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…物語は「かすかべ防衛隊」の面々が、街で無邪気に(?)遊ぶ日常から始まる。彼らの遊びは「リアル鬼ごっこ」だ。
名台詞 「待て〜! 離婚届に判押しなさい! 慰謝料と養育費、たっぷり払って貰うからねーっ!」
(ネネ)
名台詞度
★★
…耳が痛い。
 ではなくて、物語冒頭シーンでのしんのすけらの遊び。最初は風間がオニで始まっているが、この段階では風間やネネの台詞が少し独特とはいえまだ普通の「鬼ごっこ」であった。だがネネがタッチされてオニになると、この「鬼ごっこ」の方向性が決定づけられる。その本当の意味での「リアル鬼ごっこ」の始まりを告げたのは、ネネのこの台詞だろう。
 この台詞を叫びつつ、手作りの「りこんとどけ」をちらつかせながら走るネネの姿をきっかけに視聴者はこの「鬼ごっこ」が単なる「鬼ごっこ」ではないことを知る。そして「やだー」「絶対押すもんか」「リストラ中だから無理」と叫びながら逃げる他の「かすかべ防衛隊」メンバーを見て、だんだん事情が分かってくる。風間がオニだったときの「オニさんこちら」「手の鳴る方へ」というありきたりの「鬼ごっこ」シーンが印象から消え、視聴者が嫌でも「クレヨンしんちゃん」のギャグへ吸い込まれて行く瞬間の台詞がこれなのだ。
名場面 リアル鬼ごっこ 名場面度
★★★
 オープニングテーマが流れる前の冒頭シーン、画面に出てきた「かすかべ防衛隊」メンバーによる「リアル鬼ごっこ」が描かれる。そのルールや詳細は研究欄に譲るが、原作漫画によく出てくる「リアルおままごと」の流れを汲むこの遊びとその描写は、「かすかべ防衛隊」一人一人の個性がよく出ていて私が好きなギャグの一つだ。
 特にこの「鬼ごっこ」を冒頭に持ってきたことは、この映画がこの「かすかべ防衛隊」メンバーが主役であり、彼らが物語を作っていくというこの映画の特徴をキチンと示していると思う。最初に物語の主役の印象を高め、その一人一人の個性を印象付ける役割を持たされたシーンであることは、この映画が進んでいくと理解できるだろう。
 そしてこの中の風間・ネネ・マサオについては、このときに「オニ」になったときの「役」と今後の展開で与えられる役が妙にリンクしているのも面白い。その辺りの詳細はそこまで物語が進んだときに考察しよう。
研究 ・「リアル鬼ごっこ」
 ここまでに記した通り、物語冒頭で「かすかべ防衛隊」の面々が興じている「鬼ごっこ」は単なる「鬼ごっこ」ではない。「リアル鬼ごっこ」と呼ばれる「クレヨンしんちゃん」世界独特の遊びであることだ。これは原作漫画設定でネネが大好きな遊びである「リアルおままごと」を、「鬼ごっこ」に変化させて「かすかべ防衛隊」メンバーの誰もが楽しめるようにアレンジしたと考えて良いだろう。
 原典の「リアルおままごと」は、原作漫画を見ている限りただ単にネネの我が儘で展開が進んで行く「おままごと」なのだ。だが一般的な「おままごと」と違う点として、お父さん役や子供役の性格や設定が明記されていて、日によっては設定に沿った台本に従って「おままごと」をやらされるのである。ちなみにようち園一の金持ちの娘である「あいちゃん」による「おままごと」は「超リアル&ビューティおままごと」だそうで、背景にテレビスタジオセットのような大道具まで出てくる大袈裟な「おままごと」である。
 話を戻して、この「リアル鬼ごっこ」のルールを箇条書きで説明しよう。

1.最初のオニがどうやって決まるのかは劇中では描かれていなかったが、とにかくオニは皆を追いかけるための「理由」を自分で自分に設定して、それに従ったキャラを演じながら追いかけなければならない。
2.プレーヤー(追いかけられる側)もオニの「設定」に従い、それに合わせたキャラを演じながら逃げねばならない。
3.プレーヤーは「平地」に対して一段以上高いところに登ると「セーフ」となり、オニはタッチ出来ない。だがオニが10数える間にそこを降りねばならない。
4.オニはプレーヤーを捕まえるだけでなく、頬に「タッチ」することでタッチしたプレーヤーにオニが変わり、それまでのオニはプレーヤーとなる。
5.1に戻る

…という感じだ。
 この「リアル鬼ごっこ」でオニになったメンバーが設定したキャラは以下の通り。

・風間…「農作物ばかりを狙う泥棒集団」を追う刑事
 他メンバーはネネを「親分」(本人は「姉御」と呼べと言う)にして、ネネの囮になりつつ逃げるが、結局ネネが捕まる。
・ネネ…離婚届に判子を押させ養育費と慰謝料を請求する妻(名台詞欄参照)
 他メンバーは夫を演じつつ逃げるが、マサオだけ逃げ遅れ「高いところ」に上れず捕まる。
・マサオ…妻に離婚を宣告された情けない夫
 他メンバーは「夫が信じられない妻」を演じつつ逃げるが、ボーちゃんのみ滑り台から滑り落ちて捕まる。
・ボーちゃん…オレオレ詐欺
 他メンバーは「騙されるもんか!」と詐欺のターゲットを演じて逃げるが、しんのすけが「高いところ」としてボールに載ってしまい、転倒して捕まる。
・しんのすけ…借金の取り立て、しかもヤミ金融。
 他は借金の取り立てに困る台詞を吐きつつ逃げる。マサオは借金していないが保証人になったとの設定。この追いかけっこのまま次シーンへ。

…とこんな感じの鬼ごっこである。
 この「リアル鬼ごっこ」は、逃げる側と追われる側に理由を付けることで子供達が社会を学ぶのに役立つはずだ、是非とも子供達にこの「リアル鬼ごっこ」を広め、社会教育に役立てたいと思っている…のは私だけか。

・「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ」のオープニング
「オラはにんきもの」 作詞・里乃塚玲央 作曲・小杉保夫 編曲・加藤みちあき 歌・野原しんのすけ(矢島晶子)
 このオープニングは、「クレヨンしんちゃん」を代表する曲と言っていいと思う。てーかこれだけこの漫画や登場キャラを上手く表現し、かつ子供にも覚えやすくて単純な歌は他にないと思う。そのはまり具合は「サザエさん」のオープニングに匹敵していると思うが。
 とはいうものの、この曲がテレビアニメのオープニングとして使われなくなってからかなり経っているにも関わらず、この映画のオープニングとして突如採用されたのかよく分からない。これまで劇場版「クレヨンしんちゃん」の多くの作品のオープニングで、その時期のテレビアニメ版のオープニング曲を使うか、タイアップした歌手の曲を使うかのどちらかであることが多かったが、ここで突然過去のオープニング曲を使ってきたというのがよく分からないのだ。ひょっとしてこの映画は他の劇場版「クレヨンしんちゃん」とはひと味違うというのを示したかったのではないか、と私は想像している。
 曲調は軽快なメロディで臼井作品の作品世界を上手く示しており、歌詞の内容も原作漫画通りしんのすけが周囲の人たちを巻き込んでいく様子が歌われている。やはり聞けば聞くほど「クレヨンしんちゃん」の歌としてこれほどまでにの名曲はないと思うけどなー。
 テーマ曲の背景は他の劇場版「クレヨンしんちゃん」と同様、粘土アニメによるイメージシーンである。多くの作品ではここで出てくるのは野原一家や、ぶりぶりえもんのどちらかである。だがこの作品では「かすかべ防衛隊」が主役の物語であることに相応しく、このオープニングの粘土アニメも「かすかべ防衛隊」の5人だけでイメージを展開する。こんなところにもこの映画が劇場版「クレヨンしんちゃん」の中で異色作だということが見てとれるだろう。

…「リアル鬼ごっこ」に興じていた「かすかべ防衛隊」一行は、いつしか見覚えのない路地に迷い込んでしまう。その路地の奥に見慣れない古びた映画館があるのを見つけた。
名台詞 「おーっ、シロ! 帰って来たらご飯あげるからな。じゃ!」
(しんのすけ)
名台詞度
★★
 名場面欄を受けて帰宅したしんのすけだが、帰りが遅くなったことでみさえに叱られてしまう。そこへ風間の母から電話があり、「かすかべ防衛隊」の面々が行方不明になっていることが判明する。しんのすけがひろしに事情を説明すると、一家は全員で「カスカベ座」へ子供達を探しに行くことになった。
 こうして野原一家が家を出て行く際に、夕飯の時間を迎え腹を空かせていた飼い犬のシロが吠える。そこへしんのすけが一度シロの元へ行き、こう言い聞かせるのだ。
 もちろん、この段階ではしんのすけだけではなく野原一家の誰もが、しんのすけの友人らを発見してすぐに家に帰るつもりであったのだろう。だからシロだけではなく自分達の夕食も後回しにしている。一家は「ちょっと出かけてくる」的な気持ちで家を出て、この後の展開の通りの事象に巻き込まれたことを強烈に示唆するのがこの台詞だ。
 またここでシロが置き去りにされることもこの台詞によって印象付けられる。これは「家で一家の帰りを待つ者がいる」という点を視聴者に強烈に印象付ける点でもあろう。この点を印象付ける理由は、物語が進めば分かることなのでそこで説明したい。
名場面 カスカベ座 名場面度
★★★★
 「かすかべ防衛隊」一行の前にそびえる「カスカベ座」という古びた映画館、しんのすけがこの映画館に興味を示し何とか入ろうとするが、他のメンバーは気が向かない。
 男子トイレの窓が割れていることに気付き、一行は何とか映画館に潜入する。そこで見たものは、誰もいない客席、誰もいない映写室…だがスクリーンにはアメリカ西部を思わせる荒野が映し出されていた。「映画がタダで見られる!」と喜んで客席に座って映画を見るが、しんのすけだけは急に尿意を感じたためトイレへ行く。小用を済ませたしんのすけが仲間達が座っていた客席に戻ると…「かすかべ防衛隊」の面々は姿を消していた。「自分を置き去りにして勝手に帰った」と怒るしんのすけであったが、誰もいない客席の描写が不気味感を増す。
 物語はこんなホラー的要素で唐突に本編部分に入るのだ。不気味な古映画館と、その中で消えた仲間達。それだけではない、このシーンでは早くも「かすかべ防衛隊」の絆がほころび始めている。何とか映画館に潜入しようとするしんのすけと、気が乗らない他の面々という構図で描かれ、しんのすけが仲間を鼓舞するため「かすかべ防衛隊ファイアー!」と叫んでも仲間達は気の乗らない力のないアンサーバックしか返さない。
 そして結果はしんのすけと他の仲間達が離ればなれになってしまうというものだ。だがここでは仲間達の気持ちが離れつつあったことよりも、彼らが消えてしまったことの方が深刻であることはもちろんである。
 また「カスカベ座」の描写も秀逸である。昭和時代の小規模映画館の雰囲気をよく表現しており、この設備の古くささがこのホラー的シーンにうまく彩りを添えているのだ。それに不釣り合いなしんのすけの立ち振る舞いというアンバランスさも、このシーンの面白い点だ。
研究 ・ 
 

…野原一家はしんのすけの友人達を探して「カスカベ座」に到着、子供達の名前を叫びながら館内を探し回る。しんのすけが来たときと同じように無人なのに映写機が回り、スクリーンには荒野の映像が流されていた。
名台詞 「やだ、SFって嫌いよ。」
(みさえ)
名台詞度
★★
 名場面欄で突然荒野に放り出された野原一家は、とりあえず街が無いかと探して歩くことになる。歩いているうちに鎖で厳重に閉ざされた巨大な鉄扉と、木製ではあるが巨大なロボットを見つける。このロボットを見てはしゃぐしんのすけの横で、みさえが一言こう言うのだ。
 良い感じでホラー的な物語で来ているし、またこの映画のタイトルや予告などでは「西部劇」がテーマであることが印象付けられている。こんな物語に突然不釣り合いな巨大ロボットの存在…SFを求めていない人はみさえと同じ反応をしてしまう事だろう。
 そう、この物語のテーマはSFではなく西部劇、それ以前に「クレヨンしんちゃん」自体がSFなどではなくギャグアニメだ。みさえのこの台詞は自分が出ているアニメの特色、その中での自分の役割をキチンと自覚して言っているようで面白く、その上でこのアニメの本来の路線をさらりと視聴者に訴えているという点で興味深いものだ。
名場面 再びカスカベ座 名場面度
★★★
 行方不明になった「かすかべ防衛隊」の仲間達を探しに「カスカベ座」にやってきた野原一家は、館内を探し回ったあと劇場に足を踏み入れる。スクリーンには荒野の映像が流されていて、4人はこれを食い入るように見る。すると画面は映写機の光に変わって…ふと気が付くと劇中のスクリーンに映っていたはずの荒野に、野原一家が立っているシーンに変わる。
 我に返ったひろしが「何処だ?」と問えば、みさえは「映画館…だったよね?」と答える。さらにひろしが「夜だったよな?」ともうひとつの疑問を口にする。そして辺りを見回して唖然とした表情の夫婦を、まるでなめ回すような動きで回転しながら描写する。
 このシーンはここまでの流れを見ていれば、多くの視聴者がすぐに「一家は映画の中に取り込まれてしまった」という非現実的なシーンであることは想像付くだろう。そして「かすかべ防衛隊」の仲間達も同じように映画の中に取り込まれてしまったと、多くの視聴者が確信するシーンであり、また物語展開の舞台がこの「映画の中の世界」であることも瞬時に理解できるシーンだ。
 この物語の基本設定が立ち上がったこのシーンを、この物語ではとても印象的に描いた。タイムスリップ並の非現実的行為なのだから、どうやって「映画の中の世界」に取り込まれてしまったのかなどという理論立てが要らないのもこのシーン作成についてプラスに作用したと思う。映写機の光がそのまま太陽の光に変ったと思うと、瞬時に風景が「映画館の中」から「荒野の真ん中」に切り替わり、野原一家…とくにひろしとみさえの戸惑う姿を印象的に描く。
 この夫婦が戸惑う姿も、大袈裟に驚くのでなく言葉少なに冷や汗を流しつつ目を見開くという、ギャグアニメ的な驚き方ではなく現実的に描いたのもこれまたいい。その夫婦の様子を回りながら映し出すアングル設定が、このシーンの緊張感をさらに盛り上げている。
 余談ながら、どちらかというと平面的な絵の臼井儀人作品群のキャラであるが、そのキャラがこう立体的に出てくるのはアニメ版の「クレヨンしんちゃん」でも珍しいようだ。このシーンを見るとアニメ版のひろしとみさえが、立体的にどのような設定とされているかがよくわかる。
研究 ・映画の中の世界1
 名場面シーンで、野原一家は突然「映画の中の世界」に放り込まれてしまう。この現象自体が非現実的なのでその理論などはあえて追求しないが、野原一家を初めとする人々が何故「映画の中の世界」に取り込まれることになったのか、これは物語が進むと分かるのでその都度考察したい。ここではまず最初の部分について研究しよう。
 突然荒野に放り出された野原一家は、とりあえず街を探して歩くこととなる。この間に一家は「鎖で厳重に閉ざされた巨大鉄扉」と「木製の巨大ロボット」と「鉄道の線路」を見つける。実はこれらの発見は終盤へ向けての重大な伏線であるので、試験に出てくるので出てきた順番とともにキチンと覚えておくように。
 そしてひろしは歩きながら、「太陽の位置が変わらない」事に気が付く。つまりこれは時間が止まっているという事を示唆しており、この要素はどうして彼らが「映画の中の世界」に取り込まれたのかという謎に対する重大なヒントになっている。このヒントについても答えが出た後に考察したい。
 なんか研究内容を後回しにしてばっかたな。まだ序盤だから許してほしい。

…野原一家はやっとの思いでたどり着くと、そこはどう見ても映画の西部劇のような街並みだった。不気味に思って帰ろうと考え、街の人々に「春日部は何処か」と尋ねまわるが、一家はその過程で入った酒場で乱闘騒ぎを起こしてしまう。
名台詞 「おい、お前が誰だか知らねーが、これだけは覚えとけ。俺の前で悪ふざけはするな。」
(風間)
名台詞度
★★★★
 名台詞欄に記した保安隊登場のシーン、その保安隊の隊長がしんのすけの友人で野原家を追い詰める立場となるが、その過程で風間がしんのすけの腹を手加減無しの本気で殴りながら吐く台詞がこれだ。
 このシーンでは風間の「本気度」をどれだけ視聴者に示すことが出来るかが鍵となる。そこで画面描写では前述のように主人公(しかも幼児)を本気で殴るというショッキングなシーンとして描いた。それに合わされた台詞も生半可な台詞では「本気度」が下がってしまう、「いつもの風間くん」のように丁寧な言葉遣いでは彼の本気度は伝わってこない。ドスを利かせて低音で叫ぶように…担当声優さんの名演でこの台詞が語られ、風間が本気で「保安隊隊長」という役を演じていることが伝わってくるシーンとなった。
 風間くんの担当は真柴摩利さん、アニメの「クレヨンしんちゃん」ではシロと一人二役である。結構以前から活躍されている方だけど、私は風間くんとシロでこの人の名前を初めて知った。アニメの「クレヨンしんちゃん」を初めて見た時、自分の中にイメージしていた「風間君の声」と驚くほど一致して驚いた記憶がある。またシロの声は最近まで、同じ人がやっていたと知らなかった…。
名場面 保安隊登場 名場面度
★★★★
 野原一家が酒場に入ったこと(みさえと荒くれ者の言い争いがきっかけ)で、酒場では店員・客を問わず大乱闘騒ぎが始まってしまった。客同士が殴り合う中、野原一家は混乱し何とか逃げ道を探そうとする。その混乱の中、店内に一発の銃声が響く。銃声によりひろしが胸に手を当てて「やられた…」というおやくそくをはさみ、保安隊の一人が「静まれ!」と叫ぶ。続いてその男が「シェリフ…」と名を呼ぶと、保安隊の隊長がポケットに手を突っ込み気取った足取りで入ってくる。その保安隊隊長は…なんと「カスカベ座」で行方不明になった風間くんだった。
 驚きと喜びで「風間くーん!」と駆け寄るしんのすけに、保安隊の男が「偉大なるシェリフ様に何て口を…」と言いながら銃口を突き付ける。風間はその手を止めてしんのすけに「誰だ?お前」と問う、対して「いったい何ごっこしてるの?」「ねぇねぇオラもまぜてよ」としんのすけが言うと、風間はしんのすけの腹を本気で殴る。そして名台詞欄の台詞となる。
 この一撃でよろけたしんのすけの元にひろしとみさえが駆け寄り、「一体何するんだ?」「いったいどうしちゃったの?」と夫婦が問う。しんのすけも「大親友のオラを殴るなんて」と猛抗議するが、風間は気迫を込めて「俺はてめぇみたいな小便臭いガキに知り合いはいない」と叫ぶ。この声にしんのすけはショックを受けつも、「オラ達人に言えないようなこともした仲じゃない…ねぇ、忘れたの?」と訴える。耐えきれなくなった風間は「こいちらを捕らえろ」と叫ぶと、野原一家は逃げだし、保安隊との追いかけっことなる。
 このシーンは本当は短いシーンなのだが、物語展開上の要素としては盛りだくさんな内容となっている。まずはこの街に警察機構がちゃんと機能していることが分かること、だがこれが決して野原一家の味方にはならないという予感を十分に含ませているのはみどころだ。そしてその野原家と敵対することになりそうな相手のリーダーが、しんのすけの友人で探していた風間であったこと。「カスカベ座」で行方不明になった面々の一人が見つかったことで、他のメンバーも同じようにこの場に来ているという展開が読めてくるようになる。それだけではなく主人公と敵対する相手のリーダーが風間という事実、その風間がしんのすけを殴るなど完全な悪役を演じる点は、既に「かすかべ防衛隊」の友情が瓦解している事を示しており、今後の物語展開を不安にさせる。
 風間が真から保安隊隊長である「シェリフ」を演じれば、ひろしとみさえはちゃんとしんのすけの親を演じてくれる。二人はしんのすけが友人に殴られた(しかも手加減無し)という事態に対し、ちゃんと相応の対処として風間を問い詰めている。だがここではその「子供の友人に対する親として当然の行動」が通用しないとんでもない場所に、野原一家が放り込まれたことを示唆するだけの結果になってしまった。つまりは野原一家は「保安隊に追われる」ということによって、風間に振り回されるしかなくなってしまったのだ。これは「かすかべ防衛隊」友情瓦解と並ぶ、このシーンによるもう一つの要素だ。
研究 ・映画の中の世界2
 続いてこの野原一家が中の世界に放り込まれてしまった映画が、どんな映画なのかを推理したい。
 といってもどう考えても西部劇なのだが、野原一家が街に着いた時にしんのすけがある発見をしている。それは西部劇でありながら歩いている人々が日本人だと言うことだ。
 それは単に野原一家以外の「カスカベ座」からやってきた人、とは思えない。物語が進むと分かるが、「この映画の登場人物」のキャラにも日本人名の人がいるからだ。
 そこで私は、この映画は「和製西部劇」だと睨んでいる。つまり物語はアメリカ西部開拓時代を舞台にした西部劇なのだが、映画は日本で作られ、でてきている人も日本人で日本語で演じているというものだ。数年前に「硫黄島からの手紙」という太平洋戦争での日本軍の戦いの物語を、アメリカで作られたことがあるがあんなノリなのだろう。
 そうすると「カスカベ座」を通じて埼玉県春日部市から来た人々と映画の登場人物の区別がつかなくなる、という問題はクリアできる。またしんのすけら幼児が紛れ込んでも言葉の違いによる問題が起こらないことや、習慣や文化の違いによる問題が発生しないことも説明できる。
 映画なのだからひろしやみさえが知っていそうな俳優がでていてもおかしくないのだが、この映画はそれほど人気が出ることを前提とされていないいわゆるB級作品なのかも知れない。そうすれば街に有名俳優の姿が無く、「カスカベ座」を介してやってきたお笑い芸人の方が映画のあらゆる人物より有名だという物語展開も、うまく説明できることになる。

…野原一家は風間の命令によって保安官に追われる身となる。保安官達から何とか逃げ切った野原一家には、次なる出会いが待っていた。
名台詞 「わかりません。ただ、帰りたいっていう気持ちが強いのなら、その気持ちをなくさないで持ち続けて下さい。今はそれしか言えません。ごめんなさい。」
(つばき)
名台詞度
★★★★
 貧ちゃんキターーーーーーーーーーーー!!
 いや、つばきちゃんの声は誰がどう聞いても貧乏神(「おじゃる丸」)でしょう。担当の齋藤彩夏さんの貧ちゃんの演技は、キャラクターの多様性が売りの「おじゃる丸」で最も印象に残っていて、「神様だけど神様らしくない」という感じをうまく再現していて驚かされた。さらにこの人、凄く若い人らしい(10歳かそこいらでデビューし、本映画上映当時もまだ十代だったとか…前述の貧ちゃんも彼女の十代前半の頃からの持ち役とのこと)。
 それはともかく、野原一家を助けたつばきは、自分が知っている限りのこの世界の情報を伝える。その内容は研究欄に譲るが、窓の外にジャスティス知事が屋敷に戻るのを認めて「行かなきゃ」と慌て出す。ひろしが助けてくれた礼を言い、みさえが「自分達はどうすればいいのか?」と聞いたところで、つばきはこう言い残してその場を立ち去るのだ。
 この台詞はこの世界で暮らすために必要な心構えを告げているに過ぎない台詞だが、実はこの台詞こそが今後の物語の根幹となって行く重要なものだ。もちろんこの台詞の内容が物語の根幹であることは後になって分かることであり、今後の展開でしんのすけが「元に戻りたい」という意志を強く持ち続ける重要な要素になって行く。
 またこの台詞にはつばきの強い気持ちも込められている。一家の力になりたいが自分には情報がないという悔しさだ。だからこそ最後の一言に「ごめんなさい」が付け加えられている。この優しさに心を奪われた視聴者も多かったことだろう。
名場面 出会い 名場面度
★★★
 保安官達からの追跡から逃げる野原家は、街中の井戸がある広場に追い込まれる。だがその広場に保安官達が追い付くと、そこには野原一家の姿はなく保安官達は他の場所の捜索するためにその場から消える。と思うと保安官達が去った広場に、バケツを二つ持った少女が現れる。彼女は水汲みのためにバケツを井戸に放り込むと…井戸の中に隠れていたひろしにこれが当たり、少女は驚いて井戸の中を覗き込む。
 このシーンは「物語のヒロインの登場」「野原家の味方になる人物の登場」というだけでなく、いよいよこの世界の謎が解けるかも知れないという期待を視聴者に持たせる重要なシーンである。だがそれがありきたりな出会いシーン…例えば逃げる野原家の横から突然現れて、「こっち!」とかいって逃げ道を示すような登場なら全く印象に残らなかっただろう。
 このシーンの良いところは、ここまでギャグ路線を忘れていた物語を少しだけそっちに戻す役割がある。それだけではない、物語展開上当面ギャグが出てこないことも十分に想定される状況である。ここで野原一家が「井戸に隠れる」という現実にはあり得ないシーンを演じた上、少女が落としたバケツが隠れていたひろしの股間に直撃するという滑稽なシーンとして描かれた点だろう。しかもひろしにバケツが当たる少し前から一家が隠れている状況を空撮カットで映し出し、少女が投げたバケツが当たることを視聴者に対し十分に予感させてから、その通りに演じる点はギャグとして完成しているし、なによりもひろしにバケツが当たったときの間の抜けた効果音がこのシーンを印象付けている。さらに少女が井戸にバケツを放り込むまでの流れが、丁寧過ぎるほど細かく描かれているのもポイントだ。
 そしてその後の井戸の中を見て驚く少女の様子も含め、この一連の流れをBGMも止めて完全に無言で演じたのもギャグとして印象に残るための重要な要素だろう。
 こうして物語でヒロインを演じる少女、つばきの初登場を盛り上げ、印象付けるシーンとしてうまく完成したと私は思う。
研究 ・映画の中の世界3
 ここでは物語のヒロインであるつばきという少女の登場により、少しだけ野原一家や風間がやってきた世界のことが見えてくる。その内容をまとめてみると。

1.「時々新しい人がやってきて街の住民になる」
2.「(つばきは)荒野をさまよっていたら(ジャスティス)知事に拾われた」
3.「やってきた人たちは初めは家に帰りたがるが、だんだん過去のことを忘れこの町になじんで行く」
4.「(拷問されるマイクを見て)あの人は同じように余所から来た人、大人しく暮らしていればいいのに余計な事して、そのたびに保安隊に酷い目に遭わされる」

 まず1だが、この話によると定期的に「新しい住民」がやってくることが分かる。この台詞の前につばきが「外から来た人ですね?」と野原一家に聞いていることは、この映画の中の世界に「映画の登場人物」として元々いる人と、野原一家と同じように外からやってきたひとがいることを示唆していると言ってもいいだろう。だがこれは物語が進むと分かることだが、元々の映画の登場人物もこの段階では自分が元からこの世界にいることを忘れていると考えられる。
 2は野原一家が初めてこの世界でまともに会話したこのつばきという人物も、野原一家と同じように荒野をさまよっていたと言う事が分かる。つまり人々は荒野の方からやってくることだけは確かのようだ。
 3はこの世界の「居心地」について、元いた世界を忘れると言うことはこの世界の居心地がとても良い事を示唆している。もちろんこれについては改めて考察したい。
 これらを総合すると4の意味が見えてくる。つまりこの世界の秘密を解こうとしたり、出口を探したりする行為を取れば保安隊に逮捕されるという仕組みが出来上がっていることだ。保安隊の存在理由は街の治安を守ることよりも、この世界の秩序を守り脱走や謎の解明を阻止するためにあるとも考えることも出来るだろう。
 断片的ではあるが、野原一家がやってきた世界についてその姿が少しずつ見えてきた。そして次回部分では、マイクの証言でこの世界の地理があっけなく判明するのである。

…つばきに助けられた野原一家は、保安隊に拷問されていた男性を助ける。
名台詞 「オタクのおじさんじゃなくて、僕はマイクです。自分で言うのはいいけど、他人から言われるのは嫌なんですよ。えーとっ、僕の仕事はですね…(3秒間沈黙)…思い出せない! ああ、何と言うことでしょう、自分の仕事まで忘れてしまいました。医者? 弁護士? 警察官? えーとっ、えーとっ。みんな忘れて行っちゃうんですよね、自分の奥さんがどんな人だったのかも、自分の子供の事とかも。このままだと春日部のことや、大好きな映画の事まで忘れていきそうで怖いです。でも、本当に一番怖いことは、色んな事を忘れて行くのにそれが気にならなくなっていくことなんです。」
(マイク)
名台詞度
★★★
 つばきとの会話中に保安隊に拷問されていた男は、自分の名を「マイク」と名乗った。それだけでなく彼は野原一家と同様に「カスカベ座」からここへやってきたこと、帰る方法を求めて立ち入り禁止区域を探っていたら保安隊に捕まったことを打ち明ける。その上で自分は映画オタクであるとて「映画オタクにとってここは楽しい場所のようだ」と語り、それに対ししんのすけが「オタクのおじさんは何の仕事をしていたの?」と問われると、慌てながらこう返答する。
 この台詞にはこの世界に外から来た人がどうなってしまうのかという、その答えが見事に演じられている。自分の職業、春日部に置いてきた家族、それらのことを日に日に忘れてしまう自分に対する苦悩と、忘れてしまうことが苦にならなくなりつつある苦しみを上手く吐露する。
 だがこの台詞もただそれを語っているのではない。このマイクというキャラクターは映画評論家のマイク水野(水野晴郎…ちなみに本人の許諾ありとのこと)をモチーフとしたキャラであり、その水野晴郎のモノマネをうまく入れつつギャグとしても完成させている。特にどう見ても医者や弁護士に見えないマイクが、この台詞を言うからこそ笑えるのだ。
 そしてこの台詞が終わると、ひろしとみさえは驚きの表情を浮かべ、しんのすけは「つばきちゃんの言う通りだ、風間君もそうだったし…」と呟く。そう、つばきが語った「やってきた人たちは初めは家に帰りたがるが、だんだん過去のことを忘れこの町になじんで行く」という実例を目の当たりにしてしまったのである。これはいつか野原一家がこうなるのだという恐怖を、当人達と見る者に強く訴える台詞なのだ。
名場面 マサオとの再会 名場面度
★★
 マイクの話を聞かされたひろしとみさえは、街の周囲を探検すべくマイクの馬を借りて出かけることになった。その後ろ姿をマイクと共に見送るしんのすけは、街を行く人々の中に見覚えのある人影を見つけ家を飛び出す。しんのすけがその人影を追い、追い付いて顔を見ると「おお、やっぱり」と声を上げる。しんのすけが見つけた人影は、間違いなくマサオだった。
 「奇遇ですな」としんのすけが声を掛けると、マサオは「あんた誰?」と返す。マサオもしんのすけや春日部のことを忘れており、この事実にしんのすけは落胆する。そんなしんのすけにマサオは「話をすれば何か思い出すかも知れない」としんのすけを家に誘う。そしてその誘いの言葉の最後に「女房にも紹介するよ」と付け加える。これを聞いたしんのすけは目が点になり、「にょーぼー…マサオ君がオラより先に結婚していたなんて…」と声を上げる。
 とにもかくにもマサオの家へ行く、マサオが自宅のドアを開け「ただいま、今帰ったよ、ハニー」と声を掛ける。ショックで立ち直れないしんのすけ。マサオは構わず妻を紹介する、「女房のネネだよ」…この世界でマサオはネネと夫婦になっていたのだ。
 前述のマイクの台詞と、それに対しつばきが言ったことや風間と同じだしんのすけが呟いたところで、視聴者の次の感心は「かすかべ防衛隊」の面々がどうなっているかという事だろう。既に風間が「保安隊隊長のシェリフ」として登場しているので、残りの3人もここへ来ていると考えるのが自然だ。そう思ったタイミングでまず出てきたのはマサオ、そしてマサオに「妻がいる」という驚愕の事実…ここまで来れば多くの人は「マサオの妻はネネだ」と見当がつくことだろう。そしてそれを裏切らずに、マサオの妻としてネネが登場する。ネネ登場のところでは分かっていながら勿体ぶるのが「間」としてうまく出来ていると感じた。
 また「(この世界では)マサオが既婚」という事実を知ったときのしんのすけの表情もこれまた面白い。視聴者も一瞬驚くが、すぐに「相手はネネでないか」と気が付く。だがしんのすけがその演技では面白くない。しんのすけにとって結婚相手は「きれいなおねいさん」であり、彼の驚きはそんな「おねいさん」をマサオが先にゲットしてしまったのではないかという驚きが大きいはずだ。無論、単純に「マサオ君がオラより先に嫁を貰うはずがない」と考えていた点もあろうが。
研究 ・映画の中の世界4
 さらにこの世界について新しい情報が入る。次はマイクの証言によるこの世界をまとめておきたい。
 ひとつは「この世界に来た人の共通点」として、「カスカベ座」で荒野が映し出された映画を見ているうちにいつの間にかこの世界にいたと言うこと。これは「外からこの世界に来た人全員」という意味だろうが、マイクは既にこの世界の人に色々話を聞いていたに違いない。つまり外からこのの世界への入り口は「カスカベ座」ひとつだけであるということがハッキリする。つまり外からこの世界に来た人は春日部の人だと言うことも確かになる。
 次に「この世界」が、街(ジャスティスシティ)と周囲の荒野だけで構成されていることが判明する。マイクはこの世界から脱出すべく色々と試しており、街の周囲を色々と探ったりしてみたことだろう。そしてその荒野の中に「立ち入り禁止区域」が3箇所あり、ここへ行けば何かしらの謎が解けると思って立ち入ってしまい、保安隊に捕まったとのことだ。
 この「立ち入り禁止区域が3箇所」という事実と、そこが「行っただけですぐ捕まってしまう」程厳重に警戒されている事を考慮すると、確かにここには何らかの謎が隠されていることは分かるだろう。もちろんこの謎を説くのが最終的なストーリーとなって行く。
 こうやってマイクの台詞からは、ハッキリと今後の伏線が張られているのが面白い。そして次にマサオとネネと再会すると、この世界ではなぜ今までの事を忘れてしまうのかという謎が早速解かれる事になって行くのだ。

…マサオの家に通されたしんのすけは、マサオとネネに「ここはウソんこの世界だ」と訴えて春日部へ帰ることを訴える。一方、ひろしとみさえはマイクから馬を借りて街の周囲を探索する。
名台詞 「そりゃ確かに、最初は春日部に帰りたいと思ってたよ。だけど、今じゃ全然…。ここの暮らし、結構充実してるし、守るべきものもあるしね。春日部にいた頃の俺って、ホント、世間知らずのガキだったよね。」
(マサオ)
名台詞度
★★★★
 しんのすけはマサオとネネに春日部に帰ろうと訴えるが、二人は聞く耳を持とうとしない。そしてネネにコーヒーを入れるために台所に立ったマサオは、しんのすけにこう言う。
 生活に張りが出て充実するための要素は、何よりも「守るべきもの」の存在であろう。マサオは5歳にしてこのジャスティスシティでそれを学び、本当に充実した生活をしていることがよく分かる台詞だ。春日部でのマサオはいじられ役でいり、いじめられっ子としての側面を持つキャラであり、これと全く逆の生活をすることで「忙しく、やることは多く、苦しくても幸せ」であり、「尻に敷かれても幸せ」なのだ。ま、後者の幸せはマサオらしいと言えばマサオらしいが。
 だからこそマサオは、実はしんのすけに会ったときから春日部のことを思い出していた、あるいは最初から忘れてなんか無かったのに、忘れて思い出せないふりをしてまで「帰らない」ことにこだわるのである。
 そしてこの台詞からある事実が浮かび上がる。それは研究欄に回そう。
名場面 馬の上での夫婦の会話 名場面度
 マイクから借りた馬で荒野に出てみたものの、思い通りに馬が動かず荒野の真ん中で難儀するひろしとみさえ。「マイクさんじゃないと言うこと聞かないのかしら」とみさえが言い、ひろしは馬を叩いて何とか馬を動かそうと必死になる。すると突然馬の尻から大きな屁が…ひろしは後ろに乗っているみさえの仕業と思い「おい…」と声を掛けると、みさえは「やだ、私じゃないわよ! 馬よ、馬!」と必死だ(事実馬の屁なのだが)。それでもひろしはみさえに対し疑いの「へぇ〜…」を口にする。そこで馬が突然歩きだし、「あ、動いた。オナラが効いたぞ」とひろしが言う。後ではなお必死に「本当だってば、馬がしたのよ!」と叫ぶみさえ。「へい、へい」と生返事のひろし。
 物語の本筋とは無関係の単なるギャグシーンだが、この二人の会話は何度見ても面白い。「クレヨンしんちゃん」のアニメが始まってからこの映画の段階で既に12年に渡って夫婦を演じている藤原啓治さんとならはしみきさん、二人の間には「あうんの呼吸」というものがあるのだろう。本物の夫婦以上に息の合った演技、そしてギャグを見せてくれる。
 藤原啓治さんのひろしについては「嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」の考察で語ったのでここではパスして、ならはしみきさんのみさえもやはり原作の野原みさえを忠実に再現していると感じることが多い。母としての優しさと怖さを両立させ、その上で一家の色々な意味でのまとめ役という役割の良いところも悪いところもしっかり演じていると思う。みさえの他でならはしみきさんと言えば思い出すキャラは「ちびまる子ちゃん」のみぎわさん、あの物語で一番演じるのが難しそうなネタキャラを見事に演じている。昔「キャプテン翼」で立花兄妹の声をやっていたというのは、最近になって知った。
研究 ・映画の中の世界5
 さて、この世界に来ると何故昔の事を忘れてしまうのか? という謎が早くも見えてくる。これは今回名台詞欄に挙げたマサオの台詞と、マイクがこの世界について説明したときの台詞から分かってくるのだ。
 マイクはこの世界について、「映画オタクにとって居心地の良い世界」と言っていた。それは西部劇という映画オタクが一度は体験してみたい憧れの世界だと言うことだけでなく、「居心地がよいからこそそこから離れたくない自分がいる」と言うことを示唆している台詞でもある。そこが以前いた世界より居心地が良ければ、多くの人がそれまでのことなんか忘れたくなってしまうだろう。
 そこへ今回のマサオの台詞である。彼はこの世界で充実した生き方を見つけたことによって、この世界から離れたくないと強く感じるようになる。それは完全に以前の彼よりも本人にとって望ましい生き方なのだ。
 特にマサオを見ていると、この世界についてある疑念が湧いてくる方も多いだろう。つまりこの世界に「外から来た人」にも、その人相応の「配役」が与えられているということだ。映画の世界に入ったことでその人は映画の一部になるのだが、どんな人でも物語の中にいる以上は「配役」があるのだ。そしてここに来た人は、自分が望んでいる「配役」を映画から与えられることによって、本人が望んでいた人として生きる事ができ、そうして過去のことを忘れていってその「配役」に染まって行くのだと推測される。
 この推理は間違っていないだろう。現に風間が保安隊隊長シェリフという配役を与えられているが、それは彼の生真面目な性格により「正義のために働きたい」という願望があり、かつこれまでの「良い子」を演じる生活にも嫌気がさしていて「ワル」になってみたいという願望の双方が結実した結果と考えられる。ネネには早く「主婦」になりたい(幼児風に言えば「お嫁さん」)という願望があり、かつ男には負けず尻に敷くくらいの勝ち気の生活をしたい願望があったはずだ。そのネネの願望と、何でも良いから「何かを守って」充実した生き方をしたいというマサオの願望が結実した結果、ネネとマサオには「夫婦」という配役が与えられた。
 マイクは西部劇に現れる「悪を倒すヒーロー」という願望があったのだが、彼にはそれに近い「ヒーロー不在時に悪を倒すべき努力する役」という配役が回っていたようだ。謎を解こうとしては捕まるという損な役だが、「悪を倒す」という行為に向かっているには違いないので本人も満足した配役だろう。
 そしてこれから先、野原一家もこれらの「配役」にハマって行くことになる。もちろんまだ出てきていないボーちゃんについてや、物語のヒロインであるつばきの配役も、見進めて行くうちに分かってくるのだ。

…マサオからボーちゃんの目撃情報を聞いたしんのすけは、町外れのテントにボーちゃんを訪ねる。一方、ひろしとみさえは街の周囲の探索から帰ってきた。
名台詞 「しんちゃん…我が友。春日部…我がふるさと。時々忘れそうになる、でも忘れるの良くない。いつも思い出すことにしてる。友達、ふたばようち園、いろいろ。」
(ボーちゃん)
名台詞度
★★★★
 ボーちゃんが一人で暮らしているテントで、しんのすけとボーちゃんが向かい合う。するとボーちゃんはゆっくりとこの台詞を吐く。
 この台詞でもって、やっとしんのすけが「春日部に帰るための同志」を見つけたことが示唆される。ボーちゃんはこの世界に来ても染まることはなく、むしろ「帰りたい」という意志を強く持っていることは分かるのだ。これは視聴者にとっては物語が進む糸口…つまり春日部へ帰るための物語が進む兆候がやっと見え、安堵するシーンであろう。
 そして幼いながらも、友達の存在や「故郷」の存在をしっかり見据え、また元通りに戻りたいと思うボーちゃんの健気な心も見えてくるだろう。「かすかべ防衛隊」の面々は皆どこかひねくれた面があるが、このボーちゃんはその中でも異色の素直な性格の子供である。
 恐らく彼は、この世界で自分にはまる「配役」を得られなかったのだろう。結果街の外に追い出されてしまったと見る事も出来る。だからこそ帰りたいという気持ちが強いというのも頷ける話だ。
名台詞 「時間が止まった上に、記憶もなくしていって、帰る方法もないとなると…。いや、絶対に春日部に帰る方法があるはずだ。この世界に染まらないように頑張ろう、確固たる意志を持って。」
(ひろし)
名場面度
★★★★
 周辺の探索から戻り、春日部に帰る方法もないし時間が止まっているという驚愕の事実を知ったひろしは、妻や子供の前で苦悩しながらこの台詞を吐く。
 この台詞は二つに分かれている。前半はこの世界に来てしまったこと自体が絶望的な事だという事実を知り、苦悩する姿である。帰る方法もないことは勿論だが、それに時間が止まっているという事実が「自分達は永遠にここから出られないのではないか?」という不安を煽られることになる。この特殊な世界で妻と子を守っていけるのか…という一家の長としての苦悩だ。
 そして後半はそれでもここで生きていかねばならないという決意表明であり、何としても帰る方法を探し出す事の決意でもある。だが過去のことを忘れては春日部に帰ることも出来ない、つまりここでの生活も帰るための努力も、まずはこの世界に染まらない努力、過去を忘れない意志が必要だと彼は悟ったのだ。
 妻のみさえは、この台詞の前半部分はひろしの様子をずっと見据え、後半部分ではひろしの言葉に頷く。こうして一家は「いつかは帰る」という方向で一致団結して行くのだ。
 なお、今回は名台詞と言うべき台詞が二つも立て続けに出てきたが、印象に残るシーンが無かったため「名台詞欄」をふたつという変則パターンとした。
感想 ・映画の中の世界6
 ひろしとみさえが街の周囲を探索し、マイクの言う通り何もなかったことと時間が止まっているという事実に気が付く。時間が止まっているという事実は「太陽の位置が動かない」という描写から判明した。
 時間が止まっていると言うことは、この映画自体が何らかの理由であるシーンとシーンの合間で止まってしまったという事が考えられるだろう。だがシーン途中で止まったわけではないので、「劇中には描写されないストーリー」として物語が展開していると考えればいい。どんな物語にもシーンの継ぎ目があるが、その間に物語が完全に停止することはなく、劇中に描かれていない「本筋とは無関係の物語」が進んでいると感じることがあるはずだ。つまり野原一家はそんな世界に迷い込んだと考えるべきである。
 そしてマイクの説明によると、オケガワという登場人物が保安隊によって1日1回馬で引きずられるので、その回数を数えれば自分が何日間この世界にいるか分かるとのこと。この方式の日算でマイクは既に625日もこの世界に留まっているという。劇中ではオケガワが引きずられたのは2度目なので、野原一家は既に来てから2日経ったと言うことになる。
 時間が止まっていると言うことは、おそらくはこの世界の外では時間は殆ど流れていないと考えるべきであろう。つまりこの時点で野原一家が春日部に戻れば、元の日の元の時間に戻れると考えるべきである。また肉体的な疲労等も感じず、おそらくは睡眠なども取らなくても大丈夫と考えるべきだろう。時間が止まっていると言っても、あくまでも「夜が来ない」「夜が来ることに伴う行動が不要」というレベルなだけと考えられるのだ。

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