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…野原一家がジャスティスシティに来てから35日の月日が流れた、ひろしは街で肉体労働を仕事を始め、みさえも仕事の時は厚化粧をして外へ出て行く。そこにまたカスカベ座から新しい人たちがやってきた。
名台詞 「ようこそ、ジャスティスシティへ。あなた方は大変幸運です、なぜならこの街にはルールがひとつしかないからです。それは正義、一緒に不正義と戦い理想のパラダイスを作ろうではありませんか。」
(ジャスティス)
名台詞度
★★
 次元キターーーーーーーーーーーー!!!!
 いや、この凛々しいお声はまさに次元大介。このサイトでも石川五右衛門(「機動戦士ガンダム」のスレッガー・ロウ)と、峰不二子(「わたしのアンネット」のフランシーヌ・バルニエル)、銭形警部(「宇宙戦艦ヤマト」の沖田艦長)が出ているので、ルパンが出てくれば「ルパン三世」のメインキャラが全員揃うぞ。そりゃともかく。
 この台詞はジャスティスシティに新しい住民がやってきた時に、新住民に対し知事ジャスティスが演説したものである。この台詞に込められていることは、台詞の内容とは裏腹に「ここにはルールがない」という事実である。誰がどう見てもジャスティスは悪役だし、そんな男が軽はずみに「正義」なんて言っている時点でこれがマユツバなのは火を見るより明らかだろう。
 そうしていよいよ、この映画で倒すべき相手がこのジャスティスであることが示唆されたのもこの台詞と見るべきだろう。「正義」と言いつつも大義名分がないならそれは単なる戯言、この男が戦うべき「不正義」の存在を明示しないことが大義名分がない何よりの証拠だ。大義名分のない正義こそ、それは不正義なのである。こんな口から出てくる言葉と、実際に起きている事が全く逆のこの状況をうまく演じてくれたと思う。
名場面 みさえの歌 名場面度
★★★★★
 みさえの仕事は酒場での雇われ歌手だったのだが…これこそジャイアンリサイタル(言うまでもなく褒め言葉)。
 あそこまでの音痴を見事演じたみさえ担当のならはしみきさんに乾杯。正直言って、たてかべ和也さんのジャイアンリサイタルを越える見事な音痴ぶりだと感心した。ただ、たてかべさんも最初の「ジャイアンリサイタル」シーンでは、あの曲をその場で作詞作曲しながら音痴を演じていたというのだからやはり凄い。ならはしさんの演技が音痴として凄いのは、あの音程のわざとらしくない外し方だ。
研究 ・新しい住民
 野原一家がジャスティスシティにやってきてから35日目、ラッパの音に気付いて外に出ると演台が用意されていてそのジャスティス知事が演説を行っていた。それは街に新たな住民がやってきたことで、その新住民に対し自分の力を誇示する名台詞欄に挙げた内容である。
 やってきた新住民はこのシーンでしか出てこないキャラだが、映画を見ていたカップルや、「古映画館で歌の練習をしていた」と語るお笑い芸人で構成された歌手などである。現実世界のテレビで有名な芸人がいるのに、「映画の中の人物」に著名な芸能人がいない理由については前の方で考察した通りだ。
 この演説は新しい住民が来る度に行われているような描かれ方をされているが、ちょっと前のシーンを思い出してみると野原一家がこの世界に来たときにはジャスティスによる演説は行われなかった。この世界への入り口が「カスカベ座」ひとつだけだと考えると、複数のグループが同時に古映画館に入ってくるというのは信じられない。特に前述のカップルなんかは「映画を見ていた」のではなく、あんなことやこんなことが目的で廃墟同然の古映画館に忍び込んだ可能性もある。つまり現実世界とこの世界では時系列的なリンクがないと考えるべきである。こちらの世界に入ってきた人間は「カスカベ座」に入ったタイミングとは無関係に、こちらの世界における配役ごとにランダムに「新住民」として登場するのだろう。
 特にしんのすけにはヒーローという配役が与えられることになるので他の住民と違う登場の仕方が要求されるし、物語展開(こちらの世界を劇中劇として見た場合)としても「かすかべ防衛隊」メンバーがしんのすけより先にこの世界に来てなじんでいる必要があったはずだ。
 その証拠に、「かすかべ防衛隊」メンバーとしんのすけがこの世界に入った時の「カスカベ座」に立ち入った時間差は1〜2時間程度と見るべきだろう、だが「かすかべ防衛隊」メンバーは野原一家が来るまでの間にこの世界での生活に完全に馴染んでおり、完全に生活を回しているのである。これを考えると「かすかべ防衛隊」がこ世界に来てから野原一家と再会するまで、この世界の時間は数週間単位の時間が過ぎていたと考える事が出来る。
 新住民の描写により、こんなこの世界の構造が目に見えてくるから、この映画は研究の余地が多くて面白い。

…しんのすけはマサオや風間のところ顔を出してみるが、やはり二人ともこの世界に染まってしまっていて自分の存在を受け入れようとしてくれない。それと春日部へ帰れなくなったことで、しんのすけは井戸に腰掛けて一人悩む。
名台詞 「ここは太陽も動くのを忘れた土地、仕方ない。」
(ボーちゃん)
名台詞度
★★★
 しんのすけがボーちゃんが暮らしているテントを再訪し、春日部のことを色々と聞いてみる。ボーちゃんの趣味、しんのすけの性格…だが「ようち園の先生の名前」という問いに、よしなが先生と上尾先生の名前が出てくるがもう一人の名がどうしても出てこない。しんのすけがヒントでモノマネをしてみせても、やはり名前が出てこない。だがしんのすけはその先生の性格や特徴を覚えているのに、やはり名前が出てこないのだ。しんのすけが「ダメだ、思い出せないゾ」と倒れ込むと「この世界にいると何で色々と忘れていっちゃうんだろう?」と問う。それに対するボーちゃんの返答がこの台詞だ。
 この台詞、とても5歳児が吐いているとは思えない内容だ。「太陽も動くのを忘れた土地」って言い回しは、もう何か悟りを開いたとしか思えないような言葉の選び方だ。だがそれがボーちゃんらしいと言えばボーちゃんらしい、へんな石を集めているという趣味といい彼の渋さがよく出ている台詞だ。
 そしてこの世界の特徴を上手く伝えていると思う。ただ単純に「太陽が動かない」のでなく「太陽が動くのを忘れている」としているのは、この世界で春日部から来た人たちが自分のことを忘れて行くように、実は太陽までもが自分の役割を忘れているという事を示唆しているものである。実は過去のことを忘れているのは春日部から来た人だけじゃないと言うことが明確化されるのはもっと後なのだが…。
 だが、物語はここから少し「寄り道」をする。ジャスティスが明確な悪役であることを強調するためひとまず「かすかべ防衛隊」のことを脇に追いやって、野原一家の家族の絆の破壊にかかるのだ。
名場面 しんのすけとつばき その1 名場面度
★★★★
 「かすかべ防衛隊」の友人達が春日部に帰ろうと思ってくれないことがショックで、しんのすけは井戸に腰掛けて一人悩む。そこへ「危ないよ」としんのすけに声を掛けたのはつばきだ。
 しんのすけはつばきに「この世界にいたい? それとも帰りたい?」と問う、だがつばきは「もう昔の事をあんまり思い出せない」とした上で「もし昔の事を覚えていたら帰りたいって思うだろうな、だからしんちゃんの気持ちは分かるよ」と返答する。ここでしんのすけが語るのは「春日部に置いてきた者」たちの事だ。「晩ご飯をあげる」としたまま家に置き去りにしてしまったシロのこと、しんのすけの「恋人」である大原ななこのこと…。
 するとつばきは「しんちゃんモテたんだ」と返す。しんのすけはこれに「つばきは春日部のいいとこのお嬢様だったに違いない」と自分の妄想を語り、その上で「帰れたら楽しいよ」と言うが。つばきは一言「そうだね」と言ったまま、暗い表情で水汲みに没頭する。
 ここではまずしんのすけの「帰る」という気持ちとその理由がしっかり描かれており、しんのすけがこの世界がどんなに楽しくても「帰りたい」という気持ちを捨てないことに説得力を持たせている。このシーンに行き着くべく冒頭のシロとじゃれるシーンと、それに被さる名台詞が伏線として用意されていたと見ていいだろう(だがこの伏線が回収されるのはここではない)。「すぐ晩ご飯を上げる」と約束したまま分かれてきた飼い犬が腹を空かせてないだろうか、という悔しい思いが彼の中にある。それとしんのすけが大好きなななこの存在はここに活かされており、これも目当てにすることで彼の「帰りたい」という気持ちがしっかり描かれた。
 だがこのやりとりにおけるつばきの反応は、見ている人にかなり違和感を与えることになるだろう。展開を自然に考えれば、つばきがたとえ春日部での記憶を失っていたとしても「帰りたい」と思っているのが当然であり、「帰りたいか?」と問えば素直にその気持ちを示しても良さそうなものだ。だがここではそこに深く迫る必要は無く、初めて見る視聴者はこの「違和感」だけを覚えていればいいシーンである。勿論この反応の理由は物語が進んで行くと判明するし、この物語を見るのが二度目以降の人は、この時のつばきの反応を見て「そういう事だったのか!」と感心することになるシーンである。
 そしてこのシーンは、「かすかべ防衛隊の友情と絆」という本筋のテーマと並行して展開する「つばきとしんのすけの恋物語」というもうひとつの展開の始まりでもある。この時点ではしんのすけの恋心は描かれていないが、二人が接近するのはこのシーンがきっかけといえるだろう。
研究 ・劇中に出てくる鉄道について
 名台詞欄シーンの次には、ジャスティスが列車に乗って出かけるシーンが出てくる。機関車も客車も貨車もアメリカ西部開拓時代の典型的なものだが、現実の鉄道よりも西部劇に出てくる列車としてのイメージを強調するために多少大袈裟に描かれている面もあるが、物語の構図が「劇中劇」と考えられるので突っ込むべきところではないだろう。
 鉄道は「街と周囲の荒野」以外になにもないこの世界においては、「他の街へ行く」という状況は考えられないので本来は必要のないものだ。このシーンでもジャスティスが荒野で馬を走らせるため(これは表向きで後の展開のために伏線を張る目的がある)だけに出かけたと考えられるのだ。たったこれだけの理由でなぜ鉄道が存在するのか? ちょっと贅沢過ぎはしないだろうか。
 結論を先に言うとこの鉄道自体が、この映画のための大道具として用意されたものでしかないのだろう。遊園地にある豆列車のように、鉄道を存在させること自体が存在理由なのだ。その証拠にこの鉄道は列車1編成を走らせる最低限の設備しかないようである。今後の展開も含めてこの鉄道が出るシーン全部から設備を拾い出すと、起点側から順に「単線の車庫(屋根付き)」「一面一線の駅(単線でホームもひとつ)」「荒野に続く本線(全部単線)」「車止め」と、これしかないのだ。終点側は駅もなく突然線路が終わっているし、ポイントも信号機もないから2本以上の列車を動かすことは出来ない、しかも帰りは機関車の付け替えなしでそのままバックで帰らなきゃならない。この最低限の設備だけだからこそ、この鉄道が「映画の大道具」として存在していると考えられるのだ。
 この鉄道については物語が進むと驚くべきシーンが出てくるので、それはその時に考察したい。

…野原一家がジャスティスシティに来てから125日の月日が流れた。みさえが酒場で歌っている(相変わらず音痴で評判も…)ところへ、ジャスティス知事が現れる。
名台詞 「辛いよ…。でも沸き上がる研究欲を抑えられないんだ。」
(オケガワ)
名台詞度
★★★
 1日1回、保安隊によって馬で引きずられるオケガワに、ついにしんのすけはつばきが止めるのにも関わらず駆け寄ってみる。馬に引きずられて倒れているオケガワにしんのすけが「大丈夫?」と声を掛けると、オケガワはしっかりとした声でこう答える。
 もうこの映画では、このオッサンが引きずられるシーンが幾度となく繰り返されているが、その理由が何故なのかはまだ明らかにされていない。これが明らかにされるかと思いきや、「なんか研究している」という事が示唆されるだけで、この人が何のために何をしているのかが示されることがない不思議な台詞だ。
 だがこの台詞はこの物語の「構図」として見る上では重要である。この台詞でその研究内容や目的が一切語られないことから、実はオケガワ自身も何を何の目的で研究しているのか忘れているのだと考えることが出来る。ただ「何かを研究しなければならない」という潜在意識だけが、彼を「研究」という行為に導いている…鋭い人ならこのオケガワという登場人物の「研究」と、この世界の存在理由に何かしらの因果関係があることが分かるだろう。
 こうして物語を進めるべき鍵が新たに出てきた事が、この台詞から読み取れるのだ。
名場面 ジャスティスの屋敷にて 名場面度
★★★★
 ある日、みさえがいつも通り酒場で歌っていると、そこへジャスティスが現れてみさえの歌を絶賛し、屋敷に招待した。
 これに従い、ジャスティスの屋敷で歌ったみさえだったが、そこでのジャスティスの反応は酒場とは違い、みさえの下手な歌を嘲笑う。ジャスティスだけでなく、その取り巻き全員でみさえを笑うのだ。みさえは恥をかかされるために招待されたことに気付き、「へんな顔の男」に取り押さえられつつも「よくも恥をかかせてくれたわね」とジャスティスに詰め寄る。「少しはおのれ自身を知ったらどうだ?」と嘲笑われると、みさえは「へんな顔の男」を振り切ってジャスティスに飛びかかるが、すぐにまた押さえつけられてしまう。ここに隠れて着いてきていたしんのすけが登場し、ジャスティスに「感じ悪いゾ」と抗議する。「確かに母ちゃんはもうすぐ30だし、おっぱいないのにインチキして大っきく見せようとしているけど…」としんのすけが叫んだときに目を隠して恥ずかしがるみさえと、「みんな知ってるって」と答える「へんな顔の男」の描写が間が良くてとても良い。さらにしんのすけが「(みさえは)おじさんほど性格歪んでないゾ!」と抗議を続ける。
 これに対しジャスティスは落ち着き払ってしんのすけに鞭の一撃を浴びせる。このしんのすけの危機にみさえはしんのすけに駆け寄り、影で見ていたつばきは思わず目を背ける。「子供になにするのよ! 幼児虐待で訴えてやる!」と抗議するみさえに、ジャスティスはなおも容赦なく鞭を浴びせ毅然とした口調で「外から来た人間に、そんな権利はない。世界の法律は俺が作っている。二度と帰れない以上、従って貰うしかない」と言い切る。これにしんのすけが反応し、「オラ達は春日部に帰るゾ!」と反論。ジャスティスはこれに対しても「この世界の仕組みも分からないくせに、無知とは恐ろしいものだ」として、「お前達は永久に帰れない」と断言する。しんのすけが「オラも断言するぞ、オラ達は春日部に帰る!」と叫び、みさえが同意の「そうよ!」と叫ぶと、ジャスティスはさらに二人を鞭で打つが、ここで画面は目を背けるつばきに変わり二人が鞭で打たれる描写は音だけの再現となる。そしてしんのすけとみさえはゴミ捨て用のダクトから川に捨てられてしまい、流されてしまう。
 このシーンでは主人公とその母という二人が、これまた容赦ない暴力を受けることとなり物語が否応なしに盛り上がるシーンだ。そして「酒場の雇われ歌手」という配役が気に入り、それによってみさえが過去のことを忘れ始め、家族も放っておくようになるという「一家の危機」と、この危機を乗り切るシーンが同時に描かれたという点も特筆だ。そしてこの「危機」は「一家の絆」などを描くのではなく、悪役としてのジャスティスの本気度を描く小道具として描かれたことは驚いた。
 そしてジャスティスが容赦なく二人を鞭打つことや、言葉の応酬も全く容赦が無く独裁者を見事に演じたことで、悪役としての本気度が上がり視聴者は物語の先行きに不安を感じる。こうして物語を盛り上げるシーンでもあるのだ。
 さらにこのシーンから分かることが色々あるが、残りは研究欄に回そう。
研究 ・映画の中の世界7
 さて、今回の名場面欄シーンでジャスティス知事本人がこの世界について教えてくれた。これについて考察したい。それは名場面欄に記した通り、ジャスティスが「(この)世界の法律は俺が作っている」「この世界の仕組みも分からないくせに、無知とは恐ろしいものだ。断言しようお前達は永久に帰れない」と言い切る部分である。
 既にこの世界はジャスティスシティと周辺の荒野だけで構成されていることが判明している、従って前者の台詞は彼が完全にジャスティスシティを掌握し、独裁政治を行っていることが判明する台詞であろう。また他のシーンから彼が保安隊の統率権を持ち、これを使って街の住民をも思いのままにしていることも理解できるだろう。
 そして後者の台詞だ。彼はこの世界が何故存在し、どうすれば消えるかも理解している事だろう。この世界を消し去る理由を封じることでこの世界の存在理由を作っているのは彼だとハッキリしたのだ。ジャスティスは元々映画の登場人物であり、しかも悪役だと言うことがこのシーンでハッキリすることだろう。
 この直前のシーンでオケガワという人物が自分が何者かも忘れ、ただ潜在意識だけで研究に没頭し酷い目に遭わされて来た事が示唆されている。ジャスティスが悪役である以上は、彼は倒されるべき人物であり、彼が倒されないからこそこの映画が未完成で止まってしまっているのである。
 つまり、オケガワというのは毎日馬で引きずられるなどの状況から、映画の登場人物であることは多くの人が気付いているだろう。本来オケガワがジャスティスを倒すための道具を開発し、これによって知事が倒されるはずだったのだと。そして本来この映画には「オケガワの研究開発がジャスティスに見つかり、保安隊に捕まってその罰として馬で引きずられる」というシーンがあったのではないかと。そこで何らかの理由でどうしてもそのシーンの繰り返しとなってしまい、物語が止まってしまったのだ。
 こうして考えるとオケガワが「1日1回」馬に引きずられるというのが理解できるようになるだろう。いや、1日1回ではなく「そのシーンが正しく描かれるまで」そのシーンを繰り返しているだけなのだ。オケガワが馬に引きずられてしばらくのところで「カット」がかかり、物語はその1日前に戻る。そこではオケガワは何事もなかったかのように、何かを作っているのだ。
 ただ物語を進めるためには「何か」が足りない、それはここまでに「映画の登場人物」と明確に判明している人たちにはない「キャラクター」が不足しているのだ。だからその埋め合わせをすべく、映画自身が人々を物語の中に引き込んで物語を進めるべくキャラクターを探している、これがこの世界の構図なのだ。ジャスティスはこの構図を知っているからこそ、外から来た人たちに恐怖政治でもって押さえつけることで、物語を進めるキャラクターが登場しないように人々を制御しているのだ。

…ジャスティスの屋敷で酷い目に遭わされたしんのすけは、つばきに助けられて怪我の治療をする。そして、野原一家がこの世界にやってきてから710日もの月日が流れた。
名台詞 「たいして経ってないと思ってたいけど、なんだか随分とこの世界にいてしまったらしい。知事の家の事件があってから、母ちゃんは地味に働いている。父ちゃんも必死で働いている、鞭が怖いから。マサオくんとネネちゃん、ネネちゃんはともかくマサオくんは楽しいらしい。風間君はオラがタメ口を聞くと怒るし、乱暴者だ。だけどやっぱり風間君は、オラの知ってる風間君だと思う。オラとボーちゃんはいろいろと忘れないように気を付けているけど、たまに忘れることがある。やばいやばい。ぶりぶりざえもんが描けなくなったのには本当焦った…今もまだ描けない。この映画の世界には、映画の登場人物達と、春日部からやってきた人たちがいるらしいけど…オラはどっちだったっけ? たまに嬉しいことがあると、春日部やシロのこととか全部忘れてしまいそうになる…気を付けよう。」
(しんのすけのナレーション)
名台詞度
★★★★
 次のシーンへ行く前に、唐突に野原一家がここへ来てから710日目まで話が飛ぶ。ここで2年近くの月日が流れているわけだが、この間を埋め合わせるシーンとしてこのしんのすけのナレーションと共に、この間の「かすかべ防衛隊」や野原一家の様子などがダイジェスト風に流される。
 これは台詞の内容よりも、この時のしんのすけの抑揚を抑えた語り口調がなんともいえない味を出しているところだ。この語り口調に彼らがこの世界に来てからの月日の長さや、春日部や仲間達への思いがうまく込められていると思う。そして自分も春日部のことを忘れていってしまっている寂しさも、この語り口調に込められている。この敢えて抑揚を抑えた語りにしている点がこのシーンの寂しさを誘い、この先の物語を盛り上げる要素でもあるだろう。
 このナレーションを最初に聞いたときは、鳥肌が立つほど感動した。正直言ってしんのすけらしくない語り口調なのだが、それでも徹底して「しんのすけの声」を崩さずに語りきった担当の矢島晶子さんは凄いと思う。原作を古くから読んでいる私としては、この台詞を文章にして読み直してみると「しんのすけの台詞」としては強烈な違和感を感じるのだが(元々しんのすけがナレーション向けのキャラじゃないのが大きい)、DVDでこのシーンを再現してこのナレーションを聞くとやっぱり「野原しんのすけ」なのだ。
名場面 しんのすけとつばき その2 名場面度
★★★
 前回部分で川に捨てられたしんのすけとみさえを助けたのは恐らくつばきだったのだろう、つばきはしんのすけの怪我の手当てをする。手当てをしながらつばきはしんのすけにジャスティスの屋敷で助けられなかったことを謝罪する、だがしんのすけはそれは気にせずにつばきに対して「あんな人のところで働かないで一緒に暮らそうよ」と持ちかける。だがつばきはジャスティスの報復を恐れて「無理」だと答える。しんのすけも負けずに「オラ一生懸命匿うし、チョー楽して暮らせる…」と続けるが、つばきはそれを遮って「私、臆病だから」と言う。
 ここでこの物語の副展開である「しんのすけとつばきの恋物語」という展開が一歩前進していることに、多くの人々が気付くであろう。まだしんのすけはつばきに恋していることに無自覚ではあるが、理由はどうあれ大胆にも「一緒に暮らそう」と告白しているのである。いや、幼児が無邪気に語っているだけという見方もありだろうが、ならばジャスティスの報復を押されて断られてところで話が終わってもいいはずだ。そうでなくしんのすけはさらに一緒に暮らすことを主張し、次のシーンではつばきがジャスティスの下で働き続けなきゃならないことをボーちゃんに愚痴るのである。これは間違いなく恋なのだ。
 もちろんつばきの反応も見どころだ。つばきが断る理由も「野原一家に迷惑」とかありきたりの事を述べるのでなく、真剣に「一緒に暮らせない理由」を語る。つまりこのシーンはよく見ると男女の真剣勝負になってしまっているのだ。ただそれに対して二人とも無自覚、しんのすけですら次のシーンで、ボーちゃんに「惚れたね!」と指摘されるまで気付かない。
 そして、このシーンで一つ見えてくるのはこの二人の淡い恋愛関係も、映画の世界が二人に与えた配役だと言うこと。しんのすけはつばきに気に入られたことが何より嬉しく、彼が春日部のことを忘れかけてしまう理由になるのは名台詞欄に挙げたナレーションで判明することだ。つばきの側にはどんな理由があるのかは、物語の核心に触ってしまうのでまだここでは具体的に触れないで置くが、しんのすけがこの映画にヒーローとして迎えられる以上は、そのヒーローに恋人が必要という理由によりこのような配役になったのだろう。
研究 ・映画の中の世界8
 ここで名台詞欄で取り上げたシーンをもって、物語は一気に野原一家が映画の世界に来てから710日目まで話が飛ぶ。この手前のみさえがジャスティスの屋敷に招待されたのが前述した通り125日目頃だったから、この間で585日、つまり1年と7ヶ月ほどの月日が流れた事になる。またマイクは野原一家が来た頃に「自分がこの世界に来てから625日が経った」と言っているので、彼は既に3年半以上もこの世界にいることになるのだ。
 もちろんしんのすけや「かすかべ防衛隊」の仲間達にとって、年齢的に考えればこの月日の流れは無視できないものだろう。5歳児の彼らがこれだけの年を経れば立派な小学生になっているはずであり、さらに乳児であるひまわりは言葉を使える位までに成長しているはずだ。なのに彼らに肉体的な成長の様子が見られないと言うことは答えはひとつ、この映画の中は「サザエさんワールド」となっていてどんなに長い間いたとしても歳を取らないということだ(もちろん「クレヨンしんちゃん」という漫画自体も20年続いているのに、しんのすけは5歳のままなのだから「サザエさんワールド」なのに違いないのだが)。
 ちなみに「野原一家がこの世界に来てから710日目」は、一家がカレンダーを付けている事から判明する。5日単位で棒を引くという方式のカレンダーが部屋の壁に一杯に描かれており、この棒の数を数えると話が飛んだ時点で710本あったわけだ。
 これだけの時間、この世界にいるとどういう事が起こるのか? それは難しく考える必要は無い。「春日部から来た人たち」がこの映画に登場する順番やタイミングは、「カスカベ座」に訪れた順番や時間とは時系列的に関係ないと前の方で考察した。ならば彼らが春日部に帰ったとしても元いた時間とほぼ変わらない、せいぜい映画1本分位の時間が経過した時間に帰ると考えるべきだろう。もちろん、彼らが「カスカベ座」にやってきた時間も映画1本分の時間の範囲内だと考えるべきだ。なんてったってこれは「映画の中の世界」なのだから、それに対する「映画の外の世界」は映画の上映時間分しか時間が流れないと考えるのが正しいと思うのだ。

しんのすけとボーちゃんは荒野で語り合っているうちに、「太陽が動かないのは映画が未完成だから」と気が付く。その話を聞いたひろしとマイクは街の広場に春日部から来た人々を集め、「映画は今ここで終わりました」と宣言するが何も起きない。そこに馬で引きずられてボロボロのオケガワが、つばきに介抱されながら現れる。
名台詞 「つばきちゃ〜ん。春日部に帰れるんだよ、ヒャッホーツ! 帰ったら、一緒に遊ぼうね。」
(しんのすけ)
名台詞度
★★
 名場面欄の流れを受けて、しんのすけはつばきの元に駆け寄って顔を赤らめながらこう言う。喜びを爆発させるかのように、目を潤ませながら。
 しんのすけの喜びは帰れることもあるが、この世界でつばきという「きれいなおねいさん」を見つけて仲良くなれたこともあるだろう。そしてそのつばきと一緒に元の世界に帰れるという喜び、もちろんそれはしんのすけにとって何よりもかえがたいものであって、その喜びが上手く表現された短い台詞だと私は思った。
 そしてこの喜び一杯のしんのすけの台詞に、つばきも喜び一杯の「うん!」という頷きを返す。これはこの物語のもう一つの展開である「しんのすけとつばきの恋物語」という展開においては最も印象的で、しんのすけがつばきに一方的に惚れているだけでなく、つばきもけっこうその気だったりすることがよく分かるシーンだ。
 つばきはこの映画のヒロインとして、今後ヒーローとして台頭してくるしんのすけの勇気と根性と優しさに感化されているしいことがこの二人のやり取りに現れている。感化されたからこそつばきはしんのすけを認め、しんのすけの思いに応えようとしているのだし、なによりも映画が動き出すひとつのきっかけ(名場面欄参照)を演じることが出来たのだ。
 本筋とサブ展開が同時に動き出す…ふたつの展開が同時に進むという難しい構図の物語なのに、それを感じさせないのはその辺りにあるように感じる。ここからは物語の展開と一緒に、二人の関係も接近し始めて結末に向かうのだから、見ていて本当に面白い部分でもあるのだ。
名場面 映画が動き出す 名場面度
★★★★★
 しんのすけとボーちゃんが「太陽が動かない」事実について語り合い、ボーちゃんがその理由を「この映画が止まっているから」とする。しんのすけがその話をひろしに言うと、ひろしとマイクは「映画を終わらせれば帰れる」と思い付き人々を広場に集め、「映画終わり!」と宣言するが何も起きない。そこで一同は「この映画に相応しい終わらせ方」として「ジャスティスを倒せば映画は終わる」という事に気が付く。
 一方、また保安隊に引きずられてオケガワが街の通りに倒れていた。苦しみつつ「水…」とうめくオケガワを、ついに通りかかったつばきが介抱する。オケガワを抱きかかえたつばきが上記のひろしとマイクらが集まっている場所を通ったとき、突然にこの劇中劇といえる映画の物語が動き出す。
 オケガワは一同が集まっている中心の壇上に登り、「自分が研究を続けていたのはジャスティスを倒すためにヒーローを創り出すためだった」であったと思い出したことを語る。するとこれまでずっと動くことの無かった太陽が動き出し、人々は春日部でのことを思い出し始める。みさえは「春日部…我が家…」と呟き、ひろしは「帰れるぞ」とみさえと喜ぶ。マイクは「自分がレンタルビデオ屋の店長だった」ことと「まだ独身だった」事を思い出し、しんのすけは地面に描けなくなって苦悩していた「ぶりぶりざえもん」を描いて見せる。オケガワが「知事を倒し、平和を取り戻そう!」と宣言すると、一同は歓声を上げる。
 ここでこの映画の世界の謎が全て解けたと考えて良いだろう、物語がなんらかの理由で止まったままになっていて、そのために映画の中に人が引き込まれたのだ。そしてオケガワの台詞を聞いていると、この映画に欠けていたのは「ヒーロー」だったことが示唆されるのも間違いなくこの台詞だろう。
 このシーンを成り立たせる要素として、「映画が動き出すきっかけ」となるふたつの出来事が同時進行し、このふたつの進行が出会ったところで映画が動き出したことは注目点だ。ひとつはしんのすけのボーちゃんの会話から始まり、春日部から来た人々が「帰る方法」を発見する展開。もうひとつはつばきがオケガワを介抱する展開である。
 もちろん展開としては前者の方が上だが、この映画としての展開を見れば後者のシーンが必要だったことが分かる。ヒーロー登場のためには、ヒーローによって勇気を持つ人格に変わって成長するヒロインの存在が必要だ。これまで「臆病」としてオケガワに関わることを避けていたつばきが、過去のしんのすけがオケガワに声を掛けたシーンに触発されたことや、みさえとジャスティスの一件で毅然とジャスティスに立ち向かうしんのすけを見たことで勇気を持ち、やっとオケガワに声を掛けることが出来たのだ。つまりこの映画はヒロインがオケガワを助けるシーンが無くてずっと止まっていたと考えることが出来、そのきっかけとなるシーンが無かったことが物語が進まない最大の理由だったのだ。
 そしてその「理由」とは、ひろしやマイクの活躍によって「春日部から来た人」が勝手に物語を展開させてしまったことに他ならない。映画の外の人々が「この映画がどう展開されるべきか」という点に気付いたとき、この映画自体が「その場にヒーローを作らねばならない」と気付いたのだろう。そして「ヒーローを作るため」にオケガワをその場に放り込むシーンとして、映画自身がヒロインがオケガワを助けるというシーンを思い出したのだ。それによって止まっていた映画は動き出したのだ。
 またこのシーンはとても印象的に描かれているのも忘れられない。まず太陽が動き出したシーンは時間をかけて、多少オーバーに太陽の動きや人々の影の動きを描くことで、見ている者に強い印象を与えるように出来ている。そして映画が動くと同時に人々が忘れていた春日部のことを思い出す…これは人々が「帰るべき場所に帰る」という今後の展開を示唆しているに違いない。
 とにかくこの欄に書ききれないほど様々な要素が重なっていて、この作品の中でも有数の名場面に仕上がったと思う。そしてこのシーンをきっかけに、物語は新たな展開に入って行くのだ。
研究 ・映画が動き出した
…ってテーマで研究欄を書こうとしたら、名場面欄でみんな語ってしまった。
 追加して言うことがあるとすれば、ジャスティスについてだ。ジャスティスは「この映画を完結させようとしてもどうにもならない」と名台詞欄シーンの直後に言う。ジャスティスはこの映画が何で止まったのか、理由を細部まで知っていると考えられる。つまりオケガワを介抱するはずの「ヒロイン」がその役割を忘れてしまっていることや、それによってヒーローが現れないことも知っているのだ。それだけでなく「映画を終わらせる」ために必要な重要な「何か」を、荒野の中に封印していることがこの先のシーンで示唆されることになるのだ。
 物語はその「封印」をとく展開へと、急激に変貌して行くのである。そこに隠されているものは何か? それがこの先の最大の謎になってゆくのだ。

…オケガワはジャスティスを倒すべく「ヒーローになれるパンツ」を完成させ、春日部から来た人たちが集まるところへ持ってくる。誰がこれを使ってヒーローになるのか?という話題に、マイクが手を挙げて立候補するが…。
名台詞 「酒場で会ったときだって覚えていたよ、春日部のことも。だけど、俺はもう春日部には戻りたくない。無理矢理エリート教育を押しつけられて、自分を殺して常に良い子を演じなければならないからな。それに比べれば、今は自分に正直に生きている。周りから恨みを買おうが、そんなことは気にしちゃいねぇ。」
(風間)
名台詞度
★★★★
 名場面欄シーンを受け、ジャスティスは人々が自分を倒せば映画の世界が終わることに気付いたことを知り、この集まりに保安隊を差し向ける。だが人々は既にジャスティスに恐怖政治に対し従順ではなく、逆に保安隊長「シェリフ」こと風間を捕まえる。しかも保安隊の一人はこのどさくさに紛れて、風間の胸に着いていた保安隊長のバッジを取り上げてから逃げ去るのだ。
 ロープで縛られて大人達に囲まれた風間を、しんのすけは必死に庇う。だが風間も「心は入れ替えない」と負けずに反抗するが、この中でついしんのすけの名を呼んでしまう。「オラの名前覚えていたの?」と返すしんのすけに、風間はこう語るのだ。
 ここで風間が語るのは彼の本音であり、エリートの苦悩というべきものかも知れない。彼は英語塾に通ったり小学生並みの勉強を叩き込まれたりという英才教育を受けていることが、原作漫画からの一貫した設定として描かれている。もちろんエリートで頭の良い子である以上は、悪い子になることは許されず思い通りに遊べないなど、彼にとって窮屈だったのは否めない事実であろう。そのような物語は原作漫画で何度も描かれており、風間というキャラクターが単なる良い子ではなく、普通の子供と同じような欲求を持っている子供として「クレヨンしんちゃん」を知る人々に印象付けられている。だからこそこの台詞が生きてくるのだ。
 彼の「他の子と同じように遊びたい」という普段から持っている欲求が、この映画の世界に来たことで別の方向に発散されてしまったのは確かだろう。彼の欲求の一つに「悪さをしてみたい」というものがあったはずで、これをもっているのが子供の自然な姿だ。その欲求がこの映画から「悪役の手先」という配役を与えられることとなり、これによって彼は他の「クレヨンしんちゃん」では見られない活き活きと生活を過ごすことになる。厳しい親がいないからこそ無理に「良い子」を演じる必要も無くなってせいで、彼は思いきり道を踏み外してしまったのだ。
 そんな彼も映画が動き出したことで、「悪役の手先」という配役を失ってしまう。だが彼はやはり「悪役を演じたい」のであり、「ヒーローになって皆を救う」という「良い子」にはなりたくない。そんな彼の心の訴えが聞こえてくるようなこの台詞は、この作品なにおける風間の台詞で最も印象に残った。
 これに対するしんのすけの返答は「でもやっぱり風間くんには悪は似合わない」というものであった。彼が「良い子」を演じたくないという気持ちはしんのすけも理解しているはずで、しんのすけは自分達と一緒に「おバカ」をやることこそが風間に相応しいと考えているのだ。それはおおくの視聴者もそう思っていることだろう。
 つまり、この台詞からはこんな風間のキャラクター性が見えてきて、非常に面白い台詞でもあるのだ。
名場面 「ヒーローになれるパンツ」 名場面度
★★
 ジャスティスを倒すべくオケガワが完成させたものは、「ヒーローになれるパンツ」と称する5枚の赤いパンツであった。「だれがこれを穿いてヒーローになるか?」との話題に、マイクが手を挙げてパンツを穿こうとするが小さすぎて穿くことが出来ない。落ち込んでいるマイクを横目にしんのすけが立候補し、穿いてみるとピッタリであった。その横で「デブはヒーローになれないのか…」と落ち込むマイク。
 パンツは残り4枚、と聞かされたしんのすけは指で数を数えたかと思うと、その場にいたボーちゃん・マサオ・ネネに声を掛ける。無論ボーちゃんは抵抗なくパンツを穿くが、残りの二人は乗り気ではない。ネネが「私はここの生活に満足しているの、ここで暮らしていたいの」と訴えると、「こんなうだつの上がらない男とずっと一緒で良いの? 春日部に帰ればやり直せるぞ」と説得し、ネネの心が揺らぐ。これを見たマサオが抗議すると「春日部に帰ればもっとやさしいおねいさんがいっぱいいるぞ」と説得する。そしてしんのすけは説得の決め台詞として「もう一回かすかべ防衛隊になればわかる」と二人に訴える。「かすかべ…」「…防衛隊」と二人が呟くと、シーンは変わってパンツを穿いた4人が並ぶ光景となる。
 このシーンはいよいよこの物語の主軸が「かすかべ防衛隊の友情」であることを明確にしてきたと考えて良いだろう。この映画の世界を終わらせるにはジャスティスという悪役を倒すという「目的」がハッキリしたところで、この「目的」を「かすかべ防衛隊」の力によって解決させるという方向性がやつと明示されたのである。だがここは物語の方向性が明示されたに過ぎず、まだ「かすかべ防衛隊」の友情は元に戻っていない。「この世界を抜け出す」「この世界から皆を助ける」という共通目標を明確に持っているのはしんのすけとボーちゃんだけで、マサオとネネはこの世界でそれなりの生活をしていただけにしんのすけの説得があったとは言えまだ乗り気ではないのだ。そして「かすかべ防衛隊」のもう一つのメンバーである風間は、まだこの場にいない。
 それよりもこのシーンは「クレヨンしんちゃん」らしいギャグシーンでもある。「ここにいたい」と訴えるマサオやネネに対するしんのすけの説得内容とそれに対する二人の反応は、まさに臼井儀人作品らしいノリであろう。特にしんのすけの言葉が二人に対して全く容赦がない点は、「クレヨンしんちゃん」という素材の世界観をうまく再現したと思う。ついでに言うとマイクの行動や反応も、それに「ヒーローになるための変身」に「パンツを穿く」という行為を選んだ辺りも、臼井儀人作品らしいノリであるといえよう。
研究 ・「シェリフ」とは?
 この世界にやってきた風間は、この映画の世界から「シェリフ」という保安隊長の役を与えられる。保安隊長とはいえその実はジャスティスという悪役の手先であり、ジャスティスシティの人々を苦しめる役回りである。この「シェリフ」という配役を受けた風間は喜んでこの役になりきり、先導を切ってマイクやオケガワを拷問するなど普段の風間からは信じられない言動を取る。
 この「シェリフ」であるがこの映画の世界を劇中劇として考えた場合、この役は「悪役の手先」がその悪の親玉に捨てられて「正義」のチームに寝返るという役回りに見えてくるだろう。恐らく本来のこの映画ではそうやって現れるヒーローの一人だったと思われる。この映画はヒーローがいないことで物語の展開のしようがなくなってしまい、途中で止まっていたというこれまでの考察の通りであれば、このような悪に対する裏切り者が一人二人いた方が盛り上がることだろう。つまり「シェリフ」はこの映画世界で必要だったにもかかわらず、欠けていた配役の一人だったのである。
 恐らく街の住民が決起したときに、何らかの理由で「シェリフ」は街の人々に捕まってしまうという役回りも同じだったと考えられる。そしてヒーローに促されて改心し、「正義」のチームに入って戦うという役回りまでが、風間に与えられた配役だったと考えて良いだろう。だが本来の「シェリフ」は大人が演じるはずだったはずで、街人に捕まるシーンなどはもっと違う展開になるはずだったのかも知れない。風間が演じる「シェリフ」はジャスティスに捨てられる形を取っているが、大人の保安隊長ならそうは行かないだろう。
 「シェリフ」を捨てたときのジャスティスのコメントは、風間に保安隊長をやらせたことを「暇つぶし」と語っていた。つまりこの映画を完結させたくない彼こそが「シェリフ」を幼児に配役することで、物語を進めやすくしてしまったともいえるだろう。最もジャスティスは、封印さえ解かなければ映画は終わらないと判断している設定だが…。

…マこうして「かすかべ防衛隊」の面々は全員「ヒーローになれるパンツ」を穿くが、特に何も起きない。マイクが「ピンチにならないと力が出ない」と分析するうちに、ジャスティス一派が決起した街人を捕らえるべく襲いかかる。「かすかべ防衛隊」のメンバーはやる気のないままこれに対決するが…。
名台詞 「保安官ごっこは楽しかったか、ぼく?」
(ジャスティス)
名台詞度
★★★
 ついに決起した「春日部から来た人々」に対し、ジャスティスは部下全員を引き連れて総攻撃をかける。その際に風間は保安隊長である自分を助けて貰おうとジャスティスのもとに駆け寄るが、ジャスティスは風間を鞭で打つと威厳たっぷりにこの台詞を吐く。
 これはジャスティスが風間を捨てたことを、本人に初めて告知する台詞だ。もちろん風間が街の人々に捕らえられたこともあるし、その前に風間が簡単に落馬したことで実力的に「使えない」と烙印を押したこともあるだろう。だがこの台詞にはそれ以上のものが込められている、この物語(「クレヨンしんちゃん」としての物語としても、劇中劇とした場合の映画世界としても)において彼の役割が180度変わった事をも告げているのだと思う。街から平和が奪われた時点でジャスティス陣営にとっては「春日部から来た人々」は邪魔な存在であり、風間も例外ではないはずだ。ここから先の展開では「春日部から来た人々」は全員、映画を終わらせるために動かねばならず、風間は映画を終わらせたくないジャスティスにとって邪魔でしかないのだ。
 それを告知するこの台詞では上手く言葉が選ばれ、これまで「保安隊長シェリフ」として対等に付き合っていたのを一転、ガキとして見下した内容の言葉をうまく選んだ。それに次元の演技力が加わり、この世界の風間を絶望のどん底に落とすのに相応しい台詞として完成した。ここでさらにジャスティスが悪役として強調されることで、この先の戦いシーンは否応なしに盛り上がる。
 この台詞を浴びせられた風間は言葉を失いジャスティスの前で立てなくなるが、「目をさませ」と怒鳴るボーちゃんとしんのすけによって連れ去られる。こうして風間自身も正義側陣営と共に行動するのが確定するのだ。
名場面 「荒野の七人」登場 名場面度
★★★
 ジャスティス一派の総攻撃により、街は大混乱に陥る。その中で野原一家とオケガワ・マイク・つばきと「かすかべ防衛隊」のメンバーは家に隠れる。そこでつばきが荒野に封印している「何か」の話をすると、ひろしが「そこへ行ってみよう」と提案、マイクは助っ人を呼びに行く事となる。そしてひろしが陽動している間に、一同は駅から汽車に乗って封印場所を目指す。
 その汽車をジャスティスの部下達が馬で追う、陽動作戦のため遅れて馬で追いかけるひろしは汽車に乗るのに苦労する。そして敵にとどめの一撃を撃たれそうになったその時、どこからともなく銃弾が飛んできてその敵が銃を落とす。すると客車の屋根から凛々しい男が出てきて、「奴らは引き受けた、急げ!」と叫ぶ。彼こそマイクが連れてきたアンチジャスティス派のリーダーであるクリスである。彼を含め7人の用心棒が汽車に乗り込み、人々に協力するのだ。
 そして始まる銃撃戦、この迫力はアニメ映画ではあまり見られない迫力のあるシーンでまさに手に汗を握ると言った感じだ。さらに苦労とギャグを見せながら馬から客車に乗り移るひろし。ひろしの移乗が終わると「機関車加速しろ」と用心棒達が伝達し…最後は機関車に乗っているマイクが格好つけてマネをしたことで、みさえに蹴飛ばされて終わるというオチで終わる。すると馬で追いかけているジャスティス一派の姿が遠ざかる。
 このシーンは西部劇による対決シーンを、ものすごい迫力でアニメとして再現したので感心したシーンだ。街の混乱だけで済ますのではなく、「列車」という大道具を使ってこの内外に渡って繰り広げられる戦いはここからずっと続くことになるが、この作品を代表する迫力シーンと言っても過言ではないだろう。
 そして必ず描かれる主人公…つまり正義側陣営の主要人物のピンチ、それに対応して現れる助っ人。このような要素が戦いシーンを面白くしているのは確かで、ここでは「セオリー通り」と言った感があるだろう。
 そしてここで出てくる用心棒は、西部劇の名画「荒野の七人」のキャラクターそのままだ。担当声優も「荒野の七人」日本語吹き替え版でそれぞれの役を演じた人々が割り当てられている。これも「西部劇」としてこの物語を盛り上げた要素だろう。
 だが西部劇として盛り上げた次は、劇場版「クレヨンしんちゃん」らしい展開へと流れて行くことになる。
研究 ・映画の中の世界9
 今回の部分で驚くべき光景がある。それは再び列車が登場するシーンなのだが、このシーンにおいて何の説明もないままにみさえが機関士、マイクが機関助士となって機関車を運転していることだろう。
 これがどれだけ驚くべき光景なのか分からない人も多いことだろう。ではこのサイトのご覧の皆さんに聞いてみるが、皆さんは蒸気機関車の運転の仕方(=ボイラーの運転方法)をご存じだろうか? 恐らく知らない人の方が圧倒的多数と思う。
 蒸気機関車は電車と同じく線路の上を走っているので「舵取り」は不要で、自動車で言えばアクセルとブレーキだけで運転するようなものだ。だが「蒸気機関」という動力源は、ガソリンエンジンや電動モーターとは違い制御が難しく、とてもじゃないがその辺りの若い主婦が何の訓練もなしに運転できるものではない。「蒸気機関車」という乗り物でなくても、蒸気機関という動力を動かすための「ボイラー」を運転するためには別途免許がいるというとんでもない代物だ。
 蒸気機関車の運転を説明する前に、蒸気機関車の構成から話をしなければならない。蒸気機関車は「蒸気機関」を動かすための高圧蒸気を生み出すための「ボイラー(汽罐)」と、そのボイラーで生み出された高圧蒸気を動力に変換する「機関(エンジン)」というふたつの部品に分かれている。つまり蒸気機関車を動かすためには、機関助手がボイラーに水と燃料(劇中では薪)を入れて高圧蒸気を作り、機関士は機関を操作するという二人の操縦者が必要になる。
 機関士はボイラーによって作られた高圧蒸気の量を確認しつつ、「加減弁」によって機関へ送る高圧蒸気の量を調整て機関の回転数を調整しながら、「逆転機」によって自動車で言うギアチェンジに相当する操作をしなければならない。つまり機関車が出発するときや、スピードを上げるとき、さらに勾配を登るときは蒸気の圧力を上げた上でギアを落とし、スピードが乗ってきたところでギアを上げながら蒸気の量を減らすという操作をすることになる。これをしながら信号を確認し、スピードを調整しながら駅が近付けばブレーキ、という操作をすることになる。
 ただしブレーキについては、劇中に出てきた機関室を見ている限り空気ブレーキ装置は装備されていないようなので、機関助手がハンドルのような器具を回すことで機関車のみブレーキを掛けるという単純な構造であろう。だからブレーキ操作はマイクが単純な操作をするだけなので、あまり考えなくて良い。
 それにしても、このサイトをご覧の鉄ヲタ以外の皆さんには、この説明で蒸気機関車の運転が理解できただろうか? いや、出来てない人の方が多かったと思う。この難しい運転を現代の一介の主婦でしかないみさえがいきなりできてしまったのである。
 これはもう、映画の世界に入ると配役上必要な技能も自動的に備わるとしか考えられない。つまりみさえはこの世界では蒸気機関車を運転する腕があるものの、春日部に帰ったらそれが出来なくなると考えるべきだ。
 ちなみに機関室での機関士みさえと機関助士マイクのやり取りは、この映画で最も好きなギャグだ。

…なんとかひろしが客車に乗り移り、用心棒の活躍もあって馬で追いかけてきたジャスティスの部下を振り払うことに成功する。だがまた列車の後方から別の追っ手が迫ってきた。ジャスティス自ら自動車で列車を追ってきたのだ。その戦いの中、最高ビリ客車が切り離されてしまい風間が列車外に転落してしまう。
名台詞 「西部開拓時代の終わり頃には、もうクルマがあったんですよ。時代考証的には何の間違いもありません。うん、うん。」
(マイク)
名台詞度
 馬で追いかけてきたジャスティス一味をなんとか振り切ったかと思うと、今度は彼らは自動車で追ってきた。機関車を運転しながらこれを見たみさえが「なんで西部劇にクルマがでてくんのよ?」と叫ぶと、マイクは落ち着き払ってこう答える。
 この台詞はマイクのキャラクター性が上手く利用されていると思う。「西部劇」という舞台に放り込まれた一般人が体験する予想外の出来事、それに対する冷静な分析。これは映画ヲタのマイクでなきゃ返答できないことだ、私が各アニメを鉄ヲタ視点で考察することがあるように、マイクはここで映画ヲタの視点として現況を解説するのである。
 それだけではない、最後の嬉しそうに「うん、うん」と付け加える部分で西部劇という世界に放り込まれたことで喜んでいるマイクの本心も見えてくるし、その場を自分なりの知識で考察してその結果をみさえに語る際、頭がそちらばかりに行ってしまい機関助手という仕事が疎かになってしまう彼の性格も良く出ているだろう。この台詞に対しみさえはマイクを蹴飛ばし、「だったらサボってないで働け!」と叫ぶ。この二人の機関室でのやり合いは本当に面白い。
 西部開拓時代と自動車の関係については、研究欄に譲ろう。
名場面 「カスカベボーイズ」登場!! 名場面度
★★★★
 列車から転落して線路に落ちてしまった風間は、すぐにジャスティスの部下の「へんな顔の男」に見つかってしまう。何とか立ち上げって逃げようとする風間を、「へんな顔の男」は容赦なくひき殺そうとする。一撃目はなんとか避けた風間だったが、二度目はもう体力が無くて思いように動けない。咥えていた煙草を捨てながら風間の方にハンドルを切る「へんな顔の男」、迫るタイヤ、風間絶体絶命のピンチ。
 風間がひき殺されると思った瞬間、荒野から何者かが現れて風間を抱き上げたかと思うと転がるように自動車の進路から救い出す。「へんな顔の男」の車は風間の脇を通り抜け、荒野の段差に捕まる。
 驚いて風間が起き上がると、そこには息を切らして倒れているしんのすけの姿があった。列車の進行方向からは、ボーちゃん・マサオ・ネネの3人も駆けてくる。しんのすけも立ち上がり、4人で風間を見る。皆が何かを決意したような表情になると、しんのすけがこの輪の中に手を差し出し、全員がそこに手を添える。最後に風間が手を添えるとオケガワが作った「ヒーローになれるパンツ」が輝き出し、5人は光に包まれる。そしてそれぞれが西部劇のヒーローに似合った格好に「変身」するのだ。変身が終わると5人は夕陽に向かって1列に並び、マサオが光る服のスイッチを入れる。「俺たちは正義の味方、カスカベボーイズだゾ! またの名を…」としんのすけが声を上げると一同は思い思いのポーズを決めながら「かすかべ防衛隊!」と決め台詞で決める。そして立ち直った「へんな顔の男」の車を突き飛ばし、ジャスティスを倒すべく列車を追う。
 このシーンをもって「かすかべ防衛隊」の友情が元に戻っただけでなく、共通の目的に向かって5人は走り出す。しんのすけがピンチに陥った風間を助け、これで風間はこの友人の大きさを思い出したのだろう。それは風間だけでない、この戦いに乗り気でなかったマサオとネネも同じだ。二人も風間を救うべく列車から飛び降りたしんのすけを見て、何かを感じたはずなのだ。
 こうして一同はこれまでの友情を思い出し、自分達が元の世界に帰ってさらに友情を育てていかねばならないという現在のやるべきことに気付いたのだろう。この共通の思いがついに「ヒーローになれるパンツ」の機能を作動させ、5人は共通の思いで繋がったヒーローとして変身する。これが「カスカベボーイズ」なのだ。
 だがまだ5人の心の中は完全に元に戻っていない。なんてったってヒーローものの映画には、ヒーローが出てきてもそのヒーローが一度はピンチに陥るのが「おやくそく」だからだ。この5人に何が駆けたままなのか、それが分かるのはまだちょっと先の話。
感想 ・西部開拓時代と自動車
 今回の名台詞シーンのところで、ジャスティス一派が自動車で列車を追いかけてくる。「西部劇」=「馬や馬車で移動」というイメージが強い人たちにとって、これは驚きのシーンでもあろう。だが名台詞欄の通り、マイクはこれは時代考証として間違っていないと説明してくれる。これについて詳しく分析してみよう。
 アメリカでいわゆる「西部開拓時代」と呼ばれるのは、19世紀後半の時代である。アメリカ大陸が西洋人に「発見」されてから、ヨーロッパからアメリカへの移民開拓が始まる。この開拓は太西洋岸から太平洋岸へ向けて開拓が進んだのだが、この開拓が西へ西へと広がっていった時代が「西部開拓時代」と呼ばれている。アメリカの開拓が終わるのが1890年代中頃で、同時に開拓はカナダやアラスカへと移っていったので、この頃に「西部開拓時代」は終わりを告げている。
 いっぽう自動車の歴史を紐解いてみると、1870年にユダヤ人によって発明されたガソリンエンジンの自動車がドイツのタイムラーやベンツによって実用化され販売されたのは1880年代である。T型フォードの登場によって自動車が庶民化されるのは1907年だが、1890年代は既にアメリカでも富裕層がガソリンエンジンで走る自動車を所有し始めていた時代である。
 こうして両車の歴史を見ていると、確かにマイクの言う通り「西部開拓時代の終わり頃」であれば、ジャスティスのような富裕層ならば自動車を持っていてもおかしくない。だがまだ自動車を大量生産している時代ではないので、大量に存在するかどうかは別問題ではあるだろう。また荒野を猛スピードで走れるような踏破性も持ち合わせていなかったのではないかと推測される。
 いずれにせよ、マイクの言っている事は間違っていない。確かにアメリカ西部開拓時代の終わり頃には、状況はどうあれ自動車はあったのだ。

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