち園バス
 物語はこの映画で最も派手なアクションシーンであるカーチェイスシーンとなって行く。だが今回取り上げたのはその直前の部分だ、何とかデパートから逃げ出した「かすかべ防衛隊」の一行は、普段自分達が通園に使っているようち園バスを奪って逃走する。子供がバスを運転できるのか?という疑問があるだろうが、それはボーちゃんが毎日「園長先生が運転しているのを見ていた」から覚えていたという展開で解決する。
 バスは一般的なようち園送迎バスだとすればマイクロバスだと考えられる。小さなようち園ではトヨタ「ハイエース」などのワゴン車が通園バスとして使用されている例が多いらしいが、「クレヨンしんちゃん」に出てくるものは乗降口が折り戸になっていることや、床が高くステップがあることを考えればバスタイプなのは間違いない。だが劇中に出てくるバスは乗降口が最前部にあり、一般的なマイクロバスが中央部に乗降口を持っていることと異なる。まぁこれは気にしないことにしよう。
 園児送迎バスに詳細を調べるべく日野自動車のサイトへ行ってみた。ご覧の通りメーカーオプションとして園児送迎バス仕様がラインナップされているのだが、これによると車体の大きさによって42〜52人の幼児を乗せられる事が分かるだろう(ただし園児送迎バスの客席には大人は乗れない)。原作ではこのバスに保護者も乗せて遠足に行くシーンがあるので、これは幼児送迎用途のバスではなく普通のマイクロバスを改装した可能性が高い。すると定員は大人なら26〜29人(補助席含む)、子供なら単純計算でその1.5倍乗せられる。このバスがマイクロバスであるという結論は、次の研究欄で出てくるので覚えておこう。
 さらにこのバスは改装されており、車体全体にネコが描かれている。屋根の上には「耳」がついており、ヘッドライトが「目」になっている。車体にはネコの身体の縞模様が描かれ、リアには猫の尻尾まで描かれている。こんなバスあんるか?と調べてみたら、世の中広いもんでこんなのを作っている専門の改装業者がいるのだ。こっちの方が「クレヨンしんちゃん」のバスより凄いと思う…。
 バスはマニュアル車、子供達はこれを運転するという離れ業をやってのけた。ボーちゃんが運転席に座るが、ハンドルやシフトレバーに手が届かず、アクセルやブレーキに足が届かない。そこで考え出されたのは、それぞれの子供がアクセルやシフトレバーを個別に操作し、運転役は運転席の上に立ってハンドルを握るという方法だ。これに従ってボーちゃんがハンドル役(もちろんハンドル役が周囲の状況を確認するのだろう)となって総指揮を執り、アクセルには風間が、ブレーキにはネネが、クラッチはしんのすけ、シフトレバーはマサオという配置で運転することになったのだ。ボーちゃんが周囲を確認しながらハンドル操作をし、ギアアップを命じるとまず風間がアクセルを緩め、しんのすけがクラッチペダルを押し、マサオがシフトレバーを動かし、しんのすけがクラッチを戻し、風間がアクセルを押すという手順となるのだ。う〜ん、確かにしんのすけが一番地味かも、マニュアル車全盛の世の中なので、今時の子供はクラッチなんて知らないんだよな…。
 ちなみに、このバスは組長先生の個人所有物であるらしい。

…ようち園バスで逃げる「かすかべ防衛隊」一行に、「イエスタディ・ワンス・モア」の魔の手が忍びよる。
名台詞 「ぶっ飛ばすぜ、ベイビー!」
(マサオ)
名台詞度
★★★★
 こちらは古今東西ギャグマンガの王道的なギャグだろう、普段は大人しく臆病なキャラにある条件を与えると全くの別キャラに変身するというのは多くのギャグマンガで「おやくそく」だ。「クレヨンしんちゃん」にもようち園の上尾先生がこれにあたり、普段は恥ずかしがり屋で無口な先生が眼鏡を外すと活発な女性に変身する。だが今作品ではその上尾先生を変身ギャグキャラとして使えず、マサオにこの役割が回ってきたというところだろう。
 ボーちゃんのようち園バスの運転操作をローテーションで行うという提案は即座に実行に移され、最初にハンドルを握る役を取ったのはマサオだった。冷や汗を流して運転していると、遂に「イエスタディ・ワンス・モア」の追っ手が迫ってくる。「ひぃ〜」と悲鳴を上げながらハンドルを切ると左隣にいた車に激突、その車はそのまま道路際の田んぼに突入して脱落する。それを見たマサオは同じように右隣の車にバスをぶつけてみる、するとその右隣の車もハンドルを取られて田んぼに突入して脱落。するとマサオはしばらく車が脱落した方向を見たかと思うと、目つきが変わってこの台詞を吐く。そして突然運転が手荒になり、派手なカーチェイスが始まるのだ。その表情は連載開始当初から「クレヨンしんちゃん」を読んでいた私ですら、見たことのないマサオの表情だ。
 派手なカーチェイスを繰り広げながら、「しっかり掴まってな」と叫ぶマサオの姿はこれがあの泣き虫で気弱なマサオなのかと疑うほどの豹変ぶり、「あい、今行くぜ」と好きな女の子の名前を叫びながら川に突っ込むシーンはこの映画でマサオ最大の見せ場であろう(あい…ようち園のクラスメイトの酢乙女あいちゃん、世田谷の豪邸に住む大金持ちの娘でしんのすけに惚れている。この映画では出番無し)。
 変身ギャグネタとはいえ、これまで見たことのないマサオの姿は印象に残る物だろう。その中で変身のきっかけとなったこの台詞は強烈に印象に残る。
 またこの変身を演じた声優さんの演技も素晴らしい、ここまでの臆病で気弱、しんのすけ風に言えば地味なキャラクターを徹底的に表現していたのも凄いが、そのキャラクターの声を崩さずに変身して攻撃的になった演技を立派にこなしている。
 そのマサオ君の担当は一龍斎貞友さん。このサイトの読者に多いと思われる「世界名作劇場」シリーズのファンの方々には、鈴木みえという名前で紹介した方が分かり易いだろう。当サイトで取り上げ済のアニメでは「小公女セーラ」「南の虹のルーシー」「わたしのアンネット」に出演しているので、私にとってとてもなじみのある声優さんの一人だ。その他にも「北斗の拳」のバットや「少年アシベ」のスガオなどで印象に残っている。近年になって娘と見ているアニメでは「忍たま乱太郎」のしんべヱ、「ちびまるこちゃん」のお母さんで活躍中なので現在でもなじみが強い。やっぱこの人、私にとってはベッキー(「小公女セーラ」)なんだよなぁ。
名場面 カーチェイスシーン(メカニック要素・アクション要素・ギャグ要素) 名場面度
★★★★
 名台詞シーンを受けてマサオの運転が攻撃的になり、本格的なカーチェイスシーンへと突入する。ようち園バスが土手に駆け上がり、そして乗り越える。追っ手の車達もそれを追って土手を乗り越そうとするが、多くの車が土手から降りるときに横転。さらに三段重ねになってしまう一段まで出てくる始末。それでも何とか逃走を妨害しようとする追っ手達を、見事なハンドルさばきで華麗に避けるマサオ。さらにマサオはボート乗り場の桟橋から川へ飛び込み、水中を走って対岸へと逃走するという離れ業をやってのける。
 このシーンの見どころは、第一に車の描き込みの緻密さを忘れていないこと、どんな派手な動きをするシーンでも「スバル360」を精密に描くことを忘れない丁寧な仕上がりになっている。これがこのアクションシーンを完璧なカーチェイスシーンに描いている理由の一つだ。第二にそれらの車の動きが大胆に、かつ活き活きと描かれていること。特に「スバル360」が土手から転げ落ちるシーンの迫力や緻密さ、かつ動きの細かさと軽やかさはこの迫力シーンを盛り上げる大きな要素だ。第三にその中でもギャグを忘れていないこと、敵の「スバル360」が偶然にも三段重ねになり、しかもそのまま突っ込めばいいと構成員が思い付く台詞もこれまでの流れを忘れず「イカすアイデア」と昭和40年代調の言い回しにしている辺りも芸が細かい。こんな時にもギャグを忘れてないからこそこの映画は「ギャグアニメ映画」と成立しているのだし、その上で派手なアクションシーンを緻密に描いて完璧な物にしている、私はこのシーンについてはスタジオジブリの作品におけるアクションシーンよりも数倍上だと感じている。
 このシーンにおけるマサオもこのシーンを盛り上げている要素のひとつで、これは名台詞欄を参照されたい。またバスの中で寝ているひまわりをキチンと出す辺りも、キャラクターに対する配慮という面では上手いと思う。とにかくこんな完璧なアクションシーンはアニメでは始めてみせられたと感心したのだ。
研究 ・ようち園バスの川越し
 物語は派手なカーチェイスに突入、ここで「かすかべ防衛隊」逃走の切り札としてマサオがようち園バスで川へ飛び込み、水中を走って対岸へ逃げるという離れ業を演じる。いつも気弱で泣き虫で地味なマサオらしくないこのシーンを、ここでは検証してみたい。
 シーンの状況であるが、マサオが運転するようち園バスが追っ手の車を避けると川にあったボート乗り場の桟橋へ突っ込む。そしてそのまま桟橋からジャンプし、川の中へ突っ込んで水没したかと思うと、そのまま川底を走行したのか浮上してきて対岸に渡るという凄いシーンだ。なおこのシーン、よく見ると桟橋の突端が少し盛り上がってバスが「ジャンプする」という描写に説得力を与えるように作られている。
 まずバスの速度を算出しよう。バスが桟橋に差し掛かるシーンをよく見ると、バスが自分の全長分の距離を走るのに0.6秒掛かっている事がわかる。次にバスの全長だが、前研究欄でこのバスはマイクロバスと推察した。前回リンクを張った日野自動車のサイトによると、日野自動車が販売しているマイクロバスは全長6.99メートルであることが分かる、ここでは7メートルとして計算しよう。すると秒速11.5メートルだから41.4km/hということになる。ちなみに、バスの全高は約2.6メートル(「耳」部分は除く)。
 次に川幅、しんのすけらが住んでいるのは埼玉県春日部市、前回以前の考察で「20世紀博」が春日部市近辺で行われていると考察した。春日部市で劇中に出てくるような土手を持っている川は古利根川と江戸川がある。古利根川は土手か劇中に見られるような高さでなく、かつ土手の中の川原もとても狭く劇中のような行動は不可能だろう。江戸川ならば土手の周囲が田園地帯であったことと整合性が合うし(古利根川は春日部の中心街を流れる)、土手も高く川原も広く、なによりもボート屋も実在する。だから江戸川と仮定するが、春日部市から江戸川を渡ると千葉県へ行ってしまい、春日部市内にあると思われる「20世紀博」へ向かったのと整合性がなくなってしまう。ここでは川を直接渡河する事で一度千葉県に入り、逃げ回っているうちに国道16号等の道路に入ってまた春日部市側に戻ったという解釈をしよう。春日部市付近における江戸川の川幅は、東武野田線の橋梁付近で120メートル程度、国道16号線付近なら80メートル程度。間を取って100メートルとしよう。ボート乗り場の桟橋が15メートル(秒速11.5メートルで走っているバスが約1.3秒で走り抜けた)なので、飛び越える距離は85メートルと言う事になる。
 劇中ではバスが桟橋でジャンプしてから、川底に着底して走行を再開するまで約4秒。その時の川の水深はバスが完全に水没する深さなので、バスの「耳」を考慮すれば水深2.7メートルと見るべきだろう。桟橋の高さを考慮すると3メートル落下することになる。
 まずジャンプを考慮せず、41km/hのバスがそのまま桟橋から川に飛び込んだとしよう。空気抵抗や水の抵抗を無視すると、0.78秒後に9メートル先の水底に落ちる計算となる。その際バスは前へ33度傾き、速度は50km/h…人はこれを「墜落」という。
 ジャンプ角や上昇速度をアニメ画面から推測しようとしたが、それを入力したら絶望的なのは見えてきた。だからここでは劇中のように「41km/hで走る物体がジャンプし、滞空時間4秒の後にマイナス3メートル地点に着地」するにはどうジャンプすればいいかという計算をしてみることに…したが、残念ながら計算の結果それは不可能だと判明した。もしこの速度で垂直にジャンプしても、2.6秒滞空した後にその場所に落ちてくるだけだ。仮に劇中の描写のようにジャンプ時の角度が5度程度だったとしたら、滞空時間は僅か0.9秒、10.2メートル跳ぶことはできるが、着地姿勢はそのまま落ちたのとほぼ変わらない…やっぱ「墜落」だ。このようなシーンを再現するには、マサオがようち園バスを900km/hで運転すればいい。そうすれば5度の打ち出し角でもって4秒間滞空、しかも着地角度5度というなんとか着陸できそうな角度で着地する。だがその場合、ようち園バスは江戸川の対岸どころか900メートル先まで跳んでしまうが。
 結論、野暮な計算をするんじゃなかった。

 本当は「スバル360の三段重ね」を考察したかったが、これについては先に考察したサイト様がある(「クレしん科学読本」というコーナーをどうぞ)のでこちらにしました。

・注意
ここから2回分、名台詞欄または名場面欄にお下品なネタが続きますので、お食事中の方はご注意願います。

…なんとか対岸に逃げた「かすかべ防衛隊」一行だが、また追っ手が迫ってくる。
名台詞 「でも無免許運転してるじゃない。」
(ネネ)
名台詞度
★★★
 ナイスツッコミとはこの台詞のことを言うだろう。バスの運転をローテーションでマサオから代わった二番手の風間、彼はその真面目な性格で何が何でも交通法規を守ろうとする。大人達がいなくなって警察も正常に機能していないというのに…だから交通ルール無視で追っかけてくる追っ手に簡単に追いつかれ、あっという間に囲まれてしまう。これを見たネネが「何やってんのよ!」と叫ぶと、風間は「いくら敵に追われているからって、交通法規を破るなんて事は僕には出来ないよ」と答える。これに絶妙なタイミングでネネがこのツッコミを入れるのだ。ネネがこのツッコミを入れた瞬間、BGMも止まって3秒間の沈黙、そして「ああー、そうだった!」と頭を抱える風間。この全てのタイミングが絶妙で、冷静に見てみれば対して面白くないシーンがとてつもなく面白くなってる。その会話の急変という中心的役割を持ち、このやりとりで最も印象に残るのがこの台詞だ。
 さらに「僕は犯罪者だ〜」と運転席のシートを叩きながらいじける風間を見て、ネネの心配する点が微妙にズレてるのもいい。「ルールは絶対に守る」という真面目な風間がルールを破ったショックを受けているのを励ますのでなく、ハンドルから手を離してしまっている方に心配が行くのだ。このいじける風間の横でネネが「ハンドル ハンドル」と慌てているシーンも、このギャグシーンを盛り上げているひとつの要素で、このオチはまさに臼井儀人作品のノリが上手に再現されていると思う。
 いずれにせよ、風間運転シーンのギャグはネネのこの一言が絶妙なタイミングで発せられたことで、その後の展開と共に素晴らしい「間」が生まれてそれによって面白さが倍増する素晴らしいギャグに完成したと思う。この台詞を通じてギャグはネタと同時に「間」も大切なんだと感じた。
名場面 しんのすけVSひろし&みさえ(アクション要素・ギャグ要素) 名場面度
★★★★
 ネネの運転を挟んで、いよいよバスの運転ローテーションはしんのすけの番に回ってくる。「しゅっぱつおしんこ!」としんのすけが叫ぶと、それに呼応してマサオがアクセルを踏み込む。バスのスピードは上がり、スラローム走行で「スバル360」を右へ左へと避けながらごぼう抜きして行く。
 そこへひろし・みさえ・組長が乗った「スバル360」が現れる。ひろしが「変身!」と叫ぶと彼はいつの間にかに「ひろしSUN」の衣装に替わり、「スバル360」の屋根の上でポーズを取りながらしんのすけの脇に出てくる。そしてバスに乗り移ろうとするが、しんのすけがハンドルを切ったためにバスと「スバル360」の間に落ちそうになるが何とか堪える。ひろしが「助けて〜」と悲鳴を上げると、後部座席の組長が立ち上がり助けるかと思いきや、ひろしの背中を使ってバスに乗り移る。そしてバスの屋根の上で「僕のバス!」と叫んだかと思うと看板に激突する。それを尻目に耐えるひろしだが、しんのすけが窓を開けてとどめの一発(もちろん屁)でバスから手を離してしまい、ポーズを取るも今度はしがみついていた「スバル360」のドアが外れて転落。そのまま脱落する。
 ひろしが脱落すると立て続けに、みさえが「魔法少女みさリン」になって登場する。彼女がポーズを取ったと思うと、すぐにバスに飛びつく。そして開いたままの窓にしがみついて「おしおきの時間ですよ」としんのすけに詰め寄るのだ。しんのすけがすかさず窓を閉めると、みさえは「魔法少女」必須のアイテムであるステッキを車内に落とし、自らは外に落ちてしまう。それでも窓枠に必死に掴まるが、しんのすけが「母ちゃん忘れ物」とステッキを差し出すと、みさえはステッキを弾いてしまい後ろへ飛んで行ってしまう。もちろんみさえはこれを追って脱落。
 とにかく凄いシーンだと思った。まるで欧米のアクション映画を思わせる派手なカーアクションシーンと、ギャグの融合。しかもしんのすけが屁をこくというお下品なギャグとの融合だ。追っ手の「スバル360」としんのすけが運転するようち園バスの間で繰り広げられるアクションは、臨場感とスピード感があって本当に素晴らしい。もちろんメカニックである「スバル360」がしつこく精密なのもこのシーンを盛り上げている。またひろしとみさえが脱落して行くシーンでの、二人の動きとすれ違う「スバル360」のスピード感は言葉では再現できない迫力だ。
 これだけ完成されたアクションシーンに「クレヨンしんちゃん」独特のお下品なギャグが加わっているのである。ひろしとみえが物語冒頭で出てきたヒーローやヒロインに「いつの間にか」に変身しているし、閉まっていたはずのようち園バスの窓をいつ誰が開けたのかなんて考えてはならない。ヒーローやヒロインにとことんなりきっている二人も良いが、何よりもこの緊迫したシーンで突然尻を出して「屁」で対抗するのはしんのすけらしくていい。いや、こんなギャグはしんのすけでないと出来ないだろう。
研究 ・バスが水中を走るとどうなるか?
 今回は前回研究欄の続きで、引き続きマサオの運転でようち園バスが川を越えるシーンについて考察したい。
 前回研究欄で考察してさんざんな結果が出てしまったジャンプシーンだが、これが数学的・物理的な計算を無視してバスが劇中描写の通り川を渡ってしまったことにして話を進めたいと思う。この場面でもうひとつ気になるのは、水中を走ったバスがどうなるかである。
 まずバスのエンジンなどが水中でも動くかと言う問題だが、これはエンジンが停止しなければ問題なさそうである。何よりも水中にいたのは短時間なのでエンジン内部に浸水する前に岸に上がれそうだからだ。電気回路なども海水でないからすぐやられることはないだろう。だが水中でもばすはちゃんと動くという前提で話を進める。
 問題はバスの客室に浸水しないのか?という点だと思う。実はこのバスの床ではひまわりが眠っており、その隣にはシロもいる。この1人と1匹はバスの床に近い位置で呼吸しており、短時間でも床が水没するようなことがあれば生命に関わる。本当に大丈夫だろうか?
 ま、結論を言うと水中にいる時間が短いからこれも大丈夫だと思う。恐らくバスが水没した瞬間、バスの窓や乗降口の隙間から噴水のように水が流れ込んできたことだろう、特に運転席の窓には「20世紀博」構成員がヌンチャクで割った穴があるが、この程度なら窓の隙間から入る水の量と大差ないはずだ。時代的にバスの窓は固定窓(開けることが出来ない)で完全密封の可能性もあり、そうすると水が流入する経路もかなり限られる。いずれにしても水中にいる時間が短いので、床に水が溜まったとしても寝ている赤ん坊の呼吸に問題ない程度で済んでいるだろう。せいぜい水深1センチ程度で、バスの床面積を考えればそれでも上陸直後のように扉の隙間から水が流れてくるというシーンに妥当性はあると思う。
 ただし、バスの入り口の折り戸が水圧で開いてしまった場合は話は別になる。乗降口から大量の水が一気に流入し、ひまわりやシロの窒息の危険どころか、乗っているみんなが川に流される危険まで出てくる。だが上陸したバスの扉は閉まったままなので、幸運にも水中で乗降口の扉が開くことは無かったのだと断定できる。
 ここまでの考察の参考として、昨年9月に広島県で起きた事故を紹介したい。広島県のアンダーパスでマイクロバスが水没、乗っていたのはスイミングスクールの子供達で、全員水着に着替えて泳いで脱出したのだという(泳げない運転士だけは屋根上で救助を待っていたそうだ)。つまりマイクロバスが水没しても、乗っていた子供が水着に着替える程度の時間は問題ないのは確かだ。ましてやこのシーンではバスは数秒間しか水中にいないのだから、車内水没の問題は心配する必要は無いと断言できる。
 と、ここまで書いて気になったことがひとつ。バスの車内が水没しないと言う事は、車内に空気が湛えられていてバスそのものが大きな浮き袋と同じと言う事だからバスは水没せずに水に浮いてしまうんじゃないかという問題だ。言われてみれば事故で波止場から海に転落した車は、車内が水で満たされるまでは沈まずに浮いているという。だから車内の空気が車外の水圧に負けていてドアが開かず脱出が困難になり、水中に転落した車からの脱出は車内が水で満たされて沈みだした瞬間ならドアが開くのでそのタイミングがチャンスだと聞いたことがある。これと同じで川に飛び込んだバスは浮いてしまうのではないか?
 もし川に飛び込んだバスが沈まずに浮いてしまうのであれば、またジャンプして川を渡るシーンを考え直さなきゃならい。バスが川に飛び込んだ瞬間、プカプカと浮いてくるようでは劇中に描かれたように「水底を走って」対岸に上陸してくることは不可能だからだ。
 その辺りについて調べてみたが答えは出なかった。先の広島県での事故例もバスがどの程度まで水没したか分からず、バスが浮いたのか沈んだのかすら分からなかった。ここでは映画のシーンを再現できるよう、是非沈んで欲しいのだが…。
 またヤボやこと調べちゃったなぁ。

…しんのすけの対抗策によってひろしとみさえが脱落すると、今度はリーダーのケン自らがハンドルを握る「2000GT」が「かすかべ防衛隊」の乗るようち園バスに迫る。だがその時、バスの運転台にいたのはしんのすけではなく、飼い犬のシロだった。
名台詞 「空が青いゾ」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★★
 ケンが運転する「2000GT」がようち園バスに迫る。「もう逃げられないぞ」とほくそ笑むケンの目に映ったのは、バスの屋根の最後部で仁王立ちになっているしんのすけの姿だ。しかもただ仁王立ちになっているのではない、ズボンを下ろして男の子にしか分からない「立ちションポーズ」だ。バスを運転しつつも尿意に耐えられなくなったしんのすけが、飼い犬のシロに運転を任せて事もあろうに屋根の上で放尿しようとしているところだったのだ。その尿意の我慢という緊張感から脱した瞬間のしんのすけが、放尿の直前に放った独り言がこの台詞だ。
 屋根の上で立ちション…これは女性には理解できないに違いないが、男の子なら誰もが憧れるシーンかも知れない。青空の下で誰に見られるわけでもない空間で、気持ちよく尿を飛ばせたら…。しかもさんざん尿意を我慢し、それからやっと開放される安堵感も加わっている。そんな男の子の気持ちをしんのすけはこのたった一言で表現してくれた。
 それだけではない、しんのすけを演じる声優さんの矢島晶子さんが上手に演じてくれたおかげで、この映画では絶対忘れられない台詞として印象に残った。女性なのにこの「男の子にしか理解できないであろう」台詞を、キチンとこの台詞の意図を込めて演じてくれたのだ。それほどこの声優さんがしんのすけになりきっているということであろう。
 こういうお下品に要素をギャグというだけではなく、ただお下品なだけでなくてそこには登場人物のリアルな気持ちや言動が込められている。そういう意味で完成されたお下品ギャグであり、それを完成に導いたのがこの台詞であり、この台詞を発する声優さんの演技力だったのだ。
名場面 カーチェイスシーン(メカニック要素・アクション要素) 名場面度
★★★★
 ここで取り上げるのはカーチェイスシーンでも最終部分、しんのすけの立ちションの後だろう。「かすかべ防衛隊」一行はバスが「20世紀博」へ向かっていることを知り、ここへ突入しようと決める。そこでまだしぶとく追っていた「スバル360」のうちの2台が果敢にもバスに体当たり攻撃を掛ける。また別の車が開いたままの運転席窓に接近、ここから車内にロケット花火を打ち込むが、ボーちゃんが機転を利かせて乗降口のドアを開けたことでロケット花火はバス車内を通過し、反対側にいた「スバル360」の車内で炸裂、1台がここで脱落する。またロケット花火を放った「スバル360」も続いての体当たり攻撃の際に、外れたバスのホイルカバーが直撃して脱落。続いてバスを後方から追う「スバル360」が一斉にパチンコで攻撃をし、バスはリアガラスやテールランプに被弾してガラスが割れる。
 そんな過程を経てバスは「20世紀博」に乗り込む、「20世紀博」の中ではこの状況を見た構成員が入り口ゲートを閉じ始める。バスはギリギリのところで締まりかけのゲートをくぐり抜けるが、追ってきた大量の「スバル360」が閉まったゲートに次から次へと激突。「スバル360」の山ができてこのカーチェイスシーンは終わりを告げる。
 とにかくこのスピード感と迫力は見た者でないと分からないだろう。恐らく元ネタ的には洋画の「スピード」も入っているんだろうけれど、この映画ではアニメにだからと言って妥協することはなく、キチンとそのスピードによる迫力を演じている。車のタイヤの回転の表現、路面の動き、そしてBGMひとつ取っても迫力があるのだ。
 ただそうやって車を走らせて「鬼ごっこ」だけではなく、その中で「戦い」も演じられているのがこのシーンの素晴らしいところだ。ロケット花火のシーンでは一連の行動を隙を作らず連続的に見せることで、このシーンのスピード感を倍増させる役割を持っている。それだけではなく主人公一行が一度危機に陥るという事で迫力を追加し、これを救うのがボーちゃんという意外性まで添えている。パチンコのシーンでは銃撃戦をやっているような迫力が追加され、バスが「20世紀博」に飛び込む頃には見ている方の緊張感は最高潮となる。そこで閉まるゲート…「手に汗握る展開」として完成しているというほかない。
 それだけでも素晴らしいアクションシーンだが、最後にうまく「オチ」を付けているから凄い。それまでようち園バスを追っていた追っ手を「いつの間にかにいなくなっていた」なんて寂しい展開にせず、「20世紀博」のゲートを閉じることでほぼ全てがこれに激突して「スバル360」の山を築いて終わるというのは、追っ手の方の顛末を滑稽に描いた面白いシーンだと思う。これは恐らく「ルパン三世・カリオストロの城」辺りが元ネタなんだろうけど、その直前のカーチェイスシーンとの組み合わせで見ればそれに匹敵する面白さになっているはずだ。
 とにかくこのようなアクションシーンに必要な、緊張感、スピード感、迫力、物語としてのオチという点全てが揃っていてそれぞれの連携によってとても印象に残るカーチェイスシーンである。そしてこのカーチェイスが終わると、「かすかべ防衛隊」の面々が舞台から降りて物語は次の段階へ進むのだ。
研究 ・カーチェイスシーンのコース
 続いてこれらカーチェイスが何処で行われているのかを考えよう。実はこれを考えると「20世紀博」の開催地点まで分かってしまうのだ。久々登場、この地図を見ながら考察して行きたい。
 まず「かすかべ防衛隊」の面々が夜を明かした「サトーココノカドー」というデパートの位置を考えたい。最初は純粋に春日部市街地の真ん中、つまり東武線春日部駅付近と考えたのだが、原作の「サトーココノカドー」を見てみるとそうとは思えない点がある。それははみさえが車で行くシーンが良く描かれており、その際に出てくる駐車場が広そうな点だ。また今映画で出てくる駐車場も大変広く、これらの描写を見ていると駅前より郊外のロードサイド店の可能性が高いことだ。かといって周囲を見るとやはり街の中にあり、駅が近い雰囲気もこの映画では描かれている。原作の「サトーココノカドー」を見てある事実に気付いた、原作ではこの「サトーココノカドー」のお総菜売り場に「6時半の男」の異名を持つ丸山文男という店員がいる。彼は閉店30分前になると割引シールを持って総菜コーナーに現れ、様々な必殺技で割り引きシールを貼る名物男なのだが、実はこのキャラは臼井儀人さんデビュー作「だらくやストア物語」発祥のキャラクターなのだ。「だらくやストア物語」で丸山文男が勤務している店は「だらくや北春日部店」である。「クレヨンしんちゃん」では「だらくや」が「サトーココノカドー」という名称に変わったという解釈を取れば、このデパートは北春日部駅付近と考えることが出来る。つまり「サトーココノカドー」は「1」地点と思われる。
 続いてマサオがようち園バスでカーアクションを演じたシーンであるが、これは地図の「2」地点と考えられる。この位置にボート乗り場があるかどうかは置いておいて、地図や空中写真で見る限り、田んぼに囲まれた土手や川原の雰囲気がこの辺りに似ているからだ。ここで無理矢理対岸に渡り、一行は一度千葉県野田市へ行ったのだろう。
 続いて前回の名場面シーン、しんのすけが運転してひろしやみさえと派手なアクションとギャグを演じた場所だ。これは組長先生がようち園バスの屋根に上がるシーンから推察できる。組長先生が激突したのは「古河26km 幸手12km」と書かれた標識なのだ。この標識が実在するかどうかは分からないが、地図を見る限り国道4号線「春日部古河バイパス」を国道16号「春日部野田バイパス」と交差する地点から少し北へ行った辺りが、古河市街地へ26km、幸手市街地へ12kmという地点に合致しそうだ。道路の規模と方面からいってこの道は国道4号バイパスと考えて間違いなく、それが地図の「4」地点となる。逆算すると風間が「無免許で順法運転」したのは「3」地点、この道路の制限速度が本当に40km/hなのかどうかは分からないが、劇中の雰囲気と空中写真で見た雰囲気は似ていると思う。
 では真打ち、「20世紀博」会場だ。名場面欄シーンの直前に「20世紀博 この先2.5k」という看板が現れる。劇中の多くの台詞から「20世紀博」が春日部で開かれていることは間違いないだろうから、春日部市域であることは間違いないだろう。まぁ隣の杉戸町にあっても近隣の最大の街である「春日部」で行ったことにされる可能性は高いが…。前述の標識からこの看板までどれくらい走ったのかは分からないが、組長先生が激突した看板とその時のバスが向かっていた方角と道路、それに春日部市域で行われているという設定を総合すると、「20世紀博」開催地は地図の「5」地点と見るべきだろう。ここなら周囲を田んぼに囲まれているという劇中での描写と合致するし、北春日部駅付近にあるデパートからも見えることだろう。
 「かすかべ防衛隊」の一行がバスを運転してカーアクションを繰り広げた距離は、総延長21.5kmにもなる。だいたい一人当たり4キロ程度運転したと言う事だろう。これは方向感覚など考えていない幼児が辿ったルートと考えれば妥当だし、追っ手に追いつかれる前(つまり「2」地点より前)に狭い道に入って姿をくらますという作戦を取ったと考えられなくもないだろう。一度は千葉県方面に逃げつつも、やっぱ戻って来てしまう辺りが子供らしくて良いと思う。
 もし「古河26km 幸手12km」の標識をご存じの方がいらしたら、是非ともご一報願いたい。

シロの運転で何とか「20世紀博」の中に乗り込んだ「かすかべ防衛隊」一行だが、バスが柱に激突したことで一行はあえなくケンに捕まってしまう。だがしんのすけだけはひまわりとシロを連れてなんとか逃げ切る。逃亡に成功するとシロが何かの臭いに気付く、シロが辿る臭いの方向へ向かうと、そこで万博のマークが付いた部屋を見つけるのだ。
名台詞 「父ちゃんは父ちゃんなんだよ、この臭い分かるでしょ?」
(しんのすけ)
名台詞度
★★★★
 ひろしは子供の頃に戻って自らの記憶に残っている万博の世界に完全に浸ってしまった。両親に「月の石を見たい」と駄々をこねるが、父親は行列が大変だとそれを却下する。これはひろしが1970年に現実に体験したことなのだろう。
 そんな「過去」に突如しんのすけが現れる。そして幼いひろしに「迎えに来たよ」と訴えるが、ひろしは「変な子だ」として取り合おうとしない。それで困ったしんのすけはケンが「大人達は昔の臭いを嗅がされ子供に戻ってしまった」と言ったことを思い出す。「だったら今の臭いだゾ」と言い放ったしんのすけはひろしを押し倒し、靴を奪い取る。その靴からは強烈な臭いが漂っていてしんのすけも思わず顔をしかめるが、その靴をひろしの鼻にあてがってひろしにこう訴えるのだ。
 まずは冒頭「ひろしSUN」のシーンで取り上げて保留した名台詞が、ここで回収されているのは皆さんお気づきだろう。現在のひろしも万博でアメリカ館の「月の石」をみれなかったことを悔やんでいる。これが彼にとって大阪万博における痛恨の思い残しとなり、彼の記憶を縛っているのは間違いないだろう。だから彼は「20世紀博」の臭いによって洗脳されたとき、万博に行くと言うことにこだわったのだ。彼が見たかったのは「月の石」なのは間違いないが、彼が「20世紀博」の万博の部屋へ来ても、いつも思い出すのは「月の石」が見られなかった悔しさなのだ。そして「20世紀博」においても、彼は「月の石」を見る事が叶わないのである。それはニセモノの世界だから…というのが保留した序盤での説明だ。
 その過去の記憶をさまよっているひろしの目の前に現れたしんのすけ。しんのすけは父を連れて行くことに全力を尽くさねばならないことはよく承知していたことだろう。そして「臭い」がキーワードであると分かったとき、彼は迷わず「父親の臭い」が何であるかを思い出し、それが目の前にあると分かると、迷うことなく過去の記憶に縛られているひろしに嗅がせるのである。その父親を取り戻そうと必死のしんのすけの気持ちが良く表れている台詞だ。
 またこのシーン、決してギャグではないが。臼井儀人作品らしいネタであることは、「クレヨンしんちゃん」以外の臼井儀人作品をご存じの方なら心から思うはずだ。氏の作品には「靴の臭い」をネタにした作品が数多くあり、ときにはこのネタだけで単行本の半分近くを埋めている事もある。靴の臭い男、それに対峙する周囲の人々、このような臼井儀人作品らしい構図が、味付けによってはギャグだけでなくこのような感動シーンにも使えると言う事を示している。いや、このネタをギャグではなく感動シーンに持ち込んだこの映画の制作者は天才だと思う。
名場面 ひろしの半生(芸術要素・感動要素)。 名場面度
★★★★★
 「自転車の後ろから見上げる父の大きな背中、夏の故郷での釣りからの帰り道」「友達と遊んだ後、アイスキャンデーを片手に家路につく秋の日」「初冬、好きな女の子と下校」「そしてふられて一人で家路につく秋の日」「新幹線で都会へ出たあの日」「就職、上司に叱られ先輩に可愛がられ…」「愛する女性との出会い、桜並木の下を歩く」「夜、病院へ走るひろし、愛するわが子の誕生」「マイホームへの引っ越し、日に日に大きくなる我が子」「汗水垂らして働く夏の日、家族の幸せを守るために」「家路、帰りを待つ家族…そして団らんのひととき」「そして自転車の後ろで自分の背中を見つめる息子」…走馬燈のようにひろしのこれまでの人生が流れる。これは名台詞シーンでしんのすけに自分の靴の臭いを嗅がされた「子供に戻ってしまったひろし」の脳裏に浮かんだものだ。ひろしはこの「今の臭い」を嗅がされ、自分の人生を取り戻し涙を流す。そしてしんのすけが「父ちゃん、オラがわかる?」と問うと、「ああ…」と言葉にならない返事をしてしんのすけを抱きしめる。
 名台詞シーンを受け、「20世紀博」に洗脳され子供の頃に戻ってしまったひろしの洗脳が解ける大事なシーンだ。この物語の展開が変わるきっかけのシーンを美しく描いた。3分10秒掛けてひろしの人生を流したのは、この洗脳が解ける課程を詳細に描くことによって物語の展開が大きく変わることを示唆するだけでなく、一人の人間が生きてきて家族を築き、どんな事があってもその絆は失われていないという面を強調する狙いがあったと思われる。その「生きてきた証」と「家族の絆」は誰にも壊すことが出来ない物だと訴え、この物語のテーマに迫る部分だ。
 私はこのシーンを初めて見たとき、これが「クレヨンしんちゃん」のワンシーンだとは信じられなかった。美しく感傷的に描かれたひろしの半生は彼の生き様を示しているだけではなく、自分の人生と比較して物語の設定にはないいろいろな物を想像させてくれるだけの美しさがある。軽快で強烈なギャグが続く臼井儀人作品とは一線を画しているが、「クレヨンしんちゃん」という物語からは踏み外しておらず、この物語をある側面から芸術的に描くとこうなるという意外性に正直驚いた。
 その中でもギャグを忘れていないが、それはあくまでも「ひろしが今置かれている状況(…靴の臭いを嗅がされている)」という範疇のものと、普段通りの野原家の光景の範囲内でしかなく、この美しさを壊していないどころが上手く彩りを加えているのである。そして最後は、ひろしが最初に思い出した「父の背中」を今度はしんのすけが見ているというシーンで終わる。親から子へ、子から孫へという生命と記憶のリレー、これを思い出してひろしは泣く。しんのすけがかけがえのないものを教えてくれたと泣いたに違いない。そして彼は立ち上がるのだ、続いて妻の洗脳を解くために。
研究 ・「かすかべ防衛隊」のみんなはどうなった?
 ようち園バスで派手なカーアクションを演じ、「20世紀博」に乗り込んだ「かすかべ防衛隊」一行。最後はシロの運転で上手く乗り込めたので、みんなで運転そっちのけでシロを胴上げしていたら激突という悲惨な最期を遂げた。風間・ネネ・マサオ・ボーちゃんの4名は「イエスタディ・ワンス・モア」の構成員に捕まり、しんのすけ・ひまわり・シロはなんとか逃げ出す。物語は逃げ出したしんのすけ達を中心に描くことになるのだが、ここまでひろしやみさえを差し置いて主役級の活躍をしていた「かすかべ防衛隊」のその他4名はなんの救いのないまま画面から消えてしまう。これは私がこの映画で唯一の不満と感じている点で、ここではあの4人がどうなったか推測してみたい。
 捕まった4人はケンに「親に会いたい」旨を訴える、だがケンは大人達は昔の臭いで子供に戻ってしまったので会っても無駄だと却下。そして構成員達に「子供部屋」に4人を放り込むように指示する。さて、この「子供部屋」とはなんであろう。
 恐らく物語冒頭に出てきた託児室の事だろうが、劇中で語られたある事実を思い出してしまう。それは「かすかべ防衛隊」のメンバーが「サトーココノカドー」に隠れる直前、子供達を連れ去った構成員の会話だ。投降勧告に応じて出てきた子供は隔離して再教育し、投降せず反乱分子と見なされた子供はどうなるか分からない、という会話をしていたはずなのだ。
 もちろん、「かすかべ防衛隊」一行は「反乱分子」に当てはまるだろう。昨夜の投降勧告に応じず、逃げ回るだけでなくようち園バスを使って反撃までしている。それだけではない、リーダーであるケンのプライドにも傷を付けている。「2000GT」の部品をはぎ取ったり、しんのすけが「2000GT」に立ちションをぶっかけたり…これはただ勧告に応じなかっただけの子供より手ひどい仕打ちを受けてもいい内容だ。
 ところが4人への処置は「子供部屋」…この言葉からは前日に投降してきた子供と同じ扱いを受けるという感じに読み取れる。つまりこの4人も「隔離して再教育」されるのではないかということだ。つまり「イエスタディ・ワンス・モア」は「反乱分子」となった子供への対応は何も考えていなかったと解釈することも可能なのだ。
 もしそうだとすると、この団体はかなりいい加減な組織であることは否定できなくなる。よく考えてみたら、この後のひろしやみさえへの対応を見ていると「何らかの理由で大人の洗脳が解けてしまう」という事を全く考慮していなかったようだ。このいい加減さが彼らの作戦を失敗に追い込んだと思ってしまうが…それじゃなんかこの物語の良さが半減しちゃうなぁ。

自分の足の臭いを嗅がされたことで洗脳から解けたひろしは、同じ方法でみさえの洗脳も解く。正気を取り戻した野原一家の前に、ケンが現れた。ケンは野原一家を自宅へ誘う。
名台詞 「最近、走ってないな。」
(ケン)
名台詞度
★★★
 名場面欄のシーンを受け、「イエスタディ・ワンス・モア」の野望を打ち砕くべく外へ出ていった野原一家。部屋の窓からその後ろ姿を見送るケンに「どういうつもり?」とチャコが問うが、それに対してケンは見送るために屈んだ姿勢を崩さずにチャコにこう答える。
 この「走ってない」というものが具体的に何に引っかけているかはよく分からない。ここから先の展開を示唆したものかも知れないし、自らの野望を砕く野原一家が取るべき行動を先回りして口走っただけかも知れない。この映画の制作者の誰かが自らの運動不足を自覚してケンに言わせたのかも知れないし、この映画を制作した頃の他の映画で「走る」シーンが少ないのを示唆したのかも知れない。他にもいろいろ考えられるはずで、この具体性の無さは視聴者の想像力をかき立てるという意味においてなぜか印象に残る台詞なのは確かだ。
 とにかく、走ってないのである。だから走るしかないという意味であるとも取れる。ひょっとすると野原一家を指して「走ってない」と言っているのかも知れない、と私は最初に感じた。いずれにしろ、これから先の戦いがどんなシーンで描かれているのかを予告しているのは確かだろう。
名場面 同棲時代(ノスタルジー要素・ギャグ要素) 名場面度
★★★
 洗脳が解けたひろしとみさえを見て、ケンは話があるとして野原一家を自宅に連れ込んだ。ケンの自宅は「20世紀博」内にある夕日町の一角にある古風なアパート、居間のちゃぶ台に一家が座るとチャコが紅茶を皆に差し出す。チャコはシロにも牛乳を差し出すなど、優しい面を見せる。
 ここで一家が見せられた物、夕日町で作られた「20世紀の臭い」を拡散装置によって日本中にまき散らすという計画が実行中であることを告げるテレビ番組。そしてケンが告げる、紅茶を飲み終えたらタワー最上階にある拡散装置のスイッチを入れに行くこと、今度の臭いは強烈なので足の臭い程度では洗脳が解けないこと…そしてかれは野原一家に言うのだ、「お前達が本気で21世紀を生きたいなら行動しろ、未来を手に入れて見せろ」と…。野原一家はこの言葉に急かされるように、ケンが住むアパートを飛び出す。
 もちろんこれはケンによる宣戦布告である。「20世紀博」の力を持ってすればひろしとみさえを再洗脳するのは簡単なはずなのだが、ケンは敢えて野原一家と戦う道を取ったのである。それは洗脳しようとしても「ひろしの足の臭い」で無駄になるという理由だけではない、勝利感を得たかったのもあるだろうし、この後のシーンでハッキリするのだがこれを撮影した物を夕日町に流して逆らった者がどうなるかを構成員に見せようとしたという理由もあるかも知れない。ケンが男として簡単な道を取るより、困難な道を取ったと理解することも出来るだろう。どんな理由があるにしても、ケンは戦う道を取ったのである。これによって物語は終盤の野原一家VS「イエスタディ・ワンス・モア」という構図へと完全に切り替わる。
 またこのシーンはここまで説明した本筋とは別に、ノスタルジーな要素を存分に見せてくれる。古風なアパートに「夫婦ではない」大人の男女が一緒に暮らすという「同棲」を描き、1970年代のテレビドラマや日本映画を彷彿とさせるシーンで古き良き時代を感じる大人も多いことだろう。これに夕日町の設定である「夕方」の空の色が上手く彩りを添え、チャコの行動の一つ一つが今度は「母親のような懐かしさ」を見せてくれる点もポイントが高い。部屋に入ったときにチャコが足踏みミシンで縫い物をしていて、優しい表情と声でシロに牛乳をやる、こんな彼女の母性的な動きもたまらないのだ。
 そこに加わる「クレヨンしんちゃん」らしいノリのギャグ、ひろしのしんのすけはチャコという美しい女性がいると知って早速鼻の下を伸ばし、ひろしについてはそれまで見られた警戒モードが瞬時に溶けてしまうほどだ。チャコが紅茶を入れているときはひろしの顔が赤らみ、しんのすけが甘い声で「オラも〜」と言い、横でそれを睨み付けるみさえというのは「らしい」ギャグであると同時に、こういう状況でも美しい女性に弱いという男の性をリアルに見せてくれるから好きだ。多分、このひろしという父親のこんなところが好きだという「クレヨンしんちゃん」ファンは多いと思われる。
研究 ・夕日町の構造
 今回、夕日町の様子が再び詳細に描かれる。いよいよこの町について研究してみようと思う。
 ここは「20世紀博」の建物の中にある町で、この町にある古風なアパートにケンとチャコが住んでいる。それだけでなく「イエスタディ・ワンス・モア」の構成員や家族がここで生活していると考えられるということは前に話した通りだ。同時に夕日町は「イエスタディ・ワンス・モア」が持つ「世の中を20世紀に戻す」計画に必要な「20世紀の臭い」を製造する装置でもあり、この臭いを作るために「イエスタディ・ワンス・モア」の構成員と家族が一般社会から切り離された生活をしていると考えられるのだ。
 「20世紀博」はイベント内容の割に巨大な建物を持つ理由は、このような町を内包しているからなのだ。空の色の再現や「建物の中に建物を建てる」という特殊事情を考慮すると、前に離したようにだいたい建物の5フロアくらいをぶち抜いてこのような町を作ったと考えられる。さらにこれらの町の広さを再現するためには、建物の内部一杯の面積が取れられていると考えて良いだろう。だが後述(「夕日町の生活」)する問題のため、夕日町フロアの下には「20世紀博」のイベントスペースを設置できないと考えられるため、夕日町は建物の地下から低層階をぶち抜いていると推定しているわけだ。「20世紀博」の正面玄関付近には、観客が上層階へ上がるエスカレーターやエレベーター、それを入れるホールなどが必要なのでこの部分は町のスペースとして使えないだろうが、低層部の他の部分は全てこの町だと考えて良いだろう。
 町は照明効果で常に夕景としてある。これはフロアがある程度高ければ可能だが、逆にフロアが低いと空全体がオレンジ色に光っているだけに見えてしまい、「夕景」の効果が出にくい。だからこそ5フロア程度の吹き抜け構造として、間接照明で夕景が再現されていると想定されるわけだ。それでも2階建ての建物を建てれば簡単に3フロア潰してしまうこととなり、建物の大きさは2階建てが限度のはずだ。これは住宅と個人商店程度の再現であれば問題が無いと思われる。町の端部から一定の距離は上手く人が入れないように作られていて、遠景は壁に精密な絵を描くことで再現していると考えられる。ケンのアパートから見える煙突などは、実際に煙突があるのでなく壁に描かれた絵の可能性が高い。
 出入り口は序盤シーンで明確に描かれている。それは街中にある電話ボックスが偽装されているという設定だ。電話ボックス内の入り口と反対側の壁(電話機設置側)が可動式になっていて、そこが出入り口になっているという構造だ。これだと誰かが電話ボックスを使っていると出入り口が使えないという問題が生じるが、これは問題が無いと私は考えている。なぜなら「建物の中の町」という隔離された空間に住んでいるならば、誰も公衆電話を使う用事など無いはずだからだ。人々はこの空間の中で完結した生活をしているはずなので、全家庭に電話機を設置すれば問題ない。外に電話を掛けるにしても同じ事だ。公衆電話は町に不特定多数が入ってくる可能性があるからこそ、必要となる物なのだ。
 夕日町の考察は次へ続く。

ケンから全てを聞かされた野原一家は、その野望を食い止めるべく走り出す。夕日町が放つ「20世紀の臭い」に洗脳されそうになりつつも、それをひろしの靴の臭いで防ぎながら、一家は走る。
名台詞 「ううっ…っきしょーっ。何だってここはこんなに懐かしいんだ!?」
(ひろし)
名台詞度
★★
 ケンの野望を食い止めようと走り出した野原一家に、「イエスタディ・ワンス・モア」構成員が迫る。野原一家は蕎麦屋の自転車を強奪し、続けて配達中の酒屋が乗っていたオート三輪(ダイハツ・ミゼット)を奪って逃走を続ける。その逃走劇の途中、オート三輪のハンドルを握るひろしが涙を流しながらこう言い、改めて自分の足の臭いを嗅いで正気に戻ろうとする。
 これはこの映画を見ている大人の多くが感じた事をひろしが代弁しているのだろう。ノスタルジーを誘う夕景、名場面欄シーンではカラスの鳴き声や豆腐屋さんの笛の音まで聞こえる。そして古くさい町並み、先ほど嗅いだカレーの臭い(名場面シーン参照)…これらのノスタルジー要素が大人の心を掴んでいる可能性は高い。だが物語がここまで進んだこの段階においては、これらのノスタルジーは全て敵であり悪であり、倒さねばならないものだという悲しさ。この相反する思いがひろしのこの台詞に込められている。その思いはこの映画を見ている大人が抱いているであろうものなのだ。
 この台詞はこの映画が言いたいことのひとつである「過去にしがみついて立ち止まってはならない」というテーマを直に訴えているものだと思う。過去を懐かしむのは良いが、そこにつけ込む悪魔…懐古主義とかそういう問題ではなく、懐かしさで立ち止まって新しいものを作れないだけという不甲斐なさを「レトロブーム」とかいって美化している一部の人たちを揶揄している台詞でありシーンかも知れない。だって、ひろしはそこで懐かしさに立ち止まらず正気に戻ろうと必死になるからだ。このひろしの必死の思いこそが、この映画を見る子供達の心を惹き付けている面もあったに違いない。
名場面 夕日町のおばさん(芸術的要素・ノスタルジー要素) 名場面度
★★★★★
 ケンの野望を打ち砕くために走り出した野原一家、だがその道のりは困難の連続だ。「臭い拡散装置」のある展望台への行き方も分からず、まずは闇雲に夕日町を走り回る。彼らの最初の目的は「夕日町からの脱出」のはずだ。
 走る野原一家を見つけた構成員が無線で何か連絡すると、野原一家の行く手に一人のおばさんが現れ「おかえり」と言う。ひろしとみさえに悩む隙を与えず「お腹空いたろ? さ、ご飯にしよう。今夜はカレーだよ」と続ける。ひろしとみさえが臭いを嗅ぐ仕草をしたと思うと「ホントだ、カレーの臭い」「あ〜、腹減った」と顔をとろけさせる、しんのすけが「父ちゃん母ちゃん!」と叫んでギリギリのところでひろしとみさえは正気に戻り、「先を急ぐんで」と言い残して立ち去る。「後悔するよ」と叫ぶおばさん。
 このシーンの素晴らしいところは映画では再現されないはずの「臭い」がしたような錯覚に陥る点だ。おばさんが「今夜はカレーだよ」と言い、ひろしとみさえの顔がとろけるまでのシーンで、本当にカレーの臭いが漂ってきたような気がしたのだ。映像と音声が再現できる映画で、「臭い」を伝えるのは非常に難しいが、このシーンはそれに成功したと私は思う。
 まずおばさんが「今夜はカレーだよ」と言ったときの表情。なんか悪いことをしているわけではないのに悪いことをしているような素振り、子供のように嬉しそうな口調でそれを語る口調がポイントなのだ。そしておばさんが「今夜はカレーだよ」と言った瞬間に聞こえる豆腐屋さんの笛の音、これはノスタルジー要素なのだが確実に見ている大人の脳を刺激し、懐かしい音と「カレー」という言葉の響きで温かい家庭を想像してしまう。それにひろしとみさえが鼻の穴を拡げて臭いを嗅ぎ、「ホントだカレーの臭い」と始めた瞬間、多くの大人達の脳裏に「カレーの臭い」が思い浮かんだことだろう。この瞬間のひろしとみさえの表情や声は視聴者に「カレーの臭い」を連想させる何かがある。こうして見ている人は本当にカレーの臭いがしたような錯覚に陥るのだ。
 さらにしんのすけが「父ちゃん母ちゃん!」と叫んだ瞬間、その臭いが消えたような気もするのだ。その演出もすごいものがあると思う。
 映画の素晴らしいシーンはその劇中で描きたい「臭い」を感じさせてくれるという話を聞いたことがあるが、私は映画で「臭い」を感じたのはこの映画のこのシーンが初めてだ。初めてこの映画を見たときに鳥肌が立ったのは実はこのシーンである。まさか「クレヨンしんちゃん」の劇場版アニメにこんな思いをさせられるなんて、思っても見なかった。
研究 ・夕日町の生活
 さて、今回は夕日町で人々がどんな生活をしているか考えてみよう。
 ここでの生活はこの建物の中で完結していると思われる。つまり通常は人々が外に出る必要性はなく、衣食住全てが夕日町の中でまかなえるようになっているということだ。これはケンをはじめ多くの人々がここに「暮らしている」という設定から分かることで、「暮らしている」という事は生活の全てをこの夕日町の中に置いていることに他ならない。
 ここでの生活は「ガンダム」のスペースコロニーを想像して貰えばいいだろう。ただ一つ違うのは空気は換気装置によって外と交換されている可能性がある(理由は後述)ので、空気が存分にあること。それと電気・ガス・水道等のライフラインも外から供給されているだろう。それだけではない、中で必要な食べ物も外の世界から「輸入」されている可能性が高い。アニメの夕日町シーンを隅から隅まで見てみたが、農場がある様子はないのだ。少なくとも食糧の自給自足は出来ていないだろう。だが「20世紀博」が田んぼの真ん中で開催されている事を考えると、周囲の田んぼが「イエスタディ・ワンス・モア」所有の農地であり、中で必要な米をここで賄っている可能性は否定できない。
 もちろん人々の生活が営まれているわけだから、ゴミも出るし糞尿の処理も必要だろう。ゴミは中の各家庭が昭和40年代のルールに従って分別して出した物を、「イエスタディ・ワンス・モア」構成員によって現在の春日部市の分別方にまとめ直した上で、企業のゴミとして処理されているのだろう。問題は下水だ、建物の中に建物があるのだから、その一軒一軒に台所や風呂、それにトイレがあるはずなのだ(銭湯の存在はあり得ない…前回研究欄参照)。この町の最下層フロアには実際の町と同じように上下水道管を引かねばならず、構造的に夕日町が「20世紀博」の建物内の最下フロアでないと設置が困難だろう。ただし下水については「イエスタディ・ワンス・モア」が「20世紀の臭い」を再現するために未完備の可能性がある、台所や風呂の汚水は垂れ流され(何処へ?)、トイレは非水洗式で定期的にバキュームカーが町内を巡回させることによって「20世紀の臭い」を作っているかも知れない。言われてみれば「バキュームカーの臭い」を「20世紀の臭い」と感じる人もいるかも知れないのだ。
 バキュームカーついでだが、この町内には自動車が走り回っている。自動車と言ってもみんな昭和40年代を象徴する車だから排ガス対策などされているわけもなく(それも「20世紀の臭い」を作る要素のひとつだろう)、かといってそのままにしておけば中の空気がどんどん悪くなるからと言うのが、換気装置があって外の空気と入れ替える必要性だ。また自動車が走ると言うことは床にはそれなりの強度が必要で、これも夕日町を最下フロアに作らねばならない理由のひとつである(また未舗装道路を再現するなら土が絶対必要で、道路以外にも土壌として多量の土を敷き詰める必要があるだろうから、建物の中間フロアにあったならそれこそ床が土の重さに耐えられなくなる)。
 各家庭にはテレビがあるが、これは外の世界とは違う独特の内容を流している(「夕日町町内テレビ」)ので、「20世紀博」内部にテレビ局を持っていて建物の中に微弱電波で放送しているのだろう。もちろん20世紀のノスタルジーが優先だから有線放送なんてものは無し、人々は屋根にアンテナを立ててアナログ放送をノイズと戦いながら見なければならない。
 町内には店があり、飲食店、電器屋、タバコ屋、八百屋、魚屋等が画面から確認できる。そこで買い物をする人の姿もあるので、この町は経済的にも独立していると考えられる。恐らく町内専用の貨幣として旧札が流通しているに違いない。もちろん中に工場や農地がない以上、経済活動を成り立たせるためには外貨…つまり外の世界のお金も必要だろう。それは「20世紀博」の収益から得られているに違いない。「20世紀博」の収益の一部が、この夕日町に食糧や工業製品を輸入するのに使われているのだ。もちろん、この町の人の大多数が「内職」というかたちで「20世紀博」の土産物を作り、これを税金の代わりに「20世紀博」に治めているのだろう。

 ここまで書いてはたと気付いた。こんな外の世界に依存した生活をしなきゃならないなら、外の世界の人々を洗脳して全員連れ去ったら夕日町での生活は成り立たなくなるのでは? 劇中で描かれた春日部の街のようにライフラインは止まるのだし、「20世紀博」に洗脳された大人達が隔離されても土産物とか買わなくなるし…。

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