前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ

第48話「助けて! ジェミー」
名台詞 「ジェミー、何を拗ねてんのよ、二人の言う通りじゃない。私たちちゃんと手伝ったでしょ? 役に立ってるわ。それにジェミー、私たちがさっさとポリアンナを助けちゃってたら、ジミーはきっとがっかりしてるわ。だってあの二人は仲良しなんですもの。ポリアンナを助けるのはジミーの役目よ。それを邪魔したら悪いじゃない、そうでしょ? よかったのよね? ジミー。」
(サディ)
名台詞度
 まさかサディがまた名台詞欄に出てくるとは思わなかった。
 丸太橋から落ちそうになったポリアンナを、間一髪でジミーが助ける。ジミーがポリアンナを見事助けると、ポリアンナはジミーに抱きついて喜びを表現し、サディもそれを見て笑顔を見せる。ところがジェミーだけは泣き出してやがて呟く、「僕が…僕が側にいたのに…何にも…何にも出来なかったんだ! 僕はポリアンナによかったをいっぱいもらったのに、役に立たないでみすみす危ない目に遭わせちゃったんだ」…最後は絶叫になりあまりの悔しさに拳で地を叩くジェミー。ポリアンナは「私を励ましてくれた」と、ジミーは「ちゃんと命綱を持っててくれた」としてジェミーをなだめようとするが、ジェミーは「そんな気休め言わないでいいよ!」ともう一度拳で地を叩く。そんなジェミーの元にサディは腰を下ろしてこの台詞を吐くのだ。
 ジェミーはポリアンナの危機に自分が何一つ役に立たなかった事を大変悔しがっている様子が強く描かれているが、実はこの悔しさを持っているのはジェミーだけでなくサディも同じであると言うこと。その悔しさをサディなりに受け止め、彼女は目の前で起きた出来事をどのように解釈すればその悔しさを紛らわす事ができるかを瞬時に考え、その通りに実行したのである。それが僅かなことではあるがポリアンナのピンチに対しては声を掛けてポリアンナに力を与えたと考えたこと、ジミーの救出活動に対しては命綱を持つことでそれに寄与したと考えたこと、そして何よりもポリアンナにとっての「白馬の王子」はジミーであるからポリアンナを助けるべき人物はジミーをおいて他にはいないと考えたことである。
 ところがジェミーはそのように事態を解釈することは出来なかった。ジェミーは足が悪くてもやはり男であり、ポリアンナを助けるのは自分であるという自覚があったのだろう。そうやって悔しがるジェミーに対し、サディは自分と同じ解釈を持って納得するしかないという意味でこの台詞を吐いたに違いないのだ。この台詞も私が今回の感想欄で指摘した点のひとつであると考えてもらっていいだろう。
名場面 ジミーがポリアンナを助ける 名場面度
 かっこいいぜ、ジミー。
今回の
「よかった」
 4回。物語後半でペンデルトンがいきなりドアップで出てきて「よかった」と言ったときは何が起きたのかと思った。。 「よかった」の回数
感想  この物語、ポリアンナにジミー、それにジェミーにサディの設定年齢を十代半ば〜後半…つまり若草の4姉妹の上二人くらいの年齢にしてラブコメにしたらすごく面白いと思う。いや、本当はそういう話なんじゃない?の思った。少年少女が4人で遊んでいるように見えるが、ハッキリと「ポリアンナとジミー」「ジェミーとサディ」というカップルが出来上がっていて、それを前提に4人が会話をしているし、展開もそうなっているじゃないか。「パレアナの青春」という原作タイトルからしてもそんな気がしてきた。まだ「少女パレアナ」(娘は「しあわせポリアンナ」という児童向けの本を読んだと言うが)も「パレアナの青春」も読んでいないのでどのように設定が変わっているのかは分からないが、この第二部以降の展開はどうにもポリアンナやジェミーを初めとする登場人物の年齢がもう少し高くないと不自然なシーンが散見される。今回のこの4人で遊ぶシーンの中で、4人の動きや会話にはそんな部分が本当に多かった。
 そのサディだが、性格がだんだんエイミー化してる。確かにバタコさんにはこういう役の方がよく似合うと私は思う、今年のドラえもんの映画「新のび太の宇宙開拓史」におけるチャーミー役ははまり役だったし。ああいうタイプの娘は、リアルな世界でも一人いると面白いね。昨年度まで学童クラブの保護者会役員なんてやってたけど、子供達が遊んでいるのをみて本当にそう思った。この4人の遊ぶシーンでもその通りになっていたと思う。

第49話「解きあかされた過去」
名台詞 「いや、私はそうとは限らないと思うよ。例えばだな、お前がジェミー・ケントだとすれば、エドワード・ケント氏はカリウ夫人に見つけ出されてお前を奪われることを、極端に恐れていただろうからな。しかし、父親にしてみれば、愛する息子を連れ去られるのは、身を切られる以上に辛いことだから。どちらにしても、それを開けばお前の身元は明らかになるだろう。そうすれば、ポリアンナとカリウ夫人の悩みが薄らぐことだけは確かだ。そうでなければ二人とも、いや多分、私たちも真綿で首を絞められるような、辛い不安な思いから逃れることはできんだろうよ。いつハリーがここを突き止めるかわからんのだからな。」
(ペンデルトン)
名台詞度
★★★★★
 私は断言する、「愛少女 ポリアンナ物語」最高の名台詞だ。残り2話を視聴してもこれ以上の台詞が出てくるとは思えない。もしこれ以上の台詞があるならば、それは「フランダースの犬」ネロ昇天シーン並に何度も何度もスペシャル番組とかで流されるレベルの名台詞になっていることだろう。一昨年の「小公女セーラ」との再会によって一部の「世界名作劇場」シリーズを再視聴したが、今の私の立場や精神状況で聞くとこれほどの名台詞…これほど泣かされた台詞、これほど身につまされた台詞、これほど台詞を吐いたキャラクターに感情移入した台詞…はないと完全に言い切ってしまえる。
 ペンデルトンの養子とはいえ父親としての気持ちを示し、さらに場合によっては目の前にいる「息子」が姿を消してしまうかも知れないという恐れがしっかりとこの台詞の中に描かれている。この直前までネタキャラだったペンデルトンが、この台詞で私を泣かせた。いや、泣いたよ本当に、涙で画面が見えなくなった。この後のシーンこそが本当の名場面かも知れないが、私にとってはそれどころじゃなかった。この台詞を聞いて、全国の「子供を一方的な論理で奪われた父親」が涙したと思う。いや、もう私にとって「ポリアンナ物語」はペンデルトンの物語になってしまった。
 解説しろったって、この台詞の凄みはこのペンデルトンがここで味わっている恐怖を体験した人間にしか分からない。ここに何百文字、いや何千文字をかけて説明しても私は無理。この台詞の凄みが分かる人は、この台詞を聞いただけで泣いただろう。それほどの強烈な台詞だ。
 もうこの台詞が聞けただけで、「ポリアンナ物語」をこのタイミングで視聴できてよかったと思っている。ありがとう! NHK! ちゃんとまじめに受信料払っててよかった!
名場面 封筒を開ける 名場面度
 上記名台詞が良すぎて何が何だか訳が分からなくなったが、気を取り直して続けよう。この欄を書くに当たって、数十分おいてから上記名台詞シーン以降のシーンをもう一度見直した。
 ジミーは名台詞欄の台詞に対し、この封筒を開けて自分の素性を確かめるようにペンデルトンに言う。何が書いてあるかは分からない。しかし何が書いてあろうがペンデルトンという父親がいれば大丈夫だとするのだ。そして静かに腰を下ろしてついに封を切るペンデルトン、飛び出してきた手紙を読んでショックが走る。その手紙にはジミーが間違いなくカリウの甥、ジェミー・ケントであることが書かれていたのだ。その場に居合わせたポリアンナやパレー、そしてジミーもその内容に衝撃を受ける。それだけではない、エドワードが妻方の親類にジェミーを奪われることを極端に恐れていたことも明記されていたのだ。ジミーはカリウが自分を見て見覚えがあると言い切った事を納得し、自分もカリウといると懐かしい気持ちになることがあったと告白する。ジェミーの笑顔が脳裏を過ぎるポリアンナを脇に置いて、ペンデルトンは笑顔で「よかったなジミー、身内が見つかって…おめでとう」と声を掛ける。「さあ、カリウ夫人を早く喜ばせてあげよう」「でもそれじゃ父さんが…」「私のことならいいんだ、お前とカリウさんが幸せになってくれるなら、私は…」いいねぇ、ペンデルトンカコイイ。
 このシーンにジミーとペンデルトンの信頼関係がきっちりと描かれていると私は思う。何があろうとペンデルトンがいれば大丈夫だと語るジミーもだが、ペンデルトンはジミーを信じているからこそこの封筒の封を切ることが出来たのだ。何が起きてもジミーはジミー、ペンデルトンはそう思い、また短期間とはいえ本当の父親のようにジミーに注いだ愛情が無駄にならないと信じていたのだ。ペンデルトンはジミーがカリウの甥だと分かっても、簡単に家を出て行くわけがないという確信もどこかに抱いていたに違いないのだ。
今回の
「よかった」
 今回は2回、この展開で「よかった」連発したら「空気読め」と言うぞ。何よりも名場面欄参照のペンデルトンが語った「よかった」。自分が「息子」を失うかも知れないという事態が目の前で起きているのに、息子にとっての「よかった」ならばそれをちゃんと祝う「男」の姿が描かれた。この回で私にとって「ペンデルトン」という人物の株が当初は予想し得なかった以上に上がった。 「よかった」の回数
感想  もうペンデルトンの名台詞に尽きる回だと言っても過言ではない。その辺りについてはしっかりと名台詞欄や名場面欄で語ったので、ここではその他の点を…感想欄を書くのに少し時間をおいてからもう一度録画を見直した。
 そのもうひとつ考察すべき点というのは、今回のポリアンナの苦悩だろう。ジミー=ジェミーという公式がどのようにしてハッキリするのか、という点は先に答えが出ている以上終盤での最大の見所であっただろう。カリウが「ジミーを他人とは思えない」と力説させることで、ポリアンナをジミーについて問いただすという手段は予想通りだったが、ポリアンナは「そんなはずはない」と一笑に付しながらカリウが求めていた「手がかり」を語ってしまうのだ。これによりカリウとデラが「間違いなくジミーがジェミーだ」と盛り上がるとともに、どうやって証拠を挙げるかという方向に会話が進む。ところがポリアンナは「証拠」が存在する事まで思い出してしまうのだ。同時に「本当のジェミーが見つかったらカーヤのところへ帰る」とジェミーが決断していることを思い出し、カリウとジェミーの板挟みになってポリアンナは苦悩する。ポリアンナはひとつの「よかった」が別の「よかった」を奪ってしまうという困難にぶち当たってしまうのだ。
 ポリアンナはパレーに相談する、パレーもポリアンナの苦悩を知ると自分も一緒になって苦悩するのだ。ポリアンナは自分が手がかりを語ってしまったことについても責任感を感じていただろう。だから事実が判明したときに「待ってあげて!」と叫ぶしかなかった。ポリアンナがどう懇願しようが、これまで自分が天涯孤独だと思っていた自分に身寄りがあって、しかもそれが今すぐ側にいると知ったジミーにとって「待ってあげられる」話ではないし、ジェミーとの友情を考えれば「待ってあげたい」気持ちとの板挟みになっているだろう。だからジミーには考える時間が必要なのだ。こうしてジミー=ジェミーという事実に、ポリアンナの苦悩は消え去るどころか深くなってしまった。この解決は次回以降と。
 パレーが取った手段は、とにかくジミーの元にあるその「書類」を確認して事実を確認することであった。実はパレーという人はその「書類」の中身を確認して、事実がどっちに転んだとしても実はその後のことを何も考えてなかった可能性が高い。ジミーがジェミーで無ければ、ポリアンナの苦悩が消えておめでたい話なのでそれを願っていた節がある。この鉄郎、責任感が強いのか弱いのかサッパリわからん。
 残り2話、みんなが幸せになるには 1.ジミー=ジェミーという事実をハッキリさせる(ポリアンナとカリウとパレーが幸せになれる) 2.その上でジミーはカリウの元へ行かない(ポリアンナとジェミーとペンデルトンが幸せになれる) 3.1と2を両立させるための条件が提示される(2についてカリウが納得しジェミーとの暮らしを続ける口実にする) 4.1〜3の全てがポリアンナの力によって実現する(ポリアンナ主役の物語として丸く収める) 5.チルトンが生き返る、またはその死が無かったことになる(こうなってしまうと死ぬ理由に乏しい) と言った辺りだろう。5は冗談なので除外するが、どのようにしてこの物語を解決させるのか、とにかく残りの2話に注目だ。

…ぬををををををを! ポリアンナの次はセーラかよ>NHKの再放送。

第50話「ボクがジェミーだ!」
名台詞 「お姉様、ポリアンナとジミーの言う通りよ。それがみんなにとって一番いい方法だわ。ジェミー・ケントは、ジミー・ペンデルトンとして、幸せに暮らしているんですもの。」
(デラ)
名台詞度
 後半のジミーの正体をカリウに告白すると同時に、ジミーの決断をもカリウに告げるという重大なシーンにおいて、一番美味しいところを持って行ったのはデラのこの台詞だと思う。ジミーがなぜペンデルトンの元から離れられないのか? と問えばそれはジミーが幸せな生活を送っているからである。その論理や「幸せ」という言葉を出さずに話が進んでいる以上、誰かがカリウに「今のジミーは幸せだ」と突きつける役がこのシーンでは一番美味しいのである。その役を誰が取るのかと思って見ていたら、ここまで静観を決めていたデラが突然立ち上がって言うことになるとは。カリウが「現在のジミーは幸せである」と認識し、その上で自分が連れ帰るよりもここにいた方が幸せだと判断し、その幸せを守るためには自分がどうすべきかを理解し、身を引くことを最終的に決断させたのはこの台詞なのだ。現にカリウは全てを理解して納得する台詞を吐くことになるが、それはこの台詞への返答として語られることになる。
 さらにデラは、甥が立派に「他人の痛みが分かる人間」として成長したのを誰よりも喜んでいたに違いない。その気持ちがカリウにも通じたと見るべきだろう。
(次点)「でも…でも、どうしてカリウおば様に隠さなきゃいけないの? カリウおば様に本当のこと言って、ここにいちゃ、どうしていけないの?」(ポリアンナ)
…ポリアンナが下記名場面シーンにおける視聴者の気持ちを見事に代弁する。画面に向かって思わず「激しく同意」って言っちまったぜ。
名場面 ジミーの決断 名場面度
 外へ出ていま知った衝撃の事実についてさんざん悩んだジミーは、ポリアンナからペンデルトンが「ジェミーの手術をする方法はいくらでもある」と言った事実と、ペンデルトンがまた一人になってしまうが本人がジミーの幸せを願っているという事実を知らさせる。そしてハッキリした決断を持って馬を走らせて帰宅する。
 そのジミーの決断とはカリウの元には行かずにペンデルトンとの生活を続けることであった。よく考えろというペンデルトンに対してよく考えた上でのペンデルトンとの生活を取ったと力説するジミー、さらにペンデルトンは説得するがジミーは「この書類さえ出さなければ僕がジェミーだって分からない」と言い切る。だが今度はポリアンナがこの事実をカリウに隠しておけないと告げる。
 さらにペンデルトンはカリウの家がどれだけ由緒正しく大金持ちなのかを語るが、ジミーは父が苦労したことと、その父に他人の痛みが分かる人間になれと言われ続けていた事を語る。だからこそボストンに行かなくても父は許してくれるはずで、自分はこの家にいたいと涙ながらに語る。さすがにこの台詞にペンデルトンは耐えきれなくなり、涙を流してジミーを抱きしめる。感動の抱擁だ、パレーももらい泣きをする。
 ジミーのこの決断は単にジミーがどうすればみんなが幸せになれるかを考えたと言うだけではない、前話名台詞欄にあるペンデルトンの思いに対しての返答でもあるのだ。ジミーはこのベルディングスビルでポリアンナとの日々が楽しいだけではなく、理由はどうあれどこの誰かもよく分からないような自分を引き取って育ててくれている恩は忘れていないのだ。それだけではない、ジミーにとってこの養父との生活は何事にも代えられないほど楽しく「自分の幸せ」と認識しているのである。ジミーは「息子を失ったとしても、その息子がそれで幸せになるならば…」というペンデルトンの愛情をしっかり受け取り、それに対する返答としてもカリウの元に行かないという決断をしたのだ。
今回の
「よかった」
 2回、2度目の「よかった」はポリアンナとジミーがお互いに巡り会えたことを「よかった」と認識し合うという、ここまでで一番印象に残った「よかった」だ。やっぱこの二人、もっと年齢が上で恋人同士で決定だろ? 「よかった」の回数
感想  これ、本当にあと1話で終われるの?
 前話を受けてジミー=ジェミーという事実をカリウに告げるかどうかひたすら悩むだけで前半を費やす。ジミーの苦悩はもっともだ、自分の正体をカリウに明かせばカリウによってボストンに連れて行かれるのは明白だし、そうなればジェミーだけでなくどこの誰なのかも分からぬ自分を引き取ってくれた養父ペンデルトンをも傷つけることになり、これはジミーだけでなくポリアンナにとっても望むべき結果ではない。自分は正体を隠してでもペンデルトンと暮らすべきという結論を得るために半話も費やすとは思わなかった。どう考えてもその結論が前話の感想欄に書いたとおりにみんなが幸せになる展開だから。
 そのジミーの義理と人情の板挟み、ペンデルトンの息子を失いたくないという思い、ポリアンナとパレーの何とかしたいという思いの交錯は上手く描かれたとは思う。それに後半はジミーの正体を知ったカリウの衝撃だけではなく、甥がしっかりと幸せを掴んで生き続けているという事実との板挟みにもなるのだ。だがポリアンナによって性格改造をされてしまったカリウだ、登場したての頃のカリウならば引きずってでもジミーを連れ帰ったに違いないが、今のカリウは「甥の幸せ」をしっかりと認識した上でジミーを連れ帰ることを諦める。ま、ジミーがポストンへ行かないと言い出した件についてペンデルトンの差し金だと疑うのは「おやくそく」だろう。
 で、まぁ前話からジェミーとサディがハリントン邸を探検したいと言い続けていたのはこういう伏線だったわけだ。もうジミーが真実を告げに来たとき、ジェミーがいつ来るかいつ来るか気になって本筋の方に身が入らなかったぞ。BGMもそれを意識したものになっているし…この作りは視聴者から言わせると気が散るので失敗だと思う。ここは二人が前話から2話に及ぶ伏線でもって部屋に突入するのでなく、もっと自然に外に遊びに行ったとかに出来なかったものだろうか? その上で「来るぞ来るぞ」的なシーンは一切なし、BGMも感動の叔母と甥の再会を演出する物にして欲しかったな〜。
 で、あと1話で終われるの? 終わるとすればジミーの正体を知ったジェミーのショックは案外あっけなく解決するのかも…?

第51話 「幸福はすぐそばに」
名台詞 「カリウさん、確かに本当のジェミーのことを隠しておくのは酷いことかも知れません。あの子達の小さな胸を痛めつけることになるかも知れません。でも私、あの子達の側にいるととても素直になれますのよ。人を思いやることが出来る優しい心に触れると、とても幸せになれますの。あの子達がその心を持ち続ける限り、私はあの子達を信じることが出来ます。あの子達を信じて、待つことが出来ますわ。それがみんなの幸せになると、私は信じておりますの。」
(パレー)

「私ね、ポリアンナやジミーを見ているうちに、もし本当のジェミー・ケントがいても何処かできっと幸せに暮らしているに違いないって思えるようになったの。無理に探し出して平和を乱すより、そっとしておいた方がいいんじゃないかしらって。私にはもうあなたっていうジェミーがいるし、ポリアンナが言っていたように、あなたが幸せになれば本当のジェミーもきっと幸せになってくれると思うのよ。だから、まずあなたに出来る限りの治療をさせてあげたいの。」
(カリウ)
名台詞度
 最終回、物語の結末を印象づける台詞がふたつ、どうしても絞りきれなかったので今回はやむなくこの鉄郎とメーテルの台詞をひとつずつ挙げることにした。つまり私の「ポリアンナ物語」考察では、全51話に対して名台詞が52個となってしまう。
 少なくともこのアニメ「愛少女 ポリアンナ物語」の主役はポリアンナであるが、誰の物語かと言えば鉄郎とメーテルが演じたこの二人の「おば様」の物語である。それとペンデルトンの3人の物語と言えるかも知れない。基本的にポリアンナを牽引役にして彼らの変化を描くというのが、この物語の大筋である。二人はポリアンナに振り回され、いつの間にかペースに乗せられ、様々な事件を経て「気難しく本当の愛情を避ける」というひねくれた人間から、「愛や優しさを真正面から受け止められる」という素直な人間へと変化してゆくのである。そして劇中で描かれた二人の「おば様」の到達点が、それぞれこの台詞なのだ。
 パレーは当初は何も信じない人間だった。何てったって自分も信じないで「義務と責任」が全てと考えていたのだから。そのパレーがこの物語で変わった事は「人を信じること」であり、これはポリアンナだけではなくチルトンやカリウからも教わっているのである。さらに最愛の夫であるチルトンを失っても、カリウやポリアンナの力を借りつつも最終的に自力で立ち直ることが出来たのは、この「信じる心」を得た上で素直な心までもが失われなかったためだ。そして何が自分の幸せかをキチンとつかみ取ることが出来た人間に変わったのだ。
 カリウは失った甥のことを思うばかりに、自分のことしか考えられずにその自分の行為によって他人が不幸せになるという事が考えられないか、またはそれが当然と考えていた節がある。さらに他人の幸せは自分の不幸というひねくれた回路までついていたようだ。このカリウの一番の変化は「他人の幸せ」をしっかりと考えて「自分の幸せ」と釣り合いを取れるようになったこと、そして他人の幸せのために自分が一歩引けるようになったし、他人の幸せが自分の幸せと受け止められるようになったのだ。この考えに従ってジミーを連れ帰る訳にはいかないと判断できたし、ジェミーについてもちゃんと愛情の押し売りではなく「自分のため」に愛情を注げるようになったのだ。
 そして二人が同時に身につけたことは、誰かの幸せのために尽くすこと。パレーにとってはポリアンナだし、カリウにとってはジェミーだ。これにペンデルトンにとってのジミーも加わるが。
 この二つの台詞はこの二人の「おば様」の劇中での変化が上手に表現されている。最終回に物語を締めるために、どちらも重要な台詞なのだ。逆を言えばこのふたつの台詞が揃った瞬間に「愛少女 ポリアンナ物語」は終わったと考えていいだろう。残りの10分弱は「オチ」ということで。
名場面 ペンデルトンのプロポーズ 名場面度
 ジミーが「おばさんっ!」とカリウに抱きついて泣いているシーンをジェミーに見られてしまい、固まる一同の前で突然「私がカリウに結婚を申し込んだ」と言い訳したペンデルトンだが、後にパレーに「咄嗟にあんな事を思いつかれるなんて…」と言われると、「あれは咄嗟の思いつきではない」と言う。そして前の晩からずっとそのことを考えていたと白状し、キチンとプロポーズしようと心に決めたがジミー=ジェミーの件でそれどころではなくなってしまったことを告白した。その上でジミーを餌に結婚を申し込むとは思われたくないとの考えで身を引くことにしたことも告げる。だからこそあのシーンでああ言ってしまったと汗を拭きながらペンデルトンは語る。
 「カリウさん、私はあれが単なる思いつきで思われたままお別れするのは辛い。改めて言わせてもらいます、考えてみてくださらんか? 私との結婚を!」と一気に告白する。いいねぇ、カッコイイねぇ、最終回でなきゃ間違いなく名台詞欄で取り上げた。胸を押さえて考え込むカリウ、実はカリウはまんざらでもないと感じていたようだ。「私はとてもいい話だと思いますわ」と付け加えるパレー、「ペンデルトンさんのお気持ち、とても嬉しいと思いますわ」と言うカリウ、これまでになかった笑顔を見せるペンデルトン。だがカリウの返答は「考えさせてくれ」というものであった。「もちろんです、私はあなたの気持ちが決まるまで、いつまでも待つつもりです」…くぅ〜、かっこいいぜ。最終回じゃなきゃ名台詞になったのはこっちかも?
 このシーンでペンデルトンについての変化が描かれていると思う。人の存在など気にせず何事にも素直になれなかったペンデルトンの変化は、素直に自分の気持ちを表現できるようになったことである。実は17話名台詞でその変化は現れていたが、その時は素直になれたのはポリアンナに対してだけだった。ポリアンナが歩けなくなると言う事件を通じて、「どうすればポリアンナが喜ぶか」を彼なりに真剣に考えた結果、ペンデルトンはここまで変わったのだろう。そして素直になったペンデルトンは、「女性に恋をする」という男としてもっとも素直な気持ちもちゃんと表現できるようになり、その結果がこれなのだ。
 やはりこの物語は、2人の「おば様」と1人の「おじ様」の変化を描く物語だったんだ。
今回の
「よかった」
 8回。最終回とあって「よかった」のオンパレード、28話の7回を追い抜いて堂々のトップとなり、後日まとめる予定の1話あたりの「よかった」頻度を大きく押し上げてしまった。でも中には無理矢理ポリアンナを持ち上げて「よかった」というのもあったなぁ…最終回だから! 「よかった」の回数
感想  な〜んだ、ペンデルトンがカリウに惚れてネタキャラになったのはこういうオチのためだったのか。ま、予想通りジェミーのショックは非常にあっけなく切り抜けたわけだ、その後のペンデルトンのカリウに真剣に告白するシーンもよかった。この物語は二人の「おば様」の物語であると同時に、ペンデルトンという「おじ様」の物語でもあったんだと最後の最後によく分かった。
 さて、名台詞欄に書ききれなかったことを一つ。ネット上で「ポリアンナ物語」の批評を拾ってみると、「チルトンの死」に対して厳しい声が多いのが目立つ。私は前回まではそれにある程度同意していたが、最終回まで見てなぜチルトンが死ななければならなかったのかが理解できた。原作のパレーがどんな変化をしているかは読んでいないので知らないが、少なくともアニメの場合はパレーの変化にどうしても必要な要素であったことが分かる。アニメのパレーはチルトンの死を通じて、ポリアンナの存在を「かけがえのないもの」と認識するのである。それはチルトンの死によって自分が気落ちしたとき、ポリアンナがどれだけ心配したかを思い知って立ち直るための糸口になると同時に、最終回クリスマスカードのシーンの通りポリアンナこそが自分にとって最大の幸福と心から感じて力強く生きてゆくために必要だったのである。もしパレーがチルトンの死によってまた元の気難しい女性に戻るだけなら、それこそチルトンの死は無駄だし、ポリアンナの存在そのものも否定しかねない。
 だったら最後にチルトンの話のひとつやふたつしてやれよ…って声も出そうだが、最後の方でパレーもチルトンの話をして、「自分が強く生きることを望んでいる」と天国のチルトンを信じる台詞を吐いている。
 とまあ、いろいろと書きましたが最後は上手くまとまったと思う。だけどこの最終回はちょっと間延びしてしまった感も否めない。カリウの名台詞のところで上手くまとめれば終われるし、クリスマスカードのシーンまでで十分だろう。その後の挿入歌に合わせてのシーンは要らなかったと思う、最後にポリアンナが転ぶシーンは何を言いたいかは予想付くが、そう言うことがテーマの物語ではないだろうに。
 しかし、ラストシーンはどう見てもアンネットとルシエンだったね、ありがとうございます(意味不明)。マジでいつの間にかに「私のアンネット」に映像が変わったのかと思ったぞ、山小屋だって横から見たらバルニエル家そのものだったし。よく考えたら「ポリアンナ物語」ではっきり冬のシーンが出てきたのは最終回で初めてじゃないか? で最後はクリスマスで終わりと、あれ?この前作「小公女セーラ」も最後はクリスマスになって終わった記憶が…。
 それにしてもカップルの多い物語だったなぁ。ポリアンナ&ジミー、ジェミー&サディ、パレー&チルトン、カリウ&ペンデルトン、トム&ダルギン、ナンシー&ティモシー…。
 12月からの再放送と同時進行の連載、最後までおつきあい頂ありがとうございました。あとは概要と総評を加えますのでしばらくお待ちくださいませ。

前ページ「あにめの記憶」トップへ次ページ