前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ

第11話 「冬のひまわり」
名台詞 「君の感じるままでいいんだよ、アン。詩という物は、書いた人が何を考えたかが重要なんじゃない。読んだ君が何を考えたかが重要なんだ。」
(エッグマン)
名台詞度
 まずこまキャラについて最初に言うが、前回の名台詞欄の考察で「エッグマン」というのは職業ではなく「この人物の名前」だとしたが、それは間違いであることが判明した。「エッグマン」はこの男の通称であり、本名はロバート・ジョンソンというのだ。だがエンディングのスタッフロールでは「エッグマン」と表記されているので、当サイトではキャラクター名が「エッグマン」だと解釈してこれに従う、ま芸名みたいなもんだな。でも前回のような「おじゃる丸に出てくる宇宙人の星野君」みたいなしゃべり方は不評だったのか、ちょっと今回はしゃべり方が変わってる。
 本題に戻ろう。ある日、タマゴを買いに来たアンがエッグマンに自分の「宝物」を見せる。それはアンが4話で手に入れた本である。エッグマンは本を開くと、アンに前に教えた単語があると指し示す。そしてその部分の詩を読むのだが、その内容についてアンは「よく分からない」とするのだ。これに対してエッグマンはこう答える。
 この論理は「詩」だけに限らず、音楽や映画、全ての物語にも通じるだろう。作った人にどのような意図があろうと、それらのものは世に出た瞬間に作り手の手を離れる。つまりそれを手にした人の物となるのだ。この「こんにちはアン」というアニメにもそれは当てはまり、放映された瞬間にそれらは我々の物となって自分の解釈で物語を見るべきなのだ。私のようにインターネットを通じて「自分の解釈」を公表するのもよし、それを自分の胸にしまい込むのもよし。
 この台詞を聞いて某巨大掲示板の「こんにちはアン」スレを思い出した。見てみたけど酷い、監督が以前成人向けのアニメを監督していたという事を理由に批判されていて、正当な感想や評価が何処かへ行ってしまっているのだ。そのような論理を進める者は残念ながら「こんにちはアン」というアニメが放映された瞬間に「自分の物」になったという事を理解していないのだろう、だから監督という制作者側の経歴だけで物語を批判するのだ。物語を自分の物として自分の解釈をできるならば、制作者側を批判する理由などない。あの掲示板ではまだ「こんにちはアン」というアニメに対して制作者側に対する不満が垂れ流されているだけ(少なくとも私は到底それに賛同できない)で、物語そのものの評価等には触れられていないのだ。このアニメが気に入っている人は見に行かないことをお勧めする。
名場面 アンが学校へ行くことを許される 名場面度
 街中で女性教師と出会ったことからアンの就学という問題が表面化する。もちろんジョアンナはアンを学校へやることなど考えていなかった、アンも自分が学校へ行ける立場の人間だとは思っていなかった。だが「孤児も学校へ行ける」という一言でアンの「学校へ行きたい」という夢は急に膨らみ、ジョアンナを困惑させる。
 アンはとにかくジョアンナの役に立てば学校へ行かせてもらえると考え、家の仕事をしっかりとこなし、エッグマンのもとでアルバイトをして前回壊した野菜ブラシを弁償しようと張り切る。そしてやっとお金が貯まって街で野菜ブラシを入手し、ジョアンナに差し出すのだ。アンは「おばさんの役に立てば学校に行かせてもらえると思って…」と自分の思いを語るが、ジョアンナの返事はやっぱり「とんでもない」である。やはり学校へ行けないと思って落ち込むアンに、ジョアンナはそれまでと口調を変えず「学校なんてダメよ、冬の間はね。雪かきやらなにやら冬の間はやることが一杯あるから…春、春になったら行けばいい」とアンに告げるのだ。喜ぶアンを尻目に「新品の野菜ブラシは使いにくい」と愚痴を言う。喜んで抱き付くアンに「鬱陶しいから抱き付かないで!」と怒鳴る。いや、感想欄に書くけどこの女性らしい。
 つまりアンの思いが通じたと言うことだろう。アンはアンなりになぜジョアンナが「学校へ行かせない」と言い張るのか理解できていたのだ、つまり自分を働き手として期待しているからで、学業を理由にいなくなったらこまる存在だからである。だからアンはジョアンナの役に立たねばならないと痛烈に感じるのだし、また自分で壊した野菜ブラシを弁償しなければならないと感じるのだ。それらを全てこなした結果、アンの苦労が報われる方向に話が進むのだ。
 しかし、「赤毛のアン」設定では「今まで誰にも愛された事のない少女」だったアンが、ジョアンナやバートからしっかりと愛情を受けているシーンを見ていると、複雑な気持ちになるなぁ。もっと辛い物語を想像していたのに…そういうのはPTAが五月蠅くて作れないのかなぁ?
感想  ノキンバーはこっそり引っ越しについてきていたのね。引っ越しのシーンの何処にも描かれていなかったからその安否が不安だったのだが。ジョアンナが「ネコなんか連れて行けないわ」と吐き捨てて置いていったのかとばかり思っていた。やっぱ前回と前々回は単純に描き忘れられたんだな、こんな存在感のないなら無理にネコを出さなくても…可愛いからいいか。
 続いてジョアンナの性格が上手く描かれていると感心した。悪く言えば頑固で根に持つタイプ、よく言えば記憶力がよくて保守的。そして彼女の性格の最大のものは、他人に強く言われない限りは白か黒かハッキリしていないと気が済まない性分で、それでバートと衝突してきたことも見えてきた。ジョアンナがもっと物わかりの良くて、白と黒の中間を考えられる性格ならばアンの就学についても、学業と家の仕事を両立させるような策を最初から出せただろう。バートと「酒」に対してもそう言う対応をしたに違いない、酒を「呑まない」という選択のみにしてしまって「適度に与える」という方策が思い付かないのだ。こうなれば反抗心の強いバートは言われれば言われるほど大量に酒を呑むという悪循環で…この女性の何処が不器用なのか多くの人が見抜いたことだろう。
 エッグマンというのは「私のアンネット」のペギンや、「ポリアンナ物語」のペンデルトンの、登場当初ような役回りが本来の顔なのだと思う。街の誰にも心を開かず一人で引きこもりみたいな生活をしている、この手の物語でこのような男性が出てくると、たいていは主人公の少女によって心を開かされるという展開になるのだが、この物語では最初からアンに対してのみ心を開いてしまっているのだ。アンに対して心を開いた理由も単純明快、アンの才能を見抜いたからというそれだけである。この男もアンに多大な影響を与えたことになる、アンは「労働の論理」を正しく学び、働くことで報酬を得られることを知ったのだ。
 いよいよ次回からアンは学校へ行くのか、心の友と出会ったり、赤毛をバカにした男の子を石板で殴ったり…ないない。

第12話 「はじめての学校」
名台詞 「昔、今から1500年位前。インドにとても賢い学者がいたの。数字というのはもっと大昔にエジプトで発明されたのだけど、まだ0という数字があることに世界中の誰も気付かなかったの。ところがそのインドの学者が羊のいない囲いを見て、0という数字を思い付いたの。0は羊が1匹もいない囲いのことなのよ。羊が1匹もいない囲いは0、それがふたつあってもみっつあっても10個あっても、結局羊は1匹もいない。だから0には何を掛けても答えは0になる。だから100×0は0なの。」
(アン)
名台詞度
 金曜日のテストは綴りと算数、ミルドレッドに「インドの歴史が試験に出される」と騙されたアンは試験勉強で全く勘違いのことを頭にたたき込んで試験に臨んでしまったわけだ。綴りの試験では不正解だったアンは気落ちし、教室は算数のテストに変わって行く。アンを騙したミルドレッドが「100×0=1000」という間違ったのをアンは見つけ、先生に発言を許されるとこう力説するのだ。教室の皆は新入生、しかも教室で最も若いであろうアンの発言を疑うが、先生は「見事だわ」とアンに声を掛ける。
 この話は「インドの歴史」がテストに出てくると聞かされたエッグマンがアンに語ったのは間違いないだろう。しかもアンがミルドレッドから借りた歴史の教科書には出ていない…アンが「テストにインドの歴史が出る」とエッグマンに言ったシーンがあっただろう、その時にエッグマンは「変だな」と言っているのだが、変に思ったエッグマンがアンに年相応の算数が理解できるように、「インドの歴史」に混ぜてさりげなく話したに違いない。エッグマンはアンが騙されていると感じていたのだ。そして正直なアンだ、この「羊の囲い」の話が教科書に出ていたならば先生にそう言ったに違いない。
 またこの台詞の内容そのものも「0のかけ算」としての模範解答と言っていいだろう。なぜ0のかけ算は必ず答えが0なのかを、子供にもわかりやすいように上手く説明していると思う。そういう意味でも今回の話で最も印象に残った台詞となった。
名場面 はじめての学校 名場面度
 はじめて登校したアンは教壇で先生に紹介される。先生に自己紹介を促されると…もうおしゃべりが止まらない。一番最初は名前が「おしまいにEのつくアン」だと強調することから始まり、家事のため学校へ行くことを禁じられた冬の間この日をずっと想像して楽しみにしていたこと、ノアのおむつを洗っていること…ここまで来ると男子生徒のランドルフから「なんか変わり者だな」と声が上がる。でも笑顔で「おばさんにも変わり者だって言われる」と返答し、今度は自分が孤児だと言うことや登校の条件を語り出す。今度はランドルフが待ってましたと言わんばかりにアンの赤毛をからかう、するとアンは石板でランドルフの頭を…ウソ。先生がランドルフを叱り、ミルドレッドが「早く授業を初めて」と意見するとアンの紹介は終わる。
 アンの性格が出ていて面白いシーンだ。考えてみればここまで、アンが同じ年頃の子供達と会話するシーンというのはなかった。メアリーはアンより少し年下のようだったし、エリーザは年上だし、フォーレスとはからかいとその反応だけで会話が成立することは殆ど無かったし。そう言う意味でアンが「同年代の子供達の前に出たらどうなるか」を最初に描いた貴重なシーンとなろう。そこでアンはまだ自分の頭の良さや想像力の豊かさを披露できるところまで行ってない、やっぱアンも緊張していたんだろうな。
感想  なんだか↓こんな感じの3人組が出てきた(笑)。

 やっとエンディングに出てくる子供達が出てきて一安心。ちょっと新米先生が飛ばしすぎのような気はするが、学校シーンを印象付ける回としては好印象だろう。ただ前回から感じていることなのだけど、どうも先生が印象に残らない。アン・シャーリーといえばアボンリー小学校のステイシー先生だが、このステイシーと対照的に「目立つけど印象に残らない」教師として意図的に描いているのか、それとも制作側が性格付けに失敗したのかはまだ判断が付かない。街中であれだけ派手に男と言い争った内容が物語の伏線として活かされるのかどうかも不明だし、何よりもアンにはエッグマンという教師が存在しているのが大きいだろう。
 学校の生徒達も、キーになりそうな生徒については印象に残る登場の仕方をしている。ただアンの親友となるべき人間はまだ出てきてないようで、その予測は次回予告を見ていて確信に変わった。中でも一番視聴者に印象に焼き付いたのはミルドレッドだろう。彼女のように主人公に意地悪をする役というのは親友以上に第一印象が肝心だ、ラビニアのように終盤まで主人公といがみ合うにしろ、何らかのきっかけで仲良くなるにしろだ。第一印象でどれだけ主人公に「意地悪をした」という印象を植え付けられるかで、意地悪された場合の悲惨度や和解した後の絆の強さに対する説得力も変わってくし、また主人公の真正直さも計られてしまうのだ。ミルドレッドの意地悪は最初の辞書の件で「意地悪キャラ」としての印象付けに成功したと思う、だからこそ次のテストの件については失敗してアンの頭の良さが認められるという展開になるのも活きてくるのだ。

第13話「サディという友達」
名台詞 「私も怖くなるときがあるわ。お父さんとお母さんの顔も知らないんだって思うと、目の前が真っ暗になってとても怖くなるときがあるの。そういうときは、心の中にお母さんの顔を思い浮かべるの。何度も何度も思い浮かべたから分かるわ。私のお母さんはサディのお母さんみたいに、笑うと小さな皺ができるのよ。私のこと抱きしめて、そばかすまで好きになってくれるの。サディのお母さんみたいにあんまりいい臭いがするから、神様はお母さんを気に入って側へ連れて行ってしまったの。でもね、神様は後悔していると思うの。赤毛の女の子を遺してお母さんを連れて行ったこと、きっと後悔している。だから神様はサディのお母さんを連れて行ったりはしないわ。」
(アン)
名台詞度
 サディとその兄妹は母の具合が悪いのを何とかしたい、という思いでアンが言い出した薬草を探しに野原へ出る。ところがその薬草が見つからず、ついにサディがしゃがみ込んで「お母さんがいなくなると思うと怖い」と泣き出す。そんなサディにアンはこう語る。
 まず両親がいないという事実に対して表には深刻な表情を見せないアンだが、やはり心の中には大きな不安を抱えていることが分かる。もらわれっ子といわれたり、孤児だと後ろ指を指されるという現在進行形の不安でなく、恐らく「自分は将来どうなってしまうのか?」というこれからのことを考えているのだろう。その恐怖をどう乗り越えているのかをサディに教えるという役割がこの台詞にはある。もしサディが母親を失ったら、アンと同じ不安に駈られることになるからだ。
 そしてもう一点はサディに母親が死ぬわけはないと元気づける台詞だ。両親を失った自分とその悲しみとサディを対比させ、サディのように頑張っている少女から母親を奪うわけがないという趣旨だ。冒頭で天使は何かも見ているという伏線が提示されるが、これを「神」に置き換えてアンが語ったと考えても良いだろう。
 この台詞に両親を失っているアンの恐怖と心の傷、それとその心の傷を乗り越える強さも示唆されている。アンの原動力を示すよい台詞だと思った。
名場面 アンが帰宅 名場面度
 夕刻、アンがサディの家を後にして帰宅する。「おばさんに怒られちゃう」から早く帰らねばというアンを前に、サディが母に目で合図する。するとサディの母はアンの前へ歩み寄り、アンへプレゼントを差し出すのだ。それは以前からアンが欲しがっていた「桜色のリボン」であった。アンは大喜びし、早速普段の赤いリボンを外してこのリボンに付け替える。その後、サディの母がアンを抱きしめる。そして別れの挨拶と共にアンは家へ向かって駆け出す。
 ミルドレッドの天使という伏線がこういう形で回収された。冒頭でアンとサディは「天使が願いを叶えてくれるなら何をお願いするか」というテーマで語り合い、アンは「桜色のリボンが欲しい」、サディは「母を失いたくない」という願いをそれぞれ語り合った。そして悪戯ばかりでなく、金持ちを鼻に掛けるミルドレッド達と、貧しいながらも真っ直ぐ生きているアンやサディを対比させ、アンとサディの願いを叶えるという形で今回の物語はうまくオチがついたのである。
 起承転結としてはいい終わり方をしたと思うが、サディの母が何故アンを可愛いと感じたかの理由付けをどっかに入れて欲しかったなぁ。
感想  前回見た次回予告、そして今回の序盤の展開。これを見たとき今回の展開はミルドレッドの意地悪を中心に学校で話が進むと思っていたのだが、話が意外な方向へ進んでびっくりした。後半に入ったらミルドレッドの企みなんかすっかり忘れていたし、ラストシーンでアンの手に握られている場面が出てくるまでミルドレッドの天使はすっかり忘れていもんな〜。
 名場面欄にも書いた通り、一時はその存在すら忘れた天使を上手く話を落とすために使った。今でも食べかけの伏線がそこいらに食い散らかされたままの某長い旅とは大違いだ。やはり「天使はちゃんと見ていて、正しい者の願いを叶える」という伏線を提示したら、誰かがこの願いを叶えて物語を終えるのが筋ってもんだろう。まぁサディの母が病気と聞いて、これが治って終わるんだなという予測はある程度ついたが。アンがちゃんとリボンを手に入れて終わるのは、その次の「アンとサディの願い」を有効活用していていい。
 しかし今回は、遂にバートもジョアンナもフォーレスもエドワードも出てこなかったな。この4人全部が出てこなかった回は初めてだと思う。しかし「サディ」という名前を聞いてポリアンナに出てくるサディを思い出したぞ、全く正反対の人間が出てきて驚きだったが。

第14話「ランドルフの夢」
名台詞 「俺…親父が作った牧場を継ぎたいんだ。俺は、親父のようになりたいんだ!」
(ランドルフ)
名台詞度
 学校帰り、喧嘩したことで居残って叱られたアンとランドルフは一緒に帰ることになる。その道中でランドルフの家の牛がランドルフに懐いてくる。これを見たアンがランドルフの本心を見抜き、「本当に弁護士になりたいのか?」問うが彼は答えに窮してしまう。だがアンは牛と一緒の時のランドルフの笑顔を褒めるが、そんなところにランドルフの父が現れる。将来の夢がテーマの作文が上手く書けたのか?と問い詰める父に遂にランドルフは「弁護士なんかなりたくない」と告げる。怒りに燃えてランドルフを殴った父に、ランドルフはこう言い残して走り去る。
 父が大好きで、今まで父に逆らうことの無かった息子が初めて父に逆らった。しかもその内容は皮肉にも父が希望する将来を拒否し、自分も父のようになりたいという「誰よりも父を尊敬している」という思いと希望を告げるものであった。ランドルフは父に心配かけまいとして自分の本心を胸に秘めていた、ところがいつしかこれが自分の実力と父の希望の板挟みとなって苦悩の種となる。その苦悩を隠すために素直になれず、学校では虚勢を張って生きて行くことしかできなくなっていたのだ。ところがアンに自分の本心、父親の希望とは別の自分の希望を問い詰められたことで、自分は自分の生きたい人生を夢見る事は許されると知ったのだろう。そして彼の本心は「自慢の父親のようになりたい」という夢であり、これを初めて父に打ち明けることになったのだ。
 これを聞いたランドルフの父は驚きの表情を隠せない。最初は誰かに吹き込まれたと思い込み、次になぜ息子がこの夢を誰にも語らなかったのかを疑問に思う。その答えは何故かそこに居合わせたヘンダーソン先生が語ってしまうが、視聴者の多くはそりより先にランドルフがどれだけ父を尊敬しているのか理解できるだろう。
名場面 アンとランドルフ 名場面度
 アンの次の登校日、アンが学校へ向かって走っていると通学路の脇にランドルフが座っているのを見つける。「私のこと待っていたの?」とアンが問えば「そんなはずはない」と言い切るランドルフだが、視聴者はランドルフがアンを待っていたことに気付くだろう。そこへランドルフはアンに視線を合わせないまま「悪かったな」と謝罪の言葉を掛ける。「どうしちゃったの? 熱でもあるの?」とアンが問うのはおやくそくだが、すぐにアンも喧嘩した際にランドルフの父を悪く言ったことを詫びる。ランドルフは「その後」の事を語る、父にもう一度「牧場を継いで父のようになりたい」と言ったこと、父に怒鳴られたこと…だがランドルフは牧場を継ぎたいという夢を許されなかったのでなく、学校の勉強をちゃんとしろと怒鳴られたのだ。喜ぶアンを見てランドルフも笑顔になり、二人は学校まで走って行く。
 今回構築された二人の関係がよく表れているシーンだ。ランドルフは初めて自分の将来について語れる友人を持ったのだ。アンがランドルフに父のこと抜きで「弁護士になりたいのか?」と問われたことが大きなきっかけだし、また今まで学校の仲間には見せることの無かった素顔を見せたことにもよるだろう。牛が好きで牛に懐かれ牛の扱いに長けているランドルフという素顔をアンに見せ、それがよいことだと褒めてくれたアンにだからこそ一生を牛と暮らす牧場主になりたいという夢を語れたのだ。そしてその理由が父を尊敬しているからという点もあることを見抜いたアンだからこそ、アンにはちゃんとその事を言わねばならないと感じたのだ。このシーンを持ってアンとランドルフは喧嘩ばかりの関係ではなくなるだろう、ランドルフはアンを認めるだろうし、父の背中を追って生きるランドルフをアンは尊敬と羨望のまなざしで見ることになるだろうから。
感想  今回のサブタイトル、「ランドルフの夢」というより「ランドルフの苦悩」と言う方がしっくり来るような。彼が何故学校で虚勢を張っていて、何故アンに突っかかるのかの謎解きがされるのである。そしてアンがその謎解きに首を突っ込むことでランドルフの本心を知り、最終的にアンとランドルフの関係が変わるという展開だ。もちろんこの手の話は「世界名作劇場」シリーズに限らず学校が舞台になるような物語では「おやくそく」の展開だ。
 冒頭ではわざとらしくランドルフの進路が「弁護士になりたい」というものであることが示唆され、その前に街中でのランドルフの父親の様子を描いて、ランドルフが評判の悪い父を持っていることを先回りして示唆する。そこにうまくトマス家の人々を使い、アンとランドルフが衝突したときにアンがランドルフの父を悪く言う伏線として埋め込んだのは王道的展開だ。こうなればランドルフが父を誰よりも尊敬しているという展開に行くのは当然だし、「弁護士になりたい」というのも本人の希望でなく父の希望だという展開も見えてくる。
 これからはこういう生徒の一人にスポットを当ててアンとの関係を強化する展開が増えるのかな? でもミルドレッドとは簡単に関係改善して欲しくないな。彼女は「小公女セーラ」でいうラビニアのポジションにいてこそのキャラに見えるのだけど…腰巾着もちょうど二人いるし、だがアンとランドルフが仲良くなるとこの辺りの関係も変わってくるなぁ。
 次はピクニックか、じゃその前にジョアンナがブローチを無くしてアンのせいにするんだな(笑)。

第15話「ピクニックに行こう!」
名台詞 「大人は亀よりもお金の方が好きなのよ。子供は亀を触ったりボート遊びをするだけで幸せになるけど、大人はそれじゃダメなの。お金がないとまるで1年間何も食べていない熊みたいに喧嘩しちゃうのよ。」
(アン)
名台詞度
 バートに線路敷設の仕事が舞い込み(…ってバートは貨物駅の荷役作業員じゃなかったのか?)、給料も通常の3倍もらえる(現実世界では荷役作業員と線路工夫では収入にあまり差はないのだが…トンネル掘ったり橋を架けたりという危険な作業が伴うなら別だが)という話にトマス家は浮き足立つ。そしてその臨時収入の使い方を巡ってバートとジョアンナが喧嘩を始め、フォーレスが横から口を挟んだために子供達は家の外に避難する。その時、フォーレスが「大人は何故亀を欲しがらないんだろう?」という疑問を口にし、アンがこの台詞でそれに応える。
 大人と子供の違いを的確に表現していて、アンのその洞察力に脱帽するほかない台詞だ。子供はまず目の前の幸せを追いかけるもので、それがフォーレスやエドワードが欲する「亀」であり、アンが行きたがっている「ピクニック」なのである。だが大人はそのためには「金」が掛かることを知っている、そして金があれば他の実用的な用途に使用しなければならないと言うことも知っているし、ギャンブルで増やせる可能性があることまで知っている。問題は「実用的な用途への使用」であって、これが何よりも優先するだけではなく、何を持って「実用的」と感じるかが人によって違うからこそ、大人の会話で金が絡むとたいへんなのだ。
 例えばバートの臨時収入を巡って、ジョアンナは生活費の足しにすることとバートの服代に充てたいと主張した。バートは自分の服よりもアンと子供達が喜ぶ使い方を考えた。ジョアンナは仕事のために外出が多いバートがまともな服を着用することは「家族の面目を保つ」という目的のため必要と主張したし、バートはいつも不自由させているアンと子供達を喜ばせることで家族の絆と連帯感を深めたいと考えていたかも知れない。このようにお金の使い方を巡る喧嘩だったのがいつの間にか相手の人格まで否定する発言にまで及ぶ、バートとジョアンナの夫婦喧嘩でよくある構図だし、自分自身もよくこんな経験したもんなぁ。
 これをあの年齢で見抜いているアンはやっぱ将来有望?
名場面 家族旅行 名場面度
 木登りして降りられなくなったフォーレスとエドワードを助け、その際に木から落下したことで力仕事など当分出来なくなってしまったバート。臨時収入が入るという話が絶たれてまた家が陰鬱な空気に空気に包まれ掛かるが、バートが立ち上がってジョアンナに弁当を作れと言い出す。何だろうと思うと、今から家族でピクニックをしようというのだ。目的は亀探し、亀が見つからなかったら泊まりがけだと息を揚げる。
 今回を見ていて、バートの子供達に対する愛情が見え隠れしていた。バートが臨時収入を競馬で増やそうと考えたのは、それが正攻法ではないとはいえ妻や子供達にいつも不自由な思いをさせているという悔しさがあったからこそだ。そして身体を張って木登りしたフォーレス達を助けたのも、息子達に対する愛がなければ出来ないだろう。バートは「カラスの巣の中にお金があるかも知れない」という考えで木に登ったという息子の悲惨な状況を見たからこそ、アンと子供達に楽しい記憶を残さねばならないと考えてこういう行動に出たのだろう。やっぱ一番家族思いなのはこいつだ、お金を増やすのに競馬しか思い付かない辺りは不器用と解釈すべきだ。
 このシーンをきっかけに物語は突然アウトドアな展開になる。馬車で海まで走るこのシーンは「こんにちはアン」という物語の記憶に残るシーンとなることだろう。
感想  「亀」「ピクニック」というふたつのキーワードに対し、どのようにオチをつけるかと思ったらああいう展開になるとは…最後に話が意外な方向へ飛んでいったので驚いた。
 学校での昼食シーンから教会のピクニックの話が出てきた時、誰がこの展開を予想したことだろう。バートが高収入のアルバイトを拾ってくる辺りまでは予想できたし、すったもんだの後でアンがピクニック参加を許されるであろう事も予測できた。じゃ後半はランドルフ達と楽しいピクニックだ!と思って見ていたら何か様子が変、ランドルフがアンに「カラスの巣にはお金がある場合がある」と話したことが後半への伏線だったとは…「前にカラスの巣でお金を見つけたことがある」と力説するランドルフに「お前はルーシーか?」なんてツッコミを入れてる場合じゃなかった。
 ま、本編の感想はそれくらいにして、毎度好例の企画に入ろう。
 もちろん、今回取り上げるのはバートがフォーレスとエドワードを抱いて木から墜落するシーンである。ちょっと計算が難しそうだが…。
 今回は2段階に落下している。まず木の枝にぶら下がっていたフォーレスとエドワードがバートのところまで落下するの1秒、二人を抱いたバートが地面まで落下するのに2.9秒掛かっていることが画面を見ると分かる。ここではフォーレスは5歳児の平均体重である19.0kg、エドワードは3歳児のそれである14.1kg、バートは体格から見て65.0kgと推測されるのでそれぞれその数値を入れて計算してみる。空気抵抗係数はスカイダイバーと同値の0.24だ。
 まず第一段目のフォーレスとエドワードがバートのところに落ちるまでであるが、落下距離4.85メートル、バートのところに到達し際の落下速度は34.5km/hである。うう、いきなり早い。問題はバートが二人を抱き止めたときに、二人の速度がどれほど落ちたかにかかりそうだ。ここでは画面描写とはかなり異なるが、バートが二人をしっかり抱き止めて落下速度が一度0になったと仮定したい(だって、画面描写通りで計算したら凄いことになったんだもん!)。
 3人の体重を足すと99.1kg、落下時間は2.9秒、空気抵抗係数0.24と仮定した場合に得られる落下速度は96.07km/h、落下距離は39.90m…「ポリアンナ物語」でチルトンが落ちた絶壁に匹敵する。ほぼ同じ高さから落ちたチルトンは瀕死の重傷でまもなく死亡、バートが子供二人の盾になったのなら確実に死んでる。
 ちなみに前述の通り、画面描写通りに計算すると落下距離が一気に70mオーバーするからね。これに勝てるのはダニーだけになってしまう。1話の落下シーンは現実的で感心したのに…まずあの小さなトマス家の庭にそんな巨木(フォーレスとエドワードが遭難したのは木の高さの2/3程度のところ、二段に及ぶ落下距離合計47.5メートルの1.3倍はある)があるようには見えなかったのだが。
(なお、バート落下シーンでは画面全体にスローモーションのような効果が掛けられていたことは追記しておきます)

第16話「もっと書物を!」
名台詞 「台本はあなたにお願いします。あなたは人を皮肉るのがこんなにお上手なんですもの。面白い芝居を書くのが誰よりも得意そうだわ。」
(ヘンダーソン)
名台詞度
 名場面シーンによって芝居を行うというアイデアに至ったヘンダーソンは、続けざまにエッグマンに脚本を依頼するのだが、その時の台詞がこれだ。
 実は「人を皮肉る」という行為はある程度の想像力がないと出来ない。その人物に対する批評を的確に行うだけでなく、その上で相手にどのように言ったら効くのか、周囲にどのように言ったら理解されるのかという点を考慮しながら言葉を選ぶ作業でもある。無論言葉を多く知っていないと皮肉は出来ないし、言葉だけでなく知識も必要だし、何よりも想像力豊かでないと的確な皮肉は出来ない。想像力が必要な理由は、その皮肉る相手に関してもそうだし、自分自身についてもそうだが100%事実だけを言っても皮肉としては伝わらない、そこにはどうしても脚色を加える必要があるのだ。それも嘘に聞こえない脚色を言えねばならない。この作業を短時間で行って人を皮肉する台詞を組み立てて行くのは、まさに芝居の脚本をするのと同じである。ヘンダーソンという人はその辺りをよく知っているからこそ、脚本はエッグマンが適任と考えたのだし、視聴者にもこのような台詞で皮肉が上手な人間が脚本をやればいい芝居ができると訴えるのだ。
名場面 エッグマンとヘンダーソン先生 名場面度
 ヘンダーソン先生はアンの勧めもあって学校の書棚の本をどうやって集めるかをエッグマンに相談してみる。本の有用性をエッグマンに説くヘンダーソンに、エッグマンは静かに「私はただのタマゴ売りです」「タマゴ売りは世の中の人に明かりを灯す情熱は持ち合わせていません」とした上で「あなたも教師ならもっと人を見る目を養うべきだ」と答えるのだ。無論こう言われたヘンダーソンは冷静でいられるわけがない、「アンがあまりにもあなたが頼りになると言うから」と全てをアンのせいだとして立ち去ろうとする(教師として最低じゃないのか?)。「私はきっと図書棚を作って見せます。あなたの力を頂かなくても…もう二度とここへは来ません」と吐き捨てて部屋から出て行くヘンダーソンだが、ヘンダーソンは出口と間違えて奥の部屋へ行こうとしてしまう。それを見て笑い出すエッグマン、顔を赤くするヘンダーソン。「いや失礼、愉快な芝居でも見ているようだった」とエッグマンが言うとさらに顔を赤くして腹を立てる、「見物料を差し上げたいところだが、あいにく持ち合わせがない」と淡々と語るエッグマンに、遂にヘンダーソンがキレる。「見物料ですって!?」とヘンダーソンが怒鳴り声を上げたところで、ひらめきが生まれる。生徒全員で芝居をやって、見物料として寄付を募ればいいと。
 さて、これは判断が難しいシーンであろう。何の判断に悩むかと言えば、エッグマンが「芝居をやって見物料を取ればいい」というアイデアを既に持っていて、これを自然な形でヘンダーソンに伝えようとしたのか、それとも単なる偶然の産物によるヘンダーソンのひらめきに過ぎないのかという判断である。私としては前者を支持したい、まずその方が展開としては面白いし、何よりもヘンダーソンが「ひらめき」をアンに語っている間エッグマンは特に驚いた表情をしていないことと、ヘンダーソンの話を聞き終えたエッグマンが「悪くないアイデアだ」と言うときのすました表情が根拠となりうる。だがここは視聴者各々の感性で決めた方が良いかもしれない、それだけ物語の解釈が増えると思われるのだ。
 私はエッグマンが相談された瞬間にこのアイデアを思い付いていたという解釈を取るが、それには問題点もある。まずエッグマンがどれほどヘンダーソンという人物を知っていたのか、という点。私の解釈だとヘンダーソンが間抜けな行動を取るという予測をエッグマンが的確にしていたことになるのだ。ヘンダーソンがそのような行動を取らない限りエッグマンはこのアイデアを伝えることが出来ない。この予測をするにはヘンダーソンがせっかちで猪突猛進形であるという性格を、エッグマンが前もって知っていたことになるのだ。アンから話を聞かされていたにしても、ヘンダーソンのそのような性格までは聞き出せていないだろう。過去に直接会ったときもほぼ無視していたし…つまりエッグマンとヘンダーソンの接点があまりにもなさ過ぎたのが問題になる。
 その問題を無視すればこんなに面白いシーンはない、ヘンダーソンの性格とエッグマンの性格が良く出ている。そして「ボケとツッコミ」という関係が出来上がってしまっているのだ。この二人のシーンをもっと見たいなと思わせるシーンである。
感想  よ、よかった。サディちゃん生きていたのね。ずっと描き忘れられていたから心配した。で、ぬこのノキンバーは?
 短時間にいろいろ詰め込んだ前半だった。多分この芝居絡みの話で今回と次回という2話構成なんだろうけど、ここは4話構成位でゆったり見せて欲しいと感じるところだ。まさかアンがヒロイン役を取ったところが物語が暗転するきっかけになるとは思わなかった。よく考えたらミルドレッドの親が市長という事情を考えれば、ミルドレッドがヒロイン役になれたかったところで物語が暗転するのは目に見えて良いのだが、その辺りをうまく忘れさせるようにここまで展開していたのだ。そう、ミルドレッドは単なる意地悪な少女でなく、市の有力者の娘であるのだ。その設定を忘れさせるという物語を展開した上で、この設定を今回は上手く使ったと思う。
 だが見どころはもう一つある、名場面・名台詞シーンもそうだが、もうひとつ挙げるとすればミルドレッドがヒロイン役をアンに奪われた事を両親に告白するシーンだ。それに対してミルドレッドの母は「芝居をぶっつぶす」と宣言するのだが、その時のミルドレッドの表情は明らかに「不本意」を示すものであった。つまりミルドレッドはヒロイン役が取れなくても芝居を楽しみにしていたのは確かで、これは恐らく次回へ向けての伏線になっていると考えられる。またこの少女がアンに対して心を開くのもこの辺りがきっかけになって行くのだろう。
 でも今回、ミルドレッドは相変わらずアンに対して敵意をむき出しにしていたが、取り巻きのジェシーとガートルード(ごめん、まだミルドレッドの取り巻き二人の名前覚えてない)は完全にアンに傾倒し始めている。ランドルフがアンを理解したからという理由もあろうが、これではミルドレッドがあんまりだ。
 しかしアンが芝居の台詞を全部覚えてしまったのはこれは才能なのだと思った。芝居の台詞を覚えるコツは簡単で「物語」を全部覚えてしまうことにある。自分の台詞だけ覚えようとしてもまず全部覚えられないのだ。これは小学生の頃、学芸会で主役を取ったときの体験によるもの。私自身も学芸会で主役取ったときに芝居の面白さというものは身をもって経験した、だからここで芝居に夢中になる少年少女達の気持ちはよく分かる。

第17話「私たちの舞台」
名台詞 「私を裏切り者だなんて呼ばせないわ!」
(ミルドレッド)
名台詞度
 ミルドレッドの父である市長の命により芝居は中止、ヘンダーソンは謹慎処分となってしまうが、教え子達の熱は冷めていなかった。自分達の力で自分達の本を得る…これを教えてくれた先生は間違っていないと立ち上がり、街の人々が集まる市長主催の集会に乗り込んで芝居を決行しようと決める。ところが現場まで行くと流石に怖くなってアンも含めた子供達の足は止まってしまう、主役のランドルフが何とか皆を鼓舞しようとするが皆の迷いは吹っ切れない。そこへこの「熱」の中に一人飛び込めずにいたミルドレッドが駆けてくる、ミルドレッドはたった一言こう言い放って集会場のステージに飛び込むのだ。
 この台詞に今回のミルドレッドの思いが全て込められている。市長とその夫人…つまりミルドレッドの両親の圧力によって中止させられた芝居と、やめさせられそうな先生。その上、生徒の一部はその引き金を引いたのがミルドレッドではないかと疑い裏切り者扱いを受けることになる。ミルドレッドは確かにアンを贔屓しているように見えるヘンダーソン先生が嫌いではあるが、その先生が他の生徒達からどれだけ人気があるかと言うことをこの件を通じて思い知り、このままでは自分が裏切り者扱いされて除け者にされるピンチに陥っていると気付いたのだ。そしてヒロイン役が取れなかったとはいえこの芝居については前向きだったはずで、気に入らなかったのは「アンにヒロイン役を持って行かれた」という点だけであった。なのに自分の不用意な一言でその芝居が中止という不本意な方向へ行ってしまい、自分がそれを「不本意」と感じている事が誰にも伝わらずにやはりその点でも裏切り者扱いされても仕方がない事で苦しんでいたのは確かだ。
 その彼女は物語の裏側でどうやって自分が汚名を返上するかで悩んでいたはずだ。その過程でヘンダーソン先生に自分の不満点をぶちまけ、それで先生は決してそんな気持ちではないことを知った…ならばもう戸惑うことはない。手段はひとつ、仲間達がやろうとしていることに対して背中を押すことだけが自分の汚名を晴らす唯一のチャンスだと考えたのだ。本当に舞台に上がっていいのかと悩む仲間達の先頭に立つことで、彼女は見事に汚名を晴らしたのだ。この「皆の背中を押して自分の汚名を晴らす」という思いの全てが、この短い台詞に込められていたのだ。
(次点)「なぜ黙ってるのよ? 私の味方をしなさいよ!」(ミルドレッド)
…学校の仲間達から裏切り者の誹りを受けたとき、取り巻き二人にこう怒鳴る。なんかどっかで見たような構図だなー、アメリカの石油王の一人娘の…(以下略)。
名場面 私たちの舞台 名場面度
 名台詞欄のシーンを受けて、ミルドレッドは集会場の舞台に駆け上がる。そして仲間達をここに引きずり上げるべくひと演説ぶちまけるのだが、その事実がかえってランドルフはじめ子供達を震えさせてしまう。まだまだ悩んでいる仲間達に業を煮やし「さあ始まりです!」と絶叫するミルドレッドに応え、最初にアンが駆け出すと、ランドルフがこれに続き、ついには全員が舞台に駆け上がる。
 大人達からの罵声を浴びるとまた縮こまってしまう子供達だが、そこへヘンダーソンとエッグマンが駆けつける。エッグマンが大袈裟に頷くと、他の生徒がやるはずだった最初の台詞をアンが語りはじめ、芝居が始まる。子供達の演技は(アンとランドルフ以外)台詞も棒読みではあったものの、その熱演は観客席にいる大人達に見事に伝わった。市長夫妻が会場に現れ、状況を知るとヘンダーソンにやめさせるように告げるがアンがすかさず「これは自分達がやったこと」だと観客席に訴える。「もっと本が欲しい」とアンが続けて訴えれば、皆がこれに続く。そしてヘンダーソンが少ない給料から自分達に本を買ってくれていたという実情が伝えられると、観客席の大人達はそれを笑う。それでも「先生は僕たちのことを一番に考えてくれていた」と訴えると、あのランドルフの父が立ち上がって「ヘンダーソン先生の言うことは間違ってない」と演説を始める。すると大人達はランドルフの父の言葉に共感し、本代を寄付してもいいだろうと口々に語り出す。そこへすかさずエッグマンが「そう思うならここへ!」と帽子を差し出すと、帽子の中に見る見るコインが貯まってゆき…最後にはこれを見た市長が帽子にお札を入れることになり、ヘンダーソンの謹慎も解かれる。子供達がヘンダーソンのところへ駆け寄り、ヘンダーソンが号泣してこのシーンは終わる。
 劇中劇であるお芝居もそうだが、子供達が一致団結して大人達と戦い、それで勝利を勝ち取るいう意味でも感動的なシーンであろう。流石に大人達に真っ向から勝負を挑むと言うことに恐怖を感じるが、子供達から裏切り者の誹りを受けたミルドレッドが切り込み隊長になり、「失ってはならないもの」を取り戻した。この体験はこの物語を見たテレビの前の子供達に何も与えないわけがないと私は感じるのだ。
 ここで失ってはならないもの…ひとつは「自分達を正しい方向へ導こうとしている師」としてのヘンダーソンである。子供達は大人というものが様々な利害関係のために正しい方向へ真っ直ぐに自分を引っ張っていってくれないと知っている。だがヘンダーソンはそのしがらみを全て捨てていることに子供達は気付いていた、それは先生が生活費を削ってても自分達に本を与えてくれるという行為を伴った愛情によるものだ。
 そしてさらに、ここで子供達が失いたくなかったものは「自分達のものを自分達の力で手に入れる」という共通目標だ。大人達は社会にあるしがらみや利害関係でこの子供達にとって大切な事を踏みにじろうとしていたのである。子供達が自らその行為の重大さに気付き、自分達で何とかしようと立ち上がったシーンであるのだ。これでこの子供達が大きく成長するのは間違いないことだろう。
 これらの論理がテレビを見ていた子供達に伝わっているか…それはこれから私の娘を見て判断するしかないなぁ。いずれにしろこのシーンは、子供達にとって大事なことを訴えているようで、多くの子供達に見てもらいたいシーンだと私は思う。
感想  いい話だった〜、最後のシーンでヘンダーソンと一緒に泣ける。劇中における子供達のパワーといったものに感動した。それだけじゃない、今回の話は市長夫人以外はみんないい奴だった。ミルドレッドも、その取り巻き二人も、ランドルフの親父も、市長も…。
 今回の主役を誰と見るかで物語に対する感想も変わってくるだろうが、今回は色んな人を主役として何回か見直すと面白いかも知れない。アンを主役としてみてみるのは普通だろうから、二度目はヘンダーソンを主役にしてみてみるとか、エッグマンを主役として見てみるとか、ランドルフでもミルドレッドでも、挙げ句は市長や夫人を主役に置いて物語を鑑賞してみるのもいいだろう。今回の物語はアンも主役だが、色んな人を主役として見直すことができる面白い物語でもあるのだ。
 かく言う私は、初回視聴で既にアンではなくミルドレッドを主役に置いて物語を見てみた。前回感想欄の中段部分に従ってのことであるが、これは成功のようでミルドレッドの気持ちの変化からそれに伴う行動を理解し、彼女の気持ちに立ち入って見ることが出来たのだ。この物語では上述した登場人物に、どんな些細な行動でもそのキャラクターの性格と行動理由や目的というものがちゃんと込められていて、ここまでなら当然だがそのひとつひとつが一つの結論に向かう「流れ」に沿っているのだから恐れ入る。どんな物語でも一人二人は見受けられる「行き当たりばったりで出てきたキャラ」というのが存在しないのだ。その上でアンの主役としての役割が薄められているのだから見ていて本当に面白いし、何度見ても楽しめると思う。
 さて、このサイトをご覧になった皆さん。この物語を次は誰を主役に置いて見てみますか?

第18話「恋のゆくえ」
名台詞 「大人の涙って、ハリーやエドワードの涙とは違うのね。本当に悲しいときだけこぼれるんだわ。先生はエッグマンに嫌われちゃったのかしら…」
(アン)
名台詞度
 ヘンダーソンの想いとエッグマンの過去が衝突し、その結果はエッグマンが素直にヘンダーソンの気持ちを受け止めることが出来ずに二人が喧嘩別れしてしまうということであった。ヘンダーソンはエッグマンの家を飛び出し、野原で一人で泣いていたところをアンに見つけられたところまでは気丈に振る舞ったが、ついにはアンを抱きしめて涙する。
 夜になってアンがトマス家の家事をしながらこの件を思い出し、呟いた独り言がこの台詞だ。アンは普通の子供以上に大人の涙を見て来ていたはずだ、同時に子供の前では涙を隠そうとする大人の姿をも見てきている。大人は子供のように助けて欲しいから泣くのではない、本当に悲しくてどうしようもないときに涙を流すという事をアンは頭の中では理解していたはずだ。だがヘンダーソンの失恋に触れるにつけ、悲しくてどうしようもないことがお金や仕事が無いという絶望だけから生まれるのでなく、失恋という悲しい出来事からも生まれることをアンは理解したのである。
 トマス家で子守をしているアンにとっては、泣いている人を泣き止ませなければならないという義務感があったのだろう。アンがこの台詞を吐いていると言う事実はそのまま「アンは解決方法を探している」という事になる。そしてアンはバートとジョアンナの何気ない言い争いから解決方法を見いだすのだ。
名場面 学校の前で 名場面度
 アンはエッグマンとヘンダーソンに仲直りしてもらいたいという一心で、ヘンダーソンの名を騙った手紙をエッグマンの家に置いて行く。そして逃げるように学校へと走って行くのだが、エッグマンはそんなアンの事をお見通しであった。だがその手紙にある内容に感動したのと、アンが自分がヘンダーソンに言いすぎてしまったことを取り戻す機会をくれたことに気付き、エッグマンは学校へと向かう。
 学校の前に一人腰掛けて待つアンは、エッグマンを見つけて駆け出す。「先生の手紙を読んできたのね!」と感激するアンに落ち着いてツッコミを入れることを忘れないエッグマンは好きだ。エッグマンはアンに伝言を頼む、「先生が作ったケーキは真心の隠し味がとても効いていた、出来れば3人でパーティをやり直したい」と…「どうしてそれを私に言って下さらないのですす?」とすぐに背後から声が飛んでくる。もちろんヘンダーソンだ。「あなたは酷い人だわ」とヘンダーソンが言えば「酷いのはあなたの方だ」とエッグマンは返す。ヘンダーソンが驚くのも構わずエッグマンはあくまでも論理的に勧める、ヘンダーソンがエッグマンを怒らせた理由として、お節介だったこと、容赦なく自分のプライドを傷つけたこと、そしてそれらの言葉が全て正しいことだったとヘンダーソンに説くのだ。その上で自分は殻に閉じこもることでプライドを守ってきたとし、弱い心を理屈で塗り固めて雪穴に閉じこもり続けてきた事を認めた上で、「今雪が解けるときが来た」と宣言する。そして「私は思いも付かない贈り物を天から授かった」と言うと、ヘンダーソンとアンが自分達二人のことと笑い合う。これに合わせてエッグマンも笑う。
 エッグマンがやっとアンとヘンダーソンに心を開いたシーンである。今までの彼は二人とふれあう中においても何処かに「一線」を強いていたのは否めない。今回の劇中で語られた過去により、彼はそうやって全ての人に対して警戒することで生きていたのだ。だがその警戒網をもろともせず、エッグマンの心の中に入り込んできたのがアンとヘンダーソンだったわけだ。二人は汚れを知らぬ純粋な気持ちでエッグマンに接し、彼の心を少しずつ解きほぐしていたのである。そしてヘンダーソンがエッグマンの過去を知り、それでもアンと共に自分を正しい道に引きずり出そうとしたことによってエッグマンは初めて「信用できる人間」と出会えたと感じたのであろう。心を開くきっかけはアンの暴走とも取れる行為だったが。
感想  エッグマンの過去が明らかになるという点で楽しみな話だった。彼がどこから来たのか、何で卵を売ってるのか、以前出てきたエッグマンが描いた女性は何者なのか、なんで隠れるように住んでいるのか…その全部が意外にあっけなく解決してしまい、エッグマンは謎の人物から「家から捨てられてきた男」という立場に変貌した。
 このエッグマンの正体が判明する過程で、以前アンが見つけてエッグマンが慌てて隠した女性の絵という伏線は上手に回収されたと思う。それはエッグマンが忘れようとしている過去そのものであり、エッグマンが持つ未練そのものであった。だがエッグマンから見ればヘンダーソンと関わっているうちにその絵の存在を忘れつつあったと言うことは、彼の中から消えていたのは後者の「未練」の方であろう。ヘンダーソンが乗り込んできた段階ではもう未練などはなく、彼もヘンダーソンに過去を語るときにそれを口にしていないことから簡単に理解できる。その上でエッグマンは過去に縛られすぎた、だからヘンダーソンと言い争いになった。
 過去に縛られると言うことはある意味人間として仕方がない、だけどそれをどう昇華するかが問題だと今回の物語は訴えているように感じる。ヘンダーソンの言う周囲にある幸せを認めてそれを受け入れて生きて行くというのも立派な答えのひとつだ。だからエッグマンは決して不幸ではなかった、幸せだったのだが本人がそれを受け入れなければ真の幸せは得られないと物語が訴えているように感じた。

第19話「悲しいお茶会」
名台詞 「ねぇアン、お願いがあるの。私…今まで誰とも手を繋いだことがないの。だから…」
(ミルドレッド)
名台詞度
 も、萌え〜。
 ミルドレッドは好みのタイプの女の子じゃないけどね。この台詞を頬を赤らめた顔で言われたら…
名場面 ミルドレッドの帰宅 名場面度
 アンとミルドレッドが遂に和解をし、ヘンダーソン先生の馬車で家に送られる。だがミルドレッドは家が近付くにつれてだんだん不安な表情になる。勝手に家のお茶会を抜け出し、母の顔に泥を塗り、付き合いを禁じられているアンと遊びに行ったなどとなればあの母が許すはずがないと感じていたのだ。「大丈夫?」と声を掛けるヘンダーソンに「きっと凄く怒られるわ」と素直に答え、その不安を暴露するのだ。
 アンに「魔法のどんぐり」を手渡されてミルドレッドが家に入ると、その恐れていた母にいきなり声を掛けられる。叱られると思ったミルドレットは少し怯えた声で「お母様…」と応えるが、母は素っ気なく「帰ってきてたのね」と言うだけだった。拍子抜けして「怒らないの?」と問うミルドレッドに、母は「え、なに?」と返答しただけで主婦仲間(?)のところへ歩き去ってしまう。この展開にミルドレットは立ち尽くし、「魔法のどんぐり」を見つめた後、泣き出す。
 今回の物語の「オチ」の部分だ。一言で言ってしまえば何も解決していないのである。アンと和解することで学校での孤立状態から免れることをほぼ確実にしたミルドレッドは、孤独であることからは救われることにはなるだろう。だが誰からも「愛されていない」という最大の問題は解決していないのだ。
 ミルドレッドがヘンダーソンに言った「(母に)凄く怒られるわ」というのは彼女が将来を予測したものではない、実はミルドレッドの願望を示しているのだ。母が自分に関心を持ち、本当に自分への愛から「アンとの付き合い」を禁止しているのであれば、自分を叱るはずなのだ。だからこそミルドレッドは母に反抗して「アンは良い子だと訴える」という今回の中盤で取った手法で反抗するのだ。ところが母が示した態度は「無関心」、つまり母は娘が大事な(はずの)茶会を飛び出してアンに会いに行ったという事はどうでも良く、娘がいなくても茶会を無事に終わらせることしか頭になかったのだ。
 ここでミルドレッドも視聴者も思い知る、本当に「愛に飢えている」のは誰であるかを。アンはそんな状況でも持ち前の明るさと空想力でそれを乗り越える力があるが、ミルドレッドは…と誰もが感じてしまうのだ。このミルドレッドの不幸はどうなるのか、主役でないからこの続きが語られる可能性は低いが「魔法のどんぐり」の力で乗り越えられることを祈るより他はあるまい。
感想  だから、彼女の名は「ミルドレッド」なのか「ミルドレット」なのかハッキリしてくれ〜。当サイトでは今回の更新から「ミルドレッド」に表記を統一したが、やっぱ何度聞いても出演キャラたちは彼女を「ミルドレット」と呼んでいるので混乱する。あ、ナレーターのメーテルはハッキリ「ミルドレッド」と呼んでいるのは感心だ。
 今回の「悲しいお茶会」が劇中に出てきた3つのお茶会のうちどれに相当しているかでこの物語の見方は変わってくるだろう。不本意にアンの話題を持ち出され全員を追い返すことになってしまったミルドレッド主催のお茶会か、主催者がミルドレッドの事が気になってついつい悲しい表情をしてしまっているうちに雨でお開きになってしまったアン主催のお茶会か、主催者がまるで物のように娘を見せびらかす席とかしてしまった上に母の娘に対する無関心を暴露する場と化してしまったミルドレッド母主催のお茶会か、である。私はミルドレッド母主催のお茶会を指して「悲しいお茶会」というサブタイトルが付いたのだと理解している。この回もミルドレッドの心境変化が中心に描かれており、その心境がミルドレッドの悲しみの方向へ転換するのお茶会は全てこの母主催のお茶会だからだ。
 ミルドレッドは強気かつ打たれ弱いという複雑な性格をしている。以前、ミルドレッドが話の中心に出てきた17話では彼女の気の強さの方が前面に出ていた。だが今回は彼女の弱い部分をさらけ出すことに成功していると思う。なんかミルドレッドの回になると主役が誰なのか分からない展開になるぞ、この話は。
 今回はアンがヒーロー的に描かれているのがちょっといただけない、あんなアンに感情移入はちょっとできないな〜。主役だから花を持たせなきゃならないのは理解するが、こうも後味が悪く印象に残らない描かれ方をされるとアンが可愛そうだ。特にアンがミルドレッドに想像を語るシーンで、背景が「キックオフ」しちゃっている(さすがにハートじゃなくてシャボン玉だったが…覚えている人いる?)のは正直引いた。ま、そんなアンはまだ今回が初めてだからいいけど、ちょっと主役と脇役のバランスという物を考えて欲しい。こういう感想欄にミルドレッドの話題以外書くことがない状況ってやっぱおかしい。

第20話「危険な罠」
名台詞 「そんなうまい話ある訳ないじゃないの。あんたはいつだって面白おかしいことを探しているのよ。面白おかしい事なんて、人生の何処にもありゃしないのに、いつになったら気がつくの?」
(ジョアンナ)
名台詞度
 今回のバートの行動について、視聴者の誰もが「嫌なや予感」を感じ取っていたことだろう。バートに接近してきたジェフリーという男がとてつもなく胡散臭い男であることも、視聴者の誰もが感じ取っていたことだろう。ジェフリーの言うことを真に受け、彼と共に紅茶の仲買の会社を興せば収入が現在の3倍にも5倍にもなる…そううそぶくバートに「この話はおかしい」とツッコミを入れられるのは登場人物だけだ。視聴者が「誰かバートを止めろ〜」と感じる頃合いを見計らって、やっとジョアンナがバートに怒鳴りつけるようにこう言って忠告するのだ。
 そう、バートが言うジェフリーの話は確かに出来過ぎなのだ。ジョアンナの立場でなく視聴者の立場ならもうジェフリーという男がどれだけ胡散臭いかビジュアルで見ているのでその感は強いだろう。そんなうまい話わそこいらから簡単に拾えるなら、バートはとっくの昔に金持ちになってアンや子供たちはあんな苦しい生活をしなくて済んだはずという簡単な論理すら、バートの頭から消えてしまっている。この台詞から伺えることはバートという男が冷静な判断力を失ってしまったこと…バートをそうさせたのは他でもないジェフリーで、ジェフリーが自分の仕事のためバートを騙すために金をちらつかせるという方法でもって、文字通り金を掛けてバートの冷静な判断力を失わせたのだ。バートがどれだけ冷静でなくなってしまっているかは、この台詞に対して「余計な心配するな」と返答している事で分かるだろう。
 またジョアンナの苦しみもこの台詞には隠れている。ジョアンナは自分の人生の中で本当に面白おかしいことを発見できずにいたのだろう。そんな彼女の悲しい人生までこの台詞から読み取り事が出来るのである。
(次点)「私もだ。」(エッグマン)
…エッグマン、カッコイイぜ!
名場面 エッグマンとヘンダーソンの婚約成立 名場面度
 久々にこんなアツい恋愛物語みたなー。
 チューしろ、チュー。
 「キックオフ」(前話感想欄参照)すべきシーンはこっちじゃないのか?
感想  物語はふたつに分かれた。一つは前半を中心にエッグマンとヘンダーソンの物語に決着を付ける展開。ヘンダーソンが街から消えるとなればエッグマンとの関係に決着を付けるというのは避けられない事であろう。告白するのを躊躇っている二人に対し、アンが暴走することで決着を付けるというのは予想通りでベタな展開だが、アンを主人公として持ち上げるならば他に考えられない展開でもあろう。
 そしてもう一つの展開が今回の本筋、いや「こんにちはアン」という物語自体の本筋になるのだろう。次の新展開…つまりメアリズビル編の次の展開へ向けて物語が急激に動きだすのである。「赤毛のアン」で語られたアンの生い立ちから想定すると、ここいらでアンはトマス一家と別れて新しい里親の元(ミニーメイが喉頭炎に罹った際にアンが語った「双子が三組いる家」)へ行く展開が用意されているのだと私は考えていた。よく考えれば全39話中20話、すでに話数で半分を消化したのであって、いよいよ後半の新しい展開に入らないと物語が収まり切らなくなる頃なのだ。「ポリアンナ物語」のように明確に第一部・第二部と分けるかどうかは分からないが、舞台となる街が変わるのはもちろん、アン以外の登場人物が総入れ替えになるほどの物語の展開があるはずなのだ(私はテーマ曲も変わるんじゃないかと思っているのだが)。
 それに必要な展開…まずはバートの身に何かか起きて死ぬ、または死んだことにされる事件が発生し、これによってトマス家が一家離散の憂き目に遭う展開はどうしても必要なのだ(「赤毛のアン」ではバートは死んだとされているが必ずしも死ぬ必要はない)。それは今回描かれた「バートが騙されて窃盗団に手を貸してしまう」という事件として描かれた。この事件からどう物語が転がるのかは次回に持ち越されたが。
 いずれにしろこれからどんな展開でアンが「双子が三組」の家へ引き取られるのか、しばらくは目が離せない物語が続くことだろう。
 ところでエッグマンやヘンダーソンは今回、サディやランドルフやミルドレッドといったメアリズビルの仲間達は前回で全員退場だったのだろうか? アンが街を離れるときに別れのシーンとしてもう一度出てきそうな気はするけどなー。

前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ