「思ったこと」特別編

2005年夏・「御巣鷹の尾根」慰霊登山記
〜群馬県上野村・日航ジャンボ機墜落事故現場訪問記〜

「御巣鷹の尾根2014」
2014年9月、昨年に続き「御巣鷹の尾根」から県境稜線まで登ってみたら、同じ日に悲惨な火山災害が起きてました。

「御巣鷹の尾根2013」
2013年9月、「御巣鷹の尾根」から県境稜線まで登ってみました。



「御巣鷹の尾根」は犠牲者の墓標が事故の大きさをそのまま保存している


 私の少年時代の夏休みは、父方の祖父母が所有している軽井沢の別荘で暮らす毎日だった。
 父方の親戚がほぼ揃っての軽井沢での夏休み、叔父叔母や従兄弟達との長い長い共同生活の日々が続くのである。この時ばかりは従兄弟達と実の兄弟のように過ごし、軽井沢といっても外れの方に当たる追分宿からさらに山の中へ入った野山を走り回り、従兄弟達とおやつを食べたりテレビを見たりトランプやゲームで遊んだり、良き思い出となる日々を過ごしていたものである。
 1985年の夏休みもそんな毎年恒例の夏休みであった。私は14歳中学3年生。この年は祖父が他界してから2年の月日が流れ、ようやく我々も「別荘の主」だった祖父がいない軽井沢での生活に違和感を感じなくなってきていた。その日は翌日に従兄弟達全員で軽井沢銀座へ遊びに行く予定となっており、早速そこへ行って何をしようかと話題で持ちきりだった。母や叔母が夕食の準備を進め、まだ遊び足りない従兄弟はベランダの外で夕暮れ直前の薄暮を楽しんでいた。私は別荘の居間で何をするわけでもなく、夕食の準備が終わるのを待っていた。
 その平穏な夏休みの夕暮れをかき乱したのは、低空を飛ぶジェット機の轟音だった。19時を少し回った頃、夕飯のおかずの一部が食卓に並び始め外に残っていた従兄弟達が帰ってきたタイミングだった。特に時計は見ていなかったが、テレビではNHKニュースを映っていたのは覚えている。明らかに旅客機の音ではないと当時の私でも判断できる轟音は、あっという間に山の中へ消えていった。この轟音に別荘にいたみんなが気付く、「なんかおかしいよね」と口々に語り合い、あの飛行機は墜落するのではないか?と不安になったものだ。音からしてどう考えても普通に飛んでいる高度ではない。ただ私は、その轟音を聞いただけでどちら方向へ飛んでいったのかは家の中にいたので見ていない。
 すぐその轟音のことは忘れて夕飯となった。従兄弟達が賑やかに食卓を囲む時間である。テレビはNHKのニュースがつきっぱなしだった。これはいつものことで、従兄弟達との食事中は決まってテレビはNHKのニュースになっていた。そのニュースが終わって次の番組に変わると思った瞬間、テレビ画面の中のアナウンサーが深刻な顔で「只今入ったニュースです」と伝えた。アナウンサーの表情を瞬間で変える程のニュース、何だろう?とみんなでテレビの画面を注視した。
「本日午後6時に羽田空港を飛び立った羽田発大阪行きの日本航空のジャンボ機が、レーダーから機影を消したとのことです。」
 必要最小限の情報だけだった。すぐ食卓を囲んでいた大人達がざわついた、「大阪行きって、大変なことになっているんじゃないか?」と話し合っていただろう。私もこのお盆に羽田〜伊丹線の飛行機がよく満席になるのは知識として知っていた。瞬間にこれは数百人単位の人々が遭難したに違いない、と確信して背筋に冷たい物が走るのを感じたのを覚えている。
 テレビは次の番組に入ったが、すぐテロップニュースで続報が入った。ここで出てきた乗客497人という数字はハッキリ覚えている、この数字を見て震えた。さらにテロップは群馬と長野の県境付近とも伝えていて、すぐにさっきのジェット機の轟音を思い出した。叔父が外の様子を見に行ったのも覚えている。
 そしてテレビ画面は突如臨時ニュースに切り替わった。アナウンサーが今までのテロップニュースの情報を繰り返した。この臨時ニュースは事の重大さをリアルタイムに伝えてきた。大人達は勿論、私や従兄弟達もテレビ画面にかじりつきになった、小学生にならない小さな従兄弟以外は全員夜中までこのニュースを見ていたのも覚えている。背筋が凍ったのは延々と読み上げられる乗客名簿、いつまでも続く名前の読み上げに事故の大きさを生身で感じずにはいられなかった。その中に部活の後輩と同姓同名があったのには驚いたが、後日別人と判明して胸をなで下ろした記憶もある。
 その日の夜には現場は確認できず、夜中の1時頃に我々は睡魔に負けて床についた。翌朝7時前に目が覚めると、誰かが私に「事故現場の映像が出てる」とテレビ画面を指さして言った、その声に反応して真っ先にテレビの前へ立つと、見るも無惨な現場の光景が目に飛び込んできた。なぎ倒されて焼かれた木々、白い煙を上げる残骸、何処にもB747の巨体を思わせる物は見あたらず、残骸と木々しかなかった。
 生存者発見の第一報はテロップニュースで見た。この状況にも関わらず父が高校野球中継を見ていたためで、テロップニュースを見てすぐ「民放だ」と叫んでフジ系列にチャンネルを変えた。そこには無惨な現場が地上から映し出されていた、木に人の身体のような物がひっかかってぶら下がっているのが平気で映っていた、画面が下へ下がると確かにそこには生きて担架に寝かされている少女の姿があった。「何処でどうやって生きてたんだ?」と画面に向かって叫んだのを覚えている。

…この事故は、私が14歳中学3年という多感な頃に起きたせいもあって色んな意味で私に影響を与えた。当時も乗り物が好きだった私は初めてそれが「事故」という悲劇と背中合わせのものであると認識させられた。そして飛行機という乗り物そのものに興味を持ったのもこの事故がきっかけであると言っても過言ではない。
 さらに事故に関わる人々の話を新聞やテレビで見たり聞いたりしているうちに、事故という人間の力ではどうにもならないことが人間の手によって引き起こされてしまう怖さ、事故に関わった人たちの様々な物語、そのようなものも私に色んな影響を与えている。現場へ入った消防団や自衛隊の人たちの奮戦を知り、遺体確認や検視に奔走する警察や医療関係者があったことも知った。また事故機の中でも死を目前にした人たちの物語があったことを知って涙が出た。事故に負けず必死に生き抜こうとする遺族の方たちに頭が下がった。色んな意味で人々が助け合い、励まし合い、力を合わせて困難に立ち向かう姿をまじまじと私に見せつけたのがこの事故だったとも言える。
 私はさらにこの事故について知りたくて、関係書物を色々読みあさった。その都度、一度現場となった山に足を運んで犠牲者の御霊に手を合わせ、全ての関係者の思いを思い返してみたいと考えていた。しかし、現場は関東地方最強の秘境とも言える地域で、自動車で山奥まで行ってそこからさらに1時間の登山があると聞いた。この状況に不安を感じたし、さらに私のように事故に直接関係ない者があの山に登って良いのだろうかという葛藤もあった。
 そんな私の背中をポンと押した本が一冊ある。この事故で群馬県警の身元確認班長という重大な仕事をした飯塚訓氏が書いた「墜落現場遺された人たち」という本である。この本では遺族の方、自衛隊員や消防団員、医師や看護婦、そして当時は全くそんな人たちがこの事故に関わっているとは思わなかった葬儀会社の人たちの当時の奮戦記録やその後についての記録が主な内容である。その中に「あの山は霊山で聖山」というくだりがある。この言葉によって山そのものが地元の人たちに守られている事をまず理解した上で、事故を理解して手を合わせに行くのであれば少なくとも山は私を迎え入れてくれるに違いないと感じた。そして本文中に出てくる登山道や現場の描写は、一度行ってこの目で確認したいという気持ちにさせた、さらに作者がいう山の深さ、とりわけ事故当時に救助隊の現場到達を早くするのは無理という論が正しいかどうかも見てみたかった。私自身マスコミの影響で「もっと早く山に入れば…」と当時は考えていたのもある。
 そんなこんなもあって、2001年8月下旬の土曜日に「御巣鷹の尾根」を目指すべく愛車を上野村へ走らせた。


 2005年7月23日土曜日、私は愛車を上野村へ向けて走らせていた。
 新たな決意の元、2度目となる「御巣鷹の尾根」を目指していた。事故から丸20年を迎える今年、何が何でも「御巣鷹の尾根」へ登り、ここにいる御霊に誓わねばならないことがあると感じていた。
 それは4月25日にJR西日本福知山線で発生した電車脱線事故がきっかけである。何らかの理由で暴走状態に陥った通勤電車がカーブを曲がりきれずに脱線・転覆、沿線にあったマンションに激突して死者107名を数える大惨事を「鉄道」という交通機関が起こしてしまった。私も事故から数週間後に現場を訪れて犠牲者の霊を慰め、鉄道で働く者としての決意をその事故現場で新たにした。この記録についてはここをクリックしてご覧頂きたい。
 そして、この時に尼崎の事故現場で思った。御巣鷹へ行かねばならない、「御巣鷹の尾根」に眠る御霊にこの決意を報告せねばならないと。

 私は、2001年夏に御巣鷹を訪れた時にその「場所」から色んな事を感じた。
 ひとつは大惨事の大きさ、犠牲者の数の膨大さがキチンと保存されていること。これは尼崎を訪れたときのレポートにも書いたが、現場が人里から遠く離れた山中で人々の生活から隔離されているため、そこへ「行こう」と思う人以外が足を踏み入れることがないのである。無論無関心な人が迷い込んだり、心ない人に荒らされたりする事もない。現場には亡くなった方の遺体発見現場に墓標が建てられ、その墓標が林立する光景はまさにこの事故の大きさと520名と胎児という犠牲者の数の大きさをそのままに保存しているのである。このような巨大事故の現場は世界的にも例を見ず、現在も多くの人々が「登山」する理由となっていると思われる。
 次に御巣鷹という山そのものについてである。事故現場の「御巣鷹の尾根」と呼ばれる場所は非常に特殊な場所である。先に理論的に言ってしまうが、複雑にカーブした川や沢の上流に位置し、基本的に人里からは手前の尾根が被さって現場が見えないのである(上野村に唯一カ所現場が見える集落がある)。つまり幹線道路等の騒音源から完全に隔離されている上、群馬・長野の県境越えルートからも外れるためどんな山でも見られる送電線なども含めて人工物が皆無な場所なのだ。この「静かな山」の姿は来る者に安らぎと安心感という「有情」を自然から受けるような気分になる。私は心霊とかそう言う話は全く信じないが、この山にだけは人の気持ちを鎮める「何か」があるように感じた。地元の人たちが霊山という理由もよく分かる。123便に乗ってこの地に散ったあまりにも多くの人々の御霊は、この静かな山々によって優しく抱かれたに違いない。そして今もこの山の一部となって、その地にいるに違いないと確信させられるものがあった。この事故の犠牲者を悼むならこの山に登らなければならない、登りたいのに登れないという人を見つけたら、その人に代わって登らなきゃならない。そう感じたのである。

 そして、尼崎の事故での私の中に出てきた決意。鉄道に働く者の一人として尼崎の惨事を繰り返さぬようささやかながら頑張りたいという思いを、御巣鷹に眠る御霊…つまり尼崎の事故で亡くなった人たちと同じように、目的地に着くのが当たり前と思って飛行機に乗り、そして突然の事故で不本意に逝ってしまった人たち…にキチンと報告して誓ってこなければならない。そのためには今年中に一度「御巣鷹の尾根」へ行ってここの御霊に会って来なければならない、そう決意したのである。

 さらにこの決意と時を同じくして、某巨大掲示板で「御巣鷹の尾根」へ慰霊登山のオフ会をしようという話が持ち上がった。私もこれに名乗りを上げてインターネットで知り合った仲間達とともに尾根を目指すことにした。メールで情報交換と計画立案を進め、7月23日が決行の日となった。本来は私の愛車にこの参加者が同乗するはずであったが本人の事情により結局私の車は私一人となってしまったが、とにかくそんな話もあってこの日、私は上野村へ向けて愛車を走らせた。
 私は埼玉県飯能市から秩父経由で信州を目指す国道299号線に入った。秩父へのメインルートであるこの街道は何度も通っていて通い慣れた道だ。上野村という場所も好きな場所のひとつなのでここをアクセスルートとして何度も走っている。四季折々に景色の変化を見せるこの街道は何度走っても飽きない、ただ今日は朝から低い雲がたれ込め、秩父から小鹿野を通って県境の志賀坂峠までは雨であった。「御巣鷹の尾根」への登山は険しい山道で、この日の予定がうまくいくか懸念された。「現場は雲の中だろう」…思わず独り言を言った。
 志賀坂峠を越えて群馬県に入ると雨はピタリと上がった。それでも雲は低く曇天なのは変わらない。峠を下って旧中里村の中心街を抜けてしばらく行くと、いよいよ上野村に入る。
 上野村は険しい峠越えを目前とする山奥の素朴な村だ。信州へ抜けるのが目的でここを通ると、峠を前にした緊張感を感じるのだがそれを優しくほぐしてくれるような景色がある。斜面に、また河原の僅かな平地にへばりつくような村の景色と、素朴で暖かい村の人たち。ここにはつい何度も立ち寄ってしまう魅力がある、日航機事故というこの村にとって史上最大の事件がなければ、「知る人ぞ知る」素朴な村のままであっただろう。でも今でも上野村といえば「日航機が墜落した村」というのは知っていてもそこがどんな場所か知らない人の方が多いのではないかと思う。

上野村の景色
昨年春に訪れたときの景色、新緑が眩しい。

 上野村を訪れた一番最近のは、昨年春の大型連休である。家族旅行の途中に立ち寄り、昼食がてらスカイブリッヂなどの名所を訪問した。上野村で遊んだ後は峠を越えて長野県方面へ向かった。
 そんなことを思い出しながら村内に続く国道299号線バイパスを走ると、「上野村ふれあい館」という施設が見えてきた。今回のオフ会の最終集合場所である。ここの駐車場に車を入れてしばらく待つと、オフ会に参加の他のメンバーが現れた。私を含めて男性2人、女性2人という合計4人で「御巣鷹の尾根」を目指すことになった。
 ふれあい館を出発して「ぶどう峠」を越えて長野県へ向かう県道上野小海線に入る。これをしばらく行くと左に立派なトンネル道の分岐が現れる、これが「御巣鷹の尾根」への入り口だ。しばらくはダムのためにトンネルが何本も続き、景色は全く望めない。何本か目のトンネルを抜けるとダム湖最上流の景色が現れて突然道が悪くなる。ここは元々林道だったのだろう、「御巣鷹の尾根」のために村道として整備するようになったんだろうなぁとしみじみ感じる。
 アスファルトにあいた穴をいくつも避けながら進み、左に林道を分岐するとさらに勾配がきつくなる。いよいよ神流川の最上流部に達しようとしているのだ。ヘアピンカーブをいくつか繰り返してしばらく登ると、突然目の前に駐車場が現れる。駐車場を越えて道はさらに左にカーブして山を登っているが、そこには通行止めの標識と頑強な柵があった。今現在の車道の終点はここ、ここからはいよいよ1時間の登山の始まりである。その前に、駐車場に止まっていたタクシー運転手から色々と情報を得る。既に山に入っている人が何人もいるということだ、我々も話し合った結果「決行」を決意した。雨は大丈夫と思うが、雲の低さから一番怖いのは霧(と言うか雲の中に入る)である。霧が濃くなったときは互いに姿が見える範囲で行動することを確認した。


 服装や虫対策、そして花などの準備を整え、10時35分にこの駐車場を出発した。最初は比較的平坦な山道なので楽である、我々もここでは余裕があって雑談に花が咲く。ただ雨上がりで足下が滑るからそれだけは声を掛け合って確認することにした。4人が縦一列の進むこととなり、2人の男性が二人の女性を挟む形で進むことも確認した。往復の登山道では私が最後尾につき、尾根での移動ではその都度先頭に出やすい方が先頭を歩いた。
 なだらかな登山道をしばらく歩くと、目の前に滝が現れる。「やすらぎの滝」と呼ばれる滝で、これは現場検証にこの登山道を何度も往復した警察官が名付けた名前らしい。「やすらぎの滝」の意味は前回来るまではただ単に「景色が綺麗で安らぐから」そういう名前になったのだと思っていた。でも実際にこの山道を歩くとそれは違うことが分かる。それは帰りに痛感する事なのだが。
 この滝を過ぎると登山道は突如として急勾配となる。沢づたいに山を登るのを諦めて左側から延びる尾根越えのコースを取るのだ、まぁ登山になれている人なら滝が現れた段階で道が激変する予測は建てられるだろう。ダムや滝は高度差が大きい場所であることを示し、それを乗り越えるために勾配がきつくなるのは道の作り方に詳しい人間にも当たり前の事である。
 登山道はつづら折り繰り返して高度をかせいでゆく、一度滝がある高低差をクリアしたかと思っても、山道は無情にも上へ上へと続いている、さらに砂防工事のために道路を延伸する工事が続いていて、前回来たときと景色が一変している場所もあって私は以前の記憶を頼りに出来ないとがっくり来た。工事中の道路と寄り添いながら高度を上げると、目の前に視界がぱっと開ける。そしてその開けた視界の真っ正面に「御巣鷹の尾根」がある。「みかえり峠」と言われる場所で、まずはここで難所をひとつクリアして目指す目的地が見えるところまで来たと思わせる場所だ。でもここからが長い。
 登山道は下り勾配に転じて一度沢沿いまで下る。左に支流を分けて「御巣鷹の尾根」の右側に回り込むように進む、この沢こそが「すげの沢」である。沢沿いまで下りきるとさっき下った分はなんだったんだ〜とばかりに急な登り勾配が始まる、沢の流れが急なために山道も急峻となってしまう。ここからは何度も何度も休息を取りながら、一歩ずつ確実に山を登っていった。工事中の道路の終点から新しい山道が延びてきていてこちらに合流する、ここまで車で来れれば楽そうだなんて思う人もいるがとんでもない、この登山道の最大の難所はここから現場入り口の山小屋までである。斜面がきつくなっても谷間が狭まるため「みかえり峠」手前のようにつづら折りにすることも、ここの少し手前のように勾配の緩いところを選んで道を設置することも出来なかった、最急峻路である。ここまでの険しい山道に慣れるとそうきつくはないと感じてしまうが、ここまで車で来ていきなりこの勾配に放り出されたら逆に体力消耗が早そうな気もする。山道は沢に寄り添うが、あまりの勾配の険しさにそれを見ている余裕はない。

「御巣鷹の尾根」への登山道
沢が急なので道も凄い勾配に、写真では実感しにくいが…。

 この急峻な勾配を登っていると、眼前の森の中に山小屋が建っているのが見えてきた。その辺りを境に木々が若い木に変わっているのも分かる。いよいよ現場一帯に到着したのだ、我々は花用の水を汲んでさらに登る、今度は沢沿いにでなく尾根を目指して登る。
 そして眼前が開けた。そこには広場があってベンチが置かれていて人々が休めるようになっていた。11時40分、我々は遂に「御巣鷹の尾根」に到着した。私にとっては3年ぶり2度目の到着となったわけである。我々は並んで「昇魂之碑」の前に立ち、花と線香を手向けた後、手を合わせた。
「鉄道に働く者の一人として、尼崎の惨事は繰り返しません、あなた方に誓います」…私は心の中でそう呟きながら手を合わせた。

「昇魂之碑」
現場へ行ってみたいけどどうしても行けない、と言う方はこの画像に手を合わせてください。
左は2001年、右が今回訪問時に撮影。

 尾根の昇魂之碑周辺を見て回ることから、我々一行の「御巣鷹の尾根」巡りは始まった。
 まず尾根から事故機が飛んできた方向を見る。晴れていれば谷の向こうの尾根に事故機が接触して地形が変わってしまった尾根が見える。いわゆる「U字溝」と言われる場所で、事故機が我々が立っている場所に墜落する数秒前に右主翼を接触させて尾根を深く抉った地形である。事故翌日の空中映像では、このU字溝には「奥行き」もかなりあったことが分かったのを覚えている。さらにその向こうには事故機が最初に地上物に接触した「1本から松」があったはずである。今でもそれが存在するかどうかは分からない。
 このU字溝は、残念ながら向こうの尾根に雲がかかっているため全く見えない。一瞬だけ雲の隙間から見えたが、とでもそれによる傷跡を確認できる状況でなかった。

U字溝
2001年訪問時に撮影、事故機による爪痕は深い。

 続いて「昇魂之碑」の裏側へ回る。そこには日航機墜落現場を示す碑と観音像があった。観音像は茜観音と呼ばれており、その顔は事故機が飛んできたU字溝の方を向いているという。でも私は観音像よりも事故現場の碑の方に目が行ってしまう。ここで起きた悲劇を何も言わずに冷たく、冷静に語り続ける碑石を見て色々と感じることがあるのだ。
 観音像の向かいには小屋が建っていて、ここには犠牲者が遺した遺品などが置かれている。その古さや色褪せ具合が事故からの時の流れを感じる。

日航機墜落地点を示す碑石
左は2001年、右が今回訪問時に撮影。ここで起きた出来事を簡潔に冷静に何も言わずに示している。

 この辺りから本格的に霧がかかり始めた。かといって視界が極端に悪くなるわけでもなく、我々が歩く分には問題はなさそうだ。ここからは犠牲者の墓標をひとつひとつ見て歩くことになる。詳細を説明すると長くなるので省略するが、この墓標の数こそがこの現場を象徴する特異点である「大惨事の爪痕」である。墓標の数に犠牲者の多さを物語り、どれだけの人間がここで生命を落としたのかを如実に物語っている。どんな災害現場でも何処で誰の遺体が見つかったかなど事故後20年も保存されている事はあり得ない。
 無論それらを守っているのは遺族の方々の亡くした人への思いが一番だが、これらの墓標を陰で守り続けて来た上野村の人たちや日航の人たちの力もあっての事だ。上野村の人たちは自分たちの村に飛行機が墜落して多くの人たちが犠牲となったことを「運命」と捉え、これを子孫代々弔っていくことが自分たちの責任と感じている。日航は事故の当事者としてこの事故を忘れず、繰り返さないためにこの山に来ているという。
 墓標の並び方には特徴がある、多くの墓標が3〜4人分まとまって建っていることだ。一人だけポツンというのは割合として比較的少ない。私は座席ごと人々が飛ばされた結果ではないかと考えている。

現場には犠牲者の墓標がずらりと並ぶ
ここで起きた出来事、そして犠牲のあまりの多さを冷静に何も言わずに示している。

 さらに、当時の事故のすさまじさを保存している物は墓標以外にもう一つある。
 それは現場一帯の樹木である。多くの木々が事故機墜落によってなぎ倒され、焼かれてしまったためにこの一帯だけ木々が若いのである。それだけではない、たまにだが焼けた木が事故当時のまま残っていたりするのである。このような焼けた痕跡のある木を見つけるたびに、その火炎の激しさが容易に想像できて犠牲者の苦しみを思うとやりきれなくなる。そして木が焼けた状態のまま20年も残っているというのが、何か不思議な物を感じずにいられない。

所々に焼けた木が残っていて、当時の火炎の激しさを伺い知ることができる。
上写真の木は、機内のプラスチックか何かが溶けて巻き付いたままだ。

 これら現場を歩いて、前回も思ったことだが今回も強烈に感じたことがある。
 それはこの地に散った人々の、最後の瞬間の「孤独」である。一番近い車道から山道を一時間、いや事故当時はもっとかかって何時間も山の中を歩いてやっと到達できるような山の中である。しかも現在のように登山道がなければ夜間にここに到達するのはまず不可能だろう。
 このような誰も見ていない、何もないところで最後の瞬間を迎えた人たちが自覚できないまま味わった「孤独」を思うと、胸が張り裂ける思いである。そして誰も見ていないところで一晩を屍として過ごした孤独、助かった人たちは一晩誰も助けに来られなかった孤独を味わったはずである。この寂しさは我々には理解し得ない物であろう。
 でもこの山々はそんな犠牲者の御霊を受け入れたと思う。だからこそ山は急峻な現場までの道のりを用意してこの事故に思いがない人々を拒み続けているのだろう。道路工事中とはいえ、それはやっぱ途中で限界だし、なによりもまだ完成する見通しは立っていないらしい。
 一帯の景色をじっくり眺めた。深い山々、曇天で霧のせいもあってその不気味さや寂しさは余計に強く感じる。「深山幽谷」という言葉はまさにこの山のためにある言葉なのだろうと思った。そう思うと、乗っていた人たちの孤独をまた感じて、胸が締め付けられる思いがした。

事故現場の素顔はまさに「深山幽谷」の言葉通り
左はすげの沢最上流方向を見た、右尾根斜面の途中。寂しい景色が続く。

 数多くの墓標を見た。中には遺族の方が手入れをしている物もあった。その方達は亡くした人の墓標の周りを明るく飾り、多くの人たちに見てもらいたいと語っていた。
 有名な方の墓標も見つけた、歌手の坂本九さんの墓標にはファンの方がよく集まるのか色んな添え物があった。この事故を扱った絵本のモデルになった、生まれて初めての一人旅で事故に巻き込まれた少年の墓標にはたくさんの玩具で飾られていた。余りにも墓標の数が多すぎて、ひとつひとつはハッキリ覚えられない、でもそれだけ大きい事故だったという事実はひしひしと伝わって来る。
 いつしか時計は14時半を回っていた。我々はこの尾根に別れを告げて下山する時刻がとうに過ぎていた。また先ほどの縦列に戻り下山を開始する、滑りやすい足下と、下り坂での踏ん張りで膝を痛めないように気をつけながら。山道を登るのはキツイけれど下るのもキツイという事実を思い知らされるのがこの山だ。急峻な勾配の下りは我々の神経をすり減らし、膝を中心に筋肉痛を作っていく。
 そんなこんなで沢沿いに下ると、山道が登りに転じた。坂道を上っていくと「みかえり峠」に出た。ここが事故現場を望める最後の地点である。遺族の方を始めとする関係者、我々のように思うところがあって登ってきた人たちもここで必ず最後に振り返って現場を見るという。このような場所だからと言うことで、これも警察官の一人が「みかえり峠」と名付けたとのことだ。無論我々もここから現場を振り返った。

「みかえり峠」から最後に現場を振り返る、真ん中に見える尾根が事故現場。
左は2001年、右が今回訪問時に撮影。二回とも帰りに振り返って撮影した。

 見返り峠から現場を見て、尾根に白い人工物が見えるが何だろうと話題になった。結局結論は出ず、我々は後ろ髪を引かれる思いで現場を背にした。またいつか来るよとの気持ちを遺して。
 みかえり峠から最後の急な下り勾配を行く。足を踏ん張って身体にブレーキをかけながら慎重に下る。やがて「やすらぎの滝」が見えてきた。すると下り勾配は終わりを告げ、後は比較的楽な道のりだと安堵する。この安堵感を感じながらこの滝を見る、もう険しい道のりがないと安堵しているところでこの滝を見ると、不思議と心がやすらぐのを感じたのは前回の来訪時であった。なるほど、険しい道のりが終わって一段落したときに眺めて心が安らぐから「やすらぎの滝」なんだと痛感した。ここでの写真紹介も、あえて帰りの段階とした。

やすらぎの滝
左は2001年、右が今回訪問時に撮影。険しい道のりは終わった。

 我々にも余裕が出てきた。雑談が弾んだ15時20分、また登山口の駐車場に戻った。我々は車を分乗して上野村の中心部にほど近い「慰霊の園」を目指すことになった


 車を数十分走らせて上野村中心部にほど近い「慰霊の園」に到着した頃には、曇天の空が薄暗くなり始めていた。
 この「慰霊の園」にはこの事故の犠牲者の冥福を祈るとともに、またこの悲惨な事故を二度と繰り返さぬよう航空安全をこの上野村から発信するべく象徴として作られた施設である。少し前述しているが、この事故発生とともに多くの上野村村民が救助活動や遺族の方々のお世話といった事故処理に手を貸している。それを通じて航空事故の悲惨さを知った上野村村民がこの事故に遭った方々が上野村で亡くなったことを運命と捉え、事故で亡くなった521名(発見された胎児が含まれている)を子孫代々に渡って供養し続けることを責務と感じた。平坦な地が少ない上野村の中で有志が土地を出し合い、慰霊塔を建てて事故当時の資料などを保管する施設を作った。また法律上、航空事故などで身元が確認できなかった遺体は地元が引き取って埋葬することになったので、身元確認が出来なかった遺体を荼毘に付して123の骨壺に入れてこの慰霊塔に祀ることにした(後に現場で発見された遺体は別の骨壺に入れられたので最終的には骨壺の数は124となった)。
 慰霊塔はこの「慰霊の園」の中心であり、飛行機の翼と人々が手を合わせている様子をイメージした形の塔である。その背後の斜面にトンネル状の納骨堂があり、ここに身元不明の124の骨壺が納められている。そして慰霊塔の正面に立って納骨堂の方向を見るとその視線の延長上8キロ先に事故現場が来るように設計されている。
 慰霊塔の背後には521の名前が刻まれた犠牲者の名碑がある。犠牲となった妊婦の胎内にあった胎児も遺族によって名前が付けられ、他の犠牲者と同じように名前を刻んで弔うという上野村の心遣いと優しさは驚くばかりである。この名碑に刻まれた名前の数の多さを見ると、この事故での犠牲があまりにも多すぎることが分かる、無言のまま20年の月日を越えて我々に事故の大きさを生々しく伝えているのだ。

「慰霊の園」の慰霊塔
慰霊塔の背後に身元未確認の遺体が眠る納骨堂がある
「慰霊の園」にある犠牲者の名碑
この写真に写っているだけで半分、犠牲者の多さを思い知らされる。

 この上野村の「慰霊の園」の存在こそが、私を日記や現場訪問記で尼崎脱線事故における現場マンション住民を批判する理由になったのだと思う。同じ「事故現場に住む者」としてあまりにもやっていることが違いすぎるからだ。自分が住む村で起きた大事故の犠牲者を受け入れて慰霊を続けることを「責務」と感じて今も祀り続けている上野村と、自分が住む場所での大事故犠牲者を気味悪がって逃げるあのマンション住民、このあまりにも対照的な姿を見せつけられた事は、人間が持つ暖かさと冷たさの違いのようにも感じる。
 恐らく、上野村にもこの事故犠牲者への慰霊に反対している者はいると思う、林業や狩猟で生計を立てている人は貴重な森林を飛行機墜落という事故によって焼かれてしまって迷惑に感じているかも知れない。逆に前にも述べたとおり、例のマンション住民にだってその場に住み続け犠牲者を弔い続けたいと主張している人もいる。どちらも多数決の結果で決まったのが、上野村が取った大事故犠牲者に対する弔いを子孫代々まで続けるという道であり、例のマンション住民の場合は事故現場から逃げて破損したマンションをJRから補償金を多く取るための道具に使うという道だったのだろう。私がマンション住民を批判したいのは、その結論そのものでなくて住む者の責務としてその場で起きた事故や犠牲者と正面から向き合ったかどうかと言う点である。その上でマンション住民があの結論を出すのであればそれは仕方がない。ただ、そこでの出来事と向き合わないまま逃げて金を要求するだけでは、そこでの犠牲者が浮かばれない。純粋にそう思うだけである。


 「慰霊の園」で事故資料等の展示や慰霊塔などの見学を行い、最後に慰霊塔に線香を手向けて手を合わせた。手を合わせた後、慰霊塔を正面からまっすぐ見据えた。この方向に我々が先ほど踏みしめた現場の山「御巣鷹の尾根」がある。
 また手を合わせながら心の中で呟いた。「尼崎の悲劇は繰り返しません」そして「また来ます」。
 今回、2度目の「御巣鷹の尾根」訪問であったが、時間をかけて山の上を見て新たに感じたこともあった。まだそれは上手く文章に出来ないけれど、この地を訪れるたびにこの事故の犠牲者が我々に何かを語りかけているように感じる、その内容が来るたびに分かってきているような気がする。
 18時、我々は車に分乗して後ろ髪を引かれながら上野村を後にした。
 そして他のメンバーと「また来よう」との誓いを新たにした。これは単に仲間達と気があったからという理由だけではない、この地に対する皆の思いに違いないのだ。
 今日もあの尾根には事故で散った人々が、雄大な自然に抱かれて我々に何かを語りかけている。そして多くの人がこの現場を見て、手を合わせるのを待っている。
 事故から20年という月日が流れようとしているが、あの現場ではまだその月日を感じない。
 この事故に興味があって犠牲者の御霊をきちんと慰めたいという方は、事故の関わった関わらない関係なく足を運ぶことをお勧めして、この報告記を終わりにしたい。


 さて今回の「御巣鷹の尾根」訪問記はここまでだが、今回の当ページの更新は1985年夏の日本航空の話題をもう一つ提供している。こちらが「暗」ならもう一方は対照的に「明」である。
 もし「明」の方をご覧になりたいならば、ここをクリックして当ページの鉄道模型コーナーの該当ページに直接入って見ていただきたい。

追伸
 御巣鷹慰霊登山オフ参加の皆さん、いろいろお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 またこのオフ会に出られなかった方、当日はこの後高速道路経由で高崎へ出て夕食会ならびにお茶を飲みながら雑談をして21時頃解散になったことをお知らせしておきます。

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