「思ったこと」特別編

1985年8月12日・日本航空123便墜落事故
〜はいじま版日航ジャンボ機墜落事故レポート〜


目 次
1.悲劇への離陸
2.ボーイング747
3.事故発生
4.墜落
5.事故調査
6.事故への疑問

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1.悲劇への離陸
 1985年8月12日、日本の航空路線はお盆を迎えて一年で最も忙しい時期を迎えていた。
 東京国際空港(以降「羽田空港」と記す)を発着する便を中心に行楽客などで満席の便が目立ち、空港は人々でごったかえしていた。ビジネス路線として多くの人々に利用される東京・大阪線も例外でなく、普段通りのビジネス客の利用に加えて家族連れなどが多く乗り込み、どの便も満員だった。
 東京・大阪線のように便数が多い路線では、席が空いていれば旅客を少しでも早い便に誘導する慣例がある。当時の東京→大阪便の場合、最終便は羽田空港19時半であったが、この最終便に客が集中するため満席になる事が多く積み残しを多く発生させてしまう。しかも大阪空港は滑走路使用時間に制限があり、人が乗り切れなかったからと言って臨時便を出すわけにも行かない。つまり、最終便の座席をひとつでも多く明けることが必要であった。これが最終一本前、羽田空港18時発の123便(当時)も混雑する原因であったとも言われている。
 日本航空のカウンターでは夕方になって殺到する旅客の誘導に追われていた。特にビジネス客は仕事の都合等で便が決まってないオープンチケットで来る人が多い。この人たちを空席のある便に誘導するのだが、少しでも最終便の座席を空けておきたいという航空会社の都合と少しでも早く家路につきたいビジネス客の意向は一致するので、最終一本前の123便の座席は見る見る埋まっていった。
 また家族連れの姿も多く目立った。夏休みの真ん中でお盆休みに入っている企業も多く、帰省や国内旅行などでこの路線を使う人も多くなる。この年は筑波で科学万博が開催されており、東京ディズニーランドも開園から2年という時期、両方をセットで行くという旅程は関西以西の観光客に人気であった。この行程で旅行する家族連れはもちろん、様々な地域への旅行や帰省の行き帰りの観光客、甲子園へ息子の活躍を見に行こうという高校球児の親や、関西へ生まれて初めての一人旅をする少年という旅行客の姿もあった。その中に混じって大企業の幹部や、人気歌手や宝塚の元スターという有名人も混じっている。有名人といえば現在もバラエティ番組などで活躍している某有名タレントは123便の航空券を持っていたが、仕事が変更になって羽田空港に来たのが前便に十分間に合う時間だったので変更して既に大阪に旅立っていた。これが運命の分かれ目となる…。
 さらに旅客に混じって、非番で乗務間移動をする客室乗務員の姿もあった。

 大阪行き最終一本前の123便に乗ることになる人々が羽田空港に集まりつつあった頃、福岡を出発したB747型機が羽田空港に着陸、18番スポットに到着した。機体形式はボーイング747-SR46、機体登録番号JA8119、日本航空が1973年度に4機購入したボーイング747国内線仕様機で3番目の機体である。ボーイング社では230番目に作られたB747で製造番号は20783、1974年2月に日本航空へ納入された機体である。
 機体形式のうち「SR46」というのは最初に機体を購入した航空会社と機体仕様を示している。「SR」はボーイング747型機の短距離仕様を指している(詳細後述)。「46」はボーイング社の顧客コード番号で数字とアルファベットで構成されており、ボーイング社で製造された航空機の型式の下に必ず顧客識別用につけられる番号である。日本の航空会社では日本航空が46、全日空は81、日本政府が7C…であり、引退して他社に売却されてもこの形式は変わらないので中古機で中古機でもどの航空会社向けに作った機体か判別することが可能で、メンテナンスに於いて重要な役割を果たす(ちなみにこれがB747-200だとB747-246という形式になる)。
 この機材はいわば「キズモノ」であった。事故より7年前の1978年6月2日、JA8119号機は大阪国際空港に着陸時の機首の引き起こしが大きかったためか、機体尾部を滑走路に衝突させる「しりもち事故」を起こした経歴がある。その傷跡もすぐにボーイング社によって修復され、他のSR機と変わらぬ活躍をしていた。無論この機体の過去について、それが悲惨な事故の引き金になっていたとは当時は誰も考えていなかったに違いない。
 18番スポットに到着したこの機体は、折り返し123便となって大阪空港へ向かうスケジュールとなっていた。この便に乗り合わせていた山下運輸大臣を始めとする福岡からの乗客を降ろし、機内の整備と荷物の積み替えが手際よく進められていた。
 123便のクルー達も乗り込んできた。運行乗務員が機長と副操縦士と航空機関士の3人。副操縦士は機長への昇格訓練のために機長席に座って機を操縦することになる、無論機長は教官である。それとは別に12名の客室乗務員が乗り込んんだ。彼らは機体内外のチェック等出発準備を進め、客室乗務員は乗客を客室に迎えるべく準備を進めていた。

 18時前、123便への乗客の搭乗が始まった。乗客数は乳幼児を含めて509人、全座席数が528なので僅かばかりの空席があったことになる。それでも500人以上の人々であり、乗客を乗せるのに手間取った。原因として18番スポットが「沖止め」と呼ばれるスポットでターミナルからバスに乗らねばならなかったのも原因だろう、また飛行機旅行が珍しい家族連れが機体をバックに記念撮影していたのも乗客の搭乗が手間取った理由だろう。
 普段なら定刻の前に終わるはずの乗客搭乗がずれ込み、18時を少し回ってドアクローズとなった。18時04分、誘導路への進入許可が出て車輪止めが外された、この時刻がこの日の123便羽田出発時刻として記録されている。すぐに機体は牽引車に押されて誘導路まで後進し、同時に4機のエンジンに火を入れた。誘導路に出て牽引車を切り離したところで滑走路への移動が許可され、B747は地上職員に見送られてエンジンを軽く吹かしながら羽田の複雑な誘導路を滑走路へと進んだ。
 滑走路脇に到着した18時11分20秒、離陸許可が出たので滑走路15Lに進入。滑走路に正対したところでエンジンを最大推力として鋭い加速力を持って加速した。離陸速度に達した18時12分20秒、JA8119号機にとって18836回目の離陸となった。天候は快晴、気温摂氏29度、南西の風8メートル。離陸と同時に123便の管制はタワー(空港管制)からディパーチャー(空港空域管制)に引き継がれ、離陸から4分30秒後には東京コントロール(東京航空交通管制部…巡航時の管制)に引き継がれた。
 この日の123便の巡航高度は24000フィート(約7500メートル)、フラップを離陸位置から通常位置に引き上げ、エンジンは上昇推力でこの24000フィートに向けて順調に高度を上げていた。高度を上げながら空港から航空路を結ぶコースを飛ぶ、羽田から南下して少しだけ房総半島をかすめ、房総半島と三浦半島の間を縫うようにすり抜け、大島の北へ達して伊豆半島を横断するコースである。この上昇中は機体に目立った変化はなく、順調にフライトを続けているように思えた。

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参考文献(これより最終章まで)
※書籍
・吉岡忍著 「墜落の夏」(新潮社)
・鶴岡健一・北村行孝著 「悲劇の真相」(読売新聞社)
・朝日新聞社会部編 「日航ジャンボ機墜落」(朝日新聞社)
・Clive Irving著 「WIDE-BODY」(講談社・手島尚訳「ボーイング747を創った男たち」)
・飯塚訓著 「墜落遺体」(講談社)
・飯塚訓著 「墜落現場遺された人たち」(講談社)
・河村一男著 「日航機墜落」(イーストプレス)
(以上購入順)

※雑誌
・イカロス出版 「旅客機形式シリーズ5・Boeing747-400」
・イカロス出版 「旅客機形式シリーズ7・Boeing747classic」