…ジャスティスの屋敷で酷い目に遭わされたしんのすけは、つばきに助けられて怪我の治療をする。そして、野原一家がこの世界にやってきてから710日もの月日が流れた。 |
名台詞 |
「たいして経ってないと思ってたいけど、なんだか随分とこの世界にいてしまったらしい。知事の家の事件があってから、母ちゃんは地味に働いている。父ちゃんも必死で働いている、鞭が怖いから。マサオくんとネネちゃん、ネネちゃんはともかくマサオくんは楽しいらしい。風間君はオラがタメ口を聞くと怒るし、乱暴者だ。だけどやっぱり風間君は、オラの知ってる風間君だと思う。オラとボーちゃんはいろいろと忘れないように気を付けているけど、たまに忘れることがある。やばいやばい。ぶりぶりざえもんが描けなくなったのには本当焦った…今もまだ描けない。この映画の世界には、映画の登場人物達と、春日部からやってきた人たちがいるらしいけど…オラはどっちだったっけ?
たまに嬉しいことがあると、春日部やシロのこととか全部忘れてしまいそうになる…気を付けよう。」
(しんのすけのナレーション) |
名台詞度
★★★★ |
次のシーンへ行く前に、唐突に野原一家がここへ来てから710日目まで話が飛ぶ。ここで2年近くの月日が流れているわけだが、この間を埋め合わせるシーンとしてこのしんのすけのナレーションと共に、この間の「かすかべ防衛隊」や野原一家の様子などがダイジェスト風に流される。
これは台詞の内容よりも、この時のしんのすけの抑揚を抑えた語り口調がなんともいえない味を出しているところだ。この語り口調に彼らがこの世界に来てからの月日の長さや、春日部や仲間達への思いがうまく込められていると思う。そして自分も春日部のことを忘れていってしまっている寂しさも、この語り口調に込められている。この敢えて抑揚を抑えた語りにしている点がこのシーンの寂しさを誘い、この先の物語を盛り上げる要素でもあるだろう。
このナレーションを最初に聞いたときは、鳥肌が立つほど感動した。正直言ってしんのすけらしくない語り口調なのだが、それでも徹底して「しんのすけの声」を崩さずに語りきった担当の矢島晶子さんは凄いと思う。原作を古くから読んでいる私としては、この台詞を文章にして読み直してみると「しんのすけの台詞」としては強烈な違和感を感じるのだが(元々しんのすけがナレーション向けのキャラじゃないのが大きい)、DVDでこのシーンを再現してこのナレーションを聞くとやっぱり「野原しんのすけ」なのだ。 |
名場面 |
しんのすけとつばき その2 |
名場面度
★★★ |
前回部分で川に捨てられたしんのすけとみさえを助けたのは恐らくつばきだったのだろう、つばきはしんのすけの怪我の手当てをする。手当てをしながらつばきはしんのすけにジャスティスの屋敷で助けられなかったことを謝罪する、だがしんのすけはそれは気にせずにつばきに対して「あんな人のところで働かないで一緒に暮らそうよ」と持ちかける。だがつばきはジャスティスの報復を恐れて「無理」だと答える。しんのすけも負けずに「オラ一生懸命匿うし、チョー楽して暮らせる…」と続けるが、つばきはそれを遮って「私、臆病だから」と言う。
ここでこの物語の副展開である「しんのすけとつばきの恋物語」という展開が一歩前進していることに、多くの人々が気付くであろう。まだしんのすけはつばきに恋していることに無自覚ではあるが、理由はどうあれ大胆にも「一緒に暮らそう」と告白しているのである。いや、幼児が無邪気に語っているだけという見方もありだろうが、ならばジャスティスの報復を押されて断られてところで話が終わってもいいはずだ。そうでなくしんのすけはさらに一緒に暮らすことを主張し、次のシーンではつばきがジャスティスの下で働き続けなきゃならないことをボーちゃんに愚痴るのである。これは間違いなく恋なのだ。
もちろんつばきの反応も見どころだ。つばきが断る理由も「野原一家に迷惑」とかありきたりの事を述べるのでなく、真剣に「一緒に暮らせない理由」を語る。つまりこのシーンはよく見ると男女の真剣勝負になってしまっているのだ。ただそれに対して二人とも無自覚、しんのすけですら次のシーンで、ボーちゃんに「惚れたね!」と指摘されるまで気付かない。
そして、このシーンで一つ見えてくるのはこの二人の淡い恋愛関係も、映画の世界が二人に与えた配役だと言うこと。しんのすけはつばきに気に入られたことが何より嬉しく、彼が春日部のことを忘れかけてしまう理由になるのは名台詞欄に挙げたナレーションで判明することだ。つばきの側にはどんな理由があるのかは、物語の核心に触ってしまうのでまだここでは具体的に触れないで置くが、しんのすけがこの映画にヒーローとして迎えられる以上は、そのヒーローに恋人が必要という理由によりこのような配役になったのだろう。 |
研究 |
・映画の中の世界8
ここで名台詞欄で取り上げたシーンをもって、物語は一気に野原一家が映画の世界に来てから710日目まで話が飛ぶ。この手前のみさえがジャスティスの屋敷に招待されたのが前述した通り125日目頃だったから、この間で585日、つまり1年と7ヶ月ほどの月日が流れた事になる。またマイクは野原一家が来た頃に「自分がこの世界に来てから625日が経った」と言っているので、彼は既に3年半以上もこの世界にいることになるのだ。
もちろんしんのすけや「かすかべ防衛隊」の仲間達にとって、年齢的に考えればこの月日の流れは無視できないものだろう。5歳児の彼らがこれだけの年を経れば立派な小学生になっているはずであり、さらに乳児であるひまわりは言葉を使える位までに成長しているはずだ。なのに彼らに肉体的な成長の様子が見られないと言うことは答えはひとつ、この映画の中は「サザエさんワールド」となっていてどんなに長い間いたとしても歳を取らないということだ(もちろん「クレヨンしんちゃん」という漫画自体も20年続いているのに、しんのすけは5歳のままなのだから「サザエさんワールド」なのに違いないのだが)。
ちなみに「野原一家がこの世界に来てから710日目」は、一家がカレンダーを付けている事から判明する。5日単位で棒を引くという方式のカレンダーが部屋の壁に一杯に描かれており、この棒の数を数えると話が飛んだ時点で710本あったわけだ。
これだけの時間、この世界にいるとどういう事が起こるのか? それは難しく考える必要は無い。「春日部から来た人たち」がこの映画に登場する順番やタイミングは、「カスカベ座」に訪れた順番や時間とは時系列的に関係ないと前の方で考察した。ならば彼らが春日部に帰ったとしても元いた時間とほぼ変わらない、せいぜい映画1本分位の時間が経過した時間に帰ると考えるべきだろう。もちろん、彼らが「カスカベ座」にやってきた時間も映画1本分の時間の範囲内だと考えるべきだ。なんてったってこれは「映画の中の世界」なのだから、それに対する「映画の外の世界」は映画の上映時間分しか時間が流れないと考えるのが正しいと思うのだ。 |