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第1話 「赤毛のアン」
名台詞 「世の中ってあべこべなのね。孤児の私はお父さんとお母さんに会いたくてたまらないのに、お父さんとお母さんがいるエリーザは家を出て行きたいなんて…。」
(アン)
名台詞度
 夜、アンがこの家で唯一信頼できる相手である長女のエリーザとアンが語り合う。その際にエリーザは家の酷さを口にし、家にいると息が詰まるとした上で「早く結婚してこの家を出て行きたい」とアンに訴える。そのアンが驚いてこの台詞を吐くのだ。
 この台詞は家で親と一緒に生活が出来ているエリーザと、親を失い里親がいるとはいえ一人で生きていかねばならないアンの「親への思い」の対比がキチンとされている。この台詞の裏には離れてみて初めてわかる「親」という存在のありがたみや大切さが潜んでいるのだ。ところが親のどちらか一方がだらしない親だと、子供というのはしっかりしている方の親も含めてだらしないと感じてしまう構図も、この台詞を通じて上手に描かれているように感じることができるのだ。
 またアンがいかに愛情に飢えているかを知ることも、この台詞を含めたシーンから感じ取ることが出来るだろう。この部分が物語展開上重要な要素になってくると見ているのだが。
 この台詞の「世の中は思うとおりにならない」という点は、今回1話だけかこの先ずっとか分からないけど、この物語のテーマになってそうだ。
名場面 アンVSミントン 名場面度
 ミントンの大事なカメオが壊れた責任を押しつけられ、ミントンも歳端の行かない子供が泣けば許してくれるだろうと判断したバートによってアンはミントンの元へ謝罪に行かされる。その道中で馬車が脱輪、バートが脱輪を直すための道具を探している間にアンは馬車に一人取り残される。そこでアンは一人でミントンに謝罪する練習をするのだが、どうしても上手く泣けない。そんなところを偶然にもミントンが通りかかるのだ。
 アンに声を掛けるミントンだが、アンはまさか今自分の目の前にいるのがミントン本人だとは知らずに話し出す。ミントンのカメオを壊してしまったこと、バートが子供が謝れば許してくれるに違いないと判断したこと、嘘をつくと洗い立ての服にシミをつけたみたいな嫌な気分になることを訴える。そして 自分だったらそんな大事な物を壊されたら子供が泣いた位では許さないと宣言した上で、このカメオはミントンが若いときに恋人からもらった物に違いないという妄想を語り始める。いや〜、「アン」はこのノリじゃなきゃ。
 さらに自分が赤毛だとからかわれることが憂鬱だということを語り、その上でもし猫がいたら友達になれそうだと力説が止まらないアン。ここまで力説したところでやっとアンは相手が誰なのか気にし始める。遅いよ。
 ミントンは自分はミントンの友達だと騙り、そのカメオはたいした値打ちがなく、ミントンが嫌いな相手から押しつけられた物だからミントンも壊れれば喜ぶはずだと、どこまで本当か分からない話をし始める。「なんだかびっくり」と返すアン、「カメオは私からミントンに渡す」とミントンを引き取るミントン。「ありがとうおばさん!」と抱きついてキスするアン、驚くミントン。そして「思い通り行かないことは思ってもなかったことが起きて嬉しい」と言いながら去るアンに、思わず手を振るミントン。
 なんか「世界名作劇場」における歴代主人公と「おばさん」の対決を絵に描いたようなパターンだったが、突然明るい言葉を掛けられたミントンの困惑や変化が上手く描かれていて好きなシーンだ。これを見ているだけでミントンがどれだけ気むずかしく、普段は人を寄せ付けない性格であるかということがよく分かる。そんな難物に何も知らずに体当たりしてゆくアン…やっぱ「世界名作劇場」はこうでなくちゃ。いやいや、「ポルフィの長い旅」もこんなシーンは無かったけど好きですよ。
感想  メーテルキターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!! ←マジで叫んだ。
 番組予告も番組CMも山田栄子さんがナレーターやっていたから、てっきり本編のナレーターも山田栄子さんだと思っていたのに、まさかメーテルとは。「予想をいい意味で裏切る」ということを今回の劇中でアンが体験するが、視聴者の私も同じ体験をしちゃったじゃないか。いや、一般的な「世界名作劇場」ファンならば山田栄子さんが出てきた方が嬉しいかも知れないが、やはり松本零士に育てられた私としては、ここでいきなりメーテルの声を聞けたことはその何倍も嬉しかったよ。「ポリアンナ物語」の再視聴ではカリウ役がメーテルだったのをハッキリ覚えていたので、「出るぞ出るぞ」と分かっていて出てきたが、今回は予告なしだったので本当に驚いた。
 で、メーテルの声に気付いたのはナレーションでアンを紹介したときだ。サブタイトル読み上げの時は気付かなかったなぁ。
 アンの性格はかつての「赤毛のアン」のアンに繋がるように上手に描かれていると思う。
 しかし第一話のノリとしては「小公女セーラ」+「ポリアンナ物語」/2ってところだろう。いきなり恩を押し売りされて働かされている点はまさにミンチンとセーラの関係そのものだし、名場面欄に記したアンとミントンのやり取りなんか、いろいろな「おばさん」に体当たりしていったポリアンナの姿まんまである。こんな感じでかつての「世界名作劇場」のノリで新しい物語が幕を開いたってところだろう。
 しかし今回のオープニングテーマはなかなか良かったと思うぞ。エンディングはなんか「となりのトトロ」みたいで…あ、歌っている人も同じだ。「世界名作劇場」シリーズで私が当人のステージをを生で見たことある歌手が歌うのは、さだまさしに次いで2例目だ。
研究  さて、毎回恒例(?)の「キャラクター落下シーン」の考察である。まさかダニーやチルトンが落ちたシーンについて、このサイトの考察結果をもとに某巨大掲示板で話題になるなんて思ってもなかったので、今回も例に漏れずにやっておこう。
 物語冒頭、木に登ったアンのおでこに毛虫が落ちてきて、それに驚いたアンが木から落下するシーンがある。まさか制作者側はこのサイトを見たんじゃないだろうなぁ?と言いたくなるような結果が出てきた。ダニーやチルトンは落下が始まってから悲鳴を上げている、つまり悲鳴を上げている間は自由落下していると考えるしかなく、その分どうしても落下距離は伸びてしまうのだ。ところが今回のアン落下では、アンは落下前のバランスを崩したことによって悲鳴を上げており、落下中は無言で落ちてる。
 アンの落下時間を画面から割り出した、落下が始まってからシーンがシーンが変わる瞬間までの時間が落下時間だろう。この間はぴったり1秒、おおっ、もうこれだけでダニーやチルトン、それにルーシーやポリアンナを加えた4人とは違い現実的な高さから落ちたと想像できるぞ。
 アンの体重を平成15年度の6歳女児と同じ21.2kgとしよう、空気抵抗係数はダニーやチルトンと同じく0.24とする。それで得られた計算結果によると、アンが落ちた木の枝の高さは約4.8メートル、落下時の速度は34.0km/h。この結果を基にもう一回該当シーンを見てみると、木の枝の高さはアンの身長の4倍程度の高さであることが分かるだろう。アンの身長を平成15年度6歳女児と同じ115.8センチメートルとすれば、4メートルと63センチメートル。おおっ、画面描写はほぽ正確だ。それに落下速度も飛ばしている自転車程度だから、スカートの中の脚にも擦り傷が出来たと考えれば合致する。
 このように落下というのは本当にあっという間の出来事なのだ。ダニーやチルトン、それにルーシーの時のような長さがおかしいのだ。やはりコンピュータグラフィックでアニメを描くようになった副産物なんだろうな、この正確さは。

第2話 「アンという名前」
名台詞 「エリーザが生まれたとき、おばさんはとても喜んだの。フォーレスやエドワードが生まれたとき、おじさんは張り切って名前をつけたの。私が生まれたときは、誰か喜んでくれたのかしら?」
(アン)
名台詞度
 フォーレスと川に落ちて遭難し、雷雨の中で難儀しつつも何とか助かったアン。だがアンの里親であるジョアンナはそんなアンに冷たい言葉を浴びせかける。それはジョアンナが大事にしているショールをアンが勝手に持ち出したためにフォーレスが川に落ち、大事なショールが汚れたと勘違いしているためであるが、アンはそんな事は知らない。ただジョアンナの大事なショールを救おうとした自分の行為が認められず、事情も聞かずに冷たい言葉を浴びせかけられたことによって「自分は誰に愛されているのか?」と疑問がアンの中に沸き上がる。それがこの台詞だ。
 物語の前半でエリーザは自分が生まれたときや、フォーレスやエドワードが生まれたときの両親の嬉しさや張り切りようを知る。それこそが生まれた子供に母が、父が最初に授けた「愛」なのだ。こんな両親でもこの姉弟はちゃんと愛されていると知ったアンが思ったのは、「誰が自分を愛しているのだろう?」「自分は両親に愛されていたのだろうか?」という疑問である。この疑問は幼いアンにとっては重大なことで、その裏返しとして「誰かに愛されたい」という気持ちがあることも読み取れるだろう。
名場面 ジョアンナがアンの命名について語る 名場面度
 翌日、ジョアンナはまだ「アンが大事なショールを勝手に持ち出し、それによってショールを汚しただけでなく息子を川で溺れさせた」件について根に持っていた。エリーザがアンを弁護するが、彼女の「息子の言葉を鵜呑みにする」という偏屈な愛情によってそれは変わることはないかに見えた。
 ところがフォーレスとエドワードが隠れて会話しているのを聞いてしまう。自分たちがショールを持って崖へ行ったこと、アンが助けてくれなければフォーレスもショールも川の底に沈んだであろう事実についてだ。さらにアンがショールに「おばさんの心の日だまり」と命名したことを知り、ジョアンナはこのままではいけないと感じたのだろう。頷くとアンがいるところへ歩いてゆく。
 その頃、アンはロキンバーに独り言のように語りかけていた。「アンという名前は赤毛でそばかすで世界中の誰にも愛されていない子供につけられる名前なの、多分この世が始まったときからそう決まっているのよ」…これを聞いたジョアンナは多少なりとも胸を痛めたようだ。そしてアンが自分の名前の由来と名付け親を気にしていたことを思い出し、アンに名付け親は父親であること、綴りは「ANN」ではなく「ANNE」でアンであると言うこと、両親はこの娘にふさわしい名前だと会う人ごとに自慢していたことを告白する。アンは喜んで自分の名の綴りを読み上げ、父が付けたくれた名をかみしめる。
 このシーンでアンは初めて自分がかつて両親に愛されていたことを知ったのだろう。父親が簡単な名前ではなく、ちゃんと自分に意味を込めて命名してくれたこと。これがアンにとって最初に感じた両親の愛に違いない。「誰からも愛されていない」と考えていたアンは父が名前を通じて愛を残してくれたことをしっかりと感じる。最後にアンがかみしめるのは「父が付けた自分の名」だけでなく、「父の愛」そのものだ。
感想  テーマ・「名前」。
 ちょっと見てらんなかったな。「名前」についてって話になると…だって、自分の名前がどのように決められたかって知ったときのショック(小学6年生時)と言ったらなかったもん。私はね、生まれたときにたまたま親父が呼んでいた漫画のキャラクターの名前を付けられたんだって。ったく、人の名前をなんだと思ってるんだ? 最近でも父方の親戚が集まるとその話題が出たりしてもう…。でもいいんだ、そんな名前でも自分なりに納得して名乗っているんだから。だいいち、変な名前ではなくありふれたものだし、読み間違いされたことないし、男女混同もされたことがない。単純明快わかりやすいなのだからと納得はしている。
 それにしてもこの一家、エリーザを除いて全員酷いやっちゃな。前回も酷いと思ったが今回はそれを絵に描いてワックスで磨いたような酷さだ。親が常にイライラしているとこうなるという典型例かも知れない。子供は真実よりも親に叱られない事が何よりも優先(つまり正義を失ってる)だし、母親は息子がそんなになっているとは気付かずに息子の言うことを鵜呑みにするという形で偏愛を見せる、父親は自分勝手で愛情喪失状態だし…エリーザがよくグレないと思うよ。私がエリーザだったらグレるね、うんこ座りしてシンナー吸っちゃうよ。アンもよくぞあそこまで真っ直ぐ育ったと思う。少なくともジョアンナって、フォーレスとエドワードを真っ直ぐ育てるためにアンに対して自分の子供と同じ愛情を注ぐ責任があるはずだ。この2人にとってアン(…つまり自分の兄姉ではない余計な食い扶持)という存在は、親から叱られないようにするための盾でしかなく、道具として扱われているのだ。それはジョアンナが子供に時と場合によって家族でも人間扱いしなくていいと体現してしまっていることが何よりの理由だ。
 こんな家庭を上手に表現したと思う。父親のバートについてはまた機会があったら語ろう。

第3話「小さな黄色い家」
名台詞 「そうかも知れない。バーサとウォルター、確かにいい人達だった。私は生まれてこのかた、バーサのような親切な言葉をかけてもらったことはなかった。あの二人はいつも楽しそうで何をするにも一緒で、こんな幸せな家がこの世にあるのかしらと思ったものよ。だからあの家のことを思い出したくないの。この家があんまり、あの小さな黄色い家と違いすぎるから。あの家にはいつだって綺麗な花が咲いていた。」
(ジョアンナ)
名台詞度
 夫の帰りが遅くてイライラするジョアンナ、長女のエリーザの帰宅を夫の帰りと勘違いして刺々しい言葉で迎えてしまうほどだ。そのジョアンナが目眩を起こして一度倒れ、エリーザが少し休むように促すと同時に「最近お母さんが笑ったのを見たことがない、シャーリー家に手伝いに行っているときはよく笑っていたのに…」と母に言う。そのジョアンナの返事がこれだ。
 ここにアンともう一人、「小さな黄色い家」を通じて過去の自分と対峙する人がもう一人いるという事実が分かる。しかも双方とも過去の幸せをその家に見いだしているのが原因なのだ。アンは記憶にない両親の面影を追ってこの家の存在に行き着くわけだが、ジョアンナは現在のとんでもない状況と過去に目の当たりにした「幸せ」を対比させた上で、自分には得られないその「幸せ」と決別するべくその家の記憶と戦っているのだ。
 またこのジョアンナの台詞には、ジョアンナが結婚前に描き、理想としていた結婚生活像という物が見え隠れしているようにも見える。ジョアンナがシャーリー夫妻を見ているだけで幸せだと感じたのはそれが自分の理想だったからなのだ。だが現実は理想と全く違う物で、ジョアンナは理想と現実のギャップという事実とも戦っているに違いない。夫婦仲の破壊と離婚を経験した私がこり台詞を聞くと、「うんうん」と頷く点は非常に多いのも確かだ。だがジョアンナが正論ばかり言って、正論から外れた相手の行動に興味を持つという事をしない点においては、バートが前話だったかで吐き捨てた「お前は何でも人のせいにするのが得意」という台詞の方に同意してしまうが。
名場面 小さな黄色い家との対面 名場面度
 アンは様々な困難を乗り越え、遂にかつて自分の両親が住んでいたとされる「小さな黄色い家」を発見する。両手を広げて家へ駆け寄るアンに一人の老人が声を掛ける、その老人が語った内容はこの家にかつてとても仲の良い夫婦が住んでいたこと、その夫婦が庭に見事な花を咲かせたという昔話であった。そしてその夫婦はとてもいい人だったに違いなく、この花畑の中に立っていると何とも言えない気分になると告げる。それに対しアンは力説する、その夫婦の名前はシャーリーで、ウォルター・シャーリーの背中にはつばさが生えていて、バーサは本が大好きで、二人の小さな赤ん坊は赤毛の女の子だったんです…「」老人は会ったことがないので分からないと告げると、アンにライラックの花を渡して家の中へ消えてしまう。孫に手を引かれるその老人は、とても幸せそうだった。アンはその老人の背中を寂しそうな瞳で見つめると、この家と両親のことについての妄想を始める。「そこは小さな黄色いおうち、お庭には子猫が遊んでいて、窓にはそよ風みたいなカーテンが掛かっているの。お母さんはバラのようなほっぺの赤ん坊を抱っこして、お父さんが言うの、『この子の名前を決めたよ、アン・シャーリー』…」その妄想の後半は涙を流しながらだった。そして家を見つめるアンの後ろ姿が静かに映ってこのシーンは終わる。文章で説明するのがとても難しいほどの名シーンだ。
 アンは話に聞いていたこの黄色い家を見つけたことと、老人の話によって確かに自分には優しい両親が存在したことを認識する。それだけではなく両親が遺していった色とりどりの花に感動するのだ。だがここでも老人から前の住人についての事を聞き出すことは出来ず、さらにそこに現在住んでいる人間の幸せを見てしまったことで、自分の不幸と重ね合わせてアンは静かに悲しみに暮れるのだ。
 だがアンが「両親の存在」を話だけでなく、物理的に確認できたのは大きかっただろう。老人がくれたライラックの花を両親と思って大事にするシーンがラストに描かれるように、アンの中で今まで実体化していなかった両親の姿が初めて現実的に考えられるようになった瞬間なのだ。こんなきっかけでもないと「愛情」を受け止められないアンの現況に、視聴者は同情することしかできない。
感想  ポリアンナキター!!!!!…って、「ポルフィの長い旅」のモニカと全く同じだったから気付いたんだけど。今回はチョイ役だったけど、ありゃ間違いなく主要キャラとして物語を彩りそうな気がする。
 今回はとても感動した。その辺りの事は名場面欄にじっくり書いたので改めて細かくは書かないが、アンの現況と過去を上手に表現していると思う。アンは過去の自分の幸せを探すことで、現況を乗り切ろうとする表現は前回からの本筋になってきているが、その中でもかつて自分と両親が幸せに暮らしていた「家」との対面を通じてアンが確実に両親がかつては存在していたことを実感として受け止めるという今回の展開は、間違いなく序盤での名シーンのうちの一つになるだろう。
 しかし、バートって考えようによってはジョアンナよりいい奴かも知れない。この男は少なくともアンに「八つ当たり」はしないのだ。ジョアンナは言っていることは正論だが、その自分が正論を言っているという「正義感」に酔いしれているように描かれているところがまた現実的だ。バートが何で仕事を得られないのか、酒が先なのか仕事を得られないのが先なのかはここまでの展開では不明だが、もし酒が後ならば「酒でも飲んでないとやってられない」状況にバートはなったのだろう。その状況に陥った瞬間にジョアンナがバートを上手く操らねばならなかったはずだが、どうもジョアンナはそれに失敗したのがこの一家の現況のよう考え方が出来てしまう…ってバートを弁護すると、今の世の中怖いからなー。離婚なんてしてみるとよく分かるよ。でもね〜、どんな理由があっても夫婦間の仲が崩壊すればどっちが悪いなんて無いんだよ。
 なんか今回はドロドロした話ばかり書いてしまったな。こんなドロドロした世界でも子供はそれなりに育つ、それを体現しているのがフォーレスでありエドワードなんだよな。

第4話「金色の泉」
名台詞 「私の本よ、私の本。私、世界で一番幸せだわ。ロキンバーよりも!」
(アン)
名台詞度
 子供の世話をしたお礼に本をもらい、「お礼は他にないのか?」とジョアンナに問われるのを無視して家を飛び出すアン。彼女が走りながら語った台詞がこれだ。
 こんな単刀直入にアンの喜びが表現されているのは、視聴者としてはとても見ていて嬉しいシーンでもある。冒頭シーンを例に挙げるまでもなく自分の本が欲しくてたまらなかったアン、彼女は誰の力でもなく自分の力でそれを手に出来たからこそとても嬉しかったに違いない。それを短い台詞で見事表現した、「世界で一番幸せ」と自分を表現するが、その「世界で一番幸せ」の指標が飼い猫のロキンバーと言うのが笑えるし、アンらしくて好きだ。
名場面 アンとメアリー 名場面度
 メアリーが母の部屋でいたずらするシーンは物語の本筋とはほぼ無関係で、せいぜいアンが生まれて初めて「自分の本」を手にするきっかけに過ぎない。だがこのシーンは見ていて非常に面白い、「南の虹のルーシー」でルーシーとケイトがウサギを捕まえようとしているシーンに匹敵するおもしろさだ。女の子らしいいたずら心で母の部屋に忍び込んで自分を飾るメアリーと、それに付き合わされるアン。メアリーがブカブカの母のドレスを着て、アンが「笑った」として顔に落書きをする。それだけでもうサイコーなのだが。
 実は私、このシーンは母にあっけなくバレると予想しながら見ていたのだ。ナンシーとアンが母の部屋から飛び出すシーンをよく見てみると、既にこの時点でナンシーの右手に緑色の指輪が付いたままなのがハッキリ映っている。アンがドレスをどう片付けていいか分からないと叫ぶシーンでも、ナンシーが持っていた首飾りをしまい忘れてもおかしくないように描かれているのも勘の良い視聴者なら見逃していないだろう。これらがメアリーの母が戻ってきた時の伏線にするために用意されたのは容易に想像が付くのだ。確かに首飾りの方はメアリーの母が部屋に忍び込まれたと疑うきっかけになったが…指輪の方はどこでバレるのかとハラハラして待たされ、そしてアンが本をもらうシーンとなって意外な感動をさせられる(結果、指輪はメアリーが本を譲られるのを止めようとしたときに、それを防ぐ役割となる)。この流れを持って行くために、上手く伏線を張ったと感心した。
 そういや、前作「ポルフィの長い旅」でもポルフィの顔に落書きされたことがあったな…。
感想  第一話が物語のマスコットでありアンの友となるペットの登場、第二話は名前がテーマ、第三話は両親の愛がテーマで、今回は「アンの欲しい物」がテーマであると見ていいだろう。そしてそのアンが欲しい物を、アンが自分自身の力で手にすると言う素晴らしい物語だ。冒頭シーンでエリーザが借りてきた本のと別れを惜しむアンの寂しそうな表情と、ラストシーンの嬉しそうな表情で「自分の本」を読むアンの姿を、最後に重ね合わせてみるのがこの回の正しい見方だろう。
 しかし名場面欄にも書いたがアンとメアリーのシーンは笑った。このコンビはとても面白いので他でもやって欲しい。また名場面欄に書いたとおり芸が細かい上、その細かい部分をただ「精密に書き込んだ」だけではなく、後々のシーンで様々なきっかけとなる伏線として活用している辺りが作りが細かい。この辺りがやっぱ「世界名作劇場」なんだろうな。
 当サイトではこの「こんにちはアン」のリアルタイム考察に連動して、「赤毛のアン」も同時進行で始めました。話数が追いついたら「こんにちはアン」と「赤毛のアン」は同時進行にするつもりです。本当は「赤毛のアン」考察を1月から始めようと思ったんだけど…。

第5話「エリーザの恋」
名台詞 「分かりきったことだ。お前はロジャーと行きたいんだ…アンを残して。」
(バート)
名台詞度
 まさか次に名台詞欄に名が挙がるのは、この一家の酔っぱらい親父だとは…。
 エリーザはロジャーからのプロポーズとロンドン行きの話を受けて、アンを連れて行きたいと考えて誰にも言わないうちにアンと約束をしてアンをその気にさせてしまう。その後に当然のことながらジョアンナとロジャーからアンを連れて行くことを反対される。自分はどうするべきなのか、そしてアンにどういうべきなのか悩んだエリーザは、生まれて初めて父に相談を持ちかける。そして相談を受けた父の返事がこれだ。
 バートは本人も気付いていないエリーザの本心を見抜き、それをエリーザに突きつけるのだ。確かにエリーザが父に言った言葉は、この家庭の居心地の悪さや早く出ていって幸せになりたいという自分の願いだ。アンのことを先に言わず自分のことばかり先に並べ立てるエリーザを見てしまえば、例え本人が心からアンを連れて行きたいと思っていても、やはり「自分の幸せ」の優先度が高いのは間違いない事実なのだ。バートは父親としてその娘が本心に対して素直になることを願って言ったと推測される。私がバートの立場なら娘が養子を連れて行くことで不幸になる可能性があるならば、やはりあの手この手で阻止するだろう。
 エリーザがアンにこだわった理由はただ単に「一緒にいたいから」というものであり、アンを娘として育てていこうという覚悟があったとはとうてい思えない。恐らくバートは娘のそんな部分も見抜いたに違いない。この父親は酔っぱらいの暴力親父という印象が強いと思うが、それでいてちゃんと子供達や妻の事を見ている立派な男なのだと思う。「酒でも呑んでないとやってられない」人なのかと思ったけど、ロジャーの親父の言葉がこれをひっくり返したなぁ。
名場面 納屋にて 名場面度
 ロジャーとの婚約とアンとの板挟みになって悩むエリーザは、遂にそれまで頼ったことのない父に相談を持ちかける。エリーザとバートが悩みを打ち明けるような父娘関係ではないと言うことはメーテルが解説してくれるが、その解説がなくても納屋へ向かうエリーザの動きでそれが十分に描かれている点が素晴らしい。俯き加減に歩く彼女の姿、ノックをするときに一瞬躊躇う彼女の姿、さらにノックされれば条件反射で「何だ?ジョアンナ?」と答えるバートについてもこの家の子供達がいかに父親に寄りつかないかという証拠だろう。少なくとも母親のジョアンナよりもバートの方が頼りになると思うのだが…。
 そんな家庭だから、バートも少し驚くかと思えばそうでもないらしい。落ち着いてエリーザに座るよう促し、「珍しいじゃないか」とエリーザに問う。エリーザはエリーザで父の近くによれば殴られたり怒られたりしたことを理由にして近寄りがたかった事を語るのだ。そしてアンのことなど放っておいていかにこの家庭が好きでないか、自分がこの家を出て行けば幸せになれるかを語り出すエリーザ。「アンのことか?」と尋ねるバート、頷いて「この結婚やめるしかないのかしら? 生きていくことを諦めるしかないのかしら?」とエリーザが問うとあとは名台詞欄の通りで、この部分でエリーザの「本心」が浮き彫りにされる。
 エリーザは本当はロジャーの反対とアンの板挟みにあっているのでなく、自分の本心とアンとの板挟みになっていたことがハッキリするシーンだ。エリーザが意を決して父に相談を持ちかけたのは、この父なら自分の本心をハッキリさせてくれるに違いないと考えたのかも知れないし、バートが言ったとなればアンも納得すると甘い考えがあったのかも知れない。いずれにしろこうしてエリーザの本心がハッキリすることは、次への展開上重要な意味を持つであろう。
 またこのシーンの良い点をもう一つ、この一部始終をアンが見ていた事である。アンがもっとも信頼していた姉のような存在に裏切られたことも、次への展開に必要なステップだろう。アンがこの裏切りをどう乗り越えるのか、それは次回ということだ。
感想  エリーザは甘過ぎるなぁ…というのが今回の一番大きな感想だ。ここまで一家の長女としての自覚を持って懸命に働き、養子としてもらわれてきてろくな待遇を受けていないアンの防波堤となって少し大人という印象を視聴者に植え続けていたエリーザが、一転して我が儘なガキとして描かれる。設定年齢は調べていないが見たところ16〜17歳といった辺りだろう、家庭境遇に悲観して家族のありがたさを忘れ、家を出たがる年頃じゃないか。そして家を出るにあたって全てが自分の思い通りになるというこの年齢独特の甘さがうまく再現されていると思う。彼女よりも両親やロジャー、さらにアンまでもが一枚も二枚も上手なのだ。
 何よりもその甘さがもっとも滲み出ているのは、ジョアンナやロジャーに相談せずにいきなりアンに一緒に行こうと約束してしまっている点。反対される前提がないし、もし実現しなかったらアンがどれだけ傷つくかという考えもない。こうして他人を傷つけて成長して行く姿を描かれるのか?
 それと今回は終わり方がちょっと不自然だった、30分連続ものである以上は、今回のような長い話になると話が回を跨ぐのは仕方がない。前作「ポルフィの長い旅」のような一話完結ゲストものならともかく、これは避けられないのだ。だから話の切り方は重要になってくる。会話の途中で切ったり、話が一説終わりきってなかったりする切り方はどうにも気分が悪い。今回も名台詞欄の台詞で唐突に終わるが、これを受けたエリーザの返答で1シーンが完成するんじゃないだろうか? それは贅沢な意見なのかな。 

第6話「希望は生まれる」
名台詞 「お前がどれだけこの家を恨んできたかよく分かっている。もしお前がアンのために結婚をやめてこの家に残ったら、お前は毎日後悔するだろう。ジョアンナやアンを恨むようになるだろう。そして、この家をボロクズのようにしてきた俺を、今よりもっと憎むようになるだろう。お前の人生はお前のものだ、ロジャーと結婚してこの家を出て行け。アンは生きて行くさ、あいつには強いところがある。ひょっとするとジョアンナよりしっかりしているかも知れねえ。俺はフォーレスやエドワードを見ているとイライラするが、アンには腹を立てたことがねえ。お前がこの家を出て行く時、アンに言え。これからは困ったことがあったら、時々この納屋に来てもいいってな。さあ、もう行け。」
(バート)
名台詞度
 前回の名台詞の続きである、前回のバートはエリーザの本心を引き出して、それを突きつけた。回をまたいで続いた台詞は、こんな父性あふれる「暖かい」台詞だった。正直この台詞には感動した。
 やっぱ彼は自分の酒好きが家庭を破壊しつつあることをちゃんと自覚していたし、それで子供達に嫌われていることも百も承知だったのだ。その上で娘が相談に来た事は凄く嬉しかったのだし、何よりも子供達の幸せを願っている「父親」である事に安心した。さらにバートは自分の役割を良く認識し、エリーザの背中を押すだけでなくてアンに対してエリーザの替わりを引き受けることも匂わしている。そして私が予想していたとおり、バートはアンに恨みや辛く当たる理由はないと自分で認識しており、アンに対しては寛大な態度をとり続けていたし、これからもそうであるのだろう。この男の活躍はますます楽しみだ。
 この台詞を聞いたエリーザだが、途中でアンに対して謝罪する台詞を吐いて泣くものの、自分の気持ちに素直になって「誰かと結婚してこの家を出る」という夢に向かって歩き始める。だがただそれだけではなく、このとき初めて「父の存在」を認め、父の大きさに気付いたのである。エリーザは父の背中にしがみつき、背中を押してくれたこと、そして自分の幸せを願ってくれていることに対し感謝したのだろう。さらにこの父が家を守っているからこそ、みんなを残していけると判断したという要素もあると考えられる。
名場面 出会い 名場面度
 ジョアンナが無事出産を終えた翌朝、徹夜でジョアンナに対応していたアンは大きなあくびをして、フラフラになりながら台所までやってくる。そして座り込んだのは台所のガラス戸のある食器棚の前、アンは食器棚のガラス戸に少女の姿が映っているのを認め「あなたはだれ?」と声を掛ける。「ガラスの向こうに、もう一人の女の子が映っていました。まるでアンの話を聞きたがっているように首を傾げていました」とメーテルが解説する。この間のアンの表情、そしてガラス戸に映った「少女」の表情は秀逸だ。「聞いてくれる? 私の話…」とアンはガラス戸に映る少女に語りかける。エリーザが出て行ったときの気持ちから始まるが、それを「息が出来なくなって世界中が水の底に沈んでしまった気がした」とする。その上で赤ん坊が生まれると同時に心の中に何かが生まれたとし、それを「方舟に乗ったノアのような気持ち」とする。方舟に乗ったノアがオリーブの葉を加えた鳥を見て「ああ、この世界にまた大地が生まれたんだ。もう一度希望が生まれたんだ」と言ったとする話を例に出すのだ。そしてバートに命名を託されたこともあって、「赤ちゃんの名はノア」と宣言するとアンはそのまま眠りに落ちてしまったのだ。
 この家で唯一の自分の理解者であったエリーザがいなくなったときの悲しみがどれほどのものであったかを語り上げると同時に、この赤ん坊の誕生で自分がどれほど救われたかという事を上手く語り上げているのだが、エリーザがいなくなった今アンにはそれを語れる相手がいなかったのだ。それでアンは誰かに語りたくてたまらないこの気持ちを、ガラスに映った女の子…つまり自分に語りかけでもしないとやってられなかったのだろう。のちにマリラ・カスバートに「想像と現実が一緒になっている」と指摘されることになる行為の始まりで、これでまたひとつ物語が「赤毛のアン」に繋がった。
 話の中でアンは絶望から希望へと気持ちが変化したことを語るが、その理由は赤ん坊が生まれたことよりもジョアンナの出産でアンが頼りにされたことであろう。エリーザなき今、トマス家に女性はジョアンナとアンだけしかおらず、しかも「お産」という女性だけが頼りの状態においてアンはジョアンナに頼りにされ、精一杯動いた。そしてその働きが認められ、生まれた赤ん坊の命名権が与えられるということでアンはエリーザがいなくてもこの家での自分の存在理由があることをしっかりと認識し、また辛辣な言葉をかけられたとしてもジョアンナとバートはキチンと自分を見ていると言うことも無意識に認識したに違いない。これがアンが持った希望である。
感想  壮絶な物語だったなぁ。ジョアンナが産気づいて、アンが赤ん坊を取り上げるなんて…こんな壮絶な物語は私が知る限り「世界名作劇場」には無かった。牛のお産は何度か見た記憶があるが、人間のお産は初めてじゃないのか? ジョアンナが赤ん坊を叩くよう命ずるシーンって、お産の時の女性目線なのかなぁ?
 その壮絶シーンとは別に今回はバートの「人の良さ」も上手に描かれたと思う。それについては名台詞欄を参照。
 代わりに今回で退場のエリーザだが、とても印象の悪い退場になってしまった。あれじゃエリーザに「偽善者」の烙印を押されても仕方あるまい。彼女は心の中で既にアンを捨ててロジャーを選ぶという結論が出ていたのに、アンに気を遣おうとしたことがかえって裏目に出た格好になってしまった。彼女が最初からハッキリとロジャーを選びアンと別れるとアンに宣言すれば、アンは裏切られたと感じることもなく心に深い傷を負うこともなかっただろう。しかしエリーザがアンを置いて行くと知ったときのエリーザに対するアンの対応を見ていると、ギルバートに対するアンの対応を思い出すなぁ。あの徹底のしようは幼い頃からだったのか。
 で今回の「出会い」は、アンの幼少期の「親友」であるケティ・モーリスだったのね。ケティ・モーリスが生まれるきっかけを上手に、そして視聴者が同情できるように見事に書き上げたと感心した。

 本編とは関係ないが、前回からの跨いでの物語になったときの処理方法は感心した。サブタイトル読み上げの前に前回のあらすじを1分でまとめて流し、サブタイトル読み上げを境に今回の物語には入って行くという手法だ。前作「ポルフィの長い旅」のように前回のあらすじ紹介を全く流さない潔いやり方が一番好きだが、もし前回のあらすじを流すとすれば私は個人的にこのスタイルが一番好きだ。「ポリアンナ物語」なんか前回のラストシーンを繰り返し流すし、それも回によって長い場合があったりで見ていて疲れたので余計に良く見えたりする。

第7話「木枯らしとバラの花」
名台詞 「ローザ…アンを見ていたらお前が帰ってきたような気がしたよ。ずうっと昔に、忘れてたものを思い出したような気がした。なのに、私はあの子になんて酷い事を言っちまったんだろう。町一番の嫌われ者さ…。」
(ミントン)
名台詞度
 ミントンは死んだ愛娘、ローザの部屋に入り込んだアンを追い出してしまったことを後悔する。その後悔の念を、娘の墓の前で一人呟く台詞がこれだ。
 ミントンは娘が死んでからというもの、心を閉ざして誰とも親しく接しずに孤独に暮らす道を選んできた。同時に死んだ娘の部屋をその時のまま保管し、過去の悲しみに縛られながら生きてきたのだ。その過去の悲しみに縛られているからこそ新たな楽しみが見つけられず、「生きていること」を喜べないという論理はポリアンナが教えてくれたことでもある。まさにそのことを、ミントンはアンによって教えられるのである。
 ところがそんなアンをミントンは追い出してしまった、まだ何処か素直になれていないからである。ミントンはアンによって今までの孤独から開放され、少しずつ世の中はまだ捨てたもんじゃないと思い始めていたのだろう。だがその部分に素直になれずに意地を張ってしまった。その結果がアンを追い出すことに繋がったのである。アンを失って初めて、暗くて孤独な生活の悲しさに気付き後悔したのだ。失ってはいけないものを失ってしまったと。
 しかし久々に小さな子供を家に入れたミントンだったが、メーテルの解説は的を射ていて好きだ。「家の中に吹くつむじ風」とはよく言ったものだ。
名場面 ローザの墓前 名場面度
 名台詞シーンを受け、アンがローザの墓前…つまりミントンの前に突然姿を現す。驚くミントンにアンはバラの花束を差し出す。季節が良くなかったからちょっとしおれていたのだが…花束を渡すとアンが「お誕生日おめでとう」と言う、ミントンが驚くとアンはローザのカードを見てしまったことを謝罪する。だがミントンはみるみる顔を振るわせてアンに抱きつく、「アン、あんたって子は…」。アンが「泣いてるの?」と聞けば「この私が泣くもんか、笑ってるんだよ、あんまり久しぶりで上手く笑えないだけさ」と意地を張る。だがその台詞も間違ってはなく、アンもホッとしてミントンに抱かれたまま笑顔を作る。「あんたの言ったとおりさ、いいことは必ず来る」とミントンがアンを抱き詰めたまま言うと、突然雪が降り始めるのだ。
 名台詞欄で解説したミントンの後悔と悲しみをよそに、アンが真心を込めてミントンに贈り物をする。ここでミントンが久しぶりに受け取ったものは「愛」であり、「優しい気持ち」であろう。何年も心を閉ざしてきたミントンが「ずっと昔に忘れたもの」は、人々の温かい気持ちを素直に受け取ることだった。こうしてミントンはアンに心を開くのだ。
感想  今回はミントンの話だったわけだ。要は愛していた娘を失ってそれ以来心を閉ざしていたという、ナレーターのカリウおば様(29)みたいな話だったわけだ。そのミントンが何故心を閉ざしているのか、家に閉じこもっているという訳には第1話のように定期的に外出している様子なのか、この謎を「アンがミントンのところで働く」という設定でもって一気に解きあかした。
 今回の視聴者の焦点は2点に絞られただろう、ひとつはあんがどうやって入ることを禁じられていた「2階の一番奥の部屋」に入ってしまうのかということ、もうひとつはアンがどんなきっかけで「おばさん」=ミントンだと知るかと言う点である。ま、どっちも楽しみで楽しみで…という感じなんだろうけど。結局後者はアンがこのおばはんがミントンだと理解したかどうかは不明のまま、前者については「見てはいけないと言われると見たくなってしまう」というアンの好奇心を使うのかと思ったら、ただ単にイタズラネコを追っただけという展開でこちらも拍子抜けした。あの家にネコがたくさんいることは分かりきっているのだから…アンがあの部屋に入り込むきっかけはもう一工夫欲しかった。
 今回、アンがガラス戸に映った自分の姿にハッキリと「ケティ・モーリス」と名前を付けていた、これで完璧に「赤毛のアン」と繋がったわけだ。しかし家にいても誰も話を聞いてくれないというのはキツイだろう。一人暮らしで聞いてくれる人がいないというのは諦めもつくが、家に人がいるのに話を聞いてくれないことほど悲しいことはない。そしてバートが早速エリーザの代役として機能し始める、アンはミントンの手伝いを辞めさせられたと思い泣き込んだ場所は、バートのいる納屋だったのだ。

第8話「遠い調べ」
名台詞 「うちで一番幸せなのは、アンなのか…」
(バート)
名台詞度
 アンに「何かのつもりになって嫌なことを乗り切る」ということを語られたバートは、ジョアンナに追い立てられてその場を去って行くアンの背中を見ながらこう心の中で呟いた。
 家の中がどんな状況でも表情一つ変えずに家事をこなそうとするアンを、この男は冷静に見ていた。だからこの日、「家の中がどんなに酷くても何故お前だけは楽しそうなのか?」とアンに問うたのである。この家ではジョアンナも落ち着きがなく、子供達は輪を掛けて落ち着かない。なのにアンだけは落ち着いて動いているのだ。多分その事実をも、ジョアンナは気付いていないだろうし、フォーレスやエドワードは「そういうもんだ」と思っているに違いないのだ。前述のようにアンは「何かのつもりになる」ことでこれを乗り切ろうとしていることを語る、ノアの親になったつもり、王女様になったつもり、ケティ・モーリスという何でも話せる心の友が家の中にいるというつもり…それらは悲しい想像だが、これらはアンがこの家で生きて行くための「支え」として重要なものなのだ。
 バートはアンの「支え」になっているものに気付き、その上でこの台詞のように感じたのだ。この家の他の者を見れば一目瞭然、ジョアンナも、フォーレスもエドワードも、そしてバートもこの家で生きて行くための「支え」を持っていないのだ。この台詞は、この違いを明示したものなのだろう。
 そしてバートは自分やジョアンナにも「支え」があれば、いやかつて「支え」にしていたものを取り戻せば…と感じ、この夜のダンスパーティの件をジョアンナに語ろうとし、自分はパーティへと足を運ぶ決意をしたのだ。
名場面 ダンスパーティの後 名場面度
 決意が固まらず出遅れた上に、馬車が脱輪するという事故もあってダンスパーティには間に合わなかったバート。話がそれで終わればバートがリベンジするだけで済むのだが、そうは行かないのが「世界名作劇場」であり「こんにちはアン」なのだ。よせばいいのにパーティ会場の屋敷から出てくるのは、バートの旧友であるビリーとスーザンである。二人がバートが落ちぶれて昔の栄光を見る影もなくなってしまい、ああはなりたくないと語るのを聞いてしまったのだ。この会話を聞いてしまったバートはしばらく固まる、落ちぶれた状態からまた這い上がろうとしてここに来たはずのバートだが、この会話によってそれまでの意欲を失ってしまう。
 そんなバートが取った手段は酒に逃げることだった、酒仲間が呑んでいるところへ姿を現し、酒を奪って一気に飲み干す。そこへ偶然通りかかったバートの上司(駅長?)、これをご都合主義なんて罵ってはならない、こうしないと物語が進まないのだから。上司はバートを小馬鹿にしたことで、バートは泥棒扱いされた事や業務外の仕事をさせられた(感想欄参照)事に対する屈辱を思い出して上司に殴りかかる。仲間が止めてもどうにもならず、バートはその場で解雇を言い渡される(職場外だし、この上司にどのような権限があるのかは分からないが、次回予告を見る限り本当に解雇された模様だ)。
 ここにバートの「またダンスを始めてやり直したい」という思いがかなり本気だったことと、それを一瞬で裏切られてしまったという切なさが描かれている。バートがもっと器用な人間だったら、他の場所でダンスをやり直すなどの方法も考えただろうが、不器用だから酒に逃げるしか思いつかないという短絡的な人間であることも同時に描かれている。恐らくそういう性格だからジョアンナとの関係も良くないのだろう(これはバート側の問題であり、バートの話をまともに聞こうとしないジョアンナにもかなり問題はある)。バートの性格上の問題はこのように「単純かつ短絡的」なところで、これをいい言葉に置き換えれば「不器用だが素直」ってところだろう。こうしてこの男の本性を上手に描き、物語を次に進める強烈なシーンとして印象に残るだろう。
感想  今回はバートの「過去」と「現在」の対比がテーマとなった。無論バートも昔からああいう生活をしていたわけではなく、ジョアンナとも仲が良かったはずだったのだ。回想シーンでそんな時代が一瞬だけだが描かれた。若き日のジョアンナ、結構きれいじゃないか。これでバードに付いて描かれていないのは「きっかけ」だろう、かつては誰もが憧れる存在であった男がどうしてああなってしまったのか、そして現在も元に戻れない理由は何なのか? 後者は今回の話を見ている限りジョアンナに理由があるとしか思えないのだが。
 どうでもいいが、バートは貨物駅で何の仕事をしているのだろう? どう考えても貨物駅での業務とは無関係の仕事をしているようにしか見えないシーンがあったぞ。少なくとも貨物列車の荷役作業をするような職員が、貨車の下回りを磨いたりすることはない(安全に関わるブレーキ装置や軸受けなど専門的な部品を専門外の人間に触らせないという鉄則による)。これはアニメ制作会社の考証不足と解釈するのでなく、駅長(?)とおぼしきバートの上司に「業務外の仕事」を命じられるという嫌がらせを受けているシーンだと解釈すべきだろう。そうすればバートの怒りは理解できる、泥棒扱いされたのはある意味自業自得(バートの酒による不摂生が街中に知れてしまっている以上の話)だが、本来の業務外の仕事をさせられるのは上司にいかなる理由があろうとそれを正当化することは出来ないからだ。貨車や貨物駅の考証不足については語り出したら止まらないし、単なる鉄ヲタの揚げ足取りになってしまうのでここでは省略する(結論だけ言えばあんな駅もあんな貨車もあり得ない…私が一目見てそれが鉄道施設や貨車であるとは思わなかった位だ)。
 アンの「つもりになる」という逆境への耐え方は、セーラと同じだなぁ。ただアンの方が何枚も上手だが。アンの想像力はこの逆境を乗り切るために鍛えられたに違いない、逆にセーラは裕福な生活の中の余裕から生まれたものだろう。どちらにしろこれだけ想像力豊かになるには頭が良くなければならないと言うことだけは確かのようだ。頭が良いからこそ、アンは逆境を乗り切る道具としてこれを活用するし、セーラは仲間を増やすためにこれを活用するのだろう。

第9話「メアリズビルへ」
名台詞 「アン、私からのお別れだと思ってお聞き。人生は良いことと悪いことの繰り返しだ。ちっぽけな人間の思い通りには行かないことばかりだ。でも、あんたは言ってたろう? 思うようにならないってことは、思ってもみなかった素敵なことも起こるという事だって。辛い思いをしたら、その分だけ素晴らしいことが待っている。アン、ご褒美を楽しみにお待ち。」
(ミントン)
名台詞度
 良い台詞だ。この台詞を聞いて生きて行く事に勇気を持てる子供達がたくさんいることを切に願いたい。こういう台詞が出てくると、この「こんにちはアン」が衛星放送という視聴人口が低いチャンネルで放映されているのが悔やまれる。
 いよいよ旅立ちの日、新天地を目指して馬車で出発したトマス家とアンの一行を人目見送ろうと待ち構える人影を見つけて馬車は停止する。一行を待っていたのはアンのためにバートの仕事先を世話したミントンであった。馬車が止まるとアンはミントンに抱きついて別れを惜しむが、その際にミントンはアンの肩に手を置いて、アンにこの台詞を贈るのだ。
 ミントンは収入も減って間違いなく生活がさらく苦しくなるであろうアンを思い、また自分を明るく生きていけるように変えてくれたアンに感謝して贈った台詞だろう。どんなに辛くても辛かった分は良いことがある。これはミントンがアンに教わったことであるが、ミントンはアンにこれだけは忘れないで欲しいと願っていることだろう。
 アンはこの台詞に対し、頷いた後に「おばさんもきっといいことがある」と返す。ミントンはこれまでに見なかったような笑顔で「もちろんだ」と答える。今までの明日に活力を見いだせないミントンの姿はもうない。なんか「ポリアンナ物語」みたいだぞ。そして、ミントンは最後の別れにアンを「Eの付くアン」と呼んで手を振る。
 辛いことに終わりがないわけではない、必ずその後には良いことがある…このミントンの台詞は私の心にもずっしりと響いてきた。やべ、まだ序盤なのにいきなり感動してるぞ。辛いときに思い出す台詞が待ち一つ増えそうだ。
 ところで、アンはそのおば様がミントンだと気付かないまま旅立ってしまうのだろうか?
名場面 アンの喜びとジョアンナの後悔 名場面度
 今回の物語の見どころの一つに、このアンの今後についてアンとジョアンナが全く違う反応を見せる点もあるだろう。
 アンは一家の引っ越しがミントンがアンを助けるために仕組んだ物とは知らず、トマス家の引っ越しと同時に孤児院に出されてしまうのではないかと不安に感じていた。納屋の片付けをしているときにバートから「お前は連れて行く」と沙汰があり、「夢じゃないのね!」と大喜びである。
 一方、ジョアンナは旧友でありアンの母親の親友でもあるジェシーからアンを引き取りたいとの申し出を受けていた。ジェシーはトマス家の様子を知った上で、アンに子供らしい幸せを教えたいというのだ。だったら最初から引き取ればいいじゃないかと突っ込みたくなるが、その頃はジェシーは精神的に子育てを出来る状態ではなかった、だがそれが今なら出来るというのである。ジョアンナは色々考え、ジェシーの言うとおりと思いながらも、この申し出を断る。
 そしてジェシーはアンに会わずに帰るのだが、入れ替わりにバートから「連れて行く」と聞かされて喜び一杯のアンが部屋に入ってくるのだ。棚のガラス戸にその喜びを語りかけるアンの姿を見て、ジョアンナは後悔の念に苛まれる。アンをジェシーに託せば、ガラス戸に映る自分の姿を「親友」と呼ぶような状態からは抜け出せるのではないか…ひいてはこの酷い状況の家からアンを救いだし、幸せにしてやれるのではないかと。
 ジョアンナがアンが必要だとした理由は、ジョアンナ自身が語ったとおり子供がたくさんいるこの家庭ではとにかく働き手が必要だったのだ。ジェシーがいるときはその論理の方が感情よりも上だったのだろう、だからアンの幸せとは無関係にアンが必要だとした。だがガラス戸に呼びかけているアンの姿を見て、アンに対する哀れみの感情が一気にこみ上げたに違いないのだ。この子をこのままこの家にいさせてはならない、それはこの子を不幸にはしないが幸せにもしない。
 対してアンは「自分の居場所」を確保するのに手一杯なのだ。何処に行けば幸せで何処に行けば不幸という選択肢というものは彼女の中にはない。ただ自分を孤児院に送らないこの一家に着いて行くことで、自分の最低限の幸せが得られるというものであった。だから他の人が自分を引き取るなんて思ってもいないし、そうしてもらおうとも考えていない。アンの中にあったのは「孤児院行き」か「トマス家と一緒にメアリズビル行き」のどちらかであって、前者なら最悪、後者なら現状が維持出来るのでそれなりの生活が出来るという喜びがあるだけだ。その「それなりの生活」で大喜びしておかないと乗り切れないという辛い事実を、彼女は幼いながらも知っているのだ。
 恐らく、そんなアンの深層もジョアンナは見抜いているのだろう。だからジョアンナは断るんじゃなかったと後悔するのだ。確かにこの家の家事のやり手としてアンは必要だし、新生活ではアンの代わりになる家政婦を雇う経済的余裕などあるはずがない。そんな現実を押してでもアンをジェシーに託さなければアンに幸せはないと、ジョアンナは誰よりも知っているのだ。この二人の心理の対比は、見る者の心を深く揺さぶるだろうし、今後の物語の展開にも響いてくるだろう。
 もしエリーザが嫁に行かずにこの家にいたら…ひょっとしたらジョアンナはアンをジェシーに引き取らせたかも知れない。またミントンがバートに新しい仕事を見つけてくる前だったら、ジョアンナは喜んでアンをジェシーに引き取らせただろう。本当、タイミングの悪い…。
感想  ここまでが「こんにちはアン」の第一部で、題して「ボーリングブローク編」と言ったところだろう。次回からは舞台になる街が変わり、登場人物もガラリと変わる新展開になるようだ。
 まずはケティ・モーリスが無事だったことにホッとした。前回のラストを見てありゃ間違いなくバートに殺られたと思ったが、ガラス戸が片方だけ残っててしかもそれがアンが語りかけていた側の扉だったとは。作者もうまく考えたなー。でも前回のシーンに、ジョアンナが起きてきて「また…呑んだのね」という辺りまでは入れて欲しかった。前回の唐突な切り方はまだちょっと納得できない。
 しかし、ジョアンナも語っていることだがあの騒ぎで起きてこないフォーレスとエドワードはある意味凄い。でもこれは将来大物だという受け取り方をしては行けない、あんな騒ぎがなんでもない子供になってしまっているのである。その事実をジョアンナの台詞で補強する点は、間違いなく名場面シーンへの伏線だろう。子供が大きな物音に気付かないほど状況が悪いと、ジョアンナは感じているのである。ただジョアンナはなぜバートが呑んでしまったのか理由を知らないので、どうもジョアンナに感情移入できない。それより前回あのような仕打ちを受け、今回ミントンに救われたバートの方に感情移入できる。ジョアンナは相手の言い分や理由を聞かない性格で、どうもアンにしろバートにしろ相手の「理由がある」行為への対処が出来ていないのだ。ま、だからこそバートがああなっちゃったという解釈も出来るが。
 それとミントン、まずミントンがバートが働く鉄道会社に顔が利くとは。どうやらバートが働いていたのは地方のローカル私鉄のようだ。こんな田舎町に社長がいるのだから間違いないだろう。しかもミントンはこの会社や社長のスポンサーだったようだ。ひょっとするとバートがあの駅で働いていたのもミントンの力によるものなのだろうか? いずれにしろミントン手回しで物語は新展開となる。
 バートが働いていたのは小さな貨物駅だったようだけど、今日出てきた駅は間違いなく旅客駅だったな。根拠は駅舎の中に待合室と、事務室の中には乗車券を保管する専用の棚が映っていることだ。今回出てきた駅はバートが働いていた駅とは違い、社長が詰めている駅にバートの上司を呼び出したと解釈すべきだ。だが、駅の構造を見る限りあの駅に駅員がいる理由はない。だって交換設備がないんだもの…でも単線で交換設備もないのに、信号機だけではなくて蒸気機関車への給水設備まであったぞ。お〜い、前作「ポルフィの長い旅」における鉄道施設の描写の細かさはどこ行った〜。

第10話「不思議なタマゴ売り」
名台詞 「怒られても、それをやめてはいけない。それは想像力というものだ。この世界にまだ生まれていない何かを想像する、人間しか持たぬ素晴らしい能力だ。このチェロは、誰かが想像したから生まれた。こういう形で、こういう音のする楽器があったら、素晴らしいだろう、とね。この世の全ての物は、人が想像したから生まれたのだ。あそこに置いてあるタイプライターも、望遠鏡も。そして、さっき君が聞かせてくれた物語も。君の想像力は、必ず君の力になるだろう。」
(エッグマン)
名台詞度
 まずこのキャラについて最初に言うが、どうやら「エッグマン」というのはこの人物の名前であって職業名ではないようだ。つまりタマゴ売りだから「Egg Man」なのではなく、この人物の名前が「Eggman」ということらしい。
 静かにチェロを演奏していたエッグマンの様子を覗いていたアンが踏み台にしていたバケツがひっくり返って転倒し、エッグマンが外に出てくる。アンはいつもの調子で演奏を聴いた感想から勝手に物語を思いつき、それを語るとエッグマンをアンに興味を示したのだろう、アンの名前を聞き家の中に入れる。そして部屋の中でもう一度エッグマンがチェロを演奏し、またアンが物語を語りかけたところでアンは「こういう想像をするといつも怒られる」と言う。それに対してのエッグマンの返答がこれだ。
 恐らく、アンの人生史上初めて自分の想像力の豊かさを認め、それを否定しなかった人物が現れたのだろう。言われてみるとジョアンナはアンの言うとおりアンが妄想を語れば余計なことと叱るだけだし、トマス家の他の人物はアンの想像の中身に興味すら持っていない。バートやミントンはアンが持つ底抜けの強さと明るさに惚れているのであって、やはりアンの想像力には気付いていない。このエッグマンという男はアンが自分のチェロ演奏を聴いて勝手に描いた物語を通じて、アンの想像力の豊かさ…つまり賢さを瞬時に見抜いたわけだ。そう、エッグマンのチェロ演奏はアンの物語のように、内容はともかく哀しい気持ちが込められていたのである。エッグマンとアンは「想像力」を通じて、「思い」のキャッチボールに成功したことを示しているのだ。
 アンにこの台詞を吐いたエッグマンは、アンに「IMAGNATION」という言葉を与える。そしてその想像力を伸ばそうと、アンがタマゴを買いに来る度に言葉を教えることを約束するのだ。
(次点)「6歳です! いつももっと年上に間違われるんですけど。それは多分私が…」(アン)
…エッグマンにタマゴの数を問われたアンの返答。正直ずっこけた。また顔色一つ変えず冷静に「歳じゃない、タマゴの数だ」と突っ込むエッグマンも素敵。
名場面 アンの部屋 名場面度
 トマス家一行とアンは雪道を延々と走り、メアリズビルの新居の前に立つ。アンは中にケティがいる棚を馬車から降ろす手伝いを済ませると、バードに自分の部屋が何処なのかを聞く。そして向かうのは「階段を上って正面のところ」の部屋、笑いながら階段を駆け上って扉の前に立つ。「この扉の向こうにあるのは春? それとも冬? きっと春があるのよ!」と呟いて扉を開くと、窓から明るい日差しが差し込み、既に必要最小限の物が揃えられている部屋が目に入る。アンは喜んで部屋の中に入り、窓の外を見る。湖が見えないのは残念だがそれは想像で補えると宣言し、早速窓の外にある2本の木に名前を付ける。
 こうしてアンが喜びに浸ってベッドに腰掛けると、今度はバートとジョアンナがあの棚を持って部屋に入ってくる。そして棚はアンの部屋に置くと宣言するのだ。アンは中にいる親友ケティと一緒とあって、さらに喜んで部屋をきれいに飾ると宣言する。
 「世界名作劇場」シリーズでお馴染みの「主人公に部屋が与えられるシーン」として記憶に残るだろう。そうして与えられる部屋は主人公の期待を裏切る酷い部屋だったり、予想外に良い部屋だったりと作品によって結果が違うし、物語の展開によって両方を経験する主人公も多い(セーラやポリアンナ)。また山小屋の干し草置き場を「楽しい部屋」と感じるハイジやアンネット、居留地のテント生活において父が見つけてきた樽を最高の寝床と感じ取るルーシーという例外の方が強く印象に残ることも付け加えておこう。
 そしてこのシーンは、もちろん主人公が想像していたより良い部屋を与えられた例として記録に残る。部屋は狭い屋根裏部屋とか納屋とか馬小屋とか見るだけで悲惨の物ではなく、中を見て素直に主人公が喜べるものである。この部屋との出会い、さらにケティまで一緒にいうシーンにおけるアンは、ここまでに見たこともないような喜びの笑顔を見せてくれるのだ。つまり逆に言えばアンがそれほど悲惨な生活を続けているという事でもある。でも平行して裏で「小公女セーラ」の再放送なんかやっちゃってるからなー、ちょっとアンの悲惨度が薄められてしまっている。アン=セーラならば、ジョアンナ=ミンチン、フォーレスとエドワード=ラビニアとその取り巻き、バート=アメリアって感じに該当する人物は揃っているんだよね。
感想
 新展開、「こんにちはアン」第二部「メアリズビル編」スタート。新居に素直に喜ぶトマス一家とアンの姿から始まったが、私の不安はもしもこんな家(右図参照)が出てきたらどうしようと言うものだったが、それは杞憂で終わって安心した。新天地に来たという気分がそうさせているのか、はたまた二人とも初心に返ったのか、バートとジョアンナが少々もどかしいもののちゃんと夫婦らしく接しているのでこれまた安心。バートは「酒を呑む気にすらなれない」と名言。ま、その言葉の通りでないと当面は物語が進まないだろうから…。
 前半は新天地への到着に割き、後半ではいよいよメアリズビルでの最初の「出会い」を描く。この辺りをテンポが良いと見るか、それとも急ぎすぎと見るかで作品への評価が変わりそうだ。私としては唯一気になるのはノキンバーの行方だけなのだが。何の伏線もなくひょっこりと再登場しそうで怖い(つまり存在が忘れ去られているってこと)。駅がまたあり得ない描写なのは気にしないことにしよう。
 その後半の出会いはアンに辛く当たる人物ではなく、アンの想像力を認めてそれを伸ばそうとする人物である。エッグマンの登場だが、恐怖感でさんざん盛り上げた後に「いいオッサン」として出てくるというのは「おやくそく」だろう。あのしゃべり方、誰かに似ているんだよな…そうそう、「おじゃる丸」に出てくる宇宙人の星野君だ、と思い出したらもうエッグマンが星野君にしか見えなくなってしまって笑ってしまった。アンテナはどうした?みたいな感じで…(←アホ)。

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