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…7月24日、ともおと雅人と由伸がカブトムシを捕まえようとしているごくごく普通の夏の日のシーンで始まる。彼らの日課はカブトムシ捕獲だけでなく、ラジオ体操やひまわりの観察日記だ。
名台詞 「それよ、それ。そのありきたりな意見。そんなことを言うあんたみたいなのがいるから平和になるための話し合いが進まないのよ。そういう考え方はね楽なのよ。誰かを戦争したい人って決めつけて、文句言ってりゃいいんだから。真実はどうあれね、まず戦争なんかしたいと思う人はこの国にはいないって事を前提として話を始めないとね。進まないのよ、話が。そんなことも分からないなんて、だからあんたはバカなのよ。」
(秀美)
名台詞度
★★★★
 団地に住む女子高生の青戸秀美は、夏休みは補修に明け暮れる毎日を過ごしていた。彼女は友人の坂上といつものように語り合いながら、補修からの帰り道に着いていた。そこで秀美が唐突に「なんで戦争って起こるんだと思う」と問う。これに坂上が「そりゃ、戦争をしたい人がいるからよ」と返すと、秀美はこの長い台詞で坂上の意見を批判する。
 ここまではいつもの「団地ともお」だったのが、最初に道を踏み外したのはこの台詞と言って良いだろう。だがこの二人は当てもなくこういう会話をすることが多いキャラでもないので、この路線へ大きく舵を切って行くことなど視聴者は考えてもいないはずだ。なんせこの長い台詞を語りつつも、同時進行でともおが二人にちょっかいを出すシーンも描かれている。台詞は重くてもいつものノリは変わっていない。
 この会話における坂上の意見は、若い頃に口にしたことがある人も多いだろう。そう、戦争という重いテーマについ軽く答えてしまったことは多いと思うし、相手がそこまで重く考えていないからこのように答えたという経験がある人もいるだろう。それだけのことなのに秀美は坂上の意見に真面目に反論する。
 そしてこの秀美の意見は「究極の正論」だ。「戦争はしたい奴からいるから起きる」ではその原因や経過を全く無視している。こんな意見からは何の教訓も得られないし、戦争が正しかったのかどうかも分からない。楽と言えば楽な意見なのは否定しないし、責任転嫁である事も私は否定しない。でも印象的なのはこの台詞の後半だ。何処の世の中にだって喜んで戦争をしたい人はいないはずなのに、戦争に反対だと声を大きくして言う人ほどそれを信じていないという構図。なんかこれは安倍政権の安全保障法案に反対している人を皮肉しているようにも見えた。あの法案は「日本では誰も戦争をやりたがってはいない」という目線で見ないと何も理解できない、私はそんな法案だと思っている。なのに政権与党か戦争好きでみんな徴兵制で戦地へ連れて行かされるから反対という意見は、自分で自分の国を守るという気概もなく、なんもかも人のせいだというだけというのがあからさまに見える意見でどうも好きになれない。そんな深いことを考えてしまった台詞だ。
 この台詞に、坂上は「赤点取りまくって、夏休みを丸ごと補修で潰すあんたに言われたくないわよ」と呆れ気味に答える。本当に頭が良いのはどっちなのか分からなくなる会話で好きだ。
名場面 木下家の夕食 名場面度
★★
 夜、木下家の面々は食卓を囲んで夕食を取っている。テレビでは戦後70年を考える番組が流れている。ともおがテレビを見ながら「70年前、日本って何処と戦争していたの?」と聞く、間髪入れずに父が「アメリカとか」と言えば、姉が「イギリスとか」と続けると、ともおは「うっそだー」と驚いた様子もなく反論する。母が「中国とソ連もだっけ?」と付け加えると、「何だソ連?」とオチのギャグを付けたともおは茶碗のご飯を一気にかき込むと「おかわり!」と元気よく言う。
 本話がいつもの「団地ともお」から道を踏み外したその2だ。だがここでも大きくは道を踏み外さない。実はこのまま道を踏み外しそうな…そのままのような…と最後まで突っ走るのだから。
 子供の頃に「日本が昔戦争をしていた」と認識したときにわいた疑問、これがここでのともおの疑問だ。大人の男である父親と多感な年頃の姉は即答、その回答にない点を母親が付け加えるというのは上手く出来た構図だと思う。そして現在の小学生でも分かる世界情勢を思えば、日本がアメリカと戦争をしていたというのは驚きかも知れない。だがともおはここで「驚かずに否定する」のが面白く、ここは彼が現在の小学生レベルの世界情勢を理解した返事と言うより、テレビなどから流れる情報に沿っての否定なのだと私は感じた。その証拠にともおは「うっそだー」と返すだけで深入りしようとはしなかった。
 そして母が中国とソ連を付け加えると、彼はお決まりのギャグで流す訳だが、私たちの時代と違い今の子供がいきなり「ソ連」と言われても解らないよということを、このギャグで上手く示唆していると感じた。この短いシーンにともおというキャラクターが持つ世界観というのが、上手く表現されていたのかも知れない。

…ともおの級友の一人根津が「穴場」で大きなカブトムシを捕まえた。ともおらは犬の真似までしてその「穴場」を教えてもらい、巨大カブトムシ捕獲に精を出す。一方、高校では秀美らに対しての歴史の補習授業が始まった。
名台詞 「あ〜」
(ともお)
名台詞度
★★★
 これの何処が名台詞だって思う方も多いだろう。でもこの「あ〜」は凄く長い。なんてったって35秒間もあるんだから。35秒も息を継がずに「あ〜」って言い続けるのは結構大変、私も試してみたがどんなに頑張っても25秒位が限界だ。それも地声でなく演技の声でだ。ここはともおを演じる三瓶由布子さんの息の長さにまず敬服したい。この人、当サイト考察済み作品では「MAJOR(劇場版) 友情の一球」に出てたのね。
…って担当する役者を褒めるだけならわざわざこれを名台詞欄に挙げない。この台詞の素晴らしいところは、シーンが街の老人達からともおの姉君子が70年前の街の戦争の記憶を聞くというとても重たいシーンである。この重いシーンを緩和する効果がとても大きいのだ。この序盤の段階ではまだ視聴者は「団地ともお」がそのような重い話に傾くのになれないはずだ、そこで「ともおに声を出させておく」ことでその重さを緩和させるのだが、それで選んだともおの行動が「扇風機に向かって声を出すだけ」という非生産的な行動だ。だからこそこのともおの行動も面白く、話が重いと感じる視聴者もいなくなる。
 そしてともおが声を出す限界に達するやいなや、この家の子供を出してともおと剣玉に興じさせることで、自然にこのシーンでのともおの活躍を終わらせるのも上手く作ってある。
 ここではともおの声が扇風機で震えるのを再現すべきだったかどうかで意見が割れそうだが、私はこの作品で行われたようにそのような効果を付けなかったからこそ、この「声」が活きてくると感じた。
名場面 帰宅 名場面度
★★★★
 母の頼みで街の老人宅に届け物をし、君子はそこで街の戦争の話を聞いた。そしてその帰り道、「どんな話してたの? 面白かった?」とともおは鼻をほじりながら姉に問う。「戦争の話だからね、面白いって訳じゃないわよ」と答える姉の声に、ともおは興味なさそうに「ふーん」と答えてほじった鼻をほじるのをやめる。姉は「あんたもああいう昔の貴重な話、ちゃんと聞いておくべき」まで言って突然言葉を切る。ともおが姉の話を無視して道ばたに見つけたトンボの目を回していたのだ。その姿に姉は「おいっ!」と突っ込むしか出来ない。
 なんてことないシーンだが、ここにキチンとこの物語における主人公ともおの「出発点」が描かれている。既に物語は進行しているが、その中でもお構いなしに主人公は日常生活を演じているだけだ。そして彼は「老人が戦争の話をしていて、姉が興味深くこれを聞いている」という状況でも名台詞欄の通りに物語の進行と無関係に「いつものともお」を演じるだけだ。そのようなシーンを行くか通り越したことで、ついに物語はこんなシーンで「ともおの立ち位置」を明確にする。
 それは、戦争とか昔話というものにともおが興味がないという事実だ。興味がないからその話に入っていけない…だから秀美の高校で歴史の補修が始まっても、君子が老人達から昔話を聞いても、ともおは何一つ変化がない。現在の物語進行を寄せ付けないのだ。
 そして物語は、ともおが何で興味が持てないかだけでなく、今ある全ての要素が「戦争」というテーマに収束して行くのだから面白い。このシーンを最初に見たときはそんな展開になるなんて思わなかったけど、ともおの立ち位置がハッキリしたと感じたのは確かだ。

…ともおは「穴場」へカブトムシの捕獲に出かけるが、なかなかでかいのが捕まらない。ある日、ともおは母に近所のスーパーへのお使いを頼まれて自転車で出かけたその帰りに、出会った老人から南方での戦争経験を聞かされる。一方、高校の歴史の補修になぜか君子と部活の仲間達が加わっている。
名台詞 「私、そういうの嫌い。だって戦争の道具だよ。」
(節子)
名台詞度
★★
 ある日、ともおの同級生の女子3人が団地の公園にいた。景子が縄跳びをしながら「昨日テレビで戦争特集やってさ、戦艦大和のCG格好良かったなー」と語る。すると頼子が「私、大和描けるよ」と得意げに語ったと思うと木の枝を使って地面に大和の絵を描き始める。その間景子が縄跳びで何重にも跳んで間を持たせる。描き上がると縄跳びをやめた景子がこれを見て「すごーい」と声を上げると、「お父さんがよくプラモデル作ってるんだ。見てたら覚えちゃった」と頼子が得意げに解説する。このやりとりを隣で見ていた節子が静かに語る台詞がこれで、この台詞を聞いた頼子は折角描いた戦艦大和を消してしまう。
 まぁ、これは今時の子供、それも女の子の「戦艦」というものに対する一般的な感想だろう。「戦艦」というのは人殺しの道具でありどんなことがあっても存在そのものが許されるものではない。私も子供の頃そう考えていた時期があったのは認める、だからこそこの台詞を吐く節子の気持ちはよく分かる。
 だが景子のようにこれがカッコイイと感じるのも悪くないはずだ。元来戦艦大和は「人殺しの道具」なんかではなく、国と国民を守るシンボルだったはずであり、その国と国民を守る手段として武器を持っていただけの話だ。その自分たちを守る強いシンボルとして戦艦大和がカッコイイという点に理解する人も多いはずだ。
 節子のような考え方をする人は、戦艦の存在理由が「国と国民を守る」のではなく「人殺し」だと勘違いしているのだろう。本来戦争というのは国(国益)と国民を守るためのもので、それを奪うために敵兵士に対して攻撃するのはその手段の一つでしかないはず。その攻撃してくる兵士もまた自分たちから利益を奪うため武器を持っている。そういう前提に立てないか、そういう前提から逃げているのだろう。私もそれを理解してそのような前提で物事を見られるようになってから、戦艦大和がカッコイイと感じるようになったのは事実だ。
 まぁそれとは別に、乗り物(フネ)としての戦艦も充分にカッコイイのだから。こういうのは男の子の趣味であって女の子には分かるまい…って、節子は鉄ヲタ設定だろーに…。
名場面 戦争勃発 名場面度
★★
 名場面欄シーンの直後、景子ら3人の女の子に「サッカーやるからあっち行けよ」と声が飛んでくる。景子が「何でよ?」と叫び返し、節子が「私たちが先に遊んでるんだからね」と宣言する。その返事も待たず景子が「そっちがどっかよそ行きなさいよ!」と突きつけると、ともおが「縄跳びなんか何処でも出来るだろ? ほら、どっか行け!」と叫んでボールを投げてぶつけようとする。これに景子の後ろに隠れた頼子が情けない声で「向こう行こう…ねっ」と景子に語りかけるが、景子は怒りの形相でともおら男子を睨み付けていた。ともおが怯むと節子が「木下君みたいに、そうやってすぐ暴力に訴える人が戦争を起こすのよ」と突きつける。「な、なんだよ? 聞き捨てならねぇぞ! おい!」と叫ぶともおだが、これに景子がアカンベポーズと「バカ」と一声、節子が「行こう」というと女子3人はその場を立ち去る。黙って見送るしか出来ないともおら男子達、ガニマタで歩き去る景子の姿が印象的だ。
 いってしまえば、小学生の日常を描く漫画やアニメでありがちなシーンだろう。もちろんこの戦いでは、力だけでなく人数でも男子(ともお、雅人、由伸、満夫)が多く、力と数で男子が勝っているのは言うまでもない。女子は景子が喧嘩が強いとは言え、1人少ないので分が悪いのは確かだ。
 そしてこのシーン、最初に見たとき「戦争」の縮図に見えた。そこには「土地(領土)」の奪い合いや、それによる権益などと言った要素などがキチンと描かれている。さらに言えばそれを力の論理で解決させようとするともおを「軍事大国」として批判する現代の状況までしっかり描いている。
 これは男子達が勝ったと言っても、あまり気持ちが良いものではなかったはずだ。むしろ今後は女子達の底力をどう押さえつけるかが課題になるだろう。もちろんこの遊び場を巡る男女の戦いは、本作ではこの一回だけでない。ここからあの手この手で彼らは遊び場を巡って考証を開始するのだ。この遊び場を巡る戦いは補草のキーワードのうちの一つである事は、このシーンでだいたい気付いた。

ともおが雅人に「プール行かねぇ?」と誘うが、この日は夏休みの登校日だった。久々に学校の仲間達や教師と顔を合わせた。
名台詞 「8月15日って終戦の日だよね? 終戦の日って喜べばいいんですか? 悲しめばいいんですか? 戦争が終わったことは嬉しいけど、負けて終わって人が一杯死んだのは悲しいし、どっちかなぁと思って。」
(ともお)
名台詞度
★★★★★
 夏休みの登校日、児童達に夏休みの宿題の進捗状況を問うクラス担任の育江であったが、作文のテーマが「戦争」であることから苦労している人が多いと思うとした上で「どう書いたら良いか分からない人はいますか?」と児童達に問う。するとともおが挙手して教師に問うのがこの台詞である。
 本作で最初に強く印象に残った台詞だ。実はこれ、私も子供の頃に感じていた疑問だ。当時の人達が戦争が終わったときに「嬉しい」と感じたのか、「悲しい」と感じたのか…つまり終戦記念日というを知ったとき、祝うべき事なのか悲しむべき事なのかが分からなかったというのが正直な気持ちであった。
 もちろん、終戦記念日を取り上げるテレビ番組の「重たさ」を考えれば、単純に祝えば良い日でないことは理解できたが、では当時の人達は「終戦」と聞いてどう思ったのかが戦後の教育からはなかなか見えてこないというのは間違いない。
 今になって見れば当時の人達も千差万別の思いがあったことは理解できる。空襲などで苦しんだ人はホッとしたことだろうし、日本の勝ちを信じて疑わなかった人や、戦争で大事な人を失った人は悲しい日であるのは確かだ。家族が戦地へ行っている人などは、これでその家族が帰ってくると喜んでいた人もあるだろう。満州や北方領土や樺太で終戦どころの状況ではなく、8月15日を過ぎても戦っていた人達がいることも今ならば理解できる。
 ここは戦後日本が子供達に戦争を教えるとき、何か大事な忘れ物をしているんじゃないかという問題定義に思えてならない。それは「戦争は悲惨」というお仕着せではなく、当時の人の気持ちを考えてみる事なのではないかと思う。その当時の人の気持ちが見えてこないからこそ、こういう疑問が出てきてもおかしくないと思う。
 そしてこの疑問をぶつけられた育江は答えに詰まってしまい、「教師」という立場から歴史の勉強を始めるという伏線に繋がる。だがこの育江の姿こそ、現代の「子供達に戦争を教える大人」の平均的な姿を描いていると私は思う。私もともおのこの台詞を疑問としてぶつけられたら、やはり答えに詰まるだろう。
名場面 たにしマート 名場面度
★★★★
 終戦の日、街にあるコンビニ「たにしマート」では老いた間と若い今野の二人がいつも通り働いていた。間が本棚に並んでいる雑誌の「終戦70年」の文字を見て「終戦から70年だね」と声を掛ける。そして若い店員に父の満州での苦労話を語り、その父が「戦争を知らない奴が戦争を語るな」を口癖にしていたとして「あの悲惨さを味わったことのない人間が、戦争を語ったらいけないよ。戦争は絶対に起こしてはいけない。とにかく戦争は反対だ」と話を締める。だがこれに今野は「間さんだって戦争を知らないじゃないですか?」とツッコミを入れる、すると間も自分の発言がおかしいことに気付いたのか二人は無言になる。木下一家が走っているシーンを挟むと、「誰だって戦争は嫌に決まっていますよ。でも戦争強く否定するあまり、戦争を語ったり学んだりするのを避けることもあるんじゃないかって…」と今野が語る。すると間は「学び続けることは大事だ」とこのシーンを締める。後ろで高校の歴史教師が頷いている。
 このシーンは、今時のお年寄りと若者の「戦争の話」の展開を上手く示していると思う。今のお年寄りと言ってももう60代の人まで戦争を知らないし、70代前半の人だって戦争を直接は知らないはずだ。この間という老人も最初は「父の話」として話し始めているが、彼の話をよく聞いていると「父の話」がいつの間にか自分の意見の主張にすり替わってしまっている。そして自分が戦争を直接知っている訳でもないのに見た来たかのように語り、最後はまるでハンコを押したかのように「戦争は悲惨、だから反対」と締めくくられる展開は、私の世代でもよく聞いた話のはずだ。
 だがこんな耳にタコができる話がおかしいことに、今の若者達はもう気付いている。「戦争は悲惨、だから反対」というけど、そういう世代の多くの終戦直後に生まれた人が多いこともわかっている。確かに彼らには彼らの苦労はあったのだろうが、それは戦争を直接知る痛みではなく、それとは異質の自分たちを苦労させた「戦争」への恨み節でしかないことを今の若者達が見抜いている。こんな構図を上手く描いたシーンに感じた。
 だから戦争について若者達が欲しい言葉であり、考えたいことは「戦争は悲惨であり反対」というお仕着せではない。どうして戦争が起きて、人々が当時どのように考えたのかという実像に迫った上で、「戦争に賛成か反対か」も含めて自分で答えを出したいという欲求に答える言葉のはずだ。こんな若者の声を、上手くアニメのワンシーンに入れたと感心した場面だ。
 もちろん、お年寄りの言葉が「戦争は悲惨だから反対」だけでないことも私は理解している。戦争を知る世代の方々が実像を伝えようと苦労しているのも知っている。でも「悲惨だから反対」と押しつけておくのが最も楽だからそれを選ぶ大人がいることも事実だし、単に戦争への恨み節としてこの言葉で片付けるだけの大人がいるのもこれまだ事実。この物語は「そんなんじゃダメだ」とある一定以上の世代に伝えようとしていることが、伝わってきたシーンだ。

…ともおら木下一家は祖母の墓前へお盆の墓参り。その帰りに昼食を取った蕎麦屋で、祖父が終戦前後の思い出を語る。
名台詞 「なんか負けた話ばっかりでつまんないな。勝ったときの話とかないんですか? 正直、ピンとこないんだよな。戦争は悲惨だ悲惨だって言うけど、負けたから悲惨なの? もし勝ってたら、8月15日は勝ったのを祝う日になってたの?」
(ともお)
名台詞度
★★★★★
 墓参りの翌日、女子達と遊び場を巡る戦争の最中に満夫が近所の老人に戦争の話を聞きに行こうと誘いに来る。恐らくそのままともおに満夫、そして雅人と由伸も一緒に老人の家へいった。そこでの話題は戦争末期の負け戦の話ばかりだが、ともお以外の3人は真面目に聞いている。満夫が「悲惨な戦争だったんですね」と語り、雅人が「平和って大事なんだな」と模範解答を示し、由伸がこれに頷く。そしてこれに続いてともおが語った台詞がこれだ。
 正直、「よくぞ言った」と思った台詞だ。今、子供達に戦争を「語り継ぐ」場があるとしても、そこで語られるのは空襲や原爆で日本の都市が焼け野原になった事や、戦争末期の負け戦の話ばかりだ。そしてその戦争の一面だけ取り出して「悲惨だ悲惨だ」と押しつけ、子供達に「戦争は人殺し」と教えて「戦争は悲惨だからやっては行けないと思います」と言わせる。私はこんな現状では戦争の体験とやらは語り継げていないと断言したい思いだ。
 確かに空襲や原爆の話は大事だし、日本の悲惨な負け戦の話も大事だ。だけどその悲惨さだけを語っても何の教訓にはならない。本当は子供達に教えねばならないのは、勝ち戦も含めた戦争の実態であり、勝ち戦が続いた大東亜戦争初頭の日本の戦いとこれを国民がどう見たかという実情のはずだ。勝ち戦の果てにこんな悲惨な負けがあったことを教えないと、何の教訓も得られないはずだ。
 この部分がないから、何で日本軍が「玉砕」という悲惨な戦いをすることになってしまったのか、なんで日本の都市が空襲や原爆で焼け野原になるまで追い込まれてしまったのか、なんで沖縄であんな悲惨な戦いが起きたのか…子供達は何も理解できないはずだ、それがない子供達の頭に「戦争は悲惨」の5文字だけが刷り込まれ、こんな子供達が大きくなったら「悲惨な戦争をした先祖達は愚か」とでも言い出しそうで正直怖い。
 そして勝ち戦があったことや、それで国民も酔いしれていた時期があったことを今の子供達にキチンと語っていないからこそ、こんなともおの疑問が生じるのは当たり前だ。だがその素朴な疑問に誰も応じない現代のニッポン…そんな構図がこの台詞に込められていると私は思う。
 この台詞を聞いた老人は、「勝っても負けても戦争は戦争だ、じゃあ君は良い戦争があるとでも言うのか? 戦争では人を殺すんだぞ。あの戦争を知らないガキが生意気を言うな」と怒鳴るが、ともおはこれに「知らないんだからしょうがないだろ! タイムマシンでも発明してこいって言うのかよ〜!」と叫んで走り去ってしまう。ここにも現在の大人が、子供に戦争を上手く伝えられていない現実というのが込められている。
 かくいう私も、大人になって大東亜戦争での「日本の勝ち戦」を自分で調べてみるまで、ともおと同じ疑問を持っていた。日本に「勝ち戦」があったからこそ、国民は最後まで軍を信用していたという事実は、決して見落としてはならない。
名場面 蕎麦屋 名場面度
★★★★
 祖母の墓参りを終えた一家は、祖父と共に蕎麦屋で昼食となる。ここで祖父は終戦時の思い出話を語り出す。祖父は終戦の年は小学1年生で広島郊外に住んでいたようで、原爆の話などを死んだはずの祖母のツッコミを交えながら語る。
 順序が逆になるが、ここはこの後の名台詞欄シーンと対比するシーンとして見て良いだろう。このシーンではともおは祖父の話を興味深く聞いているし、何よりも胸に刺さる「何か」を感じ取っているようにも見える。実はこの話は祖父が子供の頃の話であり、戦争そのものの話ではなく「その時子供だったじいちゃんは何をしていたか」という話だった。その話は自分と等身大であった子供の頃の祖父の自然な体験談であり、子供であるともおにはなにか「伝わってくる」ものがあったのだろう。姉の君子にとっても同様で、話に自分が知っている大叔父の話などが出てくることから、とても身近な出来事として捉えたのだと見える。
 対して、名台詞欄シーンでの老人の話はともおにとって「身近な話」ではない。最近知り合ったばかりでこれまで赤の他人だった老人が、若かったとはいえ大人になってからの話であり、自分が経験しているはずもない軍隊でのしかも負け戦の話だ。その話は名台詞欄で語った通り戦争=彼の全体験のうち一部を切り取ったものでしかなく、その「悲惨な話」に行くまでの過程が見えないからこそ、「ピンと来ない」のだろう。
 こうして、名台詞欄シーンとセットで主人公の心の中を上手く再現し、これを通じて「戦争体験を語り継ぐとは何か」という深いテーマを、この物語が突きつけてきているように感じた。
 でも初見の時、ここまで広がった風呂敷をどうやって畳むのか、全く見えなかったのでどうオチがつくのかだんだん不安になってきたなぁ。

…同じ日、節子はいつも通り老人達と将棋に興じていた。すると部屋の中では老人同士が先の戦争を巡る考えで争いを起こす。一方、ともおはカブトムシ捕獲の「穴場」が実は隣町のエリアだったことを、隣町の子供達に突きつけられて渋々退去させられる。
名台詞 「戦争の話ってなんか嫌いです。良い事なんて何も無いのが戦争でしょう?」
(節子)
名台詞度
★★★
 老人達と将棋を指す趣味がある節子は、この日もいつも通りある老人と将棋を指していた。周囲では別の老人達が将棋をしていたが…いつの間にか先の大戦を巡る論争から口論となり、挙げ句は喧嘩にまで発展する。これを見た節子は何事もないように将棋を続けるが、対戦相手の老人に尖った口調でこう語る。
 「戦艦大和が戦争の道具だから嫌い」と語った節子は、自分の中にある物についてさらに一歩進めた発言をしたと言っていいだろう。いきなり結論を言えば、節子という少女は周囲の大人に恵まれなかったのかも知れない。私としてはテレビで「戦艦大和のCG」を見てカッコイイと思う景子の方が正しく見えてしまうんだけどなー。
 節子の中にある戦争観は「戦争は悲惨」「戦争は人殺し」という戦争の「負」の面だけを見てそれが全体だと思っていることだろう。つまり先の大戦に敗北したことでその戦争が「悪」になってしまったまんまを周囲の大人に語られ、それが全てと信じ込んでしまっている子供の姿だ。これは大人の言うことをそのまま飲み込むことで優等生になった子供によくあると思う、考えてみれば節子というキャラはクラスの学級委員長という優等生を絵に描いたようなキャラだ。確かに老人と将棋を指す趣味があれば、戦争体験を持つ人から「戦争は悲惨」と繰り返し言われている可能性はある。でもこの子、鉄ヲタなんだよなー(しつこい)。
 この台詞が重要になるのは、この後の名場面欄シーンでともおが自分の中にある考えを一歩進めたときに対比する役割があるからだ。節子は戦争の時代から今まで活きている人の言葉を聞いてこういう考えを持ったが、ともおはそれとは違う何かを追い求めているのだ。そのともおの思いは下記名場面欄シーンに譲るとして、この台詞が面白く、印象に残る点を一つだけあげるとすれば、節子が「戦争が嫌い」と言い切るこの台詞を「将棋」といういわば戦争ゲームに興じながら語ることだろう。なんか説得力が無いが、この台詞の直後を見ていると節子もその部分には気付いているようだ。
名場面 ともおと由伸 名場面度
★★★
 翌朝、ラジオ体操の帰り道で、平均台遊びをしながらともおと由伸は作文の宿題について語り合う。「由伸、作文もう書いた? なんて書いた?」とともおが問えば、「満夫が書いたのをちょっと変えて、最後は『あの過ちを繰り返さないと亡くなっていった人達に約束したいです』で締め。チョロいだろ? ともおも早く書いちゃえよ」と由伸は自分の悪事を語る。すると「でも、死んでいった人達は本当にそんなこと聞きたいんだと思うか?」とともおが問う、由伸は「そりゃ戦争をしない方が良いに決まってるだろ?」と返すが「ま、そりゃそうだけど、昔の日本人にそういうのって、なんか喧嘩売ってる感じがしねえ?」と納得が行かないような口調でともおが語る。すると今度は由伸がよく分かっていないような口調で「うーん、そうかい?」と返す。
 ともおが前回や前々回の名台詞欄シーンから自分の考えを一歩進める。彼は過去の本当のことが知りたいという欲求から、タイムマシンが作れるかどうか本気で悩むがそんな事が出来るはずもない事だけは解る。
 そして彼が行き着いた思いは、「過去の日本人がどんな思いで戦争の時代を生きていたのか?」「過去の日本人がどんな思いで戦争で死んでいったのか?」という問いだ。実はともお本人は自分がこんな重大なテーマに挑んでいるとは思っていない。ただ彼が知りたいのは「戦争」という戦いに至った人々の「本当の気持ち」だろう。ともおは女子達と遊び場を巡る争いや、カブトムシの狩り場を巡る隣町の少年達とのトラブルを通じて、潜在的にではあるが戦いが起きる以上理由があることは彼も実体験で分かっていて、誰もそこの所を語ってくれないからピンとこないのも分かっている。その「わからないこと」から彼が思いを巡らせた先が、前述した「当時の人々の思い」に立つことだ。
 その人達の多くは、「戦争は悲惨」なんて結論を先に持っていたわけではないことも、「戦争が過ち」なんて思ってもいなかったこともともおは理解できている。ともおが「サッカーをやりたいがために公園を広く使う事は間違い」とか、「大きなカブトムシほしさに隣町の子供達の狩り場を荒らすのは過ち」と一方的に言われれば、自分がどんな気持ちになるか分かっている。だから戦争そのものを「悲惨」だとか「過ち」で済まそうとすることが、彼には喧嘩を売っているようにしか見えないのだ。
 これは本話の最後で、彼が出す結論へ向けての重要な途中経過である。ここから彼は「ならば自分がどうあるべきか」という方向性を見つけて行くのだから。

…高校の歴史の補修授業に、ともおの家族や担任教師、満夫や頼子といったてもおの同級生、それに「たにしマート」の店員も出席するようになっていた。その裏で、ともおは思いついたことがあって図書館へ足を運ぶ、ここで偶然節子に出くわす。
名台詞 「日本って島国だから、国境に線が引いてあるとか、あんまり意識したことねぇよな。」
(ともお)
名台詞度
★★★
 図書館でともおを見つけた節子は、ともおに声を掛けて隣に座り「何見てるの?」と聞く。ともおは「世界地図」と答えると、こう続ける。
 これは日本人なら誰でも一度は感じたことがあるはずだ。世界地図を見ると大陸に国境線が引いてあって国が別れているが、日本は日本列島が日本とされていて国境線という概念はない。だからこそ何でそこに国境があるのか、そこはどうなっているのか気になるはずだ。ともおもそんな疑問を持ったという所だろう。
 ともおが国境についてどう感じたかは名場面欄に譲るとして、この台詞を受けて節子は「この国境線はどう決めたのだろう?」と疑問をぶつけると、ともおは誰かがライン引きで引いている様を妄想する。同時にともおはアメリカのカナダの国境やアフリカ大陸北部では国境線が直線的に引かれていることに気付き、「きっとこの辺に済んでいる奴らは、ライン引きが超上手いんだぜ」と何処まで本気でどこからか冗談なのか分からない感じて言う。思わず笑う節子と同様に、クスッとなった視聴者は多いことだろう。
 こうして「国境線」というテーマに、視聴者を引き込んで行くのだから面白い。このテーマはちょっとだけ道草なんだけど。
名場面 ともおと節子 名場面度
★★★★
 二人は図書館を出て、帰り道で節子が持ってきたおにぎりを分け合って語り合う。「俺、戦争って国境があるから起こるのかと思ってよ」とともおが図書館で世界地図を見た動機を切り出すと、「むしろ国境があるから無駄な争いが抑えられているのかもよ」つ節子が続ける。「団地の部屋が巨大な一部屋になってみんなで暮らすとしたら、それはそれで楽しそうだけど、喧嘩が増えるだろうな。屁するたびに白い目で見られてさ」とともおが返すと、節子はクスッと笑うと立ち上がり「帰ろうっと」と呟く。そして彼女は去り際に振り返り「この間はごめんね」とともおに語りかける。「何が?」と問うともおに「木下君みたいな人が戦争を起こすんだ、なんて言って」と続ける。「そんなこと言ってたっけ?」ととぼけるともおの台詞が聞こえたのか聞こえないのか、節子は「じゃーねー」と言い残して立ち去る。横断歩道を渡る節子の背中を、ともおは鼻をほじりながら見送る。
 ともおが世界地図の国境線を見て感じたことが上手く込められた。ともおは最初、国境があるから戦争が起きると感じていた。それはカブトムシ捕獲の件で隣町に入り込んでしまったことで、隣町の子供達に退去を命ぜられた経験などから出ているはずだ。
 だが、ともおは節子の台詞もあって国境があるからこそ争いが防がれている事実を知る。その事実を団地生活に置き換えたことで、彼はその理解を深める。団地という集合住宅も、みんながただ集まって住んでいるのでなく、キチンと壁で世帯ごとが区切られているからこそ場所の取り合いもないし、プライバシーが保たれて平穏な暮らしが出来るのだ。国と国も同じで。キチンと国境が決まっているからこそ、その中で国の人々は独自の文化を平和に育むことが出来る。国境がなければ異文化同士の縄張り争いが始まることは、過去の歴史が証明していることだ。こんな論理をともおの視線で上手く語っている。
 そしてこのともおの理解が通じた相手は視聴者だけでない、劇中でともおの話に耳を傾けていた節子も同様だ。節子は以前の遊び場を巡る争いで「木下君みたいに、そうやってすぐ暴力に訴える人が戦争を起こすのよ」とともおに罵声を浴びせている。だがともおの「国境」に関する思いを聞いて、自分がその争いで境界を引くことをキチンと提案しなかったから境界がなくなってしまい、醜い争いに発展したと考えたのだろう。その後の争いで境界の引き方について問答した際、男子には「サッカーをやるために広い場所が必要」という現実に気付かなかったことで争いがエスカレートしたと反省したのだろう。その上での火に油を注いだ発言に節子は反省しただけでなく、ともおが暴力だけの何も考えていない人間ではない事を理解して、謝ったのだ。
 こうしてちょっと寄り道の「国境の話」は、ここまでの何度か描かれた男子と女子の間の遊び場を巡る争いと、カブトムシ捕獲の話についてうまくまとめ上げたかたちになったのだ。

…団地を含む街の花火大会の夜を経ると、夏休みはあと僅かだ。高校の歴史の補修はいつしか町中の人が大勢集まって立ち見も出るようになったが、無事に終了する。そしてともおが育てていたひまわりは沢山のタネを付けた。
名台詞 「こんなこと言ったら、おじいさんにまた怒られるかも知れないけれど。見ず知らずの、しかもちょっと成績が悪い俺みたいな子孫のために、良いとか悪いとかじゃなくて昔の日本人が必死だったって思うと、どう言ったらいいかわからないけど…。俺、タイムマシンを発明するのは無理そうだけど、二学期はもうちょっと成績上げて先祖達に命懸けの甲斐があったとちょっとは思われたいと思ってる。」
(ともお)
名台詞度
★★★★★
 ともおが育てたひまわりが無事にタネを付けた。ひまわりのタネを回収したともおだが、タネの回収に使った新聞紙に「戦後70年」の文字を見つけて突然家を飛び出す。そして彼が行った場所は、あの戦争体験を語った老人の家だった。
 玄関で老人と向かい合ったともおは、「この間はすみませんでした」とまず戦争体験を聞きに行った日のことを詫びて頭を下げる。だが老人は「いや、わしも君に謝りたかった」と返す、驚いて頭を上げるともお。「君たちが分からないのも当然だよ。わしら、戦争が悲惨だ悲惨だって話をするだけで…」と語って言葉を切る老人に、ともおが語る台詞がこれだ。
 これが名場面欄に書いたオチの後に描かれた、ともおが行き着いた結論だ。彼は祖父の身近な話と、老人の負け戦の話と、自分の中で分からないことと、色々あって理解できたこと…これがひまわりのタネを回収しているときに「戦後70年」の記事を見て繋がったのかも知れない。彼の思いは戦争が悲惨だと言われ続けているのは負け戦だからであって勝てば悲惨ではないのかという疑問と、当時の日本人は悲惨だとは思ってないし思われたくもないという考えだった。その二つの思いが交錯したとき、彼が考えたのは「祖先達は未来を生きる自分たちのために必死だった」ということであり、だからこそ「祖先の必死な戦いに報いる必要がある」という思いだ。その二つの結論を、ともおなりの言葉で上手くまとめたと思う。
 そしてこれはともおが出した結論であると同時に、視聴者に対する問題定義であり挑戦であると思う。この台詞には制作者が視聴者に「あなたたちは必死に戦ってくれた祖先に報いる生き方が出来ますか?」と問うているのだと思う。そしてそうゃって祖先に報いることが、「戦争は悲惨」という事実を知るのと同じ位に大切なことだという訴えだと私は感じる。
 私はこの台詞を聞いて、「祖先に報いる生き方」を真剣に考えてしまったほどだ。
 この台詞の後、老人は大笑いしてともおに「麦茶でも飲んでいけ」と誘うが、それを断りかけたともおに「水ようかんもある」というと、ともおは遠慮なくご馳走になる。そして老人は、南方での「勝ち戦」の話を語り出す。最後にともおが書いた実ったひまわりの絵が大写しになり、団地の上に広がる入道雲というシーンで本話は終わる。
名場面 花火大会の夜 名場面度
★★★★
 街の夏休み最大のイベントは花火大会だ。木下家も家族全員で近くの土手へ足を運んで花火見物。花火を見ながらともおは単身赴任設定の父に「父さん、本当に明日帰っちゃうの?」と問う。父が「ああ、またすぐ来るよ。作文の宿題はもう書いたか?」と返すと、ともおは「まだ」と素っ気なく答える。これに「終わったらどんなことを書いたか父さんに教えてくれよな」と父は息子の肩を抱きながら優しく答える。「うん」と元気よく返答するともお、団地の夜景に花火が美しく光る。
 実はラストシーン(名場面欄)を前にしたこのシーンが、本話の「オチ」と私は考えている。本話のサブタイトルは「夏休みの宿題は終わったのかよともお」である。まさにこのシーンでは父がともおにそのサブタイトルの質問をして、それがまだである事がハッキリ解る。つまり、彼の夏休みの宿題は終わっていないのだ。
 ここで「夏休みの宿題は終わっていない」というオチを演じているが、またともおが持つ「戦争」への思いについての結論は出ていない。この結論こそが本話の目的地であり、ともおが作文の宿題に書くと考えられるテーマであると同時に、本話の主題であり視聴者に対する最大の問題定義…つまりハイライトなのだ。だからそのラストシーンは敢えて「オチ」とはなっていない、名台詞欄の台詞でともおが問題定義した後に視聴者が考えて、自分でもうひとつのオチを付けねばならないという難解な展開なのだ。
 だがこのシーンでもってサブタイトル通りの物語は決着がついた。次々のシーンでともおが育てたひまわりが無事にタネを付けた所を見れば誰もがそれで納得が行くだろう。つまり物語のハイライトからオチへの展開が逆に描かれているということだ。

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